銀  狐  抄
〜 ぎんこしょう 〜







 周の武王より二百六十年の後。
 暴虐の脂、(れいおう)と共和制の時代を経て、幽王の治める世となった頃、その後宮に、一人の女が献じられた。
 褒国(ほうこく)の以(女)、『褒以(ほうじ)』と呼ばれる絶世の美女である。
 女はその美貌で幽王を虜にし、その寵を一身に受けながら、しかし、けして微笑を浮かべる事がなかった。



 分厚い雲の下、なまぬるい空気は流れもせず滞り、低い読経の声と、鼻をつく香華の匂いが、参列者達の心をいっそう重くしていた。
 葬儀場の奥には、白々とした棺がひとつ。
 その中で少女は、献花に包まれ、眠るように横たわっていた。
 親族達のすすり泣きが、少女のクラスメイト達の号泣が、広いだけの部屋に空しく木霊する。
 一体、この白い壁はいくつの哀しみを塗り込められてきたのだろうか。
 哀しみに色があるとすれば、この壁はいずれ、涙の色に染まっていくのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えながら、少年は棺の中の少女に花を添えてやった。
 俯いたときに流れ落ちてきた長い髪を、慣れた仕草で払い、彼は列の最後尾にある自分の席に戻った。
 「・・・外傷はほとんどないんだな」
 隣の席に座っていた少年が、周りには聞こえぬよう、気を使いながら、そっと囁いた。
 「車にはねられたって言うのに・・・」
 小太りの体を、地元では超一流の進学校の制服で包んだ彼は、いかにも秀才めいた仕草でメガネの位置を直した。
 彼らの席からはやや遠くにある少女の遺影は、こんな運命など予想もしていなかったのだろう、いかにも楽しげに笑っている。
 「まるで眠っているようでさ、信じられないよ、実際」
 「そうかい?人の命なんてこんなもんだよ」
 並んだ二人の間からひょいっと顔を出して、同じ高校の制服を着た少女は遺影を見つめた。
 「ぼ・・・ぼたんちゃん?!なんでここに・・!!」
 驚きのあまり、メガネを弾き飛ばしそうになりながら少年は問うたが、少女はそれには答えず、
 「若いねぇ。けど、あたしなんて水子を連れてくことなんかしょっちゅうだよ。堕胎された子なんて、かわいそうでねぇ・・・」
 はぁ、と切なく息をついた。
 ポニーテールにセーラー服。その容姿は、彼らの周りにいるクラスメイト達と何ら変わらない。しかし、その本性は人間ではなかった。
 死者の魂を霊界に導く者。冥府の水先案内人・死神である。
 「それで、ぼたん?」
 ひそやかに短く、傍らの少年は尋ねた。
 「君がここにいるってことは、彼女は『狩られた』と判断していいのかな?」
 少年の秀麗な顔に陰がさす。
 ぼたんと呼ばれた少女は、やや表情を固くしてうなずいた。
 「・・・せっかくお葬式を出してもらってるけどね、あの子の魂もすでに行方不明だよ。しかも、被害者第一号」
 そう言って、彼女は唇を噛んだ。
 「死ぬはずじゃなかった、と?」
 動じる様子もなく、少年は問い返した。
 「・・・死ぬはずじゃなかったって、どう言うことだ、南野?!」
 「海藤、声が大きい」
 冷静な声で、南野と呼ばれた秀麗な少年は、隣に座る級友を制した。


 事の起こりは一ヶ月前。
 この町で、ある大事故が起きたときのことである。
 その日は、前日から降り続ける雪に、町中が白く覆われていた。
 道路は平均速度をかなり落とした乗用車の群れに停滞し、その路線バスの中は大変な混雑だったと言う。
 と言うのも、その時間の乗客は、女子高へ通う少女達が主であり、遅刻を恐れた彼女達は、大混雑もなんのその、狭い車内にぎゅうぎゅうに詰まっていたのだ。
 そのバスが、凍った道路にハンドルを取られ、反対車線に乗り入れたところを、燃料を運んでいたトラックと衝突、炎上したのである。
 運転手達はもとより、乗客の少女達もそのほとんどが死亡する、と言う、全国的に報道されたほどの、悲惨な事故だった。
 が、その事故は、人間の世界だけでなく、霊界においてもかなりの衝撃を与えたのである。
 死亡した少女達の魂が、ひとつ残らず何者かにさらわれてしまったのだ。
 事態を重く見た霊界の太子、コエンマは、魔界に行ってしまった元・霊界探偵、浦飯幽助に代わり、人間界で『南野秀一』として暮らしている妖狐・蔵馬に、事件の調査を依頼したのだった。
 ―――それなりの報酬を約束して。


 「今までは、自然死した若い女の魂を横取りするだけだった。しかし、とうとう殺しても欲しいと思うようになったか、あるいは――――」
 南野、いや、蔵馬は一旦言葉を切った。
 「殺せるまでになったか」
 「・・・まさか、力をつけちまってるってことかい?」
 ぼたんが顔をこわばらせる。
 「魂を食らう妖怪は珍しくない。その方が、効率がいいからね」
 「・・・南野?」
 海藤が、まるで不気味な物を見るように、眉をひそめた。その額には、汗が玉となって浮いている。
 「ぼたん、コエンマに伝えるんだ。この件からは手を引け、と」
 「・・・なんだって?」
 ぼたんが、その意外な言葉に、両目をこぼれんばかりに見開いた。
 「素直に従うんだ。これは忠告だ」
 言うや、彼は音もなく立ち上がり、悲しみに暮れる広間を出た。
 外に出ると、まだ冬だと言うのに、生ぬるい空気がまとわりついて来た。
 粘度の高い液体の中にいるような不快さ。
 それはちょうど一月前、魔界から人間界へと戻った来た時から続いている。
 水飴のように甘い香りを放ちながら、ねっとりと蜘蛛の糸のように絡みつく。
 こんな気配を、彼は知っていた。
 「幼い頃の記憶とは・・・摩滅しないものだな」
 呟くと、気配を振り払うように一度かぶりを振り、彼は足早に葬儀場を後にした。


 「・・・ぼたんちゃん、あいつは一体何をやってるんだ?」
 残された海藤は、隣で呆然としている少女に尋ねた。
 「あいつ、最近学校も休みがちだし、大学にも行かないなんて言ってて、教師達が大パニック起こしてるんだぜ?」
 海藤は、蔵馬の正体を知っている、数少ない人間の一人である。
 「・・・そだね、海藤君には言ってもいいかな」
 わずかに逡巡したものの、ぼたんは、未練がましく出口に向けていた視線を海藤に向けた。
 ぼたんはこの、勉強ができるだけではない、頭のいい少年を信頼していた。
 それは、彼が『禁句(タブー)』と言う特殊能力を持つ人間であり、霊界に対して協力的な人間であることを知っていたからでもある。
 「狩られてるのは若い女の子の魂だけ、ってのが特徴かな」
 出棺と共に広間を出、目立たぬように葬儀場を抜け出した後、二人は手ごろな店に入った。そこで今までの経緯を聞き終えた海藤は、深く息をつきつつ、まるみのある太い指でコーヒーカップを取った。
 「・・・まさかと思うが、あの事故もその妖怪のせいなのか?」
 妖怪と言えばクラスメイトである蔵馬か、その仲間である飛影くらいしか知らない彼は、妖怪と言う存在を、それほど残虐なものだとは捕らえていなかった。その認識が甘いものだと、頭の中ではわかっていても。
 「それは違うよ。あの子達は、かわいそうだけど、名前が鬼籍に載っていた子達なんだ。妖怪は多分、血の匂いを嗅ぎつけて、魂をさらって行ったんだと思う。
 ・・・その様子を見る限り、あたしはその妖怪が、霊界が手を引かなきゃならないほど恐ろしい存在だなんて思えないけど・・・」
 ぼたんも、蔵馬の状況判断の正しさはよく知っている。
 彼が『危険だ』と言えば、それは絶対に近づいてはいけない存在なのだ。
 「しかし、若い女の子だけを狙うなんて、まるでエリザベート・バートリだな」
 コーヒーをすすりながら言う海藤に、ぼたんは眉を寄せて首をかしげた。
 「誰だって?」
 「中世ハンガリーに実在した、伯爵夫人だよ。自らの美貌を保つためと信じて、600人の若い少女達を殺しては、その血を浴びていたんだ。
 ・・・そうだ!彼女の亡霊の仕業なんてことは・・・!」
 だが彼の提案は、ぼたんのしらけた目で却下された。
 「なんだって中世の伯爵夫人が、こんなところで魂をむさぼってんだい。そりゃ織田信長の幽霊が、リオのカーニバルでサンバを踊ってたってくらいにばかばかしいやね」
 「・・・さすがにそこまでばかばかしくないと思うけど・・・それに、信長ならやるかもしれないじゃないか」
 信長の異国趣味について語ろうとする海藤を手で制して、ぼたんは続けた。
 「とにかく、あたしはコエンマさまに、今後どう対処するか、指示を仰がなきゃいけない。
 そこで頼みがあるんだけど・・・」
 顔の前で手を合わせ、ぼたんは片目をつぶった。
 「蔵馬からどんな妖怪が相手なのか聞きださなきゃなんないからさ、一緒に行っておくれよ」
 「・・・それって、一緒に南野の家に行ってくれってことかな?」
 眉を寄せる海藤に、ぼたんはこくこくと勢いよく頷いた。
 「なんか、『来るな』って雰囲気だった所に行くのって、勇気がいるのさ〜」
 「・・・なにを気弱な。問答無用の死神じゃなかったのか、君?」
 「ひどいっ!まるで厚顔無恥のようにっ!」
 違うのか、とは言えなかった。
 ここでそんなことを言おうものなら、この場で大げさに泣きまねくらいはされそうだったからだ。
 「・・・一緒に行くだけでいいんだな?」
 「臨機応変って、いい言葉だと思わないかい?」
 「・・・・・・・・・・」
 百戦錬磨の死神にとって、いくら頭がよくても彼は『ぼうや』でしかなかった。


 母親が再婚して以来、表札が『畑中』に変わった蔵馬の家の呼び鈴を押すと、すぐに彼自身がドアを開けてくれた。
 彼らの訪問は予想していたのだろう。驚いた様子もなく、彼は二人を二階の自室に招いてくれた。
 だが、蔵馬の後に続いてそのドアをくぐろうとした時。
 海藤はビクリと、踏み出しかけた足を廊下に戻した。
 「どうしたんだい?」
 彼の後ろから、ぼたんがもどかしげに声をかける。
 「・・・結界か?」
 海藤が部屋の外から問うのを、蔵馬はその唇に薄く笑みを浮かべて肯定した。
 「君達に害はない。少し不快かもしれないが、入ってくれ」
 言われて、海藤とぼたんは、多少の逡巡の後、室内に足を踏み入れた。
 ドアをくぐるとき、静電気がはじけたような、不快な痺れがあったが、室内には特に変わったところはなかった。どころか、その部屋に入ってはじめて、二人は外の空気が異様なほど重かった事を知ったのだった。
 「・・・随分と厳重な警戒じゃないか。なんかあったのか、なんて、聞くまでもないね。相手は誰だい」
 単刀直入なぼたんの問いに、蔵馬は苦笑する。
 「あんたが危険だと忠告し、これほどの警戒をするなんて、よほどの相手だろ」
 勝手にクッションを取って、カーペットの上に居心地のいい場所を作ると、彼女はぽんぽんと床を叩いた。
 「お客にお茶も出ないのはいいとしてもさ」
 「・・・ぼたんちゃん。君、何しに来たの・・・」
 そして、どうしてここにいるんだろう、俺。
 だが、海藤の憂鬱もどこ吹く風とばかりに、ぼたんは蔵馬を正面から見据えた。
 「せめて、どんな奴なのか教えて欲しいね。じゃないと、あたしもコエンマさまに報告のしようがないんだよ」
 子供の使いじゃないんだからさ、と睨みつけるぼたんに、蔵馬は笑みを浮かべたまま頷いた。
 「別に隠すつもりはないよ。ただ、相手に聞かれたくなかっただけだ」
 「・・・見張られているのか?」
 蔵馬の言葉に、海藤は眉を寄せた。
 「君達も、最近の空気の重さには気づいていたはずだ」
 今な、とはプライドにかけて言えなかった。
 「町中を覆うこの気配を、俺は知っている」
 きし、と微かな音をさせて、蔵馬は机の前の椅子に座り、足を組んだ。
 「俺が殺した母・・・褒以(ほうじ)と呼ばれ、一国を滅ぼした女だ」


 史記に曰く、幽王三年の年、褒国(ほうこく)の封候が罪を犯し、その償いとして国一番の美女を献じたと言う。
 その名は残らず、ただ褒国の女、と記述されている。
 これが『笑わない女』『傾国の美女』として有名な、褒以(ほうじ)である。
 彼女は幽王に献じられ、その寵愛を一身に受けながらも、微笑みすら浮かべることがなかった。だがそれが、追従者達に囲まれた幽王には新鮮だったのだろう。彼は、とうとう彼女のために皇后を廃し、その太子を廃嫡して、褒以を皇后とし、彼女の産んだ子を皇太子に据えたのである。
 しかし、そのときですら彼女は、喜ぶ様子も見せず、無表情のまま頷いたのみだという。
 それがある時、彼女が幽王とと共に、驪山(りざん)のほとり、華清池(かせいち)へ赴いたときのことである。
 招兵用ののろし台に、なんの間違いか火が灯り、全国の諸侯が慌てて駆けつけてきた。ところが、それが間違いであると知ると、諸侯はあるいは悔しがり、あるいは呆然とする、といったように、普段では見られない醜態をさらしたのだった。
 それを見て。
 彼女ははじめて声を上げて笑った。
 嫣然一笑――――。
 その笑顔に陶然となった幽王は、それ以後、頻繁に招兵ののろしを上げるようになった。
 何度も騙されつづけた諸侯達は、とうとう幽王を見放し、のろしが上がっても、馳せ参じる者はなくなってしまった。
 その隙を狙って。
 廃嫡された皇太子が、皇后を廃された母の一族と手を結び、更に前皇后の一族は西の異民族・西戎と手を結んで、中原に攻め入ったのである。
 危急ののろしに、騙されつづけた諸侯達は誰一人馳せ参じる事はなく、幽王は殺され、褒以は囚われの身となったと言う。


 「その話なら知ってる。
 実は褒以は、竜の吐いた精が後宮の女官に取り憑いて産まれた女で、人間じゃなかったとか言う話もあるな」
 眉唾だけど、と言う海藤に、蔵馬は微かに頷いた。
 「確かに、国を滅ぼした女を悪者にするのはよくあることだ。自分達が彼らを殺した言い訳にもなる。だが、こればかりは本当だな」
 さらりと出た蔵馬の言葉に、海藤は目を剥いた。
 「つまり、あんたと同じかい」
 それに対してぼたんは冷静だった。
 「その通り。俺達妖狐は、たとえ身体が滅んでも魂魄が残っていれば、人間に取り憑いてその身体を奪うことができる」
 「・・・同じって・・・南野・・・それって・・・?」
 かすれた声で聞く海藤の顔には、流れ出る汗でいくつもの線が描かれていた。
 「俺は生まれてくる前の赤ん坊に取り憑いて、その身体を奪ったんだよ、海藤」
 何の屈託もなく言う彼に、海藤は初めて心の底から恐怖を感じた。
 今まで、こんな生き物と同じ学校に通い、同じ教室で過ごしていたのだ。
 いや、こんな生き物を自分は捕らえようとしていたのだ・・・!
 とめどなく流れる汗をぬぐいもせず、海藤は震えていた。
 そんな彼を安心させるように蔵馬は微笑んだ。
 「大丈夫。俺は人を喰うつもりはないよ――――母と違ってね」
 「それで、なんでいきなり彼女は人を・・・いや、人の魂を喰いはじめたのさ」
 「当然、元の身体を手に入れるためだろう」
 ぼたんの問いに対する答えは簡潔だった。
 「俺は魂魄すら粉々にして、彼女を葬り去った・・・あの、子殺しの狂女をね」


 周を滅ぼし、魔界に帰ってきた彼女は、その美貌で強大な国の王達を次々と篭絡しては自身の権力を増していった。
 だが、その宮殿には常に血の匂いが漂っていた。
 最強と謳われた男達が、彼女を手に入れるために相争い、無残な死を遂げていく。
 競争相手や、あるいは彼女の邪魔になったため、彼女自身の手にかかって。
 ―――そして、彼女の産んだ子供も。


 「無力だったために人間に囚われた自身が許せなかったのか、彼女は無能な者、無力な者を何より嫌った。
 彼女は、子供(俺)達にとってはなにより恐ろしい存在だったよ。
 目の前で小さな腕がちぎれ、衣服が赤く染まっていくのを見る度に、俺は保身の方法を考えた。
 逃げるか、追従するか・・・殺される前に殺すか」
 蔵馬の瞳に、冷たい光が灯った。
 「俺は実の母に生きたまま喰い殺されていく兄弟達のようには絶対になりたくなかった。
 だから、選んだんだ。もう、怯えずにすむ方法を」
 長い時をかけて、彼女の味方(おとこ)達を消していった。
 騙し、殺し、場合によっては彼女自身に殺させて―――。
 「そうやって確実に力を殺いでから、彼女の命を奪ったんだ。魂魄までも粉々にしてね」
 それが、なぜ今ごろ復活したのかはわからない。
 だが、彼女が蔵馬に対して、深い恨みをもっているのは確かだった。
 「どうやらこれは、俺個人の問題らしい。ならば、霊界を巻き込むのは筋違いだと判断したんだが?」
 すっと目を細めてぼたんを見る蔵馬の口元には、薄く笑みが浮かんでいた。
 その瞳は、これ以上関わるな、と警告を発していたが、 ぼたんはきっぱりとその提案を却下した。
 「気を遣ってくれたことには感謝するよ」
 皮肉っぽく言うその態度は、譲る気はさらさらない感じだった。
 「でも、それだったらなおさら、利害は一致してるわけだろ。
 魂魄はあたしらの管轄さ。あたしらはあんたに協力できると思うけどね?」
 魂魄は、やすやすと滅ぼせるものではない。妖狐のように、それのみで生き延びることの出来る一族ならなおさらだ。
 「あんたの気が済むようにやってくれていい。その代わり、封じるのはこっちに任せな。妖怪であっても、魂魄体ならあたしらが霊界に送ってやるよ」
 「・・・封じる?彼女を?」
 「強力な相手なんだろ?魂魄を砕いても復活するような。だったら、消し去ろうなんて無理さ。封じておしまいな」
 さらりと言う少女の顔を、蔵馬はしばらくの間凝視した。
 やがて、声を出さずに笑って言った。
 「・・・君は死神だと言うことを忘れさせる子だね、ぼたん。俺としたことが、可愛らしいお嬢さんを危険から遠ざけるつもりでいたよ」
 そして、海藤に幾分なごんだ笑みを向けた。
 「実は、魂の捕獲者の協力は欲しかったんだ」



 生暖かく重い空気は、日が落ちてもなお冷えることなく町中を覆っていた。
 そんな中、空を覆う厚い雲を抜け、人気のない空き地にふわりと、白い和服の少女は降りたった。
 もしその姿を目にする者がいたとしたら、人外の異様な雰囲気に、寒寒とした恐怖を感じたことだろう。
 少女は、すっとその目を閉じた。
 「霊界よりの使者がお迎えに参じた。この地に束縛されし哀れな魂魄達よ、我が元に集い、共に天に還れ・・・」
 祝詞を読むように、抑揚なく言う少女の身体が、青い燐光に包まれ、淡い風が興った。
 その時。
 『そうやって私を誘い出すつもりか、霊界人よ?』
 しっとりと艶を含んだ声。
 だが、その中にはぞっとするような冷たさがあった。
 ぼたんがそっと見やった先には、蛍のように細やかな銀色の光の群れ。
 「・・・あんたが褒以かい?」
 声がかすれぬよう、最大の努力を払うぼたんの心を見透かしたように、その姿を現した女は微かに眉を上げた。
 『そのような名は知らぬ』
 冷たく言い放つや、彼女はすっとしなやかな腕を上げた。
 しゅる、と微かな音と共に、銀色の糸が風に流れる。
 「・・・きゃ?!」
 小さく声を上げたぼたんの身体に、魂魄を絡めとる糸が巻きついた。
 『わざわざ誘いにのってやったのだ。霊界人の魂魄をとくと味わってやろう』
 女の白い手が、ぼたんの手に触れた。
 氷細工のように繊細で、触れたもの全てを凍らせずにはいられない、冷たい手。これほど心の裡(うち)を表した手を、ぼたんは知らない。
 ――――喰われる!
 だが恐怖に凍りつくぼたんを救ったのは、目の前の妖(あやかし)によく似た声だった。
 「随分あっさりと誘いにのってくれるじゃありませんか――――母上」
 幾分皮肉を含んだ声。だが、強大な相手に嘲笑をおくる余裕は見えなかった。
 『お前ごときに母と呼ばれる覚えはない』
 冷たい声を、蔵馬は眉ひとつ動かさず受け流した。
 「それはありがたい。ついでに俺をつけ狙うのをやめていただけたなら、もっとうれしいのですが?」
 『私を呼び覚ましたのはお前だろう』
 きろり、と睨んだ目には、母性のかけらもない。
 「俺が?」
 蔵馬が、思わず目を眇めた。
 『・・・魂魄さえも砕けた私を目覚めさせたのは、更に強大になったお前の妖気だった』
 銀色の、誇り高き妖魔。
 『唯一殺さずにいた我が子は、お前のように無力な半妖ではない。私の目の前から消えておしまい、汚らわしい子よ』
 不快げに柳眉をひそめる女に、蔵馬は声を立てずに笑った。
 「変わったのはあなたもでしょう。若い娘の魂魄をむさぼるなんて、あなたらしくもない。あなたの好物は、柔らかい子供の肉だったはずだ――――自分が産んだ、ね」
 だが、彼女は蔵馬の嘲笑を、微風よりも軽く受け流した。
 『喰らおうにも身体がなくてはな――――だが、若い娘の魂魄は良い。試したのは初めてだったが、この短期間でここまで実体を取り戻せた』
 さらりと、風に揺れた髪は、すでに月光のような冷たい銀の艶を取り戻している。
 「その上最初の食事が、霊界人と言うのも運が良い」
 金色の瞳がぼたんの姿を捕らえると、彼女の糸にかかった獲物は、ビクリと身体を震わせた。
 「それはあげませんよ。彼女は俺が見つけた、最高の『食事』です。横取りなんて下品な真似はやめてくれませんか?」
 蔵馬の意外な言葉に、ぎょっと目を剥くぼたんをちらりと見遣り、彼女はしなやかな指でそっと赤い唇をなぞった。
 「・・・それは失礼した。ならば、文句を言われぬよう、お前から先に喰ってやろう」
 きらりと光る金の瞳は、冗談を言っているようには見えない。だが、蔵馬はその申し出を笑みで受けた。
 「それもいいですね。
 ――――俺もいい加減、うんざりしてるんですよ。たかが魔界の植物を呼んだだけで、死にそうになる弱さにはね」
 彼女とは似ても似つかぬ黒い瞳に、彼女に似た冷酷な光が灯る。
 「新しい身体を、くれませんか?」
 その酷薄な笑みは、ぼたんの知る『蔵馬』ではなく、妖狐のそれだった。
 「・・・いいだろう。お前とこの霊界人を喰らって完全に身体を取り戻した後、最高の『種』を探して産んでやろう」
 銀糸の髪が絡んだ腕を伸ばし、女は蔵馬の首に冷たい手をかけた。
 「それまでお前は、私の側にいるがいい――――」
 しゅる、と微かな音を立てて、糸が彼の首に巻きついて行く。
 そして、それが彼の呼吸を止めようとした時。
 「以前(まえ)にも言ったと思うが、母上」
 ふわり。
 風の柔かな手が、彼の長い髪を優しく撫でていった。
 舞い上がった髪は、途切れた雲の隙間から降り注ぐ月光に染められたように、舞い落ちると共に銀の輝きを含んで艶やかに輝いた。
 「俺はあなたに従うつもりはない」
 凄絶な笑みを口元に浮かべ、銀色の獣は女の冷たい手を掴んだ。
 刃のように冷たく鋭い妖気と共に、その手元から出でた荊が、彼女の白い腕を生き物のように這い上がり、その美身を罪人への戒めよりもきつく縛りあげた。
 だが、拘束されても、彼女の顔にはさざなみほどの動揺も浮かばなかった。
 「憶えている。だから私も、お前を信用などしない」
 静かに言うや、戒めの荊はずたずたに切り裂かれ、弾け飛んだ。
 「私の前から消えておしまい、蔵馬」
 その名を口にした瞬間だった。
 激しい光が彼女の身を覆い、荊の鎖よりも容赦なく、彼女の身体を切り刻んだ。
 「消えるのはあなただ、母上」
 銀の燐光と化して行く姿を、彼女と同じ金色の目で捕らえながら、蔵馬は冷たく言い放った。
 「今度こそ冥府に堕ちるがいい」


 妖狐の姿から『南野秀一』に戻った蔵馬は、さっそく女狐の糸に絡め取られたぼたんを解放してやった。
 「・・・めちゃくちゃ怖かった・・・」
 真っ青になって震えているぼたんの背を、そっと撫でてやりながら、蔵馬はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
 「思った通り、魂魄だけに海藤の能力は有効だったな」
 束縛された魂魄は、逃げることもかなわず、苦しげに瞬いている。
 「素晴らしい能力だ」
 遠くから様子を伺っていた海藤は、その笑みに鼻を鳴らして応えた。
 「俺を駒にできるのはお前くらいのもんだな。有能な作戦指揮官のおかげで、自分の能力を最大限に生かせたわけだ」
 海藤の能力、『禁句(タブー)』。
 ある領域の中で、彼の禁じる言葉を口にした者は、その魂を奪われると言う、恐ろしい能力である。
 だが、この能力を使うには、相手と彼自身がその領域(テリトリー)内にいなければならない。しかもこの領域は、よほど鈍感な人間でない限り、異空間に入ってしまったと、はっきりとわかるものなのだ。
 蔵馬はそんな彼の能力のメリットとデメリットを完全に把握し、彼が『領域(テリトリー)』と言う名の結界を張ると同時に妖狐に変化し、その鋭い妖気で女狐の目をくらましたのだった。
 「海藤君の能力のおかげで、彼女に喰われちまった女の子達の魂も解放されたみたいだね」
 ぼたんは胸の奥から吐息しながら、頭上に浮かぶ燐光を数えた。
 「約束どおり、あんたのお母さんは、霊界が責任をもって封じるよ」
 そう言って、ぼたんは銀色の焔に手を差し伸べた。
 が、瞬く焔が彼女の手に触れた瞬間、閃光が彼らの目を襲った。
 闇の中、銀の燐光は封じられた女の姿をかたどっていく。その唇からは、か細く、美しい声が洩れ出で、蔵馬の名を呼んでいた。
 『――――そんなに私が憎いか?二度も殺すほどに、この私が・・・』
 その声には、微弱な哀しみを含んで震えているように思えた。
 ぼたんと海藤を背に、彼女の前に立つと、蔵馬は愛しげにその仮面のような美貌を見つめた。
 「・・・以前(まえ)にも言ったはずです。『俺はあなたに殺されるつもりはない』と」
 『・・・私より、慈しんでくれた今の母が大事か?』
 冷酷な声にはしかし、哀しみと嫉妬が含まれているように思えた。
 「・・・俺は、誰よりも誇り高く、美しいあなたが他の誰かに奪われるなんて、我慢できなかった」
 愛しい者を抱くように、蔵馬はその手を差し伸べた。
 「あなたを誰にも渡したくないんですよ、母上。あなたのその笑みをね」
 目を灼く閃光が、徐々に蛍火のような淡さに沈んで行った。
 そして、光が消える間際。
 暖かな雪解けの陽光に耐えかねた氷のように、その美貌がほころんだ。
 『お別れだ、蔵馬。今度こそ永遠に――――』
 最期に瞬いて、銀の焔は闇に堕ちていった。


 「・・・任務完了、と言っていいのかな?なんだか俺自身の問題に、巻き込んだ気がしないでもないんだが」
 苦笑する蔵馬を見上げ、ぼたんはにっと笑った。
 「いいんじゃないかい?懸念事が片付いて、あんたも魔界の参謀役に集中できるだろ」
 コエンマさまのために、しっかり働いておくれね、と、上司想いの死神は冗談めかして言った。
 「それよりも後始末が大変だよ。早くこの子達を霊界に連れて帰んなきゃ」
 そう言って、うんざりと見上げた先には、少女達の魂魄がかしましく浮かんでいた。
 「団体さまご案内ー・・・」
 この後の喧騒を考えてしまい、こめかみを押さえて呟くぼたんの横で、海藤は夢見心地のまま、銀の焔が消えた場所を見つめていた。
 「あれが傾国・・・」
 陶然と呟く彼を、蔵馬は唇に笑みを刷きつつ、凄絶な光を宿す瞳で見つめた。
 「あの笑みは、見た者を死に追いやる媚薬だ。早く忘れた方がいいぞ」
 嫉妬深い狐の呪いから逃れたければな。
 言外に脅迫されているのを感じて、海藤はそそくさと目を逸らした。




 〜 Fin. 〜











これは私がずぅっと以前に、漫画として書いていたものなんですが、それを文章に直すのに、すっげ苦労しましたー(^^;)
一応、幽助は魔界に行っちゃって、親父とバトル中。飛影は骸さんちで研修中(おい;)。蔵馬っちは黄泉さんちから実家帰省中。ってなカンジの時期ざます(^^)
だからホントは、蔵馬っちのおうちには、妖怪に取り憑かれた弟がいるのですな♪
そして『褒以(ほうじ)』ですが、本当は『以』に女へんがつきます。
パソコンで表示できなかったので、仕方なくこのように書いてますが、漢文のテストなんかで彼女の名前が出てきたとき、堂々と『褒以』なんて書いちゃダメですよ(^^;)
まぁ、史記でテストに出るのは、列伝とかだと思いますけど(^^;)











Kale