† My Dear・・・ †






 Innocence――――
 この言葉を初めて聞いたのは、俺がまだ、学生の時分だった。
 幾人かの教授達が、ヒソヒソと囁きあう言葉を漏れ聞いたのだが、この時は正直、なんのことだかわからなかった。
 もちろん、英語圏に生まれた人間として、その言葉の意味は知っている。
 が、『物質』の名前としては、意味を図りかねた。
 そもそも、物質につける名前でもないだろうに。
 そんな、小さなことが頭に引っかかり、二度目にその名を聞いた時も、彼が通常の言葉ではなく、『物質』の名前を言っている、と、思い至ったのだ。
 その名が二度とも、あまりにも密やかに、異常なほど警戒された声で囁かれたことも、気になった原因の一つかもしれない。
 Innocence・・・それは、神がもたらした物質。
 多くの研究者が集いながらも、未だその性質も真価も解明されていない、不思議な物質だという。
 ―――― キミも、研究チームに加わらないか?
 穏やかな声に、あの時の俺は、背筋が震えるほど感動した。
 若いながらも、大学在学中から、天才の誉れ高かった彼・・・。
 その先進的で、革新的な論文に惚れ、もっと話を聞きたいと、教授の伝手をたどり、手紙を出した俺と会ってくれた。
 ―――― キミさえ良ければ、黒の教団で待っている。
 是非に、と、即答して、俺はその東洋人の手を、硬く握った。
 ヴァチカン直属の研究機関・・・。
 世界各地から密かに、最高の頭脳が集められる場所だと、学生の間でも、以前から囁かれていた機関だ。
 その存在すら怪しまれている機関への扉が、まさか、こんなところにあったなんて・・・!
 彼に認められた喜びに足は弾み、俺は自身の幸運を確信した――――・・・この時は。


 「リーバー・ウェンハムです!
 専門は化学と数学、言語学っす!今日からよろしくお願いします!」
 黒の教団本部の、暗く長い廊下を経て通された科学班研究室で、明るく挨拶をした彼への反応は、ほとんどなかった。
 誰もが、リーバーのような若者など、眼中にないと言わんばかりに、自身の研究に没頭している。
 が、
 「リーバー君は、次の科学班班長だから。みんな、ヨロシクねー」
 突然、部屋の奥から掛けられた声に、場は一瞬、殺気立った。
 しかし、その声に、その場の誰よりも驚いたのは、リーバー自身だったろう。
 彼は大学を出たばかりの若者で、意欲と才能には溢れていても、未だ権力への欲望は薄い若輩者だった。
 が、中年以上の研究者達の中には、情熱のベクトルが、リーバーとは逆を向いている者も多い。
 たちまち室内は険悪な雰囲気に呑まれ、リーバーは刺々しい視線にさらされながら、それでも部屋の奥へと、足を踏み出した。
 「ヤァ。よく来てくれたね、リーバー君」
 どこか暢気そうな、穏やかな声は、リーバーをこの場へ招いた男のもの。
 「ようこそ、科学班へ。歓迎するよ」
 「・・・ありがとうございます、コムイ・リー班ちょ・・・・・・!」
 塔のように机上に積み上げられた書物や書類の隙間から、ようやくこの班のボスを見出したリーバーは、ぎょっとして声を詰めた。
 初めは、彼が大きな人形を抱いているのだと思った。
 が、すぐにそれがもぞもぞと動いたために、人間の少女だとわかった。
 長い漆黒の髪を背に垂らした少女は、痩せた青白い頬をコムイの胸に押し付け、血の気の失せた小さな手で、彼の白衣を握っている。
 「班長・・・その子は・・・?」
 東洋人らしい少女は、リーバーの視線から逃げるようにぎゅっと目をつぶり、よりコムイに縋った。
 「ボクの妹。
 ちょっと・・・身体を悪くしてね。一人で医務室に置いておくのもかわいそうなんで、連れてきたんだ。
 大丈夫。研究の邪魔はしないよ」
 コムイの、無理矢理作った笑顔に、リーバーはきつく眉をひそめた。
 ―――― 身体が悪い・・・?それもあるだろうが、これはむしろ・・・・・・。
 リーバーの目に怯え、細い肩を激しく震わせる少女の姿に、彼は深い哀れみを覚えた。
 「えっと・・・班長は確か、清国の人でしたよね?」
 「うん、そうだけど?」
 それが何、と、問い返すコムイに、リーバーは、なんとか笑みを作る。
 「ニイハオ、シャオチェ。  (こんにちは、お嬢ちゃん)
 ウォー ジャオ リーバー・ウェンハム。  (俺は、リーバー・ウェンハムといいます)
 ニーダ シンミン シー シェンマ?」  (君の名前は?)
 途端、少女は大きな目を見開き、リーバーを振り返った。
 「ニイハオ!」
 腰をかがめ、少女と視線を合わせて、にっこりと笑いかけると、少女は一瞬、びくりと震えたが、そっと兄の顔を見上げた後、かすれた声で、『ニイハオ』と呟く。
 「ウォー ジャオ リーバー」
 リーバーが、親指を立てて自身を指差すと、少女はこくりと頷いた。
 「ニーダ シンミン シー シェンマ、シャオチェ?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・リ・・・リナリー・・・・・・リー・・・・・・・・・」
 「ニイハオ、リナリー」
 ひらひらと手を振ると、リナリーの震えが止まった―――― 少なくとも、リーバーが敵ではないと、理解したようだ。
 「さすがは言語学者・・・というより、子供の扱いに慣れているんだねぇ。リナリーは今までずっと、ボク以外の人間と口が利けなかったんだよ」
 感嘆するコムイに、リーバーは苦笑した。
 「俺、オーストラリア出身なんで。
 人間を怖がる動物を慣らすのは、結構得意・・・ってぇ!!すんません!!!!」
 上司の妹を動物扱いしたことに気づいて、リーバーは慌てて謝る。
 が、むしろ、コムイは愉快そうに笑った。
 「イヤイヤ。キミに来てもらって、本当に良かった。
 ―――― 実を言うと、リナリーみたいな子供は、ここにはたくさんいる」
 不意に声を潜めたコムイに、リーバーは眉をひそめる。
 「なんで・・・子供がこんなに怯えるなんて、ただ事じゃないっすよ?
 ここじゃ子供達に、何をしてるんすか?」
 背後で聞き耳を立てているだろう研究者達に聞かれないよう、声を低めたリーバーに、コムイは笑みを消して、膝の上のリナリーを抱き寄せた。
 少女の耳を塞いでいるのだと気づいて、リーバーは更に眉根を寄せる。
 「イノセンスの適合者を作りだすため・・・子供達は、実験動物並みに扱われているよ」
 コムイの目が、メガネの奥で、すぅっと細まった。
 「実験室の入室許可証をあげよう、リーバー君。自分の目で、何が行われているか、見てくるといい」
 極度に抑揚の消えた声からは、コムイの激昂が、より深くリーバーに伝わった。
 「・・・今から行っても?」
 リーバーが手を差し出すと、コムイは口の端をわずかに曲げ、リーバーの名前を書いたネームプレートを、机上に滑らせる。
 彼が手を伸ばすと、コムイは阻むように、トン、と、その長い指を、プレートの上に乗せた。
 「あれを見たら、もう、ここからは出られないよ?」
 コムイの言葉に、一瞬、宙で躊躇した手は、しかし、迷いを振り切るようにコムイの手を払い、ネームプレートを取り上げる。
 「こう見えても、根性はあるんすよ」
 きっぱりと言って、リーバーは、ネームプレートを胸に留めた。


 「・・・なんだ、ここ」
 科学班研究室を出たリーバーは、既に何度見たかわからない、廊下の四つ角に立ちすくんだ。
 「迷路かよ、チクショー・・・!俺は今、どこにいるんだ・・・・・・!!」
 冷たい石の壁に懐いて、リーバーはずるずるとしゃがみこむ。
 「誰か、助けてくれーぃ・・・・・・!」
 嘆く目の端に、ひらりと、白いものが映った。
 「え?!」
 慌てて横を見ると、リーバーの視線の先を、科学者らしき男が白衣をひらめかせながら、暗い廊下を横切って行く。
 「た・・・助かった!!」
 急いで立ち上がり、白衣の後を追いかけたリーバーは、突如、響いた悲鳴に、驚いて足を止めた。
 悲鳴は、石の廊下に幾重にも反響して、より悲痛さを増している。
 「子供の声・・・?」
 甲高い泣き声の源を探りつつ、再び歩を進めたリーバーは、ドアの開け放たれた一室を見つけ、足を速めた。
 「どうし・・・?」
 室内に駆け込んだリーバーは、一人の少年が、鳥の死骸を抱えて号泣する様に、声を失う。
 「ブレンダ!!なんで・・・どうして死んだの!!なんで・・・!!」
 痩せた頬にぼろぼろと涙を零し、声を限りに泣き叫ぶ少年を、白衣の男が冷たく見下ろしていた。
 「お前が、私の言いつけに背いて、眠ってしまったからだよ。
 言ったろう?眠ったら、お前の大事なものが、消えてしまうよ、って」
 冷淡な声は、なぜか、笑みを含んで、面白がっているようにさえ聞こえる。
 「お前が悪いんだよ。
 さぁ、もう一羽の方も死なせたくなければ、私の言いつけを守りなさい。
 私が許すまで、絶対に眠ってはいけないよ・・・いいね?」
 激しく震え、喉を引きつらせながらも、少年は彼の言葉に頷いた。
 「いい子だ」
 にやりと口の端を曲げ、踵を返した男は、傍らに立ちすくむリーバーに一瞥もくれず、部屋を出て行く。
 「ゴ・・・ゴメン・・・ゴメンね・・・ブレンダ・・・!!
 ボク・・・いい子になるから・・・!もう言いつけに背いたりしないから・・・!ゴメン・・・・・・!!」
 鳥の死骸を抱いて、嗚咽する少年の姿に、リーバーはぞっとした・・・。
 慰める言葉すらなく、彼は踵を返して、出て行ったばかりの男を追う。
 「ドクター!」
 なんの専門かは知らないが、『学者』であることには間違いないだろうと呼びかけると、彼は、反射的に足を止め、振り向いた。
 「誰だ?」
 「リーバー・ウェンハムって言います!今日から科学班に入った・・・」
 「新人か」
 興味なさそうに呟いて、再び歩を進める彼の後を、リーバーは追いかける。
 「今の子供・・・眠らせないって、まさか、洗脳じゃないっすよね!?」
 心理学はリーバーの専門ではないが、眠らせないことで判断力を失わせ、施術者の目的通りに操る、拷問めいた方法があることは知っていた。
 感情は抑えるつもりだったが、リーバーの口調には、やはり非難めいた棘が残り、先を歩く彼はむっとして振り向く。
 「子供を従順にさせる、一番手っ取り早い方法だ。
 眠らせないだけでなく、動物を与え、情が移った所で取り上げる。
 そうすると、もう二度と、逆らおうとはしないね」
 「なぜそんなことを・・・!」
 「仲間を大切にする心を、育むためさ。
 イノセンスの適合者がどれほど貴重か、新人の君には、まだわからないかもしれないがね。適合者は一人欠落しただけで、大損害なんだよ。
 たった一人が任務を遂行できなかったせいで、何人ものエクソシストを失うようなことがあってはならない。
 だから、あぁやって幼い頃から、責任感と指令への忠実さ、仲間を思いやる心を養うのさ」
 「養う・・・・・・?」
 あれが・・・あんな残酷な行為が、そんな言葉で正当化されていいわけがない・・・!
 きつく眉根を寄せたリーバーを、しかし、振り返った男は、鼻で笑った。
 「君も科学者なら、冷静になりたまえ」
 冷淡な言葉を投げかけると、彼は、足早に去っていった。
 「冷静・・・だと・・・?」
 ぎり、と、握った拳から、血の気が引いていく。
 「冷酷の・・・間違いだろ・・・!」
 呟くや、リーバーは踵を返し、少年のいる部屋へと戻った。
 未だ、鳥の死骸を抱いた少年は、戻ってきたリーバーの姿を見ると、ビクッと震え、身を縮める。
 「・・・ブレンダって言うのか、その子?」
 しゃがんで、少年の目線に合わせると、彼は、涙に濡れた目を伏せたまま、頷いた。
 「かわいそうに・・・墓を作ってやんねぇとな」
 そう言うと、少年は顔を上げ、リーバーを不思議そうに見つめる。
 「なぁ?お前の名前は、なんていうんだ?」
 と、少年は、ふらふらと首を横に振った。
 「・・・・・・わからない・・・・・・あの人達は、『お前』って呼ぶけど・・・・・・」
 「わからない?」
 眉を寄せ、問い返すと、うつろな目を伏せて、少年は頷いた。
 「思い出せない・・・ここに来る前のこと・・・来てからのことも・・・あんまり覚えてない・・・」
 荒く息をつきながらの、途切れ途切れの言葉が、リーバーの胸に重く沈んでいく。
 痩せた、青白い顔・・・血走って乾いた虚ろな目・・・。
 身体はずっと、震えが収まらないようだ。
 「・・・どのくらい、眠らせてもらえなかったんだ?」
 その問いにも、少年は、ふらふらと首を横に振る。
 「ひでぇことしやがる・・・・・・!」
 ―――― ただ従順にさせるために、ここまでやる必要はない・・・きっと、他に何か、目的があるはず・・・。
 リーバーは、この教団内にわだかまる闇の淵を覗いた気がして、背筋が寒くなった。
 が、少年に対しては無理に笑顔を作ってみせる。
 「あのさ、俺、今日が初出勤なんだよな」
 リーバーは、俯いた少年の視線の先に、そっと手を差し出した。
 「ここ、すんげぇ迷路になってて、どこに何があるか、全然わからないんだ。
 もし、ブレンダの墓を作るのに、いい場所を知っていたら、一緒に連れてってくれねぇか?」
 そう言うと、少年は、戸惑ったような視線で、何度もリーバーの顔と手とを見つめる。
 が、しばらくして、おそるおそる、小さな手をリーバーの大きな手の上に乗せた。
 「よし。行こうか」
 少年の手を軽く包んでやると、縋るように強く握り返される。
 「できるだけ日当たりのいい、きれいな場所にしような?」
 少年に手を引かれるまま、笑いかけると、彼は、微かに頷いた。


 名前のない少年に導かれるまま、暗い石の廊下を歩いていたリーバーは、いくつ目かの曲がり角に差し掛かった時、自身の手の中で、少年の手が強張る感触に、首を傾げた。
 「どうかしたか?」
 問うと、少年は激しく震える手に抱いた鳥の死骸をしっかりと胸に引き寄せ、逃げるように足を速める。
 「お・・・おいっ!」
 意外な力で手を引かれたリーバーは、少年の速さに数歩引きずられたが、足がもつれて、無様に転んだ。
 「・・・ってぇ!
 イキナリ走んないでくれよ・・・・・・?」
 リーバーより数歩分、先にいる少年を見上げると、彼は、リーバーと、彼の傍らにそびえる大きな扉を見比べつつ、戻るべきか先に行くべきか、迷っているように見えた。
 「・・・?なんだ?
 ここ、なんかあるのか?」
 少年が気にかけている扉を指し、問うと、彼は、蒼ざめた顔を土気色にして、額に玉の汗を浮かべた。
 「やたらでけぇドアだよな・・・。
 よっぽど、でかい機材を入れる必要が・・・?」
 言いつつ、扉の傍らの石壁を見ると、そこには『Laboratory(実験室)』と刻された、変色した銅版のプレートが打ち込んである。
 「あ!ここだ、俺が探してた部屋!」
 思わず声を上げた瞬間、少年はさっと顔を強張らせ、踵を返して駆け出した。
 「あ・・・おい!」
 呼びかける間に、少年は角を曲がり、リーバーの視界から消える。
 「おーい・・・・・・」
 足音すら消えた廊下に、ただ、リーバーの声だけが、空しく響いた。
 「しまった・・・ミスった・・・」
 ガリガリと、頭を掻いて、リーバーは自身の失言に忌々しく舌打ちする。
 あの少年に対して、研究員たちがどんな仕打ちをしているか、リーバーはまだ、垣間見ただけだが、それでもあの少年が、かなり惨い仕打ちを受けたことはわかっていた。
 なのに、実験室を見つけて歓声を上げるなんて、自ら奴らの仲間だと言ったようなものだ。
 「あーぁ・・・。もう、トモダチにはなってもらえねぇかなぁ・・・」
 嘆息しつつ、リーバーは、胸に留めたネームプレートをはたいた。
 「でもま、ここまで来て、ここを見ないで帰るわけにゃ、いかんだろ」
 もう一度吐息して、リーバーは、大きく、重い扉に手をかける。
 「シツレイしまーっす!」
 扉を開けた瞬間、溢れ出した光に、彼は暗さに慣れた目をつぶった。
 「誰だ?」
 わずらわしげな声が放たれた方へ、リーバーは眼前に手をかざした顔を向け、歩を進める。
 「シツレイします。本日付で入団しました、リーバー・ウェンハムです。
 科学班班長の許可をもらって、見学に・・・・・・!?」
 歩み寄るとともに、段々目が慣れて来たリーバーは、その光源がガス灯などではなく、巨大な異形の生物である事に気づいて、声を失った。
 「聞・・いている・・・・・・コムイが・・・推薦し・・・た・・・・・・」
 「んなッ?!」
 人面の龍のような姿をした生き物が、言葉を紡いだ事に、さらに驚愕して、リーバーは呆然と立ちすくむ。
 「わたし・・・は・・・ヘブラスカ・・・・・・」
 「よ・・・・・・ヨロシク・・・・・・・・・!」
 驚愕しつつも、律儀に挨拶を返したリーバーに、ヘブラスカは、リーバーの勘違いでなければ、微笑んだようだった。
 が、
 「新人などどうでもいい」
 冷淡な声に我に返ると、数人の研究員達が、小さな子供をヘブラスカの前に差し出していた。
 「さぁ、早く!彼にイノセンスを入れるんだ、ヘブラスカ!」
 苛立たしげな声―――― この口調を、リーバーは嫌と言うほど聞き慣れていた。
 彼の在学していた大学で、所属していた研究室で、思うような結果が得られない研究者や教授達が、焦り、苛立って、無駄だとわかっていながらも一縷の望みをかけ、無茶な実験に挑もうとしている時の口調だ。
 「・・・無駄だと・・・言っている・・・・・・」
 ヘブラスカの、深い吐息混じりの反論は、しかし、そんな研究者達を追い詰めるだけだ。
 案の定、彼らはリーバーが予測した言葉を吐いた。
 「そんなこと、やってみなければわからないだろう!」
 ・・・常識的な意見は、こんな時、封殺される。
 「イノ・・・センスは・・・神の定めた適合者にしか・・・シンクロしない・・・・・・」
 それでも、反論するヘブラスカに、別の研究員が声を荒げた。
 「彼はエクソシストの血縁者だ!きっと上手くいく!」
 「血縁者・・・?」
 その言葉に、リーバーは眉をひそめる。
 「すみませんが、ドクター。
 血縁者だから適合するだなんて理論はナンセンスですよ。
 最近、オーストリアの研究者が発表した論文にもありましたが・・・」
 「新人は黙っていろ!何も知らないくせに!!」
 ヒステリックに怒鳴られ、リーバーは肩をすくめた。
 「聞く耳もたねぇってか・・・」
 論理的な反論なら、止められるかと思ったが、追い詰められている研究者達は、リーバーを無視してヘブラスカに詰め寄る。
 「さぁ!ヘブラスカ!!」
 「・・・・・・・・・・・・」
 とうとう諦めたヘブラスカが、触手のように長い手で、子供の身体を持ち上げる―――― 怯えて泣き出すのではないかと、ハラハラと見守るリーバーの予想 に反して、子供は声も上げず、震えもせずにヘブラスカの手の中に収まり、死んだ魚のような目で、彼の姿を見上げていた。
 「・・・・・・?」
 騒がしい周りに対し、あまりにも冷静な子供の様子に、リーバーは眉をひそめる。
 冷静・・・と言うよりは、従順と言うべきか。
 研究者たちに言われるがまま、ヘブラスカの前に進み出て、その手に納まった子供・・・。
 ―――― ただ従順にさせるために、ここまでやる必要はない・・・。
 つい先ほど、抱いた疑問が再び湧いて、リーバーは、はっと目を上げた。
 「まさか・・・!」
 判断力を奪われ、自身の名前すら消された少年・・・。
 死んだ魚のような目をして、言われるがままにヘブラスカへと歩み寄った彼・・・。
 「まさかあんた達・・・!このために子供達を!!」
 普遍的な実験結果を求める際、最も邪魔になるのは、被験者の個体差だ。
 身体的な個体差は否めないとしても、頑健な身体に頑健な精神が伴うとは限らない。
 それを画一化するため、同じ身体的性質を持つ子供たちの『心』をあらかじめ壊し、従順な実験動物に作り変えているのではないか・・・?
 リーバーの問いに、ヘブラスカの手に収まった子供を見上げていた研究者の一人が呟いた。
 「A集団は性別、年、身長、体重も全て同じ。エクソシストを片親に持つ子供達で、血量を50%としよう。
 B集団、C集団は、身体的には同じ条件だが、血量だけが違う。
 各集団の中にどれだけイノセンスと適合できる子供がいるか・・・我々は、純粋に身体的な値を求めている。
 それを調べるのに、恐怖心は邪魔だ。
 せっかくの身体が、恐怖に蝕まれて弱ってしまうし、実験の度に一々泣かれたり抵抗されたりしていては、早急に結果が得られない。
 どうせ、エクソシストとして戦いに赴くのだから、精神的な脆さなど、最初からないほうがいいだろう」
 それは先ほど聞いた、汚らしく正当化された言葉よりも、リーバーにはすんなりと受け止める事ができた。
 しかし、
 「あの子達は動物じゃない!人間なんだぞ?!」
 激昂し、ヘブラスカへ駆け寄ろうとしたリーバーの前に、研究員達が立ち塞がる。
 「大学を出たばかりの新人が・・・冷静になりたまえ」
 「我らが行っているのは、世界を救うための崇高な任務だ」
 「そのためには、幾人かの犠牲など当然だろう―――― 神もお許しくださるに違いない。
 さぁ!ヘブラスカ!早く始めたまえ!」
 「やめろ!!」
 「・・・・・・・・・」
 リーバーの絶叫も虚しく、少年の身体に、イノセンスが埋めこまれた。
 途端、激しい風が沸き起こり、ヘブラスカの周囲にいた者達は、全員、飛ばされるように後方へ退く。
 「一体なにが・・・・・・!?」
 初めて見る光景に驚きながらも、リーバーは腕で顔をかばいつつ、ヘブラスカの手に収まる少年を見上げた。
 苦しげに顔を歪め、吐血した少年に、リーバーは研究者達を振り返る。
 「やめろ!!危険だ!!」
 「黙れ、新人!
 続けろ、ヘブラスカ!!」
 風の巻き起こす轟音にも負けず、鋭い叱声が飛んだ。
 「やめろ・・・・・・!」
 再び叫んだ時、間近で爆音が響いた。
 「くそ・・・・・・!」
 リーバーの傍らで、忌々しげに誰かが呟く。
 「また咎落ちだ・・・・・・!」


 「オヤ、おかえり」
 リーバーが科学班研究室に帰った時、コムイは未だ妹を膝に乗せたまま、執務中だった。
 にっこりと、リーバーを見た目はすぐに逸れ、科学班の研究員とは違う団服を着た男から渡された、分厚い書類の上に落ちる。
 「北米支局長には、この件了解したと、返信してくれ。
 中東支局長とアジア支局長からは、何か言ってきたかい?」
 「はい。アジア支局からは特には・・・。
 しかし、中東支局は、私が通信班を出る直前に通信が入っていましたから、間もなくお知らせできると思います」
 「ありがとう。
 元帥たちからの報告は?」
 「本日の分は、現在、報告書を作成中です。10分後にはお持ちしますが・・・」
 ふっと、軽く吹き出した通信員に、コムイは訝しげな目を向けた。
 「すみません!珍しい方から、ご連絡があったものですから・・・」
 「珍しい?クロスの破戒坊主が、朝の挨拶でもしてきたのかい?」
 明らかに冗談口調のコムイに、しかし、通信員は堪えかねたように笑って頷く。
 「その、まさかです。
 手持ちのイノセンスが足りなくなったので、教団に取りに見えるそうです」
 「・・・・・・ふぅん。
 愛人たちに愛想を尽かされて、資金繰りが苦しくなったのかな?」
 「そうだと面白いんですが・・・あ!いえ!失礼しました!」
 慌てて深くこうべを垂れた彼に、コムイは、陽気に笑って手を振った。
 「イイヨイイヨ。まさに、その通りだね。私も一緒に、笑ってやりたいよ」
 「は・・・そっ・・・それでは、失礼します。
 また後ほど、報告書を持って参りますので!」
 「うん、ヨロシク」
 にこやかに手を振って、通信員を見送ったコムイは、ようやく彼の前に立ったままのリーバーに目を向けた。
 「どうだった?何か、興味深いものは見られたかい?」
 彼の問いに、口を開きかけたリーバーは、他の研究員たちの耳をはばかって、ただ頷く。
 「班長。後で、お時間を頂いてもいいでしょうか?」
 その、改まった言い様に、コムイはあっさりと頷いた。
 「仕事が終わったら、ボクの部屋にどうぞ」
 「では、先に用事を済ませてきます」
 くるりと踵を返したリーバーの背に、コムイは、微かに笑みを浮かべる。
 「リナリー?まだ眠れないかい?」
 膝の上に乗った妹の髪を、優しく撫でながら問うと、リナリーは、唇を固く引き結んだまま、こくりと頷いた。
 「そう・・・。
 もうすぐ、安心して眠れるようになるからね・・・・・・」
 リナリーの耳元に囁いて、コムイは積み上げられた書類の間から、机に向かうリーバーを見遣る。
 彼の視線の先で、リーバーは、入団に関する書類にサインをしたり、彼に与えられた研究課題に目を通したりしていたが、その態度は冷静そのもので、注意深く観察しても、その心中を垣間見ることはできなかった。
 「彼のような人材は、貴重だね」
 くすりと笑みをこぼして、コムイは、再び書類に向かった。


 その夜、仕事を終えたリーバーは、コムイの部屋を訪ねた。
 ドアを開けた途端、コーヒーの甘い香りが溢れて、リーバーは、ささくれ立った心が、わずかに和んだ気がした。
 「夜分に失礼します、班長―――― こんばんは、リナリー」
 無理をしながらも、なんとか子供向けの笑みを浮かべて、リーバーはコムイにしがみついたリナリーに笑いかける。
 「もう遅いぜ?まだ寝ないのかい?」
 問いかけたが、リナリーはコムイの背に隠れて、答えなかった。
 と、
 「この子は、眠れないんだよ・・・」
 コムイが、コーヒーの入ったマグカップをリーバーに差し出しながら、苦笑する。
 「随分と辛い目に遭ったらしくてね・・・。
 眠ったら、ボクがいなくなってしまうんじゃないかって、ずっと怯えている・・・」
 「・・・俺、昼に同じ事を聞きました」
 勧められた椅子に浅く腰掛け、いい香りが立ち上る黒い液体に視線を落として、リーバーは呟いた。
 「リナリーと同じか、ちょっと年上くらいの子供でした。
 鳥の死骸を抱いて、自分が眠ってしまったから、死なせてしまったって、泣いていた・・・」
 拷問ですよね・・・。
 熱いマグカップを手の平に包んで、リーバーが呟く。
 「自分の名前すら記憶から消されて・・・『お前』としか呼ばれないって・・・そんなの、人間の扱われ方じゃない・・・・・・!」
 彼の言葉に、コムイは自身の背後に隠れているリナリーを抱き上げた。
 「この子も、ボクがここに来た時には、『あれ』だなんて呼ばれていたよ。
 名前で呼んでも・・・初めは、反応しなかったんだ。自分の名前を、忘れてしまっていてね・・・。
 だから、キミがこの子の名前を聞いた時、リナリーが、ちゃんと自分の名前を言えた事が、本当に嬉しかったんだ」
 目元を和らげ、大事そうにリナリーを抱き寄せるコムイの姿に、リーバーは眉間の皺を深くする。
 「・・・俺も、科学者です。
 全ての人体実験が悪いとは言わない。
 薬や手術法など、どうしても人間を使わなければ実証できないことはあるし、正確なデータを取るためには、被験者の個体差が少ない方が望ましいってことくらい、わかっています」
 彼の声は低く、言葉は淡々と紡がれたが、それは凄まじい怒声よりもなお、彼の怒りを孕んでいた。
 「だが、人間は玩具でも家畜でもない。
 エクソシストの血縁者を集めて、実験にかけるなんて、時間の無駄です。
 血量の多寡によって、適合の確率を算出するだなんて・・・サラブレッドだって、優秀な親から優秀な子供が生まれるなんて、滅多にないことでしょうに」
 「そうだね・・・彼らなら、エクソシスト同士を掛け合わせて、純血の子供を作るだなんて、本気で言い出しそうだよ。
 リナリーがそんな目に遭うなんて、考えただけでおぞましいね」
 間に合って良かった、と、深く吐息するコムイに、リーバーも頷きを返す。
 「科学者は結果にこだわるあまり、人倫を忘れてはいけない。俺はそう思っています」
 「人倫を・・・忘れているように見えたかい、彼らは?」
 リナリーの耳を塞いでから、静かに問い返したコムイを、リーバーは、まっすぐに見返す。
 「彼らは、子供を殺しました。
 咎落ち・・・という言葉を、俺は知りませんでしたが、その有り様はこの目で見ました。
 不適合者にイノセンスを入れれば、どうなるかわかっていながら、彼らは無茶な実験を遂行し、子供を一人、死に至らしめました。明らかに殺人です・・・それを・・・・・・」
 マグカップを握るリーバーの手が、激しく震えた。
 「崇高な任務ゆえに・・・神も・・・お許しくださる・・・だと・・・・・・?
 そうやって言葉で飾って・・・正当化することこそが・・・自らの罪を認めている証拠じゃないか!!」
 真に自身らが正しいと信じているなら、結果を言葉で飾ったりはしない・・・ましてや、神の名を持ち出すなど・・・・・・!
 「コムイ・リー班長。
 あなた、俺を次の科学班班長だ、って、言ってくれましたよね?」
 リーバーの真剣な目を、コムイは臆することなく受けて、薄く笑みを浮かべる。
 「俺が科学班班長になった時、あなたはどの地位にいるつもりですか?」
 「さぁ?
 ボクは別に、世のため人のために働いているわけじゃないんでね。
 リナリーさえ無事に保護できれば、後のことはどうでもいいから、故郷に帰って、のんびり暮らしているかもしれないなぁ」
 「だったら、なぜ俺に、あの実験を見せました?」
 コムイなら、今日のあの時間、実験室でなんの実験が行われるか、知っていたはずだ。
 「言いましたよね?あれを見たら、もうこの教団から出られない、って」
 なにが行われるか・・・そして、その結果がどうなるか知った上で、コムイはリーバーに、この教団の闇を見せたのだ。
 「・・・どうしてだと思う?」
 「最終試験」
 真意の見えない、薄い笑みを浮かべて問うコムイに、リーバーは即答した。
 「適正検査だったんでしょう?
 あれを見せることで、あなたは俺が、どちら側に傾く人間か、測ったんですね?何人、失敗しました?」
 リーバーの反問に、コムイは苦笑する。
 「・・・残念なことに、あれを見て、僕の部屋を訪ねてくれたのは、キミが初めてだよ。
 それだけ、倫理の枠を越えた実験方法は、科学者にとって魅力らしい」
 コムイの答えに、リーバーは深く吐息すると、椅子を引いて立ち上がった。
 「俺は、あなたの言った通り、近いうちに科学班班長の地位を譲って頂くことにします」
 「うん」
 「しかしその時も、俺のボスはあなたでなければいけない―――― この教団を、変えてください、コムイ・リー室長」
 「わかった」
 深々とこうべを垂れたリーバーに、コムイは簡潔に答える。
 「協力をよろしく、リーバー班長」


 翌日、科学班研究室で、資料を受け取ったリーバーは、さっと目を通した書類を机上に投げ出した。
 「これって、無駄っすよね」
 「な・・・っ!」
 言葉を失った研究員に、リーバーは畳み掛ける。
 「エクソシストの血縁者を集めて、実験にかけるなんて、時間の無駄だと言ってるんです。
 こんなことに時間をかけるくらいなら、イノセンス自体の性質を解明する方が、まだ意義があるでしょうよ」
 「新人が生意気なことを・・・!」
 激昂し、更にリーバーを怒鳴りつけようとした研究者は、しかし、突如彼を包み込んだ煙に咳き込み、喉をふさがれた。
 「うわっ?!なんだ?!」
 リーバーも、そのきつい臭いと濃い煙が目にしみて、目尻に涙を浮かべる。
 「ほぅ・・・?元気のいいのが入ったもんだな」
 白く煙った視界の向こうから、皮肉な声が届いたかと思うと、黒い団服が煙を裂いて現れた。
 「うわ・・・」
 その異様な姿に、リーバーは思わず声を上げる。
 葉巻を咥えた、エクソシストらしき長身の男は、その顔を長く鮮やかな赤毛と、半面を覆う仮面で隠していた。
 「久しぶりだな、天才殿?」
 嫌味な声に、執務机から顔を覗かせたコムイが、思いっきり顔をしかめる。
 「げ。
 クロス元帥、あんたまた、なんでわざわざこっちに来るんですか!」
 火気厳禁ですよ、と、苦情を申し立てるも、元帥と呼ばれた男は全く気にする様子もなく、飄々とコムイに歩み寄った。
 「ご挨拶だな、天才殿。
 適合者を探して、世界各地を飛び回っている俺に、労いの一つもないのか?」
 「・・・世界各地を遊びまわっている人が、よく言いますね―――― っつか、その嫌味な呼び方、やめてください」
 「ふん・・・俺から嫌味と皮肉を取ったら、会話が成り立たん」
 冷笑しつつ、クロスは執務机に積み上げられた書類を無造作にどけて、その上に浅く腰掛ける。
 「久しぶりだな、リナリー。おいで」
 そう言って、コムイの膝の上に座るリナリーに、長い手を伸ばすと、
 「なにがオイデか、この破戒僧!!」
 コムイは絶叫して、リナリーをクロスの手から遠ざけた。
 「失礼な奴だな。リナリーは俺に懐いていたんだぞ。なぁ、リナリー?」
 「ヤカマシイ!ボクの大切な妹が、あんたなんかの毒牙の前にさらされていたなんて、考えただけでぞっとする!あっち行け!!」
 激しいやり取りに、呆気にとられるリーバーの前で、コムイが椅子を蹴って立ち上がる。
 「おい、どこへ行く、天才殿?」
 「元帥、あんた、イノセンスを取りに来たんでしょう?さっさと渡しますから、さっさと出て行ってください!
 あ!リーバー君も来ておくれ!
 ヘブくんに、正式に紹介するから!」
 「あ・・・ハイ!」
 リナリーを抱いたまま、しゃかしゃかと早足で研究室を出て行ったコムイの後を、リーバーは慌てて追った。
 と、
 「ふぅん・・・リーバーというのか、お前」
 目にしみる煙を吐き散らしながら、クロスが彼の後をついてくる。
 「ハイ・・・よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると、クロスは鼻を鳴らした。
 「ガキだな・・・。
 自分が正しいと信じているんだろうが、頭の固い連中にケンカ吹っかけてどうする」
 「・・・じゃあ元帥は、無駄な実験に時間を費やせと?」
 「上の連中を敵に回せば、無駄な実験すらできなくなるって言ってんのさ」
 思わずむきになったリーバーを、クロスは鼻で笑う。
 「俺も科学者だ。
 今の研究員達が、焦るあまり、馬鹿な実験を繰り返していることは知っているし、その気持ちもわかる。
 だが、それを『無駄だ』と証明するのはお前の言葉じゃない。お前のたたき出した結果だ。違うか?」
 クロスの言葉に、リーバーは唇を噛み締めた。
 「コムイは、サポート派の長にのし上がるための人材なんて、欲しがっちゃいないぜ?
 その程度のことは、奴は自分でやる男だ。
 奴が本当に求めているのは、その後―――― 科学班をまとめ、結果を出せる人材だ。
 お前はそれに、なれるのか?」
 「―――― なります」
 静かな声音・・・しかし、相手を貫くような真剣な眼差しに、クロスは口の端を曲げる。
 「だったら、冷静になれ、馬鹿。
 そんな目をしていたら、あっという間にここの狸どもに潰されるぞ」
 「ご忠告、ありがとうございます、元帥」
 「なぁに・・・あと20年もすれば、俺好みの美女になりそうだった娘を、あっさり壊しやがった奴らには、嫌がらせをしてやるべきだろう。
 あのジジィまで、協力すると言い出しやがったしな」
 「誰・・・?」
 問いかけは、コムイの声にさえぎられた。
 「元帥!リーバー君!なに止まってんだい!早く!」
 「あ!すみませんっ!」
 弾かれたように走り出したリーバーに、
 「うるせぇ奴だな・・・」
 と呟きながらも、クロスは、二人の後について行った。


 その部屋の前に再び立った時、リーバーは、扉を開けることを、躊躇せずにはいられなかった。
 昨日、子供が殺された場所・・・・・・。
 暴走したイノセンスが、少年の命を食いつくすまで出ていろと、看取ることも許されずに追い出された場所だ。
 この扉を開ければ、目の前には、あの少年の死体が転がっているに違いない・・・。
 耳の奥で、鼓動が鐘のように響く。
 それでも、震える手を差し出して、リーバーは扉を開けた。
 思わず閉じた目を開けると、ヘブラスカの放つ光に照らされた室内には、イノセンスに飲まれた少年の死体ではなく、白い女の横顔があった。
 胸にかけたロザリオを握り、瞑目して祈る姿は、凛として哀しい・・・。
 「元帥」
 コムイに呼びかけられて、目を開けた女は、ゆっくりとこちらを向いた。
 「・・・今、逝った・・・・・・」
 ポツリと、哀しげに呟いた女の秀麗な顔の半面が、醜く焼け爛れている様に、リーバーは思わず息を呑む。
 「・・・私の血族だったために・・・この子には、申し訳ないことをした・・・・・・」
 ロザリオを握ったまま、低い声音で言い募る。
 「私が戦いに身を投じたのは、この子らを守るためでもあったのに・・・なぜこの子は、伯爵ではなく、味方に殺されなければならなかったのだろう・・・?」
 彼女が語るのは、怒りではなく、哀しみの言葉ばかり・・・しかし、だからこそ、その言葉は、聞く者に深い悲しみと、怒りを植えつけた。
 「もう、とめてくれるだろうね、コムイ?お前がこの教団を変えると言った言葉を、私は信用していいのだろう?」
 低い、憂鬱な声に、コムイは毅然と頷いた。
 「もちろんです」
 「・・・では、私も協力しよう。
 クロス、お前もここに来た以上、私と同じ意見だと考えていいのか?」
 彼女がふと、視線をコムイの背後に流して問うと、クロスは軽く口の端を曲げ、歩み寄る。
 「お前の頼みなら、断る理由がない。
 他の三人の元帥も同様だ。いつまでも結果を出せない馬鹿どもには、いい加減、うんざりしているだろうからな」
 言いながら、必要以上に身体を寄せてくるクロスに、彼女は眉をひそめた。
 「寄るな。妊娠する」
 「すればいいじゃねぇか」
 「冗談じゃな・・・」
 彼女が、冷たくクロスを突き放そうとした瞬間、
 「元帥―――――――――――!!!!」
 甲高い歓声と共に、天井近くから降って来た子供が、クロスの頭頂にきれいな着地を決め、彼を撃沈させた後、彼女に抱きついた。
 「元帥!会いたかったさー!!」
 「ラビ・・・・・・」
 苦笑する彼女を、少年はキラキラとした目で見上げる。
 「元帥!今日こそはきちんと返事をもらうさ!俺がテキレイキになったら、結婚してくださ・・・ヘギョッ!!」
 怒涛のプロポーズは、少年と同じく降って来た老人の蹴りに遮られた。
 「なにをしとるんじゃ、この馬鹿弟子が!!」
 「じいちゃん・・・!!俺の一世一代のプロポーズに、なんてことするさ!!」
 「なーにがプロポーズじゃ、このマセガキが!!大人の話を邪魔するでないわっ!!」
 「だって!このおっさんが、元帥を盗ろうとしてたんさ!元帥には、ずっと前から俺がプロポーズしてたのに!!」
 床に血の池を作るクロスを踏んだまま、絶叫して、再びしがみついてきた子供を、彼女は苦笑して見下ろしている。
 と、
 「誰がおっさんだ、このクソガキ――――――――!!!!」
 白い仮面を鮮血で染めたクロスが、ゾンビのように立ち上がり、少年の首根っこを猫の仔のように摘み上げた。
 「おい、ジジィ!!野良はガキの頃から躾けてねぇと、勝手に繁殖するぞ!!」
 「放せよ、おっさん!!
 元帥!!おっさんがいじめるさ――――!!!」
 「クロス!ラビはまだ子供じゃないか。放しておやり」
 「元帥!!愛してるさ――――!!!」
 叫びつつ、ラビはクロスに摘み上げられた事をいい事に、彼の鳩尾(みぞおち)に鋭い蹴りを入れ、解放されるや、自分をかばってくれた元帥の胸に飛び込んで行く。
 そんな場景を、呆気に取られて見守っていたリーバーは、傍らのコムイの袖を引いた。
 「あの・・・なんなんすか、あの人達・・・・・・?」
 「うーん・・・ラビ、更にパワーアップだねぇ・・・。まさか、クロス元帥を沈めるまでに成長していたとは」
 「いや、そういうことを聞きたいんじゃなくて・・・」
 脱力して、リーバーはコムイの袖に縋る。
 と、コムイはにっこりと笑って、老人に一礼した。
 「ご足労かけまして、ブックマン」
 「いや。
 そちらがおぬしの後任か」
 「ハイ。リーバー・ウェンハム君です。
 リーバー君、こちら、ブックマンと、彼の弟子のラビ。
 本来、教団に属する人達ではないんだけど、エクソシストとして協力してもらっているんだ」
 「よろしくお願いします・・・」
 未だ呆然としたまま、ぺこりと頭を下げたリーバーは、厳格な表情の老人と、陽気な笑みを浮かべる少年に、ふっと、肩の力が抜けた気がした。
 ―――― そう言えば、ここに来て初めてだ。子供の笑顔を見たのは・・・。
 教団の人間ではないからか、闇を感じさせない二人に、リーバーはようやく、緊張を解く。
 「さて、のんびりしている時間はない。
 ラビ、しばらくリナ嬢と一緒に離れておれ」
 「うん!
 リナ!俺とヘブ君とで遊ぼうぜ!」
 「・・・・・・っ!」
 声を出せないまま、リナリーはコムイから離されまいと、しばらく抵抗していたが、
 「大丈夫さ!ちゃんと、兄ちゃんが見えるとこまでしか行かないから!
 な?
 ヘブ君に遊んでもらおうぜー♪」
 ラビの陽気な声と、強引な誘いに引かれて、とうとうリナリーは、兄の白衣から手を離した。
 「・・・大切な妹御をあのようにされて、さぞはらわたの煮える思いであろうな」
 潜めた声が、届かない辺りにまで二人が離れたことを確認したブックマンが囁くと、コムイは、それまで浮かべていた笑みを、拭うように消す。
 「彼らには、この教団から・・・いえ、この世界から、去ってもらいます」
 初めて聞く、氷のように冷たいコムイの声に、リーバーは慄然とした。
 「班・・・!」
 「あぁ、勘違いしないでおくれね、リーバー君。殺しはしないよ。
 なにしろボクは、清廉潔白な教団の、室長になるんだから。
 ただ、科学者が研究の場を奪われ、学会からも追放されたら―――― 死ぬより辛いかもね」
 凄まじい皮肉でリーバーの言葉を封じたコムイは、ブックマンと二人の元帥に、改めて向き直る。
 「私は必ず、この教団を変え、全力であなた方のサポートをします。
 そのために、今はあなた方の協力が欲しいのです」
 真摯な目に、クロスですら、表情から皮肉の色を消した。
 「もとより、俺たちエクソシストは、的確なサポートを求めている」
 「大元帥達も、気持ちは同じだ。結果を出せない科学班に業を煮やしておられる・・・せんだって、お前を科学班の班長に抜擢したのも、この教団の体質自体を変えよとの、意思の表れだ」
 元帥達の言葉に、ブックマンも、深く頷く。
 「私が記憶してきた事々・・・この教団で行われたこと、行われていることを、全て委ねよう。
 それらの情報を、どう使うかはおぬしが決めることだが・・・私から得た情報を歪めることは許さないと、あらかじめ言っておく」
 「心得ました」
 と、深くこうべを垂れたコムイの上からもまた、声が降り注いだ。
 「私・・・も・・・協力しよう・・・・・・。
 もう・・・この手で・・・・・・殺したくは・・・・・・ない・・・・・・」
 密やかに囁いた、異形の手の中では、ラビが、視線をコムイに定めたままのリナリーに、楽しげに笑いかけている。
 子供の身体にイノセンスを埋め込んだ同じ手が、今は子供達を愛おしげにあやしている―――― どちらが本来の、彼の姿なのだろうかと、リーバーは眉を曇らせた。
 今の、子供を慈しむ姿こそが、彼本来の性格なのだとしたら、昨日はどれほど辛かったことだろう・・・。
 「ありがとう、ヘブ君」
 コムイはヘブラスカを見上げ、自分をじっと見つめているリナリーを安心させるように、笑って手を振った。
 「それで?大元帥達への推薦は我々が行うとしても、室長になるための、具体的な策はあるのか?」
 「ライバル達・・・特に、世界中にある支局の局長達を制するのは、難しいと思うがな?」
 元帥達に問われたコムイは、笑みを貼り付けたまま、頷く。
 「実は、既に手は打ってあるんです。
 ブックマンに頂いた情報と、元帥達から寄せられた報告・・・それらを総合した結果を、ずいぶんと前から、通信班を通じて世界各地の支局に送っています」
 それは、科学班としては当然の仕事で、誰も、怪しむ者はなかった。
 「情報の捏造はしていません」
 ブックマンに微笑みかけたコムイは、しかし、と、続ける。
 「情報の操作はしました。
 いや、より正確な情報を送ったと言うべきかな?
 今まで、科学班が握りつぶしていた不利な情報を、ことごとく、世界中の支局にばら撒きました」
 「・・・なるほど。
 現在、世界各地でアクマは急増し、伯爵は本格的に始動したと考えられる。
 長くこの教団の幹部として留まりたい者や、命が惜しい者は、室長に就任することを拒むだろう」
 低く呟いたブックマンに、女声が同意した。
 「この教団ができて既に百年・・・。
 組織としては長い教団の歴史が、幹部の座に就いた者達の思考を枯燥(こそう)化した・・・。
 彼らは最早、戦って得る勝利よりも、自身の地位の安定を求めている」
 嘆かわしい事だ、と呟く声に、クロスが冷笑する。
 「みな、自分の身がかわいい・・・できるなら、危険な事は全部他人に任せて、自分は安全な場所で権力だけを持っていたい。そう言うことだろう」
 「権力・・・か。
 サポート派室長の地位は、大元帥の直下、我らと同等だが・・・・・・」
 薄い色の目が細まり、焼け爛れた半面が引きつって、奇妙な笑みが浮かんだ。
 「よほどの馬鹿でない限り、この時期にサポート派の室長に就任することは、賢い選択ではないとわかるはず・・・」
 「おっしゃる通りです、元帥」
 くすり、と、笑みを漏らしたコムイに、しかし、ブックマンは厳しい視線を送る。
 「では、その不利な地位に、おぬしは自ら就こうと、そう言う訳か」
 「ボクは、教団の設立当時から関わってきた方々から見れば、どこの馬の骨とも知れない人間ですから。
 こんな、いつ失脚するかわからない地位に、一時的に乗せておくには、いい人材でしょう?」
 一応、有能でもあるし、と、コムイは陽気に笑った。
 「既に、アジア支局長以外の支局長からは、同意の旨、報告を受けました」
 「あ・・・昨日の・・・・・・」
 コムイの言葉に、各支局からの報告を手にしていた彼の姿を思い出し、リーバーが呟いた。
 「腰抜け揃いか・・・。
 しかし、おまえの事だ。一緒に恩も売ったんだろう?」
 クロスの皮肉に、コムイはあっさりと頷く。
 「もちろん。
 彼らはどうやら、ボクが室長なんかになりたがっていないと思っているようで・・・きっと今頃、ようやく面倒を押し付けることができたと、胸を撫で下ろしている事でしょうね」
 そう仕向けたのはもちろん、彼自身だろうと言う事は、ここにいる人間ならばもう、予想していた。
 「では、後はあの、狂科学者どもを追い出すだけか」
 やや、表情を和らげたブックマンに、コムイは口の端を曲げる。
 「こちらも、既に手は打ってありますよ。先日、出かけた際にね」
 「先日って・・・もしかして・・・?」
 「そう♪リーバー君に呼び出された事を口実に、外で色々やってきました!
 優秀な人材を登用するため、って言っておけば、ロンドンに出かけても、怪しまれないしねぇ!」
 嬉しげに笑うコムイに、クロスが顔を引きつらせた。
 「・・・・・・待てコラ。何をしやがったか、この悪魔・・・!!」
 「酷い言われようですねぇ、クロス元帥。
 ボクはただ、彼らが実際にやってきたこと、やっていることを論文にまとめて、彼ら自身の名前で各方面に送りつけただけですよ♪
 わざわざあら探ししなくても、黒い部分の多い人達の事ですからねぇ」
 「班長・・・!尊敬します!」
 リーバーは、思わず拳を握った。
 この教団内で密かに行われるだけならばまだしも、被験者の死をもいとわない、狂った研究者達を、公然と受け容れる大学や研究機関は存在しない。
 最早、時代は中世ではないのだから。
 「変えますよ。もう、二度とこんな残酷な研究はさせないと、誓います」
 自信に満ちた笑みを浮かべ、断言したコムイに、みな、深く信頼を寄せた目で頷いた。


 コムイが、『研究室に戻るよ』と言った途端、リナリーは、ヘブラスカの手からひらりと飛び降りた。
 「危なっ・・・!!」
 思わず悲鳴を上げたリーバーの眼前で、リナリーは小鳥のように軽々と着地し、コムイに駆け寄ると、彼の白衣にしがみつく。
 「え・・・・・・?」
 呆気に取られたリーバーに、クロスが笑みを漏らした。
 「なんだ、お前?イノセンスのことは知っていても、エクソシストの能力を見たのは初めてか?
 子供とはいえ、あのくらいの身体能力は当たり前だぞ」
 「いや・・・でも・・・・・・」
 戸惑うリーバーの眼前に、しかし、ラビまでもが飛び降りる。
 「うわっ!!」
 驚いて身を引いた彼の前を、何事もなかったかのようにラビは通過して、リナリーに駆け寄った。
 「もう終わりかよー!もっと遊びたいさ!!」
 不満げなラビの声に、しかし、リナリーは振り向きもしない。
 「リナぁー!!」
 ラビが、呼びかけながらリナリーの長い髪を引くが、彼女はふるふると首を振るばかりだ。
 「ちぇーっ!」
 拗ねてしまったラビは、ぷいっと踵を返す。
 「元帥!俺にはもう、元帥しかいないさ!俺と結婚してく・・・れぃっ!!」
 「まーだ言うとるか、このマセガキが!!」
 またもや元帥に抱きついた弟子に、ブックマンがきつい蹴りを食らわせる。
 「じいちゃん!!いちいち蹴んなよ!!痛いさ!!」
 「やかましいわ!ガキが色気づきおって!!」
 「俺は本気さ!!」
 「なお悪いわ!!もう行くぞ!!」
 「元帥元帥!!婚約だけでも・・・・・・!!」
 「黙れ、マセガキ!!!」
 「元帥――――!!」
 泣き叫ぶ子供の首根っこを猫のように捕らえて、ブックマンは実験室を出て行った。
 「・・・・・・なんか、激しい師弟っすね」
 「あの人達は、いつもあんなカンジだよ」
 リーバーの感想に、コムイはにこやかに応じる。
 「しかし元帥も、随分と愛されたものですねぇ」
 コムイの言葉に、彼女はくすりと笑みを漏らしたが、
 「あんなガキに迫られても、うるさいだけだろう」
 と、再び寄り添ってきたクロスには冷たかった。
 「寄るなと言っているだろう、破戒僧。穢れる」
 「・・・なんでお前は、いつもそんなに冷たいかねぇ」
 「我が身を守っているだけだ。
 そんなことより・・・謁見に参るのだろう?」
 するりと身を翻し、ドアに向かう背を見送りながら、クロスは冷笑する。
 「ふん・・・なんだかこいつを見ていると、俺がわざわざ、堅苦しい思いをしてまで大元帥達に謁見する必要はないんじゃないかと思えてきたがな」
 「そんなことおっしゃらず。
 頼みにしていますよ、元帥方」
 にっこりと笑うコムイに、クロスは鼻を鳴らした。
 「ふん・・・お前も狸か・・・」
 「この穴蔵に入ると決めた時から、そうなる覚悟はできていますとも」
 「食えない奴だ」
 「お褒め頂きまして、ありがとうございます」
 さらりと交わしたコムイに苦笑して、クロスもまた、踵を返す。
 「―――― さて、リーバー君。
 ここまで知ってしまったキミに、指令だ」
 クロスの背を見送ったコムイは、扉が閉まるのを待って、リーバーに向き直った
 「は・・・はいっ!」
 緊張した声を上げるリーバーに、彼はリナリーを抱き寄せ、その耳を塞ぐ。
 「ボクは・・・今まで多くの事を、容認してきた。
 積極的に許可したわけではないけれど、キミが見た、子供達に対する仕打ちは、ボクの指示の元に行われたと、彼らは主張するだろう」
 それは、コムイが科学班班長に就任する以前から行われ、以後も研究員達が彼に逆らって続行した実験ではあるが、知らなかった、止められなかった、では済まされない。
 研究員達の行為に責任を持つ事も、班長たる者の役目だ。
 「ボクが室長になることは、元帥達や各支局長の推薦がある以上、もう確実だ。
 だけど、ボクが彼らを一掃しようとした時―――― 彼らは、自身らの研究を、僕の指示の元に行ったと主張し、あの残酷な行為の責任を、ボク一人に負わせる事ができる」
 「そんな馬鹿な事が、あっていいわけないでしょう!」
 リーバーは、固く拳を握って叫んだ。
 「あなたは奴らを止めようとしているんでしょう?!奴らをこの世界から抹殺する・・・そのために室長になるんじゃないんですか!」
 悔しげに歯を食いしばるリーバーに、コムイはふと、目元を和ませる。
 「その通り。
 だから、ここからは、キミの協力が欲しい」
 「俺・・・?」
 顔を上げると、目の前に、コムイの自信に満ちた笑みがあった。
 「彼らの研究は無駄だと・・・完全に証明する」
 「・・・!」
 「もちろん、彼らが長い時間をかけて研究し、得てきたデータを一つ一つ潰していくのは、大変な作業だ。
 だけど、時間はない。
 今も、彼らに虐げられている子供達はたくさんいるし、明日、また殺されるかもしれない・・・。
 リーバー君、キミは、彼らを凌ぐことができるかい?」
 コムイの問いに、クロスの言葉が蘇る・・・。

 ―――― コムイは、サポート派の長にのし上がるための人材なんて欲しがっちゃいない。
 ―――― 奴が本当に求めているのは、科学班をまとめ、結果を出せる人材・・・お前はそれに、なれるのか?

 「―――― できます」
 静かな声音で、リーバーは断言した。
 「必ず結果を出し、全力であなたを助けます。だから――――」
 リーバーの真剣な眼差しに、コムイは笑みを消した。
 「あなたは、この教団を変えてください!」
 その言葉に、コムイは、一礼するかのように深く頷く。
 「今後ともよろしく、リーバー君」
 差し出された手を、リーバーは、固く握った。


 ―――― あの時の事は、思い出す度に吐き気がする・・・・・・。
 後に、リーバーはそう言ってはばからなかった。
 何しろ、与えられた研究課題をこなしつつ、その裏でコムイと二人、科学班が出してきた研究結果の矛盾をつき、否定する証拠を挙げる結果を出さなければならないのだから、寝る間などあろうはずもない。
 しかも、彼らの研究は広範囲の分野に及んでいる。
 いかに天才の誉れ高いコムイや、その彼に認められたリーバーであろうとも、専門外の研究と言うものはいくつも存在し、その度に膨大な資料を一から見直さなければならなかった。
 そんな、無間地獄とも言うべき状況下において、さらにリーバーを苛んだのが、他の研究員たちの非協力と嫌がらせだった。
 初日に吐いた暴言が災いし、『生意気な新人』と目をつけられた彼は、幾度も研究や実験を邪魔されたり、不正確な資料を故意に渡されたりするなど、陰険な嫌がらせに遭っていた。
 「・・・・・・あんの・・・クソヤロウ共!
 実験に失敗した振りして、一気に爆殺してやろうかぃ!!」
 不正確な資料を元にしたために、有効な実験結果を得られなかったリーバーが、無駄なデータの羅列された紙を引き裂きながら絶叫すると、
 「あー・・・。そっか。そう言う手もあったねぇ」
 と、目の下に濃い隈を作ったコムイも同意する。
 「班長、あいつら全員殺しましょう。そうしましょう」
 真夜中の科学班研究室には、既に彼らの他に、誰もいない。
 誰はばかることなく放言したリーバーに、コムイは半分ふさがった目を上げた。
 「けどねぇ・・・東洋には、因果応報って言葉があって、自分がやった事は自分に返って来るって言うからねぇ・・・。
 一気に爆殺しても、残った人間にボクらが殺されでもしたら、元の木阿弥じゃないー?
 ここは正々堂々、完膚なきまでに叩きのめして、正面突破しようじゃないかー」
 それが、西洋の騎士道精神ってやつじゃないのー・・・と、独り言のように言いながら、機械のようにペンを走らせるコムイに、リーバーも気を取り直した。
 「そうっすね・・・!なんたって俺たちの仕事にゃ、人の命がかかってますから!」
 自身に言い聞かせるように、ぐっと拳を握ると、コムイの膝の上に座る、リナリーと目が合った。
 彼女は既に、リーバーを味方だと認識してくれたようで、彼に、気遣わしげな視線を送っている。
 「大丈夫だよ、リナリー。
 俺、こう見えてもタフなんだからさ」
 笑って手を伸ばし、頭を撫でてやると、彼女は最早、逃げようとはせず、彼の手の下で、こくりと頷いた。
 「そんじゃ・・・そろそろブックマンが、子供らの診察データをまとめてくれてるはずですから、もらってきます!」
 「うん。
 医学は専門外だろうけど、がんばってね」
 「うぃーっす!」
 勢いよく踵を返し、研究室を出ようとしたリーバーは、ドアノブに手を掛けた途端に向こう側から押され、慌てて飛びのいた。
 「うわっ?!」
 「っと?!」
 ドアを開けたのは、小柄な中年の研究員。
 研究室の中でも、あまり目立たない存在で、ただ黙々と与えられた研究をこなす、サポーター的な存在だった。
 彼は、話を聞かれていたか、と、慄然としたリーバーを、気弱そうな視線で見上げると、分厚い資料を差し出す。
 「・・・ブックマンから、言付かってきた。
 入れて・・・くれるかな・・・・・・?」
 班長と話がしたい、と言う彼に、リーバーはややためらいつつも、道を開け、彼を通してから、再びドアを閉めた。
 「どうしたんだい、こんな夜中に?」
 意外そうに問うコムイに、彼は黙ってブックマンのまとめた資料を渡す。
 「わざわざすまないね。
 でも、どうしてキミがブックマンの資料を?」
 微笑みつつも、鋭い目線を向けるコムイの前で俯いたまま、彼は、ぽつぽつと話し出した。
 「あなた方が・・・新たな研究をしていると、聞いたものですから・・・。
 ・・・班長。私は、気の弱い人間です。
 ここで行われている実験が、倫理的ではないと知りながら、上の研究員達に睨まれるのが怖くて、協力してきました。
 ですが・・・本当は、こんなこと、やりたくなかった・・・!」
 黙ったまま、俯いた彼の首や耳が、赤くなっていく様を見守る二人に、彼は、さらに言い募った。
 「ですが・・・あなたが班長に就任してからずっと、同じ部屋にいるリナリーを見る度、私は神から責められている気がしました・・・!
 こんなに小さい少女が、あなたを失うのではないかと怯え、眠る事もできず、痩せ衰えて行く・・・・・・あなたの白衣を握る、その小さな手や、瞬きもしない、乾いた目を見る度に、私は恐怖に震えます・・・!
 私は、決して神に許される事はないだろうと・・・・・・!」
 ぽた・・・と、俯けた目から滴る雫が、彼の震える手を濡らしていく。
 「私に・・・贖罪をさせてください・・・・・・!」
 振り絞るように言って、彼は、涙に濡れた顔を上げた。
 「私は、医学を専門としています!
 ブックマンが子供達を診療したデータから、今まで子供たちに対して行われた実験が、有効どころか、害であった事を証明してみせます!
 ですから、どうか、班長・・・・・・!」
 コムイの執務机に両手をつき、詰め寄ってきた男を、彼は、冷静に見つめていたが、しばらくして、
 「―――― いいでしょう」
 と、立ち上がる。
 「医学博士の協力は、ボクもぜひ、欲しかったところです」
 そう言って、手を差し出したコムイに、
 「班長・・・!」
 奇しくも、同じ言葉が二人の口から上がった。
 安堵と歓喜に満ちた男の声に反して、リーバーのそれは、苦々しい。
 「どうした、リーバー君?」
 コムイに笑みを向けられたリーバーは、舌打ちでもしそうな顔で、男と同じく、コムイに詰め寄った。
 「彼は、ずっと非情な研究に手を貸していたんですよ?そんなに簡単に信用して、いいものでしょうか?」
 冷たく見下ろされて、男は再び、汗顔を伏せる。
 しかし、
 「リーバー君、キミの言う事もわかるよ。でも・・・・・・」
 そう言って、コムイはブックマンの資料を掲げた。
 「今のボク達は、研究とその結果に集中するあまり、状況を見つめる冷静さを失っている。
 だが、ブックマンは違うよ。
 彼は、いつも第三者の目で、冷静に物事を見つめ、的確な助言をくれる。
 そのブックマンが、彼を差し向けてくれた―――― ボクはブックマンの協力を、ありがたく受けようと思う」
 淡々と発せられた言葉に、リーバーは身を起こし、傍らの男に向き直る。
 「・・・すみませんでした、ドクター」
 突然、深々とこうべを垂れたリーバーに、謝られた男の方がうろたえた。
 「俺、つい苛立ってしまって、失礼な事を言いました」
 「い・・・いや・・・あの・・・・・・」
 「専門外の俺がやるより、ドクターにお任せした方が、早く結果が出ます。よろしくお願いします!!」
 言い募られ、戸惑う彼の前に、再びコムイの、長い腕が差し出された。
 「改めてよろしく、ドクター」
 「・・・・・・はい!」
 コムイの手を、両手で固く握り返し、彼は、紅潮した顔で、何度も頷いた。


 その後、徐々に・・・本当にわずかずつではあったが、教団に受け容れられて、日の浅い者を中心に、コムイとリーバーに協力する研究者達が現れた。
 「あのじいさんの影響力って、実はすごいんすね・・・」
 間もなく、倍以上の効率で進むようになった研究の結果報告を見て、リーバーが感嘆の声を漏らすと、コムイも明るい笑声を上げる。
 「ブックマンだけじゃないよ。
 元帥達やエクソシスト達・・・それに、なんとまぁ、あの、超問題行動のクロスまでもが協力してくれてねぇ・・・・・・。
 一体、何を企んでいるのか、ちょっと怖くもあるんだけど」
 「はぁ・・・・・・」
 ―――― もしかしてこの人、元帥がリナリーに『20年後には俺好みの美女になりそうだ』なんて言った事を、根に持ってんのかな・・・。
 クロスに対しては、いつまでも懐疑的なコムイに、リーバーは乾いた笑声を漏らす。
 と、その時、科学班研究室に、メッセンジャーが現れた。
 いつもやってくる、班同士の連絡役ではなく、団服からして違うメッセンジャーだ。
 「大元帥の・・・?」
 ざわ・・・と、騒がしくなった室内で、同じ言葉が囁かれる。
 と、メッセンジャーはコムイの前に歩み寄るや、威儀を正し、その手にした封筒を、恭しく差し出した。
 「コムイ・リー科学班班長。
 明日正午、大元帥方への謁見を命じます」
 好奇に満ちた視線の集まる中、コムイは悠然と立ち上がり、自然な動作で差し出された封筒を受け取った。
 「承知しました」
 力む様子もなく、にこりと笑った彼に、メッセンジャーの方が一瞬、戸惑いを見せる。
 「そ・・・それでは、失礼します!」
 「ハイ、ご苦労様」
 踵を返した彼を見送って、コムイは、再び席についた。
 「班長・・・?」
 シン・・・と静まり返り、息詰まるような視線が集中する中、コムイは無造作に封を開け、中の紙を取り出した。
 「内定―――― 科学班班長コムイ・リーを、室長に任命する」
 コムイの、さして大きくもない声が、静まり返った部屋に流れた途端、大きな歓声が上がった。
 「おめでとうございます、班長・・・いえ、コムイ室長!!」
 「ありがとう、リーバー君。
 キミたちも、協力してくれてありがとう。これからもよろしくね」
 「ハイ!!」
 明るい声を上げる、リーバーを始めとする少数の研究員達を、他の研究員達は訝しげに見つめた―――― 今後、自身らが辿るべき道も知らずに。


 翌日、薄曇の空の下、大きなあくびをしながら庭に面した回廊を科学班研究室に向かっていたリーバーは、その目の端に子供の姿を捉え、足を止めた。
 細い肩に黄色い小鳥を乗せた子供は、地面にしゃがみこみ、なにやら呟いている。
 「おい、どうした?腹でも痛いのか?」
 声を掛けると、子供は、肩越しにリーバーを振り返った。
 「あれ・・・?」
 見覚えのある顔に、リーバーが笑みほころぶ。
 「久しぶりだな。元気だったか?」
 ゆっくりと歩み寄り、その傍らにしゃがみこむと、少年は逃げようとはせず、こくりと頷いた。
 「あ・・・もしかしてコレ、ブレンダの墓か?」
 リーバーが、目の前に盛り上がる土と、そこに立てられた、粗末な木の十字架を示すと、少年は、再び頷く。
 「そか・・・。悪かったな、あの時、墓を作るの、手伝ってやれなくて」
 と、
 「・・・見てたよ」
 ぽつりと、何の脈絡もなく呟かれた言葉に、リーバーは傍らの少年を見下ろした。
 「あれから、ずっとあなたを見ていた。
 新しい医師(せんせい)にも、あなたの事を聞いた・・・・・・」
 「医師?」
 ブックマンと医学博士と、どちらの事だろう、と、首をかしげるリーバーを、少年は、真摯な目で見上げる―――― 以前見た、濃い疲労の色は薄れ、この年の少年らしい柔らかさが、頬の辺りに戻りつつある。
 「あなたは、僕たちを助けてくれたんだね。
 最近、鏡を見た?今のあなたは、あの時の僕と、同じくらいやつれちゃっているよ」
 ちらりと、口元をほころばせた少年に、リーバーは苦笑した。
 「そっかぁ?
 でも、男前があがったろ?」
 そう言って、明るい笑声を上げるリーバーに、少年も笑みほころぶ。
 「ありがとう」
 立ち上がり、差し出した小さな手から、しゃらん・・・と、綺麗な音がする。
 「あなたに、マリア様のご加護がありますように」
 少年はリーバーの手を取ると、その掌に銀のロザリオを乗せた。
 「大事にするよ」
 ぎゅ、と、リーバーが握りこむと、少年は笑って踵を返した。


 「就任式、おつかれっした、室長!」
 陽気な声を上げ、コムイの自室に飛び込んで来たリーバーに、コムイは、し、と、口元に指を当てた。
 「え・・・?」
 ふと、コムイの指した方向を見ると、彼のベッドの中で、リナリーが、穏やかに胸を上下させ、眠っている。
 「リナリー・・・!」
 思わず笑みほころんだリーバーに、コムイも、安堵の笑みを返した。
 「この成果を得るまでに、随分長くかかったね・・・」
 囁きつつ、安らかに眠るリナリーの頭を、優しく撫でるコムイに、『でも・・・』と、リーバーはロザリオを握った手に目を落とし、笑みを深めた。
 「この上ない報酬です。
 世界を救う、なんて、壮大な事を考えるのは、これからっすよ」
 「全くだね」
 コムイは深く頷き・・・部屋は、少女の寝息と、密やかな笑声に満たされた。





Fin.

 










WEB拍手で、『シリアスな班長の話が読みたいです』というコメントを頂きまして。
ちょうど、『コムイが室長になるまでの話が書きたいなぁ』と思っていた時でしたので、一気にのめりこみました(笑)
・・・っつても、この話では、『班長』はコムイで、リーバー君は最後までリーバー君ですね・・・!
うわぁ;;;すんませんすんませんすんません;;;;;(おろおろおろおろ;;;)
その上、当初はもっと陰謀を・・・!と思っていましたが、この爽やか青年達・・・ぶふっ!!(笑うな)
いや、爽やか青年達(言い張る)に、あんまり汚い手を使わせるのもなぁ・・・と、改心し(俺が)、このようになりました。
・・・名前のない少年、『お前』が『You=ユウ』だなんて、大勘違いデスヨ・・・。
ちらっと考えましたけど、彼は『ローティーンで『あの人』を追いかけて渡英した』設定希望ですから;
女性元帥、クラウドかソカロか、二分の一に賭けて見ようかと思いましたが、二分の一の確率すら外す、くじ運のない奴なので、無理はしない事にしました;
ともあれ、記念すべき、101作目。
お気に召してくだされば、これ幸いv












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