◆  13  ◆







 南薔国、最初の男王・経が崩じた日。
 険しい山ばかりの、小さな州に閉じ込められた南薔の民は、眉をひそめて囁きあった。
 「ろくな死に方じゃなかろうよ・・・」
 「巫女から、国を奪った報いだ・・・」
 「南薔はもうだめだ・・・」
 絶望の呟きには、枯れ野に吹きすさぶ風に似た喘音が混じる。
 そんなことは、とうの昔に分かっていたのに・・・。
 「南薔・・・女王陛下・・・」
 絶息の声音に、答えるものはない。
 最期の祈りのように呟き、絶命した目に、希望は映っていなかった。


 その、数日後の夕刻。
 前・南州候夫人、茱英華(シュ・エイカ)は、気だるげに手紙の束を解いた。
 ばさばさと卓の上に散らばったそれはどれも、南州を治める巫女でありながら、何もできずにいる彼女を責めるものばかりだ。
 中でも一際厳しく、彼女の不甲斐なさをなじった手紙は、引き裂いて床に叩きつけ、踏みにじってやった。
 「いつまでも口ばかりは達者ね!!」
 かつて、『南薔十三州』として栄華を誇った国は今、西三州を西桃、東三州は東蘭、そして南三州と首都州を南蛮に奪われた。北州候を頼って逃れた南薔王家は今、最北の峭(しょう)州一州のみを領地として許されているにすぎない。
 見る影もなく衰えた南薔国の中で、茱家が代々、巫女として治めてきた南方三州は、南蛮の侵略に、最初に屈した地である。
 抵抗も空しく南三州は陥落し、南州候は城が陥ちた日に首を落された。
 まだ十歳だった娘の英華は、『亡くなった』母から南州候の位を引き継ぐや、南三州を陥とした男の妻にされ、彼女が持つ身分と権利のすべてを、『夫』に譲渡させられたのだ。
 南薔の民には、南州が落ちたために王都が落ちたのだと言うものも多く、生き残った茱英華へ対する感情は、複雑なものがあった。
 そんな孤立無援の中で英華は、大陸の常識になじまない南蛮に侵された南三州が、東州や西州に比べて不利な立場にあることを常に思い知らされてきた。
 東蘭国や西桃国ならば、無理に変えようとしない南薔の性質を、南蛮は容赦なく打破し、自身の常識の枠に嵌めていくのだ。
 茱家が代々守ってきた壮麗な神殿は焼き払われ、英華は今、南州候の位だけでなく、巫女の位までを奪われて、城の中に囚われている。
 支配者達は彼女に、野心など持たず、ただ、『夫』と名乗る男の子を産み、男の身勝手な要求を満たすことだけを求めた。
 だが英華は、南州候を継ぐ者として・・・いや、それ以前に南薔の女として、南蛮の言いなりになることを拒んだのである。
 南薔諸侯の中で、最も若く、最も美しいと謳われた茱英華。
 外面が美しいからといって、内面までもそうとは限らない。
 美しく成長した英華は、まず、『夫』がもっとも大切にする体面を、完膚なきまでに叩きのめした。
 英華の産んだ、三人の息子達。
 そのいずれも、夫の血を引いてはいない。
 その美貌を利用し、夫の友人、部下、政敵までをも誘惑して産んだ子供たちだ。
 公には言わない。
 だが、誰もが知っている。
 どこに行っても、何を言っても、陰では『寝取られ男』と嘲われ、蔑まれ、侮辱された彼は、とうとう自室で首をくくって死んでしまった。
 ゆえに現在、英華は『現・南州侯の母』または、『前・南州侯の未亡人』と呼ばれている。
 彼女がその呼称に激怒したのは言うまでもない。
 彼女は、南州侯の地位を息子に譲った覚えもなければ、『まだ死んでない女』などと言う、無礼極まりない呼称で呼ばれる覚えもないのだ。
 なのに彼女の・・・いや、南薔の性質を知らない南蛮人達は、彼女を『姦婦(かんぷ)』と呼んで憎み、南蛮に押さえつけられた領民の不満は彼女にのみ向けられ、鬱屈していた時に、経王崩御の報せである。
 『経王が死んだというのに、南州侯はなにをしているのか』
 『男に囲われて腑抜けたか』
 と、口だけは達者な老巫女どもが、かしましく騒ぎ立てる。
 いい加減うんざりしたところへ、またもや侍女が手紙を持ってきた。
 南州侯の位に野心を燃やす彼女だけに、読みもせず捨てて、評判を落とすような事は出来ない。
 重い気持ちで手紙を包む、粗末な布を取りさると、中から意外と上質な紙が現れた。
 丁寧に折りたたまれたそれを、赤い封蝋(ふうろう)が閉じていたが、当然そこにあるべき印章がない。
 蝋は落ちたままの姿で固まり、彼女の姿をぼんやりと映し出していた。
 「・・・喉が渇いたわ。何か持ってきて」
 言って、控えていた侍女を追い払うと、英華は封蝋を割り、書簡をじっくりと読みはじめた。
 印章のない封蝋。
 それが『あの方』の印章である。
 いつも、南海の潮の香と共にやってくる手跡は累楊体。
 南薔王家の人間だけが使える、格式高い字体だった。
 署名は絹貴―――― これは代々、名前に『糸』の字を持つ南薔王家の人間で、現在、最も貴い女・精纜(セイラン)が、南薔の秘密の友人たちに手紙を送る時に使う筆名である。
 手紙の内容は、いつも通り、女友達の他愛のない時候の挨拶に見せかけてあり、くどいほどに丁寧な前置きの後に、身分の高い巫女にしかわからない謎掛けをふんだんに織り込んだ文を書いていた。
 曰く、
 『先日、鳥が死んでしまったそうですね。皆様も、さぞかし気が重くていらっしゃる事でしょう。
 わたくしもさすがに塞いでおりましたら、思わぬ事に、素晴らしいお客人がいらっしゃいました。
 とても愛らしい、褐色の猫で、その翠の瞳に見つめられると、美しかったあの街の事を思い出さずにはいられません。
 貴女もご覧になれば、きっと驚かれるはず。だって信じられないほどそっくりなのですよ、物語の中の、あの御方に。
 貴女も覚えていらっしゃいますわよね?一緒に物語を聞いた、あの、美しい場所を。
 また、小母様方とご一緒にお話ししたいものですわ。濫(ラン)の小母様と涛(トウ)の小母様はお元気でいらっしゃるのかしら?
 わたくしの娘は、今年で十八になります。お会いになればきっと、貴女も、小母様方も、娘をお気に召してくださるでしょう。
 先日、夫に帰郷を願いましたら、快く許してくれましたの。
 故郷に帰る前に、貴女をお訪ねしてもよろしくて?
 州侯の中で、最も若く、最も美しいと謳われた貴女に、早くお会いしたいと思っております。
 それでは、近いうちにお会いできる事を願って。
                                     ―――― 絹貴』
 英華は、快哉を上げそうになった口を慌ててふさいだ。
 南薔の王世子が、他ならぬ、自分を頼って帰って来るのだ!
 英華は、感動に震える右手を胸に当て、左手に持った手紙に恭しく膝を折った。
 「皇帝陛下、精霊王閣下。感謝いたします」
 三人の神と七人の精霊王に感謝を捧げた後、英華は、自分が何をすべきかを考えた。
 手紙の中の、『死んだ鳥』が、翼を広げたフクロウの紋章を持つ、南薔王・経の事だと言う事は、すぐに知れた。
 『翠色の瞳』を持つ『綺褐色の猫』のくだりを読んで、一瞬、英華は地精王の絵姿を思い浮かべたが、それが何のたとえかはわからない。しかし、それがきっかけで彼女が南薔に帰る決心をした事が読み取れる。
 『一緒に物語を聞いた』『美しい場所』・・・。
 さらに、『濫(ラン)の小母様と涛(トウ)の小母様』も一緒に語った場所。
 英華は記憶を懸命に辿った。
 精纜の言う、『藍』と『涛』の小母様と言うのは、東大河と西大河を境界として東『蘭』、西『桃』と接する州、今はその二国の領土となった地を治めていた東州侯、西州侯の事である。
 女王と四方の諸侯が集まり、共に語る場所といえば、佳葉の王宮、もしくは飃山の神殿。しかし、佳葉は南蛮軍の手に落ち、飃山は北の彼方。
 どちらも、英華と精纜が落ち合う場所にはふさわしくないように思えた。
 「・・・『覚えていらっしゃるかしら?』」
 呟いて、首を傾げる。
 「以前、南州でお会いした事があったかしら・・・?」
 頭の中に南三州の地図を思い浮かべ、英華は必死に昔の記憶を辿った。
 やがて、
 「・・・繁葉!」
 呟きと共に、隠しようもなく喜色が浮かぶ。
 南三州の最南端にあり、唯一南薔王家の直轄地である主要地。
 南海に接したそこには、さまざまな国の船が集散し、王室に莫大な富をもたらした。
 またこの地には、南薔王の避寒宮があり、その周りには各地の諸侯の邸や、外国の賓客を迎える迎賓館があった。
 精纜がほのめかしたのは、この地に違いない。
 そう思うと、いてもたってもいられなかった。
 「英毅(エイキ)と英士(エイシ)をお呼び!」
 飲み物を運んできた侍女を再び追い出すや、英華は部屋中を掻き回し、持ちうる限りの宝石を丈夫な革袋に詰め始めた。
 軍を養うのに、資金は多くて困るということはない。
 間もなく、南州侯を継いだ長男の英毅と、十六歳になったばかりの英士がやってくると、英華は両手を広げて二人の息子を迎えた。
 「・・・どうかしたんですか?」
 いつになく機嫌のいい母を、英毅がぶかしげに見ると、母は長く美しい赤毛を払って笑った。
 「南州侯のお仕事は大変?」
 宝石のようにきらきらと輝く琥珀色の瞳に見つめられて、英毅はぎこちなく目を逸らす。
 「別に・・・」
 憮然とした声に、英華は笑みを深くした。
 「南州侯を継いだ貴方に、お願いがあるの。お母様のお願いを聞いてくれる?」
 両手で顔を挟んで、再びこちらを向かせると、英華は多くの男を魅了した笑みを浮かべる。
 しかし、英毅はぎこちなく首を振って、母の手から逃れ出た。
 「筝(ソウ)殿の事でしたら、いくら母上のお頼みでも、牢から出す事はできません。
 どんな事情があれ、夫殺しは大罪ですから」
 英毅は先手を取り、南州侯の威厳を持って母をやり込めたつもりだったが、気合は笑みで、あっさりと返されてしまった。
 「筝殿もお助けしたいわ。だって、あれは殺された方が悪いもの」
 涼しい顔をして言う母を、英毅は呆然と見返した。
 南蛮の占領下で生まれ育った彼には、どうしても母の、南薔人としての考え方が理解できない。
 普通の・・南薔人以外の人間なら、『夫を焼き殺した妻』を指して、『殺された方が悪い』とは言わないだろう。
 しかもそれが、『身を守る為に仕方なくやりました』と泣き崩れでもしてくれたならともかく、『大事な蔵書を焼こうとしたから、油をかぶせて火を付けてやりました』と、堂々と言われては、駆けつけた警備兵も寒そうに顔を見合わせて、魔女の怒りを買わぬよう、丁重に連行するしかなかった。
 彼らはきっと、故郷の可憐な女達が恋しくなった事だろう。
 「それよりお願いなの。お母様ね、繁葉に行きたいの」
 南州の魔女代表とでも言うべき母の、否やとはいわせない笑みに、思わず声を詰まらせた英毅を補って、英士が声を張り上げる。
 「だめだよ!お母様が勝手な事をしたってばれたら、英利(エイリ)はどうなるんだよ!!」
 英華の三番目の息子、英利は、南州を従わせる為の人質として、南蛮の都に送られていた。
 「英利を助ける為にも、私は繁葉に行きたいのよ」
 言われて、英士は母親譲りの大きな目を見張る。
 「このままじゃ私たち、一生英利に会うことができないわ。違う?」
 黙り込んだ次男の頭をそっとなでて、英華は微笑んだ。
 「英毅。今、南州であなたに忠誠を誓っている兵はどれほどいるの?」
 さりげない言葉だったが、英毅を沈黙させるには十分だった。
 南州軍は現在、南蛮の監視下にあり、その実権は南蛮から派遣された軍監が一手に握っている。
 一応『南州侯』の名を継いではいるが、英毅は飾り物にすぎず、彼は南蛮兵や南州兵によって、常にその事を思い知らされていた。
 「英毅、よく考えてちょうだい。
 あなたも弟たちも、南蛮に従う義理はないの。
 あなたたちのお祖母様は、南薔国にも四人しかいない州侯で、私はその位を継げる、唯一の人間だった。
 あなたたちの『父』だと名乗る男は、たしかに南蛮の人間だったけど、あなたたちにあの男の血は・・・いえ、南蛮人の血は一滴もはいってないのよ」
 多くの愛人の中でも、子供の『父』となる男は厳選したのだと、英華は得意げに笑った。
 「あなたたちは完璧な南薔人よ。
 だから、よく考えてちょうだい。
 私やあなたたちが、誰に忠誠を尽くすべきなのか」
 「でも・・・」
 英士が、きかん気な目を上げて、夢中で口を動かす。
 「南薔の王はもういないよ!こないだ死んじゃったんだ!
 ・・・まだ生きていたって、あんなやつのために忠誠なんか尽くすもんか」
 「英士・・・」
 母の声に、英士はびくっと両手を背に隠す。
 最近は『おしおき』で手の甲を鞭でぶたれることもなくなったが、幼い頃からの習慣で、母の怒気を感じると反射的に手を後ろに隠してしまうのだ。
 「死んだ先王とは違うわ」
 次男の行動に笑みを誘われて、英華はそっと英士の頭をなでてやった。
 「この国は、巫女なしには立ち行かない。王族や貴族の思惑ではなく、本当にそうなっているの」
 英華は、南蛮に支配される前の南薔と、支配後の南薔の姿を知っている。
 先々代の女王の時代、南薔は他国と同じく、水と食糧の不足に辛い思いをしたが、他国に攻め入られる隙を見せはしなかった。
 だが、経王が立った後、意味のない出兵と、西桃の文化に憧れた王の豪奢な生活の為に、国はみるみる傾いていった。
 民は皆、それを経王の無能が引き起こした事だと言うが、民だけでなく臣下もが、神職でない王を蔑み、王の言葉をまともに相手にしなかった事も一因には違いない。
 結局彼は、自身の思う通りにならない巫女達を更迭、または処刑し、西三州と引き換えに西桃から贈られた美姫を王妃に立て、王女・精纜を南蛮に売った代価で、贅沢な暮らしをしていたのだった。
 「かつて、南薔は強かったわ。
 大陸一の精兵として、東蘭はおろか、西桃とも対等に渡り合っていたのよ」
 南薔人は、もともと飄山に住んでいた山岳民である。
 険しい自然条件の下、協力し合わねば生きていけなかった為、よほど幼い子供か、起き上がる事も出来ない老人でない限り、男女を問わず外で働くのが当前と考える民族なのだ。
 西桃のように、女に筆も持たせようとしない過保護な国では絶対に考えられないほど、さまざまな場所で女達が働いていた。
 軍を興す時も、力では男に劣る女達は、武器を持つ事こそ稀であったが、糧食の運搬、武器や軍資金の調達など、周辺諸国では軍部内で処理するのが当然である後方支援を、女達が受け持っていたのである。
 そんな南薔軍を、他国の兵らはその精強さに畏怖しつつも、
 『女に尻を叩かれて、戦場に追い立てられる鶏ども』
 『奴等は戦に行って報奨金をもらわないと、母親に鞭でぶたれるから、命懸けで戦うんだ』
 などと侮辱する事があったが、南薔の男達は、そんな評価に怒りもしない。
 糧食や武器といった、『命の糧』を握られている以上、そして、彼女たちになら安心して後背をまかせておける以上、くだらない意地を気にして、女達の機嫌を損ねる事はしなかったのだ。
 そんな、互いを同等と認める国に、南蛮は侵略し、自身らの価値観を押し付けて来た。
 神殿を壊し、巫女達の身分を剥奪し、権力を奪ってそれまでの生き方を否定した。女達を家内に閉じ込めた彼らの、唯一の誤算は、子育てまでも女の仕事として明渡したことである。
 女達は『強い子にするため』と鞭を使い、『お前は夫の子ではないのよ』と言い聞かせ、いつか南薔を取り戻す日の為に、南蛮への反感を植え付けていた。
 「ごらんなさい。毎日、私に送られてくる手紙よ」
 広い卓全体を覆い隠し、積み上げられる紙の束に、英毅が不快そうに眉をひそめる。
 彼が正式に南州侯として立って以来、三年が経つと言うのに、この様な訴状を受け取った事は一度もなかった。
 南州の民が、いまだ彼を南州侯と認めていない証拠である。
 「多くは巫女達からよ。でも、中には民からの手紙もあるわ」
 だが、南蛮兵の横暴を切々と訴えられても、悔しい事に、英華には何もしてやれない。
 「貴方になら、何かできる?」
 英毅は、母から目を逸らした。
 「何も・・・」
 憮然とした声は、消え入りそうに低い。
 「何も出来ないよ。みんながそう思っている通りね」
 意欲がないわけではないのに、何もさせてもらえない。
 南蛮人からは『飾り物』と見下され、南薔人からは『神職でもないくせに』と相手にすらしてもらえない。
 「母上だって同じだろ。仮に今、南州侯の位を譲ったとして、母上に何が出来るんだよ!」
 英毅は叫び、卓上に詰まれていた手紙の束を乱暴に払い落とした。
 皆から無能者扱いされ、英華ならばできるのに、英華になら任せられるのにと、確証もない事を聞こえよがしに言われ続けて来たのだ。
 「やってみればいいんだ、僕の代わりに」
 うずくまり、声を殺して泣く息子の顔は、母譲りの艶やかな赤毛で隠されていた。
 「かわいそうに。辛かったのね」
 息子の前に跪き、優しく抱いてやると、恥ずかしいのか、わずかに身を強張らせたが、自身を抱く腕を振り払おうとはせず、なされるがまま、声を殺して泣き続ける。
 「じゃあね、今日一日だけ、お母様に南州侯の位を貸してくれる?」
 いたずらっぽい声に、英毅はは思わず、涙に濡れた顔を上げた。
 「それで、私がうまくやれたら、南州侯の位は、しばらく私が預かるわ。でも、全くだめだったら、あなたは堂々と南州侯を名乗りなさい」
 「どうするの?」
 好奇心を抑える事が出来ず、期待に満ちた目で母を見つめる英士の頭を撫でてやりながら、英華はにっこりと微笑んだ。
 「おしおき、してあげましょうね」
 声音はとても優しいのに、英士は思わず身を強張らせた。
 「どう・・・やって・・・?」
 声を詰まらせる英毅にあでやかに微笑むと、英華は立ち上がり、中庭に続く大窓の脇に下げられていた乗馬用の鞭を手に取った。
 鞭と言っても、それは実用的とは言い難いほど装飾過多で、柄の部分には金色の蔓草が巻き付き、紅玉や琥珀の玉が、草の実を摸して埋め込まれている。
 いかにも女性好みの、繊細な意匠だったが、二人にとって・・・いや、南蛮に囚われている三男も含め、それは何よりも恐ろしいものだった。
 「この城に、何人の母親がいると思っているのかしらね」
 英華は呟くと、鞭と一緒に掛けてあった、趣味のいい革の手袋をはめて、鞭の先を左の手の平に打ちつけた。
 ピシリと鋭く鳴った音に、息子達は思わず首を竦める。
 「悪い子には、鞭をあげなきゃね」
 嬉しげな母を、二人はまともに見る事さえ出来なかった。


 経王の死に、南薔の民が行く先の見えない闇の中にいるような不安を感じていた頃。
 南蛮の最も高貴な母子が、得体の知れない青年と子供と共に南薔国・赤渟(せきてい)の港に降り立った。
 この港を包括する繁葉という町は、もとは南州侯の治める一州、栄州(えいしゅう)の一都市で、後に王家の直轄地とされた。この地が生み出す莫大な交易金は、そのまま王家の財産となっていたのだ。
 しかし今、その財産はそのまま南蛮王の元へ献納され、領内は南蛮の兵らに支配されて、住民は重い租税を科せられている。
 それでも、大陸の中心とも言うべき港は活気があり、南蛮や東蘭、西桃から集まった船で、停泊するのにも一苦労という有り様だった。
 南海の幸をいっぱいに積んだ船がひしめく港へ着くや、絹貴(ケンキ)と名乗る精纜は、船内で書き溜めていた手紙を一通ずつ、粗末な布に包んで数人の荷送人に預けた。
 「これから、どうするんです?」
 依坤を抱いたカナタが、今さらと思いながらも問うと、精纜は荷送人達の背を見送ってしまってから独り言のように言った。
 「しばらくはこの町で、手紙の返事を待ちますが、出来るだけ早く、南薔の王都・カヨウに参りたいとおもいます」
 「カヨウ・・・」
 一体どういう字を書くのかと思いつつ呟けば、彼の中の麗華が、すかさず『佳葉』と文字に変換してくれた。
 「えっと・・・そこが南薔の首都、なんですか・・・?」
 滅んでしまった国に、『首都』はないだろうと思ったが、精纜は、ごく当然のように頷く。
 「はい。
 この繁葉の城門を出て、まっすぐに北へと伸びる道を登って行くと、まるで雪の結晶で造られたような、白く壮麗な城壁が現れます。
 なだらかな丘陵に沿って築かれた王都を中心に、大きな街道が八州に延び、丘陵の頂点に立つ宮殿からは、街道を行き来する人馬が遠く望めるのです。
 中でも、この繁葉からは、さまざまな国の、さまざまな品物が運ばれて、王都の市を賑わせて・・。
 船が木の葉のように集まり、流れ出る。その賑やかさ、湧き上がる富。それがこの町の名の由来ですわ」
 静かに語る精纜は、かつての賑わいを、未だに覚えているのだろうか。とても懐かしそうな表情だった。
 「じゃぁ、今送ったのは援軍要請の秘密文書ってとこかな」
 口には出さず、頭の中でそう呟くと、『そうでしょうね』と、麗華が頷く気配がした。
 「佳葉のう・・・。
 かつては緑したたる美しい王都であったが、今はいかがなものか」
 「南薔を出て二十余年。さぞかし変わった事でしょう」
 依坤に答えると見せかけて、自分に言い聞かせているような、精纜の口調だった。
 「しかしその・・・佳葉は今、南蛮の占領下なんでしょう?
 そんなとこに行っても大丈夫なんですか?」
 今はまだ、追手の気配はないが、いずれ南蛮王が彼女を捕らえようと、兵を出すに違いない。
 しかし、彼女の顔に焦りの色は見えなかった。
 「人質がおります。南蛮王にとっては最後の男子ですもの。亡くしたいわけはありませんわ」
 「男子・・・?」
 精纜がその腹部に手をやるのを見て、カナタは首を傾げた。
 カナタの住んでいた・・・『あちら』の医学ならばともかく、『こちら』の医学に胎児の性別を見分ける事ができるのだろうかと。
 しかし精纜は、確信を持っているらしい。
 「でももし、生まれたのが女の子だった場合はどうするつもりなんだろう・・・?」
 とてもじゃないが本人には聞けないので、抱き上げた依坤の耳にそっとささやくと、彼は、さも馬鹿にしたようにカナタの顔を見上げた。
 「その時は、そこら辺の赤子を拾って『王子だ』と言うだけじゃろうが」
 「いいのか、それで?!」
 「おぬし、馬鹿も大概にせいよ」
 依坤にとっては、人界の王の血筋など、大した意味も無いのだろう。どうでもいいことを、さも重大な事のように話すカナタに、いらいらしているようだった。
 「・・・そうだな。民主主義に世襲はないんだし、調べりゃどこの王族だって、怪しい点がたくさんあるし・・・」
 「直系の子孫のみで続く王朝なんぞ、ありえんわ。くだらん事をいつまでもぶつぶつ言うでない」
 高圧的な口調でカナタを黙らせてしまうと、依坤は海を振り返り、積み荷を下ろす船員たちと、彼らを指揮する蒋赫(ショウカク)を見遣った。
 彼はカナタらを降ろし、金を受け取ってしまった後は、全く見向きもしない。
 「彼がどうかしましたか?」
 依坤の目線を追った精纜が、そっと囁いた。
 「いや。あの船、副長はおっても、船長はおらなんだな」
 「別に困ったことにはならなかったんだから、いいじゃないか」
 カナタの、危機感の全くない言葉に、依坤は怒鳴るのも忘れて呆然と見つめた。
 「・・・一体、どのような世界に育てば、こんな腑抜けができるのだ」
 カナタは憮然と黙り込んだ。
 腑抜け呼ばわりされて、腹が立たない訳ではなかったが、生まれて此の方、命を喪う危険に晒されたことも、飢えや渇きに苦しんだ事もない彼には、反論する事が出来なかったのだ。
 「全く、この様な腑抜けが何人おっても、なんの役にも立たぬわ。しかし、あのような男が側におったなら、おぬしらも何かと助かるのではないのか?」
 その指が、まっすぐに蒋赫の背中を射る。
 「・・・わたくしも彼のことは、惜しい人物と思っておりました」
 右半身を斜陽に染め、精纜は眩しげに目を細めた。
 「あの技量、あの慧眼。小さな商船を繰るだけの人物ではないのでしょうに」
 「うん。いい奴だった」
 この日、容赦なく照りつける太陽が中天に昇った頃、蒋赫や船員達とともに、凪いだ海面に釣り糸を垂れたカナタは、次々と大魚を釣り上げた蒋赫の人柄に、好感を持っていた。
 「釣りの上手い奴に、悪い奴はいない」
 「そうか。わしの知る最低最悪の人間は、無双の釣りの名手じゃったわ」
 カナタの発言をあっさりとかわした依坤は、沙羅を手招いて、その耳元に囁いた。
 依坤の命令に、沙羅は軽く頷くと、きびすを返して蒋赫の側に走っていく。
 蒋赫に何やら話し掛け、彼を従えて戻ってきた。
 「宿を探しているのか?」
 響きの良い声に、まるで最初から打ち合わせていたように、精纜は頷いた。
 「事情がありまして、しばらくこの街に滞在することになりました。ですが、わたくしどもは南蛮の女官でございますので、そうそう出歩くわけには参りません。
 貴方、食事を出してくれる、良い宿をご存じなくて?」
 水の極端に少ない世界で、街の天敵と言えば火事である。
 屋内では決して火を使わないというのが、街中での常識であり、大金持ちの広大な邸でもない限り、砂地に立ち並ぶ屋台で食事をするのが当たり前だったのだ。
 精纜の、非常識な要望に、蒋赫は当然ながら考え込んだ。
 「・・・俺の知る限り、この街にそんな大きな宿はないな。まぁ、中で食事ができるほどの建物と言えば、旧南薔の迎賓館だが・・・」
 「宿になっておりますの?」
 やや性急に尋ねる精纜に、蒋赫は軽く首を振った。
 「いや、南蛮の監察官の邸になっている」
 蒋赫の声は苦々しい。
 監察官とは即ち、繁葉を喰い物にする酷吏(こくり)の頭である。
 彼らはこの豊かな町に巣食い、南蛮本国に送る交易金の上前をはね、南薔人からは『土地代』を、商人からは『港湾使用代』を巻き上げて、私腹を肥やしているのだ。
 「南蛮の女官なら、泊めてくれるのではないかな」
 冷ややかな声を、精纜は否定した。
 「わたくしは、南蛮の殿方と会ってはならないことになっております」
 蒋赫がカナタを見、再び視線を精纜に戻した。
 「なるほど。ならば、一つ、心当たりがある。
 釣った魚を卸している家なのだが、奴だけは家の中で火を熾しているんだ」
 「なんで?屋内で火を使っちゃいけないんだろ?」
 気安く尋ねるカナタに、蒋赫もあいまいに頷く。
 「俺も、魚を卸しに行ってなけりゃ、奴が屋内で火を使っているなんてわからなかった。
 ただ、どういう薪を使っているのか、奴の家からは煙も火花も出ない。
 家も石造りだし、かまどの周りには燃えるようなものが何もないから、まぁ、いいかと思ってな」
 「いいのかねぇ・・・」
 肝心なところでおおざっぱだな、と感想を漏らすと、蒋赫は精悍な顔に苦笑を浮かべた。
 「陸の事には興味がないんだな、と言ってくれないかな」
 鷹揚に言う蒋赫にしかし、沙羅は念を押すように尋ねた。
 「危険なところではないのですね?」
 彼女は自身の手に王位を掴む為にも、大切な命を危険に晒すわけにはいかない。
 「大丈夫だ。変わった奴だが、悪い奴じゃない」
 蒋赫は、一同に待っていろ、と言うと、足早に船へと戻った。
 そして、船員たちに何やら指示すると、粗末な木箱を一つ、抱えて戻ってくる。
 中には、蒋赫らが釣った魚が数尾、ぷかぷかと口を開けていた。
 「こっちだ」
 一同を率いるように先頭に立ち、大股で闊歩する蒋赫の後ろに従って、四人は港を出る。と、水際だからだろうか。
 たくさんの火がはぜる音と共に、香ばしい匂いを振りまく屋台通りが現れた。
 雨の心配がない為か、夜店のような屋根はないが、代わりに砂埃を防ぐよう、店主たちの胸の辺りから下を、厚い布地が覆っている。
 そのため、彼らがどんな料理を作っているのかは、そばに近づいてみないとわからなかったが、この辺りの人間なら、そんなことは店主の顔や、店から立ち上る匂いでわかるのだろう。
 屋台の中を覗いてまわる人間は、ほとんどいなかった。
 だが、どんなものがあるのか知らないカナタが、嬉しげに屋台を覗いていると、
 「可愛いぼうやね。飴をあげるよ」
 「お腹すいてないかい?お魚があるよ」
 と、年配の女たちが次々とカナタに・・・、いや、カナタが抱く依坤に寄ってきた。
 「・・・すまん。急いでいてな」
 先を歩いていた蒋赫が助けに入ってくれたが、女達は引かなかった。
 「これを持ってお行きよ。干しイチジクだよ」
 「夜は冷えるよ。この毛布を上げよう」
 子供が好きそうなものを持って、わらわらと寄ってくる女達に、『おまけ』のカナタはもみくちゃにされ、押しつぶされそうになる。
 「カナタ!」
 大きな手に引かれて広場を横切り、立ち並ぶ建物の隙間に入り込んだ。
 「大丈夫ですか?」
 先に入り込んでいたらしい精纜の、気遣わしげな声に、なんとか頷きを返しながら、カナタはこわごわ背後を見遣った。
 「なに、アレ?」
 悪意がない事は、はっきりとわかるのだが、大挙して押しかけるおばさん達はとても恐かった。
 「子供が珍しいんだ」
 魚臭い手で依坤の頭をぽんぽんと叩きながら、蒋赫が笑う。
 「珍しい?」
 意外そうに聞き返すカナタに、蒋赫は頷いた。
 「あのおばさんたちも、子供が欲しかったんだろうよ。産もうったって、なかなか産めるもんじゃなし、ようやく産んだとしても、育てられやしないからな」
 その言葉に、カナタは精纜から聞いた話を思い出した―――― 女が、子を産めなくなったと。
 カナタは、貧しくても、自身が飢えても子を願う女達を見て、少し悲しくなった。
 彼の住んでいた世界では、飢える心配も飢えさせる心配もないのに、自身の為に子供を作らない、作っても少数にとどめる夫婦が多い。
 彼らの方針を間違っているとは言いたくないが、こちらの世界とあちらの世界では、どう考えても、こちらの方が自然であるように思えた。
 「良かったな、たくさんもらえて」
 言うと、意外にも依坤は、素直に頷いた。
 「・・・船酔いした?」
 カナタの問いに、依坤はむっと目を尖らせたが、ふいっと広場の方に顔を向けたまま、黙り込んでしまった。
 地精王の沈黙を不気味に思いながら、カナタは蒋赫に続いて隙間の奥へと歩を進める。彼は、その背後に、白くきめ細やかな砂が、滴のように点々と落ちた事に、全く気づかなかった。


 蒋赫が一同を案内したのは、細い道の両側にぎっしりと詰まった建物群の中に埋没する、小さな家だった。
 そこへ到達した時、カナタは、蒋赫の道案内無しに港に戻るのは絶対無理だと確信したくらいだ。
 それほど、ここにいたるまでの道は複雑に入り組んでいたのである。
 「おい、赤毛」
 どういうあだ名だ、と、呆れる程センスのない名を呼んで、蒋赫は家の中へずかずかと入って行った。
 予想通り小ぢんまりとした部屋は、どこから採光しているのか、驚くほど明るく、その隅々までがはっきりと見渡せる。
 「赫か?」
 奥にある、細い階段の上から、張りのある若い声が答えた。
 蒋赫に優るとも劣らない、朗々たる声である。
 「魚と客だ」
 蒋赫が答えると、会話の内容はともかく、壮大なオペラでも聞いているような錯覚に陥る。
 「客ぅ〜?」
 不審げな声とともに下りてきた人物を見て、カナタは思わず声を上げた。
 「・・・なんだ?」
 驚いてカナタを見遣った男は、『変な奴』といわんばかりに眉をひそめる。
 その様子に一瞬、カナタは人違いかと思ったが、彼の中の麗華が断言した。
 『火精王!!』
 やはり、と見遣った先で、炎の王は硬直していた。
 「い・・・・!!」
 金色に輝く瞳は、まっすぐにカナタの腕の中を見据えている。
 「・・・ひさしぶりじゃのう」
 火の王の視線を軽々と受け止め、にたりと笑みを浮かべた依坤は、ひらりと石造りの床の上に飛び降りた。
 「依坤・・・っ!!なんでここに・・・っ」
 「なぜ、は、わしの方が問いたいわ、この浮き草め」
 つかつかと歩み寄る依坤から逃げるように、火精王はじりじりとあとずさる。
 「赤毛・・・?」
 いぶかしげに二人を見比べた蒋赫が、答えを求めるようにカナタを見つめた。
 説明しかねて精纜達を見遣ったが、彼女らも目の前に立つ、赤毛の男の正体を見極められないのか、呆然と成り行きを見守っている。
 「えっとね、蒋赫・・・」
 「わしもこの男達も、人間ではないと言うだけじゃ。気にするな」
 そう言われて気にしない人間がいたら、お目にかかりたいものだ。
 しかし、蒋赫は、人間の中では豪胆か、もしくは鈍い部類に入るのだろう。
 「誰がなんだと?」
 未知の魚の名を聞くような、多少の興味がこもった声に、カナタは苦笑した。
 「つまり、この部屋にいる男の中では、あんた一人だけが正真正銘の人間だって事」
 「人間じゃなきゃ、何だ?精霊か?」
 本人は、冗談を言ったつもりだったろう。カナタが頷くまでは。
 「しかも、俺以外は王様さ」
 「・・・余計な事を言うんじゃねぇよ」
 苦々しいサラームの声に、カナタは思わず首をすくめた。
 「助かったんだな」
 狭い階段の上に座り込み、吐息するサラームを見上げて、依坤は薄く笑みを浮かべる。
 「少しは心配したか?」
 「公主はいかがお過ごしだ?」
 依坤の問いには答えず、サラームは苦笑した。が、依坤はその答えを知らない。
 「・・・助かったのだろう?」
 振り仰がれて、カナタは頷いた。
 「風精王が助け出したよ。今は・・・なんて言ったっけ?」
 『渺茫宮(びょうぼうきゅう)』
 「そう、渺茫宮、にお帰りあそばれれ・・・られ?」
 『お帰りあそばされました  お帰りになりましたでもよろしくてよ』
 「お帰りになりました」
 「・・・誰と会話してるんだ、お前?」
 いぶかしげに問うサラームに、カナタは『灯りを消してくれ』という、麗華の言葉を伝えた。
 すると、サラームは意外にも素直に、カナタの要請を聞き入れてくれた。
 彼が軽く手を払うや、部屋中を明るく照らしていた光は瞬く間に力を喪い、あとはただ、小さな窓から入る残照が、額縁に入った絵のように壁の上部に映るのみである。
 その、ほのくらい床に落ちたカナタの影の中から、蒼い陽炎が浮かび出た。人間たちが思わず息を呑む前で、サラームはぼんやりと呟く。
 「・・・麗華」
 呟きとともに、鋭い視線がカナタを捕らえた。
 「お前、カナタか?!」
 しかしすぐに、事情を察したらしく、その目が和らぐ。
 「さすがは澪瑶公主、豪華な褒美だな。このジジィは何をくれた?」
 気さくな口調に、カナタは笑って依坤の髪をかき回した。
 「好きな時に死んでいいって」
 「ジジィらしい」
 笑声はしかし、依坤の目を見た途端に引き攣った。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・家出中」
 「・・・っこの馬鹿者!」
 一喝されて、サラームは小さくもない身体を縮める。
 「おぬしがおらなんだから、この地が小娘のいいようにされたのじゃ!とっとと瑰瓊(かいけい)へ帰れ!!」
 「やってられっかよ!!好き勝手しやがって、わがまま放題だ!俺は太鼓持ちじゃねぇ!!」
 「役目はどうした!!」
 「ちゃんとやってるさ」
 ふてくされたサラームは、狭い階段の上で器用にあぐらをかいた。
 「風精王が、なんでだかまだ出てこねぇんだけど、他の将星達が出てきたからな。ずいぶん楽になったぜ」
 言って、残照の消えた窓に、小さく灯る星影を示す。
 「哩韻(リィン)がいるのといねぇのとじゃ、伝令の速さが格段に違うからな」
 風精の諜報隊長が放つ光を見つめ、サラームは立ち上がった。
 「じゃ、俺は出かけるから・・・!」
 「待たぬか、こら」
 言うや、依坤はサラームが纏う麻の短衣を乱暴に掴んだ。
 人間たちは、子供の小さな手など、簡単にふりほどかれると思っただろう。
 しかし依坤は、自分が通常の生き物ではない事を、自らの手で証明して見せた。
 自分の何倍も大きな体躯で、必死に抵抗するサラームを踏み止まらせただけでなく、あっさりと引き寄せたのである。
 「逃げる気か?」
 冷ややかな声に、サラームは抵抗を諦め、依坤の前に膝を折った。
 「もうすぐ月が昇っちまうんだ」
 「だからなんじゃ」
 「夜警に行きたいなっ」
 「今宵はわしの警護をせい。火精王の地位から引きずり降ろされとうなかったら、わしを母皇の御元へ連れて行くのじゃ」
 他の精霊王の口から出た言葉なら、それがたとえ太子や公主の言葉であっても、サラームは鼻で笑ったことだろう。
 しかし、依坤ほど永く王の地位を守り通してきた精霊はなく、彼なら、他族の王の地位ですら、奪う事は可能だった。
 サラームはその顔から、みるみる血の気が引いて行くのを止める事が出来なかった。
 「ついでに、お前も欲しい」
 蒋赫を振り返り、依坤は断言した。
 「・・・は?」
 間の抜けた答えだったが、無理もない。
 彼は今、猛烈な勢いで、精霊王たちに対する無礼な行いの数々を思い起こしていた事だろう。
 「俺・・・いや、私ですか?」
 これ以上無礼な行いをしないよう、口調を改める蒋赫に、依坤は頷いた。
 「この巫女らが、国を取り戻すのを手伝ってやらんかの?」
 蒋赫は依坤の言葉に全く驚かなかった。いや、驚けなかった。
 天地の調和を司る精霊王達と真向かい、散々無礼な態度を取ってきたのだ。
 自分が南蛮から運んできた女達の正体が人界の王だったからといって、先ほどの驚愕に比べれば大して意外でもない。
 蒋赫は、しばらく眉を寄せて考え込んだ。
 それは、王族を助けて国を再興するのと、精霊王の機嫌を損ねて死後や来世の幸福を喪うのと、どちらがより危険かを秤にかけているようだった。
 やがて、彼は依坤とサラームの前に膝を折った。
 「拝命致します」
 続いて精纜らの前に膝を折り、
 「ご本名を明かしてくださいますか?」
 と、立ち並ぶ女達を見上げた。
 「経王が娘、精纜。こちらはわたくしがお産み申し上げた『精霊の子』、沙羅殿下におわします」
 彼女の言葉に、蒋赫はわずかに目を見張ったが、動揺は見せずに頭を垂れ、滑らかに忠節の誓いを述べた。
 決めた以上は、決して後悔しない毅さを持つ男である。
 彼自身の将来を輝かしいものにする為にも、努力を惜しまないだろう。
 「・・・蒋赫殿。やはり貴方、ただの商船主ではありませんね」
 黙って口上を聞いていた精纜が、ぽつりと呟いた。
 王族へ対する物腰が、あまりにも慣れている、と言うと、蒋赫は精悍な顔に苦笑を浮かべた。
 「泓(こう)州、昭栄(しょうえい)県の元県令、蒋清羅(ショウ・セイラ)は、私の母です」
 そこは、南薔の東南に位置する地である。
 「では、船に乗っていた方々は、貴方の部下なのですか?」
 「いえ、彼らは昭栄県の漁民です。泓州が東蘭に領有されて以来、州侯や県令は追い出されてしまいましたのでね。
 酒場仲間だった船長に頼んで、漁を教えてもらう為に乗り込んだのです」
 しかしその彼は、不当な徴税を仕掛けてきた南蛮の役人と喧嘩して、今はこの町の牢に入っているのだと言う。
 蒋赫が操っていた船に船長がいなかったのは、こういう訳だったのだ。
 「・・・荀は、貴方が南薔の県令の子であることを、知っていたのでしょうね」
 精纜の言葉に、カナタは南蛮の内侍の姿を思い出した。
 抜かりなく、宮廷の荒波を乗り越えてきた宦官は、そ知らぬ顔で多くの人間達を見つめてきたのだろう。
 「どうやら奴は、おぬしから受け取った金子(きんす)にふさわしい働きをしたようじゃの。強欲なだけの人間ではなかったようじゃ」
 依坤の、笑みの容に曲がった瞳が、きらりと光った。
 「さて、おぬしら。膳立ては荀によってなされた。この後を、どうするつもりじゃ?」
 ことの仕掛け人がいけしゃあしゃあと。
 カナタもサラームも、もの言いたげな目で依坤を見たが、周りの人間達はその異様さに気付いていないようだった。
 「昔の知己に、協力を仰ぐ手紙を出したのですが、蒋赫殿の話を聞く限り、東州候のご協力は頂けないようですわね」
 そう言って、精纜は星の浮かぶ窓外を見上げた。
 「南州候や西州候が・・・ご無事であればよろしいのですが」
 その数日後、南州候夫人は手紙を受け取った。
 その境遇に、不満を持つ女が。


 「ごきげんよう、皆様!」
 華やかな声に、練兵場に集まっていた兵達は皆、武器を操る手を止め、一様に美しい未亡人を見遣った。
 「夫人・・・」
 南蛮人や南薔人が入り交じる中で、最初に苦々しい声を上げたのは、南蛮から派遣された軍監である。
 武人とは思えないほど典雅な身ごなしの男は、強烈な日差しを遮る天幕の下から出ると、ゆったりと英華の側に歩み寄った。
 「何のご用ですかな。ここは、貴女がいらっしゃるような場所では・・・」
 「あら、あたくし、ご意見しに参りましたのよ」
 あでやかな笑みを受けて、軍監は思わず息を呑んだ。
 三人の息子がいるとは思えない、若々しい美しさである。
 「・・・ご意見、とは?」
 声が上ずりそうになるのを必死に抑えつつ、軍監は、自身が威圧的だと信じる視線で前南州候夫人を見下ろした。が、それは女の笑みにあえなく敗退し、その滑らかな肌の上をむなしく滑り落ちる。
 「ねぇ、閣下。お母様はお健やかでいらっしゃる?」
 「元気でいるが・・・」
 艶めいた声に、軍監はつい素直に答えてしまった。
 「お母上は、遠い任地に赴かれた閣下の事を、さぞや心配されていらっしゃる事でしょうね」
 「何がおっしゃりたいのだ、夫人」
 彼は苛立たしげに声を荒げた。前南州侯を惑わし、殺した妖婦の魔力に抗うように。
 だが、英華は全く怯みを見せず、
 「あら、少々回りくどうございましたか。南の殿方は、ほんとにお気が短くていらっしゃる」
 にこりと目を細めた。
 「いかなる国の、いかなる民の母であれ、子の身を心配するのは当然の事でしょう?
 遠い故郷にいらっしゃる、貴方のお母上と同じく、わたくしも子の事を心配しておりますの」
 「それは、南蛮に招かれている御子息の事ですかな?」
 ならばこの様な場所で話す事もあるまいに、と、軍監はあからさまに眉をひそめる。
 「わたくしのかわいい英利!もちろん、あの子の事も心配ですわ。
 年端も行かぬ息子の妻を、無理矢理奪うような王の国ですもの。
 悪い影響を受けてやしないか、気の休まる時がございませんのよ」
 「無礼であろう」
 渋い顔をする軍監の背後で、兵らの表情が見事に二派に別れた。
 上官に倣って眉をひそめたのが南蛮兵。思わず笑みを浮かべたのが南州兵である。
 「本当の事ではありませんか。貴方がたも、心の内では恥知らずな王だと思ってらっしゃるくせに」
 あでやかな笑みを浮かべる英華に、何か言い返せる事はないかと、軍監は汗の浮いた額の奥で、懸命に言葉を捜した。
 やがて、
 「貴女に我が王を笑う事ができるのか?」
 笑みの容に唇を曲げ、軍監は英華の身体をじっくりと眺めた。
 「夫のある身ながら、その浮き名は絶えることなく、とうとう南州侯に首をくくらせてしまったではないか」
 「南州侯?貴方のおっしゃる南州侯とは、誰の事ですの?」
 顔から笑みを消し、英華は、彼女と軍監のやり取りを見守る男達の・・・特に、南薔の男達の顔を見回した。
 「貴方たち。今の南州侯は誰?」
 問いは、沈黙によって返された。
 「耳がないの?わたくしは、今の、お前たちの、主人は、誰か、と聞いているのよ」
 ゆっくりと繰り返す英華の声に、壮年の男達がこわごわと身を竦める。
 「言うまでもなく、今の南州侯は貴女のご子息だ。なにか不服がおありか」
 「ええ、不服ですとも!」
 軍監の言葉に、初めて英華は声を荒げた。
 「南薔は敗戦国ですから、実際には貴方達、南海の将校が軍を掌握するのは仕方のない事でしょう。
 ですが――――」
 今度ははっきりと、南薔の男達に向き直る。
 「彼らはわたくしの子を、ひどく軽んじているようですわね。なんでも、息子の命に従わぬものが多いとか」
 厳しい視線に、南薔時代を知らぬ若い男達ですら首を竦め、こわごわと美しい未亡人を見遣る。
 その様子に、英華は不快げに眉をひそめた。
 「南薔の息子ともあろう者達が、腑抜けたものね。南の蛮人どもに頭を押さえつけられて、言いたいこともいえないの?」
 「夫人。お言葉が過ぎよう」
 軍監の、憤りを抑えた声を、英華は無視する。
 「范(ハン)!なんとかおっしゃい」
 名を呼ばれた体格のいい男は、しおしおとこうべを垂れた。
 「芍(シャク)!どうなの?」
 壮年の男は、情けなく顔を歪める。
 「はっきりしなさい!いい年をして口も利けないなんて、私がお前たちの母親だったら、思いっきり鞭をくれてやるところよ!」
 言うや、英華は剣のように腰に下げていた鞭を手にとり、いきなり軍監に振り下ろした。
 不意の事態によける事もかなわず、額を強打された彼は、悲鳴を上げて膝を折る。
 「貴様!!」
 殺気立った南蛮兵たちが、剣を抜いて英華に斬りかかった。
 途端、すさまじい爆音を轟かせて、州城の一角から火の手が上がる。
 「な・・・!」
 度肝を抜かれ、思わず吹き上がる炎を見やった南蛮兵の首筋に、避ける間もなく南薔製の剣が振り下ろされた。
 「さすがは息子達。お母様達が何をするか、想像はついていたようね」
 彼女の身を守る為、とっさに剣を抜いて集まった来た男達に微笑み、英華は足元にうずくまる軍監を見おろす。
 「将校の皆様方は、火葬にされたようですわね。火を消すのが大変だわ」
 「・・・火薬を・・・?」
 英華の視線を受けた男は、喘ぐように呟いた。
 その首筋には、芍将軍の持つ長剣の刃が当てられ、暑熱の為だけではなく吹き出した汗が厚刃の上を滑り落ちてゆく。
 「この城で一番いい部屋だったのに。でも、貴方達の酒場にさられるくらいなら、吹き飛ばしたほうがましだわ」
 無邪気な子供のように炎を見てはしゃぐ英華に、言い知れぬ恐怖を感じながらも、彼は、誇りを捨てて命乞いをする事はなかった。
 「・・・こんなことをして何になる。
 南州は既に掌握した!三州十八県の高位を南海人が占め、全ての民が南海王の統治の元に生活を保証されているのだ!
 たとえ今、城内の南海兵を全員殺したとて、南州に駐留する我が王の兵達が、必ずお前とお前の息子達の首を取るぞ!!」
 「それはどうかしらね?」
 涼しい顔をして微笑む英華に、軍監は言い募る。
 「南海には、お前の息子が人質になっているのだ!奴の命が惜しければ・・・!!」
 「はっ!」
 軍監の言葉を、英華は嘲って蹴り飛ばした。
 思い切り良く裾をまくり、地に這う男に白いすねをさらす。
 「子供くらい、また産んでやるわよ!」
 芍将軍の剣が男の動脈を掻き切り、英華の衣装に紅い飛沫を撒き散らした。
 「南薔の息子達!南の蛮族どもを、月の彼方に送って差し上げなさい!!」
 鋭い一喝に、英華のもとに集まった男達は、猛然と南蛮兵に襲いかかる。
 「なにを・・・!!!」
 「狂ったか!!」
 あまりの展開に呆然としたところを襲われて、決して惰弱ではない南蛮の兵達は、麦穂を刈るように命を刈られて行った。
 そして、城内でも。
 州城の地下にある牢をも揺るがす、突然の爆音に、四人の看守はおもわず腰を浮かした。
 「何の音だ?!」
 いつもより早く夕食を運んできた、二人の飯炊き女を押しのけ、出口に殺到していく背に、深々と肉切り包丁が食い込む。
 「あぁ・・・恐ろしい・・・」
 おびえ、縋り付くふりをしながら、女達は次々に看守達を刺していく。
 間もなく、看守達を永遠に沈黙させた二人は、邪魔が入らないように、内側から鍵をかけた。
 「もぅ、汚れちゃったわ」
 血糊で濡れた手を看守の衣服で拭きながら、栞(カン)が眉を寄せる。
 「匂いが染み付いたらやだわー」
 「そんなことより、牢の鍵は誰が持ってるの・・・?――――またはずれだわ!」
 石畳の上に倒れ伏した看守の身体をまさぐりながら、栖(セイ)はいらだたしげに三人目の体をまさぐり始めた。
 二人とも、英華に比べると年と容姿がわずかに下回るが、南蛮占領以前は南州候の重臣として、高位高官を思うが侭にした名家の生まれである。
 同じ男を『夫』とし、共に謀って毒を盛り、つい先日、夫の葬式を挙げた未亡人達だった。
 「私、彼が持ってると思う」
 栞が、その衣服で手を拭いていた――――つまり、栖がまだ触れていない死体を示すと、彼女はむっとした顔を上げた。
 「嘘よ!絶対この男が――――はずれたわ!」
 死人の頭部を思いっきり殴って、栖は最後の男に取り付く。
 「詩羅(シーラ)ちゃんが最後まで選ばなかったのが正しいのよねー」
 手伝いもせず、にこにこと作業を見守る栞に、栖の目が尖った。
 「何をぼけっとしてるのよ!手伝いなさいよ、アンタ!」
 「やだー。手が汚れるんだもん」
 「いい加減にしないと、怒るわよ、ほんとに!!」
 すでに怒っている。
 が、栞はこんな状況に慣れているのか、小鳥のように小首を傾げて、栖にのしかかられる、哀れな男の腰のあたりを示した。
 「見ーつけた」
 「いい年をして、子供みたいな話し方をするんじゃないわよ」
 死体の腰から鍵の束を乱暴に引き抜いた栖は、先を越された悔しさもあって盛大に舌打ちする。
 「いじわるねー、もぅ」
 「いいから、いくわよ!」
 少女のように細い栞の手を掴み、栖は地下牢の奥へと走った。
 「筝(ソウ)殿!筝殿!お返事くださいまし!!」
 「筝様――!佳蘭(カラン)ですよー!詩羅と佳蘭でーす!」
 二人が騒々しく駆けていく間に、両側にびっしりと立ち並んだ格子の奥で、闇がうごめいては低いうめきがわだかまる。
 「そ・・・筝さまぁ〜?!」
 恐怖に身を寄せ合い、それでも裏返る声に、やっと答えるものが現れた。
 「筝汪花(ソウ・オウカ)はここにいますよ」
 女のものにしては低い、しかし理知的な声に、二人は胸の奥からほっと息をついて声の方向へ歩み寄った。
 「筝様、お助けに参りました!すぐにここを出ましょぉー」
 よほど心細かったのだろう。
 今にも泣き出しそうな声を出して、栞が格子にすがった。
 「何があったのです?」
 助けに来た、と言われても、すぐに飛びつくような筝ではない。
 状況がわからぬことには、一歩たりともここを出ることはないだろう。
 「南州候が、南薔再興の兵を興されます」
 「南州候とは、どなたを指して言うのですか?」
 英華が南蛮の軍監に言った言葉を、そのまま引用したかのように筝が問うた。
 「茱(シュ)家の先代がお亡くなりあそばした今、南州候は英華様お一人ではございませんか?」
 栖の、笑みを含んだ声に、筝は闇の中で頷く。
 「城内の女達は、皆、英華様に従っております。多くの南蛮兵を一個所に集めて、火葬にしたようですわ」
 「・・・火を消すのが大変だ」
 栖の話に、またもや英華と同じ感想を漏らして、筝は大儀そうに立ち上がった。
 「開けてください」
 筝が格子に寄ると、骸骨の上に薄皮を貼り付けたような輪郭が、闇の中に浮かび上がる。
 「ちょっと待ってください、どれがここの鍵だか・・・」
 何とか鍵穴を探り当てたものの、鍵束には大小何十本もの鍵が束ねられており、一つずつ試すのには相当の時間がかかりそうだった。
 栖が、もたもたと鍵を入れてははずし、当てては弾かれしていると、筝が、格子の間からそっと骨の浮いた手を差し伸べた。
 「あなたが、絶対にこれではないと思うのは、どれ?」
 「はぁ?!」
 こんな時に何の冗談かと栖が目を剥くと、傍らの栞が、高らかに手を打った。
 「詩羅ちゃん、はずすの得意だもんね!」
 栖は、何とか反論してやろうと、栞がいる辺りを睨んだが、
 「逆に言えば、貴女が選ばないものが必ず正解だと言うことです」
 静かな筝の声に、ふと思い至って、鍵束に顔を寄せた。
 一つずつ容を探り、いくつもそれらしいのを見つけながら、絶対に、こんなに小さな鍵が牢の鍵なんかであるはずがないと確信したものを、鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。と、
 かちり。
 軽い音を立てて鍵は半回転し、押すまでもなく格子の一部が外れて、人一人が通れるほどの隙間が開いた。
 「う・・・っそ―――――!!!!」
 歓喜の声を上げる栖に、
 「さすが詩羅ちゃんー!外れ引かせたら世界一ね!」
 栞が、少々的外れな感想を述べる。
 「・・・なんか今、一気に気分が盛り下がったわ」
 「ありがとう、栖殿、栞殿。早く参りましょう」
 牢から出た筝に促され、二人は来た道を、足早に戻っていく。
 だが、その途中、
 「私も・・・!私も出してぇ!!」
 「俺は殺っちゃいない!!助けてくれ!!」
 「出してくれ!!出してくれ!!出してくれ!!」
 闇に閉じ込められた者達が、格子を揺すり、口々にわめきたてる。
 「筝様・・・」
 「かまわず行きなさい、栞殿」
 「ですが・・・」
 牢に閉じ込められた者達は、更に声を振り絞る。
 「お願いだ!!助けておくれよ!!」
 「出してくれ!!助けてくれ!!」
 「何もしてないんだよぉ――――!!」
 囚人達の絶叫は、石造りの牢内にこだまして、耳を聾(ろう)さんばかりだ。
 「筝殿・・・!」
 たまらず筝の身体に縋った栖は、次の瞬間、その背がぴんと伸び、胸が大きく膨れていくのを感じて、慌てて耳を塞いだ。
 「だまらっしゃい!」
 絶叫を圧する声は、石造りの牢内で幾重にも反響し、囚人達の喉に鉛を詰め込んだ。
 「いかなる罪によって投獄されたかわからぬ者を、易々と解き放てると思うか!
 罪なくして投獄された者は、この筝汪花が、必ず解き放してやろう。
 長く待たせはせぬ。わずかの間、お待ちあれ!」
 言うや、きびすを返した背に、哀願の声はかからなかった。
 筝汪花。
 茱家の先代のもと、名法官として、また、先代の参謀として名を馳せた女である。
 彼女の裁きに不公平はなく、罪無き者が投獄されたことはない。
 無実の者達は歓喜に声もなく、有罪の者は舌打ちして闇の中へと戻って行く中を、筝らは足早に抜けて牢の外に出た。
 「・・・相変わらず、やる事が派手ね」
 久しぶりに日の光を浴びた筝は、呆れたように吐息した。
 厨房のある一角からは炎と断続的な爆音が、練兵場からは喚声が、賑々しく沸き上がっている。
 「全く、お母上そっくり」
 薄い唇に笑みを乗せ、背後に従う栖と栞を振り返る。
 「別々に動いていては、南蛮の反撃に遭います。連携させて、一気につぶしますよ」
 言うや、南蛮風の長い裾を引きちぎり、髪を結い上げた。
 栖と栞も、筝に倣うように下女から借りた、粗末な衣服を脱ぎ捨てた。その下には、男物の短衣とズボンを着込んでいる。
 「血の染み、落ちないだろうなぁ・・・」
 脱いだ服を、きれいにたたもうとした栞の腕は、栖によって乱暴に引き上げられた。
 「新しいのをあげればいいでしょ!早く行くわよ!!」
 言うや、栖は栞の手を引いたまま、城内へ向かった筝の後を追って駆け出した。
 ―――― その数刻後、漆黒の天球に将星のかがり火が瞬く頃、南蛮兵は、一人残らず南州城より駆逐された。
 「南州侯!」
 「南州候、英華閣下!」
 男達の歓声に、手を振って応えながら英華は・・・先祖代々、南州候を名乗ってきた女は、誇らかに笑って見せた。


 南蛮からやって来た一行が、奇妙な宿主の元に滞在するようになって数日が過ぎた頃、普段通りに海に出た蒋赫がある話を仕込んで来た。
 繁葉の町に、巫女らしき老婆がうろついていると言うのである。
 「珍しいわけ?」
 巫女の国に巫女がうろついていて、何がおかしいのかと、いまいち状況が飲み込めないカナタが、ダイニングキッチンのように造られた厨房から居間に顔を出すと、蒋赫ははっきりと頷いて見せた。
 「南蛮は、南薔の神職の力を極端に恐れていてな。占領した土地の神殿を、神職達が集まってこないように壊したんだ。その地の神職たちも殺したり他州に追放したりで・・・この辺からは神職がいなくなっちまったのさ」
 「では、助けて差し上げねば・・・殺されるかもしれないのでしょう?」
 精纜の、不安げな声に、しかし、蒋赫は苦笑して首を振った。
 「奴等、相手にもしてません。
 どうもぼけてしまっているようで、古い讃歌を歌いながらよたよた歩いてるだけですからね。別に、咎める事もないと思ってるんでしょう」
 「古い歌・・・」
 精纜と沙羅は顔を見合わせた。
 一体、どんな巫女なのだろうと。
 しかしカナタは、年老いた巫女の事など一瞬にして忘れ去り、隣に立つサラームの手元を真剣に見つめていた。
 「・・・これでどうだっ!」
 「恥を知れ」
 魚の切り身を前に、カナタの言葉は容赦がない。
 「新米主婦なら、これで良しとしよう。だがお前は料理人だろうが!こんなものが客に出せるか!!」
 「なぜだ!!」
 「俺の切ったのと比べてみろ!!」
 サラームのぶつ切りに対し、カナタが切った魚の断面は、滑らかに周りの風景を映し出していた。
 「雲泥の差じゃの」
 棚の上に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら、依坤がからかう。
 「ただ切ればいいってもんじゃない。包丁の刃を押し付けるんじゃなく、滑り込ませるように引きながら切るんだ」
 「・・・・そんなん、焼いちまえば同じだろ」
 憮然とした声に、カナタは声を低くした。
 「オロスぞ、お前」
 その声に、天空では無敵の火の将軍がおもわずたじろぐ。
 「確かに火の通し加減は完璧だ!だがその前に、素材を台無しにするようじゃ、料理人の資格はない!!」
 絶望を隠しきれないサラームの顔を見て、依坤が声を上げて笑う。
 「人には向き不向きと言うものがあるのじゃ。さっさとあきらめて、瑰瓊(かいけい)へ戻るべきじゃのう」
 「うっ・・・うるさい!!誰が諦めるかよ!!」
 厨房の喧騒に苦笑する蒋赫の手を、沙羅がそっと引いた。
 「その巫女殿は、どちらにいらっしゃるのです?」
 「南蛮に壊された、神殿跡です。屋台の連中が、食べ物を持って行ってるそうですよ」
 「会えますかしら?」
 精纜が申し出ると、蒋赫は目を見張った。
 「おやめください。繁葉は人が多く、貴女を知っているものがいないとも限りません。どうか・・・」
 しかし、精纜は首を振って蒋赫の言葉を遮り、厨房横の丸い卓に乗った、売るほどある魚料理を示した。
 「カナタ様、その、出来上がったお料理を頂けますか?巫女殿に会って、確かめたい事があるのです」
 なにを、とは聞かなかった。
 「お年寄りにサラームの料理は気の毒だ。俺のを持っていってください」
 にこやかな声に、当然、サラームは反発した。しかし、
 「文句は、ちゃんと包丁を持てるようになってから言うんだな」
 冷厳なカナタの声に、憮然と厨房へ戻っていった。
 「お母様、私も参りましょうか?」
 沙羅が申し出たが、精纜はこれも断った。
 「わたくし一人で参りましょう。もし帰ってこなければ、あなただけでも・・・」
 そんな不吉な言葉を吐かれて、そのまま行かせられるはずがない。
 「お供します」
 蒋赫が再び申し出たが、
 「いけません。わたくしどもが貴方の船に乗って来た事は、多くの者達が知っている事でしょう。
 南蛮兵に怪しまれるような事は避けましょう」
 「じゃ、サラームが行けばいいさ」
 「なぜ?!」
 「俺は荒事は苦手なんだ」
 ほらほらと急き立てて、カナタがサラームを出入り口へと追いやる間に、精纜はすばやく腹部を隠す変装をしている。
 「気をつけていってこいよー」
 軽く手を振りながら、カナタは嵐が通った後のような厨房を片付けはじめた。


 『聖なる山に 夕陽は落ちて 
 昇れる月に 御魂は満つる ♪』
 崩れた神殿にゆったりと流れる低い歌声が、近頃ではこの辺りの流行りになった。
 億劫なのか、滅多に動かない老婆がしゃがみこむ辺りには、たくさんの食べ物や毛布などが積まれている。
 それらを、老婆が惜しげもなく配ってしまうので、食物を目当てに集まった人間たちも多かった。
 「なんだ、ありゃ」
 一言、そう言って、サラームは崩れ落ちた階段の上に座る、小さな老婆の周りを見遣った。
 精纜を伴った彼が近づいて行くと、その手にある魚の揚げものが、香ばしい匂いを振りまく。
 その香りにつられたように目を上げた幾人かが、嬉しげに道を開ける中を滑るようにして、精纜は粗末な衣を頭から被る老婆の前に歩み寄った。
 「私にも、讃歌を教えてくださいな」
 虫の羽音のような声で囁きかけると、老婆は身体を前後に揺らしながら、しわがれた声で歌いはじめた。
 『聖なる山に 夕陽は落ちて・・・♪』
 意外としっかりした音律に、周りの人間たちは感心して、その簡単な歌を唱和しはじめた。
 が、老婆は大きく息をつくと、歌を途中で止めてしまった。
 「・・・ここより先は、婆には音が高ぅございます」
 「どうか今宵は、わたくしの宿にお泊まりください。よろしければ、貴女様の、お若い頃のお話を聞かせてくださいませ」
 精纜の申し出に、老婆は皺だらけの唇を笑みの容に曲げ、ゆっくりと頷いた。
 「町の皆様の暖かいお心づかいに、凍えることなく過ごして参りましたが、年老いた婆に石の褥はつろうございます。
 ありがたく、お受け致しましょう」
 老婆の言葉に、人々の嘆声が沸いた。彼女のお零れに預かって、なんとか凌いできた人間たちである。
 老婆は彼らに一礼すると、精纜の手を借りてよたよたと立ち上がり、再び深く首を垂れた。
 「・・・じゃぁ、これはお前らで食ってくれ」
 サラームは料理の皿を身近にいた一人に渡し、のろのろと進む女達の後についていった。
 「・・・おぶってやろうか?」
 ゆっくり歩くのにすぐ飽きたサラームの申し出を、老婆はのそりとこうべを振って断る。
 「畏れおおぅございます」
 「俺は畏れられるほど偉くはないんだがな」
 だが、老婆は本物の巫女だった。
 白く濁った目でサラームを見上げると、彼の前に深々と首を垂れた。
 「わたくしめは貴方様のお慈悲に縋り、生きておる婆にございます、火の王よ」
 「誰だ、お前は」
 苦笑するサラームに、老婆は唇に寄った皺を伸ばすように大きく微笑んだ。
 「わたくしめの身分は、ゆっくりお話できるようになってからで、よろしぅございますか。
 なんども同じ話をしては、息の切れますゆえ」
 そう言いながら、早くも息が切れて来たのか、老婆は大きく息をついた。


 精纜の腕にすがり付いた老婆が、サラームの隠れ家に至った頃には、太陽は中天を過ぎ、黄色味を増して西へ進路を取ったところだった。
 サラームが粗末な枯れ木の扉を開けると、老婆はその、白濁した目を見開き、しわがれたうめき声を上げた。
 「・・・たたうべきかな」
 そう呟くや、冷たい石の床の上に跪き、依坤に向かって平伏する。
 「ほう。老いたりといえども、巫女であるには変わりなしか」
 感心する依坤に、老婆は激しくかぶりを振った。
 「老いさらばえております・・・!
 修行を積んだ巫女でありながら、御前をけがすまで太師のお出ましに気づきませなんだ・・・!
 ご無礼、ご容赦のほどを・・・!」
 息を詰まらせ、喘ぐように細い肩を上下させる老巫女を、依坤はしばらく見下ろしていたが、
 「免礼する。おもてを上げよ」
 厳かに、命じた。
 その言葉に、老婆は顔を上げはしたが、立ち上がろうとはしなかった。
 腰が、抜けてしまったらしい。
 そのまま、一目で見渡せる程の、小さな部屋に詰まった人々の顔を見回し、今度は軽く、首を垂れた。
 「わたくしめの正体は、これが語ってくれまする」
 顔を俯けたまま、老婆は粗末な衣服の袖を引いた。
 むき出しになった左腕の腹を上向け、ぐっと突き出すと、枯れ枝のようなそれに絡み付いた血管に沿って、刺青がほどこしてあるのが見えた。
 それは、ずいぶん昔に施されたのだろう。
 色は薄れ、かろうじて輪郭が見える程度だったが、もとは精密な植物の像が描かれていただろう事が見て取れた。
 「先々王陛下より東州侯の位を賜りました、藍合架(ラン・アイカ)と申す婆にございます」
 「東州侯・・・!」
 驚きを隠せない人間たちに、老女はゆったりと頷いて見せた。
 「さきの東蘭王により、土地を奪われ、州侯の位を奪われましてございます」
 言って、老女はしみじみと左腕をなぞった。
 「この紋は、本来なれば州侯の地位を退くと共に、皮を剥ぎ、または火に炙って消し去るものにございます。ですが、南薔王のご宣旨であればともかく、東蘭王ごときにこの紋を奪えましょうか」
 老女は白濁した瞳に力を込めた。
 「南薔は巫女の治める、巫女の国にございます。なんぞ、只人の治むるを良しとしましょう」
 声を荒げるでもなく、むしろ淡々とした声音だったが、老女の声は冷気のように、石の床からじわじわと這い上がってくるようだった。
 ―――― 狂信。
 カナタの脳裏に、不吉な影のように、その言葉が浮かんだ。
 それはかつて、いや、今でさえも、人間たちに悲惨で救いのない殺し合いをさせてきたものである。
 老女の姿は、穏やかなだけに、その心のうちは暗く、底のない深さを感じさせた。
 「南薔王陛下」
 老女が、精纜と沙羅に向かって深くこうべを垂れた時、カナタはその皺口が紡ごうとする言葉をはっきりと知覚できた気がした。
 しかし、そのしゃがれた声が語ったのは、もっと現実的な・・そう、神職が口にする事とは思えぬほど現実的な言葉だった。
 「東と西、そしてこの南は、お捨てなされ」
 思いがけぬ言葉に息を呑む女達をじっと見つめ、老女は叱るように言葉を続けた。
 「老婆心にて申し上げます。陛下の胸中にいかなる策がお有りでも、喪われたもの全てを、一時に回復されるというのは無理な話にございます。
 どうか、この婆の言葉をお聞きいれ頂き、まず、出来る事からやられた方がよろしいかと」
 精纜は何も言わなかった。彼女は、東を領有していた老女に、そのような言葉を期待していたわけではないのだ。
 『南薔国を南の蛮人どもの手に委ねてはなりませぬ。
 東蘭、西桃、南蛮の侵略者どもを討ち払い、正しき巫女の治める国を取り戻しましょうぞ』
 望んでいたのは、そんな言葉だった。そうすれば精纜も沙羅も、涙ながらに老女の手を取ったに違いない。
 老婆は不満そうな精纜達の顔から視線を外すと、蒋赫を見上げ、首を傾げて見せた。
 「どう思うかえ、そなたは?」
 田舎県令の息子である彼にとって、南薔王家が雲上人であるとすれば、東州侯は実質的な支配者である。
 蒋赫は、しばしの間、老女を見つめ返した。
 やがて、
 「私は西州の事をよく存じませんが、東と南は東州侯のおっしゃる通り、捨てざるを得ないでしょう」
 一息に言ってのけると、理解を求めるように、精纜達を見つめた。
 「ここには王都を奪回すべき軍がありません。まずは峭州(しょうしゅう)へ落ち延び、そこで兵を集めるべきではないでしょうか」
 老婆は満足げに頷き、精纜も不服げながらも頷きかけた中で、一人、沙羅だけは、聞き分けのない子供のように抗議した。
 「薔家の人間が、蛮族に遠慮せよというの?!」
 「その蛮族の子は誰だ?」
 冷厳な声は、この家の主のものだった。
 「今この国を領有しているのは、正しい巫女だとか、薔家の血筋だとかに遠慮しなかった奴らだぜ?そんな奴等に説教でもする気か?」
 カナタには堂々と言い返した沙羅も、火の王を相手に無礼な事は言えない。
 だが、その緋色の目は、つぐんだ口の代わりを十分に果たしていた。
 「精霊王がついてることを宣伝材料にするなよ。
 ジジィは別に、お前たちの味方をしてるわけじゃない。母皇陛下の御身を荒らしてしまった償いをしようとしている。ただそれだけだ」
 そうだろう、と問われて、依坤は苦々しく頷く。
 「たまたまその途上にお前らがいて、歩くより便利だからって、同行しただけさ。
 俺も、ジジィがいたから宿を提供しただけで、てめぇの立場を慮ったからじゃねぇ」
 腐っても鯛。家出中でも火精王。
 依坤の胸中を見事に代弁していた。
 「俺も、依坤も、お前らにかまけてられるほど暇じゃない。俺達の名を利用するのは勝手だが、自らを生かす努力さえ怠る奴を、なんで助けるかよ!」
 「確かに、お前の料理が人に出せる腕前になるまでには、多大な努力が必要だな」
 サラームの熱弁を、半ば楽しんで聞いていたカナタだったが、沙羅はともかく、精纜のためには反論してやるべきだろうと思い、サラームの肩を叩いて熱弁を遮った。
 「ここの魚、身が柔らかいよな。そう思わねぇ?」
 急な話の転換に、サラームはわずかに目を細める。
 だがカナタは気に留めず、皿の上で湯気をあげる、崩れそうに柔らかい魚をしげしげと見つめた。
 「これじゃ、焼いたり揚げたりしか出来ないだろ。レパートリー少なすぎだぜ」
 この魚が住んでいた海は暖かく、ほとんど波がたたない。
 魚の身が締まらないのも当然だが、その代わり、やたらと大魚が多かった。
 「しか、って、他にやりようがあるのか?」
 不思議そうな蒋赫の声に、カナタは頷いた。
 「煮たり、汁物にしたり、酢で和えたり、刺身にしたり」
 「刺身?」
 「生で食うんだ」
 カナタの言葉に、しかし、サラームは激しく抗議した。
 「馬鹿ぬかせ!!どんな素材であれ、生で食うなんて野蛮な事が出来るか!!」
 「ほとんどの外国人は、そう思ってるだろうね」
 カナタの通っていた大学は、多くの理数系学部があり、留学生が多かった。
 サークルの飲み会やコンパで、一緒に居酒屋に行くことも多かったが、コースの最初によく出てくる刺し身には、手をつけないことが多かった。
 「お前みたいに、あからさまに野蛮って言った奴はいなかったけどな、これは立派な日本料理なんだ」
 サラームは気まずげに視線を逸らし、それを見たカナタは、思わず口の端に笑みをのせる。
 「つまりさ、ここの魚は、刺身に出来るほど苦労してないって事さ。
 でもそれは、魚が努力しなかったせいじゃない。抗うべき波も、潮流もなかったからだ。
 ―――― そこで、精纜さんの事だけど」
 カナタが見遣ると、彼女は死を宣告される直前の被告のように、身を強張らせた。
 「何も出来ない幼い時にさらわれて、さらには変態の義父に迫られ、自殺してもおかしくはない状況で、なんとか頑張り抜いてきたんだぞ。それでもまだ、努力が足りないのか?」
 カナタも、彼女達の考えが甘い事は分かっていた。
 南蛮での辛い生活が、かつての南薔国を、平安の地に見せてしまった事も。
 もし彼女の元に、侵略国に反感を持つ兵士たちが多数集まったとしても、彼らには彼らの思惑があるに違いない。
 「餌がなきゃ釣れないぜ?魚も人も」
 現実的な利益がない限り、誰も命をかけて戦うことはない。
 もちろん今回の場合、彼女たちの元に『救国の志を持った』兵が集まる可能性はある。
 だが、彼らとて、国を再興したあかつきには何らかの恩賞があると期待しているだろうし、無償で奉仕しようと思っている人間だって、兵糧は使うのだ。
 今、彼女らに必要なのは、大軍を養える軍資金、もしくは食料であり、『薔家の血』が効力を発揮するのはむしろ、国を再興した後の事だろう。
 「俺は戦争のない時代に生まれた、平和な国の若造だけどさ、『腹が減っては戦が出来ぬ』ってことわざは伝わっている。貴女達が飢えない程度の金じゃないってことはわかるよな?」
 自身に向けられた言葉に誇りが傷ついたのか、沙羅は白い頬に血をのぼらせた。
 しかも、カナタごとき『若造』の言葉に、その場の全員が頷いたことも気に入らなかったようだ。
 憮然と沈黙した彼女に、その場にいた者の多くは、同一の感想を持った事だろう。
 曰く、『王の器にあらず』と。
 だが一方では、偏執的に彼女の器量を信じるものもいる。
 精纜は、孤立無援となった娘を庇った。
 「南州侯はかならずお味方くださいます。しばらく南州侯をお待ちして、それから北に行くというのはどうでしょう?」
 蒋赫も東州侯も、一応頷きはしたが、それが心からの賛同でない事は明らかだった。
 事実、素人のカナタでさえ、そっと呟いたのだ。
 『南州侯が、この二人を南蛮や敵国に売る事は考えられないのか?』
 話し掛けた相手は、緋色の髪を揺らして、賛同の意を示した。
 「呑気なもんだ」
 吐息の容で漏れた言葉は、人間達には聞き取れなかった。


 「さて、どうすべきだと思う、あなた達は?」
 精纜が、全身全霊を込めてその到着を待ち望む女は、いまだ州城に留まっていた。
 彼女は今、かつて州会議に使われていた広い一室に主立った家臣たちを集め、その目の前に親書を広げている。
 「南州侯は、どうされたいのです?」
 糸を張ったように細い目をさらに細めて、最初に筝が口を開いた。
 彼女は牢から抜け出すや、栖や栞と共に城内をばらばらに動いていた南州人達をまとめ、南蛮兵の反撃を封じて英華の率いる南州軍と合流し、州城から南蛮人を駆逐したのである。
 南州候の参謀の地位を、その行動力によって回復してみせた女を、英華は真摯な目で見つめ返した。
 「私としては、すぐにでもお側に参りたいと思っています。こういうことは一番乗りでないと意味がないでしょう?」
 南州の民に対して責任を持たねばならない英華は、どんなに強く願うことでも、自身の思うが侭に動くわけにはいかない。
 南蛮軍と闘うとしても、それは精纜やその娘を南州侯として確保した後の事である。
 後に、他の州侯や県令に対して優位に立つ為にも、英華は『王族を擁して征旅に就く』という大義名分が欲しかった。
 「この方々を南蛮に売る、という手もありますよ」
 淡々とした筝の声に、英華は深く頷いた。
 「言われるだろうと思っていたわ」
 そして、ゆっくりと、集まった家臣たちの顔を見回す。
 かつて、高位の巫女しか入れなかった部屋には、二十年の間にずいぶんと男の顔が増えていた。
 「どちらが南州の為になると思う?」
 つくか、売るか。
 英華に従って、城内の南蛮兵を駆逐した者達は、それぞれの思考の中に沈んでいった。
 「我らが倒したのは、城内にいた者だけです」
 重々しい声は、英華の叱声に応じて真っ先に剣を振るった范だった。
 「州城の外にはまだ、多くの南蛮兵がおります。
 我らが南蛮の司令官を討ったとわかれば、瞬く間に城は攻囲され、城壁にこの首を飾る事でしょうな」
 芍将軍は自身の太い首を軽く叩いて見せた。
 南州兵だけで、南薔に駐屯する南蛮の強大な武力を相手にすることはできない。
 彼らはしばらくの間、州城の奪取などなかった振りをしなければならなかった。
 「でもね」
 深刻な雰囲気の中、英華が苦笑ともいえる笑みを浮かべた。
 「州城の南蛮兵を、全部殺してしまったんですもの。今更お二人を売っても、私たち、許してもらえるのかしら?」
 彼女の顔には相変わらず、困惑げな笑みが浮かんでいたが、その意図は明らかだった。
 「次回は、もっと上手におやりなさいまし」
 筝の、吐息と共に吐かれた言葉が、会議終了の合図だった。
 南州は、総力を挙げて薔家を擁護する。
 決定した以上、州城でゆったりしているわけにはいかなかった。
 「南州軍は、練兵の為、北の平野に赴きます。
 南蛮の軍装をした兵も、監軍として、それなりの数が共に赴くべきでしょう」
 「しかし笋(ソウ)殿、奴等はいつも、騎兵が百ほどは付いて来ておりました。それだけの兵を南蛮兵に化けさせては、南州の兵が少ないと、外の連中に怪しまれるのではないでしょうか?」
 しかし、范将軍の言葉に、筝は細い目を笑みの容に歪めて見せた。
 「お前まで、女達の存在を忘れてしまったのですか?」
 言って、周りを見まわすと、呆れた事に、女の中にまで意外そうな顔をした者がいる。
 「物見遊山に行くのかえ、おまえたちは?」
 厳しい視線に、思わず、一同の表情が引き締まった。
 「巫女たるもの、努力なくして天地の声を聞くことあたわず。将たるもの、命賭さずして勝つ事あたわず。
 覚悟のない者は、直ちにこの場より去れ」
 声を荒げるわけでもなく、神や精霊の名を出すわけでもない。
 だが、明らかに筝の声は、その場を圧した。
 「全て貴女にお任せするわ」
 英華は、母の参謀だった女に、深い信頼のこもった声をかけた。




〜 to be continued 〜


 










・・・キャラ多いよ;(ボソリ)
第一俺は、緻胤を書きたくてこの時代を書き始めたのに、なんでずーっと南薔にいるんでしょう。(知るかい(笑))
この回のメインは英華侯。
この人を書き終わったとき、私は『歴史を書いたぜ!!』と思うんだろうなぁ、と思いつつ、がんばっています(笑)
・・・しかし今回、怖い女が多いですね(TT)
南薔の中でも、南の女は気が強い、と言う設定で行っていたのですが、強すぎだよお前ら;
火ィかけんな、毒殺するな、首くくらせるな!!(絶叫)
次回はどこまで行けるんでしょう・・・。
せめて、出会ってくれ(自信なし;)












Euphurosyne