雲蒸竜変 不知 零凋心
〜うんじょうりゅうへん れいちょうのこころをしらず〜











周軍が澑池城(めんちじょう)に迫った頃。

白い霊獣のみを供に、高台のやわらかな草の上で一夜を過ごした彼は、明け方の空気の冷たさに、体を震わせて目を覚ました。
東に目をむけると、地平を紅く染めつつ、八番目の太陽が昇る。

朝歌。

太陽は、かつては美しかったであろう都を、紅く染めていく。
「……」
黙したまま、彼は旭日を見つめつづけた。
「だ〜れだっ」
不意に、背後から目隠しの手が伸びた。
細く、華奢な女の手。
「いくら相手が帝辛(ていしん)だからって、あんまり睨んでると、太公望ちゃんの目の方がやられちゃうわよん」
体をすりよせて、わざわざ耳元にささやく声は、紛れもなく殷の皇后のもの。
だが……
「……楊ぜん」
彼の声は冷たかった。
「いやん、妲己よん」
「楊ぜん」
「妲己だってばん」
「楊ぜん」
「…… スースぅ」
変化を解いた楊ぜんが、力が抜けたように、そのまま彼の背中にもたれかかってきた。
「冷めないでくださいよ。つまらないじゃないですか」
「よくここが分かったのう」
楊ぜんの言葉を完全に無視して、彼は太陽を見つめたまま言った。
「分かりますよ。あなたは八番目の太陽が昇る日は必ず朝日を見に行ってるでしょう?」
言うと、彼はくすりと笑った。

太陽は、十、あるという。
八番目の太陽を「辛(しん)」といい、「帝辛(ていしん)」とは紂王の本名である。

「スープーから聞いたのか?」
笑いを含んだ目が、側で熟睡している霊獣にむけられる。
「はい。八の日は何かあるのか、と聞かれました」
「さすがだのう。それだけで帝辛とつながったか」
「簡単な連想ですよ。この場所が分かったのは、この辺りで高台はここしかなかったからですし」
楊ぜんはにこりと笑っていった。
「ところでのう、楊ぜん」
太公望が、肩越しに回されたままの楊ぜんの腕をつかむ。
「はい、師叔?」
「一体、いつまで抱き着いておるか―――――――!!!」
がばぁ!!
一気に楊ぜんを引き離すと、太公望はすかさず立ちあがった。
反対に、楊ぜんは見事にひっくり返る。
「ひどいですよ、師叔!いきなり……」
「楊ぜん」
起上がるとそこに、太公望の顔があった。
「―――――すー……」
「今日の進軍は中止だ」
「は?」
唐突な話題の転換に、しばし戸惑う。
「雲が出てきた。昼には雨が降るだろう。
軍の中には殷から寝返った者もおるからのう。進軍に雨は不吉だと言い出すやも知れん」
現実的な太公望らしくない言葉に、楊ぜんは怪訝な顔をした。
「お言葉ですが師叔、あなたでも吉凶を気にするのですか?」
太公望は軽く吹き出した。
「わしは雨など気にはせんよ。だが、殷の者はかなり雨を嫌っておるようだしのう」
「師叔……周軍が殷の風習に合わせるのですか?」
それでは、本末転倒である。
「殷から寝返った者達が、いまだ周軍になじめないで居るのは知ってますし、彼らを早く周軍の一員にしたいのは分かりますが、そこまでやる必要があるでしょうか。
一つ間違えば、せっかく高まった周軍全体の士気にも影響します」
自然、口調もきつくなる。
が、太公望は気にもせずしゃあしゃあと言ってのけた。
「進軍しないと言うだけで、軍事訓練は行う。わしとて今の士気を落とすつもりはないぞ」
「……何か、策があるんですね?」
そう言う楊ぜんの口元に笑みが浮かんだ。
にやりと、太公望は人の悪い笑みを返す。
「雨は、これから何度も降るだろうな」
見上げた空は、厚い雲に覆われつつある。
「雨が降るたびごとに、周軍は進軍を止める。それを見た殷軍は、どう思うだろうか」
「そうか!!」
楊ぜんは思わず手を打った。
「殷では、雨を不吉とするのは当たり前の考え方だ。周軍が、雨が降る毎に進軍を止めるのを、不思議とは感じないはず……」
「そのとおり」
太公望は、空に向けていた目を楊ぜんに戻した。
「しかしこちらは、雨でも決して士気を落としたりはしない」
「そう、そのための軍事訓練」
楊ぜんの優秀な答えに、太公望はうなずいた。
「では…決戦は……」
「雨の日だのう」
太公望の人を食った笑みに、楊ぜんは思わず口元をほころばせた。
「さすがです、師叔。もう人間の将兵との戦いをお考えですか」
妲己を倒した後の、人間同士の戦争。
「先手必勝、と言いたいところだが、先手を打たれたのは、実はわしの方だ」
太公望は腕を組んで、朝歌を眺めた。
「それは一体?」
「殷の人間も、必死だのう。わしは妲己や仙道のことばかり考えて、殷の王族をつい無視しておった」
太公望の、朝歌を眺める目が厳しさを増した。
「殷の王族……。比干(ひかん)と箕子(きし)ですか!」
楊ぜんが、その二人の名を挙げた。

彼らは紂王の叔父にあたる王族で、多くの諸侯が殷を離れていくこの時に、未だ聞仲とともに、紂王に忠誠を尽くす良臣たちだ。
「今のところ、箕子(きし)に動く気配はない。問題は比干(ひかん)の方だ」
温厚な箕子に比べて、比干はその苛烈な性格で知られている。
「彼はもう、寝返った殷の兵の中に、刺客を潜り込ませておるよ」
「刺客?!」
太公望が、あまりにもあっさりと言うので、楊ぜんは自分の耳を疑った。
「まさか、狙われたのですか、師叔!」
「まぁな」
太公望は、伸びなんぞしながらのんきに言った。
「おかげで近頃は幕舎で寝られんでのう……あちこち逃げまわっとるのだ」
「師叔……」
楊ぜんが呆れ果てて肩を落とした。
「何であなたはいつもそうなんですか……」
「そう、とは?」
楊ぜんの力のない声に、思わず太公望は振り向いた。
そんな彼を、楊ぜんはきつく睨んで激しくまくしたてた。
「なぜ僕たちを頼ってくれないんです!!あなたは自分の価値を分かってない!
今、あなたが居なくなったら、周と周についた仙人達を誰がまとめるんですか!!」
「――――――楊ぜん。
そんなに気にせんでも、皆をまとめるには武王も周公旦もおぬしだっておるだろうに……」
苦笑する太公望に、楊ぜんの真摯な視線がまともに突き刺さる。
「……本気でおっしゃってるのですか」
「――――――……っ」
言葉に詰まり、太公望は思わず視線を逸らした。
そんな彼に、楊ぜんも重く息をついた。
「もっとご自愛下さい。何もあなた一人がすべてを背負うことはないのですから……」
「……すまん」
軽くうつむいた太公望の口元に、微かだが、本当にうれしげな笑みが浮かんだ。
「だが、相手が人間の時は、わしも人間として戦わねばならぬ!それが、けじめと言うものだろう?」
「……あくまで、人間相手には僕たちを使わないつもりですか」
楊ぜんが憮然として言う。
「そのつもりだ。比干とその刺客には、武王と周公旦とともにあたる!」
淡々と、だが揺らがぬ決意を込めた言葉だった。
「……分かりました。ですが今、僕にこの件を話して下さったと言うことは、援護するのは構わない、と思ってよろしいですね?」
不承不承、と言った態度だ。納得はしていないらしい。
そんな彼に笑いをかみ殺しつつ、太公望は、
「そうだのう……だが、あまり目立つのは困る。やっと奴らが3人だと確信したところだ。
その中の誰が頭なのかを見極めねばならんのだが、武王をおとりにすると、また周公旦がやかましいからのう。
武王に危険が及ばぬよう、楊ぜん、おぬしに武王の護衛を頼む」
そう指示したが、楊ぜんは、
「お断りします」
あっさりと答えた。
「武王には天化君についてもらいましょう。彼と武成王がついていれば心配ありません。僕はあなたをお守りします。
とはいえ、あなたは自分で刺客をおびき寄せるつもりでしょうから、側にはいられませんが、必ず、あなたを守れるところに居ましょう」
これは絶対に譲れない。彼の目はそう言っていた。
太公望は、軽く息をつく。
「ジャマはせんと誓うか?」
「誓います」
真摯な声。
「……では、作戦変更だのう。楊ぜん、協力せい」
「は?!仙道の力を使うのですか?!」
驚く楊ぜんに、太公望は意地の悪い笑みを浮かべた。
「力はいらん。わしの狂言に付き合ってもらう」
「狂言……」
またですか、と楊ぜんは眉根を寄せた。
くすくす笑いつつ、太公望は再び空を見上げた。
「雨が降るのう」


進軍中止の命令が下るや、周の兵らは素早く宿営地を整えてしまった。
『工作が得意』な周兵の本領発揮である。
そして早速、武成王の指揮の下、大々的な軍事訓練が始まる。
雨の降る、肌寒い日だったが、武王の御前とあって、周軍の諸将の錬兵の声にも力が入る。
文官の周公旦ですら、諸将から次々と寄せられる報告を裁くのにおおわらわだった。
―――――――なのに。
肝心の軍師は、「上空から見せてもらう」と、霊獣に乗って空の上に行ったきり、降りて来る様子がなかった。

「……ご主人〜」
白い霊獣、四不象が、背中の太公望に話し掛けた。
「ご主人…ちゃんと兵隊さんたちのこと見てるっスか?」
「……………」
「ご主人!?」
「――――――――ぐぉぉぉぉぉ……」
「ご主人!!寝てるっスか?!寝てるっスね?!」
四不象が怒って体をゆすった。が、太公望は憎らしくも、上手にバランスを保って、起きる気配もない。
「何でそんなにい寝(い)ぎたないっスか!もうっ!僕は情けないっスよ!!
――――――武成王さん!!ご主人を起こしてほしいっス!!」
四不象は、眼下に武成王を見止めると、急降下した。
「――――――?
四不象、どうかしたか?」
弓兵の錬兵をみていた武成王が、四不象の声に振り返った。
その瞬間、
鋭い弓音とともに飛来する一矢が、四不象、いや、その背の太公望を狙った。
「ひゃっ!!」
驚いた四不象が、泡を食ってよける。
その拍子に、それまでどう揺すっても、絶対にバランスを崩すことのなかった太公望が、無様に地上に落下した。
「――――――ふごっ!!」
奇妙な声をあげて、太公望は地面にめり込んだ。
「太公望どの!!」
武成王が慌てて駆け寄ろうとした時、
「お師匠さま―――――――――!!!!!」
一陣の風か、物凄い勢いで彼を追い越していった者がいた。
「大丈夫ですか、お師匠さま!!」
武吉は、がばっと、勢いよく太公望を地面から引き剥がすと、気絶状態の彼を激しく揺すった。
「お師匠さま、お師匠さまぁ!!目を開けて下さい、お師匠さま!!!!」
「――――――ちょっ……武吉くんっ!!そんなに揺するとご主人が死んでしまうっスよ!」
「どうしたらいいんだろう、四不象?!」
うるうると大きな目を潤ませて、真っ直ぐに見つめてくる彼の視線に、平静でいられる者は少ない。
スープーも、ただおろおろするばかりである。
そこへ、
「おめーら、おろおろしてないで、楊ぜんを呼んでこい!!」
武吉よりやや遅れて、太公望の落下地点に到着した武成王が、パニック状態の二人に指示を出す。
「ラジャーっス!!」
「今すぐ呼んできます!!」
武吉と四不象が、物凄い勢いで走って(飛んで)行く。

が、救いの神、いや、仙人は、呼ばれるまでもなくそこにいた。
「武成王、師叔を僕に任せて下さい」
「楊ぜん!!」
いきなり現れた彼の姿を見て、武成王は少なからず驚いた。
「楊ぜん、太公望殿が……」
かなり高いところから落下した直後に、武吉のゆさぶり攻撃である。
本当に死んだかもしれない、と、武成王は、半ば本気で心配していた。
「……師叔?」
楊ぜんが呼びかけたが、返事はなかった。
「……生きてるか?」
武成王が心配げに覗きこむ。
太公望は、心持ち、腹部をかばうように横たわっていた。
額に汗をにじませ、顔色も、かなり悪い。
「腹部が何か……
――――――!!」
どろりとした感触に、楊ぜんは思わず手を引いた。
その手のひらを濡らしたものを見て、顔色を変える。
「楊ぜん!!まさかあの時の傷がまだ……?!」
武成王の顔色も変わった。
魔家四将との戦いの時、太公望は魔礼青によって、深手を負わされた。
その時の傷が開いたのかもしれない。
「……武成王、兵を落ち着かせて下さい」
静かな声で、楊ぜんが言う。
「動揺が広がってしまう前に、早く」
言いながら肩の布を取ると、楊ぜんはふわりと太公望を包んだ。
「師叔、幕舎まで御辛抱下さい」
そして、彼の傷に障らぬよう、そっと横抱きに抱き上げると、ゆっくりと歩き出した。


「師叔、大丈夫ですか?」
幕舎に入り、簡易の寝台に太公望を横たえると、楊ぜんは小声で聞いた。が、相変わらず反応はない。
「大丈夫です。誰もいません」
楊ぜんが再び小声でささやいた。
途端、
「―――――――っおぬしよくもあんなはづかしい真似を〜!!!!」
それまでぴくりとも動かなかった太公望が飛び起き、
「何のつもりだ!!あんな大勢の目の前で!!!」
真っ赤になって楊ぜんの胸ぐらをつかんだ。
「師叔、小声とはいえ、そんなに暴れたらバレますよ?」
反面、楊ぜんは憎らしいくらい、うれしげに笑って言った。
「だって、いつも僕ばっかりやり込められるなんて、不公平じゃないですか。たまには逆もいいでしょう?」
「ぐぅ―――――――――――っっっ!!!」
太公望がくやしげにうなる。
それを見て、楊ぜんはうれしげに笑いながら、
「そんなに怒らないでくださいよ、師叔♪
それより、さっきは本当に顔色が悪いようでしたが、大丈夫ですか?」
と、太公望の顔を覗きこむ。
言われて、太公望はがっくりと肩を落とした。
「楊ぜん…わざととはいえ、かなり高いところから落ちた直後に、武吉のゆさぶり攻撃を受けて、顔色良くいられると思うか?」
楊ぜんの笑みが苦笑に変わる。
「やはり、最初は本当に気絶してたんですね?」
「おぬしの、迫真の演技は聞いておったよ」
くくく…と、太公望は声を忍ばせて笑った。
「仙界で、よほど演技の修行をしたようだのう」
「二度も修行に帰ったんです。上達して当然でしょう?」
天才ですから。と、さりげなくアピールするのも忘れない。
「あ―――――…ところで、わかったか?」
太公望は苦笑しつつ、話を変える。
「まずはお祝い申し上げます」
楊ぜんがにっこり笑った。
「三人の中で、師叔の評価が一番高いですよ」
三人とは、刺客に命を狙われている太公望、武王、周公旦のことである。中でも、太公望を狙っている者が一番の腕利きらしい。
「…めでたいことなのか、それは?」
太公望が苦笑する。
「少なくとも比干は、武王よりあなたを評価しているようです。
逆に言えば我々は、あなたがいなければ何もできない、烏合の衆だと思われているわけですね」
楊ぜんが、底冷えのする笑みを浮かべる。
「それで?奴等のうちアタマは誰だと思った?わしはどうしても、わしを狙っている者がアタマだとは思えぬのだが」
前から解せなかった。
自分を狙う者の腕が、三人の中でも群を抜いているらしいことは感じていた。が、彼はナタクがそうであるように、指示者の意向を無視して、ただ太公望の命のみを狙っているように見えた。
つまり、彼は腕のいい暗殺者であって、人を使う者ではない。
そう楊ぜんに言うと、彼はうなずいた。
「僕もそう思いました。
先ほど、武成王の一瞬の隙を突き、師叔を狙った腕は見事でしたが、僕ならあの場面であなたを狙ったりはしませんよ」
彼はあまりにもあっさりと、太公望の誘いに乗ってきた。
自信があるのか、慎重さに欠けるのか。
「うむ、やはりな。アタマは武王に張り付いておる者だ」
「間違いないでしょう。暗殺よりも、偵察を主にこなすものと見ました。」
「…なるほど。わしでも同じことをするであろうな」

この時点で、太公望は比干の考えをほぼ把握したと言っていい。
「師叔なら、誰を使いますか?」
太公望が至った答えを同じく見つけた楊ぜんが、微笑を浮かべた。
「…そうだのう」
太公望が宙を見据えた。
そして、そんなことはありえぬが、と前置きした上で、
「相手は紂王、比干、箕子の三人として、紂王におぬし、比干にナタク、箕子に天化といったところかのう」
「やはりその時点では、紂王は殺しませんか」
「腹心二人を除くことが主眼だからのう」
それに、と彼は続けた。
「王は王によって滅ぼされねばならん。武王を卑怯者呼ばわりさせるわけにはいかんからのう」
それは、比干への皮肉か。
太公望は口の端に笑みをのせた。
「では、武王と周公旦の護衛は、今までどおり、天化君と南将軍で構いませんね?」
楊ぜんが確認する。
「これまでどおりで良い。武王についている奴には、生きて帰ってもらう」
太公望は、冷たく言い放った。
「分かりました。『彼』は僕がやりましょうか?」
「いや、おぬしに協力してもらうのはここまでだ。仙道の力は借りぬと言うたであろう?」
楊ぜんが重く息をつく
「―――では、僕はこれで失礼します。代わりに周公旦殿に来てもらいましょう。後は、南将軍に任せていいんですね?」
「うむ。ご苦労だった」
太公望の口元に、苦笑がにじんだ。
それを見て、楊ぜんは自分がすねた顔をしているのを察し、表情を引き締めて幕舎から出ていった。


夜。
雨が止んだのを見計らったように、周公旦が『見舞い』にやって来た。
「重傷につき面会謝絶、だそうですよ、太公望」
幕舎に入ってくるや、周公旦は無愛想に言う。
太公望は、一応怪我人らしく寝台に横たわっていたが、
「ほう。おぬしはいいのか?」
と笑いつつ身を起こし、呆れた。
「何でおぬしまでおるのだ」
仏頂面の周公旦の横に、武王の姿まであったのだ。
「なんでって、大事な軍師が重傷の床にあるって言うのに、慈悲深い王様が知らん顔はできねぇな」
わざとらしく言って、武王は寝台の側にどさっと腰を下ろした。
「で、見舞ってやろうとここに来たら、旦の奴とばったり会ってなぁ」
嘘である。
当事者の一人なのに、自分だけ蚊帳の外に追いやられていたのが悔しかったのだ。
「…ところで太公望。楊ぜんから、あらかたの事情は伺いました。
小兄様…いえ、武王に危険はない、ということでしたが、間違いはありませんね?
諸侯もびびらす周公旦の眼光をさらりと流して、太公望は微笑した。
「大丈夫だ。相手が妲己ならともかく、比干だからのう」
「ほお…それはまた、なぜ?」
周公旦が不審げに片眉をあげた。
太公望の実力は当然、彼も認めているが、確かな理由を聞いておきたかった。
対する太公望の答えは、たった一言。
「比干が、殷の重臣であると同時に、王族だからだ」
「なるほど!」
「わかんねぇよ…」
兄弟の反応は正反対だった。
「アタマが悪いのう…」
「わるかったな!オレぁてめーらみたく策略に長けてねぇんだヨ!!」
怒鳴る武王を、周公旦と太公望が両側から押さえつけた。
「…っとにアタマが悪いのう!静かにせんか!!」
小声でとがめる太公望を、武王が上目遣いで見やる。
「わりぃ…。で?なんで俺だけは無事なんだ?」
太公望と周公旦が、息をついていましめを解いた。
「いいか?比干は殷の重臣であり、王族だ」
うんうん、と武王がうなずく。
「こういう人物は、とかく外聞をはばかる。
彼らにとって、わしらは王家に反旗を翻す叛徒どもだが、多くの諸侯が周に味方している以上、王族の誇りにかけて、堂々と正面から撃破すべき、と考えるものだ」
「そんな奴がなんで暗殺者なんて送り込むんだよ。正々堂々と戦うんじゃないのか?」
「うむ。比干は長年、殷の中枢にいる人物だ。妲己や聞仲がこちらに刺客を送ったことも知っていよう。そして、その刺客らに、わしらがどう対処したかもな」
「対処?」

妲己が、朝歌から離反した武成王に対して刺客を差し向けた時のことは、武王も周公旦も、話に聞いた以上のことは知らない。
が、聞仲の放った四聖の一人、王魔には、西岐の辺境の村を襲われ、魔家四将に至っては、豊邑を散々に荒らされた。
彼らを退けたのは、太公望を始めとする崑崙の仙道達である。
「叛徒どもには仙道が味方についておる。が、偵人たちに探らせたところ、彼らを束ねているのは武王ではなく、太公望と言う軍師。こいつが周から消えれば、果たして崑崙は今までどおり、周の味方でありつづけるだろうか?
比干はそう考えたのだろう」
「刺客を三人の精鋭のみにしたのも、あなたの行動を精査している証拠ですね。あなたは、人間には人間をして対処する。しかもあなたの名は、仙道の間では有名なようですが、民の間にはまだ浸透していない。
殺るなら今のうち、と言うことですね。私はついででしょう」
周公旦がさらりと言う。が、太公望は首を横に振った。
「ついでではないのう。おぬしはわしとともに、確実に死んで欲しい人間だ。つまり―――」
今、武王が率いている軍は、周の民と殷に不満を持つ諸侯の集まりである。
周の民はともかく、諸侯の多くは、文王・姫昌の人徳を慕っていた者、または仙道の圧倒的な力を見て去就を決めた者で、まだ武王個人を立てているわけではない。
ならば、周軍の要である周公旦を消し、直後に、軍を出して武王の首級をあげれば、反乱軍を壊滅させることも可能だ。
「そのために比干は、自分の領地から兵を呼び寄せたのだ」
先ほど、東伯候の急使から得た情報である。
それに対して太公望は、密かに、『戦わず、そのまま彼らを朝歌まで進ませるように』と指示した。
「ああ、なるほどな。
俺は反乱軍の旗頭。正面からぶっ潰して、周も諸侯も、二度と殷に刃向かわないよう、見せしめにするわけか。
―――― だがな!」
武王の目には、怒りとともに、侮蔑の色があった。
「陰じゃこそこそと暗殺者なんぞ使っときながら、外では『正々堂々』とか言いやがるのは卑怯じゃねぇか!!」
「そうだのう。だがわしが比干と同じ立場なら、同じ手を使うと思うぞ」
太公望が苦笑しつつ言う。
「聞仲がおらぬ今、比干と箕子だけでは、宮中で紂王を操る女狐を止めることはできぬ。が、なんとしても朝歌は守りたい…。
彼らも必死なのだよ」
太公望は、かなり彼らに同情的である。
が、武王にとっては、太公望も周公旦も、絶対になくせない存在だ。
武王はいきなり立ち上がると、
「冗談じゃねぇぜ!おめーらは俺が守る!!」
ぐっとこぶしを握った。
「あーもー、いいから帰れ、おぬしは」
「お気持ちだけで結構」
「なんだよ、つめてぇなあ!!せっかく俺が…」
「うるさい!!」
「―――――――――――――分かったよ!!どーせ俺は邪魔者だよ!!勝手にしろ!!」
二人から怒鳴られて、すっかりへそを曲げてしまった武王は、そう言い捨てるやさっさと出ていってしまった。
「やれやれ…。仕方のない王様だ」
「まぁ…それが小兄様の、小兄様たるゆえんですが」
太公望が呆れて言うと、周公旦がすかさずフォローを入れる。
「口では何と言っても、兄おもいの弟だのう」
にやりと、太公望が人の悪い笑みを浮かべてからかう。
周公旦は、そんな彼をぎろりと睨むと、
「今夜中に片づけますよ。外で武吉君と四不象が泣いててうるさいのです」
冷たく言い放った。


夜。
武王らが、太公望の幕舎内にいた頃。
見張りの兵らの隙を突きつつ、かがり火の間にできた闇を選んで進む二つの影があった。
彼らは太公望の幕舎から少し離れたところで止まり、様子をうかがった。
案の定、彼の幕舎は、南将軍配下の兵らでかためられていたが、その程度のことは彼らにとって、大した問題ではない。
二人は言葉を交わしもせず、無表情のまま、幕舎に視線を向けていた。
そこへ、
「―――――勝手にしろ!」
何やら武王が怒って出てきた。
幕舎の外でそれぞれ、護衛すべき人物を待っていた天化と南宮括が、驚いて武王を見た。
「武王、何かあったんですか?!」
ただならぬ雰囲気に、南宮括が声をかけた。
「どうしたもこうしたも…くっそー!!あいつら!!」
「…『ら』って、王さま、師叔は目を覚ましたのかい?」
天化の指摘に、焦った武王がわざと大声を出す。
「んなわきゃねーだろ!!太公望はあの時の傷が開いちまって、まだ意識不明の重体だ!!
俺が怒ってんのはな、その…、傷がまだ治ってねーのを隠して、軍師のハードな仕事を続けてたことだよ!
――――――柄にもなく無理しやがって。そう思わないか、将軍!?」
「はぁ…」
「俺は幕舎に帰る!後は頼んだぜ」
生返事をする南宮括に後を任せて、ざかざか歩いていく武王の後ろを、天化一人がついていった。

「おうさま、おうさま」
太公望の幕舎からだいぶ離れた頃、天化が早足で進んでいく武王に小声で話しかけた。
「師叔、ホントは怪我なんてしてないんだろ?」
突然、武王が立ち止まった。彼のすぐ後ろを歩いていた天化がもろにぶつかる。
「――――おうさま!急に止まるのは…」
「天化。武吉と四不象は?」
武王が、常ならぬ低い声で尋ねる理由を察して、天化はにやりと笑った。
「二人とも楊ぜんさんがどっかにさらっていったし、ここなら誰も聞いてないさ」
「そうか」
武王がほっと息をつく。
「あの人、今度はなに企んでるさ」
彼も、仲間はずれにされてすねていたクチである。
武王が、
「太公望の幕舎に行くぜ!」
と言い出した時も、止めるどころかほいほいついて行った。
「俺っちにあんたの護衛を任せるって言っときながら、あんたに付いてる刺客は見逃しとけ、なんて、納得いかねぇさ」
天化が憮然として、鋭い視線を闇に向けた。
「さっきも楊ぜんさんに、師叔の周りで様子のおかしい人間を見ても手を出すなって、クギを刺されたさ」
ぎり、と、闇を睨む目に力がこもる。
「…敵は、正面攻撃で俺の首を取るつもりだから、俺が刺客に狙われる危険はないんだとさ」
天化の視線を追って、武王も憮然と呟いた。
「…じゃ、俺っちは何のためにアンタに張り付いてるのさ」
「念のためじゃないかぁ?
俺らを狙ってる三人のうち、太公望に張り付いてる奴は、かなりヤバイらしいからな。万が一の予防策ってやつ?」
「はぁ?!じゃ、俺っちは、何もせずにアンタに付いて回るだけかい!!」
「そういうことだな」
あっさり言われて、天化がキレた。
「―――――――――っんじゃそりゃ!!そんなんありかよ!?」
「あったまにくるだろ!?
太公望も旦も、俺が守ってやるって言ったら、帰れって言ったんだぜ!?」
つられて武王も、さっきの怒りが吹き出した。
「おうさま…」
「天化…」
二人はにやりと笑うと、かたく手を握り合った。
「邪魔してやろう!!」
図らずして、二人の間に奇妙な連帯感が生まれた…。

武王が太公望の幕舎の前から消えて間もなく、周公旦が相変わらず不機嫌な表情を張り付かせて、幕舎から出てきた。
そこへ、まるで見計らったように、冀州候・蘇護の使いの者だと言う兵が現れた。
「周公旦様、わが主から伝言がございます。
明日の進軍について伺いたいことがあるので、冀州候の幕舎までご足労願いたいとのことです」
「冀州候が?何事でしょうか」
周公旦が、怪訝な顔をする。
「はい。糧秣(りょうまつ)の補給のことだそうです。
本来なら軍師にご相談すべきことなのですが、床に就いておられるので、周公旦様に申し上げたいと」
兵は滑らかに答える。
周公旦は少し考える様子を見せていたが、
「分かりました。私でお役に立てるかどうかは疑問ですが、お話を伺いましょう。
南将軍。私は冀州候の幕舎に参りますので、軍師をよろしく」
「は?!俺は周公旦様の護衛なんじゃ…」
南宮括があわてて聞き返すが、周公旦は落ち着いて、
「今、軍師は重傷で動けません。なのに、こんな時に限って、楊ぜん殿がいない。武成王も武吉も、どこへ行ったのやら…。
兵だけでは心配です。軍師の護衛をよろしく」
ため息とともに言う。
「わっかりました!!まかせてください、はい!!」
『武成王』の名に競争心を刺激されたのか、南宮括は張り切って答えた。
「では、参りましょうか」
そう言うと周公旦は、冀州候の使者をうながし、数人の護衛とともに太公望の幕舎から離れて行った。

さくさくと、周公旦は集団の先頭を進んで行く。
彼は兄の武王とは逆に、足音すら規則正しい。
彼は慎重に、明るくて見張りの多い場所を選んで歩いていたが、冀州候の幕舎に近い場所で不意に、暗く、人気のない場所に出た。
「…妙ですね。冀州候らしくもない。見張りの兵を置いていないとは」
「…それは、私が処分しておいたからですよ」
冀州候の使者の、感情のない低い声に、周公旦はゆったりとふりかえる。
「あなたの護衛の方々も」
周公旦の護衛の兵たちが、一人残らず地に伏してうめいていた。
「ほう…一瞬で全員を。見事ですね」
しかし、それを見ても周公旦は、憎らしいほど落ち着いていた。
「彼らは殺さないのですか?」
あくまで冷静に、彼は尋ねる。
「殺しません。彼らには、あなたが冀州候の使者によって殺されたことを、証言してもらわねばなりませんから」
「なるほど。私を殺して周に動揺を与えるだけでなく、冀州候の離間をも謀りますか。
ですが、二兎を追う者は一兎をも得ず、といいますよ」
「一石二鳥、とも言いますな。とにかく私は、あなたを殺せばいいのです。恨んでも構いませんよ。悪霊には慣れてますから」
彼は殷の人間には珍しく、悪霊に怯えぬ人間であるらしい。
「私はまだ死ぬつもりはありません」
「そうですか。それは残念でしたね。さらばです」
最小の動きで、的確に周公旦の心臓を狙った短剣が、不意に彼の手からこぼれ落ちた。
すかさず周公旦の剣がひらめく。
「…馬鹿な…なぜ……」
背中に矢を、腹に剣を受けて、刺客が地に伏す。
「私は無駄話はしないのです。あなたの頭領殿から聞きませんでしたか?」
「それにな、俺は軍師から、どんな場合でも周公旦様から離れるなって言われてたんだよ!」
闇の中、正確に刺客を射止めた南宮括が、得意げに現れる。
「一応、名を聞いておきましょうか?」
周公旦が、静かに言う。
が、彼は黙ったまま…。
やがて、息を引き取った。
「…戦死者として葬りましょう。南将軍、護衛の者達を起こして下さい」


武王と周公旦が去った後の幕舎の中には、太公望一人の気配しかない。
護衛も、軍師の容体をはばかってか、幕舎の中にまではいなかった。
彼は、寝台の上に太公望を認めると、まるで地に突き立てるように無感情に、しかし正確に、短剣を突き立てた。
太公望は、痛みを感じる間もなく、永遠の眠りに就いたはずだった。
が、
「っとに、単刀直入だのう」
突然背後から、笑いを含んだ声。
しかし彼はあわてる様子もなく、振り向きざまに剣を突き出してきた。
それを太公望は再びかわす。
「おぬしは腕も度胸もいい。だが、暗殺者には向いてないのう」
「……!!」
初めて、彼の顔に殺気が見えた。
「惜しいのう。おぬしほど者を暗殺に使うとは、比干はよほど豊富に人材を抱えておるのだな」
太公望はにやりと人の悪い笑みを浮かべ、みたび突き出された剣を、今度はかわしざま叩き落とした。
「これこれ。あんまり騒いだら、外の兵達が気づいて入ってくるではないか」
太公望がことさらにからかう。
「…呼べばいいさ。来れば来るだけ、死ぬことになる」
「――――――初めて声を聞いたのう。のう、おぬし」
太公望はにやりと笑うと、彼の落とした剣を取り上げ、寝台に腰を下ろした。
「なぜ刺客なんぞになっておるのだ。腕といい、度胸といい、おぬしほどの者なら殷の将足り得ると思うがのう」
「…俺が、将?」
はなでわらう。
「俺は殷のために戦うつもりはない」
「なるほど。おぬしは比干にのみ忠を尽くしておるわけか。
・・・ではわしは、おぬしから心底恨まれることになるだろうのう」
太公望は、重く息を付いた。
「…どういうことだ?」
彼が怪訝な顔をする。
「もうじき比干は処刑される。紂王、いや、皇后によって、な」
「なにを馬鹿な…比干様は陛下の叔父上…」
「わしがそうなるよう、仕向けた」
「―――――――!!」
つかみかかってくる彼を、今度はよけることができなかった。ものすごい力で首を絞められる。
声が出せない。
逃れようと、とっさに振り上げた左腕が途中で止まり、右腕が虚しく宙をかく。
「―――――――っっ!!」
不意に、締め付ける力が緩んだと思うと、彼の体が太公望から引き剥がされた。
「師叔!」
「おい!大丈夫か?!」
天化と武王の声。
咳き込みつつ見上げると、刺客は天化によって押さえつけられていた。
「…なぜ戻ってきたのだ、おぬしたち…!手を出すなと、あれほど…」
血の匂いに、太公望は言葉を詰まらせた。見ると、刺客の右肩には深々と短剣が刺さり、腕を紅く濡らしていた。
「天化!怪我をしておるではないか!!あまり乱暴にあつかうでない!」
「なに言ってるさ!殺されかけといて!!」
「ばかかおめぇ!!短剣握ってて、抵抗もしない奴がいるか!!」
二人から怒鳴られて、太公望はまだ苦しい首をすくめる。
「で?!こいつ、どうするさ!!」
天化が刺客を見下ろした。
彼はすでに、武王たちとともに入ってきた護衛の兵達によって、縛り上げられている。
「…捕らえた者を逃がすわけにはいかんだろう。とりあえず牢に…」
「南将軍に任せろよ。苦しまないよう、一撃で落としてくれるぜ」
武王が、親指で首を示した。
「その必要はない」
太公望がきっぱりと言う。
「…ちっ」
武王は舌打ちし、兵達に命じた。
「こいつを牢に放り込んどけ!!」
まんまと出し抜かれた護衛の兵達が、こぞって刺客を引きずって行く。
それを見送って、天化は苦々しく呟いた。
「甘いさ、師叔」
「そうか?だが…」
「だが、なにさ?」
「なんでもないわ。もう寝るから、おぬしらもとっとと帰れ」
「むっか―――――――っっっ!!なんだそりゃ!!助けてやったってのに!!」
「その言い草はないさ!!」
「仙道は手を出すなと言っておっただろうが!!なのにおぬしら…まぁ…助かった。礼を言う」
ぼそぼそと、太公望が呟く。が、
「きーこーえーねぇなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?」
「何か言ったさ、スースぅ?」
「姫発、天化、ありがとう!!おかげで助かった!!」
やけになって、太公望は大声を出す。
「ふふん♪分かったらこれからは、俺達抜きで物事を進めようなんてすんなよな!」
「今度から仲間はずれはなしさ、スース♪おやすみ!」
二人はにやりと笑うと、楽しそうに出て行った。
太公望はそれを見送りつつぼやく。
「…ったく、どいつもこいつも、ちっとも人の言うこと聞いとらんな!なぁ!!そこの一兵卒!!」
ただ一人残っていた護衛の兵が、いきなり太公望に話を振られて困惑する。
「武吉とスープーを、どこまで連れて行ったのだ?」
「師叔…気づいてたんですか」
苦笑しつつ、楊ぜんが変化を解いた。
「あやつに怪我をさせたのはおぬしだな」
「武王たちが来るのが、少々遅かったものですから、つい…」
すみません、と、心にもない事を言う。
「おかげでわしの天幕に穴があいてしまったが、まぁ…助かった。あやつは、殺したくなかったのでな」
「知ってます」
「…武吉とスープーは…」
「すぐに連れ帰ります。では、おやすみなさい」
にっこりと笑って、楊ぜんはたもとから哮天犬を出すと、天高くのぼっていった。


「…失敗したか」
朝歌にある屋敷の一室で、比干は重々しく息をついた。
「…申し訳ありません」
比干の前に膝を折る二人の男のうち、一人がうなだれて言った。武王に張り付いていた男である。
彼は情報収集をかねて、常に武王の側に張り付いていたのだが、武王が太公望の幕舎から帰るのをつけていた時、護衛役の若い仙道に捕らえられ、縛り上げられた挙げ句、やぶの中に転がされてしまったのだった。
そのため、武王らが太公望の幕舎に引き返すのを止められず、暗殺は失敗に終わった。
「…いや、お前たち二人だけでも、無事で良かった」
「!」
その場にいたもう一人の男が、思わず顔を上げた。
目が微かに潤んでいる。太公望を襲った、彼である。
彼は宿営地に急きょ作られた牢に放り込まれ、見張りも付けられていたが、何とか戒めを解いた頭目の手引きで脱出したのだった。
その時、彼はもちろん、太公望との再戦を主張したのだが、頭目に止められ、引きずられるようにして朝歌に戻ってきたのだった。
「こうなれば、我が領地の兵をもって、周を叩き潰す!
今度はそなたたちも、刺客ではなく、将として働いてもらおう。よいか?」
「もちろんでございます」
「いつでもご命令を!!」
比干が声を励まし、二人が応じる。
そこへ家人が、使者の来訪を伝えに来た。
…朝廷から、急の呼び出しである。
「それはちょうど良い。我が兵も、数日後には朝歌に着く。陛下に親征していただくためにも、そろそろ拝謁を願おうと思っていたところだ」
そう言って、比干が早速、出かける支度を家人に命じたところへ、
「比干様、お待ち下さい!!」
常ならぬ激しい声。
「これは太公望の罠です!!
奴は比干様が陛下に処刑されると言ってました。自分がそう仕向けたからだと。行ったら殺されます!!」
比干は瞠目した。
が、しばらくして口元にかすかに笑みをうかべると、穏やかな声で彼に尋ねた。
「そうか。太公望はお前に、わしが処刑されると言ったのか…そしてお前を殺さず、朝歌に帰してくれたのだな」
「比干様…」
呆然とする彼に、比干が笑い出した。
「わしに逃げろと言うのか、太公望よ。
せっかくの好意だが、わしは逃げるわけには行かぬ。わしは決して、殷を見捨てはしない。それがわしの、王族としての誇りだ。
支度を急げ!朝廷へ参る!!」

―――――――重苦しい音とともに、禁門は閉じられた。
官吏、諸侯の大半が去った禁城は閑散として、かつての華やぎはない。
どころか、近頃では、皇后の息のかかった怪しげな連中が、我が物顔でのさばるありさまである。
比干は玉座の紂王に、恭しく臣下の礼をとる。
が、紂王は比干の言上をいきなり遮った。
「比干よ。そなたの兵が朝歌に迫っているらしいな。王族でありながら、玉座欲しさに周に寝返ったか?」
しかし、比干は落ち着いていた。
「陛下。あれは西より迫る周軍を迎え撃つために呼び寄せた援軍でございます」
「あらん。だったらなぜ、東伯候の軍は、あなたの軍をはばみもせずに、黙って通したのかしらん?」
不敬にも玉座にもたれかかった女狐が、妖しく笑う。
「あなたが周に通じてる証拠じゃなくて?」
「うむ。妲己の言う通りだ!比干、そなたは王族でありながら、周に寝返り、予の地位を奪おうとしておるのだろう?!」
「そのようなことは、考えたこともございません」
比干が穏やかに言う。
「正直に申せ。そうすれば、そなたは予の叔父。処刑まではせぬ」
「臣は、無実でございます」
「比干!!」
あくまで穏やかに言う比干に、紂王の方が心を乱す。
「紂王さまん」
そんな紂王に、妲己が声をかける。
「おじさまが無実かどうか調べる、いい方法がありますわん」
「おお、さすがに妲己は頭が良いの。どんな方法だ?」
自分に言いなりの紂王に、妲己は妖しく微笑みかけた。
「おじさまの心臓を取り出してみるのです♪
聖人は心臓に、七つの穴があるというでしょお?おじさまの心臓を取り出してみて、七つの穴があったら、おじさまは無実ですわん」
妲己が言うや、数人の衛士が現れた。彼女の家来たちである。
「さあ、おじさまん。わらわたちに心臓を見せてん」
妲己の目が、妖しく輝いた。

―――――――やがて。
彼女の前に、うやうやしく比干の心臓が差し出された。
「あはん。紂王さまん。ご覧になってん。
おじさまの心臓には、ちゃんと穴が七つありましたわん」
「そうか、比干は無実であったか…」
紂王がうつろな目で、妲己の手の上の心臓を見つめた。
「疑って悪かったな、比干。そなたの兵は、正規軍に組み入れることにしよう」
紂王が、玉座から比干に声をかけた。
が、彼は『不敬にも』ものも言わず、紅く染まった床の上にうずくまったままだった。


「比干は…処刑されたか……」
その報を受けた時、太公望の全身から力が抜けた。
「それともう一つ。
比干惨死の報を受けた箕子は気が触れ、自身の屋敷に軟禁されたそうです」
楊ぜんの言葉に、思わず太公望が顔を上げた。
が、すぐに苦しげに眉をひそめ、うなだれた。
「師叔…」
「最低だな、わしは。人の心の隙を突いて、次々に罠にはめていく…。楊ぜん、今のわしの顔、見たであろう?」
思わず顔をあげた時の、快哉を叫びそうな顔――――。
「わしはこれで、人間として殷を攻略する際に、邪魔になる二人を消し去った。まさに一石二鳥の策だったな」
うつむいたままの太公望の顔が、奇妙に歪む。
「師叔。僕は、これが最上の策であったとはいいません。ですが、少なくともあなたは、一兵も損ねることなく、二人の大敵を退けました。
それではいけませんか?」
「楊ぜん…」
顔を上げた太公望に、楊ぜんは穏やかな声音で続けた。
「しかもあなたは比干に、逃げ場をも用意していたではありませんか。聡明な彼が、それに気づかなかったはずはない。
師叔、彼は王族なんです。
自分の命と引き換えに、殷の誇りを守ったのですよ」
太公望が、かすかにうなずく。それを見て、楊ぜんは微笑した。
「今夜は比干殿をしのんで、弔い酒と行きますか。
武成王と父君、四大金剛と蘇護殿、トウ九公殿もお呼びしましょう」
「…おぬし、他のことならいざ知らず、酒でわしらの相手をするのは、百年ばかり早いのではないか?」
太公望が苦笑する。
「これも修行のうちです」
楊ぜんはまじめぶって言うと、にこりと笑った。


―――――――雲蒸竜変 不知 零凋心 (うんじょうりゅうへんれいちょうのこころをしらず)

雲のごとく湧き起こり 竜のごとく変幻自在

興起する周の陰に 零凋(しぼむ花)あり―――――――



−了−














これは、私が初めて書いた封神話です。
時間にちょっと無理があります;;

しかもこの時期、太公望は、利き腕が使えなくて戦うどころじゃありませんでした★
「メンチ城」を「澑池城」と書いてるのは、悩んだ末の決断です(^^;)
この時代にないことわざも出てきますが、その辺りは大目に見て下さい(笑)










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