◆ 11 ◆
明け初める空の下、蒼い精霊を伴ったカナタは、険しい山道を、まるで平地であるかのように悠然と歩いていた。 「ずいぶんとごゆっくりじゃねえか」 不機嫌な声にふと目を上げると、依坤に引きずられて退出した火の王が、仏頂面で立ち塞がっている。 「どうしたの、サラーム?」 穏やかな笑みを浮かべて問うと、彼は更にきつく眉を寄せた。 「うちのお得意さんが襲われそうなんだ」 誰、と返そうとして、カナタは気まずげな笑みを浮かべる。 「へぇ・・・。彼、シルフの好みだったんだ。羊の柵の中に、オオカミを入れちゃったねぇ・・・」 おっとりと言うカナタの腕を、サラームは乱暴に掴んだ。 「まずいと思うんだったら早く来い!!嬢ちゃん、早く入んな!」 サラームは、麗華がカナタの影に入るや、その背におおきな翼を生やし、ふわりと空へ舞い上がる。 「サラームも、英婁さんをお気に入りなんだね」 サラームに抱えられたまま、ふわふわと笑うカナタに、サラームは鼻を鳴らした。 「変態の知り合いだと思われたくないだけだ」 商売に差し支えると、真剣に言うサラームを、カナタは不自由な体勢で見あげた。 「なんだ。やっぱり、店仕舞いしたんじゃなかったんだ」 「俺の容姿は南海人だからな。南薔の頭の悪い奴等が嫌がらせするのさ」 わざとらしくすねて見せるサラームに、カナタはあきれたように息をつく。 「変えればいいじゃないか、容姿くらい」 「その程度で変えるか。めんどくせぇ」 そんなことだからシルフにからかわれるのさ、とは、カナタは利口にも口にしなかった。 この状態でそんな事を言えば、地上に落とされかねない。その程度で死ぬことはないが、服が汚れてしまう。 やがて、頂上の神殿からカナタの庵まで、常人の十分の一程の時間でカナタを運んだサラームは、そのまま彼を抱えて庵の中に上がり込んだ。 「助けに来たぞ!!」 サラームが居間の扉を乱暴に蹴り開けると、 「たすけてぇぇぇぇぇっ!!!!」 世にも情けない男の絶叫・・・。 見れば、大きな蛇に全身を締めつけられたシルフが、必死にもがきながら助けを求めている。 「ふぅ・・・無事だったか・・・」 あからさまにほっとした様子で、サラームは抱えていたカナタを下ろした。 「体調が悪そうなんだ。診てくれ」 「依坤の方が得意じゃないか、こういうのは」 だが、蛇に身を変えた地の王は、知らぬ顔でシルフの泣き顔に顔を寄せ、わざとらしく赤い舌を出している。 「ジジィは風をいじめるのに忙しいらしい」 「・・・わかったよ。英婁さんを起こすから、君たち出て行ってくれるかい?」 目覚めに大蛇は心臓に悪いだろうと言うと、依坤はつぶらな瞳をにやりと細め、シルフを巻いたままずるずると床を這って行った。 「・・・瞼がないのに器用だね」 「ジジィ、楽しみは途中でやめないタイプだからな」 思わず感心して見送りながら、カナタは火の落ちた暖炉の前に転がる英婁の側に寄る。 「英婁さん?英婁さん!」 呼ぶが、彼は固く目をつぶったまま、ぴくりともしなかった。 「まぁ、彼らが側で、あんなに騒いでいたのに起きないんだから、このくらいで起きるわけないよね」 言いながら取った脈はかなり速く、手足の先は冷たくなっている。 「サラーム、火を熾して」 サラームが頷き、軽く指を鳴らすと、落ちた火が再び勢いを戻した。 「英婁さん、起きてください」 軽く頬を叩くと、わずかに目が開いた。 「大丈夫ですか?気分は?」 問うと、苦しげに眉をひそめる。 「・・・英婁さん、二日酔いのような気分ではありませんか?」 続くカナタの問いに、英婁は弱々しく頷いた。 「・・・結局、奴か」 サラームは忌々しげに舌を鳴らし、カナタは英婁の額や胸にそっと手を当てながら頷く。 「・・・よし。 サラーム、部屋に運んであげて。後はシルフにお願いしよう」 「いや、せめてエアりーにして欲しい」 顔を上げたカナタに、サラームは苦々しく呟いて、英婁を抱えあげた。 「言ってはみるけどね。聞かないと思うよ?」 笑いながらカナタは廊下へ続くドアを開け、先にサラームを通してやる。 「ジジィ・・・付き添いなんかやらねぇよな」 「それも言ってはみるけど、聞かないと思うな」 出てきた部屋の正面にあるドアに手を掛けながら、くすくすと笑うカナタに舌打ちして、サラームは廊下の奥の階段を上った。 カナタが、居間の向かいの部屋に入ると、ようやく大蛇から解放されたらしいシルフが、依坤に激しく悪態をついているところだった。 「そこまで怒らなくても」 「アンタまでバカ言ってんじゃないわよっ!!」 止めに入ったカナタにも毒矢が飛んでくる。 「西方将軍ともあろう者が、たかが蛇ごときによう泣くもんじゃ」 あからさまに馬鹿にした様子で依坤が舌を出すと、シルフは更に逆上して絶叫した。 「ジジィが無神経なんでしょっ!アタシは繊細なのよっ!100年も鎖につながれてたら、長くて巻き付くモンが嫌いになったって仕方ないのよっ!!」 実際に繋がれていたのはエアリーなのだが、闇精王に囚われたという事実は、凪である無幾を除き、王の人格達にそれぞれ影響を与えた。その複数の人格の中でも、常に吹き荒れるシルフにこそ、心理的外傷は顕著に現れたらしい。 「うん。大変だったろうね。あの苦境を耐えるとは、さすがエアリー。守将の面目躍如だね。 いや、さすが風精王というべきなのかな?」 にっこりと笑うカナタに、シルフも少しは機嫌が直ったらしい。 「あったりまえよ。あの子はそれが仕事なんだから」 緩みそうになる頬を無理矢理引き締めて、シルフはわざとつっけんどんに言った。 「状況に合う人格を選べるから、王なんじゃない」 風精王の人格が変わるのは、多くの場合、反射だという。 状況に合った人格を、瞬時にして選ぶことのできる者。それが、王の条件の一つなのだと、カナタはずっと以前に聞いた。 「じゃぁ君は、じっと状況を見守って、わずかな反応も見逃さず、慎重に対処するというのは苦手なんだね」 「地味でかったるい仕事は全部あの子がやることになってるの!役割分担はきっちり決まってんだから、馬鹿な事でアタシをわずらわせないでよ!」 ふんっと横を向くシルフに、カナタはうっすらと目を細める。 「絶対に?」 「絶対!イヤ!!」 べっ!と舌を出すシルフに、カナタはいっそ鮮やかに微笑んだ。 「風精王に二言はないね?」 「もちろんよっ!」 「じゃぁ今すぐに、エアリーに身体を明け渡すんだ。そして、英婁さんの看護をしてくれ」 「なん・・・・・・・っ!?」 「風精王に二言はないんだよねぇ?」 妖魔の笑みを浮かべるカナタを、シルフは呆然と見つめた。 「・・・アンタ、巽依そっくり」 「色々と人生勉強したもん」 ふふんと鼻を鳴らす様子は、依坤にもよく似ている。 「やだやだ。昔はすっごく可愛かったのに。依坤なんかと一緒にいると、老獪になっちゃってやだわ」 べっ!と、再び舌を出してシルフは額にかかる前髪をかきあげた。 「この怨み、しばらく忘れてあげないからね!」 「依坤、シルフが意地悪を言うよ」 子供が大人に告げ口するように、依坤の前に跪き、わざとらしく泣き付いてくるカナタを、小さな長老は鼻で笑う。 「いい年をして、みっともない事をするでないわ」 「エアリー・・・。依坤が冷たいよ・・・」 「いつもの事じゃないか」 低い、凛とした声に、カナタがうつむけた目を上げると、風の女将軍は穏やかな笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。 「それより、おまえの客人のことだ」 軽く首を傾げて、エアリーは立ち上がるカナタの手を取った。 「ただの山酔いだろう、あれは?」 ほっときゃ治るといわんばかりの彼女の態度に、カナタは苦笑して首を振った。 「結構ひどいよ、あれは。 普通、山酔いは登山中に表れるのものだけど、昨日はこんな気配はなかった。きっと、緊張が身体を騙していたんだね。 ところが私が、気さくで若い、いい感じに話のわかる好人物だったものだから、緊張がほぐれてしまったんだ」 「・・・おぬしが好人物・・・?」 「・・・あっつい化けの皮だな・・・」 二人の精霊王の顰蹙を買ったにもかかわらず、カナタは飄然とした笑みを浮かべる。 「それは君達が、私の本性を知っているから言えることだよ。彼はきっと、私のことを偉大な聖職者だと思っているさ」 そんなことより、と、カナタはエアリーに笑みを向けた。 「早く行ってほしい。応急処置は私がしておいたから、あとは君の力が必要なんだ」 「ふん・・・」 顎に手を添えて、エアリーは片眉を上げた。 「あとは私だけ、ということは、頭の中や肺の中に水はたまってないんだな?」 「うん、消したよ」 「なくなった体内の水分は?」 「正常に戻しておいた。後は血中酸素を上げて、ゆっくり休めば大丈夫」 山酔い、いわゆる高山病は、体内の水分が脳と肺に集中し、血中酸素が減少することで起こる。 頭痛・吐き気・動悸など、二日酔いとほぼ同じ症状が出るために『山酔い』と言われるが、違うのは、症状がひどいと脳浮腫や肺水腫などを引き起こす恐れがあることだ。 「彼は運がいいね。私だけならせいぜい、死なないようにしてあげるだけだったけど、君なら彼の意識を戻せるだろう?」 「まぁな」 軽く息をついて、エアリーは扉に向かった。 「他ならぬお前の頼みだ。聞かないわけには行かないな」 おどけるように片目をつぶって出て行くエアリーの背中に、『ありがとう』と声をかけて、カナタは依坤を見やった。 彼は、おもちゃを取り上げられた子供のように不機嫌な顔で、カナタを見上げる。 「人のいいことだな。放っておいても死ぬことはなかろう」 「・・・人間はね、簡単に死ぬんだよ、依坤」 瞳の色を深くして、カナタは依坤の、綺麗な瞳を見つめた。 「彼女も、この山で死んだ。私が、まだこの力の使い方を知らなかったから、助けてあげられなかったんだ」 水の神殿に至る途中、眠るようにして亡くなった女王。 カナタは最期まで、彼女が心から笑うところを見る事ができなかった。 ―――― 精纜(セイラン)。 永い時を経た今でも、その名を思い出すたびに、暗い顔をした少女の姿が目に浮かぶ。 南薔史の彼女の欄には、31代南薔王・沙羅(サラ)と大陸三大国の国母となった緻胤(ジーン)の母という記述しかない。哀しく、暗い瞳の少女。 「彼女はこの人間界で得た、最初の友人だった」 「そして、おぬしが共に死にたいと望んだ女の・・・」 「―――― 依坤、口は災いの元って言葉、知ってるよね?」 依坤の言葉を封じるように、冷ややかに笑うカナタを見あげて、依坤は軽く鼻を鳴らした。 「あの女の名は未だに禁忌なのか?言っておくが、わしは約束を違えるような真似はせんよ」 「・・・では、私が真に、死を望まなかったという事なんだろう」 「たかが数十年生きたくらいで、真に望めるものではない」 突き放すような口調にもかかわらず、そこに含まれる感情は暖かい。 「・・・だから、死ねなかったからといって、自分を責めるな」 なだめるような声音に、カナタは笑みを苦笑に変えた。 「ごめんね」 依坤の髪をくしゃりとかき回して、呟く。 「・・・麗華も」 床に落ちた影に向けた囁きに、返事はない。 「麗華にあの女の話は禁句だろうが。おぬし以上に」 ―――― あの女。 大陸三大国の国母などという、大層な身分を持っていたにもかかわらず、市井の女達と何ら変わるところのなかった緻胤(ジーン)。 気さくで明るい彼女を嫌っていたのは、二番目の夫の母と、麗華くらいのものだろう。 「いい女同士というのは、気が合わないものなのかな」 苦笑するカナタに、依坤はにやりと笑みを返す。 「おなごの嫉妬は恐ろしいからのう」 白い頬を膨らませ、ふいっと横を向く麗華の姿を思い浮かべて、二人は思わずくすりと笑みをもらした。 「嫌いな人間をいい女などと言っては、いかに麗華とて機嫌を損ねようというものだ」 「でもね、あんなに長い間、同じ人を好きだと思ったのは初めてだったんだ。そして今も、変わらず好きだと思えるのは、彼女だけだよ」 「・・・馬鹿が」 苦笑と共に、依坤が呟く。 「麗華がしばらく口を利いてくれんぞ」 「そんなことないさ」 あっさりと否定して、カナタは断言した。 「今、私が愛しているのは麗華だけだからね」 にっこりと微笑むカナタを、依坤は馬鹿にしたような目付きで見上げる。 「ほんに厚い化けの皮よ」 「地精王の薫陶のおかげかな」 いけしゃあしゃあと言い遣って、カナタは再び自身の影へと視線を落とした。 「あの時は死ねなかったけど、君がいなくなったら、今度こそ私は後を追うと思うよ」 『・・・きっとよ』 不機嫌な声が、影の中からあがる。 『たとえ行くべきところが別でも あなた一人で生きないで』 驕慢な台詞に、カナタは微笑んで頷いた。 「私がいなくなれば、きっと、依坤達は嬉し泣きしてくれるだろうしね」 いたずらっぽく笑うカナタを見あげて、依坤が憎らしく鼻を鳴らした。 「せいせいした、と、祝杯をあげてやるわ」 「そうだね。その方が君達らしいよ」 楽しげに笑うカナタの顔に陰はない。 「だから、真に望んだ時は・・・冥府に行かせてくれよ?」 急に真摯な口調に変えて、カナタは依坤を見つめた。 「・・・地精王に二言はない」 「本当に?」 「くどい!」 傲慢に切り捨てる依坤を、カナタは深い色の瞳で見つめる。 「じゃあ・・・やっぱりあの時、私は死を望んでいなかったんだ」 あんなに悲しかったのに。 身体中の水が涸れ果てる程泣いたのに。 彼女と死の床を共に出来なかった自分を、心の底から呪った――――。 〜 to be continued 〜 |
高山病って意外と怖いっぽいです。 この作品を書く為に、長年にわたってネチネチと登山記録の番組をビデオに撮り続けましたけど、慣れた人でも結構なるものだそうです。 いや、酸素ボンベが必要だってんだから、そりゃなるだろうさって突っ込みはおいといてください(笑) さて。次回からは原本ないです。 書くつもりがなかった割には頭の中で進行していた時代を書きます。 なぜカナタが南薔王家に深く関わるようになったか。 今回のと繋がってますので・・・できるだけ早く書きます;;; |