* 057 兄弟 *
* お気に召すまま *
――――・・・疲れ果てた顔をしていた。
ゼクセンとグラスランドを連合させた大戦だけが、その原因ではないだろう。
押し付けられた永遠と、自ら背負った責任、新たに知ったおぼろげな運命の影が、彼女を蝕んで行ったのだと思う。
「・・・・・・だからどうだと言うのだ。関係ないだろう、俺には」
吐き捨てた声には多分に苛立ちが混じっていて、他ならぬ自分に驚いた。
―――― 彼女の事を考えていただけで、なぜこんなにも苛立つ必要がある?
冷静に、自身の思考の軌跡を追う。
紫の瞳に憔悴をにじませ、それでもなお毅然と俺を見据えた銀の乙女。
確かに美しい女ではあったが、俺はただそれだけの理由で気に留めるほど愚かな男ではない。
たった一度対峙しただけの女に、これほど苛立つ理由とはなんだ?
ゼクセン騎士団の団長だからか・・・いや、無骨な戦争馬鹿ほど嫌いな人間はいない。
犬猿の仲であったゼクセンとグラスランドを、一時的とはいえ纏め上げた手腕?―――― 確たる利益さえちらつかせれば・・・いや、俺が敵でさえなければ、もっと早くまとめられたはずだ。
真なる紋章を継承した器―――― 馬鹿馬鹿しい。真なる紋章など、まともな人間が持ってもいいことはない。
理性的に考えても、俺が彼女を気にかけるべき理由は思い当たらない。
ならば、じっくり観察してみるのも一つの手か。
アルベルトは、その身に受ける血の証左とも言うべき赤い髪を払って、神官将が差し出す辞令を受け取った。
受けたそれには、ハルモニア神聖国神官将ササライ直属、ゼクセン・グラスランド専任高等弁務官と記してある。
弁務官―――― 保護国や植民地に赴いて政治的指導をする官吏。
誇りばかりが肥大したハルモニアのことだ、保護国などとは思っていないだろう。
「謹んで、承ります」
かつての敵を受け入れた、寛容な人物と見せかけて、笑顔で僻地へ飛ばす無情な神官将に、アルベルトは自負に満ちた笑みを返した。
人の心を操る軍師として、いい経験になるかもしれない。
行ってやろうじゃないか、ビュッデヒュッケ城とやらに。
―――― 訳わかんねぇ。
あの、冷静で冷淡で野心的な兄貴が。
目的を達するためなら手段を選ばない、シルバーバーグ家の血を顕著に継いだアルベルトが。
なんで色恋なんぞにうつつを抜かしてるんだ?
しかも、よりによってクリスさんにだなんて・・・・・・。
シーザーは、その身に受ける血の証左とも言うべき紅い髪を掻きむしって絶叫した。
「あり得ねーだろ!」
確かに、クリスさんは美人だ。
それも、そんじょそこらに転がっている美貌じゃない。
例えば、花のような可憐さとか、陽だまりのような暖かさを持つ女性はビュッデヒュッケの城に拠った女性の中にも多いし、色気においては彼女以上の猛者が何人もいた。
だけど、そんなんじゃないんだ。
兄貴は、顔がいいだけの女になんか、見向きもしない。
女に限らず、中身のない人間には、操り、支配する以上の興味を持たないんだ。
―――― そんな兄貴が、『惚れた弱みだ』なんてうそぶくかぁ?!
初めてだぜ、あんな言葉、あんな口調、あんな顔―――――!!!!
気色悪いと言う以前に、未知なる物を見てしまった恐怖に凍ってしまった。
そして、俺が解凍された時、既に話は後戻りの出来ないところまで進んでいたんだ。
やつの身分は、ハルモニア神聖国神官将ササライ直属、ゼクセン・グラスランド専任高等弁務官。
・・・・・・さりげにゼクセン・グラスランドを保護国(真情は植民地だろう、きっと)扱いしているのがまたムカツク。
俺の全知全能を尽くして守った初めての地を、好きにさせてたまるか!!
現在のビュッデヒュッケ城は、城主による当初の構想とはやや違う意味で発展している。
民族を問わない商業地として発足したはずのそこは今や、ゼクセン連邦とシックスクランの政治的折衝地帯と言うべきものになっていた。
そうなったのは、ササライの全権大使として、アルベルトが赴任して以後の事である。
理想とする姿から微妙に食い違って行く現実に、中には不安を感じる者もいたようだが、ゼクセン側もグラスランド側も、地位が上がるにつれてこの状況を是とする傾向が強かった。
異族間交流の場として発展した商業都市が、政治的中心となることはままあることである。
ビュッデヒュッケの城は、都市と言うにはまだ貧弱なものではあったが、ゼクセンとグラスランドのほぼ中央にあるという立地条件が、騎士団やシックスクランの趨勢を握る者達にとっては好都合だったのだ。
―――― まぁ、そんな小難しい状況はともかく、純粋にこの城が気に入っていたゼクセン騎士団団長は、無利子無期限という、およそ商業都市に生まれた貴族とは思えない破格の条件を示してこの城に資金援助をし、筆頭株主として、城の中でももっとも日当たりのいい場所に一室を得ていた。
「オーフー♪ひっさしぶりのオフだぁぁぁーいィ♪」
新たにしつらえた寝台の上でぽんぽん跳ねながら、クリスはゼクセン騎士団団長と言う仮面を放り捨ててはしゃぎまくっていた。
「仕事もー♪嫌味もー♪腹芸もー♪お休みぃー♪」
ぱたん、と、仰向けに寝転がって、クリスは嬉しげに笑い転げた―――― はたから見ると、かなり怖い。
が、そんなことはお構いなしに、クリスは思いっきりストレスを発散していた。
そんな時、
「・・・・・・随分と楽しそうだな」
呆れたような、馬鹿にしたような、冷笑しているような、微妙な感情をマイナス方面にブレンドした低い声をかけられて、クリスは慌てて起き上がる。
「勝手に入ってくるな!!」
激昂のまま怒鳴りつけるが、かつての敵は涼しげな顔で彼女の怒声を流した。
「なかなか面白い歌を歌うのだな。続けたらどうだ?」
自慢ではないが、クリスの歌唱力はかなり―――― いや、すさまじく低い。
「〜〜〜〜〜〜〜っいつからいたんだ、そこにぃっ!!」
それを自覚するクリスは、羞恥に耳まで赤く染めて怒鳴るが、ハルモニアの高等弁務官は動じもしなかった。
「丁度5分前だ。お前が『新しいベッドー!きゃー!!』と、ダイビングした辺りからだな」
と、正確に説明する辺りがまた憎らしい。
「じょっ・・・女性の部屋に入る時はノックしろ!!」
「したが、飛び跳ねるのに夢中で聞こえなかったようだな」
「〜〜〜〜〜っじゃあ、声くらいかけたらどうなんだっ!!」
「かけてみたが、歌うのに夢中で聞こえなかったようだな」
やや俯けた口元が笑みを容作ってゆく様に、上昇の一途をたどっていたクリスの体温だったが、不意に血圧が下がった。
「・・・・・・お前」
クリスの呼びかけに顔をあげたアルベルトは、もう間違いなく笑みを浮かべている。
「なんで鍵を開けてるんだ!?」
絶叫する彼女に、アルベルトはもう、呆れてものが言えないとばかりに肩を竦めて見せた。
「合鍵を作ったに決まっているだろう」
「そんなもの勝手に作るな―――――――っ!!!」
豪腕によって投げられた枕をあっさりとかわして、アルベルトはクリスに歩み寄る。
「せっかくの誘いを無視しては無礼だろうと思ったのだが?」
「いつ、誰が、どこで、誘ったんだ、お前を!!」
「今、お前が、ここで、俺を誘っているじゃないか」
「誘ってない!!妙な解釈をするな!!」
「無理するな。ストレスは、早いうちに解消しておかなければな」
「お前といた方がスレトレスが溜まる・・・・・・っん!」
つれない言葉を吐く唇を塞いで、アルベルトはクリスを抱き寄せた。
そのまま重心を傾け、ベッドに押し倒そうとする彼に、クリスは見事な腹筋を使って必死に抵抗する。
「・・・何をしている?」
理解の悪い学生を叱る教師のように眉をひそめたアルベルトを、クリスは下から睨みあげた。
「それはこっちの台詞だ、馬鹿!!」
真っ赤になって怒っているクリスを見下ろし、アルベルトは不満げに吐息する。
「久しぶりの休暇とやらに、わざわざ俺に会いに来ている時点でこうなることは予測できたはずだ。純情ぶるのもいい加減にしろ」
歯に衣着せない言い様に、クリスがますます激昂した。
「誰が会いに来たと言った!!真昼間からこんなことをするなっ!!」
「そうか、今夜ならいいんだな」
断定口調で強引に約束を取りつけてから、アルベルトはクリスから身体を離す。
「では今夜・・・鍵を取り替えるなどという、無粋な真似はするなよ?」
「出て行けっ!!」
荒く息をつきながら、悠然と部屋を出るアルベルトを見送ったクリスは、まんまとはめられたことに気づいて唇をかみ締めた。
「あの・・・陰険性悪横暴男――――――!!」
せっかくの休暇も、また彼によって支配されそうな様子だった。
シルバーバーグの兄弟は、同じ城に住んでいながら、滅多に顔を合わせようとはしない。
会えば、必ず壮絶な毒舌の応酬が始まるのだから、周りの人々も極力二人を会わせることは避けていた・・・・・・別に、彼らのためを思ってのことではない。自身の心の平安を守るためである。
だが、この日はよほど星の巡りが悪かったのか、はたまた百年に一度の厄日か、この二人が同じテーブルに着くと言う最悪の事態が起きたのである。
「・・・・・・・・・他のテーブルに行けよ」
唸るように声を低めた弟を、アルベルトは鼻で笑った。
「状況判断もできないのか?ここ以外のどこに席がある?」
昼食時の酒場兼食堂は非常に混んでおり、全ての席が人でうまっている。
「だったら時間をずらせばいいことだろうが!」
シーザーがテーブルを叩いて言い募ると、
「暇なお前と違って、俺は予定が詰まっているんだ。嫌ならお前が席を立て」
後から来たとは思えないほど傲慢な態度で、アルベルトが放言した。
「だぁれが暇だって?!」
「お前以外の人間に言っているように聞こえたのか?その程度の判断能力で、よく軍師と名乗れたものだ」
殊更にあおるようなことを言って、アルベルトは弟の反応を楽しんでいた―――― 陰険と言われる所以である。
「あぁまさか、楽しい夜の為に予定を詰めまくったヤツに、そんなことを言われるとは夢にも思わなかったんでね!!」
「羨ましいからと言って、人目もはばからず公言するとは、我が弟ながら見下げ果てた奴だな」
元連合軍軍師の髪が、怒りに逆立ち始めたのを見止めた人々が、慌てて席を離れた―――― 普段、飄々として怒りを見せない彼の剣幕は、見ているだけで怖い。
だが、さすがは兄の貫禄か、弟の激昂に動じる様子もなく、アルベルトは一気に人影のまばらになった食堂内を見渡した。
「席が空いたぞ。移動したらどうだ?」
「てめぇが行けよ、馬鹿アル!!」
「黙れ、名前負け。俺と一緒にいたくないならお前が移動しろ」
まるで子供のように低レベルな言い争いが暴力沙汰にまで発展しないのは、さすがに頭でっかちの軍師兄弟と言うべきか。
その代わり、怨恨の根はより深くはびこっている。
「長男だからって威張ってんじゃねぇよ!敵だったくせに!!」
「目的に達するために最も早い道を選んだだけだ。安っぽい感情に左右される愚か者を軍師に持つとは、連合軍もよほど人材がなかったようだな」
「人道的で良識的だっただけだ!」
「違うな。俺が敵だったから、お前は連合軍に身を投じたんだ。相手が俺なら、自分の力がどの程度のものか、試しても良心の呵責がないと思ったんだろう?
そうでなければ、恣意的なお前が戦になど関わるものか」
「違う!!」
「ではなんだ?もっと自己中心的な理由か?」
激昂するシーザーに油を注ぐように、アルベルトは冷笑を浮かべた。
兄の余裕に満ちた態度に、シーザーは必死に彼の弱みを思い起こす・・・・・・優秀な頭脳も、使い方を間違えばおしまいだ。こんな二人の姿を見たなら、真に優秀な軍師であった祖父は嘆き悲しむことだろう。
ややして、シーザーは兄そっくりの冷笑を浮かべた。
普段、暢気にしている彼も、兄が相手ならいくらでも邪悪になれるのだ。
「そう、確かに自己チューだったかもなぁ。
だって俺、クリスさんが炎の英雄になったもんだから、張り切ってシンダルを陥としたんだし?」
途端、アルベルトの眉がわずかに上がったのを、シーザーは目ざとく見止める。
他人であれば絶対に見分けられなかったであろう、その微妙な変化に、シーザーは気をよくしてまくしたてた。
「あれほどの美人だし、男連中からはそりゃあモテてたけど、俺は立場を利用して長く一緒にいたしぃ?公私混同と言われても、返す言葉がないなぁ」
怒ると赤くなるシーザーとは逆に、怒りが深まるごとに蒼白くなっていく兄の顔色が、紙のように白くなった―――― 長い付き合いだが、ここまで激怒しているアルベルトは、シーザーもあまり見たことがない。
「・・・・・・言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ?」
低まった声に、シーザーは必死に冷笑を返す。
「兄貴らしくないね。安っぽい感情に左右されるのは愚かなことなんじゃなかったか?」
表面上、飄々と嘯いたものの、シーザーの背中は汗で冷たく濡れていた。
「敵を認知する為の情報収集は、感情的な行為ではない」
敵、と断定されて、さすがのシーザーも鼻白んだが、戦が始まった以上、逃げるわけには行かない。
「じゃあ言ってやる。
クリスさんの傍を離れる時には気を付けな。次に会った時は心変わりされてるかもしれないぜ!」
その言葉が終わらないうちに、食堂内を電流が駆け抜けたような衝撃が走り、兄弟対決から目が離せないでいた人々がびくびくと顔を見合わせた―――― 雷の紋章をつけているわけでもないのに、とんでもない兄弟である。
そんな二人の、険悪な様子を遠くから眺めていたクリスは、触らぬ神に祟りなし、と、そそくさと酒場兼食堂を離れた。
「な・・・なんてやつらだ・・・!!」
以前よりはややましになった城壁沿いに階段を駆け下りながら、クリスはぶつぶつとつぶやく。
「このまま兄弟喧嘩のネタにされてたまるか!」
怖いし、と、つい本音を漏らした彼女は、自身の気弱さに舌打ちせずにはいられなかった。
ふと見上げた空は、きれいに晴れ渡っている。
「・・・ピクニックにでも行くか」
少なくとも、ここにいるよりは心の平安が得られるだろう。
そう考えて、クリスは酒場に劣らず人で溢れ返ったメイミのレストランに寄ると、豪華なお弁当を作ってもらい、春の花に覆われたヤザ平原に一人で出て行った。
雨がちだった日々の名残を含んだ風は、咲き競う花々の香りを含んで、しっとりと濡れている。
未だ冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだクリスは、機嫌よく歩を進めて行った。
机上に撃沈した弟を見下ろして、アルベルトは席を立った。
弟をはっきりと敵だと認知した彼は、容赦なく彼を苛めたために、気丈にも食堂内に居座っていた城の住人達から非難がましい視線を投げられている。
が、アルベルトが冷淡な視線で見渡すと、彼らは無言で目を逸らした。
―――― 意気地のない奴らだ。
関わりになるのを恐れ、嵐が過ぎるのを黙って待っていたくせに、勝負がつくと批判を始める・・・それなら最初から仲裁に入ればよいものを、そんな勇気はないのだ。
アルベルトは冷酷な判断を下し、食堂を出た。
「・・・・・・どこへ行った?」
春の陽光に輝く銀の髪を求めてさまよった視線は、目的のものを見つけることはできなかった。
「・・・あの馬鹿のせいで、逃げられたじゃないか」
シーザーとやりあっていた時、遠くから兄弟の喧嘩を眺め、そそくさと踵を返した姿を見ていたが、アルベルトは彼女を追おうとはしなかった。
彼女を追うことで、シーザーとの緒戦に不戦敗するわけにはいかなかったのだ。
「我ながら、大人げない・・・あいつに、俺を出し抜けるはずもないのにな・・・」
弟を完膚なきまでに叩きのめした彼は、さりげない自信に満ちた呟きを漏らして自嘲した。
「・・・・・・の対処に1時間、事務処理を40分、報告書作成30分」
幸い、人と会う予定は無い日だった。
俯いたままぶつぶつと呟く彼を、城に住みついた犬達が怯えたように避けて通る。
「・・・指令書作成1時間、決済1時間―――― なんとか、夜までに終わるか」
本日の計画を立て直し、無理矢理自由時間をひねり出したアルベルトは、クリスの後を追うことにした。
彼女がどこに行ったのかさえ分かれば、移動に時間はかからない。
「全く、身勝手な女だ」
・・・・・・自分こそが身勝手だとは、全く思っていない彼だった。
「らんっらんらららんらんらんっ♪らんっらんらららんっ♪」
嬉しげにスキップを踏むと、スカートの裾がひらひらと揺れる。
裸足にひんやりとした草の感触が心地よくて、クリスは更に歩を進めた。
今の彼女は、ゼクセン騎士団団長の鎧を脱ぎ捨て、名門貴族の当主らしいドレスも纏わず、質素なワンピースを着てはしゃいでいる。
片手に靴を、もう一方の手にメイミ特製のお弁当が入ったバスケットを持って平原を渡る様は一見、村娘そのものだったが、その細い腰に佩いた剣を見止めれば、彼女がただの村娘ではないと、誰もが気づいたことだろう。
「どこで食べようかなっ」
晴れ渡った空、見果てぬ平原。
花の香に洗われた風に優しく頬を撫でられて、クリスの歌も弾んだ。
「らららららんっらんっらん♪」
と、
「中々上手いじゃないか」
突如眼前の空間を歪ませ、現れた紅い髪の男に、目にも止まらぬ早さで抜剣していたクリスは吐息して剣を納めた。
「その現れ方はやめろと言っただろう。いつか斬ってしまうぞ」
早くも思い出になりつつある戦の敵は、いつも空間を移動して現れた。
強大な魔道師であり、剣士であった彼らとまともに戦っては勝ち目のなかったクリスは、空間の歪みを感じると同時に抜剣する癖をつけてしまったのだ。
「お前なら、そんな未熟なことはしないだろう」
事実、いつも彼女は紙一重の位置で刃を止める。
「見事な技量だ」
冷笑にも見える笑みを浮かべるアルベルトに、クリスは再び吐息した。
常に冷静沈着が必要条件の軍師とはいえ、ここまで動じないのは度胸があるのではなく、鈍いだけなのではないだろうか。
「それで?何しに来たんだ?」
「つれない言いぐさだな。お前を追いかけて来たと言うのに」
「そうだ、どうしてここにいると分かった?」
「シルバーバーグ一族の精華と言われた俺をなめるな」
・・・・・・そう言っているのは自分だけじゃないよな?
あまりに傲慢な言いように、クリスが二の句を継げないでいると、アルベルトはふと笑みを漏らした。
「昼食はもう済んだのか?」
「え?いや・・・これからだけど?」
「一人では味気ないだろう。付き合ってやってもいいぞ」
「付き合ってやってもいいって、おまえ・・・」
クリスは脳裏に、酒場兼食堂での、シルバーバーグ兄弟の抗争を思い浮かべた。
「・・・・・・・・・まさか、昼食を食べそこねたの?」
しん・・・と、二人の間に沈黙が降り立ち、それがクリスの爆笑によって破られるまで、しばしの時間を要した。
「ばっかみたい!!弟をいじめるのに夢中で、昼食を忘れるなんてっ!!」
「・・・うるさい。兄として、あいつにだけは負けるわけにはいかないんだ」
「あはははははは!!意地っ張り――――っ!!!」
目尻に涙を浮かべながら笑い狂っていたクリスは、アルベルトが剣呑な光を浮かべた目を細める様に、ぴたりと笑声を止めた。
「い・・・一緒にお昼ごはんする?」
「最初からそう、素直に言えばいいんだ」
・・・・・・素直じゃないって、どっちが?
呆けたように声を無くしたクリスは、手を引かれるままにアルベルトについて行った。
「シーザーが倒れたってほんと?」
「正しくは倒された、ですね、アップルさん」
駆けつけたと言うには嫌にのんきな口調のアップルに、職業柄、けして焦燥を見せないトウタがやんわりと正した。
「どうせまた、兄弟喧嘩でしょ」
シルバーバーグ一族と親しくなって早十数年のアップルは、レオンの孫達に対して容赦がない。
「これが兄弟喧嘩だとしたら、すごい兄弟喧嘩ですね・・・一種の洗脳でも受けているんじゃありませんか?
例えば、何か大きな心理的外傷を与えておいて、特定の物を見せたり特定の言葉を言ったりすると、フラッシュ・バック反応を起こしてしまうような・・・」
身体的にではなく、精神的にかなりの痛手をこうむっている患者を優しく見守りつつ、トウタはにっこりと微笑んだ。
「フラッシュ・バック?って、なんなの?」
用兵や軍略の知識には抜きん出ている彼女も、その他の用語には疎いらしい。
「あまりに大きな心理的外傷を受けると、人はその記憶を心の奥底に封じます。ですが、例えば刃物を見たり、剣戟の音を聞いたりすると戦場の出来事を思い出すということもあるように、ある物事によって生々しい体験が蘇る事がある―――― それがフラッシュ・バックです。
アップルさん、彼らのことはあなたが一番ご存知でしょう?患者の精神的安静のためにも、仲裁に立ってくれませんか?」
「あら、それは無理ね」
あっさりと断言されて、トウタが言葉を失う。
「だって、あの家って本当に特殊なのよ。明けても暮れても戦争の話題ばかりの家で、まともな子供が育つと思う?」
無理だと、言外に断定するアップルに、トウタが微かに頷いた―――― 明けても暮れても医療の話題しか出ない家というものを、彼は知っている。
「他家の子女だったなら他愛ない兄弟喧嘩で済むものも、あの子達の間じゃ深刻な戦争になるのよ」
アップルは重く吐息して、簡易ベッドに横たわるシーザーを見下ろした。
「英才教育って言うのかしらね?
優れた軍師を育てるために、武人が見逃しやすい、情報収集と補給活動を軽視しないよう、幼い頃から徹底的に叩きこまれているのよ、この子達は。
そんな子達が、兄弟喧嘩とはいえ、どんなに残酷な心理戦を行うかなんて、他家の人間には絶対わからないわ・・・・・・たった七つの年の差が、徹底的に運命を分けるってこともあるのよ」
再び重く吐息したアップルに、トウタはもう何も言わなかった。
「でも、ずっと虐げられてきた分、この子はより逆境に強いはずだわ。
本人次第ってことよ、シーザー。もっと強くなりなさいね」
アルベルトの手の内から、出られるほどにはね。
心の裡に囁いたアップルは、とりあえず現実的な処置として、トウタに頭痛薬と胃腸薬を処方してもらった。
―――― あぁやっぱり、一緒にお昼にしようなんて言うんじゃなかった。
平原に立つ大樹の木陰でアルベルトに抱きすくめられたまま、クリスは述懐せずにはいられなかった。
デザート代わりだと、訳のわからない理由で口付けられ、服を剥がれ出しても、抵抗する気が起きない。
傲慢で自信過剰な策謀家には敵わないと、諦観したのはもう、随分と前のことだ。
周りに求められるまま、女王のように振舞ってきた彼女を支配する、唯一の男。
彼の前では、クリスは英雄ではなく、ゼクセン騎士団団長でもなく、ライトフェロー家の当主ですらない。
ただ一人の女として、彼の目に曝されている。
「・・・目立つ所に・・・跡を付けないでね・・・・・・」
はだけられた胸元を押さえつつ、クリスが顔を赤らめると、アルベルトは口の端に笑みを浮かべた。
「心配するな。そんなへまはしない」
少し爪を立てただけで、紅い跡を残してしまう白い胸に這わされた手は優しい。
陽のぬくもりを含んだ風に、剥き出しの肩を撫でられて、クリスがわずかに震えた。
「思ったより時間を使ってしまったな・・・・・・」
半裸でぐったりと彼にもたれるクリスを抱いたまま、アルベルトは情事の後とは思えないほど冷静に今後の予定を立て直していた。
「少し遅くなるが、12時前には行けるだろう。熟睡するなよ?」
淡々と命じるアルベルトの腕の中で、クリスはぎょっと目を剥いた。
「夜も?!また?!」
悲鳴を上げる彼女を、アルベルトは例の、物覚えの悪い生徒を叱る教師のような目で睨んだ。
「そのための、新しいベッドじゃないのか?」
「違っ・・・単に前のが古かったからっ・・・・・・!!」
「古くて、動くたびに音がするのが嫌だと言っていただろう」
その方が苛めやすかったのに、と言う本音はこの際、黙っている彼である。
「鍵は閉めておけ。よからぬ事を企む奴がいないとも限らないからな」
「誰か疑っているのか?」
このような事を確信なく言う男ではないと、クリスは既に知っている。
「いいから言うとおりにしろ」
傲慢な口調で命じながらも、アルベルトはクリスの、はだけたままの服を直してやった。
「素直じゃないなぁ・・・」
すねた口調のクリスに軽く口付けて、アルベルトは身体を離した。
「お前に言われたくない」
何事もなかったかのようにあっさりと立ちあがるアルベルトを、クリスは憮然と見上げる。
「一緒に行くか?」
草の上に座り込んだままのクリスに、笑みを含んだ声をかけるが、彼女の機嫌は簡単には直らなかった。
「いい。散歩しながら帰る」
「そうか」
そのまま踵を返した彼の背を、クリスは不安げに見上げた。
けっして媚びようとはしない淡白な態度を、クリスは嫌いではなかったが、さすがにこんな時は不安になる。
いつの間にこんな関係になったものか、既に記憶も曖昧としているのだが、彼に私的な場で甘く名前を呼ばれたり、『愛している』などと、甘い言葉をかけられた覚えがない・・・。
こんな時は、クリスが一方的に彼を想っているだけで、彼の方ではクリスをなんとも想っていないのではないかと考えて鼓動がはねる。
情交の熱に火照った身体を、春の風が徐々に冷まして行くにつれ、物思いは深くクリスの胸を穿った。
「まったく・・・」
呆れたような、笑いを堪えかねたような、微妙な色合いの口調に、クリスは俯けていた顔を上げた。
「わがままな女だ、お前は」
振り向くや、アルベルトはクリスを抱き上げてすたすたと平原に歩を進める。
「ちょっ・・・!!降ろせ!!」
「一緒に散歩してやる。その代わり、夜行くのが遅くなるぞ」
「・・・っ別に、来てくれなくったって・・・!」
「素直じゃないな、クリス」
軽く上がった笑声と共に囁かれた名に、クリスは俯けていた顔を上げた。
「・・・あ・・・・・・」
「どうした?」
「名前・・・」
彼が、その低い声で自身の名を呼んだという、ただそれだけのことが嬉しくてしょうがない。
「泣くほどのことか」
呆れ声で言われて初めて、クリスは自身の頬に伝うものの熱に気づいた。
いつも冷淡で、横暴で、自分勝手な彼・・・本当に愛されているのか、疑ったことも一再ではないのに、時折見せる優しい顔や、屈託のない声に、どうしようもなく惹かれてしまう・・・。
「・・・っ自分で・・・っ歩く」
どうにも嗚咽を抑えきれなくて、彼の腕から逃げるように身じろいだが、
「だめだ」
言下に却下され、さらにきつく抱きすくめられたクリスは深く吐息した。
ご主人様の、お気に召すまま・・・・・・。
すっかり躾られてしまった彼女はもう、じゃじゃ馬という名を失ってしまった。
―――― 思ったよりも、悪くない。
彼女は、自分が俺によって支配されていると思っているだろうが、彼女に隷属しているのはむしろ俺の方だ。
まるで麻薬のように、求めずにはいられない女・・・今の俺の生活は、彼女を中心に成り立っている。
寝ても醒めても、とはこう言うものか。
判断能力の低下した(と思われる)状態で、どの程度の仕事量がこなせるものだろうかと、実験を試みたこともあるが、1時間当たりの処理能力はむしろ上がったと言えるだろう。
・・・・・・そう言えば、祖父も大叔父も、『守りたいものを見つけろ』と、口やかましく言っていたものだ。
それがもし、こう言う状態を指すのであれば、ますます彼女を手放すわけには行かない。
彼女から男達を遠ざけ、自分の監視下に置くためにも、彼女をビュッデヒュッケに赴任させるのもいいか。
アルベルトの唇に、剣よりも怜悧な笑みが浮かんだ。
「とりあえず、邪魔者は消す・・・」
密かな決意を刻むように細まった目は、悪魔そのものの光を宿していた。
〜 Fin.
百八題