◆  14  ◆







 経王が崩じてから、約一月が経った頃。
 東蘭国王妃・緻胤(ジーン)は、心身ともに休まる時がなかった。
 一月前、隣国・南薔に戻った彼女の母と姉が、南州侯の軍を率いて、王国再興の軍を興した。
 彼女らは道々、諸侯の軍を吸収しながら、峭(しょう)州へ向かっていると言う。
 初めてその報告を聞いた時、緻胤は『それは絶対にありえない』と断言したものだ。
 その時、母は身重であったし、姉は肌と目が弱すぎて、日の下には出られない。
 第一、父・南海王が、母の帰国を許すわけがない。
 そう言って、もう一度確かめてもらったのだ。
 だが、他の者ならともかく、蟷器(トウキ)の報告に手抜かりのあろうはずがない。
 なぜ、と問い詰めると、父は病に伏して床から上がれず、その隙をついて二人が南海を出奔したとのこと。
 残された者達は二人を・・・特に、精纜王妃を追おうにも、肝心の王命が出ない為、ただ傍観する以外できないでいるとのことだった。
 「どうかご無事で・・・」
 父と母、そして姉に同じ祈りを呟き、緻胤は中庭に面した大窓の向こうに浮かぶ満月を見上げた。
 白い紗幕ごしに映るそれは大きく、ぼんやりと霞んでいる。
 「きれいねぇ」
 珍しく蒸し暑い夜に眠気がささないのか、しきりに小さな手足を動かす息子を抱き上げて、緻胤は窓辺に寄った。
 「ごらんなさい、傑。まんまるよ。
 今、珂瑛(かえい)の南門を守ってらっしゃる華南将軍が今、門を開いて、生まれてくる魂魄を地上に降ろしてらっしゃるのよ」
 しかし傑が、月光を受けるや小さな目を眩しそうに閉じたので、緻胤は窓を離れて、息子をゆりかごの中に入れた。
 女が子を産めないこの時代、王侯貴族であれ、『乳母』を雇う事は難しく、緻胤も王妃としての公務の他に子育てをも一手に負っていた。
 寝る間もなく、何度も倒れそうになったが、初めて産んだ子がふくふくと成長して行く様を見ると、暖かいものが胸に込み上げ、疲れなど忘れてしまう。
 「おねむり わたしの かわいい子
 月のまるい夜は 安心しておねむり
 やさしい精霊が 守ってくれるから
 いい夢だけを見て
 おねむり わたしの かわいい子」
 美声とは言い難いが、暖かく柔らかい声に、子供はやがて、寝息を立てはじめた。
 これでやっと眠れると、緻胤が身体の力を抜いた時だった。突然、外の回廊にいくつもの引き攣った悲鳴が溢れ、緻胤は驚いて窓の外を見遣った。
 夜襲かと、脳裏にちらりと浮かんだ瞬間には、寝入ったはかりの子供を柔らかな毛布で厚くくるみ、そっと抱き上げている。
 「・・・何事なの?」
 緻胤が子供を起こさないよう、そっと扉の外に囁いたのに対し、扉の外に駆けつけてきた侍女達は、口々に悲鳴じみた声を上げた。
 「妃殿下!!」
 「空をご覧くださいまし!!」
 「空・・・?」
 矢の雨でも降っているのかと、こわごわと首だけで背後を返り見たが、白い紗幕の向こうはなんの変わりもなく、ただ月だけが美しく輝いている。
 「なんなの?」
 別段変わりのない景色に、子供の安眠を邪魔された緻胤は、少しむっとした。
 「何を騒いでいるの。子供が寝ているのよ、静かにしなさい」
 扉の外に言い遣って、憮然と寝台へと戻り、再び子供をゆりかごの中に収めて、ゆっくりと揺らしながら深い眠りを促していると、彼女の背に生ぬるい手がのろりと這う気配がした。
 「え?!」
 驚いて振り返ると、窓の紗幕が、髪のようにゆらゆらと揺れている。
 「・・・誰かいるの?」
 動かすものもないのに、紗幕がひとりでに揺れるなどありえない。
 「誰?!」
 子供を抱き寄せ、激しく誰何するが、返事はなかった。
 緻胤は窓に背を見せぬよう、子供を抱いたまま、そっと扉に寄った。
 後ろ手に扉の取っ手を探すが、望むものはなかなか手に入ってこない。
 不安と焦りで震える拳を、扉に打ちつけると、
 「緻胤!」
 足元に回廊の光が射した次の瞬間、緻胤は子供と共に、夫の腕の中にいた。
 「采(サイ)!采!!誰かいる!!」
 怯え、恐慌する母の声に、その腕の中の子も盛大に泣きはじめた。
 「大丈夫、誰もいない」
 「いたわよ!!じゃなきゃ、なんで紗幕が揺れるの!!」
 余程恐かったのだろう。子供と共に泣き叫びながら采にしがみつく緻胤だったが、
 「騒ぐな、嬢ちゃん。風だよ」
 そっけない声に、涙に濡れた顔を上げると、ここ二十日ばかり姿の見えなかった蟷器が立っていた。
 この伊達男にしては珍しく、長い黒髪を結いもせず背中に流し、涼しげな麻の平服を粋に着流して、喧騒の中にたたずんでいる。
 「風・・・?」
 呆然と呟く緻胤に、蟷器は微かに笑みを浮かべ、
 「あれ」
 と、あごをしゃくって空を示した。
 つられて見上げた緻胤は、膨張し、今にも消えそうなほど翳(かす)んだ月と、油膜のようなものが夜空一面に広がり、星の光を遮る様を見て、声も出せずに膝を崩した。
 「緻胤!」
 采が抱きとめなければ、彼女は後頭部を思いきり石床に叩きつけるところだったろう。
 こんな時にでも、腕に抱いた子を守ろうとした辺りは、さすが母親と言うべきか。
 と、わずかに感心した蟷器の眼前で、緻胤はけたたましい声を上げて采に詰め寄った。
 「なにあれ!!どうしたの?!」
 采は、恐慌する妻を必死になだめようとするが、緻胤は泣き叫んで手におえない。その上、子供の泣き声まで加わって、王宮内は恐慌を極めた。
 内侍や女官は地に泣き伏し、衛士すらも天を仰いで狂ったように叫び続ける。
 だがそれも無理はない。
 地・水・風の精霊王が封じられて百余年、この世界に雲や雨、風は存在しなかった。
 わずかな湧水のみで命を繋いできた彼らは、少なくとも祖父母の代から、精霊からはなんの恵みも受けてはいないのだ。
 常に晴れ渡り、太陽の輝く青い空。夜には必ず、月や星の光が乾いた地を照らす。
 苛烈なだけの世界で、なんとか生きる術を見つけた、そんな時の事だった。
 「月が消えてしまう!!」
 「満月が!!華南将軍、お助けください!!」
 ほの暗い油膜が月をかすめ、その光を隠すごとに、恐慌は乗ずるように激しさを増した。
 「蟷器!」
 采は、気が狂ったような王宮の喧騒に、一人、耳を塞いで平然としている男の名を呼んで、目を厳しくした。
 「害はないのだな?」
 「あるかい」
 采には、それで十分だった。
 「静まれ!!」
 王の、大船団も怯むであろう大音声に、周りは一瞬、息を呑んで静まり返る。
 「害はない!眠っておられた精霊王がお戻りになったのだ!何を恐れる事があるか!!」
 采は、確信があってそう言ったわけではなかったが、その言葉は、老人の昔語りによく出てきた、『緑したたる沃野』の話を、皆の記憶によみがえらせた。
 一同が沈黙した隙を狙って、蟷器が進み出る。
 「心配はない。これは吉兆だ」
 微笑みを浮かべて断言した蟷器に、皆の視線は引き寄せられるように集まった。
 「皆、俺の『道楽』を知っているだろう?」
 笑みを含んだ声に、ある者は眉をひそめ、ある者は忌々しげに鼻を鳴らす。
 それほどに、蟷器の道楽―――― 国税を利用した大掛かりな施設は、人々の顰蹙(ひんしゅく)を買っていたのだ。
 その施設とは、東蘭の西北から北面を覆い、東海に及ぶ大山脈・飄山(ひょうざん)に置かれた気象観測台である。
 後代、飄山が世界の気候を左右していることが証明されると、彼の業績は素晴らしい先見の明だと褒め称えられるのだが、この時代、それは蟷器の道楽、または無用の長物でしかなかった。
 だが彼は、老臣達の顰蹙を無視して礼部省の官吏たちに天を見張らせ、定期的に報告を入れさせていたのだ。
 そしてやっと、その行為が実を結ぶ時が来た。
 「飄山から天変の報せが来てな、ここ二十日ばかり、東岳に登って気象を観察してきた」
 しかし、蟷器が見回した人々は、いぶかしげに眉を寄せたのみである。それどころか、礼部尚書の位にありながら腰の軽いことだと、あからさまに眉をひそめる者もいる。
 彼は、今回のみならず、『外交』や『教育』のためと称して、東蘭はおろか、諸外国までを駆け巡る事がよくある。
 その多くは、礼部尚書の主な仕事である『宮内礼』を差し置いてのことだ。
 現在、宮内礼は彼の副官が取り仕切り、彼自身は主に、諸外国の動静や国内の教育設備に力を入れていた。そのため老臣達は、陰に陽に『礼部尚書にふさわしくない』と眦(まなじり)を吊り上げるが、前礼部尚書が前王妃の、采暗殺の陰謀に連座して処刑された時、譜代の家臣がいない采の幕僚の中で、『礼』に精通するものは蟷器しかいなかったのである。
 その彼は今、その知識が礼法や軍略のみでないことを証明した。
 「俺が行った時には既に、飄山には雨が降り、麓の慈州(じしゅう)、禮州(れいしゅう)にも雨雲が湧いていた。
 ここにももうすぐ雨が降るぞ」
 凛とした声が馨るように響き渡ると、皆、不安げな顔を見合わせた。
 彼らは、生まれてから一度も、『雨』と言うものを見たことがないのだ。
 それは、蟷器も例外ではなかった。
 しかし彼は、昔の書物を読み尽くし、それがどういうものであるか、大体の予想はつけていた。
 そして今、飄山で、その山麓で、激しく地に叩き付ける雨滴を追いかけ、追い越して王都に戻ってきた蟷器は、天を覆うものの正体について、誰よりも正確な情報を得ていた。
 「素晴らしかったぞ。
 天を覆い尽くすように、厚く黒雲が湧き、時折激しい音を立てて空が光る。
 恐ろしく、不気味だが、雨雲の通り過ぎた後の世界の、なんと美しかった事か!
 見渡す限りのものに、水珠が玉を結び、陽光を弾いて輝き渡る。
 城市の壁からは、黒い砂埃が洗い流され、白い玉肌があらわになった。
 これこそが本来の姿であったかと、酔眼の醒める心地だったぞ」
 少々大袈裟な蟷器の言葉に、唱和するように采が声を上げる。
 「さぁ、吉兆を嘆くものがあるか!皆で大いに祝おうではないか!」
 言うや内侍に宴の用意を命じ、国庫を解放して、王都や王都郊外の村落にも酒食を与えるよう命じた。また、狼煙台に炎を灯して、国中に降雨が来ることを報せ、『吉兆に杯を捧げよ』と告げたのである。
 王のすばやい対応に、緻胤はじめ、臣下達は感心しきりだったが、中でも二十日間、女っ気なしでまじめに働いてきた蟷器の、
 「どうせならぱーっとやろう!都中の蘭花(名妓)を集めて、にぎやかにやろうじゃないか!」
 と言う提案には、皆、諸手を挙げて賛成したのだった。


 一方、他国ではこうは行かなかった。
 この後しばらくして、黒雲の来襲を受けた南蛮では、国中が大混乱に陥った。
 緻胤の配慮で、もうすぐ南海にも雨が降る事を報せはしたのだが、精纜を王妃に立てた際、反対者を一掃した宮中には、王がいなければ何も出来ない者ばかりで、緻胤の親書も、『重態』の王の枕頭に積まれたまま、開封さえされなかったのである。
 民の多くが南海での漁業・海上貿易に携わる国で、『嵐』を知らないのは致命的だった。
 暴風雨の存在を知らずに海に漕ぎ出した者は、そのほとんどが荒れ狂う波に呑まれ、二度と地に上がる事はなかったのである。
 そして、地理的には南海に面している王宮でも、陽光を遮り、蒼天を汚すように流れ出た黒雲に、すさまじい恐慌が起った。
 治める者がないまま、恐慌は激しさを増し、それに乗じて一部の衛士が後宮の美女や財貨を略奪しはじめた。
 後宮の宦官はそれを止めるどころか、衛士と争って財貨を懐に入れ、衛士はそれを奪う為に宦官を殺し、美しかった宮中は、血みどろの戦場になった。
 その時、殺された宦官の中には、後宮を去った前内侍・荀(ジュン)の命を受け、重病に罹った王に『薬』を与え続けていた侍医達もいた。
 大気中に息苦しいほど湿気が増し、血の匂いが濃くなりまさる中、『薬』を投与されなかった王は、とうとう目を覚ました。


 そして、南薔でも。
 険しい山ばかりの、小さな州に閉じ込められた南薔の民は、王不在の州都で、叫ぶ気力もなく、怯えた瞳で天を見上げ、地に膝をつく。
 「巫女がいなくなったからだ・・・・」
 「巫女が、地を治めていないからだ・・・」
 絶望の呟きは、枯れ野に吹きすさぶ風に似た喘音を混じらせた。
 「南薔はもうだめだ・・・」
 絶息の声音に、答えるものはない。
 そんなことは、とうの昔に分かっていたのに・・・。
 「南薔・・・女王陛下・・・」
 最期の祈りのように呟き、絶命した耳に、城外の馬蹄の響きは届かなかった。


 「いい朧月夜だねぇ・・・『春の夜の 朧月夜にしくものぞなき』『私は何をしても許される立場なのですから』ってねー!」
 幾千もの軍馬と共に、駒を進めてきたカナタは、不謹慎にもその情景に、笑みを浮かべた。
 星影は姿を隠し、月も朧ろな深い闇の中でも、銀色の髪は美しくきらめいて、その存在を否応なく知らしめている。
 「なんじゃそれは」
 カナタの腕の中に収まる形で同乗した子供に、剣呑な口調で問われて、青年の声は明るさを増した。
 「高校の時の担任が古典の教師だったから、悪い点が取れなくってさぁ。
 俺にとって源氏物語は、汗と涙の夏期講習なのさ・・・」
 カナタの情緒のない言いように、『源氏物語』の存在を知らない世界の住人は、きりりと眉をつり上げる。
 「・・・それで?『何をしても許されるのだ』という、増長慢な人間が、どうしたのだ?」
 光源氏が聞けばきっと、『あなたにだけは言われたくない』と、扇で顔を隠しそうな依坤に、カナタは苦笑した。
 「そう言ったのはね、光源氏っていう、美形の皇子様なんだけど、ある朧月の夜に宮中で、『朧月夜尚侍(おぼろづきよのないしのかみ』という美人に出会うんだ。
 この女性は、光源氏の政敵・右大臣の娘で、自分を憎む弘徽殿(こきでん)の女御の妹、さらに、自分の兄王の愛妾って人でさ、彼女と関係した為に、流罪になったっていう・・・」
 「まぁ、素敵!わたくしも、カナタ様とお近付きになれるのでしたら、身は流罪になりましても、本望と言うものですわ!」
 カナタの横に、無理矢理馬を寄せて、豊かな赤毛を後ろで一つに束ねた女が、甘えるような声で言った。
 「なっ・・・南州侯っ!こんなに前方に来られては、軍の方々が心配しますよっ」
 慌てふためいて馬身を離そうとするが、名騎手である彼女は、うまく手綱をさばいて馬腹が触れ合わんばかりの所まで擦り寄ってきた。
 「息子達のことなんか、お気になさらないで。もう、母親に甘える年じゃ、ございませんもの」
 三人もの息子がいるとは思えない、若く美しい容姿が、容赦なく迫ってくる。
 「ちょっ・・・!」
 突き飛ばされて、鞍からよろけたところを、細いくせに力強い腕ですかさず支えられた。
 「お気を付けあそばせ。あぶのうございましてよ」
 「・・・・・・・・・・・・・すみません」
 わざとやったのは分かっているが、その迫力と大胆さに、もはや文句も言えない。
 カナタのその態度が、彼女をつけあがらせているのだと分かっていても、幼い頃から姉に、徹底的にしつけられたフェミニスト教育の効能はすさまじく、結局、優柔不断な態度を続けているのだった。
 それが、こちらの住人たちには気に入らないらしい。
 「・・・南の巫女よ」
 あからさまに不機嫌な声に、彼女はあでやかに微笑んだ。
 「はい、なんでございましょう、地精王?」
 走る馬の背で上手にバランスを取りながら、けしてカナタから離れようとしない女に、依坤は軽く息をついた。
 「わしに迷惑の掛からん程度にせい」
 「太師のご高恩に感謝致します!!」
 嬌声を上げて拱手する南州侯に反して、常にカナタの側にいる女は、きつく眉を寄せた。
 『僭越でしょう?!身の程を知りなさい!』
 「あら、坐忘太師のお許しを頂いたのですよ。麗華様に文句を言われる筋合いはございませんわ」
 『カナタが嫌だと言ってるじゃないの!!』
 「あぁら!そうなのですか、カナタ様?」
 「えっと・・・あのね・・・」
 なんとか双方を収める手だてはないかと、カナタがおろおろと女達を見比べていると、
 「不謹慎ですよ」
 若い女の声が、氷の鞭のようにしなってかしましくはしゃぐ女達の背を打った。
 「南州侯、お下がりを。指揮官がいなくては、軍が動揺しましょう」
 暗闇に光る、闇精そのものの紅い瞳に見据えられて、さすがの南州候も笑みが引き攣る。
 「王世子殿下・・・御前失礼・・・・」
 途端に馬脚が緩み、みるみるうちにその姿は遠ざかって行った。
 『よくやったわ沙羅!その調子で昼のうちも あの女を遠ざけてちょうだいな』
 しかし、手を打って大喜びする麗華にも、その冷たい視線はそそがれる。
 「麗華様もお控えください。物見遊山ではございませんのよ」
 『あら・・・失礼』
 すっと目を細めて、冷ややかな微笑みと共に紡いだ麗華の言葉に、カナタは背筋が寒くなった。
 「皆様も、お気を引き締めあそばせ。峭都はもうすぐですのよ」
 その言葉に、周りの者達も一斉に顔を引き攣らせる。
 そんなこと、小娘ごときに言われなくても分かっている、とでも言いたげに。
 それを、沙羅自身も感じたのだろう。
 ますますきつく眉根を寄せ、前方以外見ないようにしている。
 そんな光景を見て、依坤はやれやれと息をついた。
 彼ほど長く生きていなくとも、沙羅と南州軍――――いや、南薔の民との間に軋轢(あつれき)があると感じる者は多い。
 お互いに、『こんなはずではないのに』と思っている事だろう。
 特に沙羅は、その思いが強い。
 南薔に帰りさえすれば、皆が自分を敬い、大切に扱ってくれるに違いないと、そう思っていたのに、痩せた地に立つ人々は、国を守れなかった王族を、怨む者こそ少なかったものの、心から敬う者は、さらに少なかった。
 まだ若い彼女は・・・幼い頃から、母にさえかしずかれ、南薔の王位に就く者として育てられた彼女は、そんな彼らの態度が、自分を蔑ろにしているように感じたのだろう。
 自分たちの為に兵を上げてくれた南州侯にも素直に感謝することなく、それゆえに彼女の領民たちに嫌われている事から必死に目を逸らしている。・・・目を逸らしたからと言って、事実が変わるわけでもないのに。
 しかし真に、彼女が南薔王の地位を望んでいるのならば、今は現実から目を背けている場合ではなかった。
 南薔国十三州。
 そのうち、彼女が味方に得たのは、南州侯の収める南方三州の軍と、征旅の途中で集まってきた民兵のみである。
 それすらも、南州侯・茱英華(シュ・エイカ)なくしては統率を欠く有り様だ。
 沙羅は、華やかな南州侯の姿を見るたびに、目を逸らし、あるいは心無い言葉を吐きつけずにはいられなかった。
 経王の時代、最初に攻め落とされた南州城内で囚われた彼女は、南蛮人の妻にされ、領地も財産も、巫女の位すら奪われた。
 なのに今、南州侯の地位を取り戻した彼女には、多くの兵卒が従い、彼女に忠誠を尽くしている。
 そんな姿を見るにつけ、沙羅は悔しさに身を引き裂かれそうになった。
 母とそう変わらぬ年でありながら、さらに美しく、華やかで、人々の信頼と尊敬を一身に集めている。
 それは、沙羅が思い描いていた自分自身の姿だったのだ。
 「・・・まぁ、悔しくないわけがないわね」
 後方に下がった南州侯・英華は、側を走る息子達に苦笑した。
 「・・・母上の苦労も知らないで」
 憮然と呟く息子に彼女は声を上げて笑い、男らしくなりつつあるその肩を抱いてやった。
 「貴方だって、お二人のご苦労を知らないでしょう?
 生意気な事を言ってはだめよ、英毅」
 「けど、あの方達は、子供を奪われた訳じゃないでしょう?!」
 憤然と馬脚を早め、母に並んだ英士が語気も荒く言うと、常に明るく、華やかな母の琥珀色の瞳が、暗く陰を落とした。
 「・・・っごめんなさい」
 思わず息を飲む弟を、母の向こう側の兄がきつく睨む。
 「まだ殺されたわけじゃない。あいつも南州侯の息子なら、きっと自力で逃げてくる」
 母に言い聞かせるような口調に、弟だけでなく、母も真摯に頷いた。
 「そうよ。私の産んだ子は、みんな利口で腕も立つの。特に英利は、私に似て顔がいいんだから、きっと、誰かが逃がしてくれるわ。心配は要らないわよ」
 母の言葉に、息子達は深く頷き、心中に深く安堵した。
 あの時。
 南蛮兵を駆逐して、南州侯の地位を取返した時、彼女は、南蛮の地に人質として送られた末の息子をあっさりと見捨てた。
 見捨てたと、言われている。
 『子供くらい、また産んでやるわよ』
 その言葉を伝え聞いた時、息子たちは、母がそんな冷たい女ではないと知ってはいても、やはり、背筋を冷たいものが走った。
 自分たちは、生まれてきてはいけなかったのだろうか。
 母にとって、自分たちはいらない存在なのではないだろうか。
 そんな不安を断ち切るように、英士はひとつ首を振った。
 「武功を立てようね、兄さま。英利が逃げてきた時、僕達がどこにいるかがすぐ分かるような」
 「南蛮の軍に追いかけられるのは本意じゃないが、せっかく帰ってきた奴を迷子にするわけにはいかないしな」
 自分を励まそうとする息子達の声に、英華は思わず顔をほころばせる。
 「さすがは私の息子達ね。
 お婆さんたちは、なにかと言うと『娘は生まれないのか』ってうるさいけど、あなた達になら、南州の全てを与えたっていいわ」
 女王を擁護する者としては、あまり大声で言えない事だが、彼女は本気でそう考えていた。
 旧・南薔に於いて、男子に相続権はなかったが、他国では男が家を継ぐのは当然の事だとされる。
 南薔も、男子に相続権を与えて、悪い事があるだろうか?
 彼女が精纜(セイラン)、もしくは沙羅を王座に就かせる事が出来たなら、南州侯は国の中枢に食い込む事が出来る。
 この機会を逃すべきではなかった。
 「精纜様は?」
 英毅に問うと、彼は軽く頷いて見せた。
 「お元気です。お子様は男子だそうで」
 「どうも・・・皇帝方は、あの方にお味方くださっているようね」
 驚くというより呆れて、英華は目を見開いた。
 「いえ、精纜様だけではないわ。私にも、お味方下さっている――――峭(しょう)州も案外、簡単に陥とせるかもしれないわね」
 あまりにも楽天的な言葉だが、誰も笑わなかった。
 南州侯がとらわれていた南州城はまさに、彼女によって陥とされたのだから。
 「ところで筝(ソウ)殿、州都を簡単に陥とすためには、何をしたらいい?」
 さらに馬脚を緩めて、幌のない馬車に乗った初老の女に問うと、女は一言、
 「囲めば陥ちます」
 と言って、遠くそびえる飄山の麓に弧を描く、灰色の城壁を望んだ。
 「峭州都は背後に飄山を従えるため、一見、難攻不落に見えますが、こちらが強気で攻めれば攻めるほど、民は山中へ逃れていきます。
 さらに、『王妃』の性格から見て、城内の守備兵のほとんどを宮城の守護に回すでしょう。
 こちらが城市(まち)の周りを隙間なく囲み、矢文でも射込んで開門を促せば、遠からず州都は陥ちます」
 前南薔王・経が王妃に立てた女は、もとは前西桃王の後宮にいた、妃の一人である。
 利己的で、宮城の隅々まで西桃と同じでなければ気が済まない彼女は、南薔の財宝をことごとく食いつぶし、さらには経王に借金までさせて、峭都の宮殿を飾り立てた。
 西桃の最高級の絹でなければ身に纏わず、南海の大真珠でなければ身につけず、東蘭の紅でなければ彩らず、大国の王妃でさえもかなわぬ、ありとあらゆる贅沢を楽しんでいる。
 そんな女が、なさぬ仲の継子に城を譲るはずがない。
 「この際、王宮は放っておいても構いません。
 食糧を運べないようにしておきさえすれば、いずれ飢えて死に絶えます。
 それよりも峭都全体を掌握し、南薔王の所在を明らかにして、兵を集めるのが先決です」
 残酷な台詞を淡々と口にして、筝は傍らを行く南州侯を見上げた。
 「南薔王が国の再興を望まれるなら、私はどのような残酷な策でも献じましょう。
 ですが、陛下や王世子殿下が、私の策を採らぬとおっしゃるのなら、私はこのまま飄山に参じ、山を降りませぬ」
 滅多に感情を露にしない女の、憤りを含んだ言葉に、英華は表情を固くして頷いた。
 「陛下が産屋を出られたら、必ずその策を献じましょう。
 ・・・あの王世子が軍主では、先が危ういわ」
 筝にしか聞き取れないほどの低い声で囁かれた最後の言葉に、筝は、微かに頷いた。
 あの王世子に、筝の忠誠は有り得ない。
 そう、彼女は確信していた。
 ―――― 初めて沙羅に、出会った時から。


 約一月前、南州城から南蛮兵を駆逐した南州軍は、その少し前に東夷が東蘭の国境を侵した事を理由にして、大々的な演習をする事を南蛮に報せた。
 書状には、軍監の正式な花押・捺印があったため、南蛮は二百の南蛮騎兵が随行する事を条件に、演習を許可した。
 実はその書状は、軍監が東蘭と東夷の戦の状況を、南海王宮に報告するために用意したものだったが、英華は軍監の書記を捕らえ、報告の下に、
 『よって、南州軍・南海軍の演習を許可願いたい』
 と、書き加えさせたのだった。
 そうやって大軍を動かす口実は作ったものの、肝心の精纜の居場所がはっきりしない。
 「繁葉の神殿じゃないのですか?」
 栖詩羅(セイ・シーラ)が、会議場で一人、頭を抱えていた英華に言うと、
 「じゃ、神殿以外の場所って事で決定ですわー」
 と、後からやってきた栞佳蘭(カン・カラン)が手を打った。
 「なんでよっ!!」
 「だってぇ。詩羅ちゃんの勘って、絶対に当たらないじゃないー」
 「神殿以外だったら、どこじゃないと思う?」
 英華にまで真顔で問われて、さすがに詩羅も顔を引き攣らせた。
 「なぜそんなことを・・・」
 「筝殿のお墨付きなんでしょう?」
 英華の声には、悪意も皮肉もない。
 南州の重鎮である筝の言葉を、深く信頼しているのだ。
 「そう言えば筝様はぁ?」
 佳蘭が室内を見回すが、広々としたそこには、彼女たち以外の人影はない。
 「囚人の罪を検めるといって、法務室に行ってしまったわ。それで?詩羅?」
 急かすように見つめられ、詩羅は渋々答えた。
 「・・・繁葉の中でですか?」
 「まぁ、そこまで遠くには行ってないと思うわよ」
 そう言われて、首をひねる。
 黒い瞳の奥で、繁葉の地図を懸命に描いていくうち、その、雑然とした小路が浮かんできた。
 「・・・そんなまさか」
 「どこ?!」
 何気ない呟きに過剰な反応を返されて、詩羅は慌てて手を振った。
 「違いますよ!変な場所を思い浮かべちゃって、そんなわけないじゃないって思ったんですから!」
 「いいからぁ。どこどこ??」
 詩羅の両手を抑えて、佳蘭が期待に満ちた顔を寄せる。
 「いいから言ってみて」
 英華にまで迫られて、詩羅はぼそぼそと呟いた。
 「・・・繁葉の東の、奥まった所にある、船大工通りです」
 「・・・うそー。あそこじゃないわよ、いくらなんでも」
 目を丸くする佳蘭に、詩羅が眦(まなじり)を吊り上げる。
 「だからそんなわけないって言ったじゃない!!」
 「どういう所なの、そこは?」
 ずっと州城に閉じ込められていた英華には、繁葉の細かい通りまではわからない。
 「そのまんまでーす。船大工のひととかがたくさん住んでるんですけどぉ、屋台には遠いし、港からは道が複雑すぎてすぐ迷っちゃうしー、すごく不便な所なんですー」
 「隠れ家としては丁度いいんじゃないの?」
 不思議そうな英華の声を、二人は声を揃えて否定した。
 「住人、ものすごく感じ悪いんですよ!粗雑だし!」
 「声大きいしー。顔こわいんですー。私は住みたくないなぁ」
 「でも多分、そこよ」
 妙に確信に満ちた声で、英華が言う。
 「なんでですか!違いますよ、きっと!!」
 「他をあたりましょぉよー。ちがいますよー。きっと」
 異口同音に喚く二人を、英華は手を上げて制した。
 「聞いて。私がそこだと考える理由はこうよ。
 一つ。精纜様は妊婦だわ。しかも、臨月が近いと聞いている。
 そんな女性が、一人で海を渡れる?」
 「沙羅殿下は?」
 不審げな詩羅に、英華は笑って見せた。
 「私は南蛮へ渡った事はないけど、南海を渡るには、大勢の漕ぎ手が必要なんじゃないの?
 いくら王族とはいえ、二人で南海を漕ぐなんて、そこまで怪物じみてはいないわよ」
 「そうねー。誰か、船に乗せてくれたのねー」
 細いあごに人差し指を当てて、佳蘭が呟くと、
 「二つ目はそれよ。誰がお二人を、船に乗せたのか」
 英華が指を二本立てて見せた。
 「お二人は、南蛮の王宮にいたのよ。
 あそこは、西桃の後宮を真似ているらしいから、王以外の男は入れないようになっているでしょ?」
 その言葉に、詩羅が手を打つ。
 「宦官が手引きをしたんだわ!
 お二人を後宮から出して、船に乗せて・・・付いて来ているのでしょうか?」
 首を傾げると、英華はわからない、と、首を振って見せた。
 「宦官を財宝でつるのは簡単だけど、よほど繁葉に詳しくない限り、いつまでも付いてこられるのは迷惑ね。
 後宮の妃だと、宣伝して歩いているようなものだもの。
 それに、客船なんかに乗るのもだめだわ。自分を知っている者がいないとも限らないしね」
 後宮の奥深くに閉じ込められていた妃や王女が、そう簡単に人目に触れる事などありえないが、追われていると自覚する者は、人を避けたがるものだ。
 「漁船・・・それも、小さくて目立たない。理想的なのは、客を海賊に売ったりしない、人柄のいい船長がいる船よね」
 「・・・そんな船があるわけないですよ」
 詩羅の声は冷たい。
 「いるかもしれないわよぉー。だってこの手紙、繁葉の港から届いたんでしょー?・・・って、なーんだ。これを運んできた人に、差出人がどの船から下りてきたのか、聞けばいいんじゃないの」
 「か・・・佳蘭・・・!!」
 「偉い!!よく思い付いたわ!!」
 英華の、見た目からは想像もつかない怪力で力任せに背中を叩かれ、佳蘭は息を詰まらせた。
 「いっ・・・痛い―――・・・っ!」
 「あ、あら、ごめんなさい。嬉しかったから、つい・・・」
 慌てて嘉蘭の背中をさする英華に、詩羅は苦笑を浮かべる。
 「ところで、誰を調べに行かせます?
 英華様は有名人だから大騒ぎになってしまうし、私たちも長い間あの街に住んでいたから、顔見知りが多いし・・・」
 「筝殿は?」
 「もっと有名人ですよー。悪名じゃない分、もっと人がたかりますよー」
 「・・・それは、私が悪名高い女だといってるのかしら?」
 「悪名高いですよー。インランなマジョだっ・・・」
 詩羅が、慌てて佳蘭の口を塞いだが、遅かったようだ。
 「誰が魔女ですって・・・?」
 「南蛮人の評価です、英華様」
 「巫女にそんな口きいて、ただですむと思ってるの?!二度とそんな悪態がつけないように、口を引き裂いてやる!!」
 「労力の無駄です、英華様。そんなことに関わってないで、お二人を探しましょう。
 早い者勝ちなんでしょう?」
 詩羅の冷静な言葉に、英華は我に返った。
 「そうね。詩羅の言う通りだわ。
 でも、誰を調べに行かせたらいいのかしら?」
 「娘に行かせましょぉかぁ?」
 少女のようにかわいらしく小首を傾げて、佳蘭が申し出た。
 その幼い外見からは想像し難いが、彼女は南蛮人の夫との間に、二人の女子をもうけている。
 「あの子達だって顔を知られてるでしょうが。それに、女の子を港なんかに行かせるなんて危ないわよ」
 港には、人買い船が停まっている事もある。
 容姿のいい子供を攫って、子の産めない上流階級の夫人などに売るのだと言う。
 貧しい母親などはその言葉を信じて、自ら子供を売る事もあると言うが、実際は、どんな目的で子供を集めているのか知れたものではない。
 この地が南薔国であった時代は、そのような怪しげな船など絶対に寄港させたりしなかったのだが、南蛮の領地となって以来、南蛮の貿易免状を受けた船の乗組員は、繁葉や南州の土地を我が物顔で闊歩し、山賊も恥じて行わないような蛮行を平気で行う。
 今、この地では、女子供は用心してし過ぎると言う事はないのだ。
 「男の子に変装させたら、絶対わからないわよぉ。それに、気づかれないように護衛を付ければいいじゃない」
 「・・・それはいいわね」
 英華が頷くと、詩羅は思わず声を荒げた。
 「やめてください!子供にそんな危険な事をさせるなんて!」
 「大丈夫よ、英士に行ってもらうから」
 英華の言葉に、気勢を削がれたかたちで詩羅が黙り込むと、英華は早速英士を呼びにやった。
 「―――― と言うわけで、調べに行ってくれるかしら?」
 「いいよ」
 軽く頷いた英士に、詩羅と佳蘭が絶叫する。
 「わかっているのですか、候子!?危険なことなのですよ!?」
 「きっと候子も、顔を知られてますよぉ。やめましょぉ?」
 「大丈夫だよ。船員のふりをするのは慣れているから」
 途端、英華の瞳がきらりと光ったのを見て、英士は慌てて両手を背後に隠した。
 「慣れているのね?」
 「な・・・慣れてなんかないよっ!」
 「じゃぁ、なぜ、お手々を背中に隠すの?」
 額に汗を浮かべて、黙り込んだ英士の眼前に、母の顔がゆっくりと降りてきた。
 「お母様、いつも言ってるわよね?危ないから、港に行っちゃいけませんって。
 なのに、慣れるほど行っていたの?誰と?」
 「・・・・・・・っ」
 「そう。言いたくないの。じゃぁ、悪い子には、鞭をあげなきゃね」
 「にっ・・・兄様とっ・・・」
 「英毅が?南州侯なのに、遊んでいたの?」
 「違うよ。兄様が南州侯になる前に、一緒に遊びに行って、南州侯になってからは、僕一人で・・・」
 「じゃぁ、英毅も鞭で打ちましょう。英士、手を出しなさい」
 英士は、母の言葉に逆らわなかった。
 どころか、詩羅や佳蘭の顔色すらうかがわず、ぎゅっと目をつぶって、そろそろと両手の甲を差し出す。
 彼女らに限らず、南薔に、人の教育方針に口を出す女はいないのだ。英士はこんな時、女たちに助けを求めても無駄だと言う事を、よく知っていたのである。ここで泣き叫んでも、自分が恥をかくだけだ。
 間もなく鋭い鞭が、恐ろしい音を立てて振り下ろされる。
 確信に満ちた予想に身を強張らせていると、不意に柔らかな手が乗せられて、英士はぎょっと目を開けた。
 「今回は、大目に見てあげましょう」
 よほど恐かったのか、うっすらと涙を浮かべる英士に、英華は口元をほころばせる。
 「その代わり、ちゃんと調べてくるのよ。
 放り出して遊んでたりしたら、今度こそ鞭をあげるわよ」
 英士は、首がちぎれるのではないかと心配になるほど勢いをつけて、何度も頷いた。
 「行ってきます!」
 もう一瞬でもここにいたくないといわんばかりに、英士はすばやく出ていった。
 「・・・大丈夫でしょうか」
 気遣わしげに英華を見遣る詩羅に、
 「私の子ですよ、詩羅」
 英華は、誇らしげに笑みを返す。
 事実、英士は候子にふさわしい容姿と気概を持った少年だった。
 母より少し色の薄い赤毛と琥珀色の瞳は、時折、日に透けて金色に輝き、目鼻立ちのはっきりした顔立ちは、あと五年もすれば、少女たちの憧れの的になるだろうと、もっぱらの噂である。
 英士は、母から逃げるように一気に州城の中を駆け抜けると、厩舎に忍び込んで愛馬を引き出し、こっそりと裏門を抜けて一目散に馬を駆った。
 州城の裏手から、なだらかに続く坂を一気に駆け下り、繁葉へと一直線に延びる公道に乗り込む。
 二十年前、往来の馬車で埋め尽くされていた道は、以前と比べればだいぶ人通りが少なくなっていると言うが、それでも英士が知る限り、この辺りでは一番賑やかな場所だった。
 英士は往来の中に、馬車と騎馬で構成された商隊を見つけると、その足の早い集団の中へすばやく中へ紛れ込んだ。
 そこでは、他人の事に気を取られるものはいない。
 英士は、商隊の後方を進む馬車の後につき、見習いの少年を装って、繁葉まで一気に南下した。
 足の早い隊だけに、日が中天に差し掛かる頃には繁葉の町に到達した。英士は、さりげなく道をそれて、崩れ落ちた神殿の裏手に馬を繋ぐ。
 そこで着ていた服を脱ぎ、代わりに粗末な衣服を纏って、顔と髪を汚すと、たちまち候子の気品は消え失せ、港にたむろする不良少年そのものの姿になった。
 「馬肉にされたくなかったら、おとなしくしてるんだぞ」
 平手で軽く馬首を叩くと、愛馬は不安そうに鼻を鳴らす。
 「すぐ帰ってくるからね」
 言いやると、英士は軽い足音をたてて神殿を駆け抜けた。
 砕石に足を取られながらも神殿から出ると、遠くから屋台の放つ、香ばしい香が漂ってきて、英士のお腹が音を立てた。
 「ご飯を食べてからにしよう」
 セイラン様を見つける前に倒れては元も子もない。
 そう決意して、英士は屋台街の方へと走っていった。


 「魚だ、魚!」
 「蛋白質ばっかりで、いい加減飽きたよ。炭水化物が食いたいったら食いたい!!」
 屋台街では、すれ違うものが思わず振り向かずにはいられない美青年が、連れの青年に喚き散らしていた。
 「いいじゃねぇか、海の幸!
 今この世界は、湟帝陛下の恩寵だけで生きてるようなもんだぜぇ?」
 見事な紅い髪の青年が、日を受けて金色に輝く瞳を眇める。
 「あぁ、なるほど。水もないのに、どうやって生きてるんだろと思ってたんだよなぁ」
 カナタが海を見遣ると、ほぼ中天から光を受けた海面は眩しいほどに輝いていた。
 海中ではさぞかし、光合成が盛んなことだろう。
 「それで、港に人がたかっているわけか」
 船乗りや貿易商人、そして彼ら相手の商売人だけの割には、人が多すぎると、前から思っていたのだ。
 「昔は、内陸部の方が人が多かった。
 公主が渺茫宮にいた頃、大陸は東西二本の大河によって三分されていてな、南薔風に言えば『東大河』の東が東蘭、『西大河』の西が西桃。真ん中の、最も豊かな土地が南薔と言うわけさ」
 「・・・まんまだな」
 呆れるカナタに、サラームは声を上げて笑う。
 「西桃なんか、『薔薇水(しょうびすい)』だぞ。お耽美すぎて笑っちまうけどな、かつて、大河の流れに沿って、いくつもの街が栄えた。
 だが、澪瑶公主が眠りに就くや、日に日に水量は減り、今では伏流水が所々顔を出す程度だ。
 農作物が採れないから、魚や貝を獲って生きてるのさ」
 それでもこの町には、金持ちに高値で売りつける野菜や果物が上がっていた。
 船旅で傷んだものは、この町の人間に安く売るのだが、そんな作物でも貧乏人には高価な贅沢品である。
 「・・・ちょっと待て。
 だから炭水化物は諦めろと言ってるか、もしかして?」
 日に透けて宝石のように煌く碧眼で、じっとりとねめつけると、サラームは大仰に顔をしかめて見せた。
 「ナニを言うておるか、このバチアタリめが」
 「・・・似てねーし答えになってねー」
 依坤の真似らしきサラームのセリフを一刀両断に切り捨てると、彼は悄然(しょうぜん)と肩を落とす。
 「しまった。琅環(ろうかん)に降りている間に、芸が鈍ってしまった・・!」
 「・・・火精って、ヒマなのか?」
 カナタが出会った精霊は皆、彼ほどおちゃらけてはいなかった。
 「忙しい。そりゃあもう、忙しい。生身の生き物だったら、確実に死んでいるな。
 昼夜を問わず、一所懸命働いているなんて、偉いぞ俺様っ!」
 だからお魚買ってぇ!と縋ってくるサラームに、カナタが不審に満ちた視線を向けた時、どんっと背中を押され、思わずよろめいた。
 「ごめん!」
 追いかけっこでもしているのか、カナタにぶつかった少年の後を、数人の少年たちが歓声を上げて走り去って行く。
 「へぇ・・・変わってるね。
 こっちじゃ鬼をみんなで追いかけるんだね」
 「・・・変わってるのはてめぇだ」
 呟いて、サラームはカナタの目の前に、小さな革袋をぶら下げた。
 それは、つい先ほどまでカナタの懐に入っていた物と寸分の違いもない。
 「あれ?」
 「あれ、じゃない。スられてんじゃねぇよ」
 「スリ?子供が?」
 「・・・頼むから、お前の常識をここで用いるな」
 脱力したように頭を抱えたサラームだったが、その面を上げるにつれ、金色の瞳に意地の悪そうな笑みが浮かぶ。
 「盗られるのを防いでやったんだから、ここは俺の希望が優先されるべきだよな」
 「きたねー・・・」
 カナタが非難を込めて呟いた時、またもや背にぶつかってきた少年がいた。
 先ほどの教訓が生きて、カナタは思わず身をすくめたが、少年は串に刺した焼き魚を咥えたまま、驚いたようにまじまじとカナタを見上げた。
 「・・・ごめんなさい」
 やっと、口が利ける事を思い出したように、少年は魚を口から離して呟いた。
 汚れてはいるが、よく見るとかわいらしい顔をしている。
 「あ・・・っと、こちらこそ。ぼーっと立っててごめんね」
 子供向けの優しい笑みを浮かべると、少年―――― 南州侯・英華の次男、英士は、耳まで赤くした。
 ―――― お母様よりきれいな人がいるなんて。
 心の中で呟きながら、英士は目の前の佳人から目が離せなかった。
 ―――― セイラン様は薄い金髪に水色の目だって聞いたけど、この人じゃないのかな。
 しかし、南薔で最も美しい女として、南蛮王に愛された人なら、このくらいは美しいに違いない。
 そう思い、英士は口の周りに散った魚の塩を手でぐいっと拭うと、まっすぐにカナタを見あげた。
 「鳥を飼ってらっしゃいますか?何色の鳥ですか?」
 「はぃ?」
 この世界流のナンパかと、カナタが思いっきり首をひねる横で、サラームがはっと息を呑む。
 「金だ。
 ・・・金色の鳥と言っても、インコなんかじゃない。フクロウにはちょっと珍しい色だぜ」
 そう、サラームが少年に囁きかけると、彼は頬を紅潮させて頷いた。
 「僕の家のフクロウは赤なんです。
 赤いのも、珍しいでしょう?」
 「そうだな」
 にっこりと笑みを浮かべると、サラームはいきなり少年を抱き上げた。
 紅地に白い薔薇を咥えた金色のフクロウ。
 それは、南薔王家の紋章である。
 そしてそれはまた、東西南北の三州ずつを治める『侯爵』達の紋章でもあった。
 「名は?」
 サラームが、黒地に紅いフクロウの紋章を持つ、茱(シュ)家の少年の耳に囁きかけると、
 「南州侯の次男、英士です」
 「絹貴(ケンキ)の所に行きたいのか?」
 「母が、お側に参りたいと申しております」
 言って、英士は目を見開いた。
 「・・・絹貴さまじゃ・・・?」
 呟いて、英士は高くなった場所からカナタをまじまじと見つめる。
 「俺は男だっつーの」
 思いきり顔をしかめると、英士は緊張に強張った顔をわずかに緩めた。


 迷路のように入り組んだ道を、迷うことなく踏破したサラームの腕に抱かれたまま、英士はその粗末な家の扉をくぐった。
 意外と明るい室内には、彼より二つ三つ下に見える少年がふんぞり返り、その周りを囲むように三人の女が座っている。
 一人は枯れ枝のように痩せた老婆。もう一人は砂色の髪をした妊婦。そしてもう一人が、肌も髪も雪のように白い少女だった。
 「南州侯の使者を連れてきたぜ」
 言うや、サラームは英士を軽々と石床の上に降ろした。
 「・・・はじめまして」
 それぞれ特徴的な容姿の女達に次々と視線を移しながら、英士はおずおずと言う。
 「母の言葉をお伝えに参りました」
 「英華殿かえ?」
 しわがれた声に、英士は内心首を傾げながらも、こっくりと頷いた。
 この老婆は誰なのだろうと、口には出さずとも、その表情が問い掛けている。
 「僕は英華の次男で、英士といいます。
 南州は、絹・・・精纜さまのお味方をいたします」
 砂色の髪をした妊婦に向かって、英士は懸命に口上を述べた。
 「使者ご苦労様。他に、英華殿はなんと?」
 英士は、ちょっと困ったようにあごを引いた。
 薄い琥珀色の瞳の奥で、懸命に母の言葉を思い起こしているようだ。
 「・・・南州軍は、六日後に北の平原で練兵を行います。軍を動かすのはとても目立つので、できればそこで落ち合いたいと言ってました。
 南州城の南蛮軍は全員倒したので、南蛮の鎧を着ているのは南州城の女達です」
 「六日後か!それはまた急な事だなぁ。別れは惜しいが、身体に気を付けてな!」
 手を打って、妙にはしゃいだ声を出すサラームに、依坤の眦がつり上がった。
 「もしやおぬし、共に来ぬ気か?」
 「俺も行くのか?!」
 驚愕の声を上げる彼に、依坤は口の端を曲げる。
 「そうか。王位は惜しゅうないか」
 「・・・行きます」
 そんな二人のやり取りを聞いて、英士が不思議そうに首を傾げた。
 「王位?」
 目の前に立つ男は、どう贔屓目に見ても、高貴な雰囲気はない。どこにでもいそうな、普通の男である。
 「失礼ですが、お名前をうかがえますか?」
 「名乗るほどのものではない!」
 本人はニヒルに決めたつもりだったろうが、英士を始め、周りの者達はあからさまに引いていた。
 「・・・っつーか。なんとでも呼んでくれ」
 拗ねて壁にもたれる男を、英士は困ったように見あげる。
 「えっと・・・あの・・・これから僕、どうすればいいんでしょう」
 母親からは、伝言以上の事を聞いてはいなかった。
 英華もまさか、初日に彼女らが見つかるとは思っていなかったのだ。
 英士は、困り果てた様子で周りの人々の顔を順々に見上げた。
 「そりゃ、合流だろう?」
 ごく当たり前の様子で、カナタが言う。
 「そのためにここにいたんだし」
 ねぇ、と了承を求めた人物は、皺だらけの顔を笑みの容に歪めて何度も頷いた。
 「南薔を奪回するに、軍は、何としても必要でございます。そして兵を増やすには、旗印が必要でございます」
 皺に埋もれてどこにあるのかがよくわからない目を精纜達に向けると、二人の王族は素直に頷いた。
 「英士殿。南州侯に伝えてください。ご協力を感謝する、と」
 精纜の言葉に、大役を果たした少年はほっと息をつき、大きく頷いた。
 「ありがとうございます。
 ・・・ところで、こちらの方は、みんな一緒に来るんですか?」
 確認と言うよりは気遣わしげに、老婆を覗う。
 「この婆も、北に行ってみたいのじゃよ。
 むろん、足手まといになるようなら、置いていってもらうがね」
 英士は頷きながらも、穏やかに笑う老婆の顔から目が離せなかった。
 彼は、祖母の顔を知らない。
 彼の祖母は、二十年前、南蛮に南州が制圧された時に首を斬られたのだ。
 祖母が生きていたら、こんな感じだろうか。いや、祖母はもう少し若かったかもしれない。
 そんなことを考えていると、老婆の、枯れ枝のような左腕が上がって、ひらひらと手招いた。
 「英華に良く似ている。姉妹は?おらぬのかえ?」
 視力はさほど衰えていないのか、わずかに近寄った英士を見て、目尻に皺を寄せる。
 「お前の母様には、ちゃんと印はあるのかえ?」
 言うや、老婆は左の袖を引いて、腕に施された刺青を示した。
 長い時を経たそれは、薄れ、消えかかっていたが、その老婆の身分を証明するには十分なものだった。
 「・・・州侯」
 英士は、目を見開いて老婆の腕を凝視した。
 南蛮では、腕に刺青を施されるのは罪人の証拠なのだといわれて、南州侯を名前だけ継がされた母には施されなかったものだ。
 「どちらの・・・?」
 北州侯は峭州の州城に立てこもり、王を擁して国政をほしいままにしているという。
 そんな女が、この様な場所にいるはずもない。
 目の前の老女は、西州候か東州侯であるはずだ。
 そんなことを考えつつ、深く息を吐きながら問う英士に、老婆はくしゃりと顔を縮める。
 「東の婆じゃよ。
 おまえ様の母様は、生まれたばかりの頃、まだ細い髪が金色に輝いておってのう。
 そこでこの婆が、まばゆい光―――― 英華と名前をつけてやったのじゃ」
 南薔において、名付け親は生みの親と同じである。
 婚姻による同盟を結ぶ事が困難なこの国では、そうやって家同士の絆を深める。
 つまりこの老婆は、英士の祖母と同じ存在なのだ。
 「・・・母が、喜ぶと思います」
 さまざまな思いが去来した後、口をついて出たのは、ありきたりで他人行儀なものだった。
 「では、僕は皆様の事を母に報せに戻ります。
 詳しい場所など、またお報せに上がりますが・・・こちらには出入りしない方が?」
 南州侯の息子が頻繁に出入りしていると、南蛮に知られてはまずいだろうと、彼の表情は語っていたが、ここの家主はそのような些細な事にこだわる男ではなかった。
 「いいぜ、別に。お前が一人で、ここまで来れたらの話だが」
 英士が正直に、『それは難しいです』と答えると、サラームは軽く首を傾げた。
 「蒋赫はまだ戻っていないのか?」
 問うと、カナタが軽く頷いて見せた。
 「今ごろは海で釣りだよ。真っ昼間に船を漕いだら、ここに帰り着く前に干からびてしまうし」
 凪いだ海上で櫂を使うのは、ものすごい膂力を必要とする。照り付ける太陽の下、水分の補給もままならない状態で体力を使えば、熱中病で死にいたる恐れもあるのだ。
 大きな客船などでは、それでも昼間に航行する事もあると言うが、貨物が南蛮の産物と南海で釣った魚が半々の船では、昼間に無理をする必要はない。
 「夕方になったら帰ってくるだろ」
 以前は船員たちと共に、あの小さな船に寝泊まりしていた蒋赫だが、最近は仕事を終えるとこの家に来るようになっていた。
 「けど、あいつも昼は漁に出るし、英士くんの道案内が出来ない時もあるだろう?」
 「・・・俺に行けといっているか、もしかして?」
 「このにーさんが迎えに来てくれるからねー。安心しておいでー」
 「・・・・・・はぃ」
 いいのかな、と、英士が気遣わしげな目を向けると、背の高い男はしぶしぶ頷いた。
 「好きな時に来ていいぞ。すぐ迎えに行くから」
 態度は偉そうだが、きっとここでは一番身分が低いのだろう。東州侯の配下に違いない。
 そう思い、英士は男に頷いた。
 「また来ます」
 精纜と沙羅に向かい、ぺこりと頭を下げるや、英士はサラームの袖を引く。
 「大通りまで連れていってください」
 サラームは、奇妙にねじれた表情を浮かべると、無言で少年を抱き上げた。


 英士少年は奇跡の邂逅(かいこう)以来、毎日のように繁葉の隠れ家にやってきては、南州側との連絡を取り持っていた。
 英華からの書状は、彼らを迎えに行けない事をひどく恐縮した様子で詫びており、彼らが出立するに際して必要なものは、できる限り調達して少年に預けてきた。
 そして、いよいよ出立の日。
 「・・・産気づいた、だとぅ?」
 サラームの剣呑な声に、カナタはあっさりと頷いた。
 「こればっかりは仕方ないね」
 「言う事はそれだけかい・・・」
 かくんと肩を落とすサラームを、一人落ちついている老婆がなだめる。
 「ここは、この婆が残りましょう。皆様は、はよう南州侯と合流なさいませ・・・英士や」
 老婆に呼ばれると、少年は人懐こい子犬のようにその側に駆け寄った。
 「一足先に母様の所へ行って、精纜様が行けない事を伝えておくれ」
 老婆の言葉にこくんと頷き、ぱたぱたと家を出て行こうとする英士の後に、沙羅が続く。
 「東州侯、母をお願いします。蒋赫殿、一緒によろしいかしら?」
 驚いて振り返った英士を追い越して、沙羅は家を出た。
 色素のない瞳は、強い日差しの下では何も見ることができないため、幾重にも襞を取った黒い薄紗を頭からすっぽりと被っている。
 「さてさて・・・では皆様も、はよう発たれませ。ここは婆が、元気なややをとりあげますゆえな。ご安心しておゆきなされ」
 「そうじゃな・・・ではサラームよ、ここに残れ」
 そっけない依坤の言葉に、サラームの瞳がみるみる輝きはじめた。
 「そっか、一人で行くか!いやー、よかっ・・・いやいや。気をつけていけよっ!」
 踊りだしそうに声を弾ませるサラームを、依坤は冷ややかな目で見あげる。
 「琅環(ろうかん)の生き物相手に刃を向けるおぬしではないゆえ、北までは側におっても役に立たぬだろう。
 じゃが、わしが北に着く前には必ず馳せ参じるのじゃぞ」
 「・・・俺はお前の譜代かー!!」
 依坤の言葉に顔を覆って嘆くサラームだったが、無情な地精王は意に介さず、『わかったな?』という確認の言葉を吐き捨てて背を向けた。
 「おい、サル!はよう背負わんか!」
 だっこをねだるように、両手を挙げる姿は、とてもかわいらしいのだが、言う事は憎らしい事この上ない。
 「おねがいしますは?お・ね・が・い・し・ま・す!」
 「やかましい!とっとと背負わんか!!」
 怒鳴りながら、ちょろろ、とカナタの背後に回った依坤は、その膝裏を蹴りつけて、がくんと床に膝をついた彼の背に飛び乗った。
 「鬼!悪魔!!子泣きジジィ!!!」
 「ゆけ!馬よ!!」
 カナタの嘆きなど意に介さず、依坤は傲慢に言い放つ。
 と、カナタの意志に反して、その両腕が背後の依坤を支え、立ち上がった足が外への扉へ向かった。
 だが今のカナタには、依坤がこうやって馬を操っていたのかと、感心する余裕などない。
 「ジジィを頼んだぞ、カナタ!!」
 「逃げんなよ、マジで!!もし逃げたら、末代まで祟ってやるからなー!!!」
 楽しげに声を弾ませるサラームに、必死に首を捻じ曲げで怒鳴った頃には、既にその身体は戸外へと飛び出している。
 「俺に末代って、あるんだろうか」
 傍らにうずくまる老婆になんとなく尋ねると、彼女はくしゃりと皺を寄せた。
 「偉大なる煌帝陛下をお守りする、大将軍閣下にもお分かりにならぬ事を、なんぞ人間の婆が知り得ましょうか」
 笑みにもしかめ面にも見える皺のかたちを見下ろして、サラームは軽く頷いた。
 「そだな。今度ジジィに会った時に覚えていたら、聞いてみるか」
 独り言のように呟いて、天井を見上げる。
 「子供が生まれてくるって時に、この話題はふさわしくないか?」
 二階の寝台に横たわる精纜の姿を透かし見るように、その視線はしばらく一点を動かなかった。
 「親、子、孫の順で死んでゆくのは良い事だと、祖母はいつもいうておりましたよ」
 「・・・ところでよ、俺、ガキ取り上げた事はないぜ?」
 「期待はしておりませぬよ」
 言って老婆は、今度ははっきりと笑みに見える表情を浮かべた。
 「さぁさぁ、参りましょう。
 おのこであれおなごであれ、元気に生まれますように」
 「・・・俺を拝んだって、なんもできねっつーの」
 彼に向かって手を合せる老婆に憮然と呟いて、サラームは身軽く階上へ上がっていった。


 神殿の裏手では、鞍をつけた五頭の馬と、二頭の馬が繋がれた馬車。そして、五騎の屈強な男達が待っていた。
 英華が用意した、護衛たちである。
 「候子・・・」
 人数が合わないと、いぶかしむ男達にひとつ頷いて、英士は愛馬の手綱を取った。
 「精纜様の赤ちゃんが、もうすぐ生まれるんだって」
 こんな時に、と、目を剥き、あるいは眉をひそめる男達に、英士はにこっと笑って見せる。
 「元気だといいね」
 「・・・・・・ほんとうに」
 気まずさを隠すように、男達は苦笑を交わした。
 「では、東州侯ともうおひとかたは、精纜様についていらっしゃるのですね?」
 英士と、彼の背後で手持ちぶさたに立つ者達を見回して、男の一人が確認する。
 それに英士が頷くと、彼は一歩進み出て、馬には乗れるかと問うた。
 「乗れる」
 蒋赫は一言そう言い、沙羅も微かに頷いて肯定した。
 しかし、
 「旅行先で、手綱を引かれたまま30分ほど散歩した事ならある」
 というカナタの言葉に、男達はぎょっと目を剥く。
 「あ、南蛮兵にさらわれた時は、しばらく二人乗りを・・・」
 いいかけて、カナタはとげとげしくなった雰囲気に思わず口をつぐんだ。
 「・・・しかたない、馬車で」
 「しかし、それでは速度が・・・」
 「もともと使うつもりだったのだから、問題はないだろう?」
 男達は、カナタの耳に入らないよう、声を低めているが、人ならぬ身のカナタには無駄である。
 ―――― 気ぃ遣わせちゃって、悪いなぁ。
 と、気まずく心中に呟くと、カナタの中にいる麗華の声がそっと囁いた。
 『私 乗馬は得意でしたわ』
 「っても、君は手綱を握れないだろう?」
 いきなり自身の影に向かって話しかけるカナタを、男達がいぶかしげに見遣った。
 『だいじょうぶよ あなたの手があるでしょう?』
 「それって取り憑かれるってこと?」
 その銀色の髪の向こうに、ちらちらと褐色の髪が透けるのを見て、彼らは、カナタが背負った子供と話をしていると思ったようだ。
 男達が、興味が失せたとばかりに目を離した瞬間。
 カナタの影から、麗華の姿が浮かび上がり、眩しい太陽の日差しから逃れるようにすばやく、呼気と共にその体内へと入ってしまった。
 「いっ・・・イコ・・・」
 慌てふためいて助けを求めたが、相手はカナタの頭を軽くはたいた。
 「わしはメリーではないのか、サルよ?」
 そっと耳にささやかれる声が冷気のようだ。
 「麗華の事は気にするな。精霊の得意技だ、それは」
 「ひょ・・・憑依が・・・?」
 『安心してくださいな  慣れてますのよ』
 そういわれても、『はい、そうですか』と受け入れられるほど、カナタは豪胆ではない。
 「どうする気だよ〜」
 不安におののくカナタの中で、麗華が、微笑んだような気がした。
 彼女はまず、カナタの手を操り、おぶっていた依坤を胸の前に移動させると、男たちのほうへゆったりと数歩、進み出た。
 「ごめんなさい、冗談です。馬には乗れます」
 先ほどとは打って変わって、穏やかに微笑むカナタに、男たちは一瞬、浮かんだ憤りをやわらげてしまう。
 「・・・悪い冗談だ」
 照れ隠しのように愛想なく吐き捨てた男には、艶やかなまでに微笑んで見せた。
 「ごめんなさい。悪ふざけが過ぎました」
 しかし男が、赤面しつつも見つめる視線を外さないのを見て、カナタは心中に叫んだ。
 ―――― 変な気を起こさせるんじゃないっ!!
 南蛮兵にさらわれた時の、恐怖体験がまざまざとよみがえる。
 ―――― また襲われたらどうすんだっ!!
 『その時はまた 守って差し上げてよ』
 一時的にとはいえ、身体を取り戻した麗華は、妙にはしゃいでいるようだ。
 ―――― もう返さない、なんて言わないよな?
 一抹の不安に駆られ、漏れ出た言葉に、麗華はしばし考え込む。
 ―――― 麗華?!
 『冗談よ  私は 女の身体の方がいいもの』
 依坤を鞍の前方に乗せながら、不意にくすくすと笑みを零すカナタに、男達だけでなく沙羅や蒋赫もぎょっと目を向けた。
 「・・・どうした?」
 おそるおそる声を掛ける蒋赫に、
 「なんでもないわ」
 必要以上にたおやかな笑みを向ける。
 「・・・なんでもない・・・わ?」
 ―――― 麗華ー!!
 カナタは心中に怒鳴ったが、もとより体外に聞こえるものではない。
 カナタの叫びは黙殺され、その身体は貴婦人のような優美な身ごなしで馬上に収まった
 「さぁ、参りましょう、皆様」
 「みな・・・・っ?!」
 絶叫しかけたが、蒋赫はふと我に返った。
 彼は、カナタに女の精霊が取り憑いている事を知っている。
 「・・・難儀だな、お前も」
 ぼそりと呟くと、蒋赫はまず、沙羅に手を貸して騎乗させ、続いてひらりと馬上に乗り上げた。
 「あら、それほどのことでもなくってよ」
 うふふふふ・・・と、上品に笑うさまは、普段、カナタが見せる、ぞんざいながらも親しみやすい態度よりも、その容姿にはふさわしく見える。
 「・・・そいつの評判を落とさない程度にしておいてくださいよ」
 蒋赫は、冗談交じりに囁いて苦笑をもらしたが、そうも行かないのが英士少年である。
 目を見張るような美貌でありながらそれにはまったく頓着せず、気さくで男っぽかったカナタが、急に貴婦人のような物腰に転じたのだ。驚かないほうがどうかしている。
 少年は目玉が零れ落ちんばかりに目を見開き、別人のように優雅になったカナタを凝視した。
 「英士殿、そんなに見つめられては、穴があいてしまうわ」
 くすくすと、からかうように笑うカナタに、英士は思わず顔を赤らめる。
 ―――― 違う。この人は、別人になってしまった。
 ほのかな色香までもかもし出すその雰囲気に、飲まれたように英士は馬上で身をこわばらせた。
 ―――― 誰?
 気味の悪いものに出会ったように、彼の瞳に恐怖の色がにじむ。と、カナタの、近寄りがたい雰囲気が、不意に和らいだ。
 「悪ふざけが過ぎたね」
 にこっ、と、困ったような、優しい笑みが向けられて、英士は、身体の中で張り詰めていたものが緩んでいった。
 初めて会った時の、子供向けの笑み。
 警戒とか、緊張を感じさせない、彼独特の笑みだった。
 「・・・夜になったら、彼女を紹介するよ。俺の中に棲んでいるんだ」
 英士のすぐそばに馬を寄せ、その耳元に囁く。
 「俺が、馬に乗れないんでね。彼女に身体を預けたら、とんでもないことになっちまった」
 憮然とした声は、なぜか自分に対して向けられている。
 「怒らないで。ちょっとした冗談よ」
 楽しげな声に、英士はまたもやぎょっと目をむいた。
 その声は紛れもなくカナタのもので、カナタ自身の口から出たものだ。
 「・・・だから、俺の口を使うなっての」
 「はぁい」
 憮然とした声の応酬が済むと、カナタは軽く馬を走らせた。
 「行くのだろう?」
 呆然としんがりに着いた者たちに、カナタの前に座る依坤が振り向く。
 「もちろんです」
 すかさず応じた女の声は、厳しく、冷たい憤りを含んでいるようだった。
 声の主は、騎乗した者たちの視線を一身に浴びながら、黒い薄紗を被った頭を昂然と上げて、一行の先頭へと馬を進める。
 カナタを追い越す時、沙羅はちらりと彼を見やった。
 もし彼女に黒々とした瞳があったなら、カナタの身を貫かんばかりに睨み据えていたことだろう。
 しかし、どちらにとっての幸いか、その色素のない瞳にはおぼろげな輪郭しか映らなかった。
 ――――・・・あんまり刺激すんなよー。嫉妬深い姫様が、なにすっかわかんないぞー。
 カナタが心中に呟くと、麗華が微かに頷いた。
 『化けの皮を被るのも、王の資質のうちでしょうに。誇りばかりが高くていらっしゃるのね』
 内に響く、麗華の冷ややかな声に、カナタは玉華泉での、美桜と巽依の会話を思い出した。
 ―――― 化けの皮が厚いのも、どうかと思うけどね。
 カナタは、あの雌虎たちの対決を思い出すだに背筋が寒くなる。
 だが、麗華はカナタの気持などお構い無しに、軽く馬を駆った。
 慌てて先頭に着く男達と並んで走りながら、さりげなく沙羅のとなりに付く。
 「気を付けなさい。見捨てられないように」
 ぽつりと囁かれた言葉は微かなものだったが、沙羅の耳にはしっかりと届いたようだ。
 殺気に近い気配がカナタに向けられ、勢いをつけて追い越される。
 「心得ますわ」
 すれ違いざま、冷ややかな声を浴びせて以来、沙羅は終始無言でカナタに背を向けていた。
 ―――― 依坤?
 カナタは、自身の前に座る依坤に、ふと意識を向ける。
 馬を駆る麗華が、視線を前から外さないため、その表情を見る事は出来なかったが、このわががま大王が、沙羅の態度になんの感想も(この場合、罵詈雑言だが・・・)出ないのは、不思議と言うよりも気味が悪かった。
 だが、カナタの不安は、特に深刻な事態を予言することなく、一行は(沈黙ぎみな騎行ではあったが)無事に南州侯の軍と合流できたのだった。


 茱英華は、灼熱の太陽のもと、南三州の中央・栄州(えいしゅう)北部の平野で、表面上はゆったりと王族たちの到着を待っていた。
 平らにならした砂の上に、黒地に翼を広げ、上を目指す紅いフクロウを織り込んだ絨毯を敷き、簡易ではあるが背もたれもある優雅な容の椅子の一つに腰を下ろしている。
 侯爵たるもの、感情を出すものではない。
 ふと思い出した母の言葉を、この最も気ぜわしい時に実践して見せたのだったが、その忍耐もそろそろ尽きそうだった。
 もとより、彼女も母も、激昂すればそんな言葉など頭から霧散する性格なのだ。
 「暑い・・・」
 憤りさえ含んだ微かな声に、筝が振り返った。
 「なんですって、英華様?」
 初老の身体に南蛮兵の革鎧を着込み、陽光の下に毅然と立ちながら、その額にはひと粒の汗も浮いていない。
 「天幕に入ってちゃだめなの?」
 英華は、化粧を落とさぬよう、気を遣いながら顔に浮いた汗を拭うと、うんざりと太陽を見上げた。
 「無礼でしょう?もう少々、我慢なさいませ」
 英華にしか届かない微かな声は、厳しい。
 少々って、いつまでよ?と、喉元まで出掛かった声を呑み込んで、英華はまたうんざりと、平野を見回した。
 「先触れが来るまで、日陰に行ってていいでしょう?」
 こそりと、囁きかけると、
 「先触れがないかもしれないでしょう?芝居で言えばここは、誠意を演出する場面です。我慢なさい」
 叱り付けるような声が、英華の耳に低く届いた。
 英華は、大きく息をつきながら、司令官用の大きな幕舎の前に置かれた簡易椅子の背にもたれる。
 「暑い〜」
 口の中で、何度目かの愚痴を呟きかけた時、
 「・・・おいでのようですよ」
 近視とは無縁の老女の声が、こちらに向かってくる砂埃を指し示した。
 「待ちかねたわ」
 嬉しげに席を立ち、英華はもうもうと上がる砂埃を透かして、迫り来る騎馬の数を数えた。
 「・・・?少ないのでは?」
 「一騎、飛び出て参りましたね」
 二人が日に手をかざし、目を凝らしながら話す間にも、その騎影はみるみる近づいてくる。
 「ほぅ、見事な」
 二人の側に寄り、同じく目を凝らした范(ハン)将軍が、騎手の見事な手綱さばきに、感嘆の声を漏らした。
 「あれは、芍(シャク)将軍の愛弟子でござるな」
 声を張り上げ、わずかに離れた場所にいる将軍に声を掛けると、彼は、息子の成長ぶりを見守る父親のように目を細め、嬉しげに頷いた。
 「上手くなったものだ。これだから少年は、あなどれん」
 言いながら、英華を見遣ると、彼女も嬉しそうに笑って進み出た。
 「英士!」
 手を振ると、馬上の少年も手を振り返す。
 「お母様っ!!」
 少年が、やや慌てた様子で止まりかけた馬から飛び降りると、勢い余って母の方へ転がってきた。
 「英士!!」
 驚いて駆けつけた兄の手を押しのけ、周りの大人たち全員に聞こえるように声を張り上げて、英士は精纜と東州侯が来られなくなった事情を簡潔に説明した。
 「よりによってこんな時に・・・」
 みるみる近づいて来る騎影に向かって、范が苦々しく呟く。
 英華も、同じ言葉を呟きそうになったが、無理矢理胸の中に呑み込んだ。
 「・・・筝」
 助言を求めて見遣った参謀は、無表情のまま頷く。
 「こちらから、護衛の兵を送りましょう。
 英士殿の報告によれば、東州候はお一人。精纜様と御子を手中にして、権勢を振るうことはないと思いますが・・・」
 ふっと、考え込んだ筝に、英華は先を促した。
 「老いたりと言えど州候。一人で精纜様の元に見えたのは、様子を探り、我らを油断させるためかもしれません」
 「伏兵がいるというの?」
 英華の問いに答える前に、わずかな時間、沈黙があった。
 「密かに間者を放ちましたが、確証を得ることはできませんでした。
 ですが、相手が東州候なれば、私ごときに尻尾を掴まれるようなことはなさいませんでしょう」
 言い終えるや、筝は口元に笑みを張り付かせた。
 英華も進み出て、満面に笑みを浮かべる。
 護衛に付き添われ、王女・沙羅が到着したのである。
 「茱英華にございます、殿下」
 英華は漆黒の絨毯の、紅いフクロウの上に恭しく片膝を折り、右手を左胸にあてると、馬上の沙羅に向かって深くこうべを垂れた。背後に控えた息子たち、家臣たちも、南州侯に倣い、膝を折る。
 倣うといっても、侯爵の家臣である彼らは、砂に直接両膝を付き、土下座するように平伏した。
 「この度は、殿下にご足労をおかけし、誠に恐縮の・・・」
 「なぜ平伏しない?」
 いきなり言上を遮って、馬上から浴びせられた冷たい声に、英華は驚いて顔を上げた。
 「赦しもなく面を上げるとは、南州侯は礼儀を知らぬ!」
 黒紗のヴェールを震わせ、憤る声は、とても冗談を言っているようには見えない。
 「・・・畏れながら殿下」
 英華の背後で平伏する筝が、女にしては低い声をかけると、鋭い声が筝を打った。
 「誰の赦しを得てしゃしゃりでるか!」
 「・・・ご無礼を。
 ですが、南州侯の名誉のために、この筝、あえてご無礼つかまつります」
 表面には、さも畏れ入ったといわんばかりの表情を浮かべながら、筝は言いたい事を胸の奥にしまおうとはしない。
 「我が主は、南薔に四人のみの侯爵にございます。
 侯爵と公爵、それに王族は、王に拝謁する際、平伏を免ぜらるるのが古よりの倣い。
 殿下におかれましては、何故そのようにお怒りなさいますか」
 恐縮した声音を装ってはいたものの、知識の足りない者をたしなめるような言葉に、沙羅は傲然と言い放った。
 「祖母の時代はそうだったかもしれないが、私は侮辱に慣れていない。
 南州侯、平伏せよ」
 その瞬間、ざわりと、息を呑み、砂を掴む気配が満ちた。
 黒紗に覆われた顔を盗み見て、この傲慢な小娘がどんな顔をしているのか、窺おうとするように視線が集まる。
 「それとも、私に何か含むところでも?」
 激昂して立ち上がろうとした范将軍を、微かに振り向いて目で制し、英華は絨毯の上に両膝を付いた。
 「南州侯・・・!」
 それだけでも充分、家臣達にとっては屈辱だったと言うのに、英華はそのまま膝を進めて、砂の上に両手と両膝を付いた。
 「ご無礼をお詫び申し上げます、殿下」
 言うや、沙羅の馬前に額を付く。
 英華の背後に控えていた家臣達は、彼女が後ろで一つに束ねた紅い髪が、白いうなじを露わにして黄色い砂の上に散らばると、悔しげに顔を歪めた。
 「天幕内にお席をご用意しております。どうぞ・・・」
 英華にとっても、ここまでおとしめられたのは、初めての経験だ。
 南蛮人に囲まれて、虜囚のような生活をしてた時でも、彼らは彼女を『侯爵夫人』として崇めていたのだ。
 英華は今、自分が悔しさに震えているのか、平静に状況を受け入れているのかさえ、認知できない。
 ただ、自分の声が妙に静かに聞こえるのが不思議だった。
 英華は額づいたまま微動だにできず、王女からの赦しの言葉をただひたすら待っている。
 そんな、痛々しい姿を見て、カナタは眉をひそめた。
 ―――― いくらなんでも、その態度はないだろう。
 カナタは、沙羅が放った南州侯への言葉に、呆れ、憮然としていた。
 ―――― いくら身分が高いからといっても、沙羅は助けてもらう立場だ。なのにあれではあまりに失礼というものだ。
 そう、苦々しく心中に呟いた時、
 「傲慢な小娘」
 吐き捨てるような声に、そこに居た者は皆、ぎょっと体を震わせた。
 自分が思わず、心情を声にしてしまったかと思ったのだ。
 だが、そろりと見上げた先には、陽光を弾いて見事に輝く銀髪の青年が、馬上で涼しげにたたずんでいた。
 「カナタ・・・!!」
 遠慮がちにたしなめてくる蒋赫の声は、聞こえなかったふりをして無視する。
 自分を見あげる目が、ひそやかに誰何してくるのに気づいて、カナタは―――― いや、カナタに取り憑いた麗華は、毅然と微笑んで見せた。
 ―――― 精纜様か?
 いぶかしげな視線はそう問うていたが、麗華は笑みを深くして否定した。
 「南蛮から一緒に来た者だよ」
 麗華が、カナタの口調で話してくれた事に、カナタは身体の奥で安堵の息を漏らす。
 「失礼をお詫びします、みなさん。沙羅は、南蛮で生まれ育ったものだから、南薔の礼法を知らないんだ」
 馴れ馴れしく自身の名を呼び捨てた青年を、沙羅は馬上から返り見た。黒紗の奥の顔は、さぞ恐ろしげにゆがんでいることだろうが、麗華はどこ吹く風とばかりに平然としている。
 どころか、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって、張り詰めた場の雰囲気をやわらげた。
 「南蛮では、家臣はどんな高位高官であれ、王の前では必ず平伏するものだし、精纜殿にとっては、沙羅は唯一の希望である『精霊の娘』だった。
 おかげで傲慢で鼻持ちならない小娘に育ってしまったけど、大目に見てくれませんか?」
 カナタの言葉に、范はあっけにとられ、芍は苦笑をこらえようとするあまり、苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
 「お察しいたします。わたくしも、囚われの身でございましたゆえ」
 英華は、砂上から額は上げたものの、いまだにうつむいたまま、静かな声で言った。
 その紅い髪が、砂にまみれて白く汚れる様を、カナタは身体の奥で、息苦しく見つめていた。
 ―――― 麗華。
 身体の奥で囁くと、麗華は心得たように馬を降り、依坤を抱き下ろすと、カナタに身体を返した。
 すっと、立ちくらみのような感覚が治まると、いきなり無重力空間から地上に戻ってきた人間のように、カナタは数歩よろけて沙羅の方へ近寄ってしまう。
 『大丈夫?』
 ―――― ・・・返すなら返すと、ひとこと言ってくれ。
 危うく砂の上に落としそうになった依坤に、ものすごい力で腕を掴まれて、わずかな痛覚も戻ったことを実感する。
 ―――― 沙羅、麗華の言葉を聞いたろう?
 依坤の身体を利用して口元を隠しながら、ぼそぼそと呟くと、沙羅はかすかに頷いて、じっとカナタの方に向けていた。
 風精王の真似をしてみたのだが、どうやら聞こえたらしい。失敗したなら、近くに行こうと思っていたのだが、手間が省けた。
 ―――― 早く免礼しなよ。彼女の家臣達が、ものすごい顔してたぜ。
 黒紗の奥でも、ものすごい顔になってるんだろうな、と思いつつ、カナタは英華らの前に膝をつく。
 『カナタ?!』
 麗華は、驚愕したように声を上げ、
 ―――― 何をしておるか、おぬしっ!!
 地の王はカナタの耳に口を寄せて、激しく叱りつけた。
 依坤を地につけないよう、気を使ったのだが、地の王が怒ったのは、そう言うことではないらしい。
 ―――― みんな平伏しているのに、自分だけ立ってるのって、居心地が悪いだろ?
 ―――― おぬしのような凡人と一緒にするでないわっ!!!
 誇り高い地精王は、いかなる理由であれ、皇帝以外の者に膝を屈しようとしない。
 憤激しつつ、依坤は小さな足をカナタの膝の上に踏みしめ、その肩に乗せた腕で体重を支えながら、すっくと立ちあがった。
 ―――― 痛いよ、依坤。
 水精の身体になって、痛覚がかなりのところ鈍くなったのだが、依坤の怪力だけは別だ。
 小さな手は、常人であれば悲鳴を上げてのた打ち回るであろう力でぎりぎりとカナタの肩を握り、悔しげに顔をゆがめた。
 ―――― 今すぐ立ち上がれ、今すぐ!!
 ―――― あぁー、もう・・・。沙羅!早く!!
 常人には聞こえない言葉による、激しい口論の水を向けられ、沙羅はびくりと肩を震わせた。
 「・・・免礼する、南州候」
 「殿下のご厚情に感謝いたします」
 憮然とした声に、英華は硬い声で応じた。
 つい、と上げた顔は、声と同じく硬く、笑みは消えている。
 「天幕へ案内しなさい」
 そう言いながらも、沙羅は馬から降りようとしない。
 乗馬も、沙羅の傲慢さに感化されたように、傲然と頭を上げたまま微動だにしなかった。
 それに気づいた蒋赫が、下馬して沙羅に手を差し伸べたが、沙羅は彼の手を取ろうとせず、英華をじっと見つめる。
 英華は、一礼して立ち上がると、沙羅の手綱を取り、その手をとって自ら沙羅の下馬を手伝った。
 途端、彼女の家臣達が砂に爪を立てるのを見て、カナタは砂上に立った沙羅の前に再び跪く英華を見やる。
 「・・・ごめんなさい」
 沙羅のためではない。
 カナタは、いたたまれない気持ちを紛らわすように呟いていた。
 その言葉の届いた者たちが、そっとカナタを見遣った時、カナタは彼らにこうべを垂れた。
 依坤が嫌がったため、深く垂れることはできなかったが、彼の思いは通じたらしく、家臣たちの指の間から、硬く握り締められていた砂がはらはらと零れていく。
 そして英華も、強張っていた顔をわずかに緩め、安堵と感謝が入り混じった笑みを浮かべてカナタに軽く会釈して見せた。
 「ご案内いたします」
 立ち上がると、小柄な沙羅を見下ろしてしまうのに気づいて、英華は腰をかがめる。
 「こちらへどうぞ」
 沙羅の前に立ち、黒地の絨毯を踏んで、天幕の中に入る前、わずかに振り向いてもう一度カナタに会釈した。
 カナタは英華に笑みを返すと、砂を払いながら立ち上がった。
 「困ったもんだね、わがまま娘は」
 嘆息すると、
 「ありがとうござました」
 低い、深みのある声を掛けられて、カナタは初老の女に笑みを向ける。
 「いえいえ。こちらこそすみません。ウチのわがまま娘、態度でかくて」
 「そんな・・・」
 困ったように苦笑する女に、カナタは軽く会釈した。
 「林かなたと言います」
 「筝汪花(ソウ・オウカ)にございます。こちらは范将軍と芍将軍。
 英華様の名誉を救っていただいて、感謝いたします」
 「め・・・名誉?そんな大げさな事をしたつもりはなかったんですけど・・・」
 深々とこうべを垂れる筝に、カナタは慌てて首を振る。
 「いいえ、とんでもございません。候や王家にとっては、大層な事なのです。・・・くだらないとお思いになるでしょうけど」
 一言付け加えて、筝が苦笑した。
 「お察しします」
 ここで『はい』と言ってしまったら、顰蹙(ひんしゅく)を買うに違いない。その程度の知恵は働くようになった自身に感心しつつ、カナタは当たり障りのない言葉に笑みを添付した。
 「英士殿のおっしゃる通り、美しい方ですね。しかも、それをまったく鼻にかけてらっしゃらない。
 皆、貴方に好感を持つ事でしょう」
 「おそれいります」
 こういう場合の、返事の仕方を教わっていてよかったと、体内の麗華に感謝しつつ、自分はそんなに美人だったかと首を傾げた。
 別に、元の自分の顔が大好きだったわけではないが、いきなり整形か厚化粧をしたようにきれいになってしまった今の顔を見るのが嫌で、玉華泉で美桃に見せてもらって以来、まともに鏡を見たことがなかったのだ。
 「さぁさぁ、天幕の中へお入りください!
 まさか殿下も、貴方がたに出てゆけとは仰せになりますまい」
 いやに陽気な声で、范と紹介された大柄な男が天幕を示す。
 「さぁ、どうぞ。お疲れでしょう。
 よくぞおいでくださった・・・・・・よく、仰せくださった。礼を申す」
 芍と紹介された壮年の将軍は、柔和な笑みを浮かべて、囁くような小声で言う。
 近くに来た顔を見遣って、カナタはわずかに嘆息した。
 ―――― 今も中々だけど、この人十年前は、かなりの色男だったんじゃないかな?
 カナタが、芍に会釈を返しながら心中に呟くと、麗華は懐疑的な口調で『そう?』と答える。
 『まぁ 人間ですものね』
 言外に、『精霊と人間の価値観は違うわね』と言っている。
 「厳しいねぇ」
 苦笑混じりの呟きに、芍はいぶかしげな視線をよこしてきたが、カナタは笑みを浮かべてごまかした。
 「この子が暑がっているものですから。はいはーい、メリーちゃーん。涼しいところに行こうねー」
 「・・・おぬし、喧嘩を売っておるのか?」
 押し殺した声には、ふんだんにドスが利いている。が、カナタはその声をきっぱりと無視した。
 「うわー。すずしーい。よかったね、メリー♪」
 すたすたと天幕の中に入るや、早くも臨戦状態とばかりに緊張していた内部の雰囲気を、一気に盛り下げて見せる。
 「・・・何かお飲みになりますか?」
 苦笑を浮かべ、沙羅の前に控えていた英華が申し出ると、
 「お構いなく。ほしけりゃ自分でやりますから」
 と、いかにも庶民な物言いで応じた。
 もったいぶって、いまだ黒紗を脱がない沙羅が、いかにもいまいましげに睨んでいるのが予想できたが、カナタは今、沙羅の鼻っ柱を折ることに、楽しみさえ感じ始めている。
 「沙羅、こんなに豪勢にお迎えしてもらったのに、ヴェールを脱がないのは、失礼じゃないのかい?」
 調子に乗って、さらにお節介を言うと、沙羅の、もともとそう丈夫でもない堪忍袋の緒がとうとう断ち切れた。
 「なぜ私が、貴方に説教されねばならないのです?!」
 地精王や火精王の前だったから、ずっと我慢してきた。
 しかし、母親の偏執的な愛情の中で、誇りだけが肥大して育った彼女にとって、王でもなんでもないカナタから、彼女のしもべである者たちの前で、礼儀を知らないだとか、王たる資格なしと言われるのは我慢がならない。
 「・・・君一人で、なにができるんだ?」
 呆れると言うよりはむしろ、怒りを覚えて、カナタは声を低めた。
 「南州侯の協力が必要なのは、君の方だろう?
 なのに南州侯や南州侯の家臣の方達に不快な思いをさせて、彼らの忠誠が得られると思っているのか?」
 専制君主と言うものは、むしろ沙羅のような者達であるべきかもしれない。が、少なくともカナタは、傲慢で利己的な人間を主に持ちたいとは思わなかった。このような人間を・・・協力に対して、感謝しそうにない者を、助けたいとも。
 そしてその気持は、ここにいる南州侯やその家臣も同じだろうと、確信に近い感想を持ったのだ。
 「南蛮に制されたこの土地の人々が、君より安楽だったと思うか?自身の権利にばかり目が行って、その程度の想像もできないのかな?」
 言葉が辛辣になって行くのが、自分でも止められない。
 だが、ここにサラームがいない上、依坤が積極的に関わろうとしないのであれば、彼女に直言できるのは、彼と麗華しかいないのだ。
 「・・・どうぞもう、その辺で。カナタ様」
 穏やかさを装った低い女声に、カナタは口をつぐんで初老の女を返り見た。
 「わたくしどもへのお心遣い、感謝いたします。
 ですが殿下も、事が事だけに気が急いておられるのでしょう。
 どうぞ皆様、しばしお休みあそばして、それから今後の事をお話し致しませんか?」
 ―――― 確かに、少し苛々してしまったかもしれない。
 そう思い、カナタは一つ息をついた。
 反りが合わないと言う以前に、価値観の全く違う者を相手に話をするのは、かなり神経を遣うものだ。
 なのに、互いに感情的になっていては、まとまる話もまとまらない。
 「失礼しました」
 少々大袈裟なくらいに笑みを浮かべて、カナタは軽く会釈した。
 「頭を冷やした方がよさそうです。陣内を少々うろついてもいいですか?」
 気安く尋ねられて、英華は思わず顔をほころばせた。
 「もちろんですわ。誰か、お供を付けましょうか?」
 「お忙しいでしょうから、おかまいなく。それでは」
 一礼して天幕を出た途端、カナタの顔から笑みが消える。
 「・・・なんかさぁ。俺、巨大な猫を被っている気がするよ」
 ひそやかな声で呟くと、
 『猫じゃなくて薔薇でしょう?  貴方をすぐに 完璧な紳士にしてあげてよ』
 と、麗華の得意げな声が答えた。
 「うわ――――・・・。『スペインの雨は主に平野に降る』なんて、言わせないでくれよー」
 『・・・どこですって?』
 マイ・フェア・レディもスペインの存在も知らない麗華は、カナタの中で首をひねり、彼の腕の中の依坤は、
 「馬鹿がまた戯言を言うておる」
 と、憮然と呟いた。


 経王が亡くなると間もなく、峭(しょう)州の州都を出る一団があった。
 経王の宮廷でもてはやされていた、芸人の一座である。
 経王の在位中、彼らは王と王妃、側近達によって保護されていたが、新しい王が立てば、自分達の身に危険が及ぶであろう事をすばやく察知したのである。
 新しい王は、経王を憎むか、もしくは自身の人気取りのため、王の保護下にあった者達を見せしめに殺し、投獄するに違いない。
 そんな、浮き草独特の嗅覚が危険を感知し、誰よりも早く峭都(しょうと)を逃げ出したのだった。
 世界中、どの国で生まれた者であれ、戦乱や飢饉に追われた芸人の行く先は、西桃と決まっている。
 大陸一の文化国家で、他国の追随を許さない文芸の国。
 一座は、山ばかりで田舎臭い峭都とは比べ物にならぬであろう西桃国の王都に思いをはせ、自分達が目の肥えた酔客達にもてはやされる様を思い描いて、荷を運ぶ馬車馬に鞭を当てた。
 そんな、気ぜわしい旅が数日続いた頃。
 薪にする枯れ根を掘り起こしに行っていた少年が、砂を蹴立てて戻ってきた。
 「どうしたね、そんなに慌てて」
 座長である中年の男が、いぶかしげに声を掛けると、
 「人が倒れているんです!生きています!!」
 一息にまくしたてる。
 「放っておきな。もうじき死ぬよ」
 座長の側にいた厚化粧の中年女がそっけない口調で言うが、少年は「でも・・・」と呟いて口篭もった。
 「どうしたね?」
 座長がさらに問うと、少年は中年の女に気を遣うようにちらりと見遣り、
 「・・・すごくきれいな人でした」
 と、口の中でもごもごと言う。
 「妥若(ターニャ)よりもかね?」
 と、座長は面白がるように、中年女を指して見せた。
 普段なら、少年はここで黙り込む。
 この一座で最も恐ろしい女に、逆らう勇気などないのだ。
 が、この時、少年は声には出さなかったものの、微かに頷いて見せたのだった。
 「若いのか?」
 「あんた!」
 興味を引かれて、少年に歩み寄る座長に、妥若が声を厳しくする。
 「あ、いや、妥若・・・私はね、若くて美しい娘なら、踊りの仕込み甲斐があるじゃないかと思ったんだよ。
 西桃へ行くというのに、看板がお前だけじゃ、心もとないじゃないか」
 慌てふためいて言い訳をする座長に、女はふんっと鼻を鳴らす。
 「どうだか!アタシに飽きて、新しい娘が欲しくなったんじゃないのかい?!」
 「いやいやいや・・・」
 呟きつつ、どう言い逃れようかと、頭を急回転させた座長だったが、それは少年の不明瞭な一言で急停止を余儀なくされた。
 「それが・・・女の人じゃないかも・・・」
 「おや、いい男かい?」
 途端、目を輝かせる女に、座長が渋い顔をする。
 「なんだ、男か。男はいらん。人手は足りてるよ」
 しかし、苦い声は妥若にあっさりと無視された。
 「男手は、いくらあっても足りないもんさ。どこにいるんだい?動けないようなら、何人かで行くかね?」
 まくし立てながら迫り来る妥若から逃れることができなかった少年が、そっと座長を見やると、彼は渋い顔をしたまま黙り込んでいた。
 彼が何も言わないと言うことは、妥若の思う通りにやらせろということだ。
 少年は痩せた腕を上げて、自分が駆け下りてきた小高い岩の丘を指し示した。
 「あの向こうです。崖から落ちたのか、ぴくりともしません」
 「そうかい!それは大変だ!」
 言うや、妥若は荷馬車の連なる方へ、大声を上げた。
 「手の空いてる男たちはおいでな!!人が崖から落ちたってよ!!」
 そう決まったわけではないが、危急の状態だと聞くと、人の動きは速い。
 たちまち五、六人の男たちが、手に手に綱や掛け金を持って妥若の周りに集まり、少年を先頭に、岩山を駆け上がって行った。
 「無事だといいねぇ」
 「・・・・・・まったく」
 肯定とも否定ともつかない言葉を、座長は憮然と呟く。
 やがて男たちが、丈夫な天幕用の布で作った急ごしらえの担架に、背の高い人間を乗せて戻ってきた。
 「あらまぁ・・・」
 「ほぉ・・・」
 男たちが連れてきたのは、救助に積極的でなかった座長さえも思わず嘆息する麗人だった。
 白すぎるほど白い肌を覆うのは、羽のように柔らかく、磁器のように滑らかな白絹。肩を覆う、艶やかな金髪は緩やかに波打って、胸の上に広がっている。
 「・・・・・・雪のごとく、白く冷やかなる肌を覆うは、冬の陽光。細く、煌めきつつ、銀世界に降り注ぐなり」
 横たわる麗人から、目が離せぬまま、座長は囁くように歌った。
 「・・・なんだったかしら、その歌。光精?」
 「風精だよ、妥若・・・」
 ぼんやりと答えながら、座長はいつもの癖で、右手で軽く顎をつまんだ。
 「いや、見事だ。これなら男でも、十分客がつく」
 上流の奥方達の支援が受けられれば西桃でも十分やっていけると、素早く計算をめぐらせた座長は、この麗人を丁重に扱うよう指示するや、途端に上機嫌になった。
 「いやいや、よくやったよくやった。すばらしいぞ、いやいや、すばらしい!今日は早めに夕食にしよう!」
 言いながら、大手柄の少年の頭を、くしゃくしゃと掻き回す。
 「今日は腹いっぱい食べていいぞ。よくやった、よくやった」
 座長の言葉に、少年は満面に笑みを浮かべた。


 ―――― 瞼越しに、紅く光が射す気配を感じて、私は意識を取り戻した。
 容赦なく照り付ける陽光が肌に痛いほどだが、目を開けようにも、瞼はまるで封をされたように固く結ばれて、びくともしない。
 背中には固い岩が当たってずきずきと痛むが、身をずらそうにも、まるで氷の中に閉じ込められたように指一本、動かす事ができなかった。
 これでは、風を興そうにも興せない。
 それでも私は、重い身体を動かそうと試みたが、これはあの忌々しい闇精王の鎖よりも強く、私を地上に繋ぎ止めていた。
 ―――― 闇精王。
 あの、白い顔を思い浮かべる度、私の胸中に嵐が吹き荒れる。
 不幸中の幸いか、封じられた時、人格は最も辛抱強い『エアリー』に変わったため、『私』にはそれほどの影響はなかった。が、もしあの時、封じられていたのが『私』だったらと思うと、ぞっとする。
 そう、封じられたのが私だったら、断言できる、私は発狂していた。
 あの澄ました無幾や、常識を振りかざす巽依が止めたとしても、私は絶対に収まりはしなかった。
 皆が『嵐』と呼び、恐れるこの力が尽きるまで、荒れ狂ったに違いない。
 頭の中だけは自由に動いたので、私は気を紛らわすように様々な事を思い浮かべながら、時々四肢や瞼に力を込めたが、本当に氷の中に封じられたように身動きが取れない。
 ―――― 無幾、アンタ、どうにかしなさいよ!!
 苛々と心中に叫ぶが、あの主人格はいるのかいないのか、私からは見えない深奥に行ってしまっている。
 ―――― エアリー!!巽依!!
 女達を呼んでもみたが、長い間封印の鎖に耐えてきたエアリーは昏倒し、巽依は公主と別れた悲しみに、身も世もなく泣いている。
 ―――― これだから女って・・・。
 身体さえ動けば、おもいきり舌打ちしているところだ。
 私は、『女』が大嫌い。
 柔らかい身体を持って生まれたと言うだけで、保護されるのが当たり前だと思っている生物。
 甲高い声で喚きちらし、素顔もわからないほど白粉を糊塗して、それが美しいのだと信じている。
 普段は口やかましいくせに、肝心な時にはなんの役にも立ちはしない。
 だから私は、無幾が湟帝陛下の皇妃になる話を拒んだ時、快哉をあげたのだ。
 こんなに女を嫌っている私が、女を主人格として後宮の主になるなど、考えただけで怖気が走る。
 ましてや、命を捨てて子を産むなんて。
 私は私。
 無幾を中心に、四つの人格をもって王にまでのぼりつめた。
 なのに、『皇后』の位と引き換えにただの風になるなんて我慢がならない。
 そんなくだらないものになるくらいなら、重い肉の衣を被って、下界に生きた方がまだ増しだ。
 ・・・そこまで考えて、私は思い出した。
 あの無情な湟帝陛下が、渺茫宮(びょうぼうきゅう)から私を追放した事を。
 ・・・四人の神の中で、最も無情な、最も恣意的な湟帝陛下。
 あの方の怒りが解けるまで、さて、私はどれほどの時をこの地で過ごすのだろうか。
 本当なら、また封じられるのかと嘆いてもいいところだが、ここにはサラームもいる。そう気に病むことでもないかと思うと、いっそ清々しい気持になって、私はまた、手足を動かそうと試みた。
 だが、それは私には重過ぎて、ぴくりともしない。
 ―――― このまま衰弱死なんて、洒落になんないわね。
 死んだらどうなる事か、と、思いをはせていた時だった。
 石の欠片がぱらぱらと顔の上に落ちてきて、私はむっとした。
 ―――― 誰よ。失礼しちゃうわ。
 顔の筋肉を動かせたなら、絶対睨んでやるところだが、瞼も開けられない状態では、どうしようもない。
 「い・・・生きてるの?」
 恐る恐るといった口調で、少年の声が上方から降り注ぐ。
 「・・・・・・・死んでるの?」
 ―――― ・・・アンタの故郷(くに)じゃ、死人が返事するの?
 口が利けたら、絶対に突っ込んでいた。
 と、またぱらぱらと石の欠片が落ちてくる。
 ―――― やめろっつってんのよ。顔が汚れるじゃない。
 むかむかしながら心中に叫んでいると、急に日が陰った。
 私の顔の近くに、おそらくは少年が降り立ったのだ。
 「・・・生きてるの?」
 問いながら、その小さな頭が、私の胸に乗せられる。
 ―――― 重いのよ!!とっととおどき、くそボウズ!!
 私の心の声が聞こえたとは思えないが、少年は私の心音を確認すると、すぐに頭をどけて息をついた。
 「生きてる」
 言うや、すぐに立ち上がって、今降りてきた斜面を登り、どこかへ掛け去っていった。
 それから間もなくである。
 どやどやと幾人もの男達がやって来て、私を抱き上げ、何か布の上に乗せて、集団の中に運んでしまった。
 ・・・『いや、見事だ。これなら男でも、十分客がつく』
 少々年のいった男の声が、興奮に上ずっている。
 この私を・・・『嵐』のシルフを値踏みするなんざ、いい度胸ね。巽依だったら、『無礼者』の一言で八つ裂きにしてるわ。
 周りがなにやらざわめきはじめた。
 皆が私を見に、集まって来たようだ。
 ―――― 見世物じゃないのよ。切り裂かれたくなかったら・・・。
 そう思って、ふと思考を止めた。
 私は今、人の身に堕とされているのだ。
 風を操る事など、できようはずがない。
 本当にこのまま、身動き一つとれないまま、死んでしまったらどうなる?
 ・・・ただの風になってしまうのか?
 この答えを知っているものは誰もいない。
 私は歓声さえ混じって賑やかさを増してゆく集団に囲まれて、慄然と凍った。




〜 to be continued 〜


 










・・・状況的に、あと2作は要りそう・・・(T▼T)
ラストシーンまで、めっちゃ遠いぞ、この時代!!(T_T)
『こちら』の歴史に照らし合わせて考えると、室町時代・・・ですかね???(島国と大陸を照らし合わせんなよ;)
私、室町時代って、飢饉と戦乱と文化(宗教含む)の時代だと思うのですね。←よく知りもせんくせに;;
現状が苦しいと、宗教が隆盛し、さらに状況が困難になると宗教に頼らなくなる、と聞いた(読んだ?)事がありますが、まだ廃れきってはいないようだな。(人事のように;;)
ところで、今更ですが、私、これを書くまで、緻胤(ジーン)の最初の旦那が采(サイ)だということを忘れてました。
しかし、『南薔は糸、西桃はサンズイ、東蘭は木がつく字が置き字』と決めていた上に、メモノートにはくっきりと『采(サイ)』と記されていたのですね・・・。
某藤原一門の棋聖と同じ名前なので、真似っこみたいで非常に嫌だったのですが、ほかの名前考えるのがめんどくさくて・・・。(アンタ;)
采は采のまんまとなりました。
ついでに『置き字』とは。
確かな知識を持ってる方に突っ込まれそうですが、徳川家で言ったら『家康・家光・家成』の『家』の字です。
毛利家では(戦国時代中期頃??)、家長となるべき者だけが、下に『置き字』を持ってこれて、家長と嫡子以外の一族は『置き字』を上に持ってくると聞いたことがあります。
そこでこの世界では、基本的に女性は『置き字』を下に、男性は置き字を上に持ってくるようになっているのです。(別に男女差別じゃないっすよ)
ただし、玉名(ぎょくめい:おうへんが入る字全般)は、原則として皇帝と神子しか使ってはならないことになっているので、『珠驪(シュリ)』と『澪瑶(レイヨウ)』は、それぞれ『おうへん』が置き字となっているのです。
しかし、三国の関連図をまじめに見てくれた方は『あれ?』と思うでしょうね。(そんな奇特な人がおるんかい(笑))
南薔の王族に、『おうへん』を持っているのが何人かいますが、その理由は後代で(いつよ(笑))出てきますので、気長に待っててください(笑)












Euphurosyne