◆  1  ◆







 飃山(ひょうざん)のふもとに広がる大地は、大きく分けて三つの国にわかれている。
 西の西桃国(せいとうこく)、東の東蘭国(とうらんこく)、南の南薔国(なんしょうこく)である。
 北に大山脈・飃山をいただくこの三国は、互いの領土をうかがいつつ国力を高めていき、全盛期にはこの三国以外に国はないほどの勢力を有した。
 西の蛮族・西戎(せいじゅう)を接収した西桃国は、大陸の中でも最も文化程度の高い国であり、特に三十五代・深(シン)王の時代は、この国の文化が最も充実した時代であった。
 この王の跡を継いだA(ケイ)王は、父の残した遺産を忠実に守り、更に発展させた名君であったが、残念なことに夭折。
 Aの子の汕(セン)は幼くして王位についたため、祖父と父の業績を完全に継ぐのは難しかった。
 現に、彼が成人し、自分の手に権力を握るまで、西桃国の実権は彼の祖母、李氏(りし)とその側近達に握られ、西桃国の民は彼らの享楽のために、重い税を課せられていた。
 少年王の苦悩は、祖母によって後宮を追われ、国に帰っていた母に宛てた書簡によって、十分に察することが出来る。
 自分の無力を呪い、味方がいないことを嘆く様が、子供らしくない滑らかな筆跡で綴られているのだ。
 後にこの少年王は、亡くなった姉の跡を継いで南薔国王となった母の協力を得、祖母を幽閉、その周りの者達を粛清して名実共に西桃国の王となった。

 そして同じ頃、東の東蘭国は、未だ東の蛮族・東夷(とうい)を平定できずにいた。
 この当時、東蘭国が東の侵略者達を全て『東夷』と呼んでいたため、現在の東の国々の、どの部族が東蘭国を悩ませた『東夷』なのかは定かではないが、どうやら彼らは海賊の集団であったらしい。
 『采(さい)王五年九月 東夷、蘭国土を侵すこと青汀(せいてい)に至る。奪略すること甚だし・・・』
と、東蘭国の東の主要都市まで侵入を許したと言う記述があるが、そこが東夷に領有されたという史実はない。
 しかし、この『東夷』による被害は深刻であったらしく、采の曾孫にあたる竅iエイ)王に至ってようやく平定するまでは、年間に国庫の十分の一を東夷に奪われていたという。
 采王が親征の地で戦死しなければ、また、彼の妻であった薔氏(しょうし)・緻胤(ジーン)が東蘭国に残っていたならば、東夷の平定は、二十年は早かっただろうと言われる。
 しかし、緻胤王妃は采王が亡くなるや、姉の南薔国王に呼び戻され、そのまま西桃国のA(ケイ)王の元に嫁がされた。
 この薔氏・緻胤(ジーン)こそが前述の西桃国少年王・汕(セン)の母であり、三十二代南薔国王・緻胤女王である。

 彼女の生涯は、まさに波乱の人生といえよう。
 南薔国の第二王女だった彼女は、十五の時に二十歳年上の東蘭国王・采の元へ嫁いだ。
 彼女は翌年、采王との間に息子・傑(ケツ)を産んだが、その六年後に東夷との戦で采王を亡くした。
 だが、采王の喪があけるや姉の南薔国王に呼び戻され、西桃国王・A(ケイ)の元に嫁がされることになる。
 そのため、姉の南薔国王・沙羅(サラ)は、当時も今も、あまり好意的な見方はされていない。
 が、倫理的には非道と思える彼女のやり方こそ、当時の南薔国を救う、唯一の方法であったことは確かだ。
 当時、南薔国王・沙羅は、彼女の祖父・経(ケイ)王によって失った国土を回復すべく、あらゆる手段を用いていた。
 南薔国最初の男王にして『国土喪失王』と呼ばれる無能の王・経(ケイ)。
 彼によって、南薔国は一度滅びたといわれる。
 経王は西の高い文化に憧れ、いくつもの壮麗な宮殿を建て、毎晩のように豪華な宴を開いた。
 宮中には賄賂が横行し、王の側近による国庫の横領、民への不当な課税など、南薔国は瀕死の有様だった。
 忠臣は遠ざけられ、他国が攻め入ってきても、戦場には弱兵を率いる無能の将。
 国土はあっという間に削られ、南薔国はそれまで『蛮族』とさげすんでいた南蛮の属国となり、王位継承者である王女・精纜(セイラン)は幼い頃より南蛮の地に人質として送られたのである。
 その後精纜(セイラン)は十三になると南蛮王の妃の一人として、後宮に遷された。
 そこで沙羅と緻胤(ジーン)を産み、南蛮の地でひっそりと暮らしていたが、父である経王が崩じると、彼女の動きは早かった。
 南蛮を出奔するや正当な王位継承者であることを主張し、娘達と共に南薔国に乗り込んで、三十代南薔国王の座を得たのである。
 そして、君側の奸をことごとく粛清し、それまで南蛮の地で密かに書簡を交わしていた忠臣達を宮中に呼び戻したのだった。
 だが、それで南薔国が復興したわけではない。
 この国は未だ南蛮の属国であり、西の西桃国、東の東蘭国という大国にも、広大な領地を割譲されたままだった。
 この後の精纜の人生は、すべて南薔国の復興に注がれた。
 この当時は、奪われた土地を取り戻そうにも、それまでの王侯・貴族達の腐敗と際限のない課税によって、わずかに残った領土さえも荒廃し、民は疲れきっていたのだ。
 だがそれでも、民が南薔国を、いや、王族を見放さなかったのにはわけがある。
 南薔国の王族は、この国の人々の精神的支柱であったからだった。

 南薔国というのは、大陸を領有する三国の中でも特異な存在である。
 後に大陸の南と南海の島々を領有するこの国も、元は飃山(ひょうざん)の南麓にうずくまる小国でしかなかった。

 三国の中で最も小さな国。
 だが、最もしたたかな国。

 今も昔も、この国の評価は変わらない。
 南薔国史上、この国は何度も他国に侵略された。
 が、決して完全に滅ぶことはなかったのである。
 その最大の理由として、この国の王が『巫女』という、特殊な役目を負っていたことが挙げられる。
 南薔国の民は、元は飃山に住む山岳民だったと言う。
 今なお飃山の西岳から東岳にかけて残る巨大な遺跡は、彼らが『世界』である母皇と創造神である三人の皇帝達を祀った神殿跡だと言われる。
 彼らは自分達こそ神々が作った最初の人間の末裔であり、特に王家には、精霊の血が流れているのだと主張する。
 そしてその証拠として、南薔王家には精霊の娘が生まれるのだと。

 精霊の娘、と言うのは色素を持たずに産まれてきた子供のことである。
 南薔王家には、遺伝なのだろう、色素を持たずに産まれてきた者が何人もいる。
 初代国王・累華(ルイカ)、三代・絲琳(シーリーン)、七代・細莉(サイリ)、十四代・組依(ソイ)、二十一代・麗紅(リク)、そして前述の三十一代・沙羅。
 このほかにも早逝した者、王位につかなかった者をあわせると、かなりの数になると言う。
 今では『先天性色素欠乏症』という言葉で片付けられる症状だが、肌も髪も瞳も濃い色を持つのが当然な一族の中に血色の瞳をした、全身真っ白な子供が生まれれば、『精霊の娘』としてあがめるのも不思議ではない。
 彼女達は不思議な力を持つと信じられ、また、奇跡を行ったと伝えられ、この一族の長となる役目を負ってきた。
 それゆえか、南薔国は全て女系家族であり、いまだに家庭で一番の発言権を持つのは最も年長の女性である。

 この風習は侵略した側の国々にも浸透していった。
 元々同じ神々を信仰する民族であったので、『精霊の娘』をあがめる彼女達の風習も容易に受け入れられたと言うのが通説だが、神話を研究していくと、母皇と三皇帝だけではなく、他の多くの神々や神話が習合した跡が認められる。
 『南薔国は他国に侵略されたが、その信仰は他国を征服した』とは、南薔史稀代の名君と言われる三十八代・灑羅(シャラ)の有名な言葉である。
 南海の島々を平らげ、『海王』とまで呼ばれた彼女も、女王になるまでには数々の苦難を強いられた。
 彼女の母である三十七代・佳練(カレン)は実の姉である三十六代・綸玲(リンレイ)を弑(しい)して王位につき、また彼女自身も、非難封じとして王世子(おうせいし)に擁立されていた従姉・絲玲(シーリーン)を廃立して王位についたため、『親子二代にわたる簒奪者』との非難は免れ得なかったのだ。
 しかし、それでも灑羅が早々に軍をまとめ、南海を征服しえたのは、彼女の娘・繻莉(シュリ)の存在が大きい。
 灑羅の長女である繻莉は、生まれつき色素を持たない『精霊の娘』だったのである。
 『精霊の娘』は、たとえ傍流の娘であろうと、王太子に立てられるのがこの国の決まりである。
 灑羅は繻莉を産んだために、当然のように従姉を廃立し、産まれたばかりの繻莉を王世子に据えて玉座を手に入れたのだが、この、あまりにも灑羅にとって都合のいい展開に、繻莉は本当は『精霊の娘』などではなく、そう仕立てられたのではないかと疑う者も多い。
 そんな学者の中には、彼女が本当に『精霊の娘』であったか調べようと、飃山の南岳にある彼女の墓の調査を申請した者もいたが、当然ながら南薔国も王家もそれを許していない。
 すでに南薔王家は有名無実であるとはいえ、南薔国の人々にとっていまだに王家が精神的支柱であることは変わらず、現女王・縷璃(ルリ)陛下は人々に慕われている。
 ゆえに王家の墓はもとより、飃山の遺跡も神聖な場所として、本格的な調査隊は入っていないのだ。飄山に住む山の民ですら、精霊の怒りを恐れて遺跡には近づかないという。
 ここに入れるのは、いまでも南薔王家の者と高位の神官のみである。
 ――――― 本来ならば。




〜 to be continued 〜


 







Euphurosyne