† 海潮音 †






 †このお話は日本・江戸時代を舞台にしたD.Gray−manパラレルです†


  D.Gray−manの原作とは、ほとんど関係ありません。
  人死が出ますので、苦手な方はご注意下さい。
  グロ表現がありますので、食事中・前後の方は特にお気をつけください。

  時代考証はしていませんので、頭空っぽにして読んで下さいねv


 瓦版屋の朝は騒々しい。
 削りたての版木と墨の交じり合った匂いを纏いながら、幾人もの職人や読売が入り乱れ、今を盛りと鳴く蝉よりもかしましく喚きあっていたかと思えば突如、喧騒が消えた。
 一斉に江戸の町へと飛び出して行った彼らの後には、忘れ物のように残された老人が一人、のんびりと煙管を吹かしている。
 出来たばかりの瓦版に目を通していた彼は、こくりと頷いてそれを放った。
 「・・・全てこの世はこともなし」


 「お城で謎の病発生さね!
 大奥女中らが次々と倒れなさって、なんとご老中までもが床に就かれたってさ!
 今やお城は、上を下への大騒ぎ!
 上様に何かあっちゃあ大変だって、御典医が総出で治療に当たっているそうさ!
 さぁてその顛末は・・・?!
 詳しくはこれに書いてある!さぁ買った買った!!」
 威勢のいい呼び込みに集まった江戸っ子達が、手にした小銭を渡しては、奪い合うように瓦版をもぎ取っていく。
 あっさりと完売御礼した読売は、得意げに手を払った。
 「うんうん。こんなつまんねーネタでも完売御礼しちまう俺って、やっぱすげーさv
 自画自賛してお立ち台から飛び降りた彼は、跳ねるような足取りで大通りを駆ける。
 すると道の途中、彼とはライバル瓦版屋の読売が、楽しげな口調で呼び込みをしていた。
 「昨日に続いてまたもや相対死(あいたいじに)!
 今度は遊女と江戸に出てきたばかりの若者だよ!
 遊女の手練手管に篭絡された若者の、気の毒な身の上は全部ここに書いてある!
 さぁ買った買った!」
 群がる人々の手へ、なまめかしい遊女の描かれた瓦版が次々と渡っていく様に、彼は肩をすくめて吐息する。
 「相変わらず、どぎついネタで売ってやがんの」
 そう言う彼の店は、店主の方針で相対死を一切扱っていなかった。
 唯一扱ったのは、他の瓦版屋の相対死に対するセンセーショナルな記述方法と、仏への敬意のなさを批判したものだ。
 これにはお上や被害者家族からは感謝されたものの、売れ行きは芳しくなかった。
 そんな嫌なことを思い出して、彼は鼻の頭にシワを寄せる。
 結局、庶民はセンセーショナルな話題が欲しいのだと思い知らされた気がして、あの時ばかりはいつも陽気な彼が沈んでしまった。
 「・・・ちぇっ!けったクソ悪い」
 吐き捨てて石を蹴った先では、別の読売が誘拐事件をネタに呼び込みをしている。
 「さぁさぁ下手人は人かあやかしか!江戸の町に夜な夜な現れる男の話だよ!
 その神出鬼没は天狗の技か、既に幾人もの善男善女がさらわれているが、ちぃとも正体がわかりゃしない!
 旦那方、夜は出歩かず、女房子供を家に隠すこった!」
 「へー・・・そう来たか」
 夏らしく、おどろおどろしげに語った読売の声に、彼は感心した。
 この瓦版屋は、時事では彼の店に情報量で負け、相対死ではあの瓦版屋に早さで負けている。
 だったら同じものは追わずに別のネタで勝負する、と言う気概に嬉しくなって、彼は懐から小銭を取り出した。
 「おもしろそーさね!ひとつもらうぜ!」
 名物読売がわざわざ買ったことに興味を示し、我も我もと手を伸ばした人々の間を彼はするりとすり抜ける。
 「へへっv ジジィに団子でも買ってってやろーっと!
 ・・・あれ?」
 見世物小屋の宣伝を聞きながら踵を返した彼は、視線の先に既知の若侍の姿を見つけ、大きく手を振った。
 「ユーゥ!!!!」
 「あ?
 なんだ、ラビか」
 呼ばれてこちらを振り向いた彼の美麗な仕草に、行き交う女達が足を止めて、ため息を漏らす。
 根が生えたように動かない彼女達を掻き分け、ラビは彼に駆け寄った。
 「おはよーさんv
 道場の帰りさ?」
 「・・・まぁ、そんなところだ。
 お前は仕事帰りか?」
 ラビが売り物を手にしていないと言う事は、また完売したのだろうとわずかに感心する。
 「今日もよく売れたさーv
 にかりと笑うラビは、まだ若いが優秀な読売で、彼の口上にかかれば『隣のタマが仔猫を生んだ』と言うつまらない出来事さえ、江戸っ子達の関心を集めるとまで言われていた。
 「今日はどんな内容だったんだ?」
 大して興味もなさそうに問う彼に、ラビはにんまりと笑う。
 「お城で大発生した謎の病の話さ。
 上様は無事だけど、ご老中までみーんなぶっ倒れた例のアレの原因究明v
 「原因究明ってお前・・・」
 やや呆れた口調で、ユウは声を潜めた。
 「ありゃ食あたりだろうって、小石川養生所の連中が言ってたぜ?」
 「ん。
 今年の梅雨がやたら長くて、備蓄米が傷んでたそうさ。
 けど精米しちったらわかんねーから、気づかず使ったのが原因かもしれないって、うちのジジィも言ってたさね」
 いけしゃあしゃあと、ラビが頷く。
 「ぶっ倒れたのが大奥と、評定所の面々だろ?
 御典医の間じゃとっくに食あたりだって見当つけてんだけど、それにしちゃちょっと変なこともあるから、上様には吟味に吟味を重ねて御膳を出してるんだってさー」
 ってことが書いてある、と、得意げに空になった手を払うラビに、ユウは今度こそ呆れた。
 「・・・なんでお前ンとこはそんなこと知ってんだよ」
 幕臣でも一部の者しか知らないはずのことを、瓦版屋とは言え、一庶民が知っているはずがない。
 かねてから不思議に思っていたことを問うと、ラビはクスクスと笑い出した。
 「うちのジジィにはさ、色んなとこから情報が集まってくるんさ。
 他の瓦版屋は持ってないネットワークさねv
 そこが強み、と、江戸一番の瓦版屋の跡取りは胸を張る。
 するとユウは、顎に手を当て、考え込む素振りをした。
 「・・・おい。今日はお前ンとこのジジィ、暇か?」
 「いっつもヒマしてるさね」
 あっさりと言って、ラビは小首を傾げる。
 「来るさ?」
 「あぁ、邪魔するぜ」
 二人連れ立って歩き出すと、女達の目がその姿を追った。
 「・・・いやさ、相変わらず注目の的さね、ユウは。
 俺だって、一人でいる時はそれなりに人気なんけど、ユウがいると全部持ってかれちまうもん」
 やや不満げに言ってやると、彼は軽く鼻を鳴らした。
 「面倒くせぇだけだ。
 いちいち声をかけられねェのは助かってるがな」
 気軽に声をかけるには、彼の纏う気は鋭すぎる。
 それでも、夜闇に煌めく炎に吸い寄せられるように、人々の目は彼の姿を追った。
 そしてそれは、大通りの道端に晒された罪人を野次る者達でさえ例外ではなく、彼の視線が薙いだ途端、恥ずかしげに口を覆ってこそこそと立ち去る。
 「・・・また相対死か」
 「そうそう、さっき読売も喚いてたけど、まーだ流行ってんさねー」
 ぽつりと呟いたユウに、ラビがため息をついた。
 「恋に命をかける、ってのはいいんけどさ、命を粗末にしちゃーいけないさ。
 死んで花実が咲くものじゃなし、死に損えばああやって捕縛されて、二人揃って大通りにさらされる。
 いいことねーさ」
 ラビがちらりと見遣った先では、いかにも世間知らずそうな可愛らしい娘が俯いて泣き続け、その隣では純情そうな若者が無言で地面を睨んでいた。
 「ま、あいつらは生きてるだけマシさ。
 こないだなんか・・・あ!待ってさ!!」
 ラビは慌てて、先に行ってしまったユウの背中を追いかける。
 「も・・・ユウってば足早いさ!
 ジジィに団子買って帰るからちょっとマッテ!
 ちょめ助ー!
 いつもの10個包んで!!」
 ラビは大通りに面した甘味屋の店先に立ち止まると、大声で売り子を呼んだ。
 「あ、アレンも松福堂の団子好きだったよな。
 どうせ今日も来るだろうから、買っとくか」
 追加で、と、みたらし団子を大量に仕入れるラビを、ユウがイライラと睨む。
 「そんなに買ってどうすんだよ!
 転売すんのか?!」
 「まさか。
 これ一人で食う奴がいんの」
 な?と、売り子に言うと、彼女は嬉しそうな笑顔で頷いた。
 「ちっさくて細い奴だけど、そりゃあ気持ちよく食べてくれるから嬉しいっちょv
 はい、と、おまけ付で手渡された大荷物を抱え、ラビは甘味屋をよろめき出る。
 手を振って見送るちょめ助に笑みを返して、ラビはとっとと先へ行くユウを追った。
 「―――― そんでさ、そいつ、アレンっつって、北町の新人与力なんけど、同心に混じって市中の見回りとかやってっから、珍しくって取材したんさ。
 そしたらなんか、懐かれて。
 江戸で事件が起こったら、いい情報ないかって聞きに来るようになったんさね」
 「ふん・・・。
 同心にゃヤクザものを使う奴が多いのに、頭のいい奴だな」
 彼らは確かに便利だが、付き合い方を誤ると身を滅ぼしかねない。
 素直にそう言ったのに、歩き出したラビはなぜか笑い出した。
 「傍目にゃそうなんけど、あいつは張り切りすぎなとこがあって!
 こないだなんか、うちのジジィが犯人だって証拠を揃えた旗本の馬鹿息子を捕まえて牢にぶち込んじまって、目付にこっぴどく叱られてたさ!」
 泰平の世とは言え、この国の身分制度は厳しく、町奉行所の与力が旗本を捕らえることは出来ない決まりだ。
 そんなことをすれば、一身の破滅どころか親類縁者ごと滅ぼしかねなかった。
 「前言撤回だ。
 とんだ馬鹿だな」
 「ま、馬鹿息子に迷惑をかけられてた連中からすれば、拍手喝采なんけどね」
 だから、と、ラビはまたくすくすと笑い出す。
 「いちお、擁護記事書いてやったら、さすがの目付も強くは責めらんなかったらしくってさ、ゲンコツ一つでお咎めなしになったそうさ!」
 筆の力だ、と、ラビは得意げに胸を張った。
 そうするうちに、二人は大きな間口を持つ瓦版屋へ至る。
 「ジジィー!ただいまさー!」
 声をかけるが、職人も帰ってしまった今、店の中はしんとして、木霊でも返ってきそうだった。
 「ま、あがってあがって」
 気にせず草履を脱いだラビに手招かれ、ユウもあがりこむ。
 「ジジィ!団子買ってきたさー!」
 大量の甘味に両手を塞がれている為、ラビは足ですだれを蹴りあけた。
 と、
 「・・・冷たいのだろうな?」
 風の通る居間の中心で、寝転がって書物を読んでいた老人が目だけをあげる。
 いつもながら不機嫌そうな顔の祖父に、ラビは肩をすくめた。
 「年寄りに冷菓なんか買ってくるもんかね。ふつーの団子さ」
 「ふん。
 団子より葛餅がよかった」
 ブツブツと文句を垂れながら起き上がった老人は、井戸水で冷やしていた茶を湯飲みに注ぐ。
 「ところで、私に何か用かな、神田のせがれ」
 差し出された茶を受け取って、ユウは横柄な老人に頷いた。
 「聞きたいことがあって来た」
 「うむ。
 それはおぬしが、家出をしたことにも関わっておるのか?」
 あっさりと言われて目を見開くユウの隣で、ラビが茶を吹く。
 「ユウちゃん、家出したんさ?!」
 「いや、家出と言うか・・・なんで知ってんだ、ジジィ」
 驚きを隠せない彼に、老人は鼻を鳴らした。
 「さっき隠居が泣きついてきたのだ。
 愛息子が家出して昨夜から帰って来ないから、読売を総動員して探してくれとな。
 特に最近、相対死が相次いでいるし、美人の息子がお七のような女に惚れ抜かれて殺されたらどうしようと、それはもう凄まじい嘆きようであったぞ」
 「クソオヤジ・・・!」
 忌々しげに吊り上げた目で、ユウは周りを見渡す。
 「まだいんのか?!」
 「いや、町奉行所に捜索願を出しに行った。
 元側用人の権威を利用して、同心を総動員するつもりのようだな」
 「馬鹿オヤジが!!!!」
 勢い良く立ち上がったユウは、そのまま踵を返す。
 「用はいいのか?」
 「また来る!!」
 怒鳴るように言うや、足音も荒く出て行った彼を、ラビが唖然と見送った。


 「・・・なんなんかね、ユウの奴」
 ようやく我に返ったラビが問うと、団子を食べ終えた老人はまた寝転がって、書物をめくった。
 「あいつがなんの用事で来たのか、ジジィなら知ってんじゃね?」
 再び問うが、彼は無視して煙管をふかす。
 「ジジ・・・!」
 「こんにちはー!!!!」
 ラビの声を、すだれの向こうから元気な声が遮った。
 「おじいちゃん、いますかー?!
 あ!いた!!」
 大声で呼ばわりながら、遠慮なく入って来た少年に、ラビはため息を漏らす。
 「なんか用さ?」
 「うん。ラビじゃなくておじいちゃんにね。
 あ!松福堂のお団子だ!食べていい?!」
 ラビが頷くのを待たず、少年が伸ばした手を煙管がはたいた。
 「あつっ!!」
 「手を洗って来い、アレン」
 「はぁい」
 ぺろりと舌を出したアレンは、一旦座敷を出て、すぐに戻ってくる。
 「それで、なんの用だ?」
 座り直した老人の問いに、遠慮なく団子を頬張っていたアレンが頷いた。
 「寺社奉行のお宅で、ご次男が行方不明なんだそうです。
 あ、ご次男って言っても、寺社奉行のじゃなくて、元お側用人様のご次男で、寺社奉行の弟君ですけど。
 なんでもすっごい美人らしくって、元お側用人のご隠居がものすごく心配してらっしゃるんです。
 さらわれたり、無理矢理相対死させられたりしてんじゃないかって、気が気じゃないから探してくれって、うちのお奉行に泣きついていらしたんですけど、お奉行よりもむしろ、エミリアお嬢様の方が滾っちゃって、同心達に探して来いって命令した後、真っ先に飛び出してっちゃったんですよ」
 だから、と、アレンは冷たい茶を飲み干す。
 「どこ行ったか知りません、うちのエミリアお嬢様?」
 「・・・って、ユウじゃなくてか!」
 最後の最後で予想を裏切られたラビが、思わず突っ込んだ。
 「ユウ?誰?」
 きょとん、としたアレンに、ラビが眉根を寄せる。
 「その、寺社奉行の弟で元側用人の次男の、すっごい美人さ!
 さっきまでここにいたんさね」
 「え」
 自分の座っている場所を指されて、アレンが目を丸くした。
 「なんで?!」
 「なんでって・・・町で見かけて声かけたら、あいつがジジィに用事があるってゆーから、一緒に帰ってきたんさ」
 「いや、そうじゃなくてさ、なんで譜代大名の次男と、瓦版屋のラビが知り合いなんだよ?!」
 意外そうな声をあげると、ラビは『そっちか』と呟く。
 「あいつとは一時だけど、同じ寺子屋にいたからさ。
 あん時は武家屋敷で働いてる女中の子供だって聞いてたんけど、実は譜代大名の次男だったんさね。
 攘夷運動の激しい時期に、ご隠居は外国使節の応対役やってたかんね。
 まだちっさかったユウを守るために、女中の子供ってことにしてたそうさ。
 ・・・当時は女の子のかっこしてたもんだから勘違いストライクしちまって、どつきまわされたのも今じゃいい思い出さ・・・」
 ほふ、と、遠い目をしてため息をついたラビを、アレンが気色悪げに見つめた。
 「いっくら美人だからって、男でしょ・・・。
 気づかないもんですかね?」
 ありえない、と、冷たい目をするアレンに、ラビはムッと眉根を寄せる。
 「そりゃお前がユウを見たことないから言えるんさ!
 今でさえ超絶美人なんだぜ?
 ちっさい頃なんか、美少女以外の何者でもなかったさ!」
 こぶしを握って力説するラビの手に、祖父の煙管が押し付けられた。
 「あちっ!!
 なにすんさ、ジジィ!!」
 「どうでもいいことをいつまでもしゃべっとるでないわ」
 意地悪く鼻を鳴らして、老人はアレンに顎をしゃくる。
 「そう言うわけだ。
 神田の次男殿なら、今から追えば追いつくかもしれんが、エミリア嬢の方がいいのか?」
 問われて、アレンはあっさりと頷いた。
 「なんでさ。
 ユウを追った方が手っ取り早いだろ」
 呆れるラビには肩をすくめる。
 「だってまた、目付に怒られたんだもん。
 町の皆さんのためなら走り回ってもいいけど、旗本とか譜代大名の親族には今後一切関わるな、って、ものっすごーい顔で叱られたから、今回はパスです」
 目付の真似なのか、アレンは思いっきり指で目を吊り上げた。
 「だから、どこ行ったか知りませんか、エミリアお嬢様?
 あれじゃあ、お嬢様がご次男を襲いかねないって、お奉行がすっごく慌ててるんです」
 「まぁ・・・女の子に襲われて、負けるようなユウじゃないけどなー・・・」
 言いつつもちろりと祖父を見遣ると、彼は煙管の灰を落として頷く。
 「そうさの・・・エミリア殿は、神田のせがれがラビと懇意であることは知らぬはずだ。
 ならば彼が行きそうな場所、身を寄せそうな場所へ行くのではないかな」
 「うーん・・・お嬢様が知ってて、その若君が行きそうな場所って?」
 深く首を傾げるアレンの前でラビが、ぽんと膝を打った。
 「道場さね!」
 「道場?
 どこの道場?」
 早速腰を浮かせて問うアレンに、ラビがにんまりと笑う。
 「言ったって、迷子癖のあるお前じゃ辿り着けないだろ。
 俺が連れてってやるさねー♪」
 立ち上がると同時に踵を返したラビの背を、アレンがじっとりと睨んだ。
 「・・・そんな口実つけて、また面白おかしく瓦版に載せる気なんだ」
 僕の時みたいに、と、恨みがましく言うアレンの頭を、ラビはくしゃくしゃと撫でる。
 「そのおかげで、ゲンコツいっちょで許してもらえたんだろ?
 お礼を言われこそすれ、文句言われる筋合いはないさーv
 「ゲンコツいっちょって言うけど、ものっすごく痛かったんだからね!」
 ヘラヘラと笑うラビに思いっきり頬を膨らませ、アレンは彼の手を払った。
 「〜〜〜〜馬鹿リンクの乱暴者!
 いつか絶対仕返ししてやるっ!!」
 可愛い顔をして腹黒いアレンは、鼻息を荒くしながら座敷を抜け、草履を履く。
 その凄まじい怒気に、共に店を出たラビは苦笑した。
 「ホントにお前は反骨精神旺盛さねぇ。
 よくまぁそれで、お役御免にもならずにお勤めが果たせてるもんさ」
 言ってやると、アレンはぺろりと舌を出す。
 「ガルマー様がね、こっそり手を回してくれるんですよ。
 正しくはエミリアお嬢様かな。
 お嬢様はなんたって、曲がったことが大っ嫌いなお方ですから、『正しいことはどんどんやんなさい!』って、いつも発破かけてくれるんです。
 だから僕も、与力なのに見回りなんかやってるんですよ」
 江戸市中の見回りは本来、同心の仕事だが、世界的に見ても屈指の大都会であるこの街を見回るには28人と、数が少なすぎた。
 それでは犯罪も防げまいと、憂慮した現北町奉行のガルマーが、見回り役を増員したことはラビが瓦版に載せたことによって知れ渡り、北町の月番には犯罪が減るとまで言われている。
 「うんうん。
 これも俺の功績さねーv
 ありがたく御礼申し上げろv
 「なんで僕が!」
 膨らんだ頬を潰されたアレンが、『ぶひゃっ』と奇妙な声をあげた。
 「にゃにふんだっ!!」
 「他の、センセーショナルな記事ばっか扱ってる瓦版屋と違って、ウチはお堅い系の記事で版数稼いでる真っ当な瓦版屋さね。
 こうやって治安維持にも協力してんだし?
 お礼の一つや二つ、言やぁいいだろ、減るもんじゃナシ!」
 ぐりぐりと頬を潰されてもがいていたアレンが、ようやくラビの手を振り解く。
 「も・・・おじいちゃんにはお奉行からとっくにお礼が行ってるでしょ!
 ラビはおじいちゃんの言う通りに書いて売ってるだけじゃん!」
 「う・・・そりゃ・・・そうだけどさ・・・」
 途端に気まずげに目をそらし、ラビは反論を考えた。
 「で・・・でも、巧みな呼び込みで売り捌いてんのは俺さね!
 言っとくけど、俺くらい販売数稼いでる読売なんて、この江戸中探したっていやしないさ!」
 そう言われるとアレンは、『隣のタマが仔猫を生んだ』と言う、つまらない出来事でさえ江戸っ子達の関心を集めるとまで言われるラビに反論できない。
 憮然と黙り込んでさくさく歩を進めるアレンを、得意げな笑顔のラビが時折方向修正しつつ道場へ導いた。
 やがて、
 「ここさー!」
 ラビに示された立派な門構えを、アレンは口を開けて見あげる。
 「ふわぁ・・・おっきい・・・・・・」
 「そりゃおっきいさ。
 ここは将軍家指南役の・・・聞けよ!」
 とことこと小門へ駆けて行ったアレンの背に、無視されたラビが怒声を浴びせた。
 だが彼は気にも留めずに小門を叩き、出てきた門番に用件を告げる。
 と、気のよさそうな門番は、何度も頷いてアレンとラビを中へ入れてくれた。
 「お嬢さんはそろそろ出てきなさるだろうから、ここで待ってりゃ間違いはないよ」
 「はい!ありがとうござい・・・あー!エミリアお嬢様!!」
 礼を言いかけたアレンの目の前に、門弟に見送られて、エミリアが出てくる。
 「あら、アレン。
 どうしたの?」
 目を丸くしたエミリアが草履を履く前に、アレンは駆け寄って頬を膨らませた。
 「どうしたの、じゃないですよ!
 お嬢様がご次男を襲いかねない勢いで出てったから、僕、お奉行に捕まえて来いって命じられたんです!
 ちなみにご次男は今、北町奉行所に出頭されたそうですよ!」
 「あら・・・行き違いだったのね」
 苦笑したエミリアは、見送りの門弟に丁寧に礼を言い、アレンとラビを伴って道場を出る。
 途端、
 「んで?
 あの馬鹿が家出なんかした理由、聞いた?」
 態度がぞんざいなものに変わった北町奉行令嬢に、初対面のラビが唖然とした。
 「ア・・・アレ・・・?
 さっきまでは武家の姫さんだったんに・・・」
 「アンタ誰よ」
 「この人は瓦版屋の読売です。
 ホラ、前に与力の僕がなんで見回りなんかしてんの、って取材に来た・・・」
 「あぁ、アレンに情報提供してくれてる子ね」
 頷いたエミリアは、先頭に立って歩き出す。
 「あなたのおかげで、アレンがお役御免にならずに済んだの。
 本当にありがとうね。
 この子、ちゃんとお礼言った?」
 「お礼・・・さぁ?」
 にんまりと笑われて、アレンが気まずげに目を逸らした。
 「お・・・おじいちゃんにはちゃんと、お礼言いましたよ?」
 口ごもると、エミリアが肩をすくめる。
 「記事を書いたのは版元でしょうけど、うまく売り捌いて江戸中に話を広めてくれたのは読売でしょ。
 ちゃんとお礼言いなさい」
 「は・・・はい・・・・・・」
 いかなアレンとて、奉行令嬢には逆らえず、ラビからは目を逸らしたまま小さな声で礼を言った。
 「えー?!なんさー?!全然聞こえねーけどー?!」
 「このっ・・・!」
 真っ赤になったアレンの頭を、振り向き様、エミリアがくしゃくしゃにする。
 「おっ・・・お嬢様っ・・・!」
 「声がちっさい!
 男らしくないわよ!!」
 「はっ・・・はい!
 ラビ、その節はありがとうございました!これからもよろしくお願いします!」
 自棄のように大声で言ったアレンに、ラビが笑みを深めた。
 「くるしゅーぅないさーv
 「・・・ちくしょー!」
 驕慢なラビの態度に小声で呟き、アレンはぱんぱんに頬を膨らませる。
 拗ねてそっぽを向いたアレンは、橋に足をかけた辺りで立ち止まった。
 「どうしたの?」
 その気配に気づいたエミリアも足を止め、アレンの視線を追う。
 と、
 「あぁ、今朝の読売が言ってた相対死か・・・えらく早く記事にできたもんさね」
 欄干に手をかけたラビが、川原に寝かされ、同心達の取調べを受ける二つの遺体に眉根を寄せた。
 「お嬢さんが見るようなもんじゃないから・・・アレッ?!」
 行こう、と言いかけた先には、既にエミリアとアレンの姿がない。
 「どこに・・・ちょっ・・・!!」
 再び目を下ろした川原に二人の姿があるのを見て、ラビは目を剥いた。
 「ホントに女の子さ?!」
 ラビですら目を逸らしたくなる水死体を平然と見下ろすエミリアに声をかけると、彼女はひらひらと手を振る。
 「こんなの慣れてるわよ。
 まだマシな方じゃない?」
 「そうですねー。
 こないだ運ばれたのなんか、顔もわからないくらい膨れちゃってましたからねー」
 それに比べたらまだ顔がわかる、と、アレンはまじまじと遺体を見つめた。
 「・・・ねぇ、お嬢様。これ、変じゃないですか?」
 「・・・だよね。水死体じゃないんじゃない?」
 二つの遺体は互いの腕をしっかりとしごきで結び、手を組み合って離れないようにしている。
 だが、遊女風のいでたちの女と、町人風の男の死に顔は、その腐敗具合に差があるように見えた。
 「んー・・・女の方は、単に化粧がはげたとか・・・」
 「ホントにそれだけかなぁ?」
 ラビの言葉にアレンは首を傾げ、エミリアも疑わしげに眉根を寄せる。
 「これ・・・死体を検分してもらいましょ。
 あなたたち!
 仏様を奉行所に運んで!
 アレン、小石川養生所に行って、医師を呼んで来て!」
 「はい!」
 「っあのさ、お嬢さん!
 俺も行ってい?!」
 声をかけると、エミリアは目を細めてラビを見遣った。
 「あんたは、信頼の置ける瓦版屋でしょうね?」
 その意味深な言葉に、ラビはにこりと笑って頷く。
 「確かなことがわかるまでは、絶対に書かないって身命に誓うさ!」
 きっぱりと言うと、エミリアはやや考え込む素振りをしたが、
 「・・・いいわ。
 ついておいで」
 にこりと笑うや、ラビを伴って北町奉行所へと帰って行った。


 「パパー!ただいまー!」
 北町奉行の用部屋へ顔を出したエミリアは、そこで隠居に泣き縋られているユウの姿を見て吹き出した。
 「いいカッコね、神田!」
 「るっせぇよ!
 人事だと思いやがって!」
 その乱暴な言葉に、エミリアがムッとする。
 「なによ!
 あんたを探しに行ってたんだからね、あたし!
 子供じゃあるまいし、勝手にいなくなるんじゃないわよ!」
 大声で言ってやると、彼は憮然と黙り込んだ。
 「それよりパパ、川原に仏様があがってたから連れて帰ったわ。
 相対死に見えるんだけど、どこか変なのよねェ。
 今、アレンに小石川の医師を呼びに行かせてるから、戻ったら検分するわよ」
 「あ・・・あぁ・・・」
 脇息に持たれて力なく頷いた父に、エミリアは眉根を寄せる。
 「ちょっと、大丈夫?!
 やっぱりパパも、食あたりなんじゃないの?
 あの時、評定所にはパパもいたんだから、診てもらいなさいよって言ってんのに!」
 「いや・・・ご老中はともかく・・・私が休むわけには・・・・・・」
 青い顔をして筆を取った父を、エミリアはますます気遣わしげに見つめた。
 「仕方ないなぁ・・・!
 仏様の検分が終わったら、パパも診てもらいなさいよ。
 それまではあたしが代行するから!」
 どいてどいて、と、邪険に手を払って父をどかせると、エミリアはものすごい勢いで書類をめくり、処理していく。
 その様子にはユウだけでなく、隠居までもが感心した。
 「すごいねぇ、エミリア殿!
 これなら今すぐにでも奉行になれるんじゃないかな!」
 「慣れてますからv
 ホラ、パパ!
 そんな所に転がってないで、役宅で寝てなさいよ!
 今日のお裁きは終わったんでしょ!」
 「あぁ・・・うん・・・・・・」
 更に手を払われて、よろよろと立ち上がった奉行に隠居も続く。
 「じゃあ、私達もおいとましようかな。
 エミリア殿、ユー君探してくれてありがとぉv
 「あら、お役に立てませんで」
 ひらひらと手を振ってエミリアが、隠居と彼に引きずられるユウを見送ったのち、しばらくしてアレンが戻って来た。
 「エミリアお嬢さまー!
 お医者さん、連れてきましたー!」
 「はぁい!」
 処理を終えた書類を束ね、用部屋を出たエミリアは、筆頭与力に後を預けて裏庭へ向かう。
 「あら、リーバー先生じゃない。
 小石川に赴任が決まったって言っても、まだ幕医なんでしょ?
 今、忙しいんじゃないの?」
 裏庭に意外な青年医師の姿を見つけて問うと、彼はどこかうんざりした顔でアレンを小突いた。
 「そうなんだ。
 俺はルベリエ老中の担当だから、検分なんてしてる暇ないっつってんのに、このガキが無理矢理・・・」
 「だって、ご老中のお屋敷に行くんなら通り道じゃないですか!
 どうせなら確実な検分してほしいもん」
 悪びれもせず言ったアレンに、エミリアが苦笑する。
 「ごめんなさいね、うちの子強引だから。
 それと、ついでにうちのパパも診てほしいんだけど。
 やっぱり評定所で中ったみたいなんだけど、今月は月番だからって無理してるのよね」
 「あぁ・・・でしょうね。
 俺も、お奉行はやばいんじゃないかって部下を診に行かせたんだが、忙しいからいいって、断られたそうなんすよ。
 お嬢さんがいる間に無理やり診ちまいますか」
 「そうしてくれる?
 パパったら、過労死するまで懲りないんじゃないかしら!」
 呆れ口調で言って、エミリアは裏庭に下りてきた。
 「それで仏様なんだけど・・・どうも腐敗具合が変なのよねぇ・・・。
 用心して運ばせたから、先生が腕のしごき、取ってくれるかな?」
 恐れ気もなく遺体の傍にしゃがみこんだエミリアの指した先を、アレンと、無言で筆を走らせていたラビも見つめる。
 ラビが解体新書のような正確さで遺体の様子を描く様に頷いたリーバーは、解く前の状態をよくよく見てから、遺体を傷つけないようにハサミでしごきを切り取った。
 「これは・・・」
 息をのんだリーバーの前で、エミリアが頷く。
 「女の方の腕・・・明らかに男より腐敗が進んでるわね」
 エミリアの冷静な声に応じるように、新たなページにラビが筆を走らせた。
 まるで場面を切り取ったかのように、二つ並んだ手の上に、腐敗の様子が書き加えられる。
 「女の方は・・・水の中で波にもまれたせいだろうな、損傷が激しくてよく見えないんだが、男の方の腕にはしごきの跡さえない。
 これだけきつく縛ってりゃ、ただでさえ跡がつくもんなのに・・・」
 二つの腕を取って、じっくりと検分するリーバーの傍ら、アレンが猫のように目を細めた。
 「それってつまり・・・この二人は、死んでから腕を繋がれ、川に捨てられたってことですか?」
 低い声で問うと、リーバーが深く頷く。
 「女の方が先に死んでるな。
 男の方は・・・」
 アレンに手伝わせながら着物を剥ぎ、遺体をじっくりと検分したリーバーは、いくつかの外傷を見つけて頷いた。
 「傷の全てが白い。
 これは、死んで捨てられた後に、川でついた傷だろう。
 目立った外傷はないが・・・腰から尻にかけてと、足の裏に死斑が定着している。
 一旦、屈葬で埋められた遺体を掘り起こしたって所かな」
 「酷いわね!!」
 憤然と言ったエミリアに、アレンもぎゅっと眉根を寄せて頷いた。
 「仏様にこんなことして、罰が当たりますよ!」
 「全くだな」
 手を払って立ち上がったリーバーは、筆を走らせるラビの手元を覗き込む。
 「さすが、仕事が早いな、瓦版屋!」
 感心した様子に気を引かれて覗き込んだアレンも、『あ』と声をあげた。
 「すごい!似顔絵だ!!」
 そこには二つの遺体の、生前の姿を予想した似顔絵が描かれている。
 「これを貼り出してさ、情報募ったらなんかわかるんじゃないかって思ったんさ」
 ここに来てようやく口を利いたラビの、得意げな声にエミリアも頷いた。
 「あんたに来てもらって良かったわ!
 なんでこんな奇妙なことになったのか、調べる必要があるもの!」
 「いや、これだけじゃないさ」
 そう言ったラビに、三人の目が集まる。
 「これだけじゃないって?」
 一同を代表してエミリアが問うと、ラビは眉根を寄せて頷いた。
 「北の月番になってからは確かに、これが初めての相対死さね。
 だけど先月・・・南の月番はじめから、この手の事件が相次いでるんさ」
 「は・・・?
 そんなこと・・・引継ぎにはなかったですけど・・・・・・?」
 記憶を探るようにアレンが宙を見つめるが、ラビはきっぱりと首を振る。
 「リーバー、もう少し詳しく調べてくんね?
 この仏がどのくらい水の中にいたか、わかんねーかな?!」
 「え?!」
 意外そうな顔をしたリーバーに、ラビが詰め寄った。
 「この二人は死んでから川に捨てられた・・・それは見立ての通りさね。
 だから長い間水に浸かってても、普通の水死体みたいに膨れなかったんじゃないさ?」
 「あ・・・そうですよね。
 溺死体は水を飲んじゃって膨れるから・・・」
 「そうでもないわよ。
 あれは五臓六腑が腐って膨れるんだから、死んだ後だって膨れる時は膨れる・・・ん?」
 アレンの言葉を否定したエミリアが、訝しげに遺体を見つめる。
 「・・・この女の方、腐敗は進んでるのにお腹が膨らんでないわねぇ。
 もしかして、最初っから川に捨てるつもりだったから、男の遺体を連れてくるまで、どこか冷たい水の中ででも保存してたんじゃないかしら」
 冷静に検分するエミリアに感心しつつ、リーバーも首を捻った。
 「冷たい・・・?
 井戸か?」
 「えぇ。
 それも、市中の井戸じゃないわ。
 あれは単に上水を引いているだけだから、死体の保存なんて出来ないもの」
 「掘り井戸かぁ・・・。
 それでもたくさんありますよね」
 昔はこの江戸に井戸を掘るには莫大な金子が必要だったが、今はそれほどでもない。
 武家屋敷や寺には昔からの井戸があるし、それらをいちいち調べる権限も人手もなかった。
 困り果てていると、
 「これ・・・ジジィにはまだ言うなって言われてんだけど・・・」
 と、ラビが彼らしくもなく口を濁す。
 「相対死が起こると、真っ先に取りあげる瓦版屋があるんさ。
 今朝もこの事件の速報らしい記事で呼び込んでたけど、一体あいつらがどっからそのネタを仕入れてんのか、誰もわかんねぇの」
 「瓦版屋?」
 ちろりと、エミリアが怪しげな目を向けた。
 「念のために言っておくけど、商売敵を蹴落とそうとしてんなら・・・」
 「そう言われると思ったから、言いたくなかったんさね!」
 憮然と眉根を寄せて、ラビが不満げに言う。
 「ケド・・・これはジジィの意向に反しても訴え出るべきじゃねぇかって、俺は思ってたんさ。
 こんな仏があがったんじゃ、なおさらな」
 既に弔われた躯を無残にさらすなど、決してやっていいことではないし、それによって金子を得るなどもってのほかだ。
 そう憤るラビに、アレンも大きく頷く。
 「エミリアお嬢様!
 これ、徹底調査しましょう!
 このままじゃこの人達がかわいそうです!」
 相対死は、江戸っ子の耳目を集める事件というだけでなく、幕府が禁じる重犯罪でもあった。
 ゆえに未遂に終わると、模倣を封じるために徹底的にさらし者にされ、身分を落とされた上に、場合によっては死罪になることもある。
 しばらく考え込んでいたエミリアは、大きく頷いてラビを見つめた。
 「一旦、この事件は隠すわ。
 まずはあんたが描いた似顔絵を貼り出して、この二人の身元を突き止めるわよ。
 それで、この躯になにがあったのかを調べてから・・・こんな馬鹿なことをした連中をお縄にしてやる!」
 だから、と、エミリアは真っ直ぐにラビを指す。
 「今は決して、その怪しい瓦版屋の名前を言わないこと!
 余計な情報は判断を鈍らせるわ」
 「・・・わかったさ」
 目を丸くしてエミリアを見つめたまま、ラビが頷いた。
 「でも・・・こっちはこっちで調べてい?!
 俺だって江戸の瓦版屋さ!
 非道な商売を許しちゃおけねぇさね!」
 「いいけど、そうやって得た情報はこっちに回すのよ」
 「もちろんさ!
 その代わり、こっちにも・・・」
 「こっちの情報はあげないわよ。
 わかってんでしょ」
 「えー・・・」
 きっぱりと言われて肩をすぼめたラビが、横目でアレンを見る。
 「アレンも、リークしちゃダメよ」
 「はぁい!」
 機先を制されて、更にしょげたラビの姿に、リーバーは思わず吹き出した。


 その後、寝込んでいる奉行を診てからようやく解放されたリーバーは、きれいに掃き清められた道を進んで大きな大名屋敷の小門をくぐった。
 奥女中に恭しく迎えられ、向かった部屋では、この国の中枢を担う男が床の中で唸っている。
 「ご容態はいかがですか、ご老中」
 声をかけると、言葉にならない唸り声が返ってきた。
 代わりに、その傍らに座って団扇で扇いでやっていた女が口を開く。
 「まだよくないようなのです・・・。
 お医師殿のお指図通り、お白湯は飲んでいただいているのですけど・・・お食事は全く。
 ・・・ルベリエ様、早くよくなってくださいな」
 額に浮いた汗を、冷たい布で丁寧に拭ってやると、苛烈なことで有名な老中が、いかにもか弱げな声をあげた。
 「ずいぶん懐かれてますね、ミランダ殿」
 クスクスと笑うリーバーに、ミランダは苦笑して首を振る。
 「私なんか全然お役に立っていないどころか、ご迷惑ばかりお掛けしているのですけど・・・。
 ご老中はお優しいので、ご迷惑とおっしゃらないだけなんですよ」
 この言葉を聞いたら、城中の何人が驚きのあまり顎を落とすだろうかと思いながら、リーバーは老中の脈を取った。
 「まだお脈が早いですね。
 ちゃんと水分と栄養を摂られればいいのですが・・・」
 「はぁ・・・。
 そうなんですけど、お食事が喉を通らないそうなのです。
 今、弟が厨房にお邪魔して、お召し上がりになれそうなものを作っていますから、それならもしかしたら・・・」
 言いかけて、ふと言葉を切ったミランダが、広い坪庭に面した廊下を見遣る。
 と、間もなく規則正しい足音がして、リーバーも見知った目付が姿を現した。
 「・・・おや、いらしていたのですか、お医師殿」
 御簾をくぐって入って来た弟にミランダが微笑む。
 「ハワードさん、いい匂いですねぇ。
 さぁ、ご老中。お起きになれますか?
 とってもおいしそうですよv
 恭しく運んできた膳を枕元に置いた弟と共に老中を起き上がらせると、ミランダはリーバーを返り見た。
 「お食事の内容はいかがでしょう?
 お召し上がりになってはいけないものなど、ありますでしょうか?」
 やや不安げに問う彼女に、リーバーは首を振る。
 「病人にとてもいいものが揃っていますよ。
 目付殿、よく勉強されましたね」
 「恐れ入ります」
 礼儀正しく、しかし愛想はないハワードに苦笑し、ミランダが梅蜜の葛きりを取った。
 「ご老中、甘いものがお好きですものね。
 まずはお好きなものから召し上がってくださいなv
 まるで母親のように、にこやかに世話を焼くミランダに、城内では鬼とも蛇とも呼ばれる老中が、子供のように甘えている。
 何か信じがたいものを見た気がして、リーバーは仮面のように笑みを貼り付けたまま、老中の診察を終えた。


 「すっかり暗くなっちまったな・・・って、違うか」
 廊下から空を見上げたリーバーは、暮れたと思った空に黒い雲が広がっていくさまを、眉根を寄せて見つめた。
 「こりゃ、一雨来るな」
 耳を澄ませば遠くから、地響きのように遠雷が聞こえる。
 「勝手で茶でももらうかね」
 雨の中を帰るのは面倒だと呟き、再び歩き出したリーバーは、向こうからやってきた男に気づいて廊下の端に控えた。
 軽くこうべを垂れて行き過ぎるのを待っていると、リーバーの前で彼の足が止まる。
 「ご老中のご容態はいかがかな」
 愛想の欠片もない低い声に、リーバーは顔をあげないまま頷いた。
 「未だ万全とは申せませんが、回復には向かっております、お奉行」
 「ふん・・・」
 軽く鼻を鳴らして、南町奉行のバロウズが頷く。
 「北町のガルマーも、無理をしていただけで病んでいたというじゃないか。
 評定所で無事だったのは結局、私と寺社奉行だけのようだな」
 「は」
 ガルマーの診察をしたのは今日のことなのに、こんなにも早く情報を得ている彼を不思議に思いつつ、リーバーはただ頷いた。
 「これだけ病人が多いと、見舞いに回るだけでも一日仕事だ。
 早く治してしまうのだね」
 どこか嫌味な口調で言って、奥へと向かった南町奉行を無言で見送ってしまうと、リーバーは軽く吐息する。
 「なんか・・・好かないんだよな、あの人」
 聞こえないように口の中で呟きつつ、目をやった庭石に黒い点が落ちた。
 それはたちまち広がり、大粒の雨が廊下にまで降り込んでくる。
 「あーあ。降り出しちまったか」
 この暑さじゃ無理もない、と、肩をすくめて勝手へ向かっていると、その背に呼びかける者がいた。
 「はい?」
 振り返ると、奉行の来訪に同席を遠慮したらしいミランダが寄って来る。
 「お忙しいのに申し訳ありません、お医師殿・・・」
 名門旗本の姫であるはずなのに、ずいぶんと腰の低い彼女に、リーバーは微笑んで首を振った。
 「いえ、今日の往診は終わってしまったので、雨が止むまで茶でもいただこうかと思っていたところですよ」
 「そうですか・・・!」
 ほっとした様子で、ミランダは更に寄って来る。
 「あの・・・お聞きしたいことがあって・・・・・・」
 声を潜めたミランダに、リーバーは頷いた。
 「なんでしょう?」
 「えぇ、あの・・・ご老中が食あたりであるというお見立てに・・・その、お間違いはないのでしょうか・・・」
 言ってから、ミランダは真っ赤になった顔を振る。
 「あっ・・・あのっ!!
 お医師殿のお見立てを軽んじているわけではないのです!!
 そっ・・・そうではなくてですね、えっと・・・!
 あっ・・・あまりにも長く床についていらっしゃるので、他にお風邪でも召したのではないかと・・・!
 だってあのっ!!
 わっ・・・私、お暑いでしょうと思ったものですから、ずっと団扇で扇いでしまって、もしかしてそれでお身体を冷やされたんじゃないかと!!
 や・・・やたら冷たい布でお汗を拭いたりしてしまいましたしっ・・・!
 どうしましょう、私のせいでご老中が、余計にご病状篤くなられたんじゃないかと私っ!!」
 呆気に取られたリーバーの前で、必死に言い募った挙句、ミランダは顔を覆ってしまった。
 「すみませんっ!!
 ご老中がご回復なさらないのは私のせいだわっ!!!!」
 「や・・・それはないと思いますけど・・・」
 「はっきりおっしゃらないのはお気遣いくださってるからでしょう・・・?!
 申し訳ありませんんんんんんんんん!!!!」
 「えー・・・・・・」
 わけもわからず謝られた上に泣かれて、困惑したリーバーの顔を、蒼白い雷光が照らす。
 次の瞬間、地響きがするほどの雷鳴に、ミランダが文字通り飛び上がった。
 「こりゃ落ちたな・・・くわばらくわばら」
 大名屋敷が並ぶこの辺りは、大きな樹も多い。
 どこか近くの屋敷に落ちたのだろうと呟いたリーバーは、自分にしがみついて震えるミランダの背を撫でてやった。
 「大丈夫ですよ、このお屋敷じゃないみたいですから」
 「は・・・は・・・はい・・・・・・!」
 なんとか頷いたものの、動けずにいる彼女の異変に気づいて、リーバーは彼女の上に屈みこむ。
 「腰が抜けましたか?」
 「・・・・・・・・・すみません」
 真っ赤になって頷くミランダに微笑み、『失礼』と声をかけて抱き上げた。
 「どこか、休める場所が・・・」
 と、探すまでもなく、老中の部屋から出てきたハワードが駆け寄ってくる。
 「姉上!
 大丈夫ですか?!」
 震える姉よりも蒼褪めた目付に、リーバーが向き直った。
 「落雷に驚かれて、腰をぬかされたようです。
 少しお休みになれば回復されるでしょうから、どこか部屋を貸して頂きたいのですが・・・お女中方が見当たらなくて」
 「そう・・・ですか」
 言う間にも雷光と雷鳴は続き、怯えきって声も出ないミランダの様子に、ハワードも困惑げに辺りを見渡す。
 「おそらく、お女中方も落雷に怯えて篭っておられるのでしょう。
 ・・・おや、大名火消が出られたようですね」
 雷鳴に混じって屋敷の外から聞こえる、物々しい音にハワードが耳をそばだてた。
 「落雷で火が出ましたか・・・燃え広がらないといいが。
 念のため、ご老中にはお召し替え頂きましょう。
 いかに病人とは言え、夜着のまま火を避けることになっては沽券に関わりますから」
 奥女中を探してくる、と言い置いたハワードは、気遣わしげにミランダを見遣る。
 「・・・すみませんがお医師殿、姉を手近の部屋ででも、休ませていただけますか。
 この邸はご老中以外、ご家族の方はおられませんので、いずこを使われても問題はないかと思います」
 「はい、では・・・」
 リーバーは背後の御簾をくぐり、風通しのよい辺りへミランダを座らせた。
 「こちらでお世話しておりますので、目付殿はご采配を」
 「よろしくお願いします」
 軽く会釈し、足早に去って行ったハワードを見送ると、リーバーはミランダへ笑みを向ける。
 「姉上思いの弟君ですね」
 「えぇ・・・。
 私が至らないものですから、弟にはいつも心配をかけてしまっ・・・きゃああああああああ!!!!」
 一際大きな雷鳴が響き、ミランダが悲鳴をあげてリーバーに縋った。
 「まっ・・・また落ちたんじゃ?!」
 震え上がるミランダの背を撫でながら、リーバーは首を振る。
 「もう大丈夫ですよ。
 雷光と雷鳴の間に時間があったでしょ。
 雷雲が遠ざかっている証拠です」
 「ほ・・・本当に・・・?」
 ミランダが涙目をあげると、なぜか鼓動が跳ねた。
 「えっ・・・えぇ、雷ももうじき収まると思います。
 あとは火が消えれば・・・」
 言う間に塀の外から、鎮火を知らせる鉦の音が響いてくる。
 「ずいぶん早かったな・・・。
 どうやら小火で済んだみたいですね」
 奥に行ってしまったハワードには聞こえただろうかと、視線を巡らせていた彼の腕の中で、突然ミランダの重みが増した。
 「あ!ミランダ殿!!」
 ほっとして緊張の糸が切れてしまったのか、リーバーにしがみついたまま気を失ってしまったミランダを、慌てて支える。
 「ミランダ殿、しっかり!」
 とりあえず横にしようかと腰を下ろすが、ミランダは気を失ってもしっかりと彼の襟を掴んで離さなかった。
 「参ったな・・・」
 無理やり引き剥がすのも可哀想な気がして、困り果てた目を部屋の外へ巡らせる。
 が、彼が待つハワードもまた、多くの奥女中達に縋られ、団子のようになって身動きを封じられていた。
 「み・・・皆さん、もう雷は遠のきましたから!
 いい加減、離れてください!」
 悲鳴じみた声をあげるが、未だ豪雨のさなかとあっては聞いてもらえるはずもない。
 彼が解放されたのは雨雲が去ったのち、夏の日差しが露を照らし出してからのことだった。


 「・・・・・・ひどい目に遭いました。
 あれで譜代大名の上屋敷に勤める奥女中だというのですから情けない」
 ぶつぶつとこぼすハワードの前に座ったミランダは、倒れるのじゃないかと思うほど前のめりになってうな垂れた。
 「ごめんなさい・・・。
 私ったら、一人で倒れればいいのにお医師殿に大変なご迷惑を・・・・・・」
 「ぅあっ・・・姉上に言ったんじゃありませんよ、私はぁっ!!!!」
 大慌てのハワードに、縋るような目で見られ、リーバーは大きく頷く。
 「これも仕事のうちですから、お気になさらず」
 それに、と、坪庭を見遣った。
 「雨宿りの、いい口実になりました」
 「あら・・・」
 冗談めかした口調に、ミランダが思わず微笑む。
 「では、そろそろ失礼します」
 リーバーが一礼して座を立つと、なぜかミランダも立ち上がった。
 「姉上?」
 「ハワードさん、私、うっかりしていました・・・!
 今のうちに行っておかなければ、お店が閉まってしまいます」
 ミランダが肩越し、慌てた口調で言うと、ハワードは困惑げに眉根を寄せる。
 「お買物でしたら、誰か使いに行かせれば・・・」
 「だって・・・!
 今日は松福堂に新しいお菓子が並ぶと聞いたのですもの・・・。
 自分で見て見たいわ」
 気弱げな上目遣いで言うミランダが小さな子供のようで、リーバーは思わず漏れた笑みを噛み殺した。
 と、その様子に気づいたハワードが、気まずそうに声を潜める。
 「全部買ってくるように言えばいいでしょう」
 「お店で見たいんですぅ!」
 拗ねた口調のミランダに、リーバーがとうとう堪えかねて笑い出した。
 「・・・すみません」
 咳払いして再び笑みを噛み殺したリーバーは、懸命に表情を整えてから向き直る。
 「よろしければ、お供しましょうか?」
 「あら、でも・・・」
 遠慮がちに小首を傾げたミランダへ、リーバーが微笑んだ。
 「ちょうど、同じ通りにある薬種問屋に用事があるんですよ」
 にこりと笑みを深めて、リーバーはハワードへと視線を移す。
 「ご自宅までお送りすればよろしいですか?」
 「え・・・えぇ、ですが、幕医のあなたにそこまでしてもらっては・・・」
 普通の医者と違い、幕医は将軍直下の臣下だ。
 このような瑣末事を頼むことはできないとためらう彼に、リーバーは気さくに手を振る。
 「お気遣いなく。
 通り道ですから」
 言われて見れば確かにその通りだと思いながらも、ハワードが頷きかねていると、衣擦れの音がして奥女中がやって来た。
 「お話中、申し訳ございません。
 大名火消のご家中が鎮火のご報告にいらしたのですが、殿は未だ寝所をお出になれません。
 ハワード様にご応対願えませんでしょうか」
 「え・・・?
 しかし私は、この家の者では・・・」
 さすがに僭越ではないかと困惑する彼に、奥女中は首を振る。
 「殿のお指図でございますゆえ」
 「ご老中の・・・承知しました」
 頷いたハワードは、困惑げな目で姉を見ると、改めてリーバーに向き直った。
 「申し訳ありませんが、お言葉に甘えてよろしいでしょうか」
 「どうぞ、お役目を」
 にこりと笑って頷いたリーバーに頷き返し、ハワードは姉の手を取る。
 「絶対に、お一人になられてはいけませんよ?
 お医師殿から決して離れず、それでももし迷子になったら、大店か番屋に行ってご身分を名乗られてくださいね!
 邸の中に入るまでは、決してご油断なさってはいけませんよ!」
 「はいはい・・・」
 弟なのに、親が小さな子供に言うように言いつけるハワードへ、ミランダは苦笑した。
 「決して、離れたりしませんから」
 「えぇ・・・。
 お医師殿にも、よくよくお願いします!
 姉は歩みが遅い上に人を避けられず、人波に流されてはぐれることがよくありますので、くれぐれも見失わないようにご注意ください!」
 「も・・・もう、ハワードさん!
 これ以上はよろしいでしょ?!」
 真っ赤になって弟の手を振り解いたミランダが、ぐいぐいと彼の背を押す。
 「は・・・早く行かなければ、皆さんお待ちですよ!」
 「はぁ・・・。
 では姉上、くれぐれも・・・!」
 「わかりましたからぁっ!!」
 なおも言おうとするハワードをようやく追い出すと、ミランダは大きく吐息した。
 「お・・・お騒がせしまして・・・・・・」
 真っ赤になった顔をあげられないミランダに、懸命に笑いを堪えて肩を震わせていたリーバーが、声も出せずに頷く。
 「ま・・・参りましょうか!」
 「はい・・・」
 苦しげな声をようやくあげた彼に、ミランダは俯いたまま頷いた。


 大通りはいつもながらの賑わいで、あちこちから威勢のいい呼び込みの声がする。
 忙しく行き交う人々に押しのけられそうになる度、さりげなく導いてくれる手に安堵して歩を進めていたミランダは、ふと、大橋のたもとに並んでさらされた罪人の姿に足を止めた。
 「あら、あれは・・・!」
 目を見開いたミランダは、リーバーの袖を掴む。
 「あの・・・!
 あの二人は一体、なぜあんなことに・・・?!」
 声を詰まらせる彼女に頷き、リーバーは気の毒げに眉根を寄せた。
 「相対死未遂です。
 相対死は幕府のご法度ですから、失敗するとああやってさらされるんですよ」
 「そんな馬鹿な!」
 不意にあがった大声に、リーバーだけでなく、通りすがりの者達も何事かとミランダを見遣る。
 だが彼女は気づかない様子で、大きく首を振った。
 「あの二人は・・・幕府御用達の材木問屋の娘御と、廻船問屋の跡取りですよ!
 まだ内々の報告ではありましたけど、来年の春に祝言をするのだと言ってましたもの!
 なぜ相対死などする必要がありますか!」
 ミランダの思わぬ大声に、次々に足を止めた者達がざわめく。
 「あ・・・あなたたち・・・!」
 自身が騒動を起こしているとも気づかず、ミランダは小走りに二人へ寄った。
 「一体なぜ、こんなことになったのですか?!
 ご両親はなんにもおっしゃらないの?!」
 声をかけてきた女が旧知の姫であることに気づいて、娘が泣きはらした顔を振る。
 「違うって・・・何度言っても信じてもらえなかったんです!!
 あたしと彼・・・料亭で食事をしてたはずが、いつの間にか小舟で川に流されてて・・・!
 切った覚えなんかないのに、二人とも手首が切られて、血だらけになってて・・・!
 なにがなんだかわからないままに南町で裁かれて、こんなことに・・・!
 店は閉められて、両親も出てこられなくて・・・!!」
 泣きじゃくる娘の上に屈み込み、ミランダは気遣わしげに彼女の背を撫でた。
 「で・・・でも、あなた達が許婚だってことは、ご存知の方も多いでしょう?
 なのに・・・!」
 「それが・・・うちが一方的に破談した挙句に店同士が険悪になったなんて、瓦版にあることないこと書きたてられて・・・」
 ようやく口を開いた男に、ミランダは目を丸くする。
 「そうなんですか?!」
 「まさか!
 俺らにとっても店にとってもいい縁談だって、みんな大喜びで準備を進めてたのに、なんで断るもんですか!
 でもうちも、この一件のせいで店を閉められて出てこれずに・・・!」
 「そんな馬鹿な・・・!」
 眉根を寄せて立ち上がったミランダが、二人を監視する役人に詰め寄った。
 「一体、どういうお調べをなさったんですか!
 二人とも違うと言ってますのに、気の毒な・・・!」
 「いっ・・・いや、俺に言われましても・・・!!」
 一目で武家の娘だとわかるミランダに詰め寄られて、役人が目をさまよわせる。
 「こっ・・・この二人は、南町が月番だった時のお裁きなんで、北町は罰を引き継いだだけでして・・・!」
 「んまぁ!そんな無責任な!
 私、この事をハワードさんにお話しますわ!」
 困り顔の役人に声を荒げて、早速踵を返したミランダを、リーバーが止めた。
 「お医師殿・・・!」
 「落ち着いてください」
 冷静な声で言われ、ミランダが瞬く。
 「・・・相対死の事件に関しては、既に北町が調べ直しを」
 そっと囁かれた言葉に、彼女は目を見開いた。
 「ですがこれは、先月南町で調べた件ですから、確たる証拠がない限り、北町が堂々と調べ直しを公表するわけには行きません。
 もうしばらく、公にしないで頂きたい」
 「で・・・でも・・・・・・」
 調べが終わるまでさらされるのは、あまりにも気の毒だとミランダが眉根を寄せる。
 「・・・そうだわ!
 この二人を我が家に『お預け』にすることはできますか?!」
 「え・・・えぇっ?!町人を『お預け』にですか?!」
 あまりにも意外な申し出に、役人が目を剥いた。
 それもそのはず、『お預け』とは罪を犯した大名や旗本が、裁きが決定するまで他の大名家などに預けられることを言う。
 「あの・・・失礼ですが、いずれのご家中で・・・・・・」
 困惑しきりの役人へミランダが名乗ると、あからさまに態度が変わった。
 「お・・・お目付の・・・!
 そうですか・・・あの、お目付のお邸に『お預け』なら、どこからも異論はないと思いますが、なにしろ町人をお目付に『お預け』するなんて前例がないでしょうし、俺・・・いや、私の一存では決めかねますので、その・・・・・・」
 困り果てて目をさまよわせる彼の前に、リーバーが進み出る。
 「ちょっと、紙と筆を貸してくれるか?」
 彼が近くの番屋から取ってきたそれを受け取ると、リーバーはさらさらと書き付けて渡した。
 「小石川養生所のリーバーからだって、筆頭与力に渡してくれ」
 「え・・・あ、はい!」
 書付を一読した役人は、すぐに踵を返して駆け去る。
 一連の出来事を何事かと見守っていた町人達が、早々に飽きて散って行った頃、戻って来た役人に伴われてアレンが走って来た。
 「リーバーせんせー!
 お待たせしましたー!」
 「なんだ、お前が来たのか」
 筆頭与力が遣わしたにしては頼りないと、あからさまに表情で語るリーバーに、アレンが頬を膨らませる。
 「エミリアお嬢様からのご指示ですぅ!
 あんまり話を大きくしない方がいいからって!
 それでこちらが・・・?」
 おどおどとした上目遣いで見られて、ミランダは不思議そうに首を傾げた。
 「あの・・・お目付の・・・姉上様ですか?」
 「えぇ、はい。
 弟をご存知なの?」
 優しい声で問い返されて、アレンはこくりと頷く。
 「お目付には何度も・・・その・・・」
 げんこつされた、とは言いにくくて視線をさまよわせていると、どう勘違いしたのか、ミランダは優しく微笑んだ。
 「弟がお世話になっています」
 「えっ?!あ・・・いえ・・・こちらこそ・・・」
 あまりにも丁寧に言われて、アレンは目を丸くする。
 本当にあの、凶暴で凶悪で恐ろしい目付の姉上だろうかと訝しく思っていると、リーバーに小突かれた。
 「それよりも、お許しは出たのか?」
 問われて、アレンが慌てて頷く。
 「はい、お奉行から特別にお許しが出ました!
 でも・・・あの、これってかなりの特例ですから、あんまり公にはしちゃいけないって・・・だから・・・」
 口ごもりながら、アレンはリーバーを見あげた。
 「おさらしになっていた間に、暑さで体調を悪くした二人が牢屋敷に移送されたってことにしますんで、先生にお見立て書いて欲しいんですけど・・・」
 「俺に嘘の見立てをしろってか。
 いい度胸だな」
 思いっきり鼻をつままれて、アレンが泣き声をあげた。
 「あのっ・・・!お医師殿・・・!」
 慌てたミランダに止めに入られ、リーバーは気まずげな顔で手を放す。
 「あー・・・まぁ、仕方ないな。
 だが、こんなことはこれっきりだぞ!」
 赤くなった鼻をさするアレンの頭を撫でてやりながら、リーバーがしかつめらしく言った。
 「そゆことは、僕じゃなくて決定したお奉行に言ってくださいよ・・・!」
 ぷくっと頬を膨らませたアレンに肩をすくめ、リーバーは役人に二人を番屋へ入れるように言う。
 「暑さもこたえただろうが、傷は大丈夫なのか?」
 リーバーが砂埃に汚れてしまった包帯を指すと、縄を解かれた二人は気遣いあうように目を見交わした。
 「そうだよ、痛くないか?
 お前、昔から肌弱かっただろ?」
 「あんただって・・・小さい頃から、転んだだけでいつまでも泣いてたのに」
 「見せてみろ」
 リーバーが娘の右手首に巻かれた包帯を解くと、よほど鋭利な刃物で裂かれたのだろう、細い傷は、深くはあったがもう塞がりかけている。
 「こっちもか?」
 男の方も、やはり左手首の上に一本、糸のように走った傷が、塞がりかけていた。
 「・・・これは」
 二人の傷を並べ、じっと見つめていたリーバーが、首を傾げる。
 「念のために聞くが、相対死と裁かれたからには、何かで結ばれてたんだよな?
 どこをどんな風に結ばれてたんだ?」
 問われて二人は、互いに傷のある腕をぴったりと寄せた。
 「こうやって、腕を肘までくっつけてました」
 「赤いしごきが包帯みたいにしっかりと巻かれてたもんですから、しばらくは手の痺れが取れなかったくらいで・・・」
 「川に流されたって言ってたが、傷は水に浸かっていたのか?」
 更に問われて、二人は不思議そうに顔を見合わせてから首を振る。
 「いえ・・・舟には並んで倒れてたから・・・水には浸かってないよね?」
 「あぁ、目が覚めたらお前が血だらけだったから、びっくりして飛び起きたけど・・・うん、水には浸かってない」
 「なるほど・・・おかげで、こんなに深い傷なのに、血が止まって助かったんだな」
 水に浸かっていれば、血は固まることなく川の流れに引かれ、命に関わるほど流れ出してしまっただろうが、二人は互いの着物を血に染めた程度で止まっていた。
 しっかりと結ばれていたという、しごきが止血の役目も果たしたのだろう。
 「殺されかけたんなら、不幸中の幸いだったな」
 呟いて、リーバーは薬箱から消毒用の焼酎を取り出した。
 「すまんが、傷をよく見せてくれ」
 固まってこびりついた血を洗い流すと、二人だけでなくミランダまでが悲鳴をあげて顔を覆う。
 「あ・・・ミランダ殿、怖ければ奥にでも行って・・・」
 「すっ・・・すみません!!
 わっ・・・私はだだだ・・・大丈夫・・・ですからぁっ!!」
 そうは言いつつ、ミランダは両手を顔から引き剥がせないまま、ぶるぶると震えた。
 「おい、アレン。
 姫に奥でお茶でもお出ししろ」
 「えー!僕も見てたいー!」
 「あ、じゃあ俺・・・じゃない、私が!」
 同じく怯えていたらしい役人が、ミランダを伴ってそそくさと奥の座敷へと逃げる。
 ようやく静かになった、と、肩をすくめたリーバーは、泣きべそをかく二人の傷をじっくりと見つめた。
 「・・・なぁ、お前達。
 今ここで、互いの頬をぶってみな」
 「は?!なんでそんなこと!」
 「こいつにそんなことしたら、後が怖い!!」
 リーバーの謎の指示に、二人が大声をあげる。
 が、
 「いいから、やれ」
 強い口調で言われて仕方なく、まずは娘が思いっきり男の頬を叩いた。
 「いっ・・・てえええええええ!!
 ちったぁ容赦しろよ!!」
 左の頬に赤い手形をつけ、かっとなった男が手をあげるが、振り下ろされた手は娘の左の頬を軽くはたく程度で、白い肌にほんの赤味も差さない。
 「あの・・・リーバー先生、なにやってんの?」
 不思議すぎる要請にアレンが唖然としていると、リーバーは満足げに頷いた。
 「この傷は、お前らが自分でつけたもんじゃないって証言してやる」
 「えぇっ?!」
 二人だけでなく、アレンまでもが大声をあげると、リーバーはにこりと笑って二人を指す。
 「アレンも、二人の動きを見ただろう?
 お嬢さんの方は、いざとなったら思い切りがいいが、若旦那の方は先々のことを考えちまって、用心深い。
 二人が夫婦になったら、店は今までにないくらい繁盛するぜ」
 「いや・・・それはおめでたいことですけど、僕にはなんのことやらさっぱり・・・」
 ねぇ?と、同意を求めた二人も、大きく頷いた。
 と、リーバーはクスリと笑って二人の傷を並べる。
 「アレン、お前も武士なら、切り傷を作った時にどっちが深くなるかは知ってるな?
 普通、刃の入った場所が深く、引いた先は浅い」
 言われてアレンは、帯から引き抜いた扇子で自分の手首を切る振りをした。
 「あぁ・・・そうですね。
 袈裟懸けに斬られちゃった仏様を見たことありますけど、肋骨は砕ける程深く斬られてたのに、お腹はそう深くなかったです」
 「うん。
 二人の傷は同じ方向から切られているんだが、右側が深く、左上に伸びる程浅い。
 今二人は、右手で相手の左頬をぶったから右利きだな。
 となると、この場合は右手が自由だった若旦那が切ったはずだが、そうするとなぜかこの刃は、逆手に持たれて切ったことになる」
 「・・・いやいや。
 なんでそんな、めんどくさいことすんですか」
 扇子を逆手に持って切る振りをしたアレンが、ふるふると首を振った。
 「そう。
 それに、この傷はきれいに一本だが、アレン、お前、本物の相対死事件の仏は見たことあるか?」
 問われてアレンは、大きく頷く。
 「もちろんです。
 僕がお役目についた、最初の事件がそれでしたもん」
 「だったら手首を切った傷がきれいにひとつだけ、って、おかしいと思わないか?」
 言われてアレンは目を見開いた。
 「そう・・・ですよ!
 さっきの仏様もでしたけど、自殺する人間の傷があんなにきれいだなんて、見たことないです!
 特に死にきれなかった人なんか、深い傷の他に浅い傷がいくつもついてるのが当たり前ですよ!」
 それに、と、さっきの二人の行動を思い出し、アレンは大きく頷く。
 「お嬢さんならもしかしたら、たった一度で思い切りよく切っちゃうかもだけど、左手でここまで深く切る力はないだろうし、若旦那はもうお嬢さんの尻に敷かれてる優柔不断だから、いくつも切り傷作るはずです!」
 「ゆ・・・優柔不断って・・・・・・」
 与力とは言え、年下の少年にきっぱりと言われて落ち込む彼に、リーバーが苦笑した。
 「あぁ、その上、この傷は上を向いているだろう?
 二人並んで、若旦那が腕を切ったのなら、傷は左側が深く、右横か下に続くはずだ。
 これは、二人を並べて寝かせた第三者が、繋いだ腕を取って、上、もしくは向かいから切ったもんだ」
 「ナイス検案です、リーバー先生!!」
 大声をあげたアレンは、二人の肩を強く掴む。
 「二人は一旦、ミランダ様にかくまってもらってください!
 その間に僕が無実を証明します!」
 頼もしく請け負ったアレンは、二人の目に希望の光が指す様に、大きく頷いた。


 その後、リーバーが改めて治療した二人は衣服を変え、アレンに伴われて大目付の屋敷へと連れて行かれた。
 公になってはいけないからと、同行を断られたミランダは、当初の目的通り、甘味屋へと寄る。
 と、
 「あれ!
 姫様、今日のお供はお医者さまっちょか!」
 元気な売り子が、見知った顔同士の来店に意外そうな顔をした。
 「お二人さんが知り合いだとは知らんかったっちょー!
 それとも、目付様がご病気でもなさったっちょか!」
 気遣わしげに眉根を寄せる彼女に、リーバーが首を振る。
 「いや。
 ご老中の診察の帰りだ」
 「お帰りのついでに送っていただいているのです」
 売り子の問いに律儀に答えつつ、ミランダは並んだ菓子をうっとりと眺めた。
 「八月になったから、ほとんど入れ替わったんですねぇ・・・v
 今日はどれにしようかしら」
 楽しげに悩むミランダの隣で、リーバーは養生所に詰めている部下達への土産をさっさと選び、包んでもらう。
 「毎度ーv
 姫様、決まったっちょか?」
 問うがミランダは未だ悩んでいて、売り子はクスクスと笑い出した。
 「今日はどのくらいかかるかね!
 せんせ、他に用事があるんなら、先に済ませたらいいっちょ!
 姫様はまだだいぶかかりそうだっちょ!」
 彼女のからかい口調にはっと顔をあげたミランダが、大きく頷く。
 「そうですよ、お医師殿。
 どうぞ、薬種問屋へ行かれてください。
 私はここでまだ・・・選んでますから」
 「では・・・すぐに戻りますから、ここにいてください」
 迷子になっては困る、と、ここに来るまでにミランダの危ない足取りを見ていたリーバーが念を押した。
 「はい。
 お待ちしています」
 素直に頷いたミランダに頷き返し、菓子は店に預けたまま通りに出る。
 と、薬種問屋の暖簾の前で、リーバーはラビに呼び止められた。
 「どうした?
 なんかわかったのか?」
 店先を避けて問うと、ラビは首を振ってリーバーに詰め寄る。
 「俺じゃなくて、あんたの情報もらいにきたんさ!
 さっきアレンにばったり会って、あの二人のことちょっとだけ聞いたからさ、もっと詳しく教えてもらおうと思ったんさ!」
 「あぁ、じゃあちょっと待ってな」
 言い置いて、ようやく薬種問屋の暖簾をくぐったリーバーは、中の主に声をかけた。
 と、主は手代らに声をかけて、たちまち多くの薬や薬草の種が目の前に揃えられる。
 だがその中に、注文した覚えのない薬瓶が入っているのを見つけ、リーバーは首を傾げた。
 「主、この薬はなんだ?」
 蓋を開けようとすると、主が慌てて遮る。
 「先生、これは南蛮の通仙散ですよ!
 揮発性で、立ち昇る気を吸っただけでひっくり返る代物でございます。
 どこでお調べになったかは存じませんが、あるご家中からご注文がありましたので、伝手を辿って手に入れたものでございます。
 聞くところによりますと通仙散よりもよく効くそうで、これは養生所にもお分けせねばと思いましてね」
 早口に言いながら、主は未だ訳されていない扱い書を取り出した。
 「先生ならこのままでもお読みになれますでしょ。
 今回は御代を頂きませんのでどうぞ効能をお確かめになって、ご入用でしたらぜひ、当店を介していただければと存じます」
 商売のうまい主に、リーバーは思わず笑ってしまう。
 「じゃ、ありがたく頂くよ。
 ところでそのご家中とは?」
 その問いに、主は愛想のいい笑顔を浮かべるばかりで答えなかった。
 「またのお越しをお待ちしております。
 御用の際は、なんなりと」
 「よろしく頼む」
 苦笑して店を出たリーバーは、外で待っていたラビに蘭語の扱い書を渡す。
 「歩きながら、ちょっと読んでくれ」
 「俺は通訳じゃないっつの」
 文句を垂れつつも、情報の見返りとばかりラビは、文章を同時通訳的に訳して行った。
 「薬とかの名前はそのまんまでいいよな?
 じゃあえっと・・・薬品名、クロロホルム。吸入麻酔薬。
 不燃性だが揮発性のため、光を通さず、気密性のある容器で保存すること。
 また、使用時は患者の体重等を精査し、用量を守ること。
 大量に吸入すれば呼吸不全で死に至る場合があるため、注意のこと。
 使用後は、頭痛、嘔吐感、咳が出る場合がある。
 ・・・やだなこれ。俺は使って欲しくないさー」
 顔をしかめたラビの隣で、訳を聞いていたリーバーも難しい顔で頷く。
 「扱い書だけじゃ不十分かもな。
 死に至る可能性があるもんを、そう易々とは使えねぇだろ」
 どう扱うべきか考えながら歩を進め、リーバーは甘味屋に戻った。
 「ミランダ殿、お待たせして・・・あれっ?!」
 「先生ー・・・!
 先生が決めてやった方が、いいと思うっちょ」
 未だ悩み続けるミランダに、売り子が苦笑する。
 「姫さまー!
 も、今日は全部買ってったらどうだっちょか!
 そんで気に入ったのがあれば、また買いにくればいいっちょよ!」
 「・・・そうですね。
 ハワードさんも、全部買ってくればいいって言ってましたし」
 ようやくそのことに思い至ったらしいミランダが、新作の菓子を全種類、包むように言った。
 「毎度ーv
 やっぱ姫様は気前がいいっちょv
 見事売り抜いた彼女に、ラビが吹き出す。
 「ちょめ助、相変わらず商売がうまいさね!
 全部買わせるなんて天晴れさ!」
 「毎日瓦版を売り切ってるラビに言われちゃ、恥ずかしいっちょ。
 いつもいくつかは売れ残りを出しちまうっちょ」
 手早く菓子を包んだちょめ助は、にこりと笑ってミランダに差し出した。
 「おいしかったらまた来てほしいっちょv
 「はいv きっとまた来ますねv
 受け取った包みを大事そうに抱えたミランダに、リーバーが笑みを漏らす。
 「俺も・・・たまにはゆっくり選んでみるかな」
 「へ?」
 意外そうな顔をしたラビから、リーバーは赤くなった顔を気まずげに逸らした。


 その頃、北町奉行所に『高札を見た』と駆け込んで来た者達がいた。
 ラビが描いた、相対死した男女の生前を予想した似姿の件である。
 一組は、男が住んでいた長屋の大家と彼を埋葬した寺の住職で、病気で死んだはずの男がなぜ相対死したことになっているのか、心底驚いた様子だった。
 もう一組は、薫香を纏った艶やかな楼主とその付き人で、こちらもまた、葬儀を前に安置していた遺体が消えたことに心を痛めている様子だ。
 「いかにも遊女ではありましたが、死んでまでこのような扱いを受けるなど、哀しくてなりませんわ・・・!」
 紅涙を袖で拭う仕草があまりにも艶やかで、吟味方与力の筆が度々止まった。
 「生きている間は苦界に堕ちようとも、死ねばみな仏でございます・・・。
 早く弔ってやりたいと思いますので、どうぞ・・・一刻も早く、お返しくださいませ」
 白魚のような滑らかな手に手を取られ、一瞬で茹で上がった与力が壊れたあかべこのようにがくがくと頷く。
 「ふふ・・・v
 お裁きが決しましたら、どうぞ見世においでくださいませねv
 傾げた白い首筋に、黒く艶やかな髪が流れていくさまをうっとりと見つめながら、彼はまたがくがくと頷いた。
 ・・・だが彼女らが帰った後。
 「・・・それでこんな、わけのわかんない調書になったのね?」
 冷たい目をした令嬢の一言で、体感温度は真冬にまで下がった。
 「なにこのミミズがのたくったような字!
 後でちゃんと清書しとくのよ!!」
 きつく叱り付けたエミリアは、役宅で休んでいる父の元へまとめた調書を持って行く。
 「パパ!報告に来たわよ!」
 すだれをくぐって部屋に入ると、蚊帳をめくっていた弟が、気まずげな顔をしてこそこそと続き部屋へ逃げた。
 「・・・あんたなにやってんの!」
 「ぴっ!!」
 襟首を掴んでぶら下げると、竹の虫かごがことんと落ちる。
 「あんたなに入れて・・・」
 「ぎゃー!!!!」
 言い掛けた途端、父の悲鳴が上がってエミリアが飛び上がった。
 「パパ!どうし・・・!」
 蚊帳をめくると、セミやカブトムシの飛び交う中、足の指をクワガタに挟まれた父が悲鳴をあげている。
 「ティモシー!!!!」
 「ぎゃふんっ!!」
 強烈なゲンコツを落とされた子供が、目を回したまま蚊帳の中に放り込まれた。
 「あんたがそこに入ってなさい!
 パパ!ちょっと出てきなよ!」
 ほうほうの態で出てきた父に座布団を渡して、自分は調書を広げた傍らに座る。
 「えーっと、最初から話すね!
 今朝上がった相対死の死体がどうにも怪しいから、詳しく調べてみたの。
 そしたら先月、南町が月番の間に、やたらと相対死が起こってたんだけど、南町は『既に解決したことだから』って、罰則をまたいだ一件以外はこっちに引継ぎをよこさなかったのね」
 「あぁ、そうだろうな」
 座布団の上に胡坐をかいた奉行は、膝に肘をついて、痛む頭を抱えた。
 「ウチだって既に解決した案件をあっちに引き継いだりしない。
 それはお前だって知ってるだろ」
 「うん、そうね。
 だけど、こっちで起きた事件との関係を調べたいからって、調べ書きを見せてもらおうとしたんだけど、それは断られたの。
 こんなこと、ウチじゃあやんないわ」
 でも、と、エミリアは並べた調べ書きを扇子の先で指す。
 「たまたま行き会った瓦版屋の読売がね、今朝上がった仏様の、生前の顔を予想して描いてくれたんで高札に掲げてみたのよ。
 そしたらよっぽど似てたのね、すぐに名乗りがあったの。
 男の方は、田舎から江戸へ出て来たばかりの行商人だったんだけど、この暑さにやられたのか、元々患っていたのか先日亡くなって、親類縁者もいないから、長屋で弔ったんですって。
 これは大家さんとお寺の住職が証言してくれたわよ」
 「・・・ふぅん。
 葬式が終われば、しばらくは誰も参ることはない墓と言うわけか」
 「・・・そうね。
 掘り返しやすい条件だわ」
 病んでいてもさすがは奉行だけあって、父の指摘は的確だった。
 「もう一人は遊女ね。
 こっちは吉原の、天青楼って見世の主だって女が証言してくれた。
 ちょっと・・・あたしからは言いにくい感染病で亡くなったんで、見世としても気まずいから、内々で葬儀をすることになってたんだって。
 でも、安置している間に誰かに盗まれたんだそうよ。
 馴染み客の仕業かと思って、内々に南町に届けたんだけど、見つかったって報せが来る前に高札なんかに貼り出されてびっくりしたって」
 「それはびっくりするだろうな。
 死体同士が慕いあって、改めて相対死したわけでもあるまいに」
 「・・・パパ、それシャレ?」
 エミリアに冷たい目で見られて、奉行は気まずげに咳払いする。
 「ちなみに、行商人は吉原に行くお金なんか持ってないし、見世も男の方は見たことないって。
 人の顔を覚えるのが商売みたいな所だから、それは信用して欲しいってさ」
 「そうか・・・とにかく、今朝の相対死は間違いなく、北町の領分だ。
 これを調べるに、南町に四の五の言われる筋合いはないんだが・・・バロウズのことだ、きっともっともらしい理由をつけて、調書の検分を拒むだろう」
 わずかに頷いた彼は、座り直してエミリアに、紙と筆を持ってくるように言った。
 「―――― これを持って、瓦版屋へ行け。
 版元の老人が、全ての情報を把握しているはずだ」
 「この瓦版屋って・・・似姿を描いてくれた子の店ね。
 でもパパ、先月の相対死事件を毎回取りあげてた瓦版屋は、別の店だそうよ?」
 情報を求めて行くならそっちじゃないのかと、不思議そうなエミリアに、彼は首を振る。
 その仕草だけで頭がふらつき、吐き気までしてきて、座布団を枕に寝転がった。
 「行けばわかる・・・。
 あぁ出かける前に、そこのクソガキを牢にぶち込んでおきなさい。
 またいたずらされてはかなわん」
 「はぁい」
 素直に頷いたエミリアは、受け取った書状を懐に入れて、蚊帳の中から弟を引っ張り出す。
 「あたしが帰ってくるまで、イイ子にしてんのよ!」
 「やだああああああ!!!!ぴえぇぇぇぇ!!!!」
 すさまじい泣き声を鮮やかに無視して、弟を奉行所内の牢屋にぶち込んだエミリアは、未だ日の高い道をまた、大通りへと向かった。


 一方、屋敷に戻るはずのミランダは、なぜか小石川養生所へと向かっていた。
 傷は正視できなかった彼女だが、リーバーがラビに語る話が興味深く、もっと聞きたいからと屋敷に入るよう誘ったがそれは固辞されたため、では天下に名高き医療所を見て見たいと口実をつけて彼についてきたのだ。
 身分のある姫が来る場所ではないと言っても聞かない彼女を、しかし邪険にするわけにも行かず、押し切られるような形で同行する途中、ラビは必要な情報は全部もらったからと店に戻って行った。
 「やっぱり戻りましょうか?」
 もう話は終わったことだし、と苦笑するリーバーに、ミランダは赤くなって首を振る。
 「い・・・いえ、養生所を見たいと思ったのは本当なんです・・・!
 八代目の上様が、町の皆さんのためにお建てになった場所ですのに、旗本家の者が見たことがないというのはあまりに不遜な気がして・・・。
 あ!でも、お邪魔だとおっしゃるなら私・・・!!」
 「いえ、とんでもない」
 名門の姫であるはずなのに、気取らず生真面目な彼女に、リーバーは間違いなく好感を抱いていた。
 「きっとミランダ殿なら、みなも歓迎するでしょう」
 「そ・・・そうでしょうか・・・・・・」
 それはどうだろう、と、首を傾げたミランダと、道はいつしか二人きりになっている。
 周りに誰もいないだろうかと見渡してから、彼女はそっと囁いた。
 「あの・・・お医師殿。
 先ほど彼に言ってらしたお見立ては、本当なんでしょうか?」
 不安げな声を一旦切って、ミランダはまた辺りを見回す。
 「ご老中が・・・ただの食あたりではなく、毒を盛られたかもしれない、というのは・・・」
 その問いにリーバーは無言で頷いた。
 「そんなまさか・・・!」
 蒼褪めたミランダに、リーバーも声を潜める。
 「・・・俺もまだ確かにとは言えないんですが、さっき手に入れた薬を使えば、同じような症状が出るのではないかと考えています」
 今回の一件が、ただの食あたりではないのではないか、ということは、老中がいつまでも頭痛と眩暈、嘔吐感を訴えるために、数日前から考えていた。
 「上司に報告すると、やはり他家に往診に行っていた医師達からも、同じ報告が寄せられたそうです。
 そこで、あのような症状を引き起こす毒はないかとみなで調べていたのですが、本邦にそれらしいものがなく、悩んでいたところでした」
 だから、と、リーバーはミランダに苦笑する。
 「お見立て違いじゃないか、って言われた時は、正直ぎくりとしましたよ」
 「あ・・・あらやだ・・・!
 私ったら余計なことを・・・!」
 ミランダは火照った頬に手を当てて、恥ずかしげに俯いた。
 が、
 「で・・・でも、ご老中のお邸ではそのようなこと・・・」
 ふと気づいて問うと、リーバーは肩をすくめる。
 「さすがに、まだ証拠もないうちに、こんなことをご本人には言えませんからね」
 「そっ・・・そうですよね!
 じゃあ私も、がんばって黙っています!」
 決然とこぶしを握るミランダに、思わず笑みが零れた。
 しかし決意とは逆に、ミランダの足が段々遅くなってくる。
 「疲れましたか?
 こんなに長く歩くこと、普段はないんでしょう?」
 一所懸命隠していたことをあっさりと見抜かれて、ミランダは頬を染めた。
 「す・・・すみません・・・!
 武家の娘なのに、なんて情けない・・・・・・」
 消え入るような声で呟いた彼女が、それでも先に進もうとするのを止めるため、先にリーバーが足を止める。
 「足が痛むんじゃないですか?
 養生所までもう少しありますから、先に手当てしましょう」
 「も・・・申し訳ありません・・・・・・」
 しゃがみこんでくれた彼の肩に手を置き、片方の草履を脱ぐと、足袋には既に血が滲んでいた。
 「言ってくれてよかったのに」
 くすくすと笑いながら薬箱を開ける彼を、ミランダが赤い顔で見下ろす。
 「養生所までは・・・我慢できると思ったんですけど・・・」
 どこか言い訳がましく言った彼女に、リーバーは笑い出した。
 「大切な姉上にお怪我をさせて、目付殿に叱られるかもしれませんね」
 「ま・・・まぁそんな!
 私のわがままでついて来ましたのに、お医師殿にそんなご迷惑をおかけするわけにはまいりません!
 あ・・・あの、弟がなにか無礼なことを申しましたら、すぐに教えて下さいね!
 あの子には私から、ちゃんと事情を話しますから・・・!」
 冗談だったのに、大真面目に言うミランダに、リーバーがまた笑い出す。
 「え・・・?あの・・・・・・?」
 なぜ笑われているのだろうと、不思議そうな彼女にリーバーは首を振った。
 「申し訳ありません・・・くくっ!」
 謝ってなお、笑いが止まらない様子の彼を、ミランダは心底不思議そうに見つめる。
 答えを求める目を俯いて避け、平静を装いつつ手当てをしていたリーバーの肩から、不意にミランダの気配が遠のいた。
 「ミランダ殿・・・!」
 バランスを崩したのではと、目をあげた彼の前で、背後から口を塞がれたミランダが引き離される。
 「待て!!」
 追いかけようと歩を踏み出した彼は、自身の背後に影が差したことにも気づかなかった。
 不意に鈍痛を覚え、遠のく意識の隙間に、ミランダの声が聞こえた気がする。
 が、間もなく目の前が暗くなり、リーバーは物も言えずにその場に倒れた。


 目付の邸にお預け人を送った帰り、気に入りの甘味屋に立ち寄っていたアレンは、暖簾をくぐって入って来たエミリアの姿に茶を吹いてしまった。
 「・・・あ!
 アレンたら、こんな所でサボって!」
 「ちっ・・・違うんですよ!
 ホ・・・ホラ、エミリアお嬢様に言われて、お預け人をお目付に預けてきた帰りで・・・!
 暑かったから喉渇いちゃって、それで・・・!!」
 「だったらお茶だけいただけばいいでしょ!
 なんなの、この空になったお皿の数は!」
 言い訳しようのない証拠品を指されて、アレンが口ごもる。
 「まったく、あんたって子は!
 パパが甘やかすからいけないのよね!
 あたしが奉行だったら、びしばし鍛えてやるのに!」
 「う・・・お嬢様がお奉行じゃなくてよかったです・・・!」
 「なんですって?!」
 余計なことを言ってしまったために、思いっきり鼻をつままれたアレンが可哀想な泣き声を上げた。
 「ま・・・まぁまぁ、お嬢さん!
 ウチのお得意さんをあんまりいじめないで欲しいっちょ!」
 アレンの泣き声が外にまで響くのを遮るように、ちょめ助がとりなしに入る。
 「あたしだってお得意さんでしょ!」
 きっぱりと言ったエミリアは、乱暴に手を離して菓子の並んだ棚を見下ろした。
 「そっか、もう8月だから、新しいお菓子が出たのね。
 どれにしようかなぁ・・・・・・」
 色とりどりの菓子に機嫌を直して、エミリアは楽しげに見比べる。
 と、営業スマイルのちょめ助が、すかさず割って入って来た。
 「今月のお勧めは、葛餅でうぐいす餡をくるんだ『清流』と、ういろうの『羽衣』だっちょv
 あ、でもお奉行様の具合が悪いんなら、夏風邪封じに梅蜜の葛きりなんかどうだっちょか!」
 「は?
 なんでパパの具合が悪いこと・・・アレンー!
 あんた、あちこちでペラペラしゃべってんじゃないわよ!!」
 また鼻をつままれて、アレンが泣き声をあげる。
 「まったくもう!
 あんた、今日は残業よ!あたしのお供しなさい!」
 「ふ・・・ふぁい・・・!」
 今日はもう、何度つままれたかわからない鼻を撫でながら、アレンは頷いた。
 「うう・・・!
 僕、そのうち鼻が取れちゃうよ・・・!」
 ひくひくとしゃくりあげて、アレンは菓子を包んでもらったエミリアの後を追う。
 が、彼女は奉行所とは別の方向へと歩いて行った。
 「エミリアお嬢様?
 奉行所に帰るんじゃないんですか?」
 訝しく思って問うと、エミリアは首を振って先に行く。
 「パパの用事よ。
 ラビって子の店に行くの」
 「瓦版屋?なんでです?」
 更に問うと、エミリアは父に言われたことを簡単に説明した。
 「・・・ってわけで、その版元に用事よ。
 あんたは余計なこと言わなくていいからね!」
 しっかりと釘をさされて、アレンは亀のように首をすくめる。
 そのままとことことついて再び瓦版屋の敷居をまたぐと、ラビがにんまりと笑って迎え入れてくれた。
 「そろそろ来るだろうって、ジジィの言った通りになったさね」
 「え?」
 意外そうな声を揃えた二人に、ラビは『いいから』と手を振る。
 「うちのジジィは千里眼さ。
 お嬢さん、北のお奉行から一筆預かってんだろ?」
 懐の書状を指されて、エミリアはそれを取り出した。
 「そうよ。こちらの版元にって」
 差し出すと、受け取ったラビは遠慮なく一読して頷く。
 「うん、これなら全部用意してるさ。
 奥でジジィが待ってっから」
 来い、と、先に立って歩き出したラビについて、エミリアとアレンも奥へと向かった。
 するといつもの座敷では、涼しげな作務衣を着た老人が、のんびりと煙管をふかしている。
 「・・・よう見えたな、娘御」
 町人なのに、隠居した大名でもあるかのような堂々とした姿に、エミリアは呆気に取られた。
 「お奉行の具合はどうだ?」
 問われて我に返ったエミリアは、勧められた座布団に座る。
 「おかげさまで。
 こちらつまらないものですけど」
 にこりと笑ってエミリアが差し出した菓子折りに、老人の頬が緩んだ。
 「葛餅だ!
 ういろうに・・・おぉ、梅蜜の葛きりかv
 やはり、武家のおなごは気配りが行き届いておる」
 それに比べて、と、睨まれたラビは、聞こえない振りをしてアレンの頬をつついている。
 「全く・・・!
 いやそれよりも、奉行の要請はこれだろう」
 そう言って老人は、エミリアへ束にした瓦版を差し出した。
 「・・・よくまぁ、こんなに集めたものですね」
 瓦版など、版木ですら数日で捨ててしまうものなのに、大量に残っているとは珍しい。
 感心するエミリアに、老人は大きく頷いた。
 「江戸で一番の瓦版屋であり続けるには、自身の書いたものだけでなく、江戸中の全瓦版屋が出したものに目を通しておかねばと思っている。
 容喙屋(ようかいや)が出したものは創業以来取ってあるが、ひとまず用件に必要なものはこれだけだろう。
 今年に入ってから容喙屋が扱った件は、96件中11件が時事、17件が世評、残る68件が事件。
 このうち、33件が相対死だ」
 「・・・ひと月大体8件ってこと?
 そんな馬鹿な!
 北町が月番の時は、相対死なんてひと月に1件あるかないかよ!
 なんで奇数月はこんなに増えるの?!」
 大声をあげたエミリアに、老人はにまりと笑う。
 「さすがは裏の奉行と呼ばれる令嬢だな。
 よく把握している」
 楽しげな口調の老人は、煙草盆に煙管を叩きつけて灰を落とした。
 「南町の月番には、なぜ相対死が増えるのか。
 興味深い事案だが、さて、この事件は南町の調べ書きに載っていると思うか?」
 「え・・・?
 そりゃ・・・載ってるでしょ、当然。
 相対死は天下のご法度だもの、ちゃんと調べて裁かないと・・・」
 「あぁ、『本物の』相対死であればそうだな」
 意味深な言葉に戸惑うエミリアの前で、彼は土産の葛餅を嬉しげに頬張る。
 「今朝・・・あがったのだろう・・・奇妙な死体が・・・おぬしらみんな・・・見たのだから・・・全部話せ」
 「ジジィ!
 食うかしゃべるかどっちかにするさ!」
 茶を差し出したラビが、呆れ顔のまま今朝見たことを詳しく語った。
 「・・・ってのが、死体の様子と検案さね。
 その後、俺が描いた生前の似顔絵で、進展があったんじゃね?」
 問われてエミリアも頷く。
 「死体の身元が割れたの。
 奇妙なことに二人には、生前に接点がないのよ」
 そう言って彼女が記憶していた調べ書きの内容を詳しく話すと、老人は満足げに頷いた。
 「では、もう一つ知っておきたいの。
 アレン、番屋で騒動が起きたらしいな。
 ラビが少しは聞いたようだが、実際に見たお前からも聞きたい」
 話せ、と言われたアレンは、葛餅を頬張ったまま無言でいる。
 「?
 どした?さっきからお前、やたらとおとなしいさね」
 鬼の霍乱か、と、ラビにまた頬をつつかれても、アレンは声もあげずにぷるぷると首を振った。
 「なんで黙ってんさ、お前?」
 「あんた!聞かれたことには答えなさいよ!」
 膝を打ったエミリアの声にびくっと震えたアレンは、おずおずとした上目遣いで彼女を見上げる。
 「だ・・・だって、お嬢様が黙ってなさいって言ったんじゃないですか・・・!」
 「空気読みなさいよ!
 今は黙ってちゃいけない時でしょ!」
 苛立った口調で言われて、怯えたアレンは罪人としてさらされていた二人の身元や傷の状況などを詳しく語った。
 「リーバー先生の言う通りだと思います。
 だから僕も納得して、お目付のお屋敷にお預けしました」
 「それで二人は、無事に目付の屋敷に保護されたのだな?」
 「えぇ、お目付はお留守でしたけど、事情を話して家中の方にお願いしました。
 姉上様がすぐに戻られるだろうってお伝えしましたけど・・・」
 「うん、それからすぐじゃないけど、戻ったさね。
 送ってったリーバーと一緒に俺もお屋敷に招かれたんけど、ジジィに知らせなきゃ、って思ったんでそれは断って、リーバーとも途中で別れて帰ってきた」
 知りたいことは聞いたし、と、ラビは南蛮渡来の麻酔薬の話をする。
 「へぇ・・・!
 南蛮にはそんな薬があるのね。
 でも確かに、あたしも使って欲しくはないわぁ・・・」
 副作用を知らなければ使って欲しいと言っただろうが、と、眉根を寄せたエミリアの前で、老人は難しい顔をした。
 「・・・どうやらあの薬の扱いを誤ったようだな」
 「!
 ジジィ、クロロホルムのこと、知ってんさ?!」
 「く?くっくろ??」
 驚くラビの隣で、アレンが不思議そうな顔をする。
 「そのくろ・・・?黒?なんとかって、有名なんですか?」
 問うと、老人は無言で茶をすすり、かなりの間を置いてから居住まいを正した。
 「・・・このことは、決して外部に漏らすな。
 エミリア殿も、父上に話す時は重々周りに気をつけ、父上以外の耳に入らぬよう、気をつけられい」
 重々しく告げられて、全員が居住まいを正す。
 「・・・この薬は、確かに便利ではあるが、副作用も強い。
 ゆえに使用を誤ると、命を落とすことにもなりかねん。
 ために普通は避けるのだろうが・・・南蛮の進んだ医術に学びたいと思う者や、現在の本邦医術に対して疑念を抱く者は手に入れてみたいと思うだろう。
 ・・・そんな一人に、尋ねられたことがある。
 瓦版の版元としてではなく、古今東西の書籍蒐集家として、好事家の集まりでのことだ。
 その人物は・・・とある重職の方で、南蛮の技術だけでなく、医術や薬にも高い関心を持っておられる。
 その御仁に尋ねられたのだ、古今東西の記録を見比べても、麻酔を用いて外科手術をしたのはどうやら本邦が初のようだ。
 だが、西洋にも麻酔はあるだろう。
 ぜひ通仙散とその効能を比べてみたいから、伝手があれば紹介してくれないか、とな」
 「じゃあ、ジジィがあの薬種問屋を介して・・・・・・」
 声を潜める孫に、彼は小さく頷いた。
 「確かにあの薬は、薬種問屋を介して私の伝手で入手したもの。
 その一部は小石川へ渡すことを、その御仁も了承していた。
 だがどう扱いを誤ったものか・・・もしくは無断で持ち出されたものか、それが城中へ持ち込まれたらしい」
 「お城・・・まさか!」
 病床に臥せった父の症状を思い出し、エミリアが目を見開く。
 「確か・・・症状はまず、大奥で蔓延したはず・・・!
 だったら大奥にご奉公の誰かが・・・」
 「それ以上は言うな」
 厳しい叱声に、エミリアが口をつぐんだ。
 「城中にどの程度の量が持ち込まれたのかはわからぬが、あれは甘い匂いがするのでな、勝手が知らず、料理に使ったのかも知れぬ」
 「まぁ・・・結構な人数倒れたっつーんだからそうだろうけどさ、あれは揮発性で、その気を嗅ぐだけでひっくり返る代物だって言ってたさ。
 そんなん、食う前に飛んじまって・・・・・・あ」
 目の端に映った竹筒に、ラビは言葉を切る。
 「・・・夏だもんなぁ」
 ひょい、と竹筒を取りあげたラビは、器に中身を押し出した。
 筒の片側には糸が格子状に張り巡らしてあり、反対側から押し出すと紐状になった葛が器の中でうねる。
 「アレン、梅蜜取って」
 声をかけると、ういろうをつまんでいたアレンが、小さな容器を投げてよこした。
 「ま、お城で使われてんのはもっといい入れ物だろうけど、つまりこういうこったろ、ジジィ」
 透明な葛きりの上に、まだ冷たい梅蜜がとろとろと落ちて、甘い匂いを漂わせる。
 「うむ。
 城中には、富士の氷室から届けられた氷が存分にあるそうな。
 だが本丸と大奥の勝手は違っても、城中の氷室は一つ。
 生ものや冷菓はそこでのみ冷やされただろうし、この暑いさなか、冷たい菓子は何よりの馳走であろうな」
 誰もが手を出したくなる物に混入されていたのだと、彼はほのめかした。
 「そっか・・・。
 冷たい蜜に入ってたりすれば気は飛ばずに、薬効がそのまま残るんですね」
 大きく頷いたアレンが、葛きりをすするラビを気味悪そうに見つめる。
 と、俯いて考え込んでいたエミリアが、ふと顔をあげた。
 「・・・うん、それはいいんだけど。
 あたしは相対死事件のことを聞きに来たのよ。
 なんで南蛮渡来の麻酔の話に摩り替わってるの?」
 早口に言えば、老人は『慌てるな』と茶をすする。
 「過去から順に、追って行こう。
 まずエミリア殿は、今朝の相対死も含めて、南町が月番の間に相対死事件が多いことを訝しく思ったのだな」
 「え・・・えぇ、そうよ。
 まさか、ひと月に8件近くも起こってるなんて思わなかったけど」
 膝の前に積み上げられた瓦版を見下ろして、エミリアは眉根を寄せた。
 「そう言えばさっき、変なことを言ってたわよね?
 南町が月番の時に起こった相対死事件が、南町の調べ書きに載っていると思うか、って・・・」
 首を傾げたエミリアに、老人は傍らに置いていた別の瓦版屋の束を差し出す。
 「ではこの事件はどうだ?
 どれも北町が月番の時に江戸で評判になった記事だが、北町の調べ書きには載っているかな?」
 ぱらぱらとそれをめくったエミリアは、やや苦笑して首を振った。
 「化け猫騒ぎに人情話・・・。
 こんな荒唐無稽な噂話に、奉行所はいちいち構いやしないわ。
 ・・・あぁでもこの、今日の瓦版ね。
 人さらいが出るって訴えはいくつか来ているから、これは捜査中よ。
 下手人が捕まってないから、まだ調べ書きは作ってないけど」
 「そう。
 瓦版は、嘘や噂を書き立てることもある。
 どう書いてどう売るかは、版元と読売の良心次第ということも多いでな。
 やりすぎた記事に苦言を呈したこともある」
 「・・・ま、事実だけを書いてる版元なんて、ウチの他には片手の指ほどもないさね。
 大げさに書いたり水増ししたり、創作だって当たり前さ。
 それでなんか文句が来たら、知らん振りするか芝居の宣伝だって言い張るかだし、そもそも江戸っ子だって、全部を頭っから信じてるわけでもない。
 センセーショナルな読み物であれば、それが嘘かホントかなんてどうでもいい、って奴も多いさね」
 どこか拗ねた口調の孫に笑みを浮かべ、老人は再び煙管に火を入れる。
 「・・・つまり、ひと月に『実際に』起こった相対死事件は、瓦版で取り上げられた数よりだいぶ少ないのだ」
 ぷかりと煙草をふかして、老人は続けた。
 「だが、それでも北町が月番の時に比べれば多い。
 これは、どういうことかわかるかな?」
 問いに対し、口を引き結んだエミリアとは逆に、アレンがぽんと手を叩く。
 「北町奉行所はきちんと調べて真偽をはっきりさせるから瓦版に書くには面白みがないけど、南町はその点がゆるーいから、賄賂次第で面白い話が作り放題ってことですか!」
 北町所属のアレンが南町に対してライバル意識を持っているのは当然だが、その意地悪な言い方にエミリアがため息をついた。
 「・・・あんたはまったく、言いにくいことをペラペラと」
 また怒られるだろうか、と、首をすくめたアレンに首を振り、エミリアは老人へ目を向ける。
 「大きな声じゃ言えないけど・・・南町は、今朝あがったような捏造をお目こぼししてたってことね。
 今回も本当は、南町が月番の間に打ち上げられるはずだったんだわ。
 でも、川に捨てた時に何かに引っかかったかで、月をまたいでしまった。
 連中は焦ったでしょうね」
 探し回ったんじゃ、と予想するエミリアに、しかし、ラビは忌々しげに首を振った。
 「連中のしたたかさは予想以上さね。
 北の同心達が検分してる間に、用意してた瓦版を売り払ってたさ」
 「う・・・わぁ・・・・・・」
 信じられない、と、眉根を寄せたアレンの頭を、ラビはくしゃくしゃと撫でる。
 「お前はそんな瓦版屋にお目こぼしするような、悪い子になるんじゃないぞ」
 「そりゃもひろん・・・」
 「大丈夫よ。
 あたしがちゃんと教育するから」
 エミリアにきっぱりと言われて、アレンはぴちぴちと目を泳がせた。
 その様に笑みを浮かべながら、老人は煙草をふかす。
 「・・・さて、これで相対死事件の多発と今朝の死体同士が相対死した謎は解けたわけだ。
 次に、許婚同士が何者かによって相対死未遂に仕立てられた件だが」
 「あぁ・・・。
 南町から罰則を引き継いだ件ね。
 これは相対死じゃなくて傷害事件・・・ううん、殺人未遂だったのよね?」
 これから調べなきゃ、と、腰を浮かそうとするエミリアを、老人が制す。
 「これも既に、理由はわかっている」
 「え?!ホントに?!」
 座り直したエミリアに詰め寄られながらも、老人は淡々と頷いた。
 「まず、この二人が狙われたのは、彼らの店が幕府御用達の看板を掲げていたためだ。
 今朝ここには、エミリア殿も追っていた若君の件で、元お側用人の隠居がおいででな。
 ご子息の失踪に慌てふためいた理由の一つとして、今、寺社奉行が関わっている普請の件をあげておられた。
 なんでも莫大な金子の動く普請らしく、寺社奉行にはその入札を巡って、賄賂も差し出されれば脅しも来ると言った様子で、なんとも騒がしいことだそうな」
 そこまで言われれば、事情に疎いアレンでも裏で起こった出来事を察することができる。
 「あの娘さんは、材木問屋の大店のお嬢さんで、若旦那の家は廻船問屋の大店ですもんね・・・!
 普請を奪いたいどこかのお店・・・もしくはいくつかのお店が、一番入札に近い店の評判を落として閉めさせたんだ!」
 跡取り達が相対死未遂として捕縛され、さらされては、御用達を取り上げられても文句のつけようがない。
 「あの二人・・・言い分を聞き入れてもらえなかったって嘆いてましたけど、そもそも公平なお裁きじゃなかった可能性があるんですね!
 吟味方が賄賂を受け取っていたとしたら、言い分なんて通るわけないもん!」
 酷い、と、怒りに頬を染めるアレンの頭を、ラビがまた乱暴にかき回した。
 「吟味方・・・・だけかね?」
 もの言いたげな目で見つめられて、エミリアは悔しげに唇を噛む。
 「下手人を・・・あげなきゃ・・・!」
 決意と共にこぶしを握った彼女へ、老人は笑みを浮かべた。
 「手がかりはある。
 二人は料亭にいる間に昏倒し、気づいた時は川に流されていたとか。
 その料亭とはいずれか。
 もしかすると、料理に何か混入されたのではないか?
 更にもしかすると、それは城中で使われたものではないか?」
 「城中で・・・・・・」
 だとすれば、それを入手できる人間は一人しかいない。
 南町奉行所の月番に起こる事件を見逃し、相対死事件をでっち上げて御用達を取り上げ、なおかつ城中に出入りして評定所の膳に薬を入れることができる者は、この江戸にたった一人だった。
 「南町奉行」
 低い声が、そっと囁く。
 誰の声かは聞き取れないままに、みなが顔を見合わせた。
 「・・・さて。
 それが事実としても、あの御仁のことだ、証拠は残すまい。
 だが犯罪とは困ったものでな、一度うまく行くと味を占めて、何度でも同じ方法を使うものだ。
 そこでエミリア嬢、現在捜査中だと言う、人さらいの件だが」
 「まさかそれもわかったの?!」
 まさしく千里眼だ、と驚くエミリアに、彼はどこか得意げに笑う。
 「今朝、ラビが買ってきた瓦版にはこうある。
 ―――― この頃江戸に横行する人さらひなるもの、捕らえんとて奉行所も多くの人手を割けり。
 当方独自に調べを試みたれば、長きに見張りたる甲斐あって、おなごの悲鳴を聞きたる。
 すかさず駆けつけそうらへども、既に下手人は闇へと消へたり。
 命からがら助かったおなごの言ふ方へ駆けたれども、そこには我と同じく見張りたる者と同心数名があるのみ。
 いかにして消へたか、摩訶不思議・・・とな」
 「同じく見張りたる者・・・って・・・・・・」
 唖然とするエミリアに、老人は笑みを深めた。
 「まさにこの瓦版屋と『同じく』する者だ。
 いるだろう、現場にいても怪しまれない人間が。
 事件を追っている瓦版屋にしてみれば、いて当然の人間が」
 その言葉に、ラビとアレンが膝を打つ。
 「・・・同業者か!
 そうさ瓦版屋なら、どこにいたっておかしくないさ!」
 「同心だって、しつこい瓦版屋がいるなって思うだけで、不審とは思いませんしね!」
 「あぁ。
 私の苦言など洟も引っ掛けず、好き放題に事件を起こしては、自ら記事に仕立てて儲けていたのだろう。
 しかも忌々しいことに、奉行とつるんで彼に不都合な人物の評判をこれでもかと貶めた。
 相対死未遂を面白おかしく江戸中に広めたようにな」
 そう言って彼が引き抜いた瓦版には、あの二人の事が厭らしく書き立ててある。
 「・・・さらった善男善女はどうしたの。
 まさかなんらかの・・・例えば、また相対死事件のネタがなくなった時のために、どこかに隠されてるの?」
 「そうさな・・・。
 例えば、奉行の実家にある井戸の中とか・・・の・・・」
 途端、怒り心頭に発したエミリアが、音を立てて立ち上がった。
 「外道!!
 許すもんか!!」
 今にも飛び出していこうとしたエミリアの足を、煙草盆に煙管を叩きつける甲高い音が遮る。
 「同心を連れてゆけ。
 どうせなら、一網打尽にするがいい」
 止めるどころかけしかける老人に、一瞬気を殺がれたエミリアが、にやりと笑った。
 「おじいちゃん、連中の居場所にも心当たりがあるのね?!」
 片膝をついて詰め寄れば、彼は白々しく茶をすする。
 「あまり、好きではない呼ばれ方だの」
 「あら失礼、お・じ・さ・まv
 茶目っ気たっぷりにウィンクしてやると、くすりと笑みが漏れた。
 「さて、最後の一件だ。
 ラビは目付けの姉上の招待を断ったものの、彼女はリーバー殿と共に小石川へ向かった」
 「は?なんでですか?」
 アレンの問いに、ラビは首を振る。
 「なんか、小石川養生所が見たいからってついてきてたけど、どうしてそんな気になったまでかは知らんさね」
 言いながら祖父を見やると、彼は肩をすくめて茶器を置いた。
 「それは、後で本人に聞けばよいだろ。
 それより急がねば、優秀な医師を一人、永遠に失うことになるぞ」
 「え?!」
 一斉に詰め寄った三人へ、彼は意外そうに目を見開く。
 「・・・なんだ、私の話を聞いておらなんだか?」
 「聞いてたわよ!
 でもなんでリーバー殿・・・が狙われるの?!」
 さすがにリーバーと断定するには自信がなかったのか、声を詰まらせたエミリアに、彼はため息をついた。
 「よいかの。
 小石川養生所は、単に庶民のための無料療養所ではない。
 あそこでは薬草の栽培や研究も行われている。
 時には、南蛮渡来の薬の調べも行うのでな、今、薬種問屋が分けてやった例の薬を調べられては困るだろう。
 賄賂で片のつく医者であれば問題なかったが、困ったことにあやつは、曲がったことが嫌いな性質だと知れ渡っている。
 確実に姫を手に入れるためにも、ここは殺しておいた方が安心だろうな」
 「・・・え?
 姫って・・・姉上のことですか?手に入れるって、誰が?」
 目を丸くしたアレンの問いに、彼は唖然と口をあけたまま、無言になった。
 が、ややして気を取り直したように咳払いをする。
 「・・・そうか。
 私とお前達との間には、情報量に差があるのだな」
 一人頷き、厳しい目で三人を睨んだ。
 「よいから行け!
 今ならまだ、助けられようぞ!!」
 「え・・・だから・・・」
 「どこに・・・?」
 困惑しきりのエミリアとアレンに頷き、老人は常に持ち歩いている帳面に筆を走らせる。
 「ここだ!
 なぜわかったかは、後で教えてくれる!急げ!」
 急かされて出て行く二人について行こうとしたラビは、しかし、祖父に引き止められた。
 「ラビ、我らは我らの仕事をするのだ」
 言うや凄まじい勢いで筆を走らせる祖父に頷き、ラビは職人を呼びに走った。
 掻き集められた職人達は、版元の書いた文字をあっという間に版木に掘り込み、すかさず刷り上げられた瓦版は、読売達の手に渡った。
 「さぁ!
 市中に第一報をもたらそうぞ!」


 ・・・目を開けると、辺りは薄暗くなっていた。
 日が落ちたのかと思ったが、粗末な板壁の隙間から、細い糸のような光がいくつか見えて、どこかの小屋にいるのだと察する。
 胸に押さえつけられるような圧迫感があったがそれよりも、後頭部に感じる痛みの方が酷かった。
 「一体・・・何が起きたんだ・・・?」
 うめき声を上げつつ身を起こそうとしたが、身体の自由が利かない。
 「ちくしょ・・・なにが・・・」
 乗っているのかと、頭の痛みを堪えながら見下ろすと、硬く目をつぶったミランダの顔がすぐ傍にあった。
 「ミ・・・!」
 「あれ?!もう起きちゃったんだぁ!」
 人を小ばかにしたような、勘に障る声がすぐ傍からあがる。
 目だけを向けると、数人の男達がにやにやと厭な笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。
 「お前・・・容喙屋の版元じゃなかったか?」
 南町奉行所に遺体の検案に行った際、うろうろしていたのを何度か見たことがある。
 まだ若いがかなりのやり手で、容喙屋は彼の手腕によって大きくなったのだと、同心達が教えてくれたこともあった。
 「そ、ペックだよ。
 よろしくね・・・っても、あんたに今後世話になることなんかないけどね」
 にやにやと笑う彼に、リーバーは頭の痛みのせいだけでなく顔をしかめる。
 「なんでこんなこと・・・」
 苦しげなリーバーの口調に、ペックはわざとらしく首を傾げた。
 「わっかんないの?
 あんた、優秀だから鬱陶しがられてんのv
 色々嗅ぎ回られちゃ迷惑な、さる御方のご依頼で、利用できるだけ利用しちゃおうってことになったんだよんv
 「さる御方・・・?」
 その言葉に一瞬、バロウズの顔が閃いたが、何の根拠もないことだと首を振る。
 「ミランダ殿にはなにを・・・!」
 リーバーの胸に頭を置いたまま、身動ぎもしない彼女が気になって問うと、ペックだけでなく、周りの男達も笑い出した。
 「あんたももらった、例の南蛮渡来の麻酔でぐっすり眠ってるだけだよ。
 この後、どんなことになるかも知らないで暢気だよね」
 「何をする気だ!!」
 「無理・心・中v
 ペックのおどけた口調に、周りがどっと笑い出す。
 「死体を盗んだり掘り返したりして相対死を捏造してもさ、最近、飽きられちゃったのか、食いつきが悪いんだよね。
 なのに、つまんない時事しか売らない小僧は毎日完売するし、隙間記事を扱ってるトコは身体張って注目集めてるし?
 ボク達の苦労が報われないなんて、ありえないでしょ。
 だから、もっといいネタちょうだいよ、って催促したら、このお姫さんを売り渡してくれたんだよねェv
 にんまりと笑って伸ばしてきたペックの手からミランダを庇うように、リーバーが身動ぎした。
 「おや、もしかしてあんたも、この姫さんの魔性に取り憑かれちゃったの?」
 その言葉にまた、周りが不快な笑い声をあげる。
 「魔性・・・だと?!
 この人は・・・!」
 反駁しようと身を起こした途端、ミランダがリーバーの胸から落ちそうになって、慌てて身体を戻した。
 「ホラホラ、やっぱり取り憑かれてる。
 おとなしそうな顔をして、ご老中は誑かすわ、北町奉行は誘惑するわ、更にはこんな、前途有望な若医者まで毒牙にかけて、とんでもない魔性だよ。
 さてはこの女性(にょしょう)、妲己の再来か玉藻の前の生まれ変わりか・・・って、どうよ、この書き出し。
 センセーショナルかなぁ?」
 調子をつけるペックを、周りの男達が囃し立てる。
 「ま、妲己か玉藻の前かって程の傾城とは言えないけどね」
 しゃがみこんだペックが、硬く目をつぶったままのミランダの顎を取り、上向かせた。
 「うーん・・・。
 もう10年早く会いたかったなぁ。
 残念なことに、育ちすぎたよね、お姫様」
 肩をすくめた彼が、興味を失ったように手を振る様を、リーバーが睨みつける。
 と、彼はわざとらしく震え上がって見せた。
 「おぉ怖い怖い!
 意外と喧嘩っ早いね、あんた。
 そうだそうだ、怒らせちゃったお詫びに、面白いこと教えてあげるよ!
 このお姫様、結構いいお家柄なのに、なんでこの年まで独り身か知ってるぅ?
 それはまさしく10年前、流行り病でご両親を亡くしてしまってねぇ。
 跡取りは当時まだ10歳の弟だよ!
 後見人の座を狙った家から、縁談は降るようにあったそうだけどね、弟君が一人前になるまでは、って、まだ16歳の姫様が、誰にも家を任せずに一人で切り盛りしたんだってさ!
 おかげで弟君はご出世だけど、姫様は未だ独り身でお気の毒ってことさ。
 ね?
 まずはこんな可哀想な話を冒頭に持って来てだね、幼く可憐だった姫様が、親類縁者の陰謀に巻き込まれて、幕府の中枢を担う男達を手玉に取る魔性になるまでの姿を連載しようと思うんだ!
 一番気を引くところで『待て、次号!』なんてやったらウチの売り上げまた伸びるよ!
 楽しみだなぁ!」
 「外道が!!」
 思わぬ大声で怒鳴られて、間近にいたペックが目を丸くする。
 「・・・すごいね、キミ。
 普通、あんだけ殴ったら夜まで目を覚まさないのにすぐ起きるし、その上怒鳴ることも出来るなんて。
 どういう身体してんの?」
 ちっとも応えた様子もなく、またヘラヘラと笑い出した彼をリーバーが睨んだ。
 「ミランダ殿は・・・ただ懸命にご老中の看病をしていただけだ!
 それに、北町奉行を誘惑だなんて、あるわけがない!」
 「やだねぇ・・・知ってるよ、そんなこと!」
 真剣なリーバーに対し、ペックはからかうように手を振る。
 「だけどそんな事実、面白くないじゃない!
 瓦版はね、嘘八百並べてでも、センセーショナルな話題で庶民を楽しませるのが役目だよ?
 それに今回は、ご老中お気に入りの姫様を貶めるだけ貶めて、台頭しつつある弟君ごと失脚させようって作戦なんだもん!
 どこにもお嫁に行けないようにした後に、恩着せがましく縁談を振ってやれば、相手がどんな奴だって飛びつくのが当然でしょ?
 弟君だけでなく、ご老中の覚えもめでたくて一石・・・何鳥だろ?数えた?」
 不意をつかれて、周りの男達は慌てて首を振った。
 「まぁいいや。
 そういうわけで、ボクらにとっていいこと尽くめな状況を作るためにも、キミには死んでもらわなきゃいけないんだよね」
 なんでもないことのように言って、ペックはミランダの抱え帯を解く。
 「あぁー・・・抱え帯かぁ・・・。
 やっぱりさ、手を繋がせるなら紅いしごきが一番だよね。
 色っぽいし絵になるし。
 こないだ川に流してやった二人は、町人だけど金持ちだからさ、お嬢さんはちり緬のいいしごきをしていたよ。
 黒地の帯の下で、柔らかいしごきがひらひら揺れてるのって可愛いよね。
 その点、抱え帯は用途は同じでもくけてあるからさ、しっかり結ぶのって力いるんだ」
 ペックがぺらぺらと喋る間に、屈強な男達が未だ身体の動かないリーバーを背後から押さえつけた。
 その弾みで、ごろりと床に転がったミランダの腕とリーバーの腕は、既に結ばれている。
 ずっと身動きが取れなかったのはこのせいかと、ようやく気づいたリーバーにペックが屈みこんだ。
 「さて、先生?
 実はボク、相対死話のラストを決めかねているんだ。
 結果は姫様が一人生き残って、身分を剥奪されそうになった所をさる御仁に救われる、って大団円なんだけどね、先生が姫様の腕を掻っ切って自分の胸を刺すか、姫様があんたを刺した後に自分の腕を切るか、どっちがいいかな?
 それによって、話の流れも変わるでしょ?」
 「よくもそんな・・・いい加減なことを!!!!」
 激昂したリーバーがペックに掴みかかろうと身を乗り出し、彼を押さえる男達が危うく引きずられる。
 「・・・びっくりした!
 あんた本当に医者?!」
 相撲取りじゃないのか、と、口こそ減らないものの、ペックに先程までの余裕はなかった。
 「この先生、かなり危険だよ!
 先に殺っちゃおう!」
 慌てた口調のペックに呼ばれ、酷薄そうな顔をした男が匕首を手に進み出る。
 よく砥がれた刃が、薄らぎ行く夏の残照を白く弾いた。
 「っ・・・!」
 逃げようにも、屈強な男達に押さえつけられたリーバーに逃げ場はない。
 彼の目がこの世の名残とばかり、眠るミランダを見つめた。
 その哀しげな様に、ペックの鼓動がわくわくと跳ねる。
 「バイバイ、先・・・」
 浮き立つ声音で言いかけた時、
 「御用だああああああああああああああああああああああ!!!!」
 突如沸いた怒号と共に、粗末な小屋の戸が蹴破られた。
 「北町与力、アレン・ウォーカーである!
 貴様らの所業は全て見せてもらった!神妙に縛につけ!!」
 噛まずに言えた、と、嬉しげに頬を染めたアレンの傍らを、捕り方の同心達が駆け抜ける。
 「全員、捕らえました!」
 同心達の大声に頷き、アレンは囚われの二人へ駆け寄った。
 「先生!!
 大丈夫ですか?!」
 問うたリーバーは蒼褪めてはいたが、力強く頷いてみせる。
 「俺よりも、ミランダ殿が心配だ!
 アレン、解いてくれ!」
 言われるまでもなく、アレンは既に、リーバーとミランダを繋ぐ紐を解きにかかっていた。
 「姉上様、大丈夫でしょうか?
 あの黒?黒の薬使われたんでしょうか」
 「おそらくな・・・」
 容喙屋の一味がどの程度の量を使ったかはわからないが、彼らがミランダを殺すつもりではなかった以上、クロロホルムは麻酔として使われたはずだ。
 「眠っているだけだろう・・・。
 薬の加減は、今まで散々試しただろうからな」
 道に罪人としてさらされていた二人の姿を思い出し、リーバーが苦々しげに呟いた。
 「じゃ、姉上様を運ぶのに、戸板を持って来てもらいましょうね。
 すみませー・・・!」
 「いや、いい」
 アレンの声を遮り、リーバーは自由になった腕で、ミランダを抱え上げる。
 「リーバー先生、大丈夫ですか?
 怪我はしてないんですか?」
 気遣わしげなアレンに、リーバーは『大丈夫』と微笑んだ。
 ゆっくりと歩を踏み出すと、その足にミランダの抱え帯が絡む。
 「これ・・・証拠品になるのかなぁ?
 とりあえず、預かっちゃっていいですか?」
 「その判断は、与力殿にお任せしよう」
 よろしく、と、リーバーにウィンクされて、大仕事を果たしたアレンは、嬉しげに頬を染めて頷いた。


 ―――― 翌朝。
 「空前絶後の大事件さ!
 この頃江戸に多発した相対死の真相と、お城で流行った病の元が、裏で繋がってたって言うから驚きさ!
 更には相対死を図って生き残った気の毒な二人が、実は無実だって言うから驚きも二倍さね!
 さぁてその顛末は・・・?!
 詳しくはこれに書いてある!さぁ買った買った!!」
 威勢のいい呼び込みに集まった江戸っ子達が、手にした小銭を渡しては、奪い合うように瓦版をもぎ取っていく。
 あっさりと完売御礼した読売は、得意げに手を払った。
 と、
 「さすが江戸一番の読売だって、自慢するだけのことはあるわね」
 買ったばかりの瓦版に目を落としていた女が、顔をあげてにこりと笑った。
 「お嬢さんがわざわざ買いに来てくれるなんて、嬉しいさv
 お立ち台から飛び降りたラビに、エミリアはウィンクする。
 「そりゃあ、どんな記事になったのか、気になるもの。
 お上に対して不都合なことなんか書いてやしないかってねv
 冗談にしては強い口調にラビが苦笑すると、再び瓦版に目を落としたエミリアが、何度も頷いた。
 「あなたのおじいちゃんが犯行現場を示してくれた時・・・悪いけど、半信半疑だったのよね。
 確かに頭のいい人なんだってのはわかるけど、さすがにそんなことまでわかるわけないって思った。
 でも・・・昨日は一晩、寝ないで考えたのよ。
 容喙屋の一味は依頼主の命令で、ミランダ殿とリーバー殿、どちらもさらうつもりだったのよね。
 でもミランダ殿が外出する時は、いつも誰かが傍にいるし、その他は自分かご老中のお邸の中に篭っている彼女を誘拐するのは難しい。
 それに対してリーバー殿は、毎日ご老中のお邸と小石川養生所を往復するってことがわかっている。
 だから奴らはあの日、養生所へ向かう道の、人通りのない場所に潜んで、リーバー殿を待ち伏せてたんだわ。
 そしたらなんと、ミランダ殿までついてきちゃって、彼らにとっては大ラッキーだったわけね」
 寝不足のためか、赤い目をしぱしぱと瞬かせるエミリアに、ラビが笑って頷く。
 「別々にさらうつもりが、鴨がネギ背負ってきたんさね。
 うまく二人一緒に捕まえたのは確かに大ラッキーだったけど、今月は北町の月番だから、養生所見廻りの役人に見つかっちゃまずい。
 当然、奴らはさっさと養生所から離れなきゃなんないんけど、捕まえたリーバーを放り込んで運ぶ予定の駕籠はひとつしか用意がなかったんだろうさ。
 だからとりあえず二人をひと括りに繋いで、一所懸命駕籠に押し込めたんだろうケド、そんな重いもんをそう遠くへは運べないさね。
 しかも相対死に見せかけるには、川に流すのがそれっぽいのに、あそこから川は遠い上にまだ明るくて、着くまでにどんだけ人に見られるかわかんないさ。
 だったら近くで殺して、夜になったら遺体を運ぼうってことになるさね」
 「そうね。
 そしてそんな時、どこで殺そうか、って考えると、今月は誰もいない、南町の詰め所だわ。
 でもさすがに詰め所自体では無茶だから、庭の物置小屋ってことになるわね」
 「そーそーv
 正解、と、ラビが手を叩いた。
 「・・・なのに、瓦版には件の黒幕が誰だとは書いていないのね」
 不満げなエミリアに、ラビはにんまりと笑う。
 「ウチはまともな瓦版屋さ。
 証拠のないことは無闇に書かんさね」
 後のことは・・・と、ラビは意味深に笑みを深めた。
 「世論なんかよりもっと怖い人達が、奴を追い詰めてくれるだろうさ♪」
 その言葉に、エミリアは彼女らしくもなく、ぶるりと震える。
 「絶対に・・・関わりあいたくないわね・・・」
 言いつつ、彼女が恐々と思い浮かべた人物の邸では、今まさに、その件が囁かれていた。


 「・・・私が寝込んだのはそう言うわけだったか」
 ようやく半身を起こせるまでになった老中は、伝手より入手した瓦版に目を落とし、忌々しげに唸った。
 「私の大切な姫に、よくもこんな仕打ちを・・・!」
 怒りに震える彼の手を、枕元に控えたハワードが見つめる。
 「身内である私は、この件を裁くことが出来ません。
 どうぞ、ご老中より公平なお裁きを」
 言葉こそ尤もなことを言うが、その口調といい声音といい、今にも件の人物を縊り殺さん勢いだった。
 その心中を察して・・・いや、共感して、老中はハワードの肩を強く掴む。
 「・・・有能な彼奴は証拠など残すまい。
 だが、そんなことは関係ない!
 彼奴がこの件に関わっていると、私が知ったのだ!」
 老中の目が、獲物を狙うオロチのように酷薄に光った。
 「腹を切るよりももっと辛い死に様を与えてやろう!!」
 怖ろしい笑みを口元に浮かべ、紅い舌を覗かせる。
 「・・・城中の蛇と呼ばれる私の本気を、存分に見せてやろうじゃないか」
 怨念のこもった声を心地よく聞きながら、ハワードの顔にもまた、酷薄な笑みが浮かんだ。


 ―――― 夏の朝。
 未だ暑熱を持たぬ風は涼しげに風鈴を鳴らし、吹き抜けていった。
 座敷では一人、ちんまりと座した老人がのんびりと煙管を吹かしている。
 江戸中にセンセーショナルを巻き起こした瓦版に目を通していた彼は、こくりと頷いてそれを放った。
 「・・・全てこの世はこともなし」
 呟いて老人は、ぷかりと煙を吐く。
 ちりん・・・と、また風が、風鈴を鳴らして吹き抜けていった。



Fin.


 










2011年ブックマンお誕生日SSです!
江戸時代なんで、『誕生日』はないんですけどね(笑)
これは遠山のユウさんシリーズの過去話ですよv
今回は出てきただけですけど、次回、ラビの誕生日SSでは、ちゃんとユウさんも活躍する予定です。
そしてこのお話は、ミステリ小説で言う『安楽椅子探偵』の形式が書きたくて書いてみました。
私は『座敷パンダ』と呼んでますけど。>おい。
これを書くために、時代劇ひたすら見たよー(笑)
北大路欣也さんの『名奉行!大岡越前』は、フィクションなのに細かい設定は結構史実に忠実でおもしろいです。
死体の記述とか、推敲の時にできるだけ削ったんですが、まだ気持ち悪かったらごめんなさい;
そして、なんでペックの瓦版屋が『容喙屋』かって言うと、『peck(ペック)→〜をくちばしでつつく→嘴を容れる→容喙』って連想ゲームで、深い意味はありませんよ(によによ)












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