† 彼(あ)の音。 †






 物心の付くか付かぬかの年にはもう、黒の教団にいた。
 「ラビ」
 仮初めの筈の名は、ほら、もうしっくりと身に馴染んでいる。
 振り向くと、眼鏡をかけた長身の男が、大量の書類を抱えて足早に歩み寄ってくる所だった。
 隣に並んだ若き科学班室長の腕から半分ほど書類を横取りする。
 ありがとうと言ってから、コムイはこう続けた。
 「ラビ。明日、日本からの新人が着くからね。君と同い年で15だというから、よく目をかけて欲しいんだ」
 コムイはちらりと笑う。
 「適合者(エクソシスト)だよ」
 なんにせよ、その入団者は、ただでさえ超過労働気味の教団にとっての救いの一つであるには違いない。


 ティエドール元帥一行は夕方頃には到着するという。スケジュールをなんとか操作し時間を割いたコムイと一日中暇だったラビとで、地下水路で出迎える予定だ。
 しかし――
 希少な適合者だというのに、何故こんなにも出迎え方が秘め事めいているのだろう。
 そりゃあ、派手に大仰にとまでは行かなくても、いいのだが。
 皆、新人の話は聞いていても、到着の日までは知らなかった。
 敢えて、ラビも、話しはしなかった。
 一行が現れたのは存外早かった。ラビたちが地下に降りてから、13分しか待っていない。
 ファインダー達が船を寄せるのもそこそこに、ティエドールは船つき場に降り立つと、にこやかにラビに歩み寄ってきた。
 「やぁ、ラビ。相変わらず、君の髪は、アフリカの夕焼けにそっくりだねぇ」
 団服を着ていなければ、そこらのおっさんと同化してしまうこの絵描きは、これで通常の挨拶のつもりなのだ。
 そういう彼こそが相変わらずで、ラビも思わず微笑んでしまう。
 ティエドールは元帥達の中でも気安い方で、彼が忙しくない時は、ラビもよく絵を見せてもらっていたのだ。
 彼の目で見た日本の風景を、後で見せてもらおう。そう思いながら、視線を転じた。
 新しいエクソシストは、決して背の高くはない元帥の後ろに、隠れるようにひっそりとたたずんでいた。


 ――艶やめいた長い黒髪をもった、痩せこけた少年だった。


 背には、イノセンスと思しき、少年の髪と酷似した色のカタナを背負っていた。
 あらかじめ同い年と聞いていたせいなのか、意外と幼い印象を受けた。東洋人は、皆このように幼い顔立ちなのだろうか。コムイも、だって、きっと、まだ10代で通じるだろう。
 そのコムイはといえば、少年に自己紹介を済ませると、少し離れて、元帥となにやら小難しい顔で小難しい話をしはじめた。
 ファインダー達は気づけばいなくなっているし、そんな話に、ラビは興味がない。
 てけてけと、少年の傍に寄る。
 「よ」
 ラビが声をかけるや、鍛え上げた日本刀のような鋭い瞳でこちらを見据えてきた。
 長いこと、きつくきつく人を睨み上げてきた瞳だ。
 色素の薄い西洋人の瞳と違って、東洋人の瞳は濃く凝縮され、より、射貫かれるような気がする。
 彼は自ら、他者を近寄りがたくさせる雰囲気を放とうとしているかのようだった。
 だが、ラビは、彼と反対に微笑んで、右手を差し出した。
 思い直して、その手を引っ込めると、ちょこん、と頭を下げた。また、ちょこん、と頭を上げる。
 こういうオジギは初めてではないが、頭を上げるタイミングが難しいと、いつも思う。
 手持ち無沙汰の右手で、ひょいと、自らを指差しながら、
 「俺はラビ。あー・・・、Haji・me・・・masite?Konni・tiwa」
 少年が、ぎょっと眦の釣りあがった目を見開いた。
 ――黒の教団には、さまざまな土地から人が集まっている。ものを覚えるのが趣味であるラビは気が向けば、彼らから言語を吸収した。挨拶と感謝と謝罪の言葉だけは話せる、と自負している外国語は方言を含めて、二桁にのぼるだろう。
 日本からの道中で、日本語の話せるファインダーが彼に英語を教えたとは聞いていた。覚えはよかったそうだ。
 それでも、異国で母国の言葉を聞いたら、懐かしさを覚えて、緊張を解せるのではないかと思ったのだが、逆効果だったろうか。
 それとも、どこか言い間違いをしたろうか。
 これでも、昨日、言語学も専攻している科学班班長にわざわざ教えを請いに行ったのだが。
 落ち込みかけるラビに、少年はためらいを見せながら、すっと一礼して見せると、
 「・・・カンダ・ユウ」
 と、抑揚のない口調で呟いた。
 漣のように優雅で、呼吸のように滑らかな、それは美しい所作だった。
 ぽかんとしてしまったのを誤魔化すように、ラビは慌てて口を動かす。
 「カンダ?言いにくいな。それが、名前(given−name)?」
 「・・・・・・ユウ・カンダだ。日本、は・・・逆だ・・・親の、親が考えた名前、それを・・・最後にするんだ」
 平板だが、わかりやすい英語ではあった。
 「じゃあ、ユウって、呼ぶさ」
 特に何を考えていたという訳でもない。教団のものは、ほとんど、互いを名前で呼び合うほどだ。
 だが、その瞬間、少年の瞳がさっと拒絶の色に染まった。
 「へ?」
 きょとんとするラビに、彼は傍にいたコムイもティエドールもあっけにとられるような強い口調で叫んだ。
 「呼ぶな!呼んでいいのは――・・・・・・」
 かすれた大声が水路に反響する。そのこだまに、彼自身がぎくりと体を震わせた。
 ラビは自分でも、己の眉根が寄ったのに気づいた。
 とがる、声も。
 「――なんでだよ」
 くだらない挑発をせずにはいられなかった。
 「ユウ」
 呼ばわれた彼は、しかし、いやいやをするように力なく首を横に振ることしかしなかった。
 「なんでさ」
 「あ・・・・・・」

 「ユ・ウ!」


 ――呼んでいいのは、と言って彼は『only』と続けたのだ。


 それを聞いた瞬間、ラビは、脳に走る神経全てが膨張するような感情にとらわれた。

 なんという、贅沢。


 そう、それはとてもとても、贅沢なことだ。


 たった、ひとり。


 明らかな、公の、生まれながらの名を、ただ独りのためだけに捧げる等と言うのは。


 でも、自分には。


 ラビは心の中で名前を唱えた。


 もう、捨て去った己の名を。


 もう、呼ばれることのない筈の名を。


 もう、これからどんなずっと先にも、自分には、消去した己の名で呼んでくれる人は現れない。


 体温の上昇が止まらない頬の熱さを自覚しながら、ラビは久し振りに感情の手綱を制御できない感覚を味わった。


 水路に静かな制止が響いた。

 「カンダくん!」

 コムイの声に、向かい合っていた少年二人は、思わず体を強張らせた。
 「――すまないね。ラビ、長旅を終えたばかりの子に何をやっているんだい。もう休ませてあげなければ」
 「・・・・・・そうだな、この子は先に部屋に案内するよ」
 「お願いします。神田くん、一息ついたら、後で元帥と一緒に僕の部屋に来てくれ。
 今後のことを相談しよう」
 コムイは明らかに、あえて少年のことを『カンダ』と呼んだ。
 ラビも、だんだん頬のほてりが取れていくのを実感した。
 半ば呆然と、半ばうろたえた様子の少年は、ティエドールにゆっくりと連れて行かれた。
 二人の後姿を視線で追いかけ、コムイがポツリとつぶやいた。
 「――本当はラビに、彼の案内とか・・・・・・頼む気だったんだけどなぁ」
 反射的にラビの両肩が跳ね上がる。
 コムイの頼み事は察していたし、ラビだって、そのつもりだった。
 どこから案内してやろうかと、楽しみにもしていた。
 さぁさぁ、と流れる水路の水音と、血の気が引く音は似ている。
 頬の熱は下がりすぎて、逆に冷えていくようだ。
 「意外だったよ」
 歩き出しながら、コムイが言った。
 「君は普段、とても、――人付き合いのうまい子だから」
 反響しながら消えていく足音を聞きながら、顔や指先が冷えていくのは、冬の水路のせいだ、と自分に言い聞かせた。
 ――いいや。
 ・・・・・・なんて――言い訳がましい。
 こどものまま、進化しないどころか、退化していくような、そんな自分に腹が立ってしょうがなかった。


 彼とラビは、隣の部屋だった。まず、ラビに打ち解けさせ、教団にも慣れさせていこうという考えだったのかもしれないが、こうなったら難しいだろう。
 ラビ自身、これからどう接したらいいのか、さっぱりわからない。
 早くにベッドにもぐりこみながらも、なかなか寝付けなくて、今日の出来事をずっと反芻していた。
 どうしても、あの時、少年に刹那に抱いた感情が、うまく理解できずに余計に苛立った。
 ――少年が部屋に戻ってきたのは、11時38分だった。足音からして憔悴したような足取りだ。ヘブラスカとはもう会っただろうか・・・・・・。

 少年がすぐ傍にいると言うだけで、また、あの感情が噴き上がりそうになる自分が嫌で、

 ラビはただ、思考を閉じることだけを考えて、

 そうこうしている内に、夢へ・・・・・・


 悲鳴が、聞こえたような気がした。 

 職業柄、寝起きはいい。
 すぐさま、ベッドを、部屋を抜け出るや、声の聞こえた隣の――少年の部屋のドアをたたいた。
 「おい!どうした、何かあったんか!」
 ドアに耳を当てるが、何も聞こえない。
 「――大槌小槌」
 柄だけ伸ばした槌を構え、ベースボールのバッティングの要領で、鍵を打ち抜く。
 「!」
 彼が、床に倒れていた。
 ラビがあわてて抱き起こすと、コムイを、と呟いただけで気を失ってしまった。
 青ざめた顔にじっとりと脂汗を浮かべた少年をベッドに寝かせて、コムイ宛にゴーレムを飛ばす。
 彼はそのまま心臓を掴み取ってしまうのではないかと不安になるほど、ぎりぎりと左胸のあたりを右手で押さえていた。
 ベッドの傍に座ったラビは、空いている左手を握ってやる。
 ・・・・・・よくわからない症状だ。見たこともない。ただ、脈が異様に早い。
 とにかく、コムイが来るのを待つしかないと腹をくくった。
 落ち着いて見渡すと、越したばかりとはいえ、この部屋は殺風景以外の何物でもない。
 枕元に、彼のイノセンスであろうカタナ。
 そして、――ただ、テーブルの上に、花が一輪。
 確か、仏教画で見たことがある。これは蓮だ。
 おかしな装置の中の清廉なその花は、持ち主と同じ、淋しげに咲いているように思えた。


 コムイを待っている間、彼は、幾度も呻いた。
 うめき声の合間、うわ言もたくさんあった。
 うわ言は全て日本語のようで、さっぱりわからなかったし、わからなくても良かったのだが。
 ――コレは、たぶん、名前だ。
 日本人の名前。
 聞きなれない音は、しかし、あまりにその口に上るので、いやでも覚えてしまいそうだった。
 ――請い願うような、呼び方だった。
 ラビにはわからない日本語の合間に、幾度も、幾度も、彼はその名をつぶやいた。
 まるで、母を求める幼子のような。
 もしくは、神を失った信者の祈りのような。
 ラビは、そういう声音で呼べる人がいる彼が、うらやましくってたまらなかった。


 その名が74回出た頃、コムイが到着し、ラビは部屋から追い出された。
 なにやら大きなかばんを持っていたが、コムイは、外科だけでなく、内科もわかるんだろうか。
 ――七千、三百、十、六秒。
 2時間1分56秒たった頃に、ドアノブが回る音がした。
 聞き耳を立てているつもりなどなかったのだが、やたらと耳の痛い静けさだったことに、そこではじめて気がついた。
 ドアのすぐ横にうずくまっているラビを見てコムイがぎょっとする。
 「起きていたの?」
 寝なさいと言ったのに悪い子だ、そう睨むコムイを無視してラビは急き込んで尋ねた。
 「あいつは、」
 「君のせいで、神田くんのドアの鍵を付け替えなきゃならなくなったよ」
 「・・・あいつは?」
 「・・・君のおかげで、神田くんは今、健やかに眠っているよ」
 「顔見ていーい?」
 コムイは静かに首を横に振る。
 ラビもおとなしく頷いた。
 「もう寝なさい」
 「4時51分8・・・9秒。もうすぐ夜も明けるさ」
 コムイは感心したように肩をすくめた。
 「相変わらずの癖だね」
 この癖が相変わらずでなければ、パンダジジイことブックマンの後継がいなくて困るだろうに。
 「――じゃあ、朝日を出迎えながらコーヒーでも飲もうか」


 整頓されることなど一生無縁そうなコムイの部屋で、湯気の立つコーヒーの入ったビーカーを受け取った。
 「Xiexie(サンキュ)」
 「没関係(どういたしまして)。発音が、だいぶうまくなったね」
 適当にうなずきながら、コーヒーをすする。ミルクも砂糖も要らない。コムイのコーヒーは逸品だ、と思う。
 そのまま、無言で視線を上げて、左目だけでコムイを見つめる。言いたいことは解るはずだ。
 コムイは肩をすくめた。
 「神田くんのあれは持病みたいなものだよ」
 「へえ」
 「それに加えて、日本から唐突に海外に来て、体が慣れなかったんだろう」
 「ふうん」
 「今回のは、まあ、知恵熱みたいなものだね」
 「はあん」
 「とりあえず、僕が神田くんの主治医だから、また発作を起こしたら呼んでね」
 「誰にも内緒で?」
 コムイの眉が、かすかに動いた。
 「俺がコーヒーを飲み終わったら、口外するなって言い出しそうな――」
 「・・・・・・勘が働くなぁ」
 コムイが、ガクリと仰け反る。ぐきり、といい音がした。
 パンダジジイに凝りに効く鍼でも打ってもらった方がいいかもしれない。
 「さっき『持病みたいな』って自分で言ったさ。単なる発作じゃねぇんだろ」
 「そうだったかな?」
 「なんなら、さっきっからの全部、一字一句違えないで復唱してやるさ」
 ブックマンの後継者に対して、明らかにコムイの失言だった。
 彼はため息をついて、降参する。
 「ごめんね・・・・・・」
 「あいつの左胸の模様みたいなんは関係あんの?」
 「・・・・・・カマをかけているつもりなら引っかからないよ」
 「さっき、服寛げた時に見えた」
 「ははっ」
 コムイは愛用のマグカップを片手に、上手に微笑んだ。
 「――ラビがいい子だから、神田くんのことを頼んだんだよ」
 酷いな、と思う。ラビは先手を打たれてまで、キープアウトに踏み込まない。
 『君は普段、とても、――人付き合いのうまい子だから』
 水路でも言っていたが、コムイは、ラビの対人関係の距離の測り方のずるがしこさを、よくよく承知している。
 ラビはコーヒーを飲み終わると、ビーカーを差し出してお代わりを要求した。
 「賄賂は、それと甘いものが欲しい」
 科学班の部屋にはいつも疲労回復のお菓子が常備してあることは、ネタが上がっているのだ。
 リーバー君には後で僕から謝っておくよ、コムイはそう言って苦笑した。


 じわり、と夜が明けた。
 窓越しの朝日を浴びながら、ラビは、あの少年が渇望して止まないその人の名を、その火で燃やしてしまおうと思った。
 その名は、きっと、彼にとって、あの蓮の持つ意味や左胸の模様や発作の原因よりも知られたくないものだろうから。
 ――ただ、あの響き、が。
 いつまでも耳の奥底にこびりついて、剥がれてくれそうになかった。





 数日して、廊下で少年と出くわした。我らが料理長のお節介に遭ったのか、初めて会った時よりも健康そうである。
 ラビがすれ違いざまに、そのまま行きすぎようとすると、焦ったような調子で彼が声をかけた。
 「おい」
 聞こえない振りのラビを追ってまた声をかける。
 「おい、ら、らび!」
 じとりとした面差しで振り返ったラビに、慎重に言葉を選ぶように、彼はゆっくりと口を開いた。
 「・・・あの時、お前がコムイを呼んでくれたんだろう」
 「ん」
 「その、すまなかった」
 ぶすりとした顔を崩さぬままラビは、だるそうに唇を動かした。
 「間違えて言ってんなら教えっけど、」
 戸惑うような少年にラビは吐き捨てた。
 「こういう時はありがとうって言ってほしいさ」
 彼は酸欠の魚のようにあえいだ後、うめくように口にした。
 「――ありがとう」
 「・・・・・・本当に感謝してっか?」
 「している!」
 「じゃあ、」
 徐々に、動悸が速まるのを自覚しながら、ラビは。


 「――名前で呼ばして」


 『その名をよこせ』と。
 幼子の駄々のような理不尽さを己でも感じながら口にした。
 ひるむ少年に、視線をそむけずにはいられなくなって、結局そうして、続けた。
 「・・・・・・そういう主義なんさ」
 二人の間にじりじりとした間がぽつん、と置かれてから、
 「・・・・・・わかった」
 自分から言い出したくせに、ラビは、逆にうろたえてしまった。
 もらえるはずのない、サンタ・クロースからのプレゼントのようだ。
 「・・・・・・か、借りを、作るのは――キライなんだ・・・・・・!」
 ユウは、言い訳じみたことを口にする。
 「・・・・・・」
 また、少し、ラビにも計りがたい間が置かれてから、ユウはちょこん、とやはり抑揚のない英語で付け足した。
 「・・・・・・それとな、お前、はじめて会った時に『Konnithiwa』と言ったが、あの時は夜、だから『Konbanwa』」

 ユウは、無愛想な表情のままである。
 ユウと同じような面持ちだった筈のラビは――

 とてもとても嬉しくなってしまって、顔の筋肉が緩んでしまうのを止められなかった。




 Fin.

 

















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