〜 Herz 〜
死が二人を別つまで
・・・・・・・・・・・・イヤダ
・・・・・・・・・・・・いやだ
・・・・・・・・・・・・嫌だ・・・行かないで・・・・・・
―――― 泣きすがると父は、困った顔をして私の頭を撫でた・・・その手の大きさを覚えている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・すまない
・・・・・・お前たちを愛しているよ
―――― あの時、予感でもあったのだろうか。不思議なほど、父と別れ難かった。
「ワイアット卿」
男の声が、父を促す。
日に透けた髪が白金にきらめいて、一瞬、見惚れた。私から父を奪う―――― いや、奪った悪魔に。
「いや・・・」
・・・・・・やめて
「お父様・・・」
行かないで・・・・・・
―――― 途端、男と目が合って、私は父にすがる手を離した。
深く、悲しみを湛えたような蒼・・・いえ、碧・・・?
上質のエメラルドのような綺麗な彩り―――― 誰が言ったのだったか、エメラルドは、傷を包んで輝くと・・・・・・
―――― 15年前、小さかった彼女は、美しい銀の髪を惜しげもなく振りまいて、必死にワイアット卿の腕にすがりついていた。
当時から病がちだった奥方は、2階の自室からさびしげに彼を見送っている。
「嫌だ・・・行かないで・・・!」
泣き声を上げる少女は、気づいていたのではないだろうか―――― 俺が、父親を奪うことを。
「ワイアット卿」
離れ難い様子のワイアット卿を促すと、涙を溜めた少女と目が合った―――― 残酷なことだと言うのは、百も承知。
だが、急がなければ、ハルモニアの追手に見つかってしまう・・・・・・君に、父親を返すことができなくなってしまう。
幼い君を、傷つけてごめん・・・・・・
無償の愛を注いでくれる父親を、心の支えである彼を、君から奪ってごめん・・・・・・
俺を恨んでくれていいから・・・今はその手を離して・・・・・・―――― 少女は父親から手を離した。
悲しそうに、名残惜しそうに父親を見上げる少女の瞳は紫―――― 紫水晶は、魔を防ぐと言う。
・・・・・・・・・願わくば、この少女に祝福を
―――― そして、二度と会うことはないと思っていた。
父親を奪った男と
父親を奪った少女と
―――― 浅い眠りの中で見る夢では、微かな輪郭を見ていたけれど
・・・・・・夢の中で、悪魔と呼んだ彼
・・・・・・夢の中で泣き続ける、かわいそうなお姫様
―――― 邂逅は偶然?必然?
あの時間を共有した者の中で、二人は既に、この世に亡い。
―――― ただ一つ確かなのは、護符のごとき瞳も甲斐なく、少女が碧眼の悪魔に魅入られたこと・・・・・・
―――― 闇すら弾く銀の髪に、魔の証と言われる碧眼が魅入られたこと・・・・・・
漆黒に沈んだ闇の中で、手に手を取って舞い踊る・・・・・・
「―――― クリス?」
耳朶に触れた声に、堅く閉ざされた瞼が震える。
あまりにも苦しげな様子に、ナッシュはクリスの頬をやんわりと撫でた。
「やめるか?」
問いには、ゆるく首が振られる。
「だい・・・じょうぶ・・・・・・」
悲鳴を堪えるように抑えた声が、苦しげな息とともに吐かれた。と同時に、硬直した身体が、耐えかねたように震え出す。
「無理しなくていい」
―――― 初めて男を受け入れる女に、『力を抜け』などと言っても、できるわけがない。
彼女を愛する彼にできるのは、できるだけ恐怖を与えないことだけ。
彼女が、身体を引き裂かれるような痛みに耐えているように、彼女を引き裂く辛さに耐えながら、ナッシュはクリスの上に口づけを降らせた。
―――― 紅い純潔の証が、涙のように零れた・・・・・・。
「・・・怖かったか?」
彼らしくもない、恐々とした囁きに、クリスは微苦笑を浮かべた。
「怖くなかった・・・・・・・・・ありがとう」
突然の礼に、傍らのナッシュが目を点にする。
「・・・・・・は?」
「あ・・・えっ・・・と・・・・・・。
優しくしてくれたから・・・・・・平気だった・・・・・・・」
言うや、クリスは闇の中でもわかるほど顔を真っ赤に染めた。
「あ?いや・・・・・・」
クリスのあまりにも初々しい姿に、ナッシュまでもが年甲斐もなくうろたえる。
常に年上の余裕に満ちた彼が、らしくもなく慌てる様が珍しくて、クリスの唇に笑みが浮かんだ。
が、ふと、珊瑚の彩りを浮かべるそこが笑みの容を解く。
「どうした?」
察しの良い彼に、思わずクリスの柳眉が寄った。
「なんでもない」
きっぱりと言う口調が、言葉の意味を裏切っている。
気まずげに寝返りを打って、クリスはナッシュに背を向けた。
「・・・・・・嫌なことを思い出しただけだ」
「嫌なこと?」
微苦笑を浮かべて、ナッシュは自身の行動を振り返ってみる―――― 別にまずいことはしていない・・・はずだ。
いや、この行為自体を不埒と言われてしまったらどうしようもないのだが、しかし・・・・・・。
眼前の銀髪に視線を据えたまま、ものすごい勢いで状況を判定し、それに対する言い訳などを考えていたが、
「もうすぐ行ってしまうんだな・・・あの時のように、私を置いて・・・・・・」
腕の中から上がる、弱々しい弾劾に、ナッシュは虚を突かれた。
15年前のあの時、銀の髪を惜しげもなく振り乱して、必死に父親をひきとめようとした少女。
その手を振り解いたのは自分・・・・・・。
「ごめん・・・・・・」
また、彼女を裏切ることになるのか・・・。
既に一度、無言で姿を消した彼は、背後からクリスを抱き締めた。
「何を謝ることがある?わかっていたことだ、もう随分と前から・・・」
たった今純潔を奪われた女とは思えない、女神のように硬質な言い様に、ナッシュが眉をひそめる。
「・・・そうやって、ずっと拒み続けてきたのか?」
波のように打ち寄せただろう思慕も愛情も無視して、頑なに孤独を守りつづけて来たのか・・・・・・。
その姿は、彼女が支配するあの冷たい石の城に酷似していた。
クリスに覆い被さるように身を起こした男から、彼女は目をそらす。伏せた睫毛が濃い陰を作って、その表情を隠してしまった。
「誰かを受け入れたり、誰かから受け入れられたり――――・・・心が深く繋がるほど、別れの時が辛い。裏切られるのが哀しい・・・・・・」
それならばいっそ、最初から愛さなければいい。
そうすれば、父を失った時のように辛くはない。母を亡くした時のように哀しくもない。
―――― 私はただ、強くいられる・・・・・・。
そう言おうとした唇が塞がれた。
されるがままに目を瞑ると、涙が一筋、こめかみを伝って落ちる。
乾ききった身体を癒す感触・・・・・・。
人の体温が、どうしてこうも心地よいのか・・・。
言葉の無力を知らしめるような長いキスに、答えを求めて目を開けると、癒しを施してくれる男の瞳が、自身のそれよりも深い傷を包んでいるように見えて、目をみはった。
―――― 誰が言ったのだったか、エメラルドは、傷を包んで輝くと・・・・・・
「ナッシュ・・・・・・」
初めて見た、あまりにも痛ましいその表情に、クリスは思わず手を伸べて、その頭を抱き寄せた。
「・・・・・・幼い君には、母上の死も裏切りに見えたのか?」
―――― 自分を置いて、父の元に逝ってしまったと。
引き寄せられるまま、クリスの胸に顔を寄せて、ナッシュは重く吐息する。
「確かにあの時、君から父親と安らぎ・・・そして、心の支えである彼を奪ったのは俺だ・・・・・・」
泣きじゃくる少女の手を引き離した――――。
「強く、優しかった父親さえいてくれたなら、君も騎士になろうとは思わなかったかもしれない。
美しい名門貴族の令嬢として、身分の釣り合った男と結婚していたかもしれなかったんだよな・・・」
愛を拒み、冷たい石の城で自身を守る―――― そんな彼女に、男達は愛を捧げながらも触れられずにいたのだろう。
「・・・・・・・・・大した事じゃない」
剥き出しの胸に触れる髪の感触に、クリスは身じろぎしながら、我ながら可愛くないと自嘲した。
「男として愛していないだけで、部下達のことは信頼しているし、裏切りなんて考えてもいない・・・・・・情愛なんかなくても、寂しくない」
断言したクリスに、ナッシュが再び吐息する。
「そりゃあ・・・女神様らしいおっしゃりようだなぁ・・・・・・」
すっかりいつもの口調に戻ったナッシュに、クリスがむっと眉を寄せる。
「なんだそれは」
「自分に無関係な人間には愛情を注げるくせに、自分を愛する男は冷たく突っぱねる。
まるで、神話の処女神のようじゃないか?」
純潔を守ることで、強大な力を手に入れた女神達に思いを馳せ、ふと、クリスは頬を緩める。
「実は、戦女神には憧れていた」
ほぼ全知全能でありながら、自ら攻めることはなく、ただ弱者を守る為に戦う女神―――― 騎士団に憧れる女なら、聖ロアの次に信仰を寄せる女神だろう。
「私も、女神のように弱い者を守る盾になれればって・・・憧れていたんだ・・・・・・」
―――― なのに、実際に『女神』などと呼ばれるようになると、胸の裡に抱いていた理想と現実の格差に、落胆を隠せない。
人々が自分に対して抱く幻想、理想と、自分自身が知る姿との差は著しい。
「紅く染まった手に血濡れた剣を握って、更に血を流すのが女神か・・・・・・?
議員どもの恣意的な理由で、侵略を繰り返すのが女神のすることなのか・・・・・・?!」
矛盾はクリスの裡で深い絶望に変わり、彼女の心を蝕んでいた。
「・・・・・・それで?
穢れた一個の人間であると言うことを証明するために、俺に抱かれたのかい?」
大きな手に乳房を掴まれて、クリスは思わず息を詰めた。
「俺なら、後腐れもないって?」
にやにやと笑いながら、クリスの身体を無遠慮にまさぐる男を睨みつける。
「・・・・・・っそうだ。
お前は嘘吐きだし、私から父を奪ったり、何の断りもなく姿を消したり、いつも私を裏切る・・・・・・」
絶え間ない愛撫に顔を赤らめながら、クリスは必死に言い募った。
「もうお前が消えても一々傷つくこともないし、裏切られても悔しくない・・・いつものことだと、割りきれる・・・・・・」
泣きそうな顔をして、震える声を出す彼女に、ナッシュが苦笑を漏らす。
その姿態が、冷たい言葉を完全に否定していることに気づいているのだろうか、と。
「今は無理しなくていいんだぜ?」
そう言って笑う男を、クリスは赤い顔で睨みつけた。
「無理なんか・・・っ」
途端、秘所をなぞられ、クリスが息を詰める。
「声、出せば?」
甘い声と共に吹き込まれた吐息に、びくりと身を震わせた。
「・・・・・・・・・っ」
「強情だねぇ」
痛々しいまでに声を殺すクリスの姿に、ナッシュの嗜虐的な感情が首をもたげる。
未だ血の跡が残る場所に、その長い指を潜り込ませた。
「ゃ・・・・・・っ」
身体を引き裂かれる痛みを知ったばかりのクリスが、怯え、身を強張らせる。
微かに上がった声に、ナッシュが笑みを深めた。
「大丈夫。さっきほど辛くはないから・・・・・・」
羽根の様に柔らかいキスを何度も落として、ナッシュは怯えるクリスをなだめる。
「力・・・抜けるか?」
命令口調ではない言い方に、クリスはほんの少しだけ、抵抗する力を弱めた。
涙をにじませながら、固く閉ざしていた目を、うっすらと開ける。
と、眼前に微笑の容に細まったナッシュの目があって、どきりと鼓動が跳ねた。
光源のない部屋で、彼の瞳は闇色に沈んでいたが、その微笑と熱に潤んだような目はクリスを安心させてくれる。
「・・・・・・嘘吐き」
「嘘じゃないよ」
「・・・裏切り者」
「もう二度と、裏切らない」
それ以上の言葉を阻むようなキスを、クリスは深く受け止めた。
けして、苦痛を与えようとしない柔らかな愛撫に、次第にクリスの息が上がっていく。
「・・・・・・信じていいの・・・ね?」
独白のような儚い声に、ナッシュは「もちろん」と、てらいなく答えた。
「姫から父親を奪い、君の信頼を裏切った、こんな悪魔でよろしければ、ずっとお傍に控えましょう・・・」
その言葉に、クリスは一瞬目を見開き、ふっと目元を和ませた。
「本当に?」
「あぁ」
「死が二人を別つまで・・・・・・?」
ためらいがちな囁きに、ナッシュが笑みを深める。
「君が望むならね」
言うや、ナッシュが身を進め、クリスは息を呑んで彼の侵入に耐えた。
のけぞった白い首筋に、交合の証を刻んでゆくと、微かに声が上がる。
「あっ・・・やめ・・・っ」
力のこもらない腕で必死に抗うクリスを貫いたまま、ナッシュは所有の証であるかのように彼女の身体に紅い花を散らしていった。
「愛しているよ・・・」
吐息と共に耳朶に触れた言葉に、クリスは身を震わせる。
歓びと悦びが、媚薬のようにクリスをとろけさせた。
「私・・・も・・・・・・」
言うや、赤らんだ顔をそむけるクリスの首筋にまた一つ、紅い花が散る。
「私も、なに?」
笑いぶくみの声に、クリスは困惑げに視線をさまよわせた。
「俺だけ言うなんて、フェアじゃないよ?」
途端、深く腰を進められて、クリスが悲鳴をあげる。
思わず口元に当てた手を、やんわりと戻されて、クリスは眼前に微笑む男を潤んだ目で睨みつけた。
「絶対、言わない」
「そう?」
断言したクリスは、更に深く貫かれることを予測して身を固くしたが、彼女の予想に反して、ナッシュは動きをとめてしまった。
「じゃあ、やめようか」
「え・・・?」
「愛してもない男に抱かれても、嬉しくないでしょ?」
意地悪く身を引こうとする男を、考える間もなくとめていた。
「だっ・・・だめ!!」
言ってしまってから、自分の言動を反芻して、身体まで真っ赤になる。
「・・・ぁぃ・・・てるから・・・」
「え?なになに?」
わざとらしく聞き返す男を、涙を浮かべて睨みつける。
「・・・・・・・・・・・・愛してるから・・・・・・やめないで・・・・・・」
―――― 女神のような美貌の女性に、真っ赤な顔でこんな告白をされて平静でいられる男なんていない。
「クリスちゃん、かわいい!!」
一瞬で理性を砕かれたナッシュは、先ほどまでの余裕も虚しく、クリスに覆い被さった。
「きゃあああああっ!?」
「今夜は一晩中、愛を確かめ合おうねっ!!」
「えっ・・・?!やっ・・・やだ・・・っぁあん!!」
この夜、クリスは処女を失ったばかりにも関わらず、濃厚な夜を強いられたのだった。
―――― 翌朝。
朝食にやって来た者達で賑わうレストランにおいて、最初にクリスの異常に気づいたのは『栄えあるクリス様親衛隊隊長』の肩書きを持つ、パーシヴァル・フロイラインだった―――― 蛇足だが、数ある『クリス様親衛隊』のうち、『栄えある』という枕詞を戴けるのはゼクセン騎士のみで構成される集団であり、他にも『しのぶ愛・クリス様連合』(忍者二人による紳士協定)、『香る百合園・クリスさんを愛し隊』(アルマ・キナンによるファンクラブ)等が、狭い城内でしのぎを削っているらしい。
・・・閑話休題(ともあれ)、彼女が食堂に入ってきた途端、パーシヴァルはコーヒーを飲むふりをしながら彼女の様子をじっくりと観察し、深く嘆息した。
―――― あの男、どうしてくれようか・・・・・・。
白いカップの中で波立つ琥珀の液体に、剣呑な視線を落としていると、彼の心情など全く斟酌する様子もない『栄えあるクリス様親衛隊副隊長』のボルスが、ぴかぴかの一年生ばりの気迫で席を蹴る。
「クリス様!おはようございます!!」
泣く子もひきつけを起こす大音声に、クリスは常になくうろたえた様子で挨拶を返した。
「きょっ・・・今日も元気だな、ボルス・・・・・・」
思いっきり視線を逸らすクリスの様子に気づいた様子もなく、ボルスは嬉しげに頷く。
「はい!元気です!!」
昨夜、クリスに何があったかを知れば、こんなに元気ではいられまい。
と、哀しげに目を逸らすパーシヴァルに、クリスがかっと頬を染めた。
―――― バレたかっ?!
――――・・・バレバレです。
言葉もなく通じ合ってしまった部下に、クリスはあたふたと周りを見回す。
「じゃっ・・・じゃあ!私はテラスで食べるからっ!!」
店のテーブルの大半がテラスにあるレストランにおいて、甚だ不適切な言葉を吐いてクリスはきびすを返した。
「・・・・・・どうされたのだろう?」
店の隅の、目立たない場所へと移動するクリスを呆然と見送って、ボルスが呟いた。
「さぁな・・・・・・っ?!」
気のない返事をしようとしたパーシヴァルが、飄々とやって来た男に鋭い視線を投げる。
「おっはよー♪」
機嫌良く挨拶をして、当然のようにクリスと同じテーブルについた男に、『栄えあるクリス様親衛隊』の面々の機嫌は奈落の底に落ちて行った。
「昨日はよく眠れましたか、姫?」
にっこりと、気負いなく言ってのけた男に、クリスは目を丸くする。
さっきまで一緒にいたのに、こうも平然とごまかせるものなのかと、つい感心してしまった。
「・・・・・・あんまりよく、眠れなかった」
お前のせいで、と言いそうになったが、いたずらっぽいウィンクを返されて、クリスは口をつぐむ。
「それはいけないねぇ。大将が悠然としていれば、大抵の事はうまくいくもんなんだぜ?」
―――― 誰のせいで、こんなに憔悴していると思っているんだ・・・・・・。
目の前の男に深く吐息して、クリスは結わないままの銀の髪を背に払った―――― ちらりと見えた彼女の首筋に、人々の視線が集中したが、彼女は全く気づいていない。
「・・・・・・なぁ、ナッシュ?もう何年くらい特殊工作員をやってるんだ?」
ミルクティーのカップを口に運びながら問うと、彼は碧眼を軽く見開いた。
「んー?十・・・八?九??よく覚えてないな。なんでだ?」
こちらはコーヒーカップを口に運びつつ問い返すと、
「・・・・・・昨日、隣りにいるとは思えないくらい気配がなかったし、私が寝返りを打っただけで目を醒ましただろう?かなりびっくりしたんだ」
と、クリスが吐息する。
・・・・・・聞こえてしまったのだろう、遠くでボルスが、鯨波並にコーヒーを吹くのが見えた。
そんな様子に、ナッシュがほくそえむ―――― こんな時にいたずらを思いつく性質でさえなければ、彼の人生はもっと平和だったかもしれない。
「それを言うなら姫の、枕の下に手を入れて寝る癖も驚いたぜ。命を狙われたことでもあるのかい?」
各所で陶器が破砕される不協和音が鳴り響いたが、自身に原因があるとは気づいていないクリスは、気にも留めずに頷いた。
「よくわかったな。
昔、夜襲で死にかけたことがあって、戦場で寝る時は必ず枕の下に短剣を忍ばせているんだ・・・ここでは、そんなものを置いてはいないが」
「そうだな。俺もいるし?」
にこにこと、やけに機嫌よく笑うナッシュを、クリスは怒った様に睨み返した。
「言っておくが、毎晩一緒に寝るのは嫌だからな!」
途端、幾人もの男達が号泣しながらレストランを駆け去り、クリスは唖然と彼らの背を見送った。
「朝から何事だ、騒々しい」
「あはははは・・・まったくだねぇ」
未だに自分が原因だと気づけないでいるクリスは不快げに眉を寄せ、ライバル達相手に距離を稼いだナッシュは機嫌よくモーニングプレートを片付け始めたのだった。
一足早く朝食を済ませ、執務室で諸々の事務手続きをさばいていたサロメは、ドアを蹴破らんばかりに駆けこんで来た騎士達に目を丸くした。
「どうしたんですか、皆さん?!」
同じく、朝の清掃にいそしんでいたルイスが、号泣する騎士達に目を丸くする。
「教えてください、サロメ卿!我々は、意味なき存在なのでは・・・!!」
泣き崩れる彼らに、サロメはなんとなく状況を察して立ちあがった。
「諦めてはいけません、皆さん!」
サロメの毅然とした口調に、根が体育会系の騎士達は涙をぬぐう。
「いかに無力を感じようとも、我々は意味なき存在ではありません!」
そう、諦めた時点で、試合は終了だ――――― !!
とても勘違いしたことを口走りながら、直情的な彼らは固く拳を握った。
「とりあえず、ヤツは殺します!!」
男声コーラスのように揃った声で断言した彼らは、サロメの制止も聞かずに執務室を飛び出して行った。
―――― 以後、ナッシュは不幸の集大成とも言うべきゼクセン騎士団との、仁義なき抗争を繰り広げたのである。
* End *
Secret Lover