古 塚 狐
〜こちょうぎつね〜










古塚の狐 妖にして且つ老ゆ
化して婦人となれば顔色好し・・・
忽然一笑すれば 千万の態
見るもの 十人 八九は迷う
仮の色の 人を迷わす なおかくのごとし
真の色の 人を迷わす まさにこれに過ぐべし

(白楽天・古塚狐)


――――狐の色香でさえ人を惑わすのだから本物の美女はそれ以上だろう、ですって?
・・・美しいだけの女に 価値なんてないのよ。


「うわさはきいてるよ」
金鰲島内を飛ぶ黄巾力士の上で、ほほ笑みを浮かべたまま、普賢真人は言った。
「妲己に、随分とひどい目に遭わされたんだって?」
同情でも憐憫でもない、自然なほほ笑みに、太公望は自分でも驚くほどあっさりと頷いた。
「あやつは別格だ」
苦々しく言い捨てる。
「ただの妖怪仙人ではない。
・・・全てはあやつをなめてかかったわしの、失策だった」

―――わらわは あなた以上の策士なの

初めて会った時に言われた言葉。
なぜ、この言葉を真摯(しんし)に受け止めなかったのか。

―――羌族は信用できません
みんなタイ盆に落とします!

自分は一人で立ち向かっているのだと思っていた。
だが、あの女狐はそれを逆手にとって、見せ付けたのだ。
再び、目の前で同族を皆殺しにされる惨劇を。

「あやつはわしが・・・必ず封神する」
真っ直ぐに、前を見つめ言う太公望に、普賢はかすかに首をかしげた。
・・・朝歌で、本当は何があったの?


「楽しそうですね、妲己」
申公豹は、豪奢な高楼の欄干に、優雅にもたれる彼女に声をかけた。
「・・・あらん。苦情かしら、申公豹?」
冗談めかして、妲己は宙に浮かぶ道士に微笑んだ。
「わらわが太公望ちゃんで遊ぶのが、気に入らないのん?」
「遊ぶのは構いませんよ。ただ、私はあなたが彼に飽きてしまわないかが心配なのです。
女性は熱しやすく冷めやすいものですからね」
「あらん・・・」
妲己は、妖しい笑みを浮かべた。
「わらわがすぐに飽きちゃうような道士なの、太公望ちゃんは?」
「・・・・・・それもそうですね」
申公豹が、口許をほころばせる。
「では、せいぜい殺さない程度に遊んで下さい。
・・・あなたも、私の恨みを買いたくはないでしょう?」
真っ直ぐに彼女に射込まれる視線。
それを、彼女は笑って受け止めた。
ふわりと、羽衣が風をはらむ。
「それは太公望ちゃん次第よん」
ほほ笑みは、甘やかな香りに彩られ、妖しさを増した。

獲物は 我が手の中に・・・。


まるで洞窟のような、暗く湿った細長い廊下に、足音が響く。
それはゆっくりと、だが確実に彼を覚醒させた。

「太公望ちゃん・・・目が覚めたかしら?」
格子の向こう側、狐が妖しく微笑んだ。
硬い石の床に、あお向けに倒れ込んだまま、太公望は彼女を睨む目に力を込めた。
血の色をした瞳に光が灯る。
「あらん、恐〜〜〜い」
笑いを含んだ声で、妲己が言う。
「そんなにわらわを殺したいの?なぜ?」
「・・・おぬしに苦しめられている人々を救うため、と言ったら?」
ふ、と、妲己は声を立てずに冷笑した。
「つまらないこと言わないで」
「・・・・・・わかっておるなら最初から聞くな」
憮然と、太公望が呟く。

―――なんと可愛らしい道士か。

捕らえられ、獄につながれても、その誇りを失わない。
・・・しかも、既にいくつかは、逃亡の策を持っているのではないか?

『誘惑』の術に惑わされぬ者。
石琵琶の原形に戻ったかわいそうな義妹をぞんざいに持って、現れた崑崙からの刺客。

―――ずいぶんと小柄で、かわいい道士だこと。
しかも、老獪(ろうかい)であると同時に向こう見ず。
そのアンバランスさが面白い。

獣の狩りの本能を刺激する道士だった。

―――あなたが妖怪とあなどる狐の、狩りのやり方を見せてあげるわ。


妲己は、妖しく微笑んだ。
「ねぇ、太公望ちゃん。ここから出たい?」
言うと、太公望はあからさまに疑いの目をむけた。
「出たい、と言えば出してくれるのか、おぬしは?」
よっ、と声をかけて、太公望は勢いよく立ち上がった。
「出してあげてもいいわよん」
妲己が、二人を隔てる格子に手をかけた。
「・・・なにを企んでいる?」
太公望は、すっと暗い牢の奥へ下がる。
「なにも・・・」
妲己が笑みを浮かべるのと同時だった。
丈夫な牢の格子がはじけ飛んだ。

「?!」
驚く太公望に、妲己が近づく。
「わらわはね、あなたが気に入っちゃったのん。
あなただけよん。わらわに一人で挑んできたお馬鹿さんは」
傾城元禳が、甘い香りを放つ。
迫ってくる香りに、太公望はあとずさった。
「太公望ちゃん・・・」
ぱさり・・・。
はかなげな音を立てて、傾城元禳が床にわだかまった。
「わらわを追っていた三日間、何を考えてたのん?」
婉容(えんよう)と伸ばされる腕から、さらに逃げると、背後に硬い石の壁を感じた。
「おぬしを倒す方法に決まっておろうが・・・」
追いつめられて、硬い声を出す太公望に、妲己は艶然と微笑んだ。
「いやん。無粋なこと言わないでん」
「・・・おぬしのことだけを考えていた、とでも言って欲しいのか?」
妲己は黙って微笑んだまま、華奢な手を太公望の頬に添えた。
「わらわのことだけを考えてて。これから、ずっと・・・」


頬に触れた手は、意外なほど暖かかった。

・・・まるで、あの人の手のような。

「誰の手を思い出したの?」
今までとは手のひらを返したような、冷たい声で尋かれて、太公望の意識は、改めて目の前の狐に集中した。
「お母様の手でも思い出したのかしらん?」
ふたたび甘く馨(かお)る声に、太公望は凍るような冷たい声で答えた。
「母の手・・・?
羌族の、遊牧民の手はこんなに柔らかくも美しくもない」
だが、とても暖かかった。
その手を・・・幼い自分から奪ったのは、目の前の、この美しい手・・・。

「あなた、自分が一人だと思ってるでしょ」
目の前に、美しい笑みが迫る。
「でも、わらわの手で思い出したのは誰?」

―――頭に浮かんだのは、美しい鳳凰山の主・・・。

「優しい声で、あなたに微笑みかけるのは誰だった?」

―――天使のような、優しすぎる友。

「誰?幼いあなたに優しくしてくれたのは・・・」

―――気のおけない、大仙達。

「誰なの、あなたにわらわを殺すように命じたのは・・・?」

次々に浮かぶ、崑崙の仙人達の顔。

妲己は、妖艶な笑みを浮かべた。
「あなたは一人じゃないのよ。
まるで身体の一部のような、大切な人たちがいる。
そうでしょう・・・?」

―――認めざるを得ない、己の弱点。
奪われた記憶は、深い心の傷となって、再び奪われることを至極、懼(おそ)れるようになった。

「・・・そしてわらわは、また、あなたから彼らを奪ってあげる」

太公望は、妲己のその、華奢な手首を握り、思い切り引き剥がした。
「妲己。わしを殺すなら殺すがいい。
だが、おぬしは仙界を敵に回したのだ。逃げられはせぬよ」
「・・・そう思う?」
妲己の瞳が、金色に光る。
獰猛な獣のようなそれに、太公望は思わず握っていた手を放した。
「あなた達は所詮、わらわの手の中で踊る、人形にすぎないのよ。
わらわを楽しませてくれれば、殺さないであげる」
「・・・テストだったわけか」
妲己の、遊び相手にふさわしいかどうかの・・・。
「それで?わしはおぬしを楽しませるに足る者か?」
太公望は余裕の、とは言いがたい笑みを浮かべた。
「まだまだねん」
にっこりと、妲己が無邪気な笑みを浮かべる。
「だから、ここからは自分で出るのよん。
もちろん、ただで逃がすつもりはないけどぉん」
ふわりと舞い上がった傾城元禳が、再び彼女の美しい身体を覆った。

目の前の獲物は、嬲(なぶ)るほど楽しめるタイプだった。
「忘れられない日にしてあ・げ・る」

わらわのことを、忘れられない日に・・・。


刑場に引き出され、太公望はそのおぞましいものを見た。
大きな穴の中でうごめく無数のヘビ・・・。
タイ盆。
妲己が、自分を殺すために作った、残虐な刑具。

―――だが、何とか逃げてみせる。

一人なら、何とかなる。
四不象と宝貝を奪われたのは痛いが、逃げる策ならいくつかは・・・。

思って、きつく睨んだ先で、妲己はたのしげに笑っていた。
「まずは、羌族160人の処刑を行いますわん」
「!?」
「聞けば、太公望ちゃんは羌族の出身。羌族は信用できないわん。
み〜〜〜〜んなタイ盆に落としちゃいましょ」

・・・ふざけるな!

「やめろ!悪いのはわし一人であろう?!」
「あはん。馬鹿な太公望ちゃん」

―――ただで逃がさない、って言ったじゃないのん。

かわいいあなたの、まだ癒えていない傷口に、爪を立ててあげる。
古い傷から、新しい血を流してあげる・・・。
その傷に触れるたび、あなたはわらわを思い出す。
いえ、あなたはわらわを想いつづける・・・!
これから現れる、どんな敵だって、あなたをこれほど深く傷付ける者はいないわ。

久しぶりに、ふるえのくる感覚。
今獲物は、鋭い獣の爪の中で必死にあがいている。
生かすも殺すも、思いのまま・・・。

―――逃げないの?
一族を見捨てて。
あなたを刑場に引き出しているのは、ただの人間なのよ?
仙道のあなたなら、逃げるチャンスじゃない。

―――逃げられないわよね。
自分のせいで殺される、同族を見捨てて。
このままここで殺される?
わらわを恨みながら・・・。

ここであなたが死ねば、遊びは終わりよ?


「――――っ!!」
妲己は、いかにもたのしげに笑いながら、羌族がタイ盆に落ちていく様を見ていた。
落ちて、ヘビに食われて苦しむ様を・・・。
「みんな!逃げろ!!逃げてくれ!!!」
太公望の叫びは、だが、同族の冷たい言葉で返された。

『あんたが力もないくせに、蜂の巣をつつくような真似をしたからだろう?』

妲己は嘲笑(わら)った。
言葉を失うほどに、深く傷ついた太公望の顔・・・。

―――なんて可愛らしい。
でも、あの子はだめねん。
わらわに逆らっていいのは、わらわを楽しませる子だけなのよ。

諾々とタイ盆に落ちようとしていた羌族の中で、反抗の口火を切った少年。
太公望に、忘れられない傷を残していいのは、自分だけ・・・。
妲己の目が、金色に輝く。
その視線を受けた妖怪仙人が意を得て、反抗者たちのただなかに火球を投げ入れた。
彼らの中に入った途端、それは盛大に炸裂し、タイ盆の上にせり出した石の土台ごと、反抗者達をヘビの群れの中に落とし込んだ・・・。

「ま!やっばーん!四不象ちゃん上へ参りましょ」
もうもうと立つ土埃を避けるように、妲己は笑いながら霊獣に命じた。
「・・・上からの方が、良く見えるものねん」

―――どうやって逃げるの?
自力で?それとも・・・。

金色の瞳は、すべてを見ていた。
逃げ惑う人間達に何度もぶつかられながら、呆然と立ちすくむ太公望。
見かねて救いの手を差し伸べる武成王。

妲己の口の端が上がる。
「・・・武成王。あなたを失脚させる手を思いついたわん」


「最後で邪魔が入ったようですね。ずいぶんとつまらない催しでした」
未だ喧騒の収まらぬ宮中に飽きて、四不象に乗ったまま上空にいた妲己に、申公豹が憮然と声をかけてきた。
「太公望ちゃんが、もっとあがくのを期待してたのん?イジワルなひとねぇん」
「あなたほどではありませんよ」
そういって、申公豹は笑みを返した。
「妲己、あなたのことですから、もう武成王への仕返しを考えているのではありませんか?」
「もちろんよん」
申公豹の指摘に、妲己はあっさりと頷く。
「だってわらわは、お楽しみを邪魔されるのが大キライなんだものん」
金の瞳が、妖しい輝きを帯びる。
「武成王もかわいそうに。余計なことをしなければ、あなたを敵に回すことなどなかったでしょうに」
さして気の毒そうな様子も見せず、申公豹が言う。
「・・・それはどうかしら」
妲己は口の端を曲げた。

忠臣は邪魔だ。
特に、何代も殷王朝に使えている忠臣は。
彼らが殷にいるだけで、王権は傾きつつも倒れることがない。
逆に。
彼らさえ殷から離反すれば、臣下達は先を争って殷を捨てることだろう。

「聞仲ちゃんの力をそぐためにも、前から武成王には消えて欲しかったのん。
・・・なかなかいいアイディアが浮かばなかったんだけどん。
太公望ちゃんのおかげで、確実に武成王を紂王さまから引き離す手を思い付いちゃったん」
目の前で同族が殺された時の・・・同族から非難された時の、太公望の顔を思い出しながら、妲己は妖しく微笑んだ。
「奪われるって、とっても辛いことなのねん」

また誰かを奪ったなら、彼はどんな顔をするのだろう・・・。
彼に、味方をふやしてあげなければ。
奪われた時、彼自身が壊れてしまうくらいの、大切な仲間を。

妲己はその美しい手で、四不象を優しく撫でた。
「ねぇん、申公豹」
それまでの妖しさを払拭(ふっしょく)して、妲己が無邪気な笑みを浮かべる。
「妲己、ご不浄に行きたくなっちゃったぁん。
わらわが帰ってくるまで、スープーちゃんと打神鞭を預かっててくれる?
―――誰かが、太公望ちゃんのところに持っていっちゃわない様に」
「―――いいでしょう。私が預かっていてあげます」
二人は笑みをかわした。
「・・・じゃ、お願いねん」
ふわり。
妲己は傾城元禳に風をはらませ、地に舞い下りていった。

「・・・ねえ、申公豹。ホントに預かるだけなの?」
今まで黙って成り行きを見ていた黒天虎が、眉をひそめて言った。
「まさか。
黒天虎、四不象をくわえて飛べますか?」
申公豹の言葉に、黒天虎は思いっきり嫌そうな顔をした。
「やっぱりぃ〜〜〜?
やだな。重そうなんだもん」
「最強の霊獣が、情けないことを言うものではありません」
「・・・はぁい」
主人にいさめられて、黒天虎は仕方なく、ぼんやりと宙に浮かぶ四不象に近づいた。
普段なら、黒天虎に怯えて騒ぎまくる彼が、なんの反応も見せない。
妲己の、『誘惑』の術のなせる技だった。
「どこかに降ろして、妲己の毒を抜きましょう」
「・・・それって、今より断然重くなるって事だよね?」
「いやですか?」
「うん」
「・・・だったら、太公望が通りそうな道で降ろしましょう。そうすれば運ばずに済みますよ」
「うん!」
黒天虎はうれしげに言って、四不象の襟首をくわえた。


「・・・おそらくな、わしは忘れておったのだよ。奪われたことを」
太公望の呟きに、普賢は太極符印に落としていた視線を上げた。
「確かにわしは、妲己に一族を奪われ、その復讐を果たすために崑崙に上がった。
だが・・・」
時間というのは、思った以上に優しいものだった。
どんなに残酷な思い出も、清浄な空気と暖かな微笑みが癒してくれた。
憎しみも怒りも、確かに胸の奥でたぎってはいたけれど、一族を奪われた日の烈しさは摩耗していった・・・。
「人は、ずっと憎んでなんかいられないよ。
残酷な思い出を忘れることは、けっして悪いことじゃない。むしろ大切な・・・」
「普賢。手をかしてくれ」
太公望は普賢の言葉を遮り、手袋を脱いだ手でいきなり彼の手を取った。
「望ちゃん????」
首をかしげる普賢に構わず、太公望は両手で軽く握った友人の手に視線を落とした。
「・・・暖かいんだな。おぬしの手も」
「望ちゃん・・・」
「妲己の手も、暖かかった・・・」

だが、その手は再び自分から同族を奪った。
癒された悲しみを、摩耗した烈しさを、克明に思い出させるために。

「もう・・・あの手になにも奪われたくはない・・・!!」
「望ちゃん・・・!」
普賢は目をみはった。

『誰も傷付けたくない』
『犠牲を出したくない』

そんな、戦いの中では行動を束縛するだけの、理不尽な感情。
どうして彼がそこまで、仲間を傷付けることを恐れるのか。
その理由が分かった。

―――インプリンティング・・・!
彼は、妲己によって刷り込まれていたのだ。
奪われることが、なによりも恐ろしいことなのだと・・・。

―――いつでもわらわのことを想っていて・・・。

妲己の言葉が聞こえた気がした。
その哄笑が・・・・・・・・・・・。

「・・・望ちゃん」
握られた手に震えが来る。
「普賢・・・?」
太公望は顔を上げた。
「だいじょうぶ。僕は、君の横にいるから」
微笑んで、普賢は強く手を握り返した。
「君は君の思うままに進めばいいんだ」

―――負けないで。
残酷な思い出なんかに。
君が目指しているものは、絶対に過去の呪縛なんかに負けないから・・・。


「妲己ねえさま、ご機嫌だねっ☆
太公望で遊ぶのって、そんなに楽しいのっ☆」
崑崙山と金鰲島との戦いを、高みから見守る妲己に、義妹の喜媚が無邪気に聞いた。
「もちろんよん。
太公望ちゃんほど、わらわの手の上で、上手に踊れる子はいなくてよん」
「さすがですわ、妲己ねえさま!
あの太公望をこんなに思う通りにできるなんて!」
溜飲が下がるようだと、王貴人は笑った。
「これが狐の狩りというものよん」
金色の瞳は笑みを含んで、妖しく輝いた――――。


忽然一笑すれば 千万の態
見るもの 十人 八九は迷う


―――美しいだけじゃ、人の心はつかめないのよ。

狐の狩りを、見せてあげるわ・・・。




−了−









最初はラブラブでも書いてやろうか、なんて思ってたんですが・・・。
参照したのは講談社ブルーバックス・狐狸学入門/今泉忠明著です。(『古塚狐』の詩など)
民俗学や動物学など、狐と狸に関することがわかりやすく書いてあって、かなり面白いです(^^)
ご興味のある方はぜひ一度ご覧ください(^^)






封神演義書庫