◆  10  ◆







 その後、艮琅宮の門前で待っていた樹李に導かれ、彼らは闇精の目に触れぬよう、ひとまず玉華泉に戻った。
 「澪瑶公主、風精王・・・地精王も!よくぞご無事で・・・!」
 多くの木精達と共に、木精王である美桜が自ら出迎え、二人の精霊王と、依坤を抱いたカナタの前に深く膝を折る。その行為は、木精が他の精霊よりも一段下の存在であることを如実に物語っていた。
 「このたびはごくろうでした、美桜。公主はお疲れです。少々休ませていただきますよ」
 巽依が言うと、美桜は頷いて樹李を目線で促す。
 「どうぞ、公主。宮内にて、お召し替えを御用意させます」
 言って、樹李と入れ替わりに出てきた美桃に、公主を案内させる。
 「風精王、美桜にございます。お見知りおきを」
 公主が去った後、改めてこうべを垂れる美桜に、巽依は鷹揚に頷いた。
 「木精王とお会いするのは初めてですわね。巽依です。風精王の四人目にして、公主の乳母役ですわ。本来ならば、公主以外には、湟帝陛下の御前にも出ません。あなたとも、再びお会いする事はないでしょうね」
 「巽・・・そよかぜでございますわね。心地よい方ともうお会いできないとは、残念に思います」
 楚々と微笑んで、美桜はゆったりと袖を翻した。
 「こちらへ。渺茫宮には、お二人が玉華泉におられることを伝えておきます。すぐに、お迎えが参りましょう」
 「樹李が?」
 「ええ。まもなく柳螺(リュウラ)の元へ着くでしょう・・・・・・あの子、怪我でもいたしましたか?」
 樹李の、白い衣装は所々引き裂かれた上に血で汚れ、髪の花飾りは無残に引き千切られていた。
 「返り血でしょう。華南が、少々怪我をいたしましたので」
 「まぁ・・・お気の毒に。華南将軍のご容態は・・・?」
 「たいした怪我ではありません。ご心配なさらないで」
 笑みの容の仮面をつけ、軽やかな笑声と嫌味でないお世辞をちりばめた、上品な会話の裏では、相手の持つ情報を探り、または牽制する。その様は、二頭の雌虎が互いの背後を伺って、じりじりと間合いを詰める様に似ていた。
 ・・・・・・女って、怖い。
 二人の後ろに従いながら、カナタは彼女らに恐怖せずにはいられない。
 「それにしても、玉華泉は素晴らしいところですこと。このように、世界中の花が咲き誇るところですもの。お里帰りの際は、さぞかし賑やかでいらっしゃいますでしょう」
 にこやかに巽依が言うと、
 「娘どもは、皇帝陛下や精霊王に、懸命にお仕えする身でございます。外の空気に慣れ親しんで、こちらには全く寄りませんのよ」
 微笑と共に美桜が返す。
 「ですが、世界の根は玉華泉に通ずと申します。玉華泉の花守の司ともなれば、いながらにして世界の事情に通じているも同じですわね」
 巽依がくすくすと笑うと、
 「わたくしは三珠の外にあり、ただ娘達が思わぬことで不自由せぬよう、その根を護るのが勤めでございますれば、畏れながら、陛下方や精霊王方のお治めになる三珠の上のことには全く蒙昧(もうまい)で・・・お恥ずかしゅうございます」
 美桜はゆるりとこうべを垂れた。
 やがて、
 「どうぞ。桜溟殿(おうめいでん)にございます」
 美桜が二人を導き入れた宮は、かつてカナタが彼女に案内された部屋でもあった。
 つまり美桜は、麗華を助けてくれた異人に、精霊王なみの歓待をしてくれたのだった。
 「まぁ。よろしいの、『溟(めい)』だなんて?煌帝陛下に嫌われてよ?」
 何が気になったのか、全くわからないカナタの前で、美桜は慌てる様子もなく微笑む。
 「確かに、『溟(暗い海)』は惶帝陛下と湟帝陛下に通じるものでございますが、『溟』はまた『明』に通じます。煌帝陛下行幸の際にも、こう申しましたら面白いとおっしゃって下さったのですよ」
 「まぁ。それはすばらしいこと。さすがは皇帝方の庭たる玉華泉でございますわね。
 そう言えば澪瑶公主も、こちらから美しい薔薇を二輪もお持ち帰りでしたわ」
 美桜が勧めるままに腰をおろした巽依は、そう言って口の端を曲げた。
 「わたくし、弟の薔薇の方は、公主を悲しませるようなことはたとえ殺されてもしないだろうと、信じられますの。ですが姉の方は――――・・・」
 ねっとりと、絡みつくような視線が、カナタの上を這った。
 「―――― 少々、おしゃべりが過ぎるのでないでしょうか」
 巽依の瞳に光が灯る。
 美桜は、茶を運んできた童女を下がらせると、挑むように巽依へ笑みを返した。
 「わたくしは、麗華がどのような粗相をしたかは存じませんが、二度とそのような過ちをせぬよう、責任を持って諭しましょう」
 「あら、ご存知ありませんでしたか?」
 「ええ。麗華が薔族の長として、恥じ入るようなことをしたのなら、いかにわたくしが母同然とは言え、とても話すことなどできないでしょう。
 ですが、思わぬこととはいえ、公主や地精王、そして、風精王――――」
 美桜は、軽くこうべを垂れる。
 「三人もの精霊王を辱めたとあっては、再び渺茫宮に参ることなどできますまい。麗華はこの玉華泉にて謹慎させる旨、湟帝陛下より既にお赦しをいただいております」
 巽依は、くっと顎を引いた。
 「・・・陛下に。ずいぶんと、手回しのよいことですね」
 「畏れ入ります。
 この美桜、麗華がこの地に戻ってまいりました折のただならぬ様子に、行方知れずとなられた精霊王方の危難を察しまして、湟帝陛下の元へまかりこし、お救いを求めた次第にございます。差し出がましい行いをいたしました」
 深く、垂れた薄紅のこうべを見下ろして、巽依は、苦笑にも似た容に唇を曲げた。
 「貴女が、湟帝陛下にとりなしてくださったのですね」
 「とんでもございません。
 わたくしはただ、冥府より戻ってまいった娘が、精霊王方の囚われておられる場所をいかにしてか知り得ましたので、お助けくださいと、そう申したまでにございます」
 下げたままの美桜の頭を、黙したまま、じっと見つめていた巽依は、くすりと笑みを漏らして、美桜に頭を上げるよう命じた。
 「澪瑶公主と、地精王に代わって礼を申します。貴女の一族が、ますます栄えますように」
 「・・・ありがとう存じます」
 美桜は巽依に、再び丁重にこうべを垂れた。


 「―――― ったく、嫌な女だよっ!」
 大勢の供に囲まれた公主と共に、巽依が玉華泉の門を出た途端、美桜は絶叫して、髪に挿していた櫛を植え込みの中へと乱暴に投げた。
 「ああ、むしゃくしゃするっ!美桃!なんかもっといでっ!」
 共に見送りに出ていた美桃や、大勢の木精達を置いて、美桜は足音も荒く宮内に戻って行く。
 「姐さん、あの人地獄耳なんやから、聞こえるよー」
 毛を逆立てているような背中に、美桃がのほほんと声をかけてやると、
 「かまうもんかっ!」
 咆哮のような声が返ってきた。
 「あんらー。だめやわ。完全に怒ってるもん。触らんほうがええわ」
 おどけるように肩をすくめて笑うと、周りの木精達はくすくすと笑いながら方々へ散って行った。しかし、淡紅色の花で鮮やかに彩られた広い道に残った美桃は、皆にのんびり手など振って、全く急ぐ様子がない。
 「早く行ったほうがいいんじゃないのか?」
 気遣わしげに言うカナタを振り返り、美桃はにっと笑った。
 「カナタさん、先行く?まだ魂魄やし、物投げられても怪我することないわ」
 「・・・・・・いや、やめとこう」
 君子危うきに近寄らず。
 そう呟くと、美桃は声を上げて笑った。
 「公主様達、渺茫宮に帰ったらカナタさんに身体くれるって。よかったね」
 「地精王も、ちゃんと治してくれるって言ってたし。美桃ちゃん達も、これで安心だな」
 美桃に並んで歩きながら言うと、
 「ホント、樹李ちゃんが無事で良かったわ」
 少女は、深く息をついた。
 樹李は今、玉華泉の一宮に眠る依坤の側についている。
 「あの子、気の小さい子やろ?恐い目に遭って泣いてるんやないかって、気が気やなかったんよ」
 ―――― 遭ったんだ、それが・・・。
 「かわいそうに、無幾に散々いじめられてたぜ・・・」
 その時の事を、苦々しくカナタが話すと、美桃はやっぱり、と呟いて眉を寄せた。
 「あの子は無事やったけど、華南さんが・・・酷い怪我したようやね」
 カナタは、あのワルキューレが傷ついた経緯を知らないが、あの無幾のことだ。行く手を阻むものに手段を選ばないだろうとは予想できた。
 「樹李ちゃんはなぁ、もともと珂瑛(かえい)に貰われてった子やから、風精王も道案内に便利やろうて、連れていったんやわ。
 あたしはあの子が、珂瑛にいた時の事はしらんのやけど、ずいぶんと可愛がられとったんやて」
 カナタは深く頷いた。
 闇精たちの、樹李に向ける眼差しの暖かさ・・・。
 あの少女の存在が、彼らにとってどれほど大切なものだったか。それは、カナタのような異人の目から見ても明らかだった。
 「なんに、樹李ちゃんが無幾様を冥府に引き入れたようなもんやない?おかげで北辰さんも華南さんも酷い目にあったてゆうし・・・他にも被害者いるんかも知れん。
 ―――― かわいそうに、もう二度と冥府にはいけんのやないかなぁ・・・」
 「そうだな・・・」
 優しい人々に嫌われてしまった、もう会えないかもしれないという思いは、あの小さな精霊を、どれほど傷つけた事だろう。
 もしかしたら、カナタらと別れた後、会いに行った華南に、冷たく突き放されてしまったのかもしれない。
 そう思うと、どうにも居たたまれなくなってきた。
 「美桃ちゃん、樹李ちゃんの所に行ってやったら?」
 言うと、美桃は少女にしてはあでやかすぎる笑みを浮かべて、カナタを見上げた。
 「野暮するんやないわぁ。せっかく大好きな人と一緒におるんに、邪魔したら一生怨まれてしまうやないの」
 「え・・・あぁ、そうだったのか・・・」
 そう聞けば、樹李があんなに必死だったのも納得が行く。
 「花って、かわいいもんやよ。名前くれて、『可愛い』『きれい』って言うてくれたら、それだけで命をあげてしまうんやから、馬鹿やなぁ」
 きゃらきゃらと高い笑声には、なぜか憂わしげな色が混じっている。
 「さ、うだうだ言うとらんで、姐さんのお酒の相手しにいこ。姐さん、酔ったらものすごい虎やから、深酒する前に止めるんよ?」
 そう言って、彼女は桜溟殿とは違う、門の近くの小さな宮へとカナタを導いた。
 「カナタさん、先行ってて。アタシ、すぐにお酒持ってくからね」
 「・・・待ってくれ。俺一人で美桜さんの所に行くのか?」
 「嫌?」
 「・・・何の装備もなく、虎の穴に入れって?」
 その顔が、あまりに不安げだったのか、カナタを見上げた美桃は、はじけるように笑った。
 「ごめんごめん。一緒いこ」
 そして、カナタを宮内の一室へと連れていくと、
 「そこの棚に、ガラスの酒器があるやろ?赤い花の模様が入ったの。下ろしててくれる?」
 と言い置いて、自分は部屋から出ていった。
 「赤い・・・あれか」
 棚の、一番高い段から酒器と、揃いの杯を取り出し、側の卓の上に置いて待っていると、まもなく、美桃が酒壷を携えて戻ってきた。
 「よぅ冷えてておいしそうやわ」
 嬉しそうに壷を振ると、よほどたっぷり入っているのだろう、ほとんど音がしない。壷の蓋を開けて、酒器に透明な液体を注ぐと、部屋中に酒のいい香りが満ちた。
 「―――― さぁ、行くよ!」
 まるで、覚悟しろとでも言うように、美桃はにやりと笑った。


 二人が美桜の待つ部屋に行くと、彼女は軽く頷いて丸い卓上に酒器を置くよう促した。そして冷たい酒を杯に注ぐやいなや、その芳醇な香りの液体を一気にあおったのである。
 「ああーん、もったいないわぁ・・・!せっかくいいお酒なんやから、味わって飲んでよー」
 「うるさいっ!カナタさんっ!あんたもボケっと見てないで、相手をおし!!」
 ・・・・・・・すでに雌虎。
 はっきり言って、お相手はごめんこうむりたいが、ここは相手をしないともっと怖い。
 「い・・・いただきます」
 同じ卓について杯を取ると、美桜が深いそれに、たっぷりと注いでくれた。
 「アタシ、肴(さかな)持ってくるわぁー」
 ぱたぱたと部屋から出ていく美桃に、カナタは『待ってくれ』と絶叫しそうになるのをどうにかこらえる。
 「早くお飲み」
 「・・・はい」
 苦手な上司に勧められる酒って、こんなカンジだろうか・・・。
 味なんか分からないだろうと思いつつ、口をつけたのだが、
 「・・・マジうま」
 あっという間に杯が空いてしまった。
 「・・・全く、なんて言葉を使うんだい」
 空になった杯に注いでやりながら、美桜は大仰に顔をしかめた。
 「とってもおいしいですー」
 今、彼女に逆らうのはやばい、と判断したカナタは、すかさず言い直す。
 「言葉というものはね、さまざまな意味を含み、使い方によっては殺す事も救う事もできる、劇薬さね。いい加減に使っていいもんじゃないよ」
 言って、彼女は苦々しく杯をあおった。
 「あの女はさ、それを使うのがうまいんだ」
 「あの女って・・・巽依王?」
 蛇のような、と感じた女の、温和な笑みを思い浮かべる。
 「巽依王には初めて会ったけど、さすがは風精王の一人だ。ひとすじ縄じゃ行かないね」
 「人格だけでなく、性別や身長まで変えてしまう種族なんてすごいよな・・・」
 美桜の杯に酒を注いでやりながらカナタが言うと、彼女は、杯の縁をなぞりながら答えた。
 「他族の事だから、アタシもよくは知らないけどね。風精ってのは、全く異なった人格を多く持つ者が強いんだそうだ。思うに、武人には武人にふさわしい身体、乳母には乳母にふさわしい容姿ってのがあるんだろうさ」
 「へぇ・・・。多重人格者の話はたまに聞くけど、すごいのになると何十人もいたりするんだよな?」
 主人格と呼ばれる主な人格のほかに、暴力的な人格、自虐的な人格、更には芸術にすばらしい才能を発揮する人格もあると言う。
 「風精の強いのだと、何百人も別の人格がいたりするのかな?」
 数千人と言われても驚かないかもしれない。
 「それはどうだか知らないよ。けど、いくら風精が有力な精霊ったって、いくつもの人格をいっぺんに持ってて、まともな頭でいれるもんじゃない。多くは主人格に引っ張られてしまうか、他の人格になった時の記憶が全くないそうだよ。
 けど、風精王は違う。いや、その主人格である無幾王が違うと言ったほうがいいね。
 風精王の主な人格は四人みたいだけど、彼らは互いに情報を分け合い、役割を分担している。その上、無幾王の一言には全員が従うらしい。慎重なエアリー王はともかく、あの嵐のようなシルフ王も。そして多分、あの驕慢そうな女もね」
 「―――― よほど嫌いらしいね」
 苦笑するカナタを、美桜は上目遣いできつく睨んだ。
 「アタシは、この玉華泉に口を出すもんはみんな嫌いだよ。特に、上品ぶった口調で脅してくるような女はねっ!」
 「脅し?!」
 驚いて問い返すカナタを、美桜は呆れたように見返した。
 「わかんなかったのかい。あんなにあからさまに、『今回のことを話したら生かしておかない』って言ってたってのに」
 「いつ?!」
 身を乗り出すカナタに、美桜は心底呆れたと言わんばかりにゆっくりと杯をあけた。
 「言ってたじゃないか。玉華泉は花達から情報を仕入れているんだろうとか、麗華の―――― 」
 ふと口を閉じて、美桜はカナタの影へと目を落とした。
 「・・・口を封じろとも言ってきたけどね。アタシがそうはさせないさ。だからもう出ておいで」
 美桜が声をかけると、カナタの影の中から、麗華の蒼い姿がおずおずと現れた。
 「公主や風精王がなんと言っても、湟帝陛下はアンタをお咎めにはならない。安心おし」
 言って、美桜は麗華に片目をつぶってみせた。
 「アタシゃ、『貴女の一族がますます栄えますように』なんて脅してくるような女にゃ負けないよ」
 華やかに笑声を上げる美桜に、カナタはまた首を傾げた。
 「だから、なんだって祝福の言葉が脅し文句になるんだよ?」
 カナタの疑問に、美桜は思わずこめかみをおさえた。
 「・・・わかったよ。アンタの口調が変なのは、言葉を深く考えないからなんだね」
 ―――― 姐さん口調のアンタに言われたくないし。
 笑顔も引き攣るカナタへ、美桜は深々と吐息した。
 「あの女、このアタシに『このまま平和に暮らしていたかったら、余計なことは言うんじゃないよ』って言ったのさ。ただし、黙っていたらいい風を送ってやるよってね」
 それが、あの礼と祝福の真相だったとは・・・。
 「・・・なんで会話するのに、そんなに深読みしなきゃならないんだ」
 重く息をつくカナタに、美桜はちらりと笑みを浮かべた。
 「相手の意志を、間違いなく読めた者が生き残ってきただけの事のさ。この世界で精霊王として生き抜く為には、相手の言葉の裏を聞く耳と、その人柄を見抜く目を持ってなきゃならない。
 ―――― そう。だからアタシは、あの女を信用できると断言するよ」
 空の杯を伏せて、美桜は立ち上がった。
 「ああまで鮮やかに公主の信頼を勝ち得たのは、あの女が今まで誠実に、そして何よりも愛情を注いで公主に仕えてきたって事さ。
 そういう人格は・・・いや、これは風精王すべてに言える事だけどね、策略を用いる者は、滅多に嘘をつかないもんだ」
 「・・・?嘘をついたり、騙したりする事を『策略』って言うんじゃないのか?」
 不思議そうに問い返すカナタを、美桜は危なげない足取りで窓辺に寄り、振り向いた。
 「もちろんそうだよ。だけどね、人を騙してばっかりの奴は、単なる『嘘吐き』というのさ。アンタも、いくら単純だからって、いつも嘘ばかり言う奴の事なんか信用しないだろう?」
 『単純』は余計だ、と思いつつ、カナタは頷いた。
 「風精王ほどの策略家になると、くだらない嘘はつかないものさ。それどころか、誰よりも信頼の篤い精霊王だといわれている。
 だからこそ、風精王が謀略を巡らせたって、誰も自分が騙されているなんて思いもしないのさ」
 「なるほど・・・」
 カナタは思わず感心した。
 無幾や巽依の、黒い面を見続けた為にカナタは、彼らをそういう人格なのだと決め付けていたが、この非常時にさえ会わなければ、彼らはカナタの目にも、誠実な王として映った事だろう。
 きっと、カナタの住んでいた世界でも、彼の知らない場所で頻繁に行われてきた事なのだろうが、こうやって目の前に、事実としてぶら下げられるのはどうにも不快だった。
 そんな時、閃きにも似た速度で、カナタの頭をよぎったもの。
 なんだろうと、自身の思考を辿ってその尾を掴むや、カナタの身体は硬直した。
 「・・・美桜・・・さん?」
 「できれば『姐さん』と呼んで欲しいねぇ」
 にやりと笑みを浮かべた顔に、カナタは自分の考えが間違っていない事をほぼ確信してしまった。しかし、
 「・・・なんで俺に・・こんなに詳しく話したんです・・・?」
 一縷の望みをかけて・・・『杞憂だよ』と言ってくれる事を欲した問いは、美桜の笑顔によってあっさりと裏切られてしまった。
 「これでアンタも一蓮托生だよ」
 「やっぱりーっ?!」
 絶叫するカナタに、美桜は、本当に嬉しそうに声を上げて笑う。
 「何言ってんだい。アンタだって『話したら生かしておかない』って奴の中に入ってんだろうが!教えてやったんだから、礼を言ってもらいたいくらいだよっ!」
 それに、と、笑いを収めてカナタを見つめる。
 「アンタは公主に『感謝する』と言われたんだろう?風精王にも、そして目を覚まされたなら、地精王からもそう言われるだろう。これが、どんなことかわかるかい?」
 「え・・・・・・?」
 戸惑うカナタに、美桜はふっと笑みを浮かべた。
 「神子と二人の精霊王の感謝・・・。アンタが思ってる以上の返礼が来るだろうさ。そう、望んですらなかったような、ね」
 笑みを消した美桜に、カナタは不審げに眉を寄せた。
 「生き返らせてもらえるってだけで、かなりすごいと思うけど?」
 「精霊王が、救ってくれた者に対して、その程度の礼しかしなかったんなんて知れたら、大恥もいいところだ。王たちは競ってアンタに贈り物をするだろうよ。アンタが望まなくてもね」
 だがその反面、風精王は彼の命を絶つこともあるだろうと言う。
 「そんな世界で、身寄りもないアンタが生きていくのは大変だと思わないかい?」
 それは、カナタがなるべく考えないようにしていたことだった。
 「そこで、この玉華泉の長が、娘を救ってくれた者に対して礼をしようと思う」
 窓辺にもたれていた体を起こし、美桜は袖を払ってカナタの目の前にこうべを垂れた。
 「木精王の名において。
 カナタ殿、あなたを玉華泉に迎えましょう。たとえ私が『世界』へ環ろうと、次の木精王があなたを、全ての精霊から護ると誓います。母皇陛下と三人の皇帝陛下、六人の精霊王を除く何者も、あなたを害することはできない。どうぞ、この地を故郷と思し召しください」
 言い終えると、美桜は顔を上げてにこりと笑った。
 「アンタは断ってくれてもかまわない。ここから出ていくのも自由さ。だけど、覚えておくといい。アンタはここに帰ってこれるんだ」
 もう、元の世界には帰れない。身体をもらっても、何処へ行くべきか、何をすべきかが見えなかった。
 しかし今、この美しい地に住むことを許され、カナタは自分の中で張り詰めていたものが一つ、すっと溶けて行くのを感じた。
 「・・・・・・・・・・・・・ありがとう」
 安堵との吐息と共に、暖かい感謝の気持ちをこめて、カナタは美桜に微笑んだ。


 陽の光を拒む厚い雲の下、風は狂ったように吹きすさび、天地の間に舞うものが、空より降ったものか、厚い氷の上より巻き上げられたものなのかすら定かでない。
 氷上の聖域は、今も変わらずあらゆる生物の存在を拒み、曇天を貫くように高くそびえ、地を裂いて海中を抉る。
 ―――― 渺茫宮(びょうぼうきゅう)。
 氷で覆われた北海の中心にそびえる、蒼白の宮殿。
 その奥深くに棲むのは、水と生命の支配者・湟帝である。
 今、その御座所への扉は大きく開け放たれ、一人の若い精霊王を迎え入れた。
 「ただいま戻りましたわ、お父様」
 湟帝の前に跪きもせず、彼女は光るように笑った。
 「面白い経験をしてまいりました。永い間逗留させていただいて、惶帝陛下はさぞご迷惑だったでしょうね」
 湟帝の返事が期待できないのは、いつものことである。彼女は気にする様子もなく、父の前に優雅にこうべを垂れた。
 「お父様にもご心配をおかけしました。以後、このようなことはございませんわ。ご安心くださいな」
 それだけ言うと、彼女はさっさと裾を翻して、父の部屋を後にした。
 「澪瑶公主」
 御座所の扉の前で彼女を迎えた水精達が、一斉に跪く。
 「清澪宮(せいれいきゅう)にて、霧生(キリュウ)が一族と共にお待ちしております」
 「そう」
 軽く頷いて、彼女は跪く彼らの間を抜けた。
 「澪瑶公主からお褒めの言葉をいただけるなどと申しておりますが・・・」
 彼女の影を踏まない位置に従って、水精の一人が言上する。
 その声に、不満の色を察した公主は、唇にそっと笑みを浮かべた。
 「当然でしょう。彼らと彼の一族は、わたくしが囚われていた間、この地を護ってくれていたのですもの」
 公主の言葉に、背後の水精は立ち止まって深々とこうべを垂れた。
 ―――― 王が封じられると共に眠りにつかない者とはすなわち、王に心服しない者たちのことだ。その証拠に、地精は一人残らず眠りにつき、風精は一部の跳ね返りを除いて全て動きを失った。この御子はそれを知らないのか・・・。
 彼は、ゆったりと歩んでいく御子の背中を見送りながら、そっと息をついた。


 清澪宮(せいれいきゅう)は渺茫宮の北にある、多くの離宮の総称である。
 前水精王・淘妃の頃は、後宮の別名でもあったこの宮殿は、御子である澪瑶公主が主になって以来、男子禁制ではなくなった。
 しかし、やはりこの宮に住むものは、多くが女精霊であり、それは流線型が主に使われた建物の、華やかな意匠にも存分に発揮されている。
 中でも、公主の正殿である清兌殿(せいえいでん)は、湟帝の正殿・旋乾殿(せんけんでん)に次ぐ華美を許されていた。
 公主はその謁見の間の高座にゆったりと着くと、目の前に跪く、水精の中でも特に有力な一族を見渡した。
 「霧生」
 名を呼ぶと、集団の一番前で跪いていた男が、恭しく進み出る。
 「この度の、そなたらの働きご苦労でした。
 多くの水精が眠りについた中、この地を護るのは、さぞかし大変なことだったでしょう。この澪瑶、礼を言います」
 公主の言葉に、霧生の一族ではない水精達が、不快げに眉を寄せた。
 「―――― それにしても、わたくしがいなかった間、ずいぶんと外は荒れてしまったこと」
 公主の憂わしげな吐息に、霧生は面を上げる。
 「公主にお礼をいただけるなど、畏れおおうございます。
 わたくしどもがいたらなかったばかりに、母皇陛下の御身を汚してしまいました。お許しくださいませ」
 男にしては優美な白い面を再び伏せて、霧生は銀の髪を深々と垂れた。
 「地を潤そうにも、所詮我らは霧でございます。風精の力なくして母皇陛下の御山を越えることはかないませなんだ」
 粛然とした声に、しかし、公主は冷笑を向ける。
 「まぁ、意外だこと。水精の中でも強権とされるお前たちですら、母皇陛下の北岳を越えることが難しいなんて」
 蔑むような目で見下されて、霧生とその一族は、内心慌てた。
 「は・・・。我らは、湟帝陛下に仕える僕にて、僭越は許されませぬ。ゆえに・・・」
 「出来るのにやらなかったと言うわけね」
 公主の、凍るような冷たい声に、霧生は更に深くこうべを垂れた。
 「いえ、微力ながら御山を越え、雲をお送りして・・・」
 「おだまり!」
 切りつけるような冷気に、彼らは一斉に首をすくめた。
 「地上に雲を送ったのは、囚われていた風精王ではないか!私がおらぬ間、よくも地を枯らしてくれたな!お前たち自身の命で、枯れた地を潤すがよい!」
 公主の怒声に、彼女と同じく封じられていた水精達が一斉に立ち上がり、呆然と跪く者達を捕らえた。
 「王にまつろわぬ者達の首を刎ねよ!逃げた者は一人残らず狩れ!世界に還して、地を潤せ!」
 歓声と喚声は清兌殿を甲高く貫き、逃げ惑う者達の悲鳴は渺茫宮中に響き渡った。


 「何の騒ぎだ?!」
 清澪宮の喧騒は、渺茫宮の西にある涼巽宮(りょうそんきゅう)にまで届き、王の帰還を喜ぶ風精達を一斉に静まらせた。
 「あちらでも、王のご帰還を喜んでいるのであろうよ」
 「確かに、歓声にも聞こえますが・・・」
 淡々と言う無幾に、彼の側に従っていた少年はいぶかしげに首を傾げた。
 「・・・やはり悲鳴のようです。何かあったのかもしれません。見て参ります」
 「哩韻(リイン)。かまうんじゃない」
 きつく言われて、少年はしょんぼりと金色のこうべを垂れた。
 「しかし、何事でしょうね。公主に何事もなければよろしいのですが・・・」
 無骨な容姿の割に、穏やかな物言いをする大きな男が、気遣わしげに眉を寄せた。
 「いや、公主が身中に巣食う毒虫を潰されただけのことだ。響威(キョウイ)が気にすることではない」
 「ははぁ、とうとう成敗されましたか」
 にやにやと、肉の薄い頬に笑みを浮かべて、カマキリのような容姿の男が言う。
 「あの小さかったお嬢ちゃんが、思い切ったことを出来るようになったもんだ」
 無幾に睨まれても、彼はへらへらと笑うばかりである。
 「相変わらずの道化ぶりだな、紫覧(シーラーン)」
 「無幾王も、相変わらずの無愛想ぶりでございますとも。ところで、奥で御老達がお越し願いたいと言ってますぜ」
 おどけるように大仰な礼をして見せ、彼は奥の部屋を示した。
 「そうか―――― お前達、勝手にやっているといい」
 「へい。お言葉に甘えさせて頂きます!」
 酒だ酒だー!と歓声を上げて、再び盛り上がった風精達の中へ飛び込もうとした紫覧の襟首を、響威はすばやく掴んで引き寄せた。
 「なんだおっさん、放してくれよ。俺、まだ飲んでねぇんだよ」
 響威に軽々とぶら下げられて、不満げに言う紫覧に、哩韻が取りすがった。
 「紫覧!御老達、王に何の用なんですか?!」
 「ぼうや、俺に酒を飲ませてくれねェかな?」
 「紫覧!ふざけていないで、知っていることを教えていただけませんか?!」
 「・・・おっさん、それ、『教えていただきたい』姿勢じゃないぞ、はっきり言って」
 響威の太い腕を引き剥がし、襟を正した紫覧は、身長差の甚だしい二人を見比べて、面倒そうに息をついた。
 「そんな真剣な目をしなさんなよ。あの人のことだし、何とか切り抜けるだろうさ」
 「そんなこと言ったって、滅多に出てこられない御老達が、王を呼びつけるなんて変です!」
 子犬のようにきゃんきゃんとわめく哩韻の口を慌てて塞いで、紫覧は響威に目配せした。
 『湟帝が、無理難題を吹っかけたみたいだぜ』
 他の風精達に聞こえないように、二人の耳にだけ声を送る。
 『ジジババども、慌てふためいて王におすがりしようってわけさ』
 『無理難題とは?』
 同じく、二人の耳にのみ声を送って、響威が問う。
 『それは俺も知らねェ―――― なぁ、お前達、誰も知らねェ貌(かお)持ってるよな?覗きにいかねェ?』
 しかし、にやりと笑みを浮かべる紫覧の手から逃れ、ようやく口を解放した哩韻は、思わず怒声を送りつけた。
 『何言ってんですか!盗み聞きなんていけません!!』
 『じゃ、ぼうやはお留守番な。行こうぜ、おっさん』
 意地の悪い笑みを浮かべて、紫覧は哩韻へ、これ見よがしに手を振って見せた。
 『そんな・・・!響威さん!!』
 助けを求めるように見上げた男は、しかし、『君は残っていなさい』と言い置いて、真っ先に背中を見せた。
 「あっはっは!やっぱおっさん、話がわかるぜぇ」
 けたたましい笑声を上げて、紫覧が響威の背をたたく。
 「そゆわけでぼうや、さっさと帰っておねんねしろよー♪」
 あからさまな嘲弄の言葉を残して、紫覧は響威に続いた。
 広間の外の長い回廊に人影はなく、中の喧騒が嘘のように静まり返っている。
 「おっさん、おっさん!こっちこっち!ジジババのいる部屋の隣に行ってみよーぜ!なんか聞こえるかもしんねェし!」
 とても楽しそうな様子で、紫覧が響威を手招いた。
 「俺、おっさんが女になったとこ、一度見てみたかったんだよな!どんなごつい女が出てくるか、楽しみだぜー♪」
 いいながら彼は、一足ごとに身長を縮め、髪を伸ばし、華奢な体つきの女に変わっていく。
 「どうして女性でなくてはならないのです?」
 不審げな声に、まるで酒場の女のようなけばけばしい化粧をした紫覧が振り向いた。
 「俺が見たいから!ってのは不可か、やっぱ?」
 けたけたと笑う彼・・・いや、彼女に、響威は軽く息をつく。
 「まぁ、あなたも私も、今まで女性の姿を見られたことはありませんでしたからね。見つかった時に何とか言い逃れできるかもしれません」
 この世界を護る戦いは、女の姿いられるほど甘くはない。ゆえに、風精王のように器用でない彼らは、滅多に女の姿になる事はなかった。
 「・・・誰にも言うんじゃありませんよ」
 風精ならば誰でも出来ることとはいえ、常に男であった身を女に変えるのは少々恥ずかしい。
 「大丈夫。どんなブスだろうが覚悟はしとくぜ」
 うつむく響威に、女になってもあまり口調も性格も変わらない紫覧が、からかうように笑った。
 その目の前で、歩む速度とともに響威の身長が縮み、短く刈っていた薄い色の金髪が濃く色を変え、なまめかしく背を覆っていく。愛くるしい唇からは吐息が漏れ、上げた面には宝石のような澄んだ青い瞳が輝いていた。
 「お・・・っさん・・・」
 驚きのあまり、呆然と目を見開く紫覧に、響威は顔を赤らめてうつむく。
 「・・・誰にも言わないでくださいね・・・」
 か細い声でもう一度呟くと、響威はそっと足を忍ばせて、ある一室の扉の前で立ち止まった。
 「ここですね?」
 彼女の問いに、呆然としていた紫覧は我に返り、慌てて側に寄って静かに扉を開けた。
 見つかった時にはすぐに逃げられるよう、完全には閉めずに二人は、部屋の奥の壁際までそっと忍び寄った。
 壁に耳を寄せると、風を操る彼らですら聞き取れないほどの低い声で、ぼそぼそと呟く声がする。
 『―――― 聞こえねェな』
 『ずいぶんと警戒されているようですね』
 互いの耳にのみ声を送って会話する。
 気配を悟られないように、用心深く壁に耳を当てた。しかし、やはりよく聞こえない。
 『これ、使ってみません?』
 『を!ありがとよっ!』
 差し出されたグラスを何気なく受け取って、紫覧はぎょっと目を剥いた。
 『あなたはっ?!』
 同じく息を飲む響威に、可憐な容姿の少女はにこりと笑って見せた。
 『哩韻です』
 名乗るや、少女は二人がしていたように壁に身を寄せる。
 『・・・いやー・・・。おっさんといいぼうやといい、かわいらしくなるもんだなァ』
 『あなたは相変わらず道化のようですね』
 『なんだって、ボク・・・?』
 『―――― 静かに!聞こえない!』
 喧嘩を始めた二人を一言で制して、響威は改めて壁に身を寄せた。二人も、とりあえずは互いに矛を収めて、響威にならった。


 風の長老たちに呼び出された部屋に赴いた無幾は、広い部屋の中を飄々と巡る風の中心に立ち、腕を組んだ。
 「何の用だ」
 彼の鋭い眼光に、騒いでいた風達が一瞬静まる。
 『王よ・・・』
 『無幾王よ・・・』
 『あなたではない・・・』
 『我らが呼んだのは貴方ではない・・・』
 姿を持たない者達の声が、飄々とふたたび騒ぎだす。
 「誰を呼んだと言うのだ」
 不快げに眉を寄せる無幾に、声達は言った。
 『巽依王だ』
 『公主の乳母』
 『巽依王・・・』
 『巽依王がふさわしい』
 しかし、無幾はこの申し出をきっぱりと断った。
 「巽依は公主の御前にのみ現れる。お前たちに呼び出される女ではない」
 だが、声達は気が触れたように巽依の名を叫ぶ。
 「黙れ!」
 王の一喝に、さすがの風達も声を失った。
 「私は風精王の主人格だ!まずは私を通せ!」
 王の言葉に、風達は相談しあうようにざわざわとざわめいた。
 やがて、
 『陛下が・・・』
 『湟帝陛下のお怒りに触れた・・・』
 おそるおそる、風達は話し始める。
 『澪瑶公主・・・』
 『瀏(リュウ)家の公主を護れなかった風精王の・・・』
 『免職・・・』
 『剥奪・・・』
 『廃立・・・』
 重い声に、無幾は微かに眉を上げたのみで何も言わない。
 『逃れる道は一つ』
 『巽依王』
 『巽依王が・・・』
 『妃に』
 『陛下の妃に・・・』
 『翊(ヨク)家の風』
 『翊妃(ヨクヒ)の名を賜る・・・!』
 「断る」
 縋るように彼の周りに集まる風を、無幾は一顧だにせず切り捨てた。
 「私は西方将軍として精霊王の位を賜った。今更北の離宮なぞにはいれようか!」
 だが、風達はなおも取り縋る。
 『お受けに・・・!』
 『お受けくだされ・・・!』
 『妃にならねば』
 『地に堕とされる・・・!』
 『風精の力もなく・・・』
 『人間に堕とされる・・・!!』
 『王!』
 『王よ!!』
 『王よ!!!』
 必死に取り縋る彼らを、しかし、無幾は冷たく見遣った。
 「堕としたければ堕とすがいい。私は淘妃の二の舞はごめんだ」
 『それは王の総意か?!』
 『他の王はそれでいいのか?!』
 「無論」
 取り縋る風達を冷たく振り払って、無幾は断言した。
 「王の中の王の言葉だ。誰にも異論はない」
 『王!!』
 もう用はないとばかりに、無幾は完全に彼らを無視して部屋を出た。
 「王よ!!」
 誰もいなかったはずの回廊でいきなり呼び止められて、無幾は歩みを止めた。
 「に・・・人間に堕とされるなんて!!なぜ抗議しないんですか!!」
 真っ先に駆け寄ってきた少女をしばし見つめて、無幾は『哩韻か』と呟いた。
 「響威、紫覧。お前達のそんな姿をみるのは初めてだな」
 「王!」
 話をはぐらかす無幾に、響威がいらだたしげに叫んだ。
 「あなたは抗議すべきです!妃にならぬなら人間に堕とすなど・・・納得できかねます!」
 元の大男の姿に戻り、勢いよく詰め寄る響威に、しかし、無幾は大したことでもないと言わんばかりにさらりと彼らに背を向けた。
 「西の守りはお前達に任せるぞ。決して敵の侵入を許すな」
 「待ちな、王様」
 彼らを置いて去ろうとする無幾を、紫覧が呼びとめた。
 「あんたはそれでいいんだろうがさ、俺たちはどうなんのよ。生憎俺はひねくれもんでね。あんた以外の精霊の命令なんか、聞きたかねぇんだな」
 「ならば、勝手にするがいい」
 振り返りもせず言い放つ無幾に、かっとして詰め寄ろうとした紫覧を、響威が寸前で止めた。
 「放せおっさん!!この野郎、一発殴らせやがれ!!!」
 一族の王とはいえ、同じ風精である。身分が近ければ自然と気安くなる。
 「―――― 公主を護ると誓っておきながら、むざむざとさらわれた挙句、自身まで封じられた。私にはもう、王位はふさわしくあるまい」
 「王・・・無幾!!」
 「無幾様・・・!!」
 紫覧の絶叫も、哩韻の懇願も聞こえぬかのように、無幾は彼らを置き去りにして西の宮を後にした。


 「族殺(ぞくさつ)致しましてございます」
 未だ興奮気味の水精の報告に軽く頷いて、公主は高座から立ち上がった。
 「環った水は、全て地に使いなさい。そして――――」
 公主は、高座からまだ首のつながっている者達の死体を眺めて、中から若い男の身体を選び出した。
 「あれが良さそうだわ。華綾」
 髪からガラス細工のような薔薇を引き抜き、高座の壇上に下ろす。
 「玉華泉のカナタ殿に持って行って上げなさいな」
 青年の姿に戻った華綾は、公主に一礼して段を降り、男の身体を抱き上げると、そのままものも言わずに酸鼻(さんぴ)極まる部屋を後にした。
 「後はきれいにしておいてちょうだい」
 傲慢に言い放つと、公主は高座から降りて部屋を出た。
 そこで輿に乗り、その後には数人の女精霊たちが従う。彼女らは、公主の身辺の世話をする女官たちである。
 その、氷のように白い面々には、むごたらしい光景を見た後の、恐怖も悲しみもなく、人形のようにうっすらと感情のない笑みを浮かべていた。
 華やかな行列は長い回廊を延々と渡って、やがて最奥の、最も美しい部屋の前でとまった。
 公主が差し出された手を取り、ゆったりと輿から降りると、部屋の扉が内側に向かって開き、中の女官達が恭しく迎え入れる。
 落ち着いた青で統一された室内は、壁泉の流れる清かな音と花の香りに包まれ、以前出た時と代わりなく、整然と整えられていた。
 「・・・もういいわ」
 部屋着に着替えさせると、公主は女達に手を閃かせた。
 「皆、出ておゆき」
 言うと、女官たちは恭しく一礼して、川のせせらぎのような衣擦れの音をさせて出て行った。
 そして、全ての気配が消えるまで、じっと気を尖らせていた公主は、彼らが声の届かない所まで行ったとわかるや、糸の切れた人形のように床にくずおれた。
 顔を覆った指の隙間から、とめどなく涙が流れ落ちる。
 ―――― 怖い
 視線が、常に注がれている。
 ―――― 怖い
 珠玉に、瑕があることは許されない。
 ―――― 私を見ないで
 首を落された者達の目。目。目。
 恨みを込めて睨むあの目が――――。
 ―――― 怖い!!
 はっと、視線を感じて公主は顔を上げた。
 ―――― 誰もいないはず・・・。
 震える身体を抱きしめて、おそるおそる見遣った先に、濃紺の瞳を見つけて、公主は喉に声を詰まらせた。
 ―――― 見られた!あの女に・・・私の姿を・・・!
 だが、怯え、壁際まで逃げた瞳の先で、女も同じく怯えて後ずさっていく・・・。
 その姿を、鏡に映った自身と知って、公主は激しく胸を上下させながらも安堵の息をついた。
 そのまま膝を抱き、うずくまって泣いていると、ぱたりと軽い音がして、何かが彼女の傍らに落ちた。
 何気なくそれを見遣った公主は、緑の瞳と目があい、引き攣った悲鳴をあげた。
 手に触れるを幸い、あたりかまわず投げ散らし、恐慌状態で続き部屋に逃げ込んだ公主は、その途端、色とりどりの瞳にさらされて、再び悲鳴をあげた。
 「見ないで!!私を見ないで!!」
 公主の恐怖に呼応するようにたちまち室内は凍り、突如の冷気に耐えかねた物たちが、はかない音をたてて割れていった。
 その音にすら恐怖は増し、喉が裂けるほどに声を上げる。
 それは、壁泉の音に阻まれ、部屋の外に漏れることはなかったが、床から沸き上がってくるすさまじい冷気に、別れの挨拶をと清兌殿(せいえいでん)を訪れた巽依は驚いた。
 「公主?!」
 ただならぬ気配に扉を開けた巽依は、凍り、破片の散乱した室内に目を見張り、その隅でうずくまり、怯えている公主に駆け寄った。
 「公主!どうされました?!」
 巽依が包み込むようにその背を抱いてやると、公主は震える指で部屋の奥を指し示した。
 「見てる・・・皆が私を見ているの・・・」
 気の毒なほどに怯える公主の背をなだめながら、巽依が見遣った先には、いくつもの人形が、なめらかな磁器の肌に幾本もの亀裂を入れて、毛足の長い絨毯の上に転がっていた。
 「公主、貴女が可愛がってらした人形ではございませんか・・・」
 「見てたの!私を見て・・・私を監視しているの・・・!」
 うわごとのように何度も何度も呟く公主を、巽依は憐れみを込めた眼差しで見つめた。
 彼女はここに来るまでに、公主が何をしたのかを見てきた。
 武将ではない彼女は、自身の一言で、こうも簡単に命が奪われるものなのだと知って、どれほど怯えた事だろう。
 案の定、ありもしない幻に惑わされ、他愛のない事にすら過剰に恐怖している。
 この状態のまま、置いていきたくはないが、湟帝の命に逆らう事は許されない。
 巽依は、しばらく抱いてやって公主を落ち着かせると、穏やかな声音であやすように別れを切り出した。
 「・・・うそ」
 未だ涙に濡れる瞳で、呆然と巽依を見上げて、公主は呟いた。
 「どうして・・・!!」
 胸元に縋りつく公主手を優しく包み込み、巽依は悲しげに笑った。
 「わたくしは、あなたをお守りできませんでしたから。
 湟帝陛下は、風精王の地位までは剥奪されようとはなさいませんでしたが、王たちは、将軍職を奪われるのならば王たる資格はないと、陛下にお暇を頂きました」
 妃の事には触れずに、巽依は公主の手をさりげなく引き離す。
 「でも・・・涼巽宮にはいるのでしょう?お別れだなんて・・・」
 「いえ。風精としての能力(ちから)も全てお返し致しますので、こちらにはもういられません。
 地上で、人間として暮らそうと思います」
 努めて明るく微笑んで、巽依は公主から身体を離した。
 「わたくしの、澪瑶公主。どうぞ、お健やかに」
 立ち上り、優雅に一礼する。
 「巽依・・・!」
 引き止めようとする手から、逃げるように目を逸らして、巽依は公主の、冷え切った部屋を出た。


 「・・・・・・さすがは湟帝陛下」
 後ろ手に閉めた扉にもたれて、無幾は吐息を漏らした。
 「私が、これほど心乱されたのは初めてだ」
 蒼白い瞳は、どうにか落ち着きを取り戻しつつあったが、彼の中に封じられた他の人格たちは、嘆き、悲しみ、盛んに荒れ狂っていた。
 湟帝は、巽依の存在を知って以来、公主という枷によって、風精王という大鳥を繋ぎ止めた。
 おそらく、淘妃の代わりに御子を産める女として必要だったのだ。
 ならば今度の失態がなくとも、遅かれ早かれこの様な事態になることは決まっていたに違いない。
 「・・・だが、私がここまで公主を愛してしまうとは予想外だったわけだ。陛下にとっても、私にとっても」
 湟帝が望んでいるのは、二人の姉兄を凌ぐ三珠一の権力(ちから)。
 そのために、自身の血を引く御子を王に据え、他の精霊王たちをその前に跪かせようとしているのだ。
 公主が太子に惹かれるのを黙認し、太子を自身に刃向かわせたのも、この世界の御子を公主一人にする為。
 ―――― 惶帝自身に、太子を封じさせる為だ。
 冷静になればこれ程よく見えるというのに、公主は他の人格だけでなく、無幾の、冷徹な瞳すら曇らせてしまった。
 不敗の彼が最も恐れるのは、自身の冷静な判断を狂わせる者の存在である。
 人間に堕とすという、湟帝の脅迫を甘んじて受けたのも、一時、自身を脅かす存在から離れ、再び風精王に返り咲いた時には今まで通りの、冷静な将でありたいからだった。
 そう、彼は、湟帝がいずれ必ず彼を西方将軍に復職させるであろうと確信している。
 いかなる失態があろうと、自身にそれを補えるだけの実力がある事を知っているのだ。
 「そう、長いことではあるまい」
 せいぜい数百年のこと。
 完全に元の冷静さを取り戻した彼は、別れを惜しむ気配もなく、渺茫宮から、北海から姿を消した。


 一人、部屋に残された澪瑶公主は、しばし呆然と巽依の去った方向を見つめていた。
 やがて、我に返ると共に落ち着きも取り戻した彼女は、無残に散らばった人形達を肩越しに見遣った。
 仰向けに、うつ伏せに、様々に転がった人形たちは、色とりどりの目で一様にこちらを見ている。
 公主は無言で立ち上がり、人形達のかたわらに座り込むと、手近の一体を手にとってその眼窩に指を差し入れた。
 磁器の眼窩は薄く、鋭く尖って、公主の指を掻き切ったが、公主はかまわず人形の目を抉り出す。
 大粒の真珠に緑色の玉を象嵌された瞳は、年を経るごとに鈍く黄味を帯び、動物のそれであるかのような色合いになっている。
 公主はもう一方の眼窩からも目を抉り出すと、立ち上がって鏡台の上の宝石箱を手に取った。
 中の、色とりどりの装飾品を全て取り出し、青いビロードの敷かれた箱の中に二粒の真珠を転がす。そして箱を手にしたまま、人形の傍らに戻り、一つ、また一つと、彼らの目を抉っては宝石箱の中に入れていった。
 やがて、全ての人形から目を取り出してしまうと、公主は宝石箱に鍵をかけ、その小さな鍵は隣室の、壁泉の水を受ける水壇の飾り石の中に隠してしまった。
 そして、再び人形達の元に戻ってくると、彼らを元の場所―――― 寝台の傍らや飾り棚の上、鏡の前や長椅子の上など、元通りに並べてから、部屋の中心に立ち、見回した。
 金色の髪の少女は銀髪の少年と囁きあうように。鏡の前の少女たちは互いの衣装を自慢しあうように。物語を紡ぐように飾られた人形たちは全て、瞳を失っている。
 ぽっかりと空いた眼窩は、もはや誰の影も映す事はない。
 「―――― ほらね?」
 誰にともなく囁いて、公主は満足げに微笑んだ。
 「この方が素敵でしょう?」
 傷だらけの指を唇にあてて、くすくすと笑い出す。
 目を抉られても微笑を浮かべる人形たちに、つられて笑みがこぼれてしまう。
 ―――― 私も同じ、『神子』と言う名の人形。
 ―――― 愛してなんかいなかったくせに、私を産んで死んだ淘妃。
 ―――― 愛していると誤解して、私のために地位を失った風精王。
 ―――― 愛してなんかいないくせに、私を産ませたお父様。
 そして・・・。
 目の奥にちらりと映った影を、公主は闇の中に押し込めた。
 ―――― みんなみんな、自分だけを愛している。
 私はあなたたちの人形。
 ならば。
 目を抉られても、舌を抜かれても、手足をちぎられ心臓を抉り出されても。
 あなたたちに微笑みかけてあげるわ。


 酒盛り中の一宮に、華綾がカナタの『身体』を持って現れるや、美桜達は好奇心丸出しで『身体』を囲んだ。
 長い銀髪を持つ美しい青年は、白皙の整った顔に濃くまつげの影を落し、華奢な身体を長椅子に横たえている。
 「あんらー。またずいぶんといい男やね」
 「絶対に公主のご趣味だね。なんとなく顔つきが、太子に似てるじゃないか」
 「こんなにキラキラした髪は嫌だー!!」
 三人ともかなり酒が入っているためか、キンキンと金切り声で喚きたてる。
 「いいやんっ!きれいやんっ!」
 「って、俺のパーソナリティーは無視かよ、美桃ちゃん!!」
 「整形したと思えばいいさね、このくらい」
 笑声を交えながら怒鳴りあう彼らの感情に、ついて行こうという努力すらせず、華綾はそっけなく『身体』を指差した。
 「早く入らなければ溶ける」
 「溶ける?」
 ぼんやりと聞き返すカナタに、華綾はあっさりと頷いた。
 「水に環ってしまう」
 その一言に、美桜と美桃は一瞬にして凍りついた。
 「か・・・環るて・・・・・・・・」
 「まさか・・・水精・・・なのかい、その身体は・・・?」
 どもる二人に、華綾はまたしてもあっさりと頷いた。
 「カナタさん!!!はよぅ入るんや!!!」
 「なんって礼をしてくれるんだいっ!カナタさんっ!!早くおしっ!!」
 女二人に突き飛ばされ、押し倒されて、カナタは長椅子の上に横たわる『身体』に押し付けられた。
 「なにすんだっ!!」
 反射的に閉じた目を開けようとしたが、瞼はずっしりと重く張り付いて開こうとしない。その上、全身が硬く強張って、指一本動かせなかった。
 『か・・・金縛りが―――――っ!』
 心中で絶叫していると、すっと頭が持ち上がり、柔らかいものが頭の下に敷かれた。ひんやりとした手が額に置かれ、段々と全身の硬直が解けていく。
 「・・・ったく、一気に酔いがさめちまったよ」
 やや呆然とした声は美桜のもの。彼女がカナタに、膝を貸してくれているらしい。
 「カナタさんカナタさんっ!はよぅ目ぇ開けてぇ」
 傍らで美桃がはしゃぐ気配がするが、それに応えることも出来ない。
 「おやめ、美桃。久しぶりに身体の中に入っちまったんだ。しばらくは動けやしないよ」
 「えぇ〜!水精の目なんやから、絶対きれいやのにぃ。はーよあーけてっ♪」
 歌いながらカナタの頬を、柔らかくつつく。
 「ところで華綾、アンタしばらくいるのかい?」
 聞きようによっては『早く帰れ』とも取れる言葉に、華綾は気にする様子もなく頷いた。
 「伝えれば戻る」
 何を、とは言わずカナタを指差す。
 「ったく、生真面目だねェ」
 美桜は思わず吹き出した。
 『拝礼できぬ者に公主の言葉は伝えられない』と、この薔薇は言うのだ。
 「カナタさん、拝礼の仕方、知ってるかい?」
 ようやく目が開いたカナタは、自分に覆い被さるようにして笑む美桜を見上げて、なんのことだと目で問うた。。
 「きゃぁぁっ!やっぱきれいやわー!!!」
 傍らから美桃が、カナタの瞳を覗き込む。それがいきなり消えたかと思うと、自分の顔よりも二周りほど大きな鏡を持ってきて、横たわるカナタが見える位置にかざした。
 そこに映るのは、先ほど三人で取り囲み、騒ぎ立てた顔。
 長いまつげで縁取られた瞳は、海のように深い青――――。
 「・・・・・・・・・・・・・・誰だよ」
 投げやりに呟いた声も、聞き覚えのないものだった。
 「気に入らないかい?」
 くすくすと笑う美桜を見上げて、不満げに眉を寄せる。
 「厚化粧したみたいだ」
 自分の顔にうっとりする趣味はないが、二十一年間慣れ親しんだ顔がいきなり美しく変わるのは、醜くなるよりも違和感があった。
 「今だけさ。この身体の主はアンタなんだから、アンタが望む顔に変わっていくはずだよ」
 それが器によって形を変える水の特徴だと、美桜は笑った。
 「でも、目の色だけはこのままにしておかん?せっかくきれいな色なんやしぃ」
 残念そうに言う美桃に、カナタは苦笑する。
 「そうだな。美桃ちゃんにはいろいろ助けてもらったし、カラーコンタクトを入れたんだと思えば、そう違和感はないか」
 それに、青と言っても空のような明るい青さではなく、サファイアのような深い青である。暗い所で見れば、今までと同じ色にみえるだろう。
 「カナタさん、ホントに小さい子には優しいなぁ!」
 嬉ししそうにはしゃぐ美桃に、カナタは『そうかもしれない』と頷いた。
 考えて見ると、以前から親戚や近所の子供たちにはよくモテたし、一緒に遊んでいるうちに、自然と子供の扱い方に慣れてしまったのかもしれない。
 「小さい子と言えば、依坤は・・・」
 呟いた時だった。
 がたがたと卓上の酒器が震え出し、地面が激しく揺れ始める。
 「地震っ?!」
 「そんなわけあるかい!」
 カナタの言葉をすかさず否定して、美桜は彼を抱き起こした。
 「悪いね、ちょっと行ってくるよ!」
 力なく倒れそうになるカナタの身体を美桃に預け、庭に面した大窓から飛び出して行く。
 「どうしたんだ?」
 収まる気配もない揺れに不安を隠せないまま問うと、美桃も緑の瞳に不安げな色を浮かべてカナタを見上げた。
 「こんなことできるんは、依坤様だけやわ」
 「あの子が・・・?」
 カナタは、美桜が去った方向を見つめた。
 「華綾!すまないが、俺をあの子の所へ連れて行ってくれないか?!」
 だが、彼は聞こえなかったかのように知らぬ顔でたたずんでいる。
 「無視すんなっつってんだろ、お前はっ!」
 カナタは、この身体をくれた水精ならば、絶対に言わなかったであろう乱暴な口調で華綾を怒鳴った。
 「連れてってくれなきゃ、意地でも拝礼なんかしないからなっ!公主の元に戻れないまんま、ここで枯れちまえっ!」
 こんな脅しが通用するのか、ほとんど賭けだったが、『公主の元に戻れない』という一言が効いたのか、華綾はその華奢な姿態からは想像しがたい膂力(りょりょく)で、軽々とカナタを抱き上げた。
 「よし!行ってくれ!」
 実年齢はともかく、外見は自分と同年齢の男である。カナタは遠慮なく美桜の消えた先を示した。
 「・・・元気やねェ、アンタの旦那さん」
 呆れるともからかうともつかない口調で、美桃はぼんやりとカナタの去った方角を見遣る麗華に言う。
 「追いかけた方がいいんやないの?アンタ、公主のお怒り買ったんやろ?ここにおっても危ないやん」
 さっきまで水精の・・・カナタの身体が横たわっていた長椅子に寝そべり、不安げな麗華を見上げる。
 「アンタが嫌やないんやったら、あの人の側にいた方がいいと思う。あの人は、今や公主と風精王が手出しせん、唯一の人間やもの」
 まっすぐに見つめてくる美桃に、麗華はわずかに笑みを浮かべ、深々とこうべを垂れた。
 「気ィつけて。たまにはかえっといで」
 美桃は勢いをつけて起き上がると、稚けない顔に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、部屋を出る麗華の背に手を振った。


 玉華泉から湧き上がる水の流れに近い一宮で、昏々と眠る依坤の傍らに控えていた樹李は、砂が擦れるような音を発していた彼の呼吸が、湿った土の上を渡る風のような滑らかさを取り戻したことに気づいて、胸の前で組み合わせた指に力を込めた。
 無残にもげ落ちたはずの左腕が、薄い上掛けをふっくらと押し上げていく。
 「ああ・・・澪瑶公主・・・!」
 感謝を込めて主人を救ってくれた神子の名を呼ぶ。
 その間にも、砂のようにざらざらとしていた肌が滑らかさを取り戻して行った。
 「依坤様・・・依坤様・・・!」
 名を呼びながら樹李は、依坤を覆う上掛けの下から、もうもげ落ちることはない彼の腕を取り出し、握り締めた。
 樹李の声に、手を包む暖かさに、導かれるようにして彼の瞼が震える。
 「依坤様!」
 歓喜に震える声の方へ、依坤は深い翠の瞳を向けた。
 未だ意識が醒めないのか、緩慢に瞬きを繰り返しながら、ぼんやりと傍らにいるものの姿を眺める。
 「おわかりになりますか?樹李です!!」
 涙混じりの声で訴える少女を、見ているのかいないのか、依坤はぼんやりと眺めつづける。
 やがて、疲れたように再び瞼を閉じた依坤の目は、乾いた瞳を潤すようにじっと動かなかった。
 「・・・依坤様?」
 気遣わしげに声をかける樹李の手を強く握り返して、依坤は覚醒の光が灯った瞳を開けた。
 「わしはどのくらい封じられておった?」
 図らずも、公主と同じ問いを突きつけて、依坤は瞳に力を込めた。
 「・・・・・・百年ほど・・・です・・・・・・」
 おどおどと答える樹李の手を強く引き、依坤は勢いをつけて起き上がった。
 「依・・・依坤様・・・!」
 「地はどうなった?!琅環(ろうかん)の・・・珂瑛(かえい)もじゃ!!わしが封じられておった間、どうなった?!」
 王の強い瞳に射られて、樹李はごまかすなど思うこともできず、琅環の惨状をありのまま伝えた。
 「なんということか・・・!」
 寝台の上にがくりと手をつき、小さな身体を震わせる。
 「わしは・・・母皇陛下になんとお詫びを・・・」
 太子の仕打ちではなく、自身が囚われたことによって母皇を汚してしまったことに対して、依坤は激しく憤っていた。
 「依坤様!まだいけません!!」
 上掛けを払って寝台から降りようとする依坤を、樹李は必死で引き止める。
 「放せ。わしは母皇陛下の元へ参らねばならん」
 縋りつく樹李を軽く押しのけて、依坤は庭に面した大窓を開けた。川を渡る柔らかな風が、方々から花の香りを運び、病み上がりの彼の身体を優しくくるんだ。
 依坤は窓辺で一息つくと、なぜか纏っていた大きな上着をいぶかしげに脱ぎ捨て、庭に降りる階段に足をおろした。
 一足ごとに沓(くつ)が、服が、マントが、金銀宝玉が彼の身を覆い、その足が土の上に降りる頃には、威風あたりを払う地の王の姿が現れた。
 途端、地面が津波のように揺れ、彼に向かって一斉に襲い掛かる。
 冥府でもがき苦しむ地精達のように、王の力を取り込んで、少しでも飢えを癒そうとする地霊の群れだった。
 「依坤様っ!!」
 身を盾にしようとする樹李を押し退け、背後にかばって依坤は地霊を激しく睨む。
 「静まらんかっ!!」
 王の一喝に気を呑まれ、土の矛は彼に触れるまでもなくぼろぼろと崩れ落ちていった。
 「馬鹿どもが!血迷いおったか!!」
 更なる怒声に地は、怯えたように震えつづける。
 依坤はその、波のように揺れつづける地の上を、よろめきもせず歩んでいった。
 「地精王!」 
 傲慢に見遣った先に木精王の姿を認めて、依坤は軽く鼻を鳴らした。
 「玉華泉か。道理で地霊が多いはずじゃ」
 精霊と呼ばれる者達には格があり、人格を持つ者を『精』、持たぬ者を『霊』と呼ぶ。
 この玉華泉は木精の支配地なので、木精以外の『精』はいない。代わりに、多くの地霊や水霊がこの地を潤しているのだ。
 「地精王、お怪我は・・・」
 「あるか!」
 気遣わしげに言う美桜へ傲慢に言い放って、依坤は胸を反らした。
 「地霊ごとき捨て置け!それよりもはよう、わしを外に出さんか!」
 「ですが、地精王はやっと起きられたばかりでございます。もう少々お休み下さいますよう・・・」
 「黙れ!」
 樹李への鋭い一喝に、未だ揺れ続けていた地面が怯えたように止まった。
 「させぬというなら押し通る!どけ!」
 「まだ無理でございます!」
 王の剣幕に、さすがの美桜も一人では扱いかねて、集まってきた木精達と共に袖に縋って引き止める。
 「・・・何の騒ぎだ?」
 そんな時、のこのこ現れてしまったカナタに、依坤は鋭い視線を投げた。
 「おぬし!わしと一緒に来い!」
 「は?」
 出会い頭に指差され、目を丸くしたカナタは、
 「あ、ああ、こいつ?」
 彼をここまで運んでくれた華綾を差した。
 「おぬしだ、おぬし!水精と一緒なら、誰も文句は言わん!」
 眠っていた時の顔からは、想像もつかないほどの傲慢な態度に、カナタは『水精じゃない』と言うのも忘れて、唖然と小皇帝を見た。
 「はよう来い!!」
 華綾に支えられて、ようやく地に足を下ろしたばかりだった所をものすごい力で腕を引かれ、カナタはたたらを踏む事もできずに地に転がった。
 「何するん・・・!」
 「何をしておるのだ!!」
 カナタの抗議のを遮って、依坤は激しく怒鳴りつける。
 「わしが来いといったらさっさと来んか!!」
 あまりにも理不尽な物言い。
 カナタが思わずその頭をはたくと、周りの木精達がいっせいに悲鳴を上げた。
 「なにを・・・っ!!」
 「わがままを言うんじゃないっ!」
 カナタの怒声に、依坤は思わず息を呑んだ。
 「美桜達が心配しているのがわからないのか!」
 「・・・無礼な・・・!」
 依坤は呆然と呟いた。
 精霊の長老として尊崇を集める彼に、手を上げ、声を荒げる者などいてよいはずがないのだ。
 「誰じゃおぬし!!」
 激昂する依坤の袖が、軽く引かれた。
 「依坤様、カナタ殿でございます」
 「誰じゃと?!」
 「あなた様をお助けした方ですよ」
 彼らを追ってきた麗華の言葉に、依坤は口を閉ざす。
 無言のまま、じっと翠の瞳を向けられて、カナタはこの子供の目の色を初めて見たことに気がついた。
 「―――― この水精がか?」
 やがて、口を開いた彼は、相変わらずの傲慢さで胸を反らした。
 「いえ。カナタ殿は水精ではあられませぬ。この身体は先ほど、澪瑶公主より感謝の印として賜ったものでございますから」
 「感謝?公主が?」
 「はい。公主も風精王も、そしてわたくしも、この方にお助けいただきましたので」
 いぶかしげな依坤に、麗華は微笑みかける。
 「では、水精なのは見かけだけか。中身は何だ?魔物か?」
 助けて貰ったと知っても、彼の態度にはいささかの変化もない。
 「人間だよ。異界のね」
 生意気な子供に、かなり頭に来たカナタは、気力を総動員して立ち上がると、はるか上から依坤を見下ろした。
 そんな彼に、気性の激しい依坤が激怒しないわけがない。
 「ただの人間が、このわしに手を上げたというのか?!」
 「必要ならもっとやるよ。まずは美桜達に謝ってお礼を言いなさい」
 その時の依坤の顔は見物だったと、後に美桜は語った。
 眦(まなじり)をとがらせ、顔を赤く染めて、この無礼な男を睨みつけた依坤は、怒りのあまり荒く息をついた。
 「異人であろうが、このわしをないがしろにする事は許さん!そこへなおれ!!」
 「やだね」
 言下に断るカナタに、木精の中には心痛に耐えられず、倒れる者も出たという。
 依坤の怒りに引かれて、一度は収まった地が、再び激しく揺れ始めた。
 「依・・・依坤様、落ち着いて・・・!」
 美桜が慌てふためいて、強く依坤の袖を引く。
 「そのようにお怒りになっては、母皇陛下より賜りましたこの地が壊れてしまいます!!」
 『母皇』の名の効果は絶大で、依坤はたちまち地を収めた。
 「―――― 美桜!」
 憮然とした声に美桜は、強く握りすぎて強張った手を、依坤の袖からぎこちなく引き剥がした。
 「ここに居ればおぬしらに迷惑がかかろう。わしは母皇陛下の元へ参る」
 否やと言わせぬ口調に、美桜は渋い表情ながらも頷いた。
 「ですが、お体がまだ万全ではあられません。どうぞ、誰か供の者をお付けください」
 「そうは言うが・・・」
 依坤は周りを見回した。
 「玉華泉の水霊を連れてはおぬしらが困るだろう」
 今の彼を癒せるものは、水だけである。
 「・・・・・・水精がいいのですか?」
 そこへ、唐突に尋ねるものがいた。
 「今まで話を聞いておらんかったのか!」
 どなりつつ見やった先に華綾の姿を認めて、依坤は鼻を鳴らした。
 「おぬし、おるならおるで存在を主張せいよ!!!」
 ・・・何があっても気に入らない性格であるらしい。
 依坤の、激しくわめきたてる様を見下ろして、カナタは従兄妹の家のポメラニアンを思い出した。
 小さいくせに気性が激しく、何が気に入らないのか盛んに吠えかかる。
 「そんなに怒るなよ、メリー」
 「誰だそれはっ!!」
 頭を軽くなでてやると、さらに激しく吠えかかってきた。
 美桜は、『せっかく鎮火したものを!』と、恨みがましく睨んできたが、これはこれで面白い。
 「華綾が心当たりがあるって言ってるんだし、聞いてやれよ」
 「おのれっ!誰が馴れ馴れしく口を利いてよいと言うたか!!」
 同じことを言われても、巽依と違い、外見は十歳くらいの子供である。
 『はいはい』と笑いながら気安く頭をなでてやると、また木精達の数人が、顔色を失って倒れた。
 「そんなおおげさな」
 「アンタが無神経過ぎるんだよっ!」
 依坤の頭を撫で続けるカナタの手を、美桜は慌てて掴み取る。
 「申し訳ございません、依坤様。なにしろこちらのことを存じませんので・・・」
 あたふたと詫びる美桜に厳しい一瞥を送って、依坤は華綾を振り仰いだ。
 「おぬしも話を聞いて欲しいのならば、それらしい素振りをみせんかっ!!」
 完全に八つ当たりである。
 だが、華綾は物事に動じない―――― 麗華に言わせれば、『感情がない』という事らしいが―――― 性格らしい。こくりと頷くと、カナタを指差した。
 「彼が」
 「人間だろうが、これは」
 即、返された言葉に、華綾はしばらく沈黙した後に、こくんと頷いた。
 「わしにわかるように話さんか!!」
 『みんなに』ではなく『わしに』な辺り、この精霊の性格をよく表しているといえる。
 「公主から賜りました」
 「身体だけであろうが!」
 「能力(ちから)もです」
 華綾の言葉に、依坤はカナタを仰ぎ見た。
 「ほう・・・ずいぶんと大盤振る舞いしたものだのう。それで?どこまで許されておるのだ?」
 「どこって?」
 問い返すカナタを、華綾は見返すばかりで答えようとしない。
 「おぬし、跪け」
 華綾の沈黙の意味を理解した依坤が、強くカナタの腕を引いた。
 「いいけど?」
 しゃがんで依坤の目線に合わせたカナタは、依坤に思いっきり頬をつねられた。
 「なにすんだっ!」
 カナタは再び、小気味良い音をさせて依坤の頭をはたく。
 「このたわけっ!!!拝礼をせんかと言っておるのだ!この物知らずがっ!!」
 「だったらそういやいいだろっ!このめんどくさがりっ!」
 怒鳴りあい、互いの手をかいくぐっては反撃する様は、まるで猫の喧嘩。
 「ああ、もうっ!いい加減におしっ!!」
 我慢も限界をきった美桜の怒声に、激しい攻防を繰り広げていた二人の手が止まった。
 「左膝をつく!!」
 カナタは慌てて、言われるままに片膝を地についた。
 「右手を左胸に当て、左腕は脇に沿わせ、軽く握って地につける!背筋を伸ばしてあごを引き、そのまま前に上身を倒す!」
 カナタにとっては初めての姿勢であったが、身体の元の主はこの様な姿勢に慣れていたらしい。骨や筋肉が変に軋む事もなく、美桜の要望を見事にかなえて見せた。
 「澪瑶公主よりお言葉を賜る」
 何も騒ぎなどなかったとばかりに、華綾は跪き、こうべを垂れるカナタの前に立った。
 「カナタ殿に感謝を込め、水精の身体とその能力を賜る。以後、生きる物が負うべきすべての苦痛から解放する」
 こうべを垂れたカナタの耳に、木精達が息を呑む気配がした。
 「更に、風精王よりお言葉を賜る。
 以後、聞こえぬもの、見えぬものはない」
 ざわ、と木精達がざわめいた。
 水精の身体に風精の能力(ちから)。異人ごときが過ぎた力を手に入れたものだと、羨望と嫉妬の入り混じったざわめきだった。
 だが、誰も声に出して不満をとなえる者はいない。
 「カナタ、『ありがたくお受け致します』と」
 美桜の囁きをそのまま復唱し、顔を上げる。
 「―――― もしかして今、ものすごいもの貰っちまった・・・?」
 ぼんやりと美桜を見上げるカナタに、彼女は苦笑して頷いた。
 「言ったろう?アンタが望む以上のものをくれるだろうって」
 「ふん。子供に高価な玩具を与えても、活かしきれずに壊すだけじゃ」
 しかし依坤は、遠慮なく痛烈な言葉を投げる。
 「だが、二人の王が礼をしたと言うのに、わしだけ何もせぬのは面目が立たんわ」
 立ち上がろうとしたカナタを押しとどめ、手を払って華綾をどかせた。
 「無知で無礼な異人だが、わしを救った事は認めよう。礼として、お前がいずれ望むものを与える」
 依坤は拝礼するカナタの前に立ち、傲然と彼を見下ろした。
 「お前が心より死を望んだ時、珂瑛に迎えてやろう」
 カナタは思わず顔を上げ、木精達は驚愕の声を上げた。
 「どうした?受け取るがいい」
 「そんな・・・」
 呆然とするカナタに、依坤は晴れやかな笑みを向けた。
 「公主によって、おぬしは常人よりも長い生を与えられた。それに倦んだ時、珂瑛に眠ることを許すと言うておるのじゃ。なにも今すぐ死ねとはいうておらんわ!」 
 「・・・カナタ、お受けな」
 しばらく考え込んでいた美桜も、そう勧める。
 「ただ漠然と永い時を生きるのは、思う以上に辛いもんだよ。生命をくれた水精王もありがたい、死を約束してくれた地精王もまたありがたい。そうじゃないかい?」
 しばしの沈黙の後、カナタは伏せていた顔を上げた。
 「ありがたく、お受けする」
 苦笑するカナタを、依坤は鼻で笑う。
 「欲深い人間じゃ。元の世界で生きても、せいぜい百年の命じゃろうに。それに数倍する命を与えられて、まだ死を拒むか」
 「あんまりいじめたから、もう殺されるのかって思っちまったんだよ。さすがにそこまでケチじゃなかったみたいだな」
 ほっと笑いながら立ち上がろうとしたカナタは、いつの間にか長い銀髪を膝の下にしていたことに気づかず、思いっきり引っ張ってしまった。
 「いっっっっだ――――!!!」
 絶叫するカナタを、依坤はさも馬鹿にしたように見下した。
 「何を遊んでおるのじゃ。はよう行くぞ!母皇陛下の元まで供をせい」
 「マジいでぇ・・・・。せめてこの髪切って、もっと動きやすい服に着替えさせてくれよ・・・」
 両手で頭を抱えてうずくまるカナタに、依坤はいまいましげに舌を鳴らした。
 「なんと役に立たぬ男じゃ!
 おぬしら!さっさと切って、服を仕度せい!!」
 依坤が、主のように木精達に命じると、彼女らはわらわらとカナタを囲んだ。
 「どれほどにしましょうか?」
 「せっかくおきれいなのに、もったいない・・・」
 「どんな髪型がよろしくて?」
 ざわめきながらカナタの髪を梳いていく。
 「お召し物は?」
 「色はどのように・・・」
 「武人のような形でよろしいの?」
 色とりどりの衣服をもって来てはカナタにあてがう。
 ―――― こういうシーン、見たことある・・・。
 小鳥のようにさざめく木精達をわたわたと見回しながら、カナタは記憶を探った。
 ―――― あ、『プリティ・ウーマン』だ
 高級ブティックで、店員たちにちやほやされるジュリア・ロバーツ。そんなシーンを思い浮かべながらカナタは、黒っぽいズボンと生成りのシャツを取った。
 「では、服をお選びくださいな」
 「・・・?これでいいけど?」
 にっこりと微笑んできた木精に言うと、彼女は目を丸くして絶句した。
 「下着で歩かれるなど、非常識にもほどがありますわ!」
 別の木精に怒鳴られて、カナタは手に取った衣服を見つめた。
 柔らかい布地のズボンに、Tシャツに似た生成りの服。元いた世界では、普通に着て歩いていた物である。
 「・・・下着?」
 「ちゃんと上衣を着ていただいて、上着を着けていただいて、マントを羽織っていただかなくては!」
 ほら!と彼女が示した先では、依坤がさらにずるずるした衣装を着て平然と立っている。
 「それじゃ、今着てるのと変わらないじゃないか」
 意義を申し立てると、周りの木精達は激しくかぶりを振った。
 「今着てらっしゃるのは文官の衣装でございます!」
 どう違うのかと問うと、文官の衣装は、依坤が着ているもののように、薄い和服のような衣装を何枚も重ねて、微妙なかさねの色合いと透かし織りの綾で美しさを競うものだと言う。そう言われて見ると確かに、カナタの纏う衣装も、足元まできっちりと覆われて、歩幅が制限されている。
 「でも、無幾はもっと動きやすそうだったぜ?」
 たっぷりと襞を取った薄布の衣装は、いかにも風の王らしく軽やかだった。
 「風精には風精に、水精には水精にふさわしい衣装と言うものがあるんだよ。文句を言わずに着るんだね!」
 たまらず噴出した美桜に、民族服のようなものかと問うと、彼女は軽く首を傾げた。
 「たとえば火精に、普通の布がまとえるとお思いかい?風精が服が邪魔で飛べないなんて、お笑い種だろ?そう言うもんさ」
 「そう言うもんか・・・」
 郷に入れば郷に従えと言う。
 抵抗をやめたカナタが木精達から解放された時には、立派な水精になっていた。
 「これをご覧になったら、公主も御満足されるであろうよ」
 美桜は満足そうに頷いたが、
 「待ちくたびれたわ!はよう供をせい!!」
 やはり機嫌の悪い依坤は、一声怒鳴るや、くるりときびすを返してさっさと歩き出した。
 「お見送りいたします」
 にこりと微笑むと、美桜は依坤の先に立って、公主達を送った門とは別の門へと彼を導く。
 この地は、珂瑛の坎瓔宮のように高い塀に囲まれた城市で、三十六方角にある門は、珂瑛・瑰瓊・琅環の、いずれの地にもつながっていると言う。
 しかし、
 「いや。先に世界を見てまわろうと思う。南海への門を開けよ」
 飄山への門へと導こうとした美桜を、依坤は止めた。
 「・・・荒れておりますが」
 「それを見に行こうというておるのじゃ!つべこべ言わんと、さっさと案内せい!!」
 彼の癇癪は収まる気配もなく、美桜は苦笑して軽くこうべを垂れた。
 「玉華泉からは、薔族の麗華をお供させます。どうぞお気をつけて」
 南海へと続く門の外には、常緑の木々に囲まれた小道が続く。だが、その先にあるのはきっと、目を覆うばかりの荒野だろう。
 傲然と胸を反らし、見送る木精達に一瞥もくれずに行く依坤の後に、従者そのものの姿でついて行くカナタの腕を、そっと美桜が引いた。
 「依坤様の事は・・・」
 「ちゃんとおもりするよ。大丈夫」
 苦笑気味に笑うカナタに、美桜はあまり晴れやかとは言えない笑みを返す。
 「喧嘩などしないようにね」
 「それは自信ないかも・・・」
 思わず眉を寄せながら、カナタは地に落ちた自身の影を見下ろした。
 「でも、麗華もいるし。安心してお任せあれ」
 おどけるように笑って言うカナタに、門の外で依坤が怒り狂う。
 「はよう来いというておるのが分からんのかっ!!」
 地団太を踏んで絶叫する彼に、見送りに出た者達が一斉に首をすくめた。
 「はいはいはいはいっ!うっさいなー、もう」
 「返事は一回でよいわっ!!」
 「・・・なんか、めちゃくちゃキレてっから、行ってきます」
 「行っといで」
 苦笑するカナタに、にこりと笑って、美桜は深く一礼した。
 周りの木精達も、長にならって一斉にこうべを垂れる。
 彼女らが面を上げる前に、微かな花の芳香を残して門は閉じた。
 あの奥で、また美桜が絶叫しているのかもしれないと想像して、カナタは笑みを浮かべながら依坤の後に従う。


 その時、カナタは思いもしなかったが、それが彼の永い旅の始まり―――― グランド・ツアーの始まりだった。




〜 to be continued 〜


 










今回、どうしても書きたかったシーン。
それは、公主が人形の目を抉り出すところでした(爆)
気持ち悪くってごめんなさい;;;
でも、常に視線を意識しなければいけないって、こう言うことじゃないかなと思うのです。
特にこの世界の精霊たちは、『神は敬して遠ざける』『何よりも一族が大事』なので、そんな中に一人で放りこまれた女の子は、どれだけ周りに大切にされていても、本当に愛してもらえないなんてとてもかわいそうかもしれない・・・なんつって。
今回、私の人生哲学大爆発でした(大げさ;)
自分が飽きっぽいせいか、永遠の命って、絶対に飽きると思うんですよ(^^;)
で、その時に何が一番ありがたいんだろうと思ったら、『死』なんではないかと。
ひねくれてますね(^^;)
ちなみに『従兄妹の家のポメラニアン』は実在します(笑)←くれはの従妹の家のポメラニアン(笑)












Euphurosyne