◆  15  ◆







 「・・・なんでこうなるんだ」
 狭い自宅で、何度目かの愚痴を零したサラームは、産湯の中で烈しい泣き声を上げる赤子を持ち上げ、無造作に振り始めた。
 「かっ・・・閣下・・・!!」
 さすがの老婆も、その乱暴な扱いに慌てて止めに入るが、
 「お?飛ぶ飛ぶ」
 サラームは楽しげに赤子を宙に放り投げ、受け止めて遊んでいる。
 「あぁ・・・・閣下・・・・」
 失神するのではないかと思うほど、老婆は儚い声を上げ、赤子は泣き声を止めて痙攣し始めた。
 「お、静かになった」
 とんでもない台詞を簡単に言い放ち、サラームはおとなしくなった赤子を無造作に掴んで、寝台に横たわる精纜の横に置く。
 「良かったな。男だ」
 息を呑んでサラームの頓狂な行為を見守っていた精纜は、ひとつ息をついて身体の力を抜いた。
 「・・・ありがとうございます」
 笑みのつもりか、わずかに頬を引き攣らせる精纜に、サラームはやや大仰なまでに笑顔を作る。
 「これでもう動けるな。依坤のわがままなんざ、とっとと片付けて、さっさと仕事に戻りたいぜ」
 まるで仕事熱心な王のような言葉を吐くサラームに、しかし、老婆は慌てて言った。
 「動くなどとんでもない!しばしは安静にしなければなりませぬ」
 「しばらく?一刻後か?」
 どうも、人間を野生動物と勘違いしているらしい火の王は、そんなことを言って老婆の口をつぐませる。
 「・・・娘達を産んだ時は、一月ほど安静にしておりましたが・・・」
 精纜のひそやかな申し出に、サラームは目を剥いた。
 「嘘だろう?!なんでそんなにかかるんだ?!」
 象だってすぐ動くのに、と、訳のわからない事を呟く火の王に、老婆は苦笑を浮かべる。
 「人間とはそう言うものなのです、火精王。
 ですがもちろん、わたくしはここに長居するつもりはございません」
 精纜の言葉に、老婆はぎょっと目を剥き、息を詰まらせながら、
 「なりません・・・っ!お身体が弱っておいでなのにそのように無理をなさっては、あたら命を捨てるようなものでございます!!」
 一気に捲し立てた。
 「・・・難儀なもんだな」
 老婆の剣幕に眉根を寄せ、宙を睨んだサラームは、しかし、ふと気づいて老婆を見下ろす。
 「・・・お前らが一月動けないと言うことは、俺もここに足止めするってことか?」
 「左様にございますな・・・」
 言いにくそうに口篭もる老婆の言葉を聞いた途端、サラームの顔から表情が消えた。
 「・・・それは困ったな」
 それまでの、人間くさい顔からは想像も出来ない、完全な無表情に、老婆はぎょっと息を呑む。
 彼女をして、いつの間にかこの青年を、普通の人間として扱っていた事に突然気づいて、畏れを抱いたのだ。
 「俺がおまえ達に付き合える時間は長くない」
 厳然とした口調に、しかし、二人は沙羅のように声を高めはしない。
 ただじっと、火の王の言葉を待っていた。
 「今この世界で、まともに『生きている』精霊王は、俺と光精王、木精王の三人だけだ」
 闇精王は惶帝によって封じられ、澪瑶公主はまだまともに動ける状態ではなく、風精王は皇妃の位を蹴って人間に堕とされ、地精王は何のつもりか、南州軍に加わって北を目指している。
 「七人の精霊王の内、半数以上が動けないって言うのに、あんの馬鹿女はまぁだ遊んでやがるっ!!」
 ぎっ、と尖らせた金色の瞳中に太陽を捉え、サラームは憤りの声を上げる。
 「琅環(ろうかん)がこんな状態では、木精王も玉華泉を守る以外の役にはたたねぇ。結局今、使い物になる精霊王は俺一人って事だ」
 重く息をつく精霊王に、老婆がややうろたえたように手を震わせた。
 「畏れ多き事を・・・」
 「別に、脅してるのでも怒ってるわけでもないぞ。ただ・・・」
 言いながら、サラームはさりげなく老婆の身体を窓辺から遠ざけ、生まれたばかりの赤子を精纜に抱かせると、薄い毛布と一緒に抱き上げて、粗末な壁を背もたれに、二人を部屋の隅の床に座らせる。
 「火精王・・・?」
 不審げな声には答えず、サラームはその長い指で、紅い髪を掻き上げた。
 「ただ、俺は王の中では公主の次に若くてな。限られた人間にどこまで関わっていいのか、手加減がわからねぇんだよなぁ」
 今まで精纜が横たわっていた寝台を片手で軽々と持ち上げ、横倒しにしてその影に二人を隠す。
 「・・・礼儀を知らねぇ奴らだ。
 俺が一度、瑰瓊(かいけい)の宮殿に窓から入ったときは、前王から死ぬほど殴られたもんだぜ」
 冗談か本気か、横たえられた寝台の裏側で、女達が訝しげな視線を交わし合った瞬間。
 開け放たれた窓から、大きな鳥が滑り込んだような音がした。
 「・・・死なないでくれよ」
 的外れな言葉を、真剣な口調に乗せて、サラームは無造作に身を乗り出す。
 二階の窓から飛び込んできたのは二人。
 その、敏捷な手から繰り出される指弾を紙一重で避け、刺突を掴んで、それぞれの首筋に慎重に指を当てる。と、二人はまるで、糸が切れた傀儡(くぐつ)のように、受身も取れず、硬い床の上に倒れこんだ。
 「生きてるかな?」
 一瞬で侵入者を片付けたサラームは、覆面で人相を隠した人間達を気遣わしげに見下ろす。
 もう一度その首筋に手を当て、彼らの血流が止まっていないことを確認すると、二人の身体を持ち上げ、背中合わせにして再び床に転がした。
 敏捷さを活かす為か、軽武装だったとは言え、大の男の身体を軽々と扱う様は、さすが常人ではないと言うべきか。 彼は、二人の身体を上下逆にして、一人の両足をもう一人の両手に、もう一人の両手を一人の両足に結び合わせた。
 「渇き死にする前に、仲間が見つけてくれるといいな」
 まるで信頼しあった仲間への言葉ように、真情のこもった声を投げかけると、彼らの侵入してきた窓の鎧戸を閉め、女達におとなしくしているように言い置いて、階下に続く階段に足を掛ける。
 途端、今にも折れそうな手すりの隙間を狙って、手幅ひとつ分ほどの短剣が、次々に投げつけられた。
 「軽々しく領域を侵すもんじゃないぜ。東西の天道に無断で侵入した者は、火と風によって成敗される―――― 古よりの掟だ」
 言うや、炎が屋内を巡るような滑らかさで手すりを乗り越え、重装備の兵がひしめく石床に、音もなく着地する。
 梟(ふくろう)の羽ばたきよりも静かに、侵入者達の背後に回りこみ、次々と彼らの首筋に触れて行った。
 と、頑健な男達は、なす術もなく床の上に倒れこみ、南蛮風の革鎧に打ち込まれた鋲が、鋭い音を立てて石を削る。
 「今回は、死を免じてやろう。俺は寛大な王だからな」
 完全武装した兵士達を一瞬で床に沈めた男は、別段誇る様子もなく、軽やかな足取りで二階へ戻り、寝台の陰にうずくまる女達を覗き込んだ。
 「どこかの優秀な間諜に、ここを突き止められたようだ。奴らが、おまえ達を殺そうとしているのか、単に南蛮へ連れ戻そうとしているのか、それはわからない。が、命を張ってでもここにいたいか?」
 ここで、『是』と言えるわけもない。
 青白い顔を引き締めて、精纜はサラームを見上げた。
 「参ります。今、この子を取られるわけには参りません」
 それが、母としての愛情がこもった言葉ではないことくらい、サラームも察している。
 この、少女のような容姿をした女は、冥府の堀にわだかまる、異界の神のなれの果てよりなお黒く、澱んだものを身の内に持っているのだ。
 「・・・王よ」
 このまま縋ってよいはずがないと、心に決めて、老婆はサラームを仰ぎ見る。
 「どうか、この先は貴方様の御心のままに。ここで捨て置かれようと、お恨みするものではありません・・・!」
 老婆が、微かに震えながら合わせた両手を、しかし、サラームは片手で押し遣った。
 「二人とも・・・いや、三人か。連れて行ってやるさ。依坤の命令だからな」
 憮然とした様子ではあったが、先ほどまでの、近寄りがたい厳格さは薄れている。
 「ジジィめ、もしかしたら俺に、手を出す範囲を見極めろと言ってるのかも知れねぇな」
 倒れ伏した侵入者達をじっと見遣ったまま、サラームは言葉を継いだ。
 「今まで、俺に刃向かってきたものは全て斬り倒していた。
 だがそれは、自身と対等な力を持っていたもの・・・互いに生命を賭けての勝負だったからだ」
 倒れた者達は、いまだぴくりとも動かない。
 瀕死の生き物が息絶える瞬間を見逃すまいとするかのように、サラームの瞳も微動だにしない。
 「蟻を潰すような、悪趣味な殺しはしたくない。こいつらが目を覚まし、また襲い掛かってきたとしても、俺は自身の誇りにかけて、人を殺すことはしない。
 南州軍と合流するまで、ずっと追われる事になろうともな」
 低く呟くサラームに、老婆はゆっくりと頷いた。
 「閣下のお手を煩わせはいたしませぬ」
 言うや、ほとほとと軽い足音を立てて窓辺に寄り、外に向かってふらふらと干からびた腕を振る。と、その手に呼応して、付近の小路からぞろぞろと屈強な男達が現れた。
 中には、見覚えのある顔もいくつかある。破壊された神殿で、老婆の周りに群れていた男達だ。
 「間諜ごときに後れを取る、頼りない者達ではございますが、護衛くらいにはなりましょう」
 苦笑混じりの声に、サラームは軽く頷いた。
 老婆がここへ来た時から、家の周りをうろうろしていたものだから、東州候ゆかりの者達だろうとは察していたが。
 「ぬかりがないな、アンタも」
 「老いても州侯にございますからな」
 老婆はにやりと口の端を曲げる。
 そうこうするうちに、幌付きの馬車が三台、出入口前の狭い路地に停まった。
 「三台?」
 何をする気だ、と、階段の上から階下を見下ろすと、家の中に入ってきた男達が、床で伸びている兵らを手際よく包装し、どんどん馬車へと運び込んで行く。
 「どうするんだ?」
 「誰の命で、なんのゆえあってこちらに参ったのか、聞くのですよ」
 深い皺を笑みの形に歪める老婆に、サラームはむっと唇を曲げた。
 「せっかく上手く倒したんだから、殺すなよ」
 「殺しません。話すまでは」
 あっという間に荷を詰め込んだ二台の馬車が、砂埃を巻き上げて去って行く。
 「参りましょうか」
 よたよたと精蘭の側に寄り、その手を取ると、ゆっくりと階下へ導いた。
 そこには、屈強な男達が恭しくこうべを垂れて待っている。
 「すべては、東の婆におまかせあれ」
 老婆は、深い皺を歪めて笑った。


 地上に堕ちて、三日目。やっと重たい瞼が開くようになった。
 好奇の目に晒されるのも嫌だったから、移動中はまだ昏迷しているふりをして、そのまま夜更けまでじっとしていた。
 ようやく辺りが静かになった頃、私は目を開け、身体を起こそうと試みたが、身体は地に吸い付いたように離れない。
 仕方なく、破れた天幕の隙間から覗く星影をうんざりと見つめていた。
 どうやら私は、砂に直接敷いた薄い毛氈の上に一人、東向きに頭を置いているらしい。
 焦点の合わない瞳に降り注ぐのは、火精軍の星座と、風精でありながら東に瞬く哩韻(リィン)が率いる星団。彼らの焚く篝火が、きらきらと天道を照らす様を、はるか遠くに見ることができた。
 が、その中心にあるべき火の王の姿がない。
 「・・・あの馬鹿、何してんのよ」
 久しぶりに聞く自分の声は、優雅さの欠片もなくかすれ、口蓋の外に漏れる事もなかった。
 「哩韻。サラームの馬鹿はどこに行ってるの?」
 声量など関係ない。
 囁くだけで欲しい情報を伝えに来る諜報隊長は、しかし、なんの返事もせずに瞬いている。
 「哩韻!」
 その瞬間、私はもう風精王では・・・いや、風精ですらないのだと思い出した。
 ―――― このまま、枷を架けられたように重い身体を引きずって、地上を這い回るの?
 この一座に拾われた日から、極力考えないようにしていたことが、一気に襲い掛かってくるようだ。
 ―――― とりあえず、何をすべきかしら。
 混乱しそうになる頭を無理矢理立ち直らせて、私は懸命に目の焦点を合せていった。
 徐々に鮮明になる視界の中で、星々はちらちらと烈しく瞬いている。
 上空に、強い気流が流れている証拠だ。
 どうやら、私が人間に堕とされたからと言って、風精の力が殺がれることはなかったようだ。
 王のいない一族には、不安な事も多くあるだろうが、ひとまずはほっと吐息を漏らして、乾いた目を幾度か瞬かせた。
 あと数日もすれば、上空の風は地上に降りて、この澱んだ空気を洗い流す事だろう。
 そうなれば、この世界でも少しは息がつける。
 「雨はまだ遠そうねぇ・・・」
 何気なく呟いた時だった。
 ざく、と、砂を踏む音がして、私は目だけをその方向へ向けた。
 私がその存在に気づいたと分かってるだろうに、しかし、相手はいつまでも逡巡(しゅんじゅん)して、いっかな近づいてこない。
 「何か用なんじゃないの?」
 私は他の人格と違って、気の長い方ではない。
 かすれた声に皮肉と侮蔑とをしっかり乗せてやると、相手は怯えたように足を乱し、砂を蹴立てたようだった。
 やがて、天幕の隙間からおそるおそる覗いた顔は、お世辞にもかわいらしいとは思えない、薄汚れた少年のものだった。
 「・・・・・・目が覚めたんだ」
 「見りゃわかるでしょ。ナニ呆けた事言ってんのよ」
 その愚鈍さに苛々しながらきつい言葉を投げてやったのに、私の声はあまりにもかすれていて、少年にさしたる打撃を与えなかった。
 「水、飲む?」
 「飲んだ事ないわよ、水なんて」
 ・・・・・・って、人の話を聞きなさいよ。
 私は、私の言葉を最後まで聞かずにきびすを返した少年の背中に毒づいたが、少年はすぐに、小さな器を持って戻ってきた。
 「水」
 一言呟くと、少年は毛氈と私の背の間に手を差し入れ、意外と強い力で私の身体を抱き起こした。
 「飲んで」
 「どうやって?」
 問うと、少年がいぶかしげに眉をひそめる。
 「どうやってって・・・・・・」
 しばらく考え込んだ後、少年は私の口に器の縁を当てた。
 そしてそのままゆっくりと傾け、私の口腔へ水を注ぐ。
 「何す・・・」
 嚥下するなど思いもよらず、暴れた私は、喉に鈍い痛みを得て激しくむせた。
 「だ・・・だいじょうぶ?」
 ・・・なわけないでしょ、この馬鹿っ!!
 と、うろたえる少年を怒鳴りつけようにも、呼吸すらままならぬ状態で声など出ようはずがない。
 だが、少年がせわしく背をさすっている間に、呼吸は徐々に静まり、声も出せるようになった。
 「何するのよ!死ぬかと思ったわ」
 眉をつり上げ、やや明瞭になった声で怒鳴ってやると、少年は困ったように目を瞬かせた。
 「水、飲んだ事ないの?」
 「私の一族は、他族のように飲んだり食べたりしないのよ」
 言うと、ますます困ったように眉根を寄せる。
 「名前は?」
 「聞きたきゃ、自分から名乗るもんよ」
 刺々しくされる事に慣れていないのか、少年はしばらく、呆気に取られたように黙り込んだ。
 だが、ここでほだされてやるほど、私の誇りは低くない。
 同じく黙り込んでいると、沈黙に耐え兼ねたように、少年がぽつりと言った。
 「檀(ダン)」
 「そう。私はランよ」
 もとより、本名を名乗る気などない。
 「どんな字?」
 「何でもいいじゃない。嵐でも濫でも。第一アンタ、字が読めるの?」
 油断すると、がっくりと落ちそうになる頭を意地で持ち上げる。
 「よ・・・読めるよ。妥若(ターニャ)姐さんが、『国王様にお仕えするんだから、字くらい読めないと』って、教えてくれたんだ」
 「あら、じゃぁ、私にふさわしい字を書いてご覧なさいよ」
 せいぜい意地悪く見えるように口の端を曲げて見せると、少年はおどおどと私の顔を見上げ、薄い毛氈をめくって、現われた砂の上に一文字書いて見せた。
 『鸞』
 「アンタ、知ってる中で一番字画の多いの選んだでしょ」
 「ちっ・・・違うよ!妥若姐さんが言ってたんだ。鸞はとても大きくて、とてもきれいな鳥なんだって。飄山の向こう側に棲んでるんだよ」
 「悪かったわね、大きくて」
 憮然と言う私に、少年はまたおろおろと目をさまよわせた。
 「言っておくけど、私に対して『きれい』は、誉め言葉じゃないわよ。そんなの、アンタの顔に『目鼻と口がついてるのね』って言ってるようなもんじゃない。当たり前すぎて笑えもしないわ」
 ・・・って、なんでそこで黙り込むのかしら?
 少年はあんぐりと口を開けた、間の抜けた顔で私を見つめていた。
 やがて、
 「・・・男・・・・だよね?」
 ひどく不審そうに尋ねる。
 「そうね。本当は無性だけど、今はなんとなく男って事にしてるわ」
 「あの・・・じゃぁ、なんでそんな話し方するの?」
 ぎゅっと眉を寄せて、おどおどと聞く少年に私は、ぎっと目を眇めた。
 「なんでアンタにそんな事まで話さなきゃなんないのよ。それより私をどうするつもりなのか聞きたいから、座長をつれておいで!」
 傲然と言い放つと、少年は弾かれたように立ち上がった。
 「あっ!ご・・・ごめ・・・!!」
 手を離した途端、ぐらりとよろめいた私に、少年は慌てて手を伸ばしてきたが、私はそれを冷たく弾いた。
 「触らないで。早くお行き」
 曲げただけで軋みを上げる足を引き寄せ、悲鳴を上げる背中を無理矢理伸ばして、薄い毛氈の上に座り込む。
 と、少年は砂に足を取られながらも、慌てて走り去った。
 間もなく、中年の男と、まだ顔に厚化粧の残りがこびりついた中年女が、砂を蹴立ててやってきた。
 「いやいやいやいや!!」
 男が、軽薄な笑みを浮かべて、意味のない言葉を吐き出す。
 「いやいや、思った通りの美形だ!お前、名はなんと言うのかね?」
 愚鈍な言い様に、かなりのところむっとして、私は返答を拒否した。
 「おや、えー・・・・『名前はなんだ?』」
 『なんだ?』ですって?
 へったくそな西桃語に、更に気分を害して、私はそっぽを向いた。
 「と・・・東蘭人かね?東蘭語は・・・妥若、わかるかね?」
 困り果てた様子で、女の顔を上目遣いに見る男に、彼女はふんっと鼻を鳴らす。
 「ナニ馬鹿な事言ってんの。アンタの口の利き方が悪いから、臍を曲げてしまったんじゃないか。
 ―――― すみませんねぇ。この人、南薔語だったらなんとかまともに話すんですけどね。アタシは妥若って言います。
 この一座で、一番古い女なんですよ。
 アナタ、崖の下で伸びてなさったけど、どうしてあんなとこにいらしたんです?」
 女の問いに、私は軽く首を傾げて見せた。
 「私が聞きたいわ、それ。だって私は、自分がどこに倒れていたのか、知らないんだもの」
 私の流暢な南薔語に、男は唖然と口を開け、女はほっと吐息を漏らした。
 「アナタが倒れていたのは、南薔の王様がいらっしゃった峭州から、北西にあたる場所ですよ。
 アタシ達は西桃へ行くために、一旦飄山の麓に入って、涸れた西大河(せいたいが)の川床を渡る所だったんです」
 ・・・・・・飄山。
 それが現在、母皇陛下の聖山を指す名だということは、玉華泉で聞いた。
 エアリーが、封じられながらも必死で風を送った事が、名の由来になったという。
 「じゃぁ私は、山を越えたところで力尽きたのね」
 と言うより、山を越えた途端、飛ぶ力を失ったというべきだろう。
 「どこに行かれるおつもりだったんです?」
 「どこかしらね」
 とりあえず、煌帝陛下のもとを出奔したサラームの所にでも行こうかと思っていたのだが、破れた天幕の隙間から覗く東の空には、相変わらず、炎の将星の姿は見えない。
 「あいつ、昔は山の麓をうろうろしてたけど、一体どこに行っちゃったのかしら」
 「古いご友人でもいらしたんです?」
 やたら笑顔を振り撒く女を胡散臭く思いながら、私は改めて目の前の中年の男女を見比べた。
 「私の事より先に、言いたい事があるわ」
 「なんでしょう?」
 女は愛想良く笑い、男は額に寄せた柔和な皺の向こうで、懸命に値踏みしている。
 「私、つい先日までは高位高官だったけど、今は地位も身分も剥奪されて、無位無官よ。身内から治療費や身代金をふんだくるのは諦めなさい」
 そう言うと、女も男も、はなじろんでわずかに身を引いた。
 「それと、私は男娼なんてごめんだわ。命が惜しければ、私に変態や欲求不満の婆さんの相手をさせようなんんて思わない事ね」
 「そんな・・・!じゃあ、なんのために・・・・・・!!」
 怒りに顔を紅潮させる男を、私は冷ややかに見つめた。
 と、男は私の視線に怯えたように黙り込む。
 「この私が、助けてなんて言った?」
 言うわけがない、この風精王が。
 「・・・・・・ま・・・まぁまぁ」
 と、女が、私に睨まれたまま、身動きも取れない男を助けるように、間に入ってきた。
 「この人はすぐに先走るから、良く考えもせずに口に出す癖がありましてね。お気を悪くされたんでしたら、申し訳ない事です。そりゃ、アナタをお助けしたのは、アタシらの勝手ですからね」
 卑屈な笑みを満面に浮かべ、大きな身体をぐいぐいと私にすりよせてくる。
 この私に、これほど馴れ馴れしくすりよってくる女なんて、初めてだ。
 「ですが、アナタのような別嬪(べっぴん)さんが倒れなさっているのに、ほっとけますか?そんなことしたら女帝様が、アタシ達を地獄にお堕としになりますよ」
 「女帝様?」
 最近は惶帝陛下の事をそう言うのだろうか?
 女帝と言う名は、母皇陛下にこそふさわしい気がするが。
 私がいぶかしげに眉をひそめていると、女は『アタシらの言葉ですよ』と笑った。
 「アタシらは、神話劇をする事もありますんでね。
 母皇陛下の事を『母君様』、煌帝陛下の事を『日の皇子(みこ)』と呼ぶのですよ」
 「湟帝陛下は?」
 「あぁ、湟帝陛下は湟帝陛下です。お恵み深き御方にご無礼があってはいけないのでね」
 つまり、あまりにも苛烈な煌帝陛下は、その格を下げて、これ以上被害が大きくならないように願ったと言うわけか・・・・・・却って被害が大きくなりそうだけど。
 「じゃぁ、世話してくれたのになんの礼もしなかったと言われるのはしゃくだから、舞台に出る位はしてあげてもいいわよ」
 「えっ・・・でも・・・・・・」
 目を丸くする女を、真正面から見詰める。
 「高位高官だった、って言ったでしょ。
 私は西三州が祭ってきた、西の大神殿の巫女よ。歌だったら、そんじょそこらの芸人にひけはとらないわ」
 もちろん、嘘だ。
 だが、私の言葉に、二人は大きく頷いた。
 「なるほど、巫女でいらっしゃったか!もしや西州侯ゆかりの・・・?」
 「そんなところよ」
 言うと、男は大袈裟に何度も頷く。
 その様子に、私は百年経っても変わらないらしい、西州の気質に苦笑を浮かべた。
 昔から、何度も西桃に領有されたことのある西州は、南薔国の中で最も階級に厳しい土地であり、その州都の大神殿ともなれば、いかなる豪商、豪族といえども、爵位がなければ入る事は許されない。
 『血筋』を第一とし、その存続に熱意を注ぐあまり、女子に恵まれなかった家は、男子に女装させ、女として育てる事もままある。
 薔家は男子の家督相続を認めてはいないが、西州では戸籍を改ざんしてまで『女だ』と主張するため、大貴族、大領主に限って、薔家もその行為を黙認しているのだ。
 ―――― この慣習を、利用しない手はない。
 「そういう訳だから、本名は言えない。ここで使いたいんだったら、名前はあなた達で決めてちょうだい」
 重い腕をできる限り優雅に持ち上げ、組んで見せると、二人は顔を見合わせて思案した。
 西の貴族が、どれほど傲慢か、彼らは知っているのだろう。
 もし、滅多な事をして、報復でもされてはたまらないと、そう顔に書いてある。
 だが、ここでも決断したのは女の方だった。
 「ご存知ですかね?」
 一言、そう言うと、年の割には高い、響きのいい声で、しっとりと歌いだした。

 『三珠の神は 母皇の御子
 創めの一珠は 蒼い月
 生んだ数だけ 殺す神
 冷艶にして 母皇を震わす

 次なる一珠は 紅い日(じつ)
 熱く 激しく 母皇を苛む
 いだく腕は焼け爛れ 天の奥へと投げ遣った』

 『最後の一珠は 青い海』
 私は、女の声に唱和した。
 『生かし育み 癒すもの
 常に母皇のお側を離れず
 琅環(ろうかん)の地を 守りたもう』
 声はかすれて、本調子ではなかったが、女を黙らせるには十分だったようだ。
 私は、さらに歌を重ねた。

 『夜空に瞬く  武王のかがり火
 三珠を治める  文王の叡智
 ともに果てなく  永久(とわ)に巡る
 永久(とわ)に護る  母皇の眠りを』
 母皇陛下の為に・・・母皇陛下の為だけに、私たちは皇帝方によって創られたのだ。
 なのになぜ、こんな所にいなくてはならないのだろう。
 どのようなお考えがあって、湟帝陛下は私をこの様な姿に堕とされたのか。
 ふつ、と、歌を止めてしまった私の顔を、男がまじまじと見つめた。
 「いやいや・・・いやいやいやいや・・・!!見事だ、素晴らしい!」
 両手を擦り合わせ、興奮した様子で鼻を膨らませている。
 「妥若を黙らせるなんて、人間わざじゃぁないよ!!」
 実を言えば、私は歌が得意な方ではないのだが、人間ごときに劣るはずもない。
 歌・・・・・・。
 私はふと、渺茫宮一の美声を思い出した。
 凍った湖のように澄明で、朝靄のように柔らかい、神子の声。
 その歌声は、神の心さえ蕩かすだろう。
 「玉婉(ギョクエン)はどうかね?」
 「え?」
 突然、思索の中に割って入った無粋な声に、私は驚いて声を上げた。
 「だから、お前さんの名前だよ。
 玉婉というのは、昔の名妓の名さ。もとは杞(き)氏桃家の王女様だったんだが、桃家が李氏に乗っ取られた時に妓楼に売り飛ばされちまったのさ」
 杞(き)氏は確か、淘妃がまだ権勢を振るっていた頃の西桃王家だ。三、四百年程前の王朝ではなかったかと思う。
 血筋や大義に凝り固まった西桃国だが、王朝交代は意外と頻繁だ。
 ただし、西桃の民は『簒奪』という行為を殊の外嫌うため、前王朝の杞氏も、現王朝の李氏も、『桃家の養子』になった形で『桃家』を名乗り、王位を譲らせてきたのだ。
 そのやり方は、唯一の直系王朝である南薔国を飛び越えて、東蘭国や南海王国の倣うところとなっている。
 「一応、悲劇のお姫様ってわけ?」
 殺されなかっただけましだと思うけど。
 「いや?元の身分と教養を利用して、王族よりも金持ちになった女だよ」
 「・・・それはまた、素晴らしくしたたかね」
 あやかりたい、あやかりたいと、何度も唱える男に、私は思わず苦笑を漏らした。
 だが、したたかさなら、私だって負けない。
 この身が、どのようなさだめを負っているのかは、後々明らかになるだろうから、それがはっきりするまで、無様なことはしない。
 「いいわ、それで。しばらく世話をさせてあげる」
 私の驕慢な物言いにも、大分慣れてきたのだろう。二人は顔を見合わせると、得たりとばかりに笑みを浮かべた。
 「アナタの歌があれば、西桃の都でも評判になること請け合いですよ」
 微妙な屈託を含んだ女の言葉に、しかし、私は軽く首を振った。
 「歌はあなたがいるじゃない。私、歌は苦手なの」
 言うと、女は目を見開き、安心したようにそっと息を漏らした。
 私らしくもなく、女の立場を救ってやった事になるのだが、実は、歌う度に渺茫宮を思い出すのがやりきれないというだけだ。
 「でも、舞は得意よ。歌より、ずっとね」
 男にしてみれば、元貴族の、大神殿の巫女と言うだけで、抜群の宣伝効果が期待できる。
 男は、成功へ向けて確実な一歩を踏み出せた事に、女は、自分の立場が守られた事に安堵して、心から私を歓迎しているようだった。
 せいぜい、利益を求めるがいい・・・この地上に居る間は、こちらも彼らを利用する事にしよう。


 「南海が、壊滅的な被害を被ったそうだぞ」
 例によって、不吉な報告は蟷器(トウキ)によってもたらされた。
 が、その発言は、誰もいない『政務の間』にむなしくこだました。
 東蘭の王宮はその時、他国の被害どころではなかったのだ。
 いまだ去らぬ黒雲が空を覆いつくし、烈しい光が閃く。
 地を揺する轟音が響き渡る度、まるで音の激しさを競うように王宮のあちこちから鋭い悲鳴が上がっていた。
 「南海が大変だよーん」
 雷音よりもむしろ、華々しい悲鳴に耳を塞ぎつつ、奥へ奥へと進みながら、蟷器が再び声を上げる。と、
 「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!!!また光った―――――――――っ!!!!」
 王の私室の前に至った時、突然扉を蹴破らんばかりにして駆け出て来た王妃に、蟷器は思わず両耳を塞いでいた手を離してしまった。
 「・・・元気だなぁ、嬢ちゃん」
 連日連夜の雷鳴に、侍女たちは次々と人事不省に陥っているというのに、この深窓育ちの王妃は息子を抱きしめたまま、元気に悲鳴を上げている。
 「・・・坊主、抱きつぶすなよ?」
 「大きなお世・・・いやぁぁぁぁぁ――――――っっ!!!!!!!」
 「ぶぎゃぁぁぁぁ――――――っ!!!!」
 赤子の鳴き声まで唱和したすさまじい喧騒に、蟷器は再び耳を塞いで背を向けた。
 そのまま引き返そうとしたところへ、
 「それで?南海がどうしたって?」
 のんきな声が、蟷器の足を引き止める。
 声の主は、雷鳴から逃げ出すように回廊へ転げ出た妻を抱き起こすと、軽々と抱き上げて部屋に戻っていった。
 「中に入れよ、蟷器。
 なんで被害が大きかったんだ?緻胤が書状を送っていたじゃないか」
 家臣らが騒いでいて、政務どころではなかったのだろう。
 整然と積まれた書類の束が、彼の今までの仕事量を教えていた。
 「嬢ちゃんの書状を読んでなかったみたいだぜ?」
 雷鳴におびえることなく、腕の中で騒いでいる妻と息子を同時にあやしている采に、器用な奴だと感心しながら、蟷器は苦笑を浮かべた。
 「嵐が来ると知らずに南海にでた船が、ほとんど難破したらしい」
 救助もできないようだな、と嘆息してから、蟷器はその翡翠の瞳を王妃に向ける。
 どんな美女であれ、その瞳に見つめられれば胸が騒がずにいられないと言われる視線だが、王妃はそれを簡単に受け流した。
 「王宮のありさまを聞いた・・・」
 「お父様に何か?!」
 さすがに顔色を変える王妃に、しかし、蟷器は肯定もしなければ否定もしない。
 この男にしては歯切れ悪く、ふさわしい言葉を懸命に捜しているようだった。
 やがて、ふと見遣った采に視線で促され、蟷器はようやく口を開いた。
 「南海王は、無事だ」
 緻胤の手前、蔑称である『南蛮』と言う言葉は用いず、蟷器は慎重に言う。
 「しかし、黒雲と雷鳴におびえた王宮の兵と宦官が、後宮に攻め入って財宝や寵姫達を洗いざらいかっさらって行ったそうだ。
 王宮は血みどろだと言う」
 緻胤は、ひとつ息を呑んだまま、凍ったように動きを止めた。
 もう、蟷器の言葉を否定はしない。
 彼が国内外に放った間諜が有能であること、さらに、彼らが収集して来た情報を、蟷器が正確に把握し、選別していることを何度も思い知らされてきたからだ。
 「その状態で、王が無事だと?」
 いぶかしげに采が尋ねると、蟷器はあいまいに頷く。
 「正しくは、命に別状がないってことだ」
 「どういうことなの?!ご病気が篤いの?!」
 雷光の存在すら忘れて、緻胤が身を乗り出した。と、蟷器はまるで、苦い薬でも飲んだように顔をゆがめる。
 「・・・病気じゃ・・・なかったらしい」
 ひときわ大きな雷鳴に、大窓にはめ込まれた硝子がびりびりと震えた。
 「・・・病気じゃない?お怪我だったの?」
 雷鳴の轟きが聞こえなかったのか、緻胤が不安げに蟷器を見つめる。
 「怪我・・・と言うより、外科手術か・・・」
 「・・・?大きなでき物でも?そんな話は聞かなかったが?」
 采の、いぶかしげな声に、緻胤も同じく頷いた。
 が、蟷器は、『そんなんじゃない』と呟いて首を振る。
 「精纜王妃は、恐ろしい方だな。南ば・・・いや、南海王は、去勢されて麻薬を盛られていたそうだ」
 蟷器の言葉に、采は息を呑み、緻胤は呆然と床に座り込んだ。
 「蟷器・・・それってお父様が・・・宦官と同じになってしまったって言う・・・・?」
 自身の口から出た言葉に驚いた様子で、緻胤は腕の中の息子を抱きしめた。
 「いい加減な事を!!どうして貴方がそのようなことを知り得るのですか、枢蟷器!!!一国の王に対して、なんと無礼なことを!!」
 普段、滅多に怒りを見せない緻胤が、顔を赤らめ、目に涙さえ浮かべて絶叫している。
 しかし蟷器は、そんな緻胤を哀れむように見つめ、
 「事実です、妃殿下。私の間諜は、後宮で殺害された医師になりすまして、南海王殿を診察したのです」
 丁寧な口調で労わるように話した。
 「母が・・・母と姉がやったというの・・・?」
 「ほかの誰が、こんな恐ろしいことを?」
 彼自身、通常とは異なった口調で話すことで、なんとか平静を保とうとしている。
 彼にとっても、こんな話題を口にしたくはないものだ。
 「精纜王妃が犯人であることは、様々な状況が示している」
 それでも重い口を開けると、
 「王世子だな。南海には、もう王子がいない」
 と、采が口を挟む。
 「そう。南海王は、精纜王妃を迎える際、彼女の夫であった王世子を、前王妃ともども殺した。
 口実は、南海王の暗殺をたくらんだ廉(かど)だ。
 前王妃の生んだ、第二、第三王子も連座して処刑。
 第一王女、第二王女はすでに嫁いでいたため、処刑は免れたが、二人とも産褥の床で亡くなった。
 一人は死産、一人は女子を出産。
 この孫娘には王位継承権がない」
 南蛮は、大陸とは比べ物にならないほど女性蔑視の強い国である。
 南蛮王がもっともかわいがっていた緻胤にすら、王が死ねばわずかな財産も残らないことになっている。
 「王にはもう、子を産ませることができない。となれば現在、継承者たる男子はこの子だ」
 蟷器の手が、まっすぐに緻胤の腕の中を示すと、彼女は息子を守るようにその小さな体を抱きしめた。
 「それともう一人、精纜王妃が産んだという男子。彼はこの子に勝る王位継承権を持つ」
 「・・・なるほど、最上の人質だ。義母上が南海王の子を確保している限り、王は王妃を追い詰めることはできない。
 だが、誰がそれを確かに南海王の子だと証明できる?」
 「采・・・?」
 いぶかしげな緻胤を見遣り、采は顎に手を当てる。
 「俺がこんなことを言えば、緻胤は怒るだろうが、落ち着いて最後まで聞いてくれ」
 と、前置きして、采は慎重に言葉を紡いだ。
 「南海では、女子に王位継承権はない。そして今、南海王には王子がいない。
 最後の望みは精纜王妃の子だが、もしその子が女子だった場合、王妃はおそらく、その子を棄てただろう」
 早くも怒鳴ろうとした緻胤の口を、背後から蟷器が塞ぐ。
 「落ち着け、嬢ちゃん。女子だったらの話だ」
 しかし、蟷器に口を塞がれながらも、緻胤は顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
 「ほほももほんふぁふぉ・・・・!!」
 意味不明の鳴き声を上げながらじたばたと暴れる緻胤を、これ以上拘束していたら自分の身に危険が及ぶと感じた采は、こわごわと蟷器を見やる。
 「・・・・・・蟷器、悪い。離してやってくれ」
 まるで忠実な臣下のように、すぐさま命に従った蟷器は、そのまま耳を塞いで二人に背を向けた。
 途端。
 「貴方たちは!!子供をなんだと思っているの!!」
 地を揺るがす雷鳴すら怯えて身をすくめる大音声が、室内に轟き渡る。
 「采!蟷器!!そこに座りなさい!!」
 子供を抱えてすっくと立ち上がり、緻胤はおびえた犬のように床に座る国主と未来の大宰相をぎろりと睨んだ。
 「貴方たちは今、人としてもっとも恥ずべきことを言ったのですよ!そんな人間が、立派な漢(おとこ)と言えますか?!
 ましてや采!貴方はこの国の王であり、未来の東蘭王の父親でしょう!
 子供を軽々しく思う父親と、どうして添い遂げられますか!今すぐ先の言を取り消さなければ、私は即刻離縁して、南海に帰ります!!」
 「・・・いや、嬢ちゃん。采は、精纜王妃が取るであろう行動を予想したんであって、悪気があったわけじゃ・・・」
 しょんぼりと縮まる友に、さすがに同情した蟷器が申し出たが、
 「お黙りなさい!!」
 鋭い一喝に、喉を塞がれる。
 「貴方もですよ、蟷器!!!貴方は言ったではありませんか!宮内礼を疎かにしても、今は教育と外交に力を入れたいと!譜代がいない采のために、未来の人材を育てるのだと!それは嘘ですか、枢蟷器?!」
 「・・・嘘ではありません、妃殿下」
 蟷器はうな垂れるようにこうべを垂れ、殊勝な声で答えた。
 「嘘ではありませんが、現在の陛下の臣として、陛下が正しい判断を下すための材料を揃えるのも私の役目」
 言うや、いつものふてぶてしい表情を浮かべて立ち上がる。
 「妃殿下。貴女のおっしゃる事は、誠に正論。だが、時と場合によっては、正論が正論ではなくなることもある」
 言いつつ、蟷器は緻胤の背中に手を回し、ゆっくりと扉の外へ導いた。
 「地獄へは俺一人で落ちるから、采を責めないでやってくれよ」
 最後ににっこりと笑みを浮かべると、緻胤を回廊へ押しやり、その鼻先で重い扉をぴったりと閉ざす。
 「・・・またそんな、火に油を注ぐような事を」
 未だ床に膝をついたまま、恐々と言う采に、蟷器も苦笑を浮かべた。
 「俺を怒鳴る女なんて、あの嬢ちゃんが初めてだぜ。
 普通はこの容姿に騙されて、うやむやになるもんなんだがな」
 白い頬を撫でながら、堂々とうそぶく蟷器に、采はうんうんと頷く。
 「我が妻ながら、あれはちょっと変わっているな。
 普通、お前みたいなのが目の前をうろうろしていたら、憧憬や愛情を持つだろうに、あれはお前に対して、夫の友人以上の、なんの感情も持ち合わせていない」
 感心したように言う采に、蟷器がぎょっと目を剥いた。
 「・・・いや、お前もかなり変わっているよ。
 普通の夫は、女房を寝取りそうな男に殺意を抱くもんだろう?」
 しかし采は、『そうなのか?』と呑気に呟いて、首を傾げてしまう。
 「・・・いや、お前は女好きだが、女のために出世を棒に振る人間じゃない。
 緻胤がお前に惚れ込んだとしても、遊び以上になることはないと確信しているさ」
 だったらいいじゃないか、と、器が大きいのか、単に阿呆なのか、判断のつかない言葉を吐いて、采は立ち上がった。
 「それより、南海の事だ」
 修復不可能に思えた話の筋を、あっさりと引き戻して、采は眉根を寄せる。
 「先日生まれたと言う義母上の子が、実は女だった場合、南海王の位は傑に譲られるのだな・・・義父上に、兄弟はいないことだし」
 南海では、王の代替わり毎に、王の兄弟が殺される。
 謀反を防ぐ為だと言うが、生まれたばかりの赤子やいとけない幼児までも殺害するという行為には、そこまでして王を守る必要があるのかと、人道主義者でなくとも眉をひそめるものだ。
 「嬢ちゃんには悪いが、それが蛮族の蛮族たる所以だな」
 蟷器の、苦々しい呟きに采も頷く。
 「精纜王妃が王子だと主張する子が偽者だった場合、形としては、傑王子が南海の王世子を兼ねる事になる。
 後に、南海王とお前の跡を継いだ時、東蘭と南蛮を合併統治する事になるだろう」
 「生まれたばかりの赤子に、雄大な話だな」
 揶揄すると言うには、あまりにも重々しい口調で采が言った。
 「だが、生まれた子が本当に男だった場合・・・いや、事実、義母上は男子だと主張しているが。
 こちらはまず、その子が確かに義父上と義母上の子であるのか、確かめなければいけないわけか」
 渋面を作って唸る采に、蟷器がじっと、翠の瞳を向ける。
 「一つ、大事な事を聞いていいか?」
 采が見遣った蟷器の顔からは、表情が消えていた。
 この友が、采に大切な判断を仰ぐ時に見せる、先入観を持たせない顔だ。
 その、人形のように秀麗で無機質な顔を眺めながら、采は頷いた。
 「お前は南海諸島が欲しいのか、欲しくないのか」
 予想していた質問に、采は驚きはしなかったものの、しばらく考え込んだ。
 やがて、
 「欲しい」
 蟷器の瞳をまっすぐに見かえして、きっぱりと言う。
 「南海諸島と大陸間の交易権、漁業権は、今やあの国のものだ。
 旧南薔の、南州から中央に至るまでの領地には興味がないが、直接繁栄に結びつく海の権利は、切望して止まない」
 自然が恵みをもたらさない大陸において、南海の恵みは喉から手が出るほど欲しいものだ。
 しかも現在、豪雨に見舞われている大陸では、そう遠くない将来、水量を取り戻した二本の大河が荒れ狂う事だろう。
 無防備にも川床の上や河岸に住居を建てた者達を救済するために、堤を築き、移住を支援するのに、資金があって困ると言う事はない。
 「蟷器、俺に南海をくれ」
 王の、毅い視線を怯むことなく受け止めた蟷器は、その翠の瞳を宝石のように煌めかせた。
 「いいだろう。お前に、南海をくれてやる」
 容のよい唇に薄く笑みを刷き、蟷器は断言する。
 それはちょうど七年前、采に見せた笑みと同じものだった。
 ―――― 東蘭が欲しいか?お前にこの国をやってもいいぞ。
 彼がそう言ったのは、采がまだ、王世子どころか王子としてさえ認知されていなかった頃―――― 母が前王から『翠蘭(スイラン)』の名を賜った楼閣で、用心棒まがいのことをやっていた頃のことだ。
 その時は、誰もが蟷器の―――― その時は泓河(コウガ)と言う、彼にふさわしい本名を名乗っていたが―――― 言うことを、酒席の冗談として、まともに受け取らなかった。
 だが采は、蟷器の言葉を信じた。
 そして蟷器は、信頼に応えた。
 その一年後、傍若無人な麗人は、約を違えることなく采の頭上に王冠を載せてくれたのだった。
 現在の采があるのは、蟷器のおかげだと言っても過言ではない。
 「頼んだ」
 采の真摯な声に軽く左目をつぶって応えると、蟷器は颯爽ときびすを返して部屋を出た。
 回廊にはすでに緻胤の姿はなく、蟷器は微かに苦笑を浮かべると、時折閃く雷光に照らされる回廊を、一人歩み去った。


 北上する軍の目前に、巨大な山脈が立ち塞がっている。
 その麓に寄り添うようにして、扇状に広がる黄色い砂岩の城壁は、門扉をぴったり閉ざして、怯えたように身を竦めていた。
 城門に近づくごとに、生温い空気は兵らの喉を塞ぐように濃度を増し、これから始まる攻城戦の緊張をより高めていった。
 「戦争なんて、実際に見るのは初めてだなぁ・・・」
 城壁を遠く望みながら、ぽつりと呟いたカナタの声が、微かに上ずっている。
 『恐いなら代わってあげましょうか?』
 麗華の申し出に、カナタはしばらく考え込んだ。
 物心ついた時から、戦争を絶対悪の象徴と教えられ、いかなる理由があろうとそれは罪悪なのだと刷り込まれてきた彼である。
 これがゲームの中であったなら、怪物や猛獣をいくらでも撃ち殺せるが、自身の手で人肉を切り裂き、ほとばしる血や体液の濃霧の中に立っていられるとは思えない。
 いくら不甲斐ないと罵られようと、それは既に、彼の性質なのだ。
 しかし、それではあまりにわがままが過ぎるかと、眉間に皺を寄せて考え込んでいると、軽く彼の背を叩く者がいた。
 「後方へいらしてください、カナタ様」
 振り向くと、英華の華やかな笑顔がすぐ側にあった。
 「ここからは、わたくしたちの仕事です。詩羅(シーラ)!」
 英華が呼ぶと、背の高い黒髪の女が早足でやってくる。
 「こちらには、後方に移って頂くわ」
 そう言って、英華は詩羅の腕の中に収まった依坤に向かってこうべを垂れた。
 「申し訳ございません、閣下」
 言いながら、詩羅に目線で促すと、彼女は名残惜しそうに、依坤をカナタに渡す。
 「・・・・・・お気をつけて」
 寂しげな微笑に、依坤は軽く頷いた。
 「おぬしもな」
 何気ない言葉だったが、詩羅は目を潤ませて頷く。
 「城内に入りましたら、また抱かせてくださいまし・・・・・・畏れ多い事ではございますが」
 言いながら、依坤の小さな手を取り、軽く口付けた。
 そのまま、いつまでも手を放さない彼女に、英華が苦笑を浮かべてその袖を引く。
 「詩羅、行くわよ」
 「・・・・・・はい」
 後ろ髪を引かれるように、何度も振り返る詩羅を、依坤はじっと見送っていた。
 「・・・珍しいね。お前が罵詈雑言を投げないなんて」
 意外な出来事に揶揄する事もできず、呆然と呟くカナタを、依坤は冷たく見遣る。
 「わしは、子のないおなごには優しいのじゃ」
 「なんで?」
 「子がないのは、わしのせいだからだな」
 カナタは、腕の中の精霊をまじまじと見つめた。
 小さい身体、幼いながら整った顔立ち、信じられないほど傲慢な言動。
 そのどれを取っても、『豊穣』や『母性愛』というイメージからは程遠い。
 「ウソ」
 「・・・なんでわしが、おぬしに嘘をつかねばならんのだ!」
 「でも、俺の記憶が確かなら、珂瑛から琅環へ生まれてくる魂を送り出すのは、華南(カナン)将軍の仕事じゃなかったっけか?」
 無幾によって痛めつけられた死神・北辰(ホクシン)の名は、この地ではあまり聞かなかったが、華南の名は、人々にとって親しみのあるものなのか、やたらと耳にした。
 ・・・・・・あの無幾より無表情とはいえ、女である以上、母性のイメージからそう外れる事もないかと思う。
 だがこの目の前の生き物が、『傲慢』ではなく『出産』を司るなんて、それは嘘だろうと言うしかない。
 しかし、依坤は軽く眉をしかめただけで、当然のように嘯いた。
 「大地を司る者が出産をも司って、なにが悪い!」
 「・・・・・・ごもっとも」
 よく考えたら、この形(なり)は子供の守護精霊に向いてるかもしれないと、自身に無理矢理納得させながら、カナタは呟いた。
 「・・・でもさぁ、俺、英華さんに甘えて、後方に引いちゃっていいのかなぁ・・・」
 軍中には、カナタと同年齢の者はもちろん、英毅や英士など、彼より若い少年達も従軍している。
 「お子様のお守りなんかやってないで、とっとと得物(えもの)を持ちやがれって、みんなが言ってる気がするよ」
 事実、彼の側を通り過ぎる兵士たちの何人かは、怪訝な顔でカナタを見遣っていった。
 「人間の目などが気になるのか?」
 いつもの、馬鹿にしたような口調ではない、心底意外そうな口調に、カナタは思わず目を見張る。
 「気にするよ。俺はそこまで超然としてないさ」
 言うと、依坤はカナタを見つめたまま考え込み、やがて、彼にしては珍しく躊躇した様子で口を開いた。
 「・・・この様な事は、わしが言うべき事ではないのだが」
 歯切れの悪い口調に、事の重大さを感じたカナタは、人馬の隊列を避けてやや静かな場所へ移動する。
 「どうしたの?」
 改めて腕の中の依坤を見つめると、彼はもどかしいほど長い間を置いて、重々しく口を開いた。
 「これは本来、澪瑶公主がおぬしに告げるべき事で、わしが申すのは憚られることなのじゃが、おぬしには自覚がないようであるし、差し出がましいとは思うが、老婆心から言わせてもらおう」
 異様に回りくどい語り口に、早くもカナタは引きかけたが、その深刻な様子を無視するわけにも行かず、ぎこちなく頷いて先を促す。と、依坤は重々しく頷きを返して語った。
 「昔はともかく、今のおぬしは水精じゃ。人間の目や言動を気にしてはいかん。
 おぬしに命令できるのは、母皇陛下、三人の皇帝陛下方、六人の精霊王だけじゃ。その他の者に、おぬしは命令されるいわれはない」
 「・・・六人?」
 頭の中で、この世界の精霊王の数を数えたカナタは、いぶかしげに問い返す。
 「一人、足らないんじゃないか?」
 だが、依坤はひとつ首を振って、カナタの言葉を否定した。
 「六人じゃ。木精王は、全ての精霊の下につく。
 王以外の精霊が、おぬしに『依頼』する事はできても『命令』する事ができぬように、おぬしが木精王と、友人として付合う事はあっても、木精が主に、水精が従になることは絶対にありえぬのだ」
 諭すように言って、依坤は言葉を切った。
 そしてまた、逡巡した様子であてどもなく視線をさまよわせ、痺れを切らしたカナタが口を開こうとした寸前、翠の瞳がカナタの目を見据えた。
 「・・・・・一度しか言わぬ。よく聞け。
 ―――― 闇は地に潜み、地は水に親しみ、水は風を生む。風は火を熾(おこ)し、火は光を生み、光は闇を創る」
 素早く、ひそやかに囁かれた言葉は、音律を伴ってカナタの耳の奥に吹き込まれた。
 「・・・なに、それ?」
 声をひそめ、問うカナタに、依坤は『絶対に声に出してはならない』と戒める。
 「精霊族の順序―――― 循環とも言うか―――― を示した詩じゃ。
 精霊にも、格があってな。それは、王の身分と地位に、大きく左右されるのじゃ」
 カナタには、身分と地位の区別も定かではなかったが、曖昧に頷いて先を促した。
 「この世界でもっとも身分の高い方は、もちろん玄冥太子と澪瑶公主のような『神子(みこ)』だ。次が『最長老』のわし。その他は、どうと言って違いはない」
 「つまり、皇帝の血筋と最高齢の経験値は同等と言うわけだね」
 なかなかいい制度じゃないかと頷くカナタに、依坤は『陛下』をつけんか、と怒る。
 「次に地位は、太子、公主、太師、将軍、皇妃の順じゃ。これに王としての在位期間を加味して、精霊王の順位が決まるのじゃ」
 「皇妃が最後って、珍しいね。・・・ってことは、一番偉いのはお前なんだ?」
 最長老だけに、在位期間は他の王達には及ぶべくもないだろう。
 しかし、依坤は憮然と首を振って、カナタの言葉を否定した。
 「玄冥太子は、わしがまだ若い時分に闇精王となった。在位期間は千年ほどしか差がないからのう。身分から言って、闇精王こそ第一の王なのじゃよ」
 「・・・千年って、かなり気が遠くなりそうなんだけど・・・」
 思わず突っ込みを入れるカナタに、依坤はにやりと笑みを浮かべて見せる。
 「おぬしもすぐに、百年一日と言えるようになる」
 「・・・・・・言いたくないな、それ」
 日本人男性の平均寿命は七十代半ば。それより少しくらい長生きできれば嬉しいな、と思っていたカナタに、百年を一日のように短く勘定しろとは茫漠とし過ぎているというものだ。
 「まぁ、それはおいおい理解して行くとしてだ。
 おぬし、この詩をわしに教わったと言うでないぞ」
 依坤らしくない台詞に、カナタは思わず目を剥いた。傲慢で横柄ではあっても、彼が姑息ではない事は、そう長くない付きあいでも理解している。
 「なんで?」
 つい問い詰める口調になってしまったカナタに、依坤は声をひそめるよう、低く叱咤した。
 「・・・・・・おぬしが、人を使う立場だったとしよう」
 依坤としても、この様な言葉を吐くのは不本意なのか、いつもに増して憮然とした口調になる。
 「おぬしは、家臣を使役する代わりに、家臣の身命、生活の保護をしている。
 それには当然、深い信頼関係、もしくは利害の一致が絡むわけだ」
 わかるか、と問う声に、カナタは再び曖昧に頷いて見せた。
 「―――― つまり、社員と雇用主みたいなものだね?」
 社会に出た経験のないカナタには、それすら漠然とした話でしかない。
 「・・・・・・・・・?
 おぬしの世界に、王はおらぬのか?わしは、商人と奉公人の関係なぞ言うておらん」
 カナタの的を外した答えに、標準装備の毒気すら抜かれた依坤が、呆れたように言う。
 「王様のいる国もあるけどねぇ・・・・・・。
 俺の生まれた国は、『全ての国民は平等である』ってのが建前で、労働基準法を守らない会社は罰せられたり・・・してるのかなぁ?
 就職した先輩は、労働省に訴えてやるって怒ってたしなぁ?」
 なるべく考えないようにしていたが、カナタは社会も知らないうちに死んでしまったのだ。
 その上、いきなり異世界に連れ込まれ、お姫様や精霊王を助けるなど、RPGのような経験をした挙げ句、わがまま太師のお守りを押し付けられ、戦争にまで巻き込まれている。
 ―――― 不意に、足が震えそうになる気配を感じて、カナタは深く呼吸した。
 最近、何かの拍子に家族や友人のことを思い出す度、現れるようになった症状だ。
 おそらくは彼の心が、『あちら』の世界で『死』を得たのだという事実を、もう戻れないのだという状況を、否定したがっているのだろう。
 彼は普通の人間であり、狂乱してもおかしくないところなのだが、この世界で得た肉体のおかげで、なんとか精神の均衡を保っている。
 「大丈夫か?」
 依坤は、小刻みに震えるカナタの、薄く汗の滲んだ頬を両手で挟み、無理矢理自分の方へ向けた。
 「・・・よいか?これだけは忘れるな。
 おぬしは、『あちら』の世界で持っていたものを全て喪ったが、『こちら』で公主より水精の身体を賜った時から、おぬしは澪瑶公主と主従の誓いを交わしたのだ。
 おぬしは公主に仕え、その代わり公主はおぬしの命を保護する。
 渺茫宮とこの地と、距離は離れておっても、おぬしが危地に陥れば、公主は必ず救いの手を差し伸べるだろう」
 言って、ふと依坤は目を逸らした。
 「・・・・・・・・・・・・わしも、おぬしが困っておるのなら、救うてやってもよいと思っておる」
 「・・・・・」
 意外な申し出に、カナタはまじまじと依坤を見つめた。
 カナタから背けた顔の両側で、小さな耳たぶが紅く染まっている。
 驕王らしくもない、愛らしい姿に、カナタは思わず吹き出した。
 「何がおかしいか、おぬし!!」
 小さな手が、間近にある銀の髪を思いきり引っ張る。
 「いやもう、依坤があんまりかわいい事を言ってくれるから、感動してしまって・・・!」
 依坤の攻撃は、いつもながら全く容赦がなかったが、カナタの笑いの発作はなかなか治まらない。
 「おのれ無礼な!!今のは取り消しじゃ!!おぬしなんぞ、絶対助けてやらぬ!!」
 「あははは・・・・・・!!地精王に二言はないと信じているよ」
 場所柄もわきまえず、楽しげにはしゃいでいる二人を、後方の高台からずっと眺めていた騎馬の女が、傍らの男に何やら囁いた。
 上半身をすっぽり覆う、長いヴェールの先から、白蝋でできたような指が伸び、まっすぐに争う二人を示す。
 「心得ました」
 男は一言、そう呟くと、まっすぐに二人の方へ馬を駆った。
 砂を蹴立てて、まっすぐに迫ってくる騎馬兵に、さすがに掴み合う手を止めたカナタが目を向けると、騎上の兵は太い右腕を伸ばし、カナタの体を依坤ごと、軽々と抱き上げる。
 「びっくりするじゃないか、蒋赫(ショウカク)」
 微かな非難を込めて見遣ると、男はたしなめるように眉をひそめた。
 「緊張感がなさ過ぎるぞ」
 低音の美声をさらに低めて、蒋赫は来た時と同じく、まっすぐに戻っていった。
 「お気を付けください。ここは戦場ですのよ」
 蒋赫が戻るや、沙羅は待ち構えていたとばかり、カナタに冷ややかな言葉を浴びせた。
 安全な時は前方を走り、戦場に着くや後方に下がるこの王女に、いちいち皮肉を返すのに飽きたカナタは、黙って蒋赫の馬から下りると、すたすたと後方に下がった。
 そこは、沙羅と彼女を守る騎馬隊がいる高台よりもう少し高い場所で、背後に峻険な飄山を従える州都の門前を容易に見下ろす事ができる。
 今そこには、甲虫のような兵らが群がり、城門から矢が届かない場所へ着々と大砲をしつらえていた。
 「人間に構うなという、わしの言葉を早速実践か?」
 に、と、口の端を曲げる依坤を、カナタは憮然と睨む。 
 「今、すっごいガキっぽいことしちまったって落ち込んでんだから、そういうこといわないでくれるか?」
 むぅ、と口を尖らせた時だった。
 どぉん、と、すさまじい爆音が、立て続けに数発、地を揺るがせた。
 「おぅ、始まったか」
 後代のそれに比べ、射程距離も破壊力もない上に、暴発する事も多い大砲を使う必要はないと、武将達は反対したが、筝は、どうせ威嚇するだけだからと、砲丸の代わりに油を詰めた革袋と、廃屋の壁から取り出した、乾燥した藁のかたまりをたくさん用意させた。
 その時点で筝の目的に気づいた者達は、火薬の調整にいつもより気を入れたものだった。
 そして今、曇天に舞っているのは、油を詰めた革袋と熾火(おきび)をはらんだ藁のかたまり。
 別々に発射されたそれらは、城壁の上に到達するや、弾け、混ざり合い、一瞬の内に炎の幕を引いた。
 「すげ・・・・・・」
 見遣る先で、着弾と共に次々と沸き上がる炎柱に、カナタは呆然と呟く。
 さらにその炎が、なにかに燃え移り、着々と領域を広げつつある様を見て、思わず目を眇めた。
 「なにが置いてあるんだ?」
 カナタのいぶかしげな声に、依坤も同じく目を眇めた。が、その翠の瞳は、昔ほど鮮明な像を描く事ができない。
 「おそらく、毛皮や藁であろうな」
 推測の言葉しか吐けぬ自身を嫌悪してか、彼の声は低い。
 「こちらが大砲をしつらえたものじゃから、砲弾が飛んでくるのだろうと、城壁を保護する物を敷き詰めたのじゃろう。
 あの筝と言う女、なかなか悪どいわ。攻城戦の常識を、真っ向から破りおった」
 言いながら、依坤はどこか満足げに鼻を鳴らした。
 「あの女の目的が、城を落とす事ではなく、この城門を開けさせる事であったなら、もう勝ったも同然じゃ」
 この世界に、消火に回せるほどの水は、まだない。
 城門上の兵士たちが、自身の命を大切に思うのなら、火に侵されたこの場を放擲するのは目にみえている。
 「これを見たら、サラームが怒り出しそうだね」
 一族の力が殺戮の為に使われる事を、あの優しい精霊王は、何よりも嫌っていた。
 「なに、これが最も流血の少ない戦い方であろうよ。最初に脅しておいて、後は山に追いやるのだからのう」
 話している間にも、城壁の上からはどんどん兵の数が減ってゆく。
 と、門前に展開した南州軍の中から、数隊が出てきた。
 盾をかざし、一匹の大きな甲虫のように武装した兵達が、城壁の上へ矢を放ちつつ進撃する。
 城壁からは、数本の矢がぱらぱらと降ってきたが、射たと言うよりは放り投げたように勢いのない弓勢(ゆんぜい)に、隊列は被害を被ることなく突き進んだ。
 間もなく、城門に至った隊が大量の火薬を手早く取り付け、来た時と同じく整然と軍中へと戻る。
 既に軍は、門から十分な距離を取っており、中から一騎、南州侯が隊列から進み出た。
 その紅い髪を跳ね上げて、細い手が天を差し、勢い良く振り下ろされる。
 途端、下方、門前の火薬に狙いを定めていた砲門が、一斉に火を吹いた。
 一瞬にして粉々に砕かれた厚い門扉は、黒煙を上げて州都への道を開いた。
 「お見事」
 呆然と呟くカナタの鼻先に、不意にぽつりと、雨滴が落ちてきた。
 「あ・・・」
 雨、と呟く間に、水滴は数と質量を増し、瞬く間に豪雨となって地を叩く。
 「すごいどしゃ降りだね。これなら、あっという間に消火できるな」
 そう言って、視線を地に戻したカナタは、唖然と目を見開いた。
 それまで整然と隊列を作っていた軍が、蜘蛛の子を散らしたように入り乱れ、口々に悲鳴を上げて逃げ惑っていたのである。
 「・・・・・・どしたの?」
 ここでふさわしいのは、悲鳴ではなく歓声だと思うのだが。
 「城門を壊した途端に雨が降りおったので、祟りだと思ったのではないかのう?」
 「なんで?壊した後でよかったじゃん。前に降ってたら、火薬が使えなかったんだぜ?」
 謎の行動を採る人間達をいぶかしげに見下ろして、カナタは首を傾げた。
 「火薬が使えたかどうかよりも、天変地異の方が恐ろしいのではないかのう?」
 雨滴を心地よさそうに受けながら、依坤は目を細めた。
 猫だったなら、喉を鳴らしそうな満足げな笑みだ。
 足下では、砂が水を呑み込んで、早くも泥流ができつつある。
 「公主、感謝する」
 依坤は一言、そう呟くと、勢いをつけてカナタの腕から飛び降りた。
 「あ、おい!!」
 慌てて伸ばしたカナタの手を、軽く振り払い、
 「依坤!!」
 また砂に呑まれそうになるのでは、と、声まで蒼ざめるカナタの目前で、地の王は悠然と泥流の中に立って見せた。
 「サラームが、この豪雨に来あぐねておるぞ」
 依坤は、ここではない、もっと遠くの景色を眺めて微笑んだ。
 「この程度の水に消されるおぬしではあるまいに・・・公主とて、おぬしのおる場所には手加減するであろうよ。
 ・・・・・・よいから、しのごの言わずにとっとと来ぬか!!!」
 いつも通りの癇癪を、ここには居ない人物に向けて放つ。
 「・・・誰?サラーム??」
 ケータイで通話してるようだ、と、心中に呟いたカナタに、麗華がいぶかしげに眉をひそめる気配がした。
 「そうだ。
 ・・・・・・おぬし、わしを誰だと思っておる?おぬしがおる間くらい、降雨を止めてやるわ!!はよぅ来い!!!!」
 依坤が叫ぶや、その言葉どおり、雨が一瞬にして上がった。
 「すまぬ。一時、退(の)いてくれ」
 天に向けて微笑すると、彼は豪雨にも消えなかった城壁の炎へと目を向ける。
 と、全てを嘗め尽くそうとする紅い舌が、一際高く天を突いた瞬間、その中に、ひとつの影が現われた。
 城壁を守っていた兵らは全て逃げ散ったはずなのに、その男は唐突に現われて、炎に覆われた城壁から悠然と門前を見下ろす。
 「なかなか素直でよろしい」
 依坤が、意地の悪い笑みを浮かべて呟くと、城壁の人物が忌々しげに顔を歪めたのが、カナタの目に映った。
 「あ・・・、沙羅!!」
 同じ高台の上で、呆然と雨に濡れていた女に、いち早く我に返ったカナタが呼びかける。
 「チャンスだろ、今!お前が軍をまとめて突撃させろよ!」
 「・・・言われるまでもないわ!!」
 その声に、自失していた沙羅も我に返り、忌々しげに言うや馬を駆った。
 眼下へ向けて疾走する彼女の後を、護衛隊が慌てて追う。
 騎馬の群れはそのまま乱れた軍中に飛び込み、一路先頭を目指した。
 暗雲の下、黒紗のヴェールを脱ぎ捨てた沙羅の白髪が風に舞うと、兵らの目がはっと吸い寄せられる。
 欠点の多い沙羅だが、王族としての威厳は確かにもっていた。
 南薔の民に慕われる、『精霊の娘』としての、顕著な容姿も。
 その彼女が、赤い瞳をまっすぐ前方に据えて駒を進めていくと、その姿を追うように、我に返った兵士達が従った。
 冷静さを取り戻し、隊列を整えた軍は、高台に残ったカナタと依坤を置いて、整然と城門をくぐり、峭都に入る。
 隊列が、殿軍(しんがり)まで城門の中へ消えるのを待って、城門の上にいた者が地上に飛び降りた。
 常人ならば、地上に叩きつけられて即死する高さである。
 が、彼は何の気負いもなく城壁を越え、空中でその姿を変えた。
 曇天の下、不意に現われた紅い鳥は、その大きな翼でしっかりと風を捉え、瞬く間に二人の前に降り立った。
 「俺、お妃様の護衛じゃなかったっけ?」
 憮然と言う間に、鳥は背の高い男の姿に戻っている。
 精霊王だけあって、見た目からは想像できない器用さだった。
 「もう、近くまで連れてきておるではないか。後はこの城門をくぐるだけじゃ。問題はなかろうよ」
 軽く背後を見遣る振りをして、依坤は楽しげに笑う。
 「途端に機嫌がよくなりやがって。ひでェジジィ・・・」
 サラームの非難の声に、しかし、依坤は癇癪を起こすことなく、にこやかなままだった。
 「生れたのは男か。あの女の事じゃ。既に手を打ったのであろうな?」
 「打った打った。
 南蛮に出産を知らせて、『追捕するならこの子を殺す』なんて脅すわ、東蘭に使者送って、『南蛮に協力するなら東蘭の全神殿の権利を剥奪する』って脅すわ・・・。
 なんなんだ、あの女。珂瑛(かえい)の壕ん中よりどす黒いぜ」
 うんざりと天を見上げたサラームは、今にも雨滴を落としそうな厚い雲に、怯えたように目をそらした。
 「それと、もひとつ報告。
 風精王は渺茫宮を追われたそうだ。なんでも、皇妃になる事を拒んで、人間に堕とされちまったそうだぜ」
 「風精王が?」
 さすがに驚いて問い返す依坤に、サラームは苦々しく頷いた。
 「・・・そうか。あやつだけは、けしてつまづくまいと思うておったが・・・。
 しかし、皇妃だと?エアリーがか?」
 依坤の、納得の行かない顔に、サラームも再び頷いた。
 「どうも、俺達が知らない女が他にもいるみたいだな。
 哩韻(リィン)の話だと、皇妃に望まれたのは、公主の前にしか現われない、純粋な『女』らしい」
 それが、『巽依(ソイ)』のことだと気づいたカナタの、わずかな反応を、鋭い精霊王たちは見逃しはしない。
 「知ってるんだな?」
 否定を許さない、毅い金の瞳に見据えられて、カナタは反射的に頷いていた。
 「どのようなおなごか?」
 嘘を許さない翠の瞳が、好奇心以上の興味を持ってじっと見つめる。
 「どんな・・・って」
 珂瑛で出会った、美しい薫風を思い浮かべながら、カナタはゆっくりと語った。
 「他の人格に比べたら、すっごい小柄で、でもやっぱり、きれいな金髪と蒼い目をしてて・・・」
 「・・・誰がそんな事聞いたよ」
 「風精王の容姿などどうでもよいのだ。あれの場合、どんな人格かが重要なのじゃよ」
 二人から突っ込まれて、カナタはややうろたえながら、巽依の性格を思い浮かべた。
 「彼女は、亡くなったお母さんの代わりに、公主を愛して、育てるために生まれたって言ってた。
 彼女が生れたために、他の人格の欠点が深刻になったとも」
 それがどういうことなのか、カナタにはわからなかったが。
 「性格は・・・玉華泉の美桜(ミオ)姐さんと似てるかな。
 すごく厳格で、怖い人に見えるけど、実は優しい人で、公主の事を大事にしているんだと思う」
 自分では、うまく説明できたと思ったのだが、二人の精霊王は不満げに眉をひそめた。
 「誰がお前の主観を述べろと言うたか。わしらが知りたいのは、そのおなごの役割じゃ。
 どのような性質の精霊なのか、と聞いておるのじゃ」
 「だから・・・公主の母親的存在」
 理解の悪い教師に歯向かう生徒のように、カナタは依坤に対してむっと口を尖らせた。
 するとサラームが要領を得ない生徒にいらだつ教師のように、声を荒げる。
 「風の性質だ、性質!!
 あるだろう、凪とか嵐とか順風とか逆風とか!!第一、そいつの名はなんだ!」
 言われてカナタは、やっと自分が名前すら教えていなかったことに気づいた。
 「ソイだよ。字は・・・・」
 麗華の助けで脳裏に浮かんだ字を、宙に描く。
 「巽・・・依・・・」
 その字を読んで、依坤が深く頷いた。
 「微風か。
 なるほど、子を産みそうなおなごじゃ」
 「そうなのか?」
 首をかしげるカナタに、サラームがうんうんと頷く。
 「巽には、優しいとか柔らかいと言う意味もあるし、微風は発芽を促すものだ。風精王の中じゃ珍しい、武人とはかけ離れた人格だな」
 ふぅん・・・と、わかったようなわからなかったような、微妙な声を出して、カナタが頷く。
 「なるほどな。
 それでこれほど、雨脚が遅かったわけか。王不在では、雲を運ぶ風精らも、荷が重かろう」
 ふと空を見上げ、依坤は目を細めた。
 「では、わしがここでいつまでも雨を止めておくのも悪かろう」
 その言葉に、びく、と、火の王が身を震わせた。
 「雨のない場所へ行きたいか?」
 いっそ穏やかともいうべき笑みを浮かべて、依坤がサラームを見上げる。
 「行きたいね。ここは、今にも豪雨が来そうで、居心地が悪いったらないぜ」
 それが、嘘偽りのない本音であることは、その表情に顕著に現われていた。
 その顔に、依坤は笑みを深くし、峭都の向こうにそびえる飄山を指し示す。
 「山の最北・・・母皇の岳には、雲も届かぬぞ」
 依坤の言葉に、サラームがはっと目を見張った。
 「・・・・いいのか?」
 問い返すサラームの表情は硬い。
 「地上の様子は、一通り見た。
 雨も降り、大地が潤いはじめておる。
 後はわしが、母皇陛下と惶帝陛下に、この身の処決を伺うのみじゃ」
 連れて行ってくれるな、と、笑顔で問う依坤に、サラームは頷きかねているようだった。
 「処決・・・って?」
 何をする気なのかと、首をかしげるカナタに、依坤はいままで見せた事のない、優しげな笑みを向ける。
 「いかなる理由があれ、大地を涸らせたのはわしの責任。
 既に王足り得ぬこの身を、自ら裁くにやぶさかではないが、もっとも長く王の地位にあった者として、誰にも後ろ指を差されることなく進退を決するためにも、母皇陛下と惶帝陛下に地上の様子を報告し、直にお詫びせねばならぬ」
 「いかなる理由って・・・!!
 封じられたのは、お前のせいじゃないだろう?!」
 理不尽だと、声を荒げるカナタを、サラームは留めることなく見つめている。
 「理不尽ではない。
 地の全権を任された王が、不用意にも囚われ、地への責任を怠った。
 罰せられて当然じゃろう?」
 なぜこのような時に笑ってられるのか。依坤の唇からは、穏やかな微笑が消える事がない。
 「―――― そうじゃ、先ほどのあのおなご。
 わしを抱くのはあきらめろと、伝えておいてくれ。
 もしわしが、次の地精王に会う機会があれば、あのおなごに子をくれてやるよう、言い伝える事も出来るのじゃが・・・それは確約の出来ぬことゆえ、むやみに口にするでないぞ」
 「・・・依坤!!」
 向けられた小さな背中に、カナタは手を伸ばす。
 が、その手は依坤に届く前にサラームによって掴まれた。
 「サラーム!!」
 「邪魔するな」
 それは俺の台詞だろう、と、顔をしかめたカナタを、強引に押し退けて、サラームは依坤を抱き上げる。
 「間もなく、東州候の軍に守られて、精纜がここに来る。
 やつらに、沙羅と南州候の軍が、既に峭都に入ったと伝えてやれ」
 厳然と背を向けたサラームの肩越しに、依坤が顔を出した。
 そこには相変わらず、穏やかな笑みが張り付いている。
 「世話になった。迷惑をかけて、悪かったな」
 一瞬、夢かと思い、刮目して動きを止めたカナタに、依坤は笑みを深くした。
 「公主にも、礼を言っておいてくれ。元気でな」
 そんな、彼らしくもなく穏やかな言葉を残す依坤を抱いて、サラームは地を離れる。
 鳥に変化したその姿が、峭都の城壁を避け、東方の、比較的薄い雲の中へ消えた途端、再び烈しい雨滴が地を叩き始めた。
 「依・・・坤・・・・!」
 呆然と二人の消えた方角へ視線を送るカナタの背後から、ぬかるみに怯える人馬のうめきが近づいてくる。
 「だ・・・誰だ?!」
 怯えを含んだ声に誰何されても、カナタは振り返らなかった。
 「峭都の者か?!」
 華奢なカナタの後姿に、やや威勢を取り戻した声が、再び問い掛ける。
 「・・・哨戒の人?」
 だが、ぼんやりとした口調で振り向いたカナタに、まだ若い兵は思わず息を呑んで見蕩れた。
 豪雨に濡れてもなお、その輝きを失わない銀髪と整った美貌。
 埃っぽい繁葉の町で何度か見かけた時には、単に『顔立ちの整った青年』としか思っていなかったが、今、雨に濡れた彼は、突然艶やかさを増したように見えた。
 「精纜さんは?おばあちゃんも一緒に来てるの?」
 「え・・・あ、はい」
 別人のように艶のある美声での問いに、思わず素直に答えてしまった兵は、照れ隠しのようにぶっきらぼうに続ける。
 「南州軍は?攻城戦はどうなったのです?」
 「勝ったみたいだよ。
 俺は戦ってものがよくわからないから、あれが圧勝なのか完勝なのか、よくわかんないんだけどね。
 おばあちゃんに話したら、あれがどういう状況なのかわかるかもしれない―――― 教えてくれる奴が、いなくなっちゃったから」
 カナタは呆然と、軽くなった両手を見つめた。
 抱いている間は、生意気で小うるさい子供を何度も棄ててやろうと思っていたが、今、突然の別れに、戸惑いが先に立って涙も出てこない。
 「二人の所に連れて行ってくれる?
 詩羅さんにも、依坤の伝言を伝えなきゃいけないし、しばらく置いてもらわなきゃ」
 その後は、玉華泉に帰ろうか、と心中に呟くと、彼の中の麗華がほっと息を漏らす気配がした。
 この豪雨に、依坤は喜んでいたが、麗華は澪瑶公主の気配を身近に感じて、ずっと怯えていたのだ。
 「・・・乗れよ」
 カナタの、呆然とした様子を怪訝に思いながらも、兵は馬に同乗させてやろうと、手を伸ばした。
 「ありがと」
 いつもなら、人懐こく笑って見せるところだが、今はなぜか、笑うことが出来ない。
 これがただ、行動を別にしただけの事であったなら、カナタに屈託はなかっただろう。
 しかし、サラームはともかく、あの小さな精霊王にはもう、会う事はできないのだ。
 王として、精霊の長老として、依坤がどのような処罰を受け入れるつもりなのか。思いが鉛のようにこごって、肺を満たすようだ。
 「行くぞ?」
 出しかねていたカナタの腕を取り、兵士がその身体を馬上に引き上げた。
 「・・・・ごめん」
 微弱な声に、兵士は答えず、無言で馬を駆った。
 大の男を二人も乗せているため、馬脚は早くなかったが、長い時間走るまでもなく、水幕の向こうにいくつもの騎影が現われた。
 「おばあちゃんたちは?」
 「後方の幌馬車におられる」
 軍中につくや、馬から下ろしてもらったカナタは、通り過ぎる騎馬の群れと逆の方向へ歩き出した。
 すれ違う兵士達が、やはり訝しげに彼を振り向くが、今の彼には、それを気にする余裕すらない。
 「おばあちゃん」
 幕を開けた馬車の御者台側に腰掛け、何かぶつぶつと歌いながら雨を見ていた老婆を見つけたカナタは、ぬかるみをものともせず走り寄る。
 「どうされたね、カナタ様?」
 皺に埋もれた目を驚きに見開いて、老婆はまじまじとカナタを見つめた。
 「地精王はどうされたね」
 兵らの耳目を憚るように、声を潜める老婆の目前で、カナタは声を詰まらせる。
 「・・・とにかく乗りなされ、カナタ殿。話は中で聞きますゆえ」
 言われるまま、幌馬車の中に乗り込んだカナタは、幌の奥の影に潜むように座る精纜の横に黙って腰を下ろした。
 「・・・どうされました?」
 とても、南蛮・東蘭両国を脅迫した女とは思えない穏やかさで、彼女は腕に抱いた赤子をあやしている。
 「地精王閣下は、沙羅たちとご一緒ですの?」
 「いえ・・・火精王と一緒に行ってしまいました」
 「火精王と・・・」
 いつもなら、こんな他愛のない会話にも笑みを添える青年の、精彩を欠く表情に、精纜も訝しげに眉を寄せた。
 「殿下らと、ご一緒ではないと言われたか?」
 幌の幕を閉じ、一瞬で闇に落ちた車内で、老婆の声が密かに尋ねる。
 「依坤は・・・山の北岳に行くと言ってました。
 大地が涸れたのは自分の責任だから、母皇陛下と惶帝陛下の前に出て、処決を請うのだと言って・・・」
 「閣下が・・・」
 老婆も、カナタと同じく声を詰まらせた。
 「あいつ・・・もう消えてしまうような言い方だった。
 なんで・・・なんであいつが処罰されなきゃいけないんだ!あいつは何も悪くないのに!!」
 珂瑛の宮殿に囚われていた時の、彼の姿が脳裏に浮かぶ。
 幾重にも鎖で戒められ、砂の涙を零していた依坤・・・。
 何年も、何十年も苦しめられた上、命まで奪われるなんて、理不尽すぎる・・・!
 うな垂れ、顔を覆ったカナタの手を、雨滴ではない雫が濡らす。
 幌を叩く雨音も、その嘆きに呼応して、激しさを増したようだった。
 「・・・カナタ殿」
 老婆は、枯れ枝のような手を伸ばし、豪雨に濡れたカナタの身体を暖めるように擦りつづける。
 「・・・我々に、地霊王閣下をお救いする力はございません。
 ですが、閣下がどのような処決を得られたか、どのような道へ行かれたかは、拝見する事が出来るのでございますよ」
 老婆の言葉に、カナタは涙に濡れた顔を上げた。
 「どうやって?」
 やや詰まりながら問うと、老婆は頷くように何度も首を振って、今は幌に遮られて見えない、飄山の方角を示す。
 「飄山の、南岳の頂上には、我らが主、南薔王家がお守りする、水の神殿がございます。
 東岳の太陽の神殿、西岳の夜の神殿に比べ、この南岳にある神殿の格が高いのは、何もこの琅環(ろうかん)を治むられる湟帝陛下の神殿であるからだけではございませんのですよ」
 回りくどい老婆の物言いに、多少苛立ちを見せたカナタの背を、落ち着くように軽く叩いて、彼女は続けた。
 「どういう不思議によってか、この神殿にある泉からは、見事な輝石も湧くのです。
 薄蒼い、透明な石で、その中には文字が浮かびまする。
 そこに記されるのは、三珠の神界で起きたと思われる事件や、精霊方の叙任でございましてな。
 たとえば前水精王閣下が淘妃というお名前であられたことも、妬心のあまり澪瑶公主をお産みあそばして水に環られた事も、南薔王陛下がその輝石に記された事柄を読んで、下々にお伝えなさったのでございます。
 王家のみが使うことを許される、累楊体と言う文字は、この石に浮かぶ字が源なのでございますよ」
 「じゃあ、依坤がどうなったかも、そこにいればわかるのか?!」
 前髪が触れるほどに詰寄ってきたカナタに、老婆はゆっくりと頷いて見せた。
 「南薔の神職におなりあそばしますか、カナタ殿?
 南蛮から救ってくださった貴方が共にいてくだされば、わたくしも心強うございます」
 精纜の静かな声による、しかし思いがけない言葉に、カナタはわずかに逡巡した。
 昔から熱心な信仰心を持った記憶のない彼には、自分が俗界から離れた身分を得るなど、想像の範疇(はんちゅう)を越えている。
 その気持ちを察したのか、さすがに憚る様子ではあったが、精纜が言葉を添えた。
 「神職、と申しましても、南薔の神職は、他国ほど俗世と隔絶はしておりません。
 ご存知のように、この国では王も諸侯も神職でございます。
 他国の王や諸侯と違って、政務の他に祭祀をも執り行う分、多少忙しくはありますが、特に浮世離れする事はありませんの。
 いえ、浮世離れした方も、いないわけではありませんし、飄山の神職などは、さすがに信仰一筋ではございますが、王の近侍など、領土も持たない下の者は、普通の民と同じ生活をしているのですよ。
 ただ、王と共に聖地に入ることもありますので、神職の身分を与えられているだけなのです」
 ―――― つまりは、平安時代の宮中で、飼い猫に『命婦(みょうぶ)』の位を与えたようなものか。
 精纜の、珍しく長い説明にやっと納得の行ったカナタは、軽くこうべを垂れようとして思いとどまった。
 「カナタ殿?」
 訝しげに首を傾げる精纜を、カナタはまっすぐに見つめる。
 「依坤に言われました。
 昔はどうであれ、今の俺は水精なのだから、人間におもねってはいけないと。
 あいつの、最後の教えです。
 俺は、依坤や澪瑶公主の名を汚さないためにも、貴女の臣下になることはできません」
 この世界に来て、はじめてはっきりと物を言ったような気がした。
 ―――― 傲慢だと思われたくない。
 その思いが、カナタを控えめと言うよりは優柔不断にしていたのだ。
 だが、依坤と別れた今、その最後の言葉を汚さないためにも、カナタは毅然と態度を決すべきだった。
 普段と様子を違えたカナタに、精纜も老婆も、しばらく、しん、と静まり返っていたが、やがて、精纜がそっと声を出した。
 「もちろん、わたくしは貴方を臣下として扱うつもりはございません。
 わたくしをお救いくださった賓客として、また憚りながら、大切なご友人として、お迎えしたいと思います。
 本来なれば、神職の身分を与える際、叙任の儀式を行うのですが、水精であられるカナタ様に、人間のわたくしが『与える』と言うのも僭越でございます。
 皆には南蛮で、正式に叙任を執り行ったと言うことにいたしましょう。
 それでよろしゅうございますか?」
 精纜の、全く気を悪くしていないような穏やかな口調に、カナタはそっと息を吐き、礼を言った。
 ―――― まだまだ、心まで精霊になりきる事はできないよ。
 そっと心中に呟くと、彼の中で、麗華がそっと微笑む気配がする。
 ―――― ごめん。玉華泉に戻れなくなっちゃった。
 『水精は 木精に気を遣わないものよ』
 その優しい口調に、カナタはそっと苦笑をもらした。
 ―――― 雨がやむまで、外に出られないね。
 『澪瑶公主も 貴方の目がある所では 私を害そうとはなさらないわ きっと』
 不安なのはむしろ、麗華の方だろうに、彼女は懸命にカナタを慰めてくれる。
 「ありがとう」
 いつもの、晴れやかな笑顔ではなかったが、なんとか唇に笑みを乗せて、カナタはもう一度女達に礼を言った。
 「峭都に参りましょう。
 殿下達はもう、王宮を陥としておられるやも知れませんな」
 気を紛らわすように吐かれた老婆の言葉には、純粋な喜びをも微かに含まれていた。


 東州侯の軍が峭都の城門をくぐった時、町は喧騒と沈黙が奇妙に入り交じり、混沌とした雰囲気を醸し出していた。
 城門を破った時の勢いを取り戻した南州軍は、そのまま州都の大通りを喚声を上げて北上し、他ならぬ南薔王に虐げられてきた峭都の民は、精霊の娘を旗頭に入城してきた南州軍が、何か狼藉を働くのでは、と、猜疑に満ちた目で見つめている。
 「このような時は、武力も祈りも無意味でござります」
 老婆が、淡々とした口調で言う。
 「今この地に必要なのは、食料と金子(きんす)でございますよ」
 その言葉に、確かにこの国の神職は別世界の生き物じゃないな、と、カナタは苦笑を漏らした。
 「恒久的に民の口を潤すほどの貯えはございませんが、一月ほどは凌げよう程の物資は用意してございます。
 どうか一月以内に、財源を確保くださいますよう」
 笑みを浮かべるには、わずかに余裕が足りなかったらしい。
 奇妙に歪んだ顔が、事の深刻さを如実に語っていた。
 「そうですね・・・。
 一月後から、どれほど物資がもつかは、北州侯が貯えていた財を確認するまでわかりませんものね」
 精纜は、既に北州侯の処刑を決めていた。
 この女は、その華奢な容姿に似合わず、果断実行、即断即決する型の人間である。
 ただ、娘の沙羅と違い、聞くべき事は聞く耳を持っている分、その治世が長かったならば、名君の名を得てもおかしくはない女だった。
 「でも、水を確保できるだけ、少しは楽になったね。各戸に供給する設備は、すぐに使えるのかな?」
 カナタの言葉に、老婆が身体を揺らすようにして何度も頷く。
 「見に行かせましょう。
 ただ、もう何十年も使っておりませぬゆえ、壊れておっても、直せる者がおりますかどうか・・・」
 それでも老婆は幌の幕を開け、枯れ枝の手を伸ばして、老婆とそう年の変わらなそうな老兵を呼び寄せると、州都の浄水場とも言うべき施設へ走らせた。
 「若い者は、『水殿(しすいでん)』なんぞ知りませんでしょう。
 この婆ですら、使うておるところなど、見たことはございませなんだからな」
 皺を苦笑の容に曲げる老婆に、カナタがさらに不安げに眉を寄せた。
 「聞いたんだけど、この大陸には大きな河があるんだろう?
 公主はしばらく、雨をやませる事はないはずだから、下手すると氾濫するよ」
 雨のない世界の住人には、思いもつかないことだったのだろう。
 しばし、呆気に取られたように沈黙した精纜と老婆に、カナタは言い募った。
 「ずいぶんと長い間雨がなくて、大河も干からびてしまったと聞いたよ。
 だったら少しでも肥沃な土地を求めて、かつては川床だった場所に移住した人たちもいるんじゃないか?」
 「その・・・通りですわ。
 南薔は国の東西を大河に挟まれておりますゆえ、何より恐ろしいのは洪水だと、祖母が言っておりました」
 そして、恐ろしい洪水から土地を守ってきたのが、東と西の州侯であるはずだった。
 「この婆としたことが・・・・・なんという迂闊な」
 東蘭では蟷器が、いち早く手を打った事を、カナタに指摘されて初めて気づいた老婆は、愕然と呟いた。
 「今は、西桃と東蘭に領有されてるそうだから、こちらからは手を出す必要はないかもしれないけど、河が再び元の水量に戻ったら、この土地を回復する契機になるんじゃないか?」
 まるで依坤の様な事を言う、と、カナタは自嘲した。
 尤も、あの傲慢な地精王は、どちらか一方に荷担する事がなかったから、分かっていても人間達に話そうとはしなかっただろうが。
 「それでも、手を打っておくに越した事はありませんわ」
 精纜は自身の思考に集中するように、子供をあやす手を止めた。
 心地よい揺らぎを奪われた子供はすぐにぐずりだしたが、精纜は気に留める様子もなく微動だにしない。
 「先に、東蘭をどうにかしたいものですわね。あの国には緻胤(ジーン)がいますし・・・。
 あの子は、南蛮王から『化粧料』にもらった南州の土地や、東蘭王妃として領有している東州の土地など、南薔の土地をかなり所有しているはず」
 そういう精纜も、実は南西にある南州の一州を、化粧料として領有していた。
 「ただ、東蘭には枢蟷器がいます。
 あの能吏が、黙って土地を渡すはずがない・・・・・・」
 独り言のように呟いて、精纜はとうとう泣き出した子供に、やっと気を向けた。
 「ああ・・・そうね。この子がいました」
 思考に集中するあまり、感情の消えた声を、腕の中の子に向ける。
 「枢蟷器が・・・いえ、東蘭が欲しいのは、南薔の痩せた土地ではなく、南海の漁業権と交易権を持つ南蛮です。
 彼にこの子を渡せば、私と南蛮王の子ではないと言う、完璧な証拠を揃えてくれる事でしょう」
 「なぜそんなことを?」
 この世界の家系図を、未だ理解できていないカナタが問うと、精纜は嫌な顔もせずに丁寧に答えた。
 「私と南蛮王の間の娘である緻胤は、東蘭王に嫁ぎまして、男子を出産したそうです。
 南蛮王には、わたくしが産んだこの子以外に男子がなく、また、今後作る事もできません」
 その事情は、カナタも知っている。
 南蛮王は、彼の妻子による、凶行ともいうべき行いで生殖機能を奪われたのだ。
 「采殿は無欲な、良い殿御ではありますが、王である以上、国益を優先するのは当然です。
 確実に南蛮王の血を引く男子が手の内にあり、私が産んだと主張する男子の出生が、かなり疑わしい状況である以上、彼は南蛮と南蛮の有する権利を得るため、息子に南蛮王の位を継がせようと画策するでしょう」
 疑われているのは自身だというのに、精纜は淡々と、他人事のように語る。
 「ならばこの子を渡す事で、東蘭と結ぶ事ができます。
 東州侯、まず、貴女の土地を取返しましょう」
 精纜にとって最も功のある老婆に向けられた声は、彼女にしては珍しく、やや高揚していた。
 母としての愛情も、人間としての感情も、全て省き、冷酷な策略家に徹した彼女は、最も生き生きとして見える。
 「陛下のご高恩に感謝いたします」
 さりげない追従の言葉を述べて、枯れきった見かけによらずしたたかな老婆はこうべを垂れた。
 「南州と合流されましたら、何はさて置き、まずは戴冠の儀を行うべきでございましょう。
 殿下には、改めて王世子に立てられませ」
 親子の順を守るためにも、また、南蛮の風習に慣れすぎて、南薔の人心を把握しきれていない沙羅に猶予を与えるためにも、老婆の提案は至極妥当だと思われる。
 が、今のカナタには、それが純粋な忠誠心から出た言葉ではない事も見え始めてた。
 現在、精纜と沙羅の母子の陣営には、東と南の州侯があり、その功は均衡しているといえなくもない。
 今後、南薔王となった精纜の元で、どちらがより権力を増すのか。
 これから始まる、激しい権力闘争を象徴するかのように、遠くで低く、雷鳴が轟いた。


 依坤が目覚めてから、三度目の満月が昇った夜。
 飄山と呼ばれる連峰の中でも、人界と完全に切り離された最北の峰に、彼は一人、踏み込んだ。
 足下では、歩を進める度にきめの細かい雪が先触れの声を上げ、彼の参向を山の主に伝えていた。
 彼は、この世界を産んだ女神に拝謁するにふさわしく、重たげな正装での昇山であり、少年神のような神々しい容姿に似つかわしい重厚な装飾品を、いくつも身につけていた。
 人の身では、触れる事はおろか見る事もできぬであろう壮麗な輝石の数々は、満月の光を受けて冷たく輝いている。
 やがて、珂瑛が天道の頂に昇り、晧、とした光を白銀の上へと降り注ぐ頃、彼は山頂間近の雪余(せつよ)の地へ両膝を突いた。
 本来であれば、永年地精王の位を温めてきた依坤は、皇帝といえども跪く事はない。
 神子の他には彼にのみ与えられた特権として、立礼が許されているのだ。
 しかし今、彼は膝を突いただけでなく、深々とこうべを垂れて、冷艶(れいえん)な白銀に額づいた。
 「申し訳・・・ございませぬ・・・・・・!」
 澄明な静けさをもって少年を見下ろす北岳へ向け、押し殺した声が漏れる。
 その背後から、澄明な光で依坤のうなじを白く照らす珂瑛(かえい)は、けして人間には届く事のない、妙なる音律を奏でながら、天道を西へ、舵を取る。
 もし、この様を俯瞰(ふかん)する者がいたとしたら、小さな・・・あまりにも小さな少年が、峻厳な雪山と冷酷な珠月によって前後を阻まれ、竦んでいるように見えたかもしれない。
 「母皇陛下・・・・・・惶帝陛下・・・・・・!」
 真摯な声に、しかし、女神達は応えなかった。
 ただ、凛とした白銀が、清冽な月亮が、互いに交じり合い、輝きを増しながら、最初に生まれた精霊を照らし続けた。




〜 to be continued 〜


 










今回、私的に一番輝いていたのは精纜さん・・・。(ちょっとまてや、おい;)
会社で、怪しい笑いを浮かべながら、
『いいっすよ、お母さん!!それでこそお母さん!!』
と、わくわくしていました(笑)←なんて奴でショウ;;;
・・・・ここで殺すつもりだったのに、生き残ってる奴もいるしよぅ・・・(チッ)

次回は、これから六年後です。(多分;)
強烈さを増している(予定では;)人間達が、落とし穴の掘りあい大会に夢中になっている事と思います。
ここまで賑やかだったメインキャラのうち、ある二人は確実に、ある三人は予定として、お亡くなりあそばします事でしょう(合掌)
人を呪わば穴二つ・・・。












Euphurosyne