† Coming Closer †






 握っていた手を乱暴に振り解かれた途端、わらわらと寄って来た医師やナースに押しのけられて部屋の隅に追いやられたエドガーは、彼らの頭の上からびくびくとベッドを見つめた。
 「おい、そんなにビビんなくてもいいって」
 呆れ気味に言ったフォーの小さな手を、縋るように握って、涙を浮かべた彼にフォーは苦笑する。
 「初めてだから、不安なのはわかるけどさ・・・。
 大丈夫、時間かかってるだけだ。無事に・・・」
 「だっで!!
 トゥイったらあんなに苦しそうでっ・・・!可哀想・・・っ!!」
 「そっちかいっ!!」
 生まれてくる子供の心配をしているのかと思いきや、妻の心配をしている彼に、フォーの裏拳ツッコミが炸裂した。
 「・・・・・・けどまぁ、仕方ねぇかな」
 うずくまって悶絶するエドガーの背に乗って、フォーは肩をすくめる。
 「ずっと腹に入れてたトゥイと違って、お前は今日初めて会うんだもんな。
 ・・・トゥイを取られたからって、いじめんなよ?」
 「い・・・いじめるわけないよ・・・・・・!」
 フォーに踏まれて、弱々しく言うエドガーに、彼女はにんまりと笑った。
 「本当だな?
 ちゃんと可愛がるな?」
 「も・・・もちろん・・・!」
 ぐいぐいと踏まれて、苦しい息の中言えば、フォーが満足げに頷く。
 「よっしゃ!
 もう出てきていいぞ、お前!」
 フォーが指を鳴らすや、部屋中を産声が満たした。
 「へ・・・?」
 なんの音、と、間抜けたことを言うエドガーの手をフォーが取り、ベッドへ導く。
 「・・・あー・・・疲れた・・・・・・」
 大仕事を終えたトゥイが、涙目のエドガーを見あげて掠れ声をあげた。
 「だ・・・大丈夫?
 大丈夫かい、トゥイ・・・!
 ものすごく苦しかったよね・・・!!」
 死にそうに真っ青な顔をしたエドガーに手を握られたトゥイは、意外なほどしっかりと握り返す。
 「いや、あと2〜3人はいけそうだ」
 「死んじゃうってええええええええ!!!!」
 絞め殺される鶏のような声をあげて、なぜかエドガーが目を回した。


 「・・・・・・あれ?」
 目を開けると見慣れない天井で、困惑するエドガーをフォーがつついた。
 「目ぇ覚めたか?
 おい、トゥイ。
 こいつ、目ぇ覚ましたぜ」
 フォーが振り返った方を見遣ると、ベッドに半身を起こしたトゥイが、呆れ顔を向ける。
 「なんであんたが倒れるんだ。
 大変だったのは私の方だぞ」
 「ご・・・ごめんなさい・・・・・・」
 寝かされていたソファから慌てて起き上がり、エドガーはしゅん、とうな垂れた。
 そのボサボサの頭を見て、トゥイがクスリと笑みを漏らす。 
 「せっかく生まれた息子を見もせずぶっ倒れるとは、けしからんな」
 「えっ?!男の子だったの?!」
 それすらも知らずにいたエドガーが、ぴょこんと顔をあげた。
 「え・・・えと・・・それ・・・・・・?」
 トゥイが抱く赤子を指すと、トゥイがまた呆れ顔になる。
 「当たり前だろう!
 なんで今、他人の子供を抱くんだ」
 「あぁ・・・うん・・・・・・」
 恐る恐る歩み寄ったエドガーは、トゥイにも自分にも似ていない、赤い生き物を見下ろした。
 「・・・・・・サル?」
 「殺すぞ」
 カッと目を剥いたトゥイが夜叉の形相になって、エドガーが震え上がる。
 「だっ・・・だって!!
 なんかすごく赤いよ?!
 すごくしわくちゃだよ?!
 赤ちゃんって、こんなんなの?!」
 「こんなんだよ。
 トゥイが生まれた時もこんなんだったぜ」
 「へ・・・へぇ・・・・・・」
 あっさりと言ったフォーに、エドガーは引き攣った顔で頷いた。
 こういう話を聞くと、幼い少女の姿をしたフォーが、実は長い時を生きた神なのだと実感させられる。
 だが、まだその違和感に慣れないエドガーを無視して、フォーはトゥイのベッドに膝を乗せた。
 「今回は初めてだったから時間かかったけど、次はこんなに苦しいことはないぜ。
 お前の婆さんがお前の親父生んだ時、あんまりあっさり生まれたもんで、拍子抜けしてたんだからな。
 あいつ、ズゥのじっさまがえらい難産だったから、産むの嫌がってたんだけど、2回目なんてそんなもんさ。
 3回目になると、もっと余裕だぜ?」
 産婆か、と突っ込みたくなるようなことを、フォーの幼い口が発する。
 と、トゥイは何度も頷いて、胸の中で眠る赤子を見下ろした。
 「なるほど・・・確かに大変だったが、聞くほど辛いものじゃなかったもんな。
 むしろ、腹にいた時の方が重いわ動けないわ酒飲めないわ・・・」
 「・・・っおい!
 乳やってる間は飲むなよ?!」
 慌てるフォーに、トゥイは目を見開く。
 「・・・なんだ、まだダメなのか?」
 「当たり前だろうが!!
 乳ってのは、血が変化したもんだぞ!
 お前が口にした成分は全部、乳に含まれてこいつが飲んじまうんだ!」
 「そんな・・・!
 これが終わったら酒が飲めると思って、出産頑張ったのに・・・!」
 「・・・・・・あたしゃお前をそんな酒飲みに育てた覚えはないよ」
 呆れ果ててため息をついたフォーは、トゥイの隣に座った。
 「お前、アタマいいのになんでこんなコトは知らないんだよ。
 確かにまだ、19の小娘だけどさ、ガキ産んだからにゃ母親だろうが。
 しっかりしろ!」
 「う・・・うん・・・・・・」
 トゥイが気を飲まれて頷く様に、いつも虐げられているエドガーが目を剥く。
 「ど・・・どうしたの、トゥイ?!
 今日はなんだか素直じゃないか!!
 やっぱりまだ、本調子じゃないんじゃ・・・・・・!」
 エドガーが気遣わしげに詰め寄ると、トゥイは眉根を寄せた。
 「・・・あんたは私をなんだと思ってんだい」
 「か・・・可愛い奥さん・・・vv
 きゃv と、薄紅に染まった頬へ両手をあてるエドガーを、トゥイがうそ寒げに見あげる。
 「・・・でかい男が照れながら言うことか」
 「だって好きなんだもんv
 「乙女か!!」
 忌々しげに舌打ちしたフォーは、わざとらしくトゥイに擦り寄った。
 「お前、ホントにこんなのが旦那でよかったのか?!
 お前の親父もあたしも、血筋だけでこいつに決めちまったけど、血の濃い跡継ぎが生まれた以上、もうお前の好きにしていいんだぜ?
 2人目は、もちっと頼りがいのある男の子供にしないか?」
 「なんだ、エドガーと別れろって言うのか、フォー?」
 「そんなあああああああああああああああ!!!!」
 イヤだ捨てないでと泣き縋るエドガーを見下ろし、トゥイは肩をすくめる。
 「いいんだ。
 これはこれで、役に立ってる」
 「トゥイいいいいいいいいいいい!!!!」
 「・・・・・・けっ」
 トゥイに抱きついて泣くエドガーの顔が面白くなくて、フォーはトゥイの手から赤子を取り上げた。
 「おい、おまえ!
 ばっちぃ顔で近づくな!
 大事な跡継ぎにばい菌がついたらどうすんだ!」
 「え・・・そっ・・・そうなの?!」
 あまりにも素直に問い返されて、フォーが言葉に詰まる。
 「・・・・・・ホラ」
 抱け、と、フォーが不満顔で赤子を差し出すが、エドガーは受け取るどころか、さかさかと後退した。
 「なに逃げてんだ!!」
 「だ・・・だって、私が保菌者ならその子が危ないじゃないか・・・!
 その子を触るのは、徹底的に殺菌して、防護服を着てからにする・・・・・・」
 「アホかッ!!」
 意地悪を素直に受け取られて、フォーは顔を真っ赤にする。
 「じょ・・・冗談に決まってるだろ!
 お前、父親なんだから、さっさと抱けよ!!」
 「・・・・・・・・・・・・」
 差し出された赤子を、無言で見つめるエドガーに、気の短いフォーが痺れを切らした。
 「のっろいな、お前!!」
 「フォーだって、全然素直じゃない」
 「横から口出してんじゃないよ、トゥイ!!」
 真っ赤な顔でトゥイを怒鳴りつけたフォーは、歩を進めて更に突きつける。
 「ホラ!!」
 再度言われて、震える手を伸ばしたエドガーが、恐る恐る受け取った。
 「か・・・軽い・・・・・・」
 潰すかもしれないとでも思っているのか、彼の大きな手はずっと震えている。
 「そんなに固くなんなくていいだろ・・・・・・」
 受け取った姿勢のまま、動けないエドガーにフォーが呆れ声をあげた。
 「なぁ、こいつホントに大丈夫・・・なにやってんだ、お前は」
 振り返ったフォーは、トゥイがうつ伏せに寝転んでいるのを見て、また呆れ声をあげる。
 「ホラ、見ろv
 ようやくうつ伏せになれたんだv
 何ヶ月ぶりだろうかv
 「お前は・・・・・・・・・」
 ちっとも母親らしくない娘に、フォーはため息をついた。
 「・・・・・・あたしがしっかりしないと」 
 呟いて、フォーはエドガーに抱かれた赤子を見上げる。
 「あたしが、大事な跡取りを守ってやるからな!」
 守り神の使命に燃えた目で、フォーは力強く頷いた。


 ―――― そんな、決意をしてから早20年。
 「・・・もうヤダ、この馬鹿!!」
 うんざりとため息をついたフォーが、積み重ねられた写真の塔を蹴飛ばした。
 バラバラと床に散らばった写真は、モノクロながら美しく着飾った女性達の笑顔で溢れている。
 「何が気に入らないってんだ!
 こいつられっきとした、魔導師の血筋だぞ!
 系統もチャン家の力を相殺しないよう、気ィ使って選んだってぇのに!!」
 「だっ・・・だからいつも言ってるだろうが!!
 オレ様を種馬扱いするな!!」
 真っ赤になって反駁したバクに、フォーは舌打ちした。
 「種馬だろうが!
 お前の最大の使命は、ひいジジの血を受け継いで、次に渡すことだっつってんだろ!
 勝手にお前の代でこの城を滅ぼすんじゃねェ!」
 だむだむと床を踏み鳴らして怒鳴るフォーに、バクは何も言えない。
 と、フォーがまた舌打ちした。
 「・・・チャン家の血筋に、ちょうどいい年の女がいなくて残念だぜ・・・!
 いりゃあトゥイの時みたいに、問答無用で娶わせたのによ!」
 母の名を聞いた途端、びくりと緊張したバクに、フォーはため息をつく。
 「なんだ、20歳にもなってまだマザコン治んねぇのか」
 フォーが呆れ顔を向けると、バクは怯えた顔で首を振った。
 「い・・・いや、オレ様の場合、逆だと思うのだが・・・・・・」
 あまりにも厳しく躾けられた為、名前を聞くだけで怯えてしまう自分は、母親に甘えた連中とは絶対違うと言える。
 「はん!マザコンじゃねぇか!
 いい年して、まだ母親の顔色窺ってんのかよ!」
 酷い言われように、しかし、バクは反論できなかった。
 彼にとって彼女は、母というより上司・・・いや、軍の上官のようなもので、少しでも逆らうと容赦なくこぶしが飛んできた―――― フォーの。
 「・・・は・・・母上に逆らえないのは・・・子として当然と思うが、むしろボクはお前に殴られて・・・」
 「トゥイが厳しい分、エドガーやウォンに思いっきり甘やかされてんじゃねぇか!」
 バクの声を慌てて塞いではぐらかし、フォーは床に散らばった写真を見下ろした。
 「あいつらが甘やかしたせいで、この年になっても坊ちゃん気質が抜けやしねェ」
 「ボ・・・ボクの血統がいいのは生まれつきだ!
 そのことで非難される筋合いはないぞ!」
 血統については、幼い頃から羨望と共に嫉妬の対象でもあったため、嫌な思い出がかなりの割合で詰まっている。
 開き直れるようになったのは、実は、アジア支部の科学班班長を任せられて以降だ。
 それ以前は――――。
 「・・・・・・なんでこんな家に生まれたんだろうって、毎日思っていたな・・・・・・」
 ため息交じりの乾いた声が、バクの口から漏れた。


 ―――― 20年前。
 バクが生まれてまだ間もない頃、
 「・・・こうなるだろうと思ってはいたが、あいつらは祝いたいのか私を殺したいのか、どちらなんだろうか」
 寝室に入るや不機嫌な声をあげたトゥイに、バクを抱くのにやや慣れたエドガーが苦笑した。
 「うん・・・ちょっとびっくりした。
 跡継ぎ生まれました、って、カードを送るだけでいいやって思ってたのに・・・中国って、すごいんだねェ・・・。
 ドイツの実家じゃ、親族中集まってもあんなに大勢いないよ・・・・・・」
 跡継ぎを親戚に披露するための、小さな宴だと聞いていたエドガーは、大広間に親戚と名のつく人間が溢れかえった様を思い出し、また動悸を早くする。
 「け・・・結婚式の時以来だねェ、あんなにたくさんの親戚見たの・・・・・・」
 小さくなかったよね、と、小さな声で言う彼を、トゥイはちらりと見遣った。
 「小さいさ。
 たった8時間の集まりだったじゃないか」
 「じゅ・・・十分長いと思うけど・・・・・・」
 言って、結婚式の1週間連続宴会よりは短いか、と思い直す。
 「・・・強いお酒を飲まされ続けて、2日目で声出なくなった時よりはマシだね、確かに・・・」
 眉根をひそめ、真剣な口調で言うエドガーにクスリと笑い、歩み寄ったトゥイが彼の肩を叩いた。
 「だが最後まで潰れなかったと、フォーが感心していたぞ。
 私が知る限り、あいつが舌を巻いたのは、お前が初めてだ」
 「えっ?!そうなの?!」
 「バカ!しっ!!」
 エドガーの大声を叱責したが、もう遅い。
 寝ていたバクが目を覚まして、大声で泣き出した。
 「ごっ・・・ごめ・・・!!
 なっ・・・泣かないで、バク!!
 ごめん、パパが悪かったからっ!!」
 自分の方が泣きそうな顔をしてあやすエドガーから、トゥイがバクを取り上げる。
 「そんなに慌てなくても・・・」
 「なに泣かしてんだ、テメェ!!!!」
 いい、と言う前に、目の前の夫はフォーの蹴りで沈められた。
 「いぢめんなっつってんだろ!!」
 「違っ・・・!
 私は何も・・・!!」
 「いや、お前の大声で目を覚ましたんだから」
 「やっぱりお前のせいじゃねぇかっ!!!!」
 「きゅううううううううううううっ!!!!」
 余計なことをぬかしたトゥイのせいで、容赦なくフォーに踏みつけられたエドガーが、憐れっぽい泣き声をあげる。
 「・・・おい、そのくらいにしろ、フォー。
 大体、赤ん坊は泣かせないと肺が鍛えられないからどんどん泣かせろと言ったのはお前じゃないか」
 「起きてる時に泣かせろとは言ったが、寝た子を起こせとは言ってねぇよ!!」
 「きゃうんっ!!」
 とどめの蹴りを食らったエドガーが動かなくなると、フォーは鼻を鳴らしてトゥイに・・・正しくは彼女の抱くバクに駆け寄った。
 「ほれ、寝ろ寝ろ!
 親戚中に囲まれて、今日は疲れてんだろうからな!」
 赤い顔を覗き込んで、フォーがバクをあやす。
 「あぁ・・・そう言えば、今日はずっと泣いてたな。
 赤子でも疲れるのか」
 「へ?そうなのか?」
 納得顔のトゥイに顔を上げると、彼女はムッと眉根を寄せた。
 「・・・お前が私たちを放って、大樽一気飲みとかやってる間、バクがぐずって大変だったんだぞ。
 ・・・・・・私はまだ飲めないのに、大樽一気飲みとかしやがって」
 じっとりと睨まれて、フォーは気まずげに目を逸らす。
 「いや・・・その・・・久々に会った一族と盛り上がっちまってつい・・・・・・」
 もにょもにょと言い訳しながら、フォーが未だ泣き止まないバクの頬をつついた。
 「・・・・・・あれ?」
 指先に感じた熱が意外なほど高くて、フォーはバクの額に手を当てる。
 「こ・・・こいつ、熱がある!!」
 「ええっ?!」
 フォーが声をあげるや、目を回していたエドガーが飛び起きて駆け寄った。
 「さささ・・・さっきまで抱いてたけど、そそそ・・・そんなに熱かったかなっ?!
 あああ・・・赤ちゃんってこんなもんじゃなかったっけ?!」
 フォーを押しのけ、トゥイの抱くバクの額に手を当てたエドガーが、一瞬で真っ青になる。
 一族の相手をしていたトゥイに代わって、長時間抱いていたために、逆にバクの体温の変化に気づけなかった。
 「たたたっ・・・大変だ!!
 すごい熱だよ!!」
 エドガーの引きつった声に、フォーが蒼ざめる。
 「ちょっとお前どけっ!!」
 「ぎゃんっ!!」
 エドガーのわき腹に突きを食らわせて倒すと、フォーはトゥイから恐々とバクを受け取った。
 「だだだだ・・・大丈夫だこのくらいの熱、子供ならよく・・・・・・!!!!」
 「フォー、顔が挙動不審だぞ」
 トゥイの指摘に、フォーの全身が凍りつく。
 「熱、高いのか?」
 問われて、フォーは油の切れた鉄人形のような動きで頷いた。
 「んなっ?!
 と言うことはやっぱり大変なんじゃないか!!」
 床に転がって悶えていたエドガーが起き上がり、ドアへ向かって大声をあげる。
 「ウォンー!ウォンはいるかい?!
 若様が大変だ!!」
 「ただいま参りますぞっ!!!!」
 瞬間移動か、と思う速さでドアが開き、バクのじいやが飛び込んできた。
 「なっ・・・なんとおいたわしやバク様ああああああああああああああ!!!!」
 フォーの抱くバクが、真っ赤な顔をして泣き喚くさまに、ウォンまでもが取り乱す。
 「おっ・・・お前ら騒ぐんじゃねぇよ!!
 こっ・・・こっ・・・これくらいっ・・・平気だと思うし!!」
 「やっぱり大変なんだあああああああああ!!!!」
 自信なげなフォーの言葉に不審を募らせ、エドガーが大声をあげた。
 「バク!!バク!!
 パパが分かるかい?!」
 「バク様あああああああああああ!!!!」
 「・・・・・・お前ら、3秒でいいから落ち着け」
 騒々しい部屋の中で、一人落ち着いたトゥイが、呆れ声をあげる。
 「このくらい、だいじょう・・・」
 「くちんっ!」
 小さなくしゃみに口を封じられたトゥイが、フォーの腕の中を見下ろし、真っ青になった。
 「どどどどどどどどどどどど!!!!」
 どうしよう、の一言が言えず、トゥイがガタガタと震える。
 「うっ・・・うろたえるな!
 たっ・・・ただのくしゃみだから!な?!」
 「ウウウウウウィルスじゃないのか?!
 親戚どもの誰かが、インフルエンザでも持ち込んだのじゃあるまいな?!」
 「落ち着けっての!!
 こっ・・・こいつはちゃんと初乳飲んでんだから、免疫抗体持ってるってば!!」
 「だって今!!くしゃみした!!!!」
 「鼻のある生物ならネズミだってするだろがあああああああああああ!!!!」
 くしゃみがバクに死をもたらすものだと言わんばかりに蒼ざめるトゥイに、錯乱したフォーが絶叫した。
 「おおおおおおおお落ち着けー!!
 落ち着けお前ら――――!!!!」
 明らかに落ち着いていないフォーが、一所懸命声を低める。
 「でででで・・・でも、早く冷やさなきゃいけないんじゃ・・・?!」
 フォーに倣って声を潜めたエドガーに、トゥイが頷いた。
 「そ・・・そうだ、まずそれだな!
 ウォン!!」
 「ただ今氷嚢を――――!!!!」
 「待てええええええええええええ!!!!」
 大声でウォンを制したフォーは、先ほどまでとは打って変わった落ち着いた表情で、彼らを見上げる。
 「・・・・・・・・・久しぶりで、ちょっと慌てた」
 そう、気まずげに言ったフォーは、バクを抱いたままベビーベッドへ歩み寄った。
 「冷やすんじゃない、あっためるんだ。
 そして、ゆっくり水を飲ませる」
 「う・・・うん・・・・・・」
 不安げにうなずいたトゥイの隣で、エドガーがはっと顔を上げる。
 「脱水症状を防ぐんだね!わかった!!」
 なにやら一人で納得すると、部屋を飛び出して行った。
 「・・・・・・はっ!
 旦那様!!お水なら私が――――!!!!」
 うっかり見送ってしまったウォンも出て行ってしまうと、部屋にはバクの泣き声だけが響く。
 「・・・・・・・・・・・・フォー!」
 困り果てて泣きだしたトゥイに、フォーは肩をすくめた。
 「ったくお前は・・・誰もいなくなった途端、泣き虫に戻るんじゃないよ!」
 バクをベッドに寝かせたフォーは、トゥイの腕を叩いてやる。
 「大丈夫だって言ってんだろ。
 あたしがついてんだから、任せろ!」
 「う・・・うん・・・」
 トゥイが頷いた瞬間、
 「お水持ってきたよ!!」
 大声を上げて、エドガーが駆け戻ってきた。
 と、今の今まで泣いていたトゥイが、姿勢を正して振り返る。
 「あぁ、ありがとう」
 既に涙の気配もなく、夫から哺乳瓶を受け取ったトゥイは、やや温かい水を光に透かした。
 「経口補水塩か?」
 「うん!
 ただの水より吸収がいいのを作ってきたからね!」
 「・・・さすがだな」
 一言、そう言うとトゥイはバクを抱き上げ、ソファに腰掛けて哺乳瓶を含ませる。
 赤子が懸命に飲む姿を凝視する若い夫婦に、フォーは苦笑して肩をすくめた。
 「お前ら、普段ボーっとしてるくせに、こういう時は科学者なんだな」
 「・・・失礼な。
 ボーっとしているのはエドガーだけだ」
 「えぇっ?!
 ぼ・・・僕、ボーっとしてるの?!」
 「あぁ」
 「かなりな」
 容赦なく頷かれて、エドガーががっくりとうな垂れる。
 その様に、トゥイとフォーはこっそり笑いあった。


 「ババババ・・・バク様ぁぁぁぁぁぁ!!!
 大変でございますっ!!!!」
 慌てふためいて飛び込んで来たウォンを、しかし、バクもフォーも、落ち着き払って見やった。
 「今度は何だ。
 ルベリエ家辺りが、馬車いっぱいの見合い写真でも寄越して来たか」
 いちいち大げさなじいやにバクが、ややうんざりと言うと、ウォンは激しく首を振る。
 「エ・・・エプスタイン家のお二人が・・・!」
 息を切らしたウォンが出した名前に、ソファで胡坐をかいていたフォーが手を打った。
 「・・・あぁ、レニー!
 バク、せっかく来てくれたんだから、レニーを嫁にもらえ!」
 「なんでだ!!!!」
 バクが怒鳴ると、フォーはにんまりと笑う。
 「あいつ自身はどうか知らないが、父親は名の通った魔導師だぜ?
 チャン家の血がちょっと薄くなるのは惜しいが、あんまり濃くてもまずいからな。
 ここは優秀な魔導師の血を入れて、我が家の弥栄(いやさか)を願おうじゃないか!」
 「お前はブリーダーか!!!!」
 バンバンとテーブルを叩いて怒鳴るバクの剣幕に怯え、ウォンは次の言葉を発せられずにいた。
 と、バクの怒声などそよ風とも思わないフォーが、もの言いたげなウォンに気づいて首を傾げる。
 「で?
 ウチの嫁がどうしたって?」
 「嫁って言うな!!!!」
 「あ・・・あの・・・・・・」
 困り果てた様子で、ウォンは口を開いた。
 「そ・・・それが、お二人がおっしゃるには、中央庁主導の研究をアジア支部でやることになったからと・・・ものすごい数の資材と共にお越しになって・・・!」
 「それは・・・母上が許可しているのか?」
 バクが訝しげに眉根を寄せると、ウォンは困惑げに肩をすぼめる。
 「そ・・・それが、お館様との連絡が取れないのでございます・・・。
 なので、バク様かフォーに取り次いでいただけたらと思いまして・・・」
 ウォンが言い終える前に立ち上がったバクが、フォーを見下ろした。
 と、難しい顔をして目を閉じていたフォーが、軽く頷く。
 「ウォン、その件は許可している。資材を地下へ運ぶよう、手配しろ。
 バク、今から話がある」
 フォーの声でありながら、トゥイの口調で命令された途端、ウォンは部屋を飛び出し、バクは扉へ向けて姿勢を正した。
 間もなく部屋に現れた母へ向けて、バクは深々と頭を下げる。
 「母上」
 「あぁ。顔を上げろ」
 淡々と言った彼女は、バクが顔を上げる前に彼の前を通り過ぎ、当然のように上座へ座った。
 「座れ」
 短い命令に従い、バクは彼女の前に腰を下ろす。
 「今後しばらく、科学班はお前に一任する」
 「はい」
 内心の驚きを隠して、バクは頷いた。
 「母上はどちらへ」
 やや緊張を含んだ問いに、彼女は感情の見えない目を向ける。
 「地下へ。
 補佐役と限られた科学者のみを入れたのち、封神で封鎖する」
 その言葉には、さすがに驚きを隠せなかった。
 「父上まで・・・!
 エ・・・エプスタイン家の二人・・・いえ、評議会議長自ら携わる研究とはなんですか?!」
 「言えない」
 勇気を振り絞ったバクの問いを冷たく突き放し、トゥイは腕を組む。
 「極秘の研究だ。
 たとえ息子であれ・・・いや、息子だからこそ、言えないこともある」
 その声は凍りついたように揺らがず、それ以上の問いを拒否した。
 「ゆえに命じる。
 一切の詮索をせず、ただ、淡々と過ごせ。
 誰に聞かれようと、一言の答えも許さぬ。
 今後、多くの『荷物』が届くだろうが、決して触れるな」
 厳しく命じられ、バクはうな垂れるように頷く。
 「以上だ」
 あっさりと立ち上がり、踵を鳴らして過ぎる間際、トゥイが、うな垂れたままのバクの肩に手をかけた。
 顔を上げた彼は、母の真剣なまなざしを受けて息を呑む。
 長い間・・・まるでバクの顔を見忘れまいとするかのように見つめていたトゥイが、薄く笑みを浮かべた。
 「守る・・・ためだ・・・」
 「母上・・・?」
 思いつめた様子が気になり、立ち上がろうとしたバクの肩をトゥイが押し、留める。
 「・・・・・・風邪なんかひくんじゃないぞ」
 くしゃりと頭を撫で、歩を進めた母の背を、バクは凝然と見送った。


 バクと別れたトゥイは、薄暗い回廊を一人、俯いて歩く。
 中央庁から命じられた研究は成功の見込みも薄く、最後まで反対はしたものの、退けることはできなかった。
 第二使途計画――――。
 その内容を思う度に、かつて子を宿した胎に痛みが走った。
 この研究に手を出せば、もう戻れない・・・―――― いや、戻れたとしても、血に染まった手ではもう、バクに触れることもできないだろう。
 怖じけたか、思うように進まない足を重く引きずっていると、回廊の向こうに小さな影があった。
 ぎくりと見やれば、生まれた頃から共にいた少女が、自分を見つめている。
 「・・・・・・・・・フォー」
 「また泣いてる・・・」
 言われて初めて、トゥイは自分の頬を、幾筋もの涙が伝っていたことに気づいた。
 「気弱で・・・泣き虫のお前が・・・本当にあんなこと・・・やるのか・・・・・・?」
 重い口調で訥々と尋ねるフォーに、トゥイはぎこちなく頷く。
 「あの呪符は・・・我が家の術でしか・・・定着しない・・・から・・・・・・」
 しゃくりあげそうになるのを懸命にこらえ、涙を拭うトゥイにフォーが、そっと歩み寄った。
 「・・・・・・どうしても・・・やるのか・・・?」
 本当はやめて欲しい、と願いを込めて見上げたトゥイは、しかし、深く頷く。
 母親にまでなったのに、小さな子供の時と変わらず涙が止まらないトゥイに、フォーは無理やり笑った。
 「わかった。
 じゃあ、お前達は絶対、あたしが守って・・・」
 「守らなくて・・・っいい・・・・・!」
 「え・・・?」
 意外すぎる言葉に愕然としたフォーを、トゥイは紅い目で見つめる。
 「守らないで・・・!
 わた・・・し・・・殺されても・・・・・・っ」
 自業自得だと、耳を塞ぎたくなる言葉にフォーの顔が歪んだ。
 「なんで・・・・・・!
 あ・・・あたしは・・・守り神なのに・・・・・・!
 あたしはお前達を守るためにっ・・・?!」
 いきなり抱きしめられて、フォーが声を失う。
 「バクを・・・守って・・・!」
 涙で掠れた声が、フォーの耳に囁いた。
 「私はもう・・・いいから・・・・・・!
 次の主を・・・守って・・・・・・!」
 声を殺して泣くトゥイの背に、フォーは震える手を伸ばす。
 「馬鹿・・・・・・!
 馬鹿娘・・・・・・!」
 ぎゅう、と抱きしめたトゥイの胸に顔を押し付けて、フォーは懸命に嗚咽を殺した。


 「バク・・・・・・」
 優しい声で呼ばれ、バクはぎこちなく振り向いた。
 「父上・・・・・・」
 優しい笑みを浮かべて、エドガーはバクに歩み寄ってくる。
 「母さんは、もう来たかな・・・?」
 小首を傾げて問う仕草が鳥のようだと思いながら、バクは頷いた。
 「そう・・・。
 母さん、なんだって?」
 笑みを浮かべてはいるが、どこか不安げな父に、バクは声を詰まらせる。
 「詮索・・・するなって・・・・・・」
 厳しく命じた母はいつもの母だったが、その後の様子は明らかにおかしかった。
 「父上も・・・教えては下さらないのでしょう」
 「うん・・・ごめんね・・・・・・」
 更に歩み寄ったエドガーが、バクを抱きしめる。
 「バク・・・。
 私たちは、これから悪いことをするんだ・・・・・・」
 「え・・・?」
 抱きしめられたまま、困惑するバクの背に向けて、エドガーは泣きそうな笑みを浮かべた。
 「たくさんたくさん・・・悪いことをする・・・・・・。
 だからせめて私たちの、かわいい息子にはその罪が・・・罰が及ばないようにしたい・・・・・・」
 小さな子供に対するような口調で言われ、バクは唇を噛む。
 「母上はそんなこと、一言も・・・」
 「そりゃ言わないさ。
 母さんは、世界で一番お前を愛しているんだから」
 身を起こし、バクの顔を覗き込んで言う父に、しかし、彼は頷けなかった。
 「まだ、母さんが怖いんだ?」
 クスクスと笑われて、バクは小さく頷く。
 愛されていることはわかっていても、常に厳格な母に親しみを覚えることは難しかった。
 いつも、緊張と共に対峙した母が何を考えているのかなど、おもんぱかる余裕すらない。
 黙りこんでしまったバクに苦笑し、エドガーは頭を撫でてやった。
 「私達は・・・お前に期待するあまり、辛いことばかり押し付けたね」
 「え?
 いや、そんなことは・・・!」
 首を振るバクの頬を両手で挟み、エドガーまでもが、彼の顔を記憶に刻むかのように見つめる。
 「私達には出来なかった・・・だけど、君なら絶対にできる」
 切々と訴える父に、バクが目を見開いた。
 「父上・・・?」
 これから一体、何が起きるのか・・・。
 不安げなバクに、エドガーは微笑んだ。
 「がんばれ」
 今にも泣きだしそうな顔で言ったエドガーの声は、少し震えている。
 「私達の願いを・・・託したよ」
 もう一度強く抱きしめられ・・・バクは、両親がもう、戻れない深みにはまったことを察した。


 ―――― 以後、母はアジア支部長としての仕事もあるために、地下と執務室を頻繁に行き来していたが、父はほとんど顔を見せなくなった。
 たまに現れても、辛そうな顔でバクを抱きしめ、無言で去っていく。
 そんな日々が続いたある日、アジア支部中に警報が響き渡った。
 「なっ・・・なんだ?!」
 驚いたバクが、複眼の監視モニターへ目を走らせると、その一つに岩壁の割れる様が写る。
 「あの壁は・・・母上?!」
 地下へと通じる道は、封神によって厚い岩に閉ざされているが、今、そこが開いて女が一人、まろび出て来た。
 モノクロの画面では見分けづらかったが、小さな映像を全画面に拡大すると、女は母ではない。
 「あれは・・・レニー?」
 床に膝を突いて喘ぐ女の白衣に黒い染みが浮き、それが広がって行く様に、バクは踵を返した。
 「レニー?!
 どうしたんだ!なにがあった?!」
 地下通路の入り口に駆けつけたバクは、死人のように蒼褪め、言葉の出ない彼女を抱き起こす。
 と、彼女の長い髪が岩に挟まれて、動けないでいることに気づいた。
 「ちょっと待っていろ、今開けて・・・」
 「だめえええええええええええ!!!!」
 バクが岩壁へ向けてかざした手を、レニーが両手で掴む。
 「レ・・・」
 「み・・・みんな・・・殺された・・・・・・!!」
 引き攣った声の意味が理解できず、バクが凍りついた。
 「なん・・・?」
 「ひ・・・被験体の暴走・・・で・・・!
 し・・・支部長と・・・エドガー博士・・・も・・・・・・・・・お父様!!お父様!!!」
 突然、顔を覆って叫びだしたレニーの声に、バクの硬直が解ける。
 「議長・・・も・・・・・・?」
 一体どれ程の被害なのか・・・いや、彼女以外に生存者はいるのか、困惑する目が壁に向けられた。
 「・・・・・・・・・フォー」
 いつもは勝手に寄って来る守り神の名を、恐る恐る呼ぶ。
 母が―――― フォーの『主』が本当に死んだのなら、今、彼女の『主』は自分のはずだった。
 来ないでくれ、と、心中に祈り続けた彼の前に、フォーの姿が滲み出てくる。
 「・・・・・・・・・!」
 愕然と彼女の姿を見つめるバクに、レニーの髪を手に絡めたフォーが、岩壁の中から重い足取りで出て来た。
 「今からは・・・お前があたしの主だ・・・」
 涙声を呆然と聞くバクに抱きつき、フォーが声を殺して泣く。
 小さな身体をぎゅっと抱きしめたバクは、すぐに立ち上がった。
 「フォー。
 中の状況は?」
 驚くほど冷静な声に、フォーだけでなくレニーも顔をあげる。
 「生存者はいるのか?」
 無言で首を振るフォーに頷き、更に『敵は?』と尋ねた。
 「ユウ・・・もう一人の被験体が、暴走した被験体を斬ったから・・・もう、中は安全だ」
 「ア・・・アルマが・・・・・・?!」
 暴走したと言う被験体の名か、声を引き攣らせたレニーが、再び号泣する。
 自分の父親を殺した本人だろうに、彼女の嘆きはまるで、子を喪った母のようだった。
 「・・・・・・開けるぞ」
 岩壁へ手をかざしたバクを、フォーは一瞬、止める素振りをしたが、ぎこちなく頷く。
 と、彼らの前で岩壁が蠢き、新しい主人のために恭しく道を開けた。
 「ここに来るのは初めてだ・・・・・・」
 歩を踏み入れたバクは、『扉』の傍らに並んで座る二人に気づき、顔を強張らせる。
 「は・・・はう・・・え・・・・・・」
 引き攣った声の呼びかけに、彼女は冷たく応えなかった。
 「ちち・・・うえ・・・」
 震える足を進め、二人の前に跪く。
 が、その目に涙はなかった。
 「・・・・・・引き継がせていただく」
 両親の遺体へ深々とこうべを垂れると、冷たい手がしっかりと握り合わされていた。
 その様に、思わず笑みが零れる。
 「・・・安らかに」
 両親が、辛い立場からようやく解放された事に、バクは安堵に似た気持ちを感じていた・・・。


 「ウォン、レニーの手当てを。
 フォー、僕を案内しろ」
 無線でウォンを呼んだバクは、その場にレニーを置いてフォーと連れ立った。
 「・・・凄まじい破壊の後だな」
 爆撃でもされたかのように瓦礫と化した研究所を、バクはフォーと共に進む。
 やがて、
 「ここが・・・中心なんだけど・・・・・・」
 バクの白衣の裾を掴み、行かせまいとするフォーの手を、バクはそっと振り解いた。
 支柱に囲まれた広間は、電源が落ちたのか、元々灯りが少なかったのか、暗く沈んでいる。
 しばらく入り口に留まったバクは、目が慣れるのを待って歩を進めた。
 濃い・・・血の臭い・・・・・・。
 水の満たされた、いくつもの穴から溢れ出た紅い液体が、床に倒れるいくつもの遺体の血と交じり合っている。
 地獄のような光景にくるぶしまで沈めて、バクは物のように転がる遺体へ歩み寄った。
 うつろな表情を浮かべる顔はどれも、見覚えのあるものだ・・・。
 だがその中にひとつだけ、見覚えのない子供の遺体と、その傍らにうずくまる少年を見つけた。
 「・・・・・・キミが『ユウ』か?」
 声をかけると、泣き顔を向けた少年が目を見開く。
 「博士!
 生きて・・・・・・?」
 一瞬期待に輝いた顔が、たちまち曇った。
 「誰だ・・・?」
 「私はバク・チャン。
 トゥイ支部長とエドガー博士の息子だ」
 「あぁ・・・。
 お前が支部長から生まれた奴か・・・・・・」
 乱暴に涙を拭う少年の、奇妙な物言いを訝しく思いながら、バクは彼に歩み寄る。
 だが、この少年や周囲の事情を知らない彼は、なんと声をかけていいものか困惑した。
 話す代わりに、着ていた白衣を脱いで彼の肩にかけてやると、ユウは目を丸くする。
 「な・・・なんでだ・・・?」
 「え?
 いや、寒そうだと思ったから・・・」
 寒い研究所の中でも一際寒い場所で、上半身裸の子供を見つければ誰もがやる行動だと思ったが、ユウにとっては甚だ意外な行為だったようだ。
 「えと・・・嫌だったらすまない」
 「イ・・・イヤじゃ・・・ないけど・・・・・・」
 なぜか困惑げな顔をして・・・だが、やはり寒かったのか、小さな手で襟元をかきあわせる彼に微笑む。
 こんな・・・『普通の子供』が、被験体だとは容易に信じられなかった。
 バクは彼の目線に合わせてしゃがみ込む。
 「ユウ、ここは今から閉鎖する。
 後のことは私がやるから、フォーに医務室へ連れて行ってもらえ」
 「フォー・・・?」
 目を見開いたユウは、支柱に背を預けてこちらを見守る少女を見つめた。
 「あれが・・・・・・」
 アルマの言っていた女の子かと、かすかに頷く。
 「フォー、いいな?」
 動こうとしないフォーを呼ぶが、彼女はつんっとそっぽを向いた。
 「あたしはお前の傍から離れるわけには・・・」
 「四の五の言わんと連れて行け!」
 バクが大声をあげた時、
 「・・・その声は・・・班長ですか・・・・・・?」
 瓦礫の下から声がして、その場の全員が飛び上がる。
 「だだだだだっ・・・誰だっ!!」
 怯えながらもユウを背に庇ったバクの代わりに、フォーが瓦礫へ歩み寄った。
 「えと・・・お前、誰だっけ?
 アジア支部の人間じゃないだろ?」
 訝しげに問うフォーを手探りで押しのけ、身を起こした男の姿に、バクとユウがホッと力を抜く。
 「マリ・・・無事でよかっ・・・あれぇ?!
 キ・・・キミ、死んだんじゃなかったのか?!
 死亡者リストに名前が載っていたぞ!!」
 頓狂な声をあげるバクに指差され、マリが大きな身体を縮めた。
 「私も死んだと思ったんですが、この坊やが・・・」
 「坊やって呼ぶな!」
 ユウの甲高い抗議に困惑するマリへ、ようやく気を取り直したバクが歩み寄る。
 「・・・死亡報告が間違いでよかった。
 だが、怪我は酷いようだな。
 戦闘に巻き込まれたのか?」
 しゃがみこんだバクに何か言いかけたマリは、微笑して頷いた。
 ここで何が行われていたか、まだ知らないバクに言うことはないと、判断したのだ。
 マリの様子をバクは、訝しく思ったものの、話すつもりはないと察して、フォーに改めて命じた。
 「彼らを医務室へ。
 マリは目が見えないから、ちゃんと手を引いてやれよ」
 「言われなくったって、わかってらぁ!」
 不機嫌な声をあげたフォーは、マリの手を取り、ユウを従えて元来た道を戻・・・ろうとして、足を止める。
 「どうした?
 早く・・・」
 「・・・・・・別の『扉』を開けてくれ」
 「は?」
 なぜ、と、問いを発しようとして、バクは口をつぐんだ。
 元来た場所には・・・二人の遺体がある。
 フォーは・・・そしてもしかしたらユウも、二人の遺体を目にしたくはないのだろうと察して、バクは別の壁に歩み寄った。
 「・・・道を間違えるなよ」
 「誰に言ってんだ」
 また不機嫌に言って、フォーは真っ暗な洞穴に二人を引き入れ、歩み去った。
 「・・・・・・・・・さて」
 自分の他に生きるもののいない場所で、バクは暗く呟く。
 「・・・・・・後のことは・・・お任せください」
 両親の遺した願いに応えるべく、バクは再び血の池へと足を踏み入れた・・・。


 ――――・・・それから9年。
 戦況は一向に改善されることなく、時は無為に過ぎた。
 どころか、更なる危機を迎え、それを打開すべく乾坤一擲の手として打たれたのが―――― アルマ・カルマ計画の再始動だ。
 他ならぬレニーが、あの忌まわしい研究に再び手を染めると聞いて、バクは封印された第二使徒計画の資料を取りに訪れた彼女へ詰め寄った。
 「あの研究の結果がどんな惨事を招いたか、もう忘れたのか?!」
 あの当時と違い、あの地下研究所で何が行われていたのか、全て知ったバクの詰問にしかし、レニーは硬い表情を浮かべて答えない。
 「よりによって・・・たった一人の生き残りであるお前が・・・!」
 「中央庁の命令よ。
 戦況は、あの頃より更に不利になった・・・。
 なのにあの計画に携わった者で生きているのは・・・えぇ、再始動できるのはあたししかいないんだもの・・・」
 諦観なのか、淡々と言ったレニーの腕をバクが掴んだ。
 「だから・・・それを拒否しろと!」
 「できるわけないじゃない!!」
 バク以上の大声をあげたレニーが、キッと彼を睨む。
 「それに・・・あんたは勘違いしてる。
 あたしは中央庁の命令で、無理やりやらされるわけじゃない。
 ずっとやりたかったのよ!
 途中で断念せざるを得なかった研究を・・・!」
 バクの腕を乱暴に振りほどき、レニーは彼に向き直った。
 「チャン家とアジア支部長の地位はあんたが継いだ・・・。
 だったらあたしは、父や支部長達の志を、継ぐわ!」
 「志だと・・・?!
 あんな非道な研究がか!」
 顔色を変えたバクに、カッとなったレニーの目が吊りあがる。
 「えぇそうよ!
 あたし達は確かに、セカンドエクソシストを造り上げたわ!
 それは今、十分に役目を果たしているでしょう?!」
 「か・・・神田ユウのことか・・・・・・?」
 声を詰まらせたバクに、今度はレニーが詰め寄った。
 「彼は厳密に言えば『失敗』だったけど、今では一人前のエクソシストだわ!」
 だから・・・と、レニーがバクを、きつく睨みつける。
 「今度は完璧なエクソシストを造ってみせる!
 そして・・・・・・!」
 レニーの声が、熱を帯びた。
 「伯爵を討つ!
 殺されたみんなの仇を取るんだ!!」
 父やバクの両親だけではない。
 共に研究した仲間達・・・大事に育ててきた子供達・・・それらをアルマは、一瞬で破壊しつくした。
 「次は『失敗』なんかしない・・・!
 あの子の身体を使って、必ずこの計画は成功させてみせる!!」
 執念・・・いや、妄念に突き動かされたレニーがこぶしを握る。
 「それが・・・生き残ったあたしの役目なの!
 トゥイ支部長は、そのためにあたしを逃がしてくれたんだから!!」
 「そんなわけがないだろう!!!!」
 きっぱりと否定して、バクはこぶしを握るレニーの腕を取った。
 「母は確かに厳しい人だったが、今のお前のように、あの計画に取り憑かれてはいなかったぞ!」
 「そんなわけ・・・!」
 「父もそうだ!
 あの計画に携わって以降は、滅多に会うことはなかったが、たまに会えばいつも泣きそうな顔で僕を抱きしめた・・・。
 二人にとってあの計画は、呪わしいものでしかなかったんだ!」
 「そんなわけない!!!!」
 悲鳴じみた声をあげて、レニーはバクの声を塞ぐ。
 「じゃあなんで、支部長はあたしを逃がしたの?!
 自分だって逃げられたはずなのに、あたしだけ逃がしてくれて・・・・・・!
 きっと支部長は、あんたをこの計画に最後まで関わらせたくなかったのよ!
 だからあたし、助けてくれた支部長のためにも、あんたをこの計画の実行者にしたくなかったの!
 彼女が守りたかった、チャン家のためにも・・・・・・」
 思わず口走ったことに気づいて、唇を噛むレニーの両肩を、バクが掴んだ。
 「僕のためにやっていると言うのなら、今すぐやめろ!
 お前が手を汚すことなんかない!」
 「・・・っ誰が・・・・・・!
 うぬぼれないでちょうだい!!」
 思い切りむこうずねを蹴飛ばしてやると、バクは泣き声をあげてしゃがみこむ。
 やりすぎたか、と、一瞬怯んだが、気を取り直して背を向けた。
 「これは中央庁からの命令だって言ったでしょ、バク支部長。
 他支部からの口出しは無用に願いますわ」
 『北米支部長』として、『アジア支部長』へ要請したレニーが、かかとを鳴らして遠ざかって行く。
 「ま・・・まて・・・・・・!!」
 苦痛にくぐもった声は、彼女の背に弾かれて、その胸までには届かなかった。


 結局、第二使徒計画の資料は、中央庁に全て没収され、レニーも北米支部へ帰っていった。
 脚を負傷したバクは彼女を追うことも出来ず、不機嫌な顔でウォンの治療を受けている。
 その情けない様子に、フォーは呆れ顔で肩をすくめた。
 「どんだけか弱いんだよ、お前!」
 「ぼっ・・・僕は、話し合いで解決しようとしたのだ!!
 それをレニーの奴、暴力に訴えおって!!」
 ぼふぼふとクッションに八つ当たりするが、それでレニーが思い直してくれるわけもない。
 その上、
 「お前がナニ言ったってさ、レニーは聞きゃしねぇよ。
 そういう娘だ、あいつは」
 バクよりもレニーの事情に詳しいフォーが、どこかしみじみと言った。
 壁に耳があるフォーは当然、二人の言い争いも聞いていたが、どちらを正しいとも言わない。
 レニーに蹴られた脚をウォンに冷やしてもらいながらバクは、むっと眉根を寄せた。
 「だからと言って、あいつが再び非道の行いに手を染めることを見過ごせと言うのか?!
 僕は母上が、あの計画を再始動させるためにレニーを逃がしたとは思わない!
 レニーは勘違いをしているのだ、止めてやらねば!」
 「はぁ・・・・・・まぁ確かに、トゥイがあいつを逃がしたのは、単に傍にいたからだと思うけどな。
 トゥイが残ったのは・・・あいつは支部長だから、エドガーや部下達を置いて逃げるわけには行かなかった、ってだけだ」
 あの時の事を思い出したフォーの声が、沈んでいく。
 だがバクはそれに気づかないのか、治療中のウォンにおぶるよう命じた。
 「・・・・・・なにやってんだ」
 「決まっているだろう!
 レニーを追いかけるのだ!!」
 行け、と出口を指差す主の命令に、忠実なじいやは老齢とは思えない脚力で走り出す。
 「お・・・おいおい・・・!
 また蹴られるぜ?!」
 軽々と追いついたフォーが、ウォンにおぶさるバクに呆れ顔を向けた。
 と、
 「かまわんっ!
 あのような穢れた行いを・・・無為に人を殺めるような行いを、決して許してはいかんのだ!!」
 きっぱりと言って、バクはレニーを追わせる。
 その背を見送ったフォーは、やれやれと肩をすくめた。
 「言ってることはカッコいいんだがなぁ・・・・・・子供みたいにおんぶされてたんじゃ、説得力もなにもありゃしない」
 だけど・・・と、フォーは苦笑する。
 「厳しく育てた甲斐があったじゃないか、トゥイ。
 あいつ、いざと言う時は頼りンなる男だぜ・・・エドガーみたいに」
 レニーはもっと漢前だけど、と呟いて、フォーは眉根を寄せた。
 「ヤバイ。
 絶対あいつ、返り討ちにされてるぜ!」
 守り神のくせにうっかりしていたフォーが、慌てて走り出す。
 「嫁もらって子供作ってもらうまでは、死んでもらっちゃ困るんだよ!!」
 半ば以上本気で言いながら、フォーは二人の後を追った。


 ―――― 命の消えた手を重ねた。
 既に冷たいはずの手は・・・互いにだけ、ぬくもりをもたらす。
 『フォー・・・。
 私をトゥイの元に連れて来てくれて、ありがとう・・・』
 その声は、神である彼女にも聞こえないのか、声を殺して泣くフォーは顔をあげなかった。
 『弱ったな・・・』
 並んで眠る自分と妻の身体を見下ろして、エドガーはずっと泣き続けるトゥイの肩に手を置く。
 『泣かないで、トゥイ・・・私が一緒にいるよ』
 『泣いてなんか・・・っ!!』
 魂だけになっても意地っ張りな彼女に苦笑し、泣き顔を胸に抱き寄せた。
 『知ってたよ。
 ずっと前から知ってた―――― 君が、誰もいない所でこっそり泣いてたこと』
 『!!』
 『トゥイは泣くと、耳が紅くなるんだv
 死ぬまで黙ってようと思ってたら、ホントに死んじゃったから、もう言っていいよねv
 こんな状況でのんきに笑う夫を、トゥイは唖然と見つめる。
 『じゃあ、トゥイの涙も止まったことだし、逝くかい?』
 『あ・・・あぁ・・・』
 すっかりエドガーのペースに呑まれたトゥイが、差し出された腕に手を回して、恥ずかしげに頷いた。
 『その前に、ちょっとバクに会っていこうよ。
 フォーは泣きっぱなしでこっちに気づいてくれないから、後で挨拶しようね』
 『え・・・?いいのか・・・?』
 戸惑うばかりのトゥイに、エドガーが微笑む。
 『別に時間指定されてないし、今生の別れに愛息子の顔くらい、見てもいいんじゃないかな。
 どうせ行くのは地獄だろうから、遅れたって問題ないよ』
 冗談なのか本気なのか、陽気に笑いながらエドガーは歩を進めた。
 並んで歩く先に、ずいぶんと精悍な顔をしたバクが――――。
 一人迷わず血の池へ入った彼を、トゥイが気遣わしげに見つめた。
 と、不意にバクが、足を止める。
 「・・・・・・後のことは・・・お任せください」
 静かに手向けられた言葉に、トゥイの頬にまた、幾筋もの涙が伝った――――・・・。



Fin.


 










2010年バクちゃんお誕生日SSです・・・。
ば・・・バクちゃん・・・ですよ・・・?( ・▽・)
パパとママの話だよね、なんて突っ込みは全力でスルーします!
誕生日どころか本当に誕生シーンだぜ、なんて、ニヨニヨしながら書いていました(笑)
そして実は今、11/13AM2:00です・・・・・・・・・;
姐さんといいバクちゃんといい、遅れまくって済みませんでした;;
ぶっ倒れさえしなければ・・・;
ところでバクちゃん&パパの一人称ですが、バクちゃんは班長時代『私』、今『僕』、時折『オレ様』なんですよ。
もしかしたら、ママには常に敬語だったから、この時は『私』だったのかもしれません(笑)
パパも、セカンド育成時は『私』なんですが、バクちゃんが生まれた20年前は『僕』の方がか弱く書けていいなぁと思いましたのでこのようにさせてもらいました(笑)
そしてラストは、蛇足全開で大変申し訳ありません;;;;;
入れるか入れまいか悩んだんですが、バクちゃんの決意表明を二人に聞かせてあげたかったので入れてしまいました(^^;)
ちょっと色々アレですが;お楽しみいただけたら幸いです(^^)












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