遼 遠 黄 土
〜りょうえんこうど〜









 鏡のように静かな湖水に投げ入れた針は、かすかな波紋を描いて沈んでいった。
 暖かな風が、花の香りを運んでくる場所。
 彼は、今日もここで釣り糸を垂れていた。
 静かに。
 思考が彼の裡(なか)に沈んでいく・・・。

 「また釣りですか」
 少女らしくない、感情の見えない声に、彼は自分の裡から引き上げられた。
 「何も釣るつもりがないのに、無駄なことだと思いませんか?」
 歯切れの良い口調。
 言うことも、いたって現実的だ。
 「今日の分の仕事は終わったぞ。自由時間にわしが何をしようと勝手だろうが」
 無愛想に、彼は少女に言った。
 邪魔をするなとでも言うように。
 「仙道はなまぐさを食べないと聞きました」
 彼の態度を気にする風もなく、少女は彼の隣に座った。
 「食べるつもりもないのに、魚を楽しみのためだけに釣るなんて、悪趣味ではありませんか?」
 「・・・・・・・・・・・・・!」
 彼は少女をまじまじと見つめた。
 「なんですか?」
 眉をひそめる少女に、彼は思わず笑みをもらした。
 「昔、友から同じ事を言われた」
 そう言うと、彼はひゅっと軽い音を立てて、水中から器用に針を引き上げる。
 「やつは、徹底的に争いを嫌う奴でな。
 魚がかわいそうだと言って、こんな針をくれたのだ」
 彼の手の中には、縫針のように真っ直ぐに伸びた針。
 「・・・これでは、魚は釣れませんね」
 呆れたように言う少女に、彼は笑ってうなずいた。
 「けして、無理強いをせぬ奴だった。
 魚を哀れみ、だが、わしに釣りを止めろとも言わない。
 あやつが裁判官であったら、罪人など一人もいなくなるであろうよ」
 「それは私への皮肉ですか?」
 くすくすと笑う彼を、桃源郷の裁判長である少女は軽くにらんだ。
 「そう聞こえたかの?」
 「聞こえました」
 「ならば、そうなのであろうよ」
 人を食った彼の答えに、少女はささやかな反撃を試みた。
 「では、あなたはここへ至る道のりで、会ったのではありませんか?
 あなたの、大事なその人に」
 15歳の少女らしい態度だった。
 『生意気な小娘』と、一笑に付されるほどの。
 だが、少女の言葉は彼女の予想を越えて、彼の深いところを突いていた。
 彼の鋭い視線に貫かれ、少女は怯まずにはいられなかった。
 「・・・会ったよ。
 遠くから、わしを見て微笑んでいた。いつもと同じ笑顔で」
 ついっと、彼は少女から視線を外し、再び湖面に釣り糸を垂れた。
 「あれは・・・わしの願望を映したのか?」
 湖面に映るみずからの姿に視線を落とし、彼はつぶやくように言った。
 「あやつに会いたいという、わしの願いを・・・?」
 風が、微かに彼の髪をそよがせた。
 「悪趣味だな」
 だが、その声には棘はなかった。
 「・・・本当に、会いたかったのですね。その人に」
 悪趣味な幻でも許せるほどに。
 「あなたにとって、その人はどういう存在だったのですか?」
 桃源郷の幻は、見るものが真に欲しているものを映す。
 進入者が、幻と共に下界に堕ちてしまうように。
 「個人的なことには黙秘する。誰のセリフだったかのう?」
 からかうように、彼は言った。
 「別に、言いたくないのなら言わなくても結構です」
 ふい、と、遠くに視線をやってしまった少女の横顔に、彼は笑みを浮かべた。
 「―――幼なじみで、親友」
 彼は再び、湖面に視線を落とした。
 「言ってしまえばそれだけのものだな」
 たったそれだけの言葉ですまされるもの。
 だが、彼にとっては、深く澄んだこの湖水のように、清澄な響きを持つ言葉だった。
 「・・・良い人だったのですね。
 あなたの口調からは、好意以外、何も感じられません」
 少女の理性的な声に、彼は照れくさそうに答えた。
 「それでも結構、ケンカはしておったのだぞ。
 ・・・まぁ、大体はわしが勝手に怒って、あやつはにこにこと聞いているだけだったが」
 だが、一度だけ。
 あの天使を本気で怒らせたことがある。
 まるで、心の底から凍るような・・・。
 彼と心が離れていた時間。
 あの時のことは、忘れられない・・・。




 ―――20年ほど前だったか。
 太公望は、白鶴童子と共に崑崙山を抜け出し、殷の国中を見てまわった事があった。
 疲れただの怒られるだのと、ぶつぶつ言う白鶴をなだめすかし、玉虚宮に帰ってきた彼を麒麟涯で迎えたのは、怒り心頭に達した元始天尊ではなく、十二仙になったばかりの親友、普賢真人だった。
 「おかえり。国巡りは楽しかった?」
 微笑みながら、普賢はたずねた。
 「ああ、いろんなものが見れたぞ」
 笑みを返す太公望に、さらりと普賢は続けた。
 「朝歌の周りの地形や、諸侯の勢力関係とか?」
 「・・・気づいておったのか」
 苦笑する太公望に、普賢は笑って続けた。
 「元始天尊様はもう怒ってないから、大丈夫だよ」
 「ほほう・・・。一体、あのじじいになんと言ってくれたのだ?」
 にやりと人の悪い笑みを浮かべながら太公望が聞くと、普賢はなんでもない事のように言った。
 「べつにー?望ちゃんが、地図を作りに人間界に行っちゃいましたって言っただけだよ?」
 「地図、のう。確かに嘘ではないな」
 太公望は苦笑した。
 普段はのんびりとして、何も考えてないように見えるのに、この親友の観察眼は、驚くほど鋭い。
 おそらく彼は、太公望が人間界に降りた真の目的を察して、元始天尊にとりなしてくれたのだろう。
 「じゃ、今から僕の洞府においでよ、望ちゃん」
 「は?」
 突然の誘いに、太公望は間の抜けた返事を返した。
 「は?じゃないよ。『地図を作るから』って元始天尊様に言っちゃたんだもん。ホントに作らないとまずいでしょ?」
 確かに。
 「帰ったらさっそく図面に起こそうと思っておったのだ。おぬしが手伝ってくれるなら助かるのう!」
 「こないだね、地図作成ソフトを作ってみたんだー。
 数値を入力するだけで簡単に製図できちゃうから、すぐに使える地図が描けるよ!
 プロッターは、太乙師兄のところのを借りようね!」
 この友人は、本当に得がたい存在だった。
 自分の必要とするもの、情報を即座に察し、助けてくれる。
 「かなり膨大な量だぞ?」
 「一国を一つの図面に収めようっていうんだもの。当然でしょ」
 なんでもない事のように、友は笑った。
 「それより、望ちゃんの測量は正確なのかな?」
 いたずらっぽく言う友に、太公望はにやりと笑った。
 「わしに聞くのか、それを?」
 「自信満々だね!」
 二人は、顔を見合わせて笑った。

 それからしばらくたった頃だった。
 殷の全体図、朝歌付近や殷に従う諸侯国の細かな図など、何十枚にもなる地図が完成したのは。
 「印刷終わったのかい?」
 地図を印刷するためのプロッターを貸してくれた金光洞の主は、ようやく機械音の止んだ部屋の扉を開けて、絶句した。
 「寝てなかったんだね・・・」
 印刷機からあふれ出た図面に覆われて、二人は床に沈んでいた。
 「ホント、仲いいんだねぇ」
 かわいい弟達を見る兄の目で二人を見ながら、太乙は苦笑した。
 「でも、こんなところで寝てたら風邪ひくよ!太公望!普賢!!起きた起きた!!」
 ぼんやりと目をこすって起き上がる二人に、思わず吹き出しながら、太乙は二人の腕をつかんで立たせた。
 「私の寝室を貸してあげるから、二人ともしばらく寝ておいで。ここは私が片づけておくからさ」
 思考力も停止しているのか、黙ってふらふらと部屋を出ていく弟弟子達を見送って、太乙は床に散らばった地図を手に取った。
 「へぇ・・・。これはすごいね」
 太乙は、思わず目をみはった。
 どの地図も、一目で全体を把握できるように描かれている。
 どれにも細かく文字や番号が書いてあり、その地図が全体のなかのどの部分に当たるのか、ということがすぐに見て取れた。
 そしてそのなかに何枚か、簡単な地形を描いただけの地図も混じっていた。
 ミスプリントではない。
 「・・・太公望」
 白さが目立つその図面に視線を落としたまま、太乙はつぶやいた。
 「戦が・・・始まるんだね・・・」
 寂しげな声だった。


 「白鶴。太公望を知らんか?」
 元始天尊に問われて、白鶴童子は翼をはためかせつつ言った。
 「今日は霊宝大法師様のところです!」
 「・・・昨日は文殊のところに行っておったのう。
 いつも修行をサボってあちこちと・・・。一体何をしておるのだ、あやつは?」
 苦々しく言う元始天尊に、白鶴は肩をすくめるように翼を広げてみせた。
 「師叔は、どうやら仙人様方を相手に、新しいゲームをしているそうですよ」
 「ゲーム?!」
 声を荒げる元始天尊に、白鶴は続けた。
 「はい。なんでも、本物の地図を使って陣取りだかなんだかの、シュミレーション・ゲームだそうで。
 僕もやらせてもらったんですけど、結構難しくって、すぐ負けちゃったんです」
 とほーっと、白鶴は情けなく息をついた。
 「地図を使った陣取り・・・のう」
 元始天尊が、低くつぶやいた。


 元陽洞洞主・霊宝大法師は、同じ崑崙十二仙の懼留孫と並んで、碁の名手として知られていた。
 もっとも、口の悪い太公望あたりに言わせると、
 『暇なじじい同士、碁以外にやる事がなかっただけだろうが』
 ということになるのだが。
 ともあれ。
 霊宝大法師は、その洞府に若い道士を迎えて、白髪と白髯(はくぜん)に覆われた顔に、柔和な笑みを浮かべた。
 「こんなじじいを思い出してくれるとは、嬉しいのう、太公望」
 霊宝大法師はまるで孫に対するように、太公望に、にこにこと菓子なぞを勧めた。
 「それで?わしになんの用事かのう?」
 用事などなくとも、来てくれるだけで嬉しいのだが、彼はこの若い道士が、用もなく兄弟子を訪ねる事などない事を知っていた。
 「うむ。実は、新しい陣取りの遊びを考案してのう。
 碁の達人たる御老に、いかばかりか試していただきたいのだ!」
 出された菓子を遠慮なく口に運びながら、太公望は持ってきた地図を二枚、卓子の上に広げた。
 「・・・これは見事じゃのう」
 霊宝大法師は、一枚目の地図の精緻さに目をみはりつつ、二枚目をめくった。
 「こちらは、簡単な地形だけなのじゃな。
 ・・・・・・陣取り、というたのう?わしと、この地図の上で戦をする気か?」
 霊宝大法師は、視線だけを太公望に向けた。
 「さすが御老!察しが良いのう。
 いかにも。この地図の上でわしと戦をしていただきたい」
 「ふぅむ・・・」
 うなって、霊宝大法師は白さが目立つ地図に目を近づけた。
 「面白そうじゃ。やり方は本物の戦と同じで良いのかの?」
 「無論、なんでもありだ」
 にやりと、笑って太公望は答えた。
 「互いの戦力は?」
 たずねられて、太公望は全体が細かく描かれた方の地図を広げた。
 「御老は、この国から始めていただく」
 太公望は、東の方、海辺の国を示した。
 「わしはここからだ」
 続けて西の、山側の国を示す。
 「戦力は分散している」
 そういって、太公望は白い地図に散らばる郷や邑、国の上に、それぞれの勢力を示す駒を置いていった。
 「それぞれ味方をつけ、戦力を統合し、中原を目指す。そして・・・」
 にやりと、太公望は笑みを浮かべた。
 「天下を制した者が勝ちだ!」


 太公望が『戦遊び』をしているという話が、新しい宝貝を製作するために洞府にこもっていた普賢の耳に入ったのは、かなり後になっての事だった。
 他の十二仙達から次々と聞かされる『太公望不敗伝説』に興味をひかれ、普賢は久しぶりに友のもとを訪れた。
 「望ちゃん、入るよ?」
 玉虚宮の、太公望の私室。
 中庭に面した大きな窓から陽光が存分に入る、明るくて暖かな場所。
 窓際には、書簡を広げるのに便利な大きな机があり、彼はいつもそこに書簡を広げては、暖かな日差しと爽やかな風に包まれて、安らかな寝息を立てていた。
 そして今日も、それは変わらない。
 普賢は、何枚もの地図を広げた机に突っ伏して、寝息を立てる太公望の肩を軽くゆすった。
 「望ちゃん。遊びに来たよ?」
 「ん・・・?」
 のろのろと起き上がって目をこする太公望に、普賢は優しく微笑んだ。
 「最近おもしろいゲームを考えたんだって?評判だよ」
 いいながら、普賢は机上の地図を取り上げた。
 もともと簡単な地形以外、何も描かれていなかった白い地図は、互いの進軍行程や陣形などが細かく描き足され、どのように戦が行われたのかが表れていた。
 「これは、霊宝師兄との勝負だね。
 ・・・さすが碁の達人だねぇ。きちんと押さえるところを押さえてるなぁ。
 文殊師兄とは・・・望ちゃん苦戦してるね。
 でも、師兄の戦法って、実行するにはちょっと無理があるみたい。
 堅実な戦法で来てるのは・・・広成子師兄って、ホントに戦上手だったんだねー!」
 ばさばさと音を立てて、何枚もの地図の上で行われた戦を見比べながら、普賢は次々と感想を述べる。
 「でも望ちゃんは、みんなに勝ってるんだねー・・・。あ、すごい。慈航師兄には完勝してるんだ」
 「おぬしが戦の図面を理解できるとは意外だったな」
 あくびをかみ殺しつつ、太公望が眠そうな声で言った。
 「全体の勝敗を見てるだけで、戦術レベルまで完全に理解してるわけじゃないよ。ここなんか・・・」
 そういって、普賢は図中のとある陣を指した。
 「なぜこんな低地に軍をおいたの?」
 不思議そうに、小首をかしげる。
 『軍は高きを好みて低きをにくむ』
 軍を動かすものにとっては、基本中の基本である。
 なのに、文殊との勝負で、太公望はわざわざそんな不利なところに陣を敷き、そのために苦戦している。
 「ここだけじゃないね。文殊師兄との戦いでは、わざと不利な地に布陣してる。どうして?」
 太公望の考案したゲームは、単なる戦遊びではない。
 本物の戦のような、細かい条件がつくのだ。
 例えば地形。
 山を越える時、河を渡る時は、軍の多寡(たか)に応じて、行軍速度が変わる。
 そして当然、布陣の際も、地形によって行動に制限がつく。
 「試してみたかったのだ。どの程度の戦力があれば、不利な条件を打破できるのか」
 言って、太公望は筆を取った。
 「文殊の軍と戦力が拮抗(きっこう)していたので、ここでは苦戦したが・・・」
 太公望の筆が、地図上を流れた。
 「こちらの軍を援軍とし、山上の敵を包囲。補給路を断ったら、どうなる?」
 にやりと、太公望は笑ってみせた。
 「・・・文殊師兄の負けだね」
 仙人の軍団でもない限り、食糧の補給を断たれれば、兵は終わりだ。
 特に太公望が今、断った補給線は、水の補給路である。
 水を断たれたら、仙人でも生きていられるかどうか・・・。
 「太公望不敗伝説だね」
 普賢の笑みに、太公望も笑って応えた。
 「だが、このゲームにも問題があってのう」
 ぱしんっと、太公望は机上の地図をはたいた。
 「伏兵が置けない、気象条件の設定が出来ない、兵の心理が利用できない!」
 いらだたしげな声だった。
 「伏兵を置く事が出来たなら、ここで・・・」
 太公望は、黄竜真人との戦いを描いた図を取った。
 「敵軍を逃がす事などなかったし、気象条件を設定できたなら、河を使っての戦法や効果的な火攻めも出来た」
 「望ちゃん・・・」
 太公望の言葉に、普賢が思わず眉をひそめる。
 「そんなことをしてどうなるの?
 殲滅(せんめつ)するなんて、無駄な事だと思わない?」
 「思わんな」
 太公望の答えは簡潔だった。
 「普賢。戦というものは、勝ったら終りというものではないのだ。その後の処理というものがある。
 もしここで、敵に余力を残してしまったら、後の災いとなるかもしれない」
 当然のように、太公望は言った。
 だが、普賢には納得できない。
 「もし、とかかもしれない、なんて理由で、殲滅するの?」
 まるで非難するような普賢の口調に、太公望も思わずむっとする。
 「余力といっても、まとまったものならこの時点で撃破できるが、散会されたのではいちいち掃討するのは難しい。
 こちらが中原を制覇し、後の処理に追われている時に各地で反乱を起こされては平定もままならんだろうが!」
 「だからって!殲滅する必要なんてないじゃない!
 反乱を企てるのは敵の諸侯達でしょう?兵は普通の民たちなんだよ?!」
 「きれい事で済まんのが戦だ」
 冷淡な声。
 「有能な将とは、どれだけ味方を殺さないか、またはどれだけ効果的に殺すかによって評価される。
 おぬしのように、かわいそうなどと考えていたのでは、かえって味方の兵を損なってしまう」
 淡々と続ける太公望を見る普賢の瞳に、力がこもった。
 「・・・人の命を、なんだと思ってるの?」
 激昂を押さえかねて、普賢の声が震えた。
 「戦の時に、そのような事考えておられぬ」
 「・・・・・・ひどいね。殷から・・・妲己たちから民を救うのが目的じゃなかったの?」
 押し殺した声。
 静かだが、中に嵐をはらんでいる。
 「旧を壊したいと思うのなら、すべてのものを守るなど不可能だ」
 「そんなの間違ってる・・・!」
 さらりと言う太公望に、普賢は反発する。
 「そんな将に、兵はついてこないよ!」
 「優しすぎて兵を損なう将にはついてくるのか?」
 冷笑する太公望を、普賢はきつく睨み返した。
 「・・・やってみる?」
 初めて聞く、普賢の冷たい声。
 「君の願いをかなえてあげるよ。
 気象条件や兵の心理をも利用できる、戦場を整えてあげる」
 彼は太公望に背を向け、扉に手をかけた。
 「―――僕の首を取りにおいで」
 恐ろしい言葉を残して、友は消えた。
 些細な言葉のあやでは片付かない。あまりにも重い意識の違いだった。


 数日後、普賢は一人で、乾元山の兄弟子のもとを訪れた。
 「何かあったのかい?深刻な顔をして」
 彼を迎えるや、兄弟子はまずそんなことを言った。
 「太乙師兄に、お願いがあります」
 問いには答えず、普賢は話を切り替えようとする。
 が、マイペースな兄弟子はそれを許さない。
 「君の笑ってない顔なんて初めて見たよ!
 なに?おなかでも痛いの?それなら私よりも、雲中子が専門だよ?
 あ、でも、彼のくれる薬って、なんか恐いよねー。私の常備薬を分けてあげようか?」
 心配そうに太乙は言い募る。だが、
 「違うんです」
 普賢は心配する兄弟子に、きっぱりと言い放った。
 普段はおっとりとしている彼の姿からは想像しがたいほどの、厳然とした態度だった。
 「師兄に、作って欲しいものがあるんです」
 何を、と聞くと、普賢は手の中に宝貝・太極符印を出現させた。
 「太公望が、新しいゲームを考案したのはご存知ですよね?」
 「た・・・太公望?!」
 常ならぬ普賢の台詞に、太乙は思わず声を上げた。
 「太公望って・・・ケンカでもしたの、君たち?」
 「価値観の違いによる、意見の相違がありました」
 宝貝に視線を落としたまま、普賢は硬い声で応えた。
 「そこで、僕たちは互いの主張を通すために、どちらが正しいかを戦で証明する事にしました」
 「・・・それはずいぶんと、穏やかじゃないね」
 「戦に対する意見の相違が原因ですから」
 呆然とつぶやく太乙に、普賢は素っ気なく言う。
 こうまで素っ気ない普賢は初めてだった。
 余程、太公望との確執が、彼の心を苛んでいるのだろう。
 見ていて気の毒なほど、弟弟子からは余裕が感じられなかった。
 「・・・すると、私に作って欲しいものと言うのは、その戦に使用する宝貝かい?」
 困った弟達に、太乙が思わず苦笑する。
 だが、普賢の答えは、彼の予想を越えていた。
 「戦場です」
 「・・・・・・は?」
 太乙が、間の抜けた返事をする。
 「以前、太公望と僕で作った地図をもとに、戦場を作ってください。
 本物の地形と気象条件。そして、兵達」
 そして普賢は、ガラス玉のように感情のない瞳を向けた。
 「僕と彼と、互いに命を賭けて戦う場を下さい」


 太公望と普賢の仲たがいの話は、驚くべき早さで崑崙中に広まった。
 仙人も道士も、会うたびに二人の話、しかも、『どちらが勝つだろうか?』という、野次馬的な話で盛り上がっている始末。
 そんな仙界の様子に、美しい鳳凰山の主は、不快にならずにはいられなかった。
 「まったく・・・馬鹿な事をしたものじゃ!」
 いらだたしげに、竜吉公主は目の前の道士をにらんだ。
 「たかが意見の違いではないか。何をむきになっておるのじゃ!」
 「首を取りにこいと言ったのはあやつだ。わしは、戦で片をつけてやるなどと、一言もいっとらんわ」
 椅子の背もたれを抱くように、行儀悪く座った太公望は、気まずげに視線を逸らして言い訳する。
 「太公望」
 なだめるように、公主の声が和らぐ。
 「私が仲裁に入るゆえ、仲直りしてはどうじゃ?」
 座る彼に視線を合わせるために、公主は彼の前に膝をついた。
 「けんかなど、おぬし達らしくもない。幼い頃より、常に一緒におった仲ではないか。
 おぬしも、普賢の性格は心得ておろう?おぬしが一言、『普賢の言葉にも一理ある』と言えば済む事ではないか」
 公主は、床に視線を落とす太公望の、すねた顔を覗き込む。
 まるで、幼い弟に対するように。
 「望。普賢と仲直りをするのじゃ。
 おぬしとて、本気であの子と戦いたいなどと思うてはおらぬだろう?」
 優しく、公主は微笑んだ。
 だが、太公望はその笑みを避けるように、立ち上がって出口に向かった。
 「望!」
 鋭利な声に、太公望は扉に手を掛けたまま、振り向かずにつぶやいた。
 「すまない、公主。わしは退くつもりはない」
 音もなく扉は閉まり、足音が遠ざかる。
 「馬鹿者・・・」
 力なく床に座り込んで、公主は重く息をついた。


 そんなある日、十二仙をはじめ、主だった仙人達が、元始天尊によって玉虚宮に集められた。
 一人、普賢真人を除いて。

 「皆も、最近の騒動の事は存じておる事と思う」
 元始天尊は、謁見の間に集まった一堂を見渡して言った。
 「我が弟子、太公望と普賢真人が、大掛かりな戦を行うと言うものだ」
 場がざわめく。
 多くは、元始天尊の言葉に頷きを返すものだったが、やはり仙人の事。
 『そんなことがあったのか』と、周りの道友に説明を求める者もいた。
 「ここで道友方に申し伝えおく!」
 騒がしくなりつつある場を、元始天尊は押さえた。
 「この二人の戦に、どのような形であれ、介入することなきように!
 一切の協力、妨害をせず、黙視していただきたい」
 「異議あり!」
 元始天尊の言葉に、美しく毅然とした声が返った。
 「竜吉公主・・・」
 静まりつつあった場が、再びざわめく。
 鳳凰山よりほとんど出てこぬ女仙が、ここにいるということも驚きだったが、そんな彼女がただ一人、崑崙の教主に反撥した事に、大仙達は興味をひかれずにはいられなかった。
 「下界の話なればともかく、この仙界で私闘など、言語道断!
 崑崙教主として、二人を罰しても止めるべきではないのか?!」
 堂々と教主の前に進み出て、きっぱりと言う。
 崑崙広しと言えど、元始天尊に直言できる者はかぎられる。
 これは、彼女の言うべき事だった。
 だが、元始天尊は彼女の言葉に、眉一つ動かさなかった。
 「公主の言われる事ももっともじゃ。だが、これは私闘ではない。封神計画の実行者を選ぶための、最終試験だと思っていただきたい」
 『封神計画・・・』
 それぞれの口から、それぞれの思いを込めて、同じ言葉が漏れる。
 「ここで道友方に、はっきり告げておく!
 わしは、封神計画の実行者に、道士・太公望を選ぶつもりじゃ」
 ざわめきが、ひときわ大きくなる。
 「太公望の実力を図るために、この戦は適当なものと判断した。
 ゆえに、道友方には、くれぐれも介入なきように!」
 以上、と、元始天尊は言葉を切った。
 反論は許さぬとでも言うように、さっさと退出する。
 だが、残された大仙達は、熱を含んだ口調で互いに語り合い、なかなか謁見の間を出て行こうとはしなかった。
 「公主」
 意見を一蹴されて、悔しげに眉を寄せる女仙に、長身の仙人が声をかけた。
 「玉鼎・・・」
 公主は、元始天尊に向けた激しさのままに、長身の仙人を睨み上げた。
 「なぜ彼らを止めようとせぬ!十二仙の地位は飾りか?!」
 激昂する女仙に、玉鼎は感情のこもらぬ声を返した。
 「公主の言う事はもっともだ。だが、太公望の実力を試す事は必要なのだよ」
 仙人とて、命は惜しいのだ。
 みずからも命を落とすかも知れぬ封神計画の実行者には、できるだけ有能なものを選んでおきたいのは当然だろう。
 この戦は、太公望の実力を崑崙中の仙人に見せるものでもあるのだ。
 元始天尊が『黙視せよ』と言ったのはそういう意味だった。
 が、竜吉公主は納得しがたい。
 彼女にとって、彼ら二人は『封神計画の実行者』でも、『十二仙の一人』でもない。友人なのだから。
 公主は、ふるえる声で言い募った。
 「ならば普賢はどうなる?!あの子達は、本気で戦うつもりじゃ!
 皆が太公望の勝利を期待する中で、あの子は・・・!」
 味方もなく、友と殺し合い、しかも、敗北する事を望まれる・・・。
 『僕の首を取りにおいで』
 彼はそう言ったのだ。
 崑崙十二仙の一人でありながら、いや、だからこそ、いけにえにはふさわしいと言うのか?
 「元始天尊が介入を許さぬと言おうと、私は彼らを止めるつもりじゃ。どんな手を使っても!」
 だが、きびすを返し、退出しようとする彼女の前を、唐突に遮ったものがいた。
 「やめなよ、君らしくもない」
 「どけ、太乙」
 「あの子達自身を説得できなかったからって、上からの圧力で解決しようと言うのかい?」
 思わず言葉を失った公主に、太乙は更に続ける。
 「君も、あの子達が言い出したらきかない子達だってことは知ってるだろう?
 その上、実力を図るための試験だなんて言われたら、互いに退けるわけないじゃないか」
 いつもの惰弱ぶりはどこへ行ったのか、淡々と言う太乙の声は、恐ろしいほど理性的だった。
 「大丈夫。舞台は私が用意したんだ。本当に死ぬような事はないよ」
 舞台。
 本物そっくりの地形、気象、そして、人間の兵士達。
 土人形に基本的な感情を入力し、人間のように行動するように作ったもので、『食事』を補給せねば動作が緩慢になり、斬られれば行動不能になる。
 そんな『人間』を大量に培養し、『兵士』として戦遊びに使うと言うのだ。
 「・・・悪趣味な」
 嫌悪感を隠そうともせず、公主はつぶやいた。
 「私もそう思うよ。でも、これは普賢が望んだ事なんだ」
 普賢が一人で乾元山の洞府に訪れた時、彼は『戦場が欲しい』と太乙に言った。
 本物と同じ、残酷で救いのない世界を望んだのだ。
 「普賢は、自分で戦場を設定したのでは公平じゃないからと、設計者の役を私に依頼してきたんだけど・・・」
 太乙も、はじめはそんな酷い事に協力するつもりはなかった。
 竜吉公主がやったように、仲裁に入ろうともしたのだ。
 だが、二人の決意は固く、その上、元始天尊からの『大義名分』まで出てしまった。
 ゆえに、太乙はみずから元始天尊に願い出たのだ。
 自分以外の仙人の介入を許さぬようにと。
 「太公望と普賢。二人の言い分は対照的だからね。この戦は、下手をすれば崑崙を二分してしまう。
 しこりを残さないためにも、『三人目』は裏方に徹すべきだ」
 そうだろう?と、問うように、太乙は公主の目をまっすぐに見つめた。
 「どちらが勝っても、おぬしは『酷い戦場を用意したもの』として批判は免れぬ」
 眉を寄せ、見返す公主に、
 「そんなの、覚悟の上だよ」
 太乙は、微苦笑を返す。
 『死の商人』
 それが、彼の役割。
 「・・・損な役割じゃ」
 公主は、つぶやくように応えた。
 「そうだね」
 うなずくと、太乙はすっと身をひるがえし、道を開けた。
 公主は、彼の前を無言で通り過ぎ、謁見の間を出た。
 玉虚宮の長い回廊を進んでいると、その先に、公主を待つものがいた。
 「白鶴・・・」
 公主がつぶやくと、白い鶴の姿をした元始天尊の従者は、ぺこりと頭を下げた。
 「竜吉公主。鳳凰山までお供させてもらいます」
 「・・・監視役か」
 憮然と、公主は応えた。
 「お邪魔はいたしません。ただ、元始天尊様は、あなたが鳳凰山の洞府に留まっていらっしゃることをお望みです」
 「・・・勝手にするがよい」
 そっけなく言うと、公主は玉虚宮を後にした。



 薄暗い幕舎の中。
 黙って地図に視線を落とす普賢に、斥侯に出していた兵が状況を報告に来た。
 「敵軍ハ約20万。黄河ノ対岸ニ迫ッテマス」
 ぎこちない口調で淡々と言う『兵』に、普賢は微笑んで礼を言う。
 「師匠・・・」
 人形にまで微笑んで礼をいう普賢に、『誓って手は出さないから』と、無理について来た弟子の木タクが眉をひそめた。
 「いいかげんにやめましょうや、こんなこと」

 今までは、人形相手の戦ごっこだった。
 妙に完璧主義な二人は、『本格的な戦』を望み、兵を集めることからはじめた。
 それぞれが東西の極にある一国を選び、周りの国を吸収、あるいは連合し、兵を増やして中原を目指す。
 『敵』と『兵』が人形というだけで、それは人間の戦と全く同じものだった。
 それが。
 とうとう、太公望とぶつかる・・・。

 太公望の率いる『西軍』は、破竹の勢いで中原に迫ってきた。
 行軍に邪魔だった国は、連合するよりもむしろ、吸収したほうが多かったという。
 人形とはいえ、太乙の造った『人間達』は、基本的な感情を入力してあるため、友好関係を築いて連合を結ぶよりも、攻め落とすほうが手っ取り早かったのだ。
 普賢も、そんなことは分かっていた。
 太公望よりも早く中原を制するには、いや、彼と中原に覇を競うには、逆らう国々を攻め落として、兵をふやさなければならないのだと。
 だが、彼は偏執的なまでに諸国との連合策をとりつづけた。
 ・・・二人を高みより見つめる大仙達は、さぞかし歯がゆい思いで普賢のやり方を非難したことだろう。
  だが、普賢は決して、そのやり方を変えようとはしなかった。
 それが寡兵(かへい)で大軍に立ち向かうことになっても。

 「木タク、太公望は、どうやって河を渡ると思う?」
 再び地図に視線を落とした普賢が、つぶやくように言った。
 友を『太公望』と呼ぶその顔に、笑みはない。
 「対岸の邑が持つ、大きな舟は全部焼いた・・・。彼は20万もの兵を、どうやって渡すかな・・・」
 大軍は、必ずしも有利ではない。
 戦う場所によっては、寡兵のほうが有利な場合もある。
 普賢は、寡兵の機動力によって先に中原に入り、黄河で太公望を迎え討つ形を取った。
 渡河中、もしくは渡河直後を攻めれば、寡兵でも大軍に勝つことは可能だ。
 相手に陣を整えさせてはならない。
 戦に公平さは必要ないのだ。
 「・・・渡ってくるとすれば、ここだろうな」
 さっきから凝視していた場所に、普賢は印をつけた。
 大軍相手に勝てる戦は無理でも、負けない戦を展開する自信はあった。
 争いは嫌いだが、戦をすると決めた以上、容赦はしない。いや、できない。
 大将の迷いは、味方を損うことになる。
 普賢は、初めての戦でそれを思い知った。
 城内に逃げてくる味方と、それを追う敵と。
 少数の味方を見殺しに出来なかったために、多くの味方が目の前で殺された・・・。
 よく出来た人形達は、悲鳴を上げ、泣き叫びつつ死んでいった・・・。
 それからだ。
 普賢が人形達に微笑みかけ、話しかけるようになったのは。
 「20万・・・・・・」
 彼にとって、『兵』は人形だろうか?
 一体、自分と彼との隔たりはどれほどなのだろう・・・。
 さっきから、同じ考えばかりがめぐる。
 彼が、『兵』をどう見ているかによって、渡河方法がまったく変わってくるのだ。

 自分だったら・・・?
 河を渡るのが、『東軍』であったら。
 おそらく、最も敵の予想するところで、夜に渡河をはじめる。
 陽動だ。
 本隊は見つかりにくい場所で同時、もしくは先に渡らせ、敵の背後にまわる・・・。
 だが、これにも欠点はある。
 陽動だと気づかれないために、渡河隊にはかなりの兵を裂かなければならない。
 本隊はすばやく敵の背後をとるためにも、少数精鋭で、機動性に優れているのが望ましい・・・。
 だが、陽動隊と本隊と、少しでもタイミングがずれたら最悪だ。
 本隊は敵の背後を突く前に壊滅し、陽動隊は渡河中、または渡河後を狙い討ちされ、
 その骸で河を堰きとめることになる。
 だが、もし、太公望が『兵』をただの駒だと見ていたら?
 現在の兵力差は、20万対8万・・・。
 普賢の兵力は太公望の半分以下だ。
 渡河中に攻められたとしても、東軍は力ずくで渡ってしまうことが可能だ。
 味方の骸を橋にして・・・。
 そうなれば、普賢は混戦を避けるためにも一度退いて、陣を立て直さなければならない。
 だが、それは相手にも態勢を立て直す時間を与えるということ。
 すると、普賢が負けない確率はぐんと低くなる。
 「困ったな。彼の、今までの戦のやり方がもっと分かってれば・・・」
 呟きは深刻だった。
 『人間の戦』をするため、宝貝・太極符印を封じられている彼は、斥侯に出した兵がもたらす、わずかであいまいな情報しか持ち得なかった。
 「情報が欲しい・・・」
 苛立ちを含んだ声。
 木タクは、まるで別人のような師匠から目を背けるようにして薄暗い天幕を出た。
 河のほうに目をやると、たくさんのかがり火が煌煌とあたりを照らし、対岸から来るであろう敵に備えて哨戒の兵達が動き回っている。
 「太公望師叔・・・」
 木タクは、対岸にいるはずの太公望に呼びかけた。
 「あんた、本当に師匠を殺すんですか・・・?」


 「・・・さすがにやることが早いのう」
 大軍を率いて黄河に臨んだ太公望は、大きな舟がすべて焼き払われているのを見て、思わずつぶやいた。
 さらに、舟を操る水師達が、すべて対岸に渡っていることを知って、さすがに唖然とする。
 敵は普賢真人。
 一筋縄では行かないことはわかっていたが、ここまで戦上手であったとは、正直、予想外だった。
 空の上で二人の戦を見ているものたちはおそらく、出来るだけ戦を避け、それゆえになかなか兵を集められないでいる普賢を、歯がゆい思いで見ていることだろう。
 だが、太公望は、彼の進軍行路を見て、寒気がした。
 普賢は東側の大国のほとんどと連合を結び、自身の兵は少なくとも、太公望より先に中原に入り、黄河で彼を迎え討つ作戦を選んだのだ。
 もちろん中原に入っただけでは天下を制したとは言えず、迫る太公望の西軍を打ち破ってはじめて、東軍の勝利といえるが、普賢なら、寡兵でも充分負けない戦をするはずだった。
 「さて、どうやって河を渡るか」
 対岸の見えない、渺茫(びょうぼう)たる大河を眺めて、太公望は独白した。
 舟を焼き、水師を捕らえたのは、おそらく時間稼ぎだ。
 普賢の兵の集め方は、彼らしいことに連合策が主。
 ぐずぐずしていては、8万の軍が倍になることもありえる。
 「舟を造れ!たくさんの舟を、できるだけ早く!」
 太公望の命令に応じて、兵達がきびきびと動き出した。
 「普賢。20万の大軍の力を甘く見るなよ」



 「とうとうはじまりますね・・・」
 不安げにつぶやく弟子に答えず、公主はただ正面に据えられた水鏡を見つめた。
 そこには、遠い地で戦う友人達の姿が映し出されている。
 「公主様、太乙真人様がおみえです」
 もう一人の弟子、赤雲が、長身の仙人を公主のいる場所へ案内してきた。
 「ご一緒させてもらっていいかな?」
 どこか屈託のある笑みを浮かべて、太乙は公主に了承を求めた。
 それに対して、公主は声を失ったかのように、微かにうなずいただけである。
 「・・・?どうかしたのかい、公主?」
 「・・・しばらく前から、誰とも口を利いてくださいません」
 太乙の言葉に、とほーっと肩を落とすのは元始天尊お気に入りの鶴。
 「ぼくがここにいるのが、お気に召さないご様子で・・・」
 ぼくだって、好きで監視なんかしてるんじゃないんです、と白鶴が嘆く声も聞こえぬかのように、公主は無言で水鏡を見つめつづける。
 「大変だね、君も」
 苦笑しつつ、太乙は公主の隣に座った。
 「戦況は?」
 訊ねる太乙に、赤雲が不安そうに眉を寄せた。
 「太公望様の西軍20万に対して、普賢真人様の東軍は8万・・・。
 普賢真人様のほうが圧倒的に不利です」
 『圧倒的』という言葉に、太乙は微かに笑みを浮かべた。
 「兵が多いからって、有利だとは限らない。普賢はむしろ、兵の少なさを利用するんじゃないかな?」
 「でも!お二人がこんな風に戦うことになるなんて・・・。ひどすぎます・・・!」
 太乙に茶を運んで来た碧雲が、盆を持ったまま涙声で言った。
 「大丈夫。死ぬことはないから」
 茶を受け取りつつ、太乙はもう片方の手でぽん、と碧雲の頭を軽くたたいた。
 「危険な状態になったら、すぐに私が止めるから安心しなさい。公主も・・・」
 太乙は、隣で人形のように動かない公主に笑みを向けた。
 「心配しないで。あの子達は決して愚かではないから」
 「公主様・・・!」
 水鏡に目をやった碧雲が、思わず声を詰まらせた。
 「はじまります・・・・・・!!」
 西軍が、渡河をはじめた・・・。



 「・・・来たね」
 早朝。
 水上に哨戒に出していた兵の知らせを受けた普賢は、いまだ見えぬ敵の姿を求め、大河に目をやった。
 思ったよりも、敵が舟を整えるのが早かった。
 おそらく、新たに舟を建造すると共に、普賢が焼き損ねた舟、捕らえ損ねた水師を集めたのだろう。
 河の向こう側から来る軍は20万。
 だが、策はあった。
 「舟を出せ!」
 細いが良く通る声が、陣中に響いた。
 敵は、急ごしらえの舟と、能力のおぼつかない水師だ。
 黙って見ている手はない。
 『一艘沈めれば、どの程度の被害になる・・・?』
 ふとよぎった自身の考えに寒気を覚えながら、普賢は火器の用意を命じた。
 風は東風。
 火攻めにはもってこいの条件だった。
 「負けるつもりはないよ、太公望」
 おびえ、退きそうになる自身に言い聞かせるように、普賢はそっとつぶやいた。


 「来るな」
 船上で、太公望は東から来る風に眉をひそめた。
 火攻めにはもってこいの条件だ。
 向かい風であるため、帆はすでにたたんであり、甲板上から燃えやすいものをどけるように命じてあるが、舟自体が木で出来ている。
 太公望は全船に、甲板を水でぬらし、砂を撒いておくように命じた。
 砂は、兵達が滑らないようにするための配慮である。
 敵は、おそらく小回りの利く小舟で攻撃してくるはずだ。
 火矢で攻撃された際、兵がすぐに対応できなくては舟は沈んでしまう。
 「小船を先に出せ!」
 命令と共に、船足の速い小船が、大船を追い抜いていく。
 小船に乗っているのは、弓兵と大量の矢。
 相手が火矢を打ち込む前に、水師ともども葬る作戦だった。

 しばらくして。
 朝もやの中から湧き出るように、それは現れた。
 蟻のように小さな黒い影は、驚くほどの早さで向かってくる。
 鋭いへさきを持つ、高速船の群れ。
 太公望はそのなかの一つに、彼の姿を見つけた。
 白いもやの中、別れた時と変わらない鮮やかな蒼い髪がはっきりと見えた。
 ゆれる舟の上に凛と立っている。
 その紫の瞳が、自分の目と合ったような気がした瞬間。
 彼の右手が上がった。
 『うて』
 彼の唇が動くと共に、その手は勢いよく振り下ろされた。
 「・・・なに?」
 矢ではない。
 何か、大きくて丸いものが飛んでくる。
 そう思った瞬間、前を進んでいた大船の一つが炎を発した。
 「な・・・なんだあれは?!」
 太公望は叫んでへさきに駆け寄った。
 そうするうちにも、それはどんどん飛んできては、次々と大船に被害を与えていく。
 「まさかあやつ、宝貝を?!」
 そう思ったが、彼も太公望も『人間の戦』をするために、仙気は封じてある。
 第一、これを飛ばしてるのは『人間』の兵だ。
 目を凝らしてみると、東軍の舟すべてに、数人の屈強な兵が乗り込んでいた。
 彼らは鎖のついた金属の玉を振り回し、勢いをつけて、西軍の大きな舟めがけて投げ込んでいるのである。
 しかも、その玉は中に火薬を仕込んであるらしく、甲板に飛び込むや、はじけて炎を上げる。
 「・・・とんでもない物を造りおって」
 太公望は唖然とつぶやいた。
 思えば昔からそうだった。
 徹底的な平和主義者で、極端なくらい争いごとを嫌うくせに、宝貝造りやその改造には天才的な才能を見せた。
 それが人も殺せる道具だと知っていても夢中にならざるを得ない彼を、初めて『偽聖人』といったのは、自分だったか、彼自身だったか。
 「・・・このままやられてたまるかい!
 小船隊!攻撃だ!!あの玉を投げ込んでくる者達を狙え!」
 太公望は命じたが、それは当然、相手も予想済みである。
 東軍側の護衛船は素早く前に出ると、矢を防ぎつつ船の進路をはばみ、刺のたくさんついた奇妙な棒で巧みに西軍の兵達をからめとっては、水中に引きずり込んでいく。
 「あやつ・・・!!」
 ぎり、とくやしげに歯ぎしりをする太公望を、遠くから笑みもせず見つめる白い顔がある。
 なんの感情も表れない、人形のような顔に、昂ぶっていた気持ちが不意にさめた。
 「落ち着いて消火にあたれ!多いといえど相手は小船だ。そのうち玉も尽きる!
 被害の大きな船の兵は、他の船に移れ!」
 炎の中、兵を指揮する太公望の様子を、普賢はじっと観察していた。
 ふと、うつむいた顔に笑みが浮かぶ。
 「鐘を鳴らせ」
 鐘は撤退の合図である。
 敵には、充分被害を与えた。
 後は、上陸したところを叩く。
 笑みを消して、顔を上げた先には、太公望のくやしげな顔があった。
 すばやく回頭する舟の動きと共に、彼の姿が普賢の視界から消える。
 ―――立ち込めていたもやがはれるころ、本当の決戦は始まる。

 「作戦変更」
 軽やかに舟から下りてきた普賢は、少し興奮気味に木タクに告げた。
 「あの船団は陽動だよ。騎兵が後ろから来るはずだ。背後に備えて!」
 足早に本陣へ向かいつつ、普賢は次々に兵達に指示を出していった。
 「陽動って・・・師叔はあの舟にはいなかったんですか?」
 いつもおっとりと動く師匠に慣れていた木タクが、置いていかれそうになって慌てて追いかける。
 「いたよ。だから確信したんだ」
 興奮気味の声は、なんだか嬉しそうにも聞こえる。
 だが、木タクには、師匠が何を言ってるのかまったく分からない。
 「・・・・・・あの、師匠。俺にも分かるように話して欲しいっす」
 「太公望は、兵達を助けてたよ」
 笑みを、こらえているような口調だった。
 「少なくとも彼は、兵を人形扱いはしてない」
 くるんっと、軽やかに普賢は振り返った。
 「力技では来ないよ、絶対にね」
 久しぶりの、晴れやかな笑顔で普賢は言った。


 「・・・まさか、あんなもの造ってるなんてね」
 太乙は、呆れずにはいられなかった。
 「あれは・・・なんなんですか?大きな玉が次々に」
 赤雲が、目を丸くして、西軍と東軍の水上戦の模様を俯瞰(ふかん)する水鏡を指差した。
 「砲烙(ほうろく)って言ってね、海賊なんかが使う武器なんだ。
 水上戦は、火攻めが効果的だからね。
 まぁ、私だったらあんなに振り回さなくったって、自動で玉を発射できる装置を作っちゃうけど、それはさすがに反則だからねぇ。
 しかし、普賢も結構、武器や戦の研究してたんだなぁ」
 水上戦は、兵を訓練するには時間がかかる。
 それゆえに、普賢は黄河の攻略を急いだのだ。
 太公望より先に熟練の水師や水上戦を心得ている海賊達を引き入れれば、水上での戦いは、かなり有利になる。
 これは彼が崑崙に帰ってきた時、楽しく話が出来そうだ、などと、マニアの血が騒いだが、隣の公主は相変わらず微かに眉をひそめたまま、何も語ろうとしない。
 弟子達も、人形のようになってしまった公主に、話し掛けるのを諦めてしまった様子だ。
 「・・・これは、陸戦も楽しみになってきたねぇ」
 楽しげな呟きは、女性陣からひんしゅくを買ってしまったようだった。


 あらかじめ兵を分散させておいたのと、救助の速さが幸いして、西軍の被害はそれほどでもなかった。
 だが、なすすべもなく一方的にやられたことは、兵の士気にかなり影響している。
 太乙が人形達に入力した『基本感情』には、『意気低下』なんてものも含まれているのだ。
 全く、笑えるほど完璧主義な仙人だ。
 普段は飄々として、ルーズにすら見えるのに、『作品』には決して手を抜かない。
 本物の戦場を造ってくれ、と依頼したが最後、本物以上にリアルな戦場を造ってくれるのが太乙真人という仙人だった。
 この戦場となるべき仮想世界に入った時も、太公望はただぼんやりと、目の前に広がる光景を見つめた。
 彼がこれから中原の覇者として育てていくべき『西国』。
 その中心地である『西都』では市が並び、城壁の外では放牧の羊がのんびり草を食んでいる・・・。
 『ここまでするか?』
 それが、太公望の素直な感想だった。
 他国の支配者も、まるで本物の支配者のように横暴だわ、自分勝手だわ、本物の人間の性格を入力しているふしがある。
 おかげで兵を集めるのに、どれだけ苦労したか!!
 なんだかんだ言って、一番楽しんでいるのは太乙だったかもしれない・・・。
 この世界の、東の果てで、彼も苦労してきたのだろうか。
 あの天使が、よくぞここまで戦えたものだ。
 「だが、陸戦ではそうは行かんぞ」
 笑みのない、人形のような顔を思い浮かべつつ、太公望はつぶやいた。
 「わしは負けぬよ、普賢」
 計らずも、太公望は普賢と同じ言葉で決戦に臨んだ。


 『艮(こん)候軍三万、オ味方イタシマス』
 『巽(そん)候軍四万、貴軍ニオ味方スル』
 二人の諸侯を前に、普賢は微笑んだ。
 水上戦での勝利を見て、日和見していた諸侯が参戦してきたのである。
 これで、普賢の東軍は15万。
 太公望の西軍と十分戦える数になった。
 丁寧に礼を述べているところへ、木タクがやや慌てた様子で幕舎に入ってきた。
 「師匠、西軍が舟の進路を変えました」
 その報告に、普賢は落ち着いてうなずいた。
 あれだけの襲撃を受けたのだ。
 すんなり敵の待ち受けている沿岸に寄せてくるはずがない。 当初の目的よりももっと下流で上陸するはずだ。
 だが、どの程度下るつもりか・・・?
 あまり下り過ぎて上陸に手間取ると、上流から来ているはずの騎兵隊は各個撃破の対象となってしまう。
 ・・・本隊と騎兵隊は、どのように連絡を取っているのだろう?
 連絡が密でなければ、太公望の作戦は失敗に終わる。
 普賢はこの戦いの間、下流の土地から上流の土地へ行く道をすべて封鎖しようかとも考えたが、どうしても隙は出来るし、なによりもそんなことに裂けるような、余剰の兵はない。
 ゆえに、上流から来るであろう騎兵の足を鈍らせるため、道の各所に障害になるものを置くに留めた。
 「―――やることはやったよ」
 後はぶつかるだけ。
 今までにはない激しい戦いになるだろう。
 だが、負けるつもりはない。
 普賢の顔から表情が消えた。
 決戦まで、もう間もなく・・・。


 水中に張られた罠を避けて、太公望は目的地よりだいぶ下流に上陸した。
 「・・・あのエセ聖人!」
 早速軍を整えつつ、太公望はいまいましげにつぶやいた。
 昔から、何かをする時には予習復習を欠かさない真面目な奴だったが、戦においてもその性格は遺憾無く発揮されていた。
 考えられる限りの、すべての事態を予想して罠を張り巡らすやり方は、本来太公望のものだった。
 それを、普賢はそっくりやり返してくる。
 まるで、鏡を相手に戦っているようなやりにくさがあった。
 しかもこの鏡は、武器を造ることに関しては、オリジナルよりも上なのだ。
 だが、このまま『太公望不敗伝説』を崩壊させるわけにはいかない。
 「進軍開始!」
 牧野に向けて、20万の軍が動き出した。



 「ふむ。やっとおもしろうなってきたのう」
 そう言って懼留孫は、ひょっひょっひょとのんきに笑った。
 「若いもんはやはり元気じゃのう。あれだけの攻撃をされておきながら、立ち直りの早いことよ」
 霊宝大法師も、盃に残った酒をくい、と飲み干しつつ、にこにこと言った。
 二人は、床の上に広げた絵図を挟んで座っていた。
 絵図、と言ってもただの絵図ではない。
 竜吉公主の洞府の水鏡のように、太公望と普賢真人の戦をそのまま俯瞰(ふかん)出来るものである。
 両軍の黄河での戦も、ここに鮮明に映されていた。
 「水上戦など見たのは、何百年ぶりかのう」
 とくとくと、うれしげに酒を盃に満たす霊宝大法師に、こちらも空になった盃を差し出しつつ、懼留孫が笑って言った。
 「わしは昔、水軍の将だったんじゃよ」
 「おぬしが水軍の将なら、わしは大元帥じゃ」
 差し出された盃に酒をついでやりながら、霊宝大法師も澄まして言う。
 「ほんとじゃて」
 「わしもほんとじゃ」
 二人は真剣な顔で言い合って、同時に吹き出した。
 「しかしあの玉!普賢らしいと言えば普賢らしい!
 自軍にまったく被害を与えず勝とうなどと、まだおもっとるな、あやつは!」
 懼留孫が笑うと、
 「太公望も、おのれだけが策略を用いると考えておるから、油断が生まれるのじゃ。
 たまには鏡相手に苦労するのもよかろうよ」
 と、霊宝大法師もにこにこと鋭い指摘をする。
 『十二仙の一人』『封神計画の実行者』などと言ってみても、老大仙二人の前では形無しだった。
 「ところでのう、霊宝」
 不意に笑いを収めて、懼留孫が真面目な顔で言った。
 「なんじゃ」
 盃を口にはこびつつ、霊宝大法師は律義に聞き返した。
 「あの燃えておる舟を見て、ふと思ったんじゃが、あれに乗っておった土人形達のう・・・」
 「あのまま焼けておったら、傭(よう)になっておったかものう」
 思っていたことを先に言われて、懼留孫が再び吹き出した。
 「随分と精巧な傭じゃ。王となるものにふさわしいのう!」
 「果たしてどちらが中原を制するか」
 絵図の真ん中に、ことりと酒壷を置いて、霊宝大法師が微笑んだ。
 「賭けんか?」
 「よいのう」
 二人はにやりと笑うと、互いの盃を西と東に置いた。
 西軍20万、東軍15万。
 互いの距離は縮まりつつあった。



 高みより仙人達が見守る中、両軍はぶつかった。

 「普賢のことだ。上流から別働隊が来ることは予測しているはず・・・」
 それを阻むだけの用意はしているに決まっている。
 黄河を南に、太公望の西軍はできる限りの速度で移動した。
 視界の先に普賢率いる西軍が現れる。
 両軍盛大に、『攻撃』の太鼓が打ち鳴らされた。
 鯨波(とき)をあげつつ、両軍がぶつかる。
 東軍20万といっても、そのうちの何万かは別働隊に裂いているので、両者互角の戦いだった。


 「なんと・・・真正面からか」
 玉虚宮で、戦を見守っていた元始天尊は、思わず声を漏らした。
 太公望も普賢も、人形相手の戦いにはよく策を用いた。
 『動かない敵を動かす』
 『大きな敵は他の大きな勢力とぶつけて、両者共に弱ったところを攻める』
 そんな、見事なまでに策を操ってきた両者が、決戦となると真正面からぶつかった。
 確かにここに至るまでは、両者とも鮮やかなまでの策の応酬だった。
 水上戦での勝利をもとに、東軍を西軍と互角に戦えるまでに増強した普賢の手腕も見事なら、その彼の張った罠を避け、上流の別働隊との連絡を取りつつ兵を操る太公望も見事。
 だが、いざ両者がぶつかってみると、そこにはなんの作為もないように見えたのだ。
 「まさかこのまま、互いが尽きるまで攻め合うわけではなかろうのう・・・?」
 つぶやく元始天尊に、『軍事顧問』と自称するミニタリーマニアが、直立不動の姿勢で敬礼をしつつ反応した。
 「小官が見ますに、彼らは互いにどう動くかを探り合っているように思えます!」
 今まで『策』で戦ってきた両者だけに、相手がどういう行動に出るか、慎重に見ているのである。
 「しかぁし!そろそろ太公望側が仕掛けに来ると思われます!」
 ぴしぃっ!と、教鞭のような棒で、広成子は壁面に映る戦場を鋭く示した。
 「そろそろこの辺りから、太公望の別働隊が現れるはず!」
 教鞭は、俯瞰図(ふかんず)の西北を示した。
 「太公望の西軍は、この別働隊と連携し、西側に移動しつつ、普賢の東軍を包囲にかかるでしょう」
 戦場を映す画面上に重なって、両軍の動きを予想する簡単な図面が現れた。
 「太公望は普賢の軍を黄河側に押しやり、東軍を包囲するつもりです!」
 「なるほど・・・すると、東軍は後ろに退くことも出来ず、戦力を削られていくわけじゃな・・・」
 やはり、太公望には勝てなかったか。
 つぶやく元始天尊に、広成子はにこやかに首を振った。
 「戦はこれからですぞ!戦場では何が起こるか分かりません!」
 心底たのしげな声だった。


 真剣な表情で、普賢は戦況を見つめていた。
 目的地のはるか下流で上陸した『西軍』は、彼らから見て西にいる『東軍』に向かって攻めてくる。
 「何か、別の名前を考えていれば良かったな・・・」
 「・・・・・・は?」
 ぼんやりと呟く師匠に、木タクが思わず眉を寄せた。
 「だって、東から『西軍』が、西にいる『東軍』に攻めかかるなんて。
 どうせなら『斉軍(せいぐん)』とか『唐軍(とうぐん)』とか、名前をつけておけば良かったかな?」
 「・・・なに考えてるんですか、こんな時に」
 脱力しながらも、木タクはふと、口の端に笑みを浮かべた。
 今までの普賢は、端から見ていても辛くなるほど、常に張り詰めて、今にも壊れてしまいそうだった。
 だが、敵とはいえ、太公望とまみえた途端、いつもの『普賢真人』の表情が戻ってきたように思える。
 木タクは、こんな派手なケンカをやらかしている最中でも、二人が心の底では互いのことを思いやっているのが感じられて、少し安心した。
 なにしろほんの少し前までは、この二人が本当に殺し合うのではないかと、寿命が縮む思いでいたのだから。
 そんな時、西北から西軍の別働隊が現れたとの報告が入った。
 「来たね」
 一言そう言って、普賢は『迎え討て』と簡単に命じた。

 案の定、西軍は別働隊として送っていた騎兵隊を迎え討った。
 西軍の動きは、完全に予想されてしまったわけだが、太公望は慌てず、別働隊と合流するような形に、東軍とぶつかりつつも全軍を巧みに操っていく。
 これは、どうあがいても普賢には真似の出来ない用兵だった。
 普賢は有利な場所を得るために、自身の兵は少なくとも、先に中原に入る作戦を取った。
 緒戦で太公望に勝利し、日和見していた諸侯を引き入れ、兵力は15万に膨れ上がったが、その大半が他人の兵だけに、全てを手足のように動かすことは出来ないのだ。
 その点、太公望の西軍は全てが彼のものだった。
 中原に入るのは遅れたが、その分戦をかさね、陣形も進軍も、彼の采配一つで自由に動かせるように育て上げた。
 別働隊との連携も、彼の軍ならではの滑らかさで進んでいく。
 それは、高みより俯瞰する仙人達を感嘆させるに充分なものだった。
 東軍は次第に南に追いやられ、まさに背水の陣。
 全力を出す間も無く、西軍に包囲され、屍をさらすのみかと思われた時。

 「楔(くさび)を打て」

 一言、普賢が命じた。
 途端、犬に追われた羊の群れのように、黄河を背にひとかたまりになっていた東軍が、三つの楔型に陣形を変えた。
 そのまま、巨大な蛇のように東軍を包囲していた西軍の腹を食い破りにかかる。
 
 「退けっ!」

 太公望は素早く命じた。
 東軍を包囲するため、西軍は南北に長く伸びている。
 このままでは寸断されてしまう。

 「・・・さすがに立て直しが早いね」

 普賢は感心しつつも、追撃の手をゆるめなかった。
 今度は逆に、東軍が集まりつつある西軍に包囲をかける。
 完全に囲んでしまえば、東軍がやったような反撃は出来ない。
 素早く本陣をつぶして、一気に片をつけるつもりだった。
 が、

 「させるか!」

 太公望が合図の旗を一閃させた。

 「?!」

 普賢は目を疑った。
 集まりつつあった敵軍が、急にばらけたのだ。
 それは、完全に統制の取れた軍でなければ出来ない芸当だった。
 今まで大隊として動いていた兵達が、5人ずつの組に分かれてばらばらに、だが、決して自分達の位置を見失うことなく東軍の攻撃を避け、一旦さがって新たな陣を組み立てたのである。
 新たにできあがったのは鶴翼の陣。
 攻撃の陣である。

 「戻れ!!」

 命じたが、勢いのついた兵はなかなか止まらない。

 「かかれ!!」

 ―――この瞬間、勝負はついたのだった。



 牧野の戦いは、西軍の圧勝だった。
 陣を立て直す間も無く攻め込まれた東軍は、それまでの優位が嘘のように崩れていったのだ。
 原因は、やはり連合軍ならではのまとまりの無さだろう。
 些細な連絡や状況判断の遅れ。
 西軍は、実にうまくその隙を突いて、東軍を解体していった。
 そして、陽が西に傾く頃。
 西軍は勝利の鯨波(とき)をあげた。

 しかし、西軍の将、太公望は、いまだ難しい顔をして陣中にあった。
 いくら待っても、兵から『敵軍の将を捕らえた』という報告がないのである。
 この戦は、ただ勝利したと言うだけではすまないのだ。
 『中原を制す』
 それが目的である以上、敵は完全につぶす必要がある。
 それが恐ろしい敵ならなおさらのこと。
 今つぶしておかねば、あの恐ろしい敵は必ずよみがえる。
 「・・・・・・・・・まったく、何をしておるのだ!あんなに目立つ奴をいまだ捕らえられぬとは!!」
 太公望がイライラと呟く。
 この世界に来てから、彼は奇妙なほど独り言が多い。
 話し相手がいないわけではない。
 人形達は、ぎこちないながらも普通の人間のように不自由なく話す。
 だが、なんでも一人でやってしまおうとする彼の性格は、ここでも変わることなく、軍の指揮から補給まで、すべての動きに目を通す彼に、連絡事項以外で他人と話す余裕はなかった。
 『安心して任せられる者がいれば』
 何度思ったことか。
 本物の戦でこんな事をやっていては身が持たない。
 緊迫した状況の中、共に戦える、信頼の置ける者。
 そんな人物を、太公望は一人しか知らない。
 だが、その彼は今、敵として太公望を悩ませている。
 「いい加減に出てこい・・・!」
 ため息とともに呟いた時だった。
 「誰かお探しか?」 
 人形達の、ぎこちない口調を聞きなれた耳に、その声は心地よく染みた。
 「決まっておる。敵軍の大将だ」
 いつのまに近寄ったのか、鮮やかな蒼い髪を風にさらして、彼は再び太公望の目の前に立っていた。
 「投降か?今なら首をとるのは勘弁してやるぞ」
 不遜に言い放つ太公望に、普賢は黙って持っていた剣を放った。
 抜き身の剣は、宙で夕陽を受けながら、とす、と太公望の足元の地面に刺さった。
 「僕の首を取りにおいで」
 普賢はあの日、太公望と分かれた時のセリフを繰り返した。
 透き通るガラス玉のような紫の瞳に太公望の姿を映して、自身も剣を構える。
 「投降するつもりはないのだな?」
 そのまなざしを真っ向から受け止めて、太公望は剣を取った。
 先ほどの不遜さは消え、相手のわずかな動きさえも見逃すまいと慎重に剣を構える。
 緊迫した空気が、辺りに満ちた。
 誰も近づかない。
 いや、近づけない。
 仙気を封じられているとはいえ、彼らはまぎれもなく高位の仙道だった。
 兵達は気をのまれ、間に入るどころか、動くことすら出来ない。
 どちらが先に仕掛けるのか・・・?
 両者の、刃先がわずかにゆれた。
 緊迫した中、むしろゆったりとした動きで隙を探す。
 じりじりと間合いを詰めていく二人を、高みより見守る仙人達も息を呑んで見つめる。
 間合いが、さらに詰まったその時だった。
 ぱぁんっと鋭い音とともに、両者の手から剣が叩き落とされた。
 「?!」
 何が起こったのか、まるで夢から醒めたような顔で己が手を見る二人の頭上に凛とした声が降り注いだ。
 「無駄なことはやめよ!この戦、すでに終わっておる」

 「竜吉公主?!」

 声の主は、宙に浮かぶ美しい女仙。彼女を守る水のヴェールが夕陽をはじき、神々しいまでに美しい。
 二人は同時にその名を呼んだ。
 二人だけではない。
 玉虚宮を始め崑崙の各洞府、そしてなによりも、鳳凰山でこそその名は叫ばれた。


 「ななななな・なぜ公主様が?!公主様はここにちゃんと・・・!!!」
 目を白黒させる白鶴の様子に、太乙はたまりかねたように笑い出した。
 「そっくりだろー?私の傑作さ!!」
 高らかに笑いつつ、太乙は楚々として隣に座っていた『竜吉公主』の肩を抱いた。
 すると、今まで憮然としていた『竜吉公主』は優しく微笑んで見せる。
 「そんな・・・じゃぁ僕はずっとだまされていたんですか?!」
 絶叫する白鶴に、赤雲と碧雲が申し訳なさそうに謝った。
 「ゴメンネ!公主様がどうしてもっておっしゃって・・・」
 「わかってあげて!公主様にとって、あのお二人は大切なご友人なの!
 黙って見ていられなかったのよ!!」
 必死にとりなそうとする鳳凰山の弟子達に、白鶴は思わずうなずきかけた。
 が。
 「やっぱりキレイなものって、造りがいがあるよねー。
 白鶴ってば見事に騙されてるんだもん!見てて本当に楽しかったよ、私は!」
 爆笑する太乙真人にキレた白鶴が、『奥義・鶴の舞』を披露したのは無理からぬ事だった。



 「邪魔しないで、公主!」
 声を荒げたのは、意外にも普賢の方だった。
 「これは太公望と僕の戦だ!」
 だが、公主は怯みもせず、空中に留まったまま静かに言った。
 「違うな。これは、本物の戦じゃ」
 『中原を制す』
 それだけが条件
 「ならば、誰が参戦しても良いわけじゃ」
 「何・・・?」
 聞き返す太公望の背に、公主を見上げる普賢の背に、鋭い刃の感触があった。
 「うかつなものじゃのう。あっさりと背後を取られおって。
 太公望、普賢。
 私が命ずれば、その者達はおぬしらの体を貫くぞ?」
 艶然と、公主は微笑んでみせた。
 だが、太公望は退かない。
 「こんな事をしても無駄だ!
 わし一人を殺したからと言って、中原が公主のものになるわけがなかろう!?」
 普賢も、落ち着いた声で言った。
 「この戦の目的は、中原を制すること。国も軍も持たないあなたには無理だよ」
 背に刃をつきつけられても、二人は冷静だった。
 が、公主も酔狂でこんな事をやっているわけではない。
 ふ、と微笑むと、婉容と両腕を開いた。
 しゅる、と音を立てて水が集まり、たちまち両の掌の上に、二つの水鏡が現れた。
 そこに映るのは、見慣れた風景。
 彼らが出発点とした、西と東の国の都城だった。
 だが、何か変だ。
 見慣れた中に、異質なものがある。
 それが何か気づいて、二人は思わず声を上げた。
 城壁に常に掲げられる自国の旗。
 それが全て取りさられ、見たことのない青い旗一色に変わっていたのである。
 「おぬし達の国は、この竜吉がいただいた。
 さぁ、どうする?中原で覇を競っておる場合ではないぞ?」
 そう言って公主は、人の悪い笑みを浮かべた。
 「一体どうやって・・・」
 呆然と水鏡を見たまま、普賢が呟いた。
 太公望に至っては、声も出ないようだ。
 「簡単なことじゃ」
 非情なまでにあっさりと、公主は言ってのけた。
 「おぬし達が味方に出来なかった諸侯、または国を奪われて怨んでおる諸侯に言うたのじゃ。
 『兵が中原で戦っておる間に、都城を奪ってしまえ』とな」
 公主が腕を下ろすと、水鏡は一瞬で霧散した。
 「二人とも愚かよのう。
 『本物の戦』に臨んでおきながら、互いの行動にばかり気を取られ、他の勢力を『自軍に取り込めるか否か』でしか見ておらなんだ」
 大局ばかりに目が行って、足元の井に気づかなかった。
 互いに、『敵は一人』と思い込み、知らぬ間に他の諸侯を『人形』と侮っていたのだ。
 魂が抜けたように立ちすくむ二人の前に、公主は優しい微笑みを浮かべて降り立った。
 「もう気は済んだじゃろう?二人とも、崑崙へ帰っておいで」
 そう言うと、公主は二人が幼い頃によくしたように、優しく髪をなでてやった。
 陽が沈み、冷たくなりつつある風の中、その手はとても暖かくて、なんだか泣きそうになるのをこらえながら、二人は素直にうなずいた。




 「・・・何をにやにやしているんですか、太公望さん」
 眉根を寄せて、邑姜は気味悪げに言った。
 その声に、太公望は再び現実に引き戻される。
 気づくと西に傾きつつある陽が、彼らの影を長く伸ばしていた。
 「随分長いことおったのだのう」
 うんっと伸びをして、太公望は釣り針を引き上げた。
 隣には邑姜が、相変わらず愛想のない顔をして座っている。
 「おぬしも忙しいのだろう?別にわしに付き合わんでもよかろうに」
 苦笑する太公望に邑姜は、『私の勝手です』と横を向いた。
 「さぁて。そろそろ羊達を家に戻さんとのう」
 言いながら、太公望は釣竿代わりの木の枝に、くるくると釣り糸を巻きつけた。
 だが針だけは、ちゃんと外して懐にしまう。
 「先に行くぞ」
 ゆったりと歩き出す太公望の背に、邑姜は聞こえないくらい小さな声で呟いた。
 「わからないひと・・・」
 仙人とはみんなこうなのだろうか。
 太公望が『親友』と呼ぶその人も。
 美しい夕陽が、空を朱く染め始めた。


 「明日も晴れるのう」
 満足げに呟いて、太公望は笑った。
 晴れた空の色は好きだ。
 あの友の髪の色と、とても似ているから。
 黎明の紫、雲の白さ。
 友の瞳の色、その純粋さは皆、空にあるものにとても良く似ている。
 だから、思ったのだ。
 空にとても近いこの場所になら、あの天使がいてもおかしくないと。
 口の中で、彼の名を呼んでみた。
 彼に見せてやりたい。この美しい場所を。
 彼にとても似合う、空に最も近い場所を・・・。


〜 fin.〜









『砲烙(ほうろく)』は実在します。瀬戸内海の村上水軍の武器だそうです。
この時代に火薬はないけど・・・(笑)
火炎瓶みたいに、中に油が詰まってることにしようかと思ったんですが、なんかそれじゃロマンがないなぁって・・・。






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