◆  17  ◆







 地上が冬支度に追われる頃、飄山の北側、湟帝(こうてい)と水風の精霊族が住まう渺茫宮(びょうぼうきゅう)では、雪と寒波を山の向こうへ送る準備に追われている。
 そんな中、火精王を供に渺茫宮へ帰って来た風精王を迎えるため、澪瑶公主(レイヨウこうしゅ)は自ら風精の居宮、涼巽宮(りょうそんきゅう)へ赴いた。
 「風精王!!」
 公主が声を弾ませて駆け寄ると、水を嫌って早々に退出した火精王の熱が残る広間に佇んでいた王は、柔らかく微笑んで彼女を迎えた。
 「ご機嫌よう、澪瑶公主」
 やたら丁寧にこうべを垂れる彼に、澪瑶は周りの目もはばからず抱きつく。
 「シルフ・・・よかった・・・・・・!」
 シルフは、澪瑶の華奢な背に腕を回し、その背後で軽く手を振って、周りの精霊達に退室を促した。
 「心配をかけましたね、澪瑶公主・・・」
 穏やかな微笑みを浮かべ、穏やかな口調で語りかけるシルフの腕が、わずかに力を増す。
 ただそれだけで、澪瑶は表情を強張らせ、身をすくめてしまった。
 「澪瑶・・・・・・」
 その声に、澪瑶はびくりと身を震わせる。
 「貴女でしょ?」
 自身の腕に抱かれた身体が、小刻みに震え出した。
 「貴女が、アタシを殺したのね?」
 ぎり、と、その身体を抱く腕に容赦なく力を込められて、澪瑶は小さく悲鳴をあげた。
 「どうして?」
 見つめる目は、あくまで優しく、美しい。
 だが、そのごまかしを許さない口調に、澪瑶は濃紺の瞳に涙を溜めた。
 「だって・・・・・・」
 か細い声に、シルフは黙って聞き入る。
 「だって、あの人間の身体さえなければ、貴方が帰ってくると思ったんだもの・・・だから、貴方を河の近くで見つけた時、河を氾濫させたの」
 そして事実、彼は渺茫宮に戻った。
 闇精と争い、火精王を巻き込んでのことだったが。
 「・・・・・・まったく。本当にわがままなんだから、アナタは」
 珍しく重い吐息をもらして、シルフは澪瑶公主を戒める手を解いた。
 「アナタね、アタシだけならともかく、アタシの近くにいた人間も家畜も、全部死んだのよ?
 珂瑛じゃ今ごろ、昨夜死んだ者全てが鬼籍に載ってない事がわかって大騒ぎしているでしょうよ。いつも、思い込みだけで動くんじゃありませんって言っているのに、何度言ったらアナタはわかってくれるのかしら?」
 しかつめらしい小言も、きょとんとして自分を見上げてくる澪瑶を見ているうちに、つい苦笑が浮かんでしまう。
 「・・・・・・・・・ごめんなさい。苦しかったのね?」
 まったく見当違いのことで反省する澪瑶に、シルフは『そうじゃなくて』と、美しいしつらえの長椅子に座り込んでしまった。
 「違うのよ、公主。アタシが人間に落とされて、おとなしくここを出ていったのは、その処分がアタシと湟帝陛下の意地と誇りの境界線だったからよ」
 シルフの言葉がすんなり入ってこないのか、小首をかしげる澪瑶を、シルフは苦笑して手招く。
 素直に誘われた澪瑶を膝の上に乗せ、子供をあやすように抱いて言い聞かせた。
 「アナタには言わなかったけど、アナタとアタシがここに帰って来た時ね、湟帝陛下はアタシを・・・あ、いいえ、アタシじゃないわ。巽依(ソイ)を皇妃に望まれたのよ」
 その言葉に澪瑶は目を見開き、すぐにそれをうれしげな微笑みに代えた。
 「貴方がわたくしのお母様になるの?」
 「・・・・・・・・・ちょっと・・・・・・喜ばないでよ、そこで」
 妃になるのよ?と言っても、澪瑶にとっては乳母だった風精王が、本当の母親になることが嬉しくてたまらないらしい。
 「そうなったら一緒に、清澪宮(せいれいきゅう)に住めるのね!」
 「公主・・・・・・・・・」
 「だって、いつも貴方は夜になると帰ってしまうでしょう?昼間だって、いつも一緒にいられるわけではないし・・・。
 一緒に住んだなら、お時間のある時にはすぐ会えるようになるじゃありませんか」
 「だから待ちなさいってば!!」
 手放しに喜ぶ澪瑶の口を、シルフは慌てて塞いだ。
 「アタシの真性は男なの!!妃なんて、冗談じゃないわよ!!」
 そんなことを、とても女らしい口調で言われても説得力がない。
 「気にするようなことなのですか?」
 不思議そうに問われて、シルフは正直、泣きそうになった。
 純粋培養がすぎたかもしれないと、自身の教育方法を後悔せずにはいられない。
 「気にするようなことなのよ。巽依は・・・喜んでいたけどね」
 光栄なことだわ、と言った女の顔を思い出して、シルフはつい、あからさまな嫌悪を浮かべてしまった。
 途端、澪瑶の身体がぴくりと震えたので、シルフは努めて表情を和らげる。
 「・・・ねぇ、公主。アナタはなぜ、水精たちを恐れるの?」
 澪瑶の肌から、すっと血の気が引いた。
 「彼らがアナタを害するのではないかと、まだ疑っている?」
 震えながら、微かに頷いた澪瑶を抱きしめ、シルフはその耳にそっとささやく。
 「貴女が彼らを疑っているように・・・私も陛下が信じられない・・・・・・」
 あり得べからざる告白に、澪瑶は瞠目して彼の白い顔を凝視した。
 彼は、澪瑶が生まれる遥か昔より西の天将として勇名を馳せ、その智謀によって世界の砦とまで賞されている。
 前水精王、淘妃(トウヒ)が、命を捨ててまで澪瑶を産んだのも、彼の栄光が風精族の地位を高め、水精族がないがしろにされるのを恐れたためだとも言われているのに。
 そんな澪瑶の思いを察したのか、シルフは彼女を抱く腕に、わずかに力を込めた。
 「淘妃は、貴女を産むために自ら死を選んだんじゃない。死を選ぶよう、陛下によって追い詰められた」
 「まさか・・・・・・」
 そう言ったきり言葉を喪った澪瑶の、青味を帯びた銀の髪を、シルフは優しく撫でる。
 「淘妃は本性、穏やかで優しい女だった。
 昔から私とは妙に気があって、彼女が水精王の位を賜った時は、本当に嬉しかったわ。
 後に、彼女が皇帝陛下の皇妃に封ぜられたときも、あの美貌ならば当然だと、自分のことのように誇らしかったもの・・・・・・」
 だが彼女の心は、皇妃として月日を経るごとに嫉心に蝕まれ、荒み、衰え、醜くなっていった。
 容姿さえ、その内面に引きずられ、昔の面影さえ失くなった時、彼女は気づいてしまったのだ。
 自身から美貌を取ってしまえば何も残らないということに――――。
 「たったそれだけのことで、彼女は正気を無くしてしまった。
 陛下に近づく女達を、何人も嬲り殺しにして・・・・・・」
 水精の誰もが口をつぐむ実母の話に、澪瑶は聞き入った。
 他族の王達が、『驕慢な』『恣意的な』と呟く女の姿を、その脳裏に思い描くように。
 「それでも陛下に近づく女は減らなかった―――― 彼女らは別に淘妃を軽んじていたわけでも、命を賭けるほど陛下をお慕いしていたわけじゃない。
 全ては淘妃を追い詰めるため、陛下が仕組んだのではないかと疑うこともあった」
 そうは言うが、澪瑶はこの王が、確信もないことをやすやすと口にするような者ではないと知っている。
 「・・・・・・お父様はお母様を、疎んじておられたの?」
 震える声での問いに、シルフは否定も肯定もせず、曖昧に視線をめぐらせた。
 やがて、
 「疎んじていたわけではないと思う。ただ、陛下はご存知だったでしょう」
 何を、とは、聞くまでもない。
 澪瑶は、自身の父のことは良く知っていた。
 「・・・・・・お父様は、そういう女を選んだのね?」
 ただ湟帝のみを愛し、自身の身分に執着する女。
 彼にまとわりつく女であれば、同族であれ殺めることを躊躇しない女。
 孤独になればなるほど、思いつめていく女。
 そして、命を捨ててまでも誇りを守ろうとする女・・・・・・。
 「ひどい・・・・・・・・・」
 途端、濃紺の瞳から水晶のような涙が溢れ出した。
 「公主・・・・・・」
 「ひどいわ!!お父様は最初から、お母様なんて見ていなかった!神子が欲しかっただけなのよ!!」
 その理由は、闇の王より幾度か聞かされた事がある。
 母皇の末子である湟帝は、珂瑛(かえい)の惶帝が闇精王を産んだことを、ひどく気にしていたという。
 最初の御子であり、広大な領地とあまたの生命を司る姉が、その武官長に御子を据えたことで、更に力を増すのではないかと、恐れていたというのだ。
 しかし、湟帝には命を育む力はあっても、惶帝のように生み出す能力はない。
 ゆえに、湟帝は皇妃を追い詰め、神子を生ませたのだ!
 そこまで考えた時、ふと、ある考えが頭をよぎった。
 「シルフ・・・・・・?」
 涙に濡れた瞳で見上げた彼は、穏やかな笑みを浮かべて澪瑶を抱いている。
 「あなたも・・・なの?」
 彼は答えなかったが、澪瑶は自身の考えが正しかったのだと直感した。
 父は、この傑出した風の王ですら、殺そうとしていたのだ―――― 神子を、得たいがために。
 愕然として声を喪った澪瑶に、彼は優しく微笑んで見せた。
 「淘妃が産んだ神子は女だった。精霊がその性質を代えたがらないのならば、水精が産む子は全て女かもしれない。
 だが風精なら?いくつもの確立した性を持つ風精王なら、男子を産むことができるのではないか」
 淡々と語られる言葉に、澪瑶は息を飲んで沈黙した。
 「風精王が男子を産んだなら、澪瑶と掛け合わせてみよう。
 澪瑶は淘妃と同じことになるかもしれないが、こちらの神子の方が、闇精王より能力が高いに違いない」
 確信をもって語られるシルフの推察に、澪瑶は震えずにはいられなかった。
 父に、愛されていると信じていたわけではない。
 それでも、他ならぬ父から物の様に思われているという予想は、澪瑶の胸を抉った。
 「・・・だから陛下は、アナタと闇精王の関係を快くお思いじゃなかったのよ」
 ―――― 澪瑶は、最高の神子を産むべき大事な娘。それを、あの忌むべき闇に渡すわけには行かない。
 「アタシは死にたくないし、アナタを殺したいとも思わない。だから陛下が、『妃の位を蹴るならば、人界に堕とす』とおっしゃった時、アタシは―――― いいえ、無幾(ムキ)は、甘んじて処分を受けたのよ」
 シルフは澪瑶の震える肩を、暖めるように抱いた。
 「これはアタシと陛下の戦いなの。
 どちらかが根負けするまで、続けなきゃいけないのよ」
 だから―――― と、澪瑶を膝からおろし、彼は立ち上がった。
 「アタシ達の邪魔をしてはだめよ。陛下にも、いつも通り振舞いなさい。今のままでいたかったらね」
 言うや澪瑶に背を向け、回廊へと続く扉に向かう。
 「待って!どこに行くの?!」
 澪瑶が慌てて追いかけたが、
 「決まっているでしょ。陛下のところよ」
 そっけない返答に、足を止めた。
 力なくうな垂れたが、苦笑する気配にふと顔を上げると、シルフが美しい細工の施された扉に手をかけたまま、背後の澪瑶に微笑みかけていた。
 「しっかりしなさい。アナタは王なんだから」
 鮮やかに笑ってみせると、澪瑶は微かに・・・泣きながらではあったが、確かに頷いた。
 それを確認すると、シルフはひらりと身を翻し、後ろ手に重い扉を閉めた。
 しんと、静まりかえった回廊に視線を巡らせて、彼はそっと吐息する。
 「アンタって・・・なんてひどい男なのかしらね、無幾」
 つぶやくと、彼の中でもう一人の男が笑った。
 ―――― お前達は、あの娘を庇いすぎる。
 完璧な音律を持った声に、シルフは軽く眉をひそめた。
 「ナニ言ってんのよ。アンタは公主に、自我の壁を簡単に破られちゃったから、悔しいだけじゃない。
 今、公主にあんなこと言ってどうするのよ?
 あの子は純粋な子だもの。陛下の前で、感情を隠すことなんてできないわよ?!」
 足を湟帝の座所へ向けながら、自身に向けて毒づくと、彼の主人格はすっと笑声を収めた。
 ―――― いずれ分かる。お前が知らなくてもいいことだ。
 「・・・・・・アタシ、アンタのそういう所、大っ嫌いだわ」
 同じ身体に棲んでいるというのに、無幾は他の人格に服従を強いる。
 それが、シルフには気に入らない。
 「言いたいことがあるなら、自分の口を使ったらどうなの?!アタシの身体を乗っ取って、アタシの口から言わせるなんて、金輪際やめてちょうだい!!」
 怒りに身を震わせ、自然、歩調が速くなるシルフを、しかし、彼の中の男は冷たく見つめた。
 ―――― 私が、王だ。
 静かな一言に含まれた威厳に圧されて、シルフは沈黙した。
 『風精王』という身体の中にある、いくつもの人格。
 その中で最も強く、最も賢く、最も深い、王の中の王。
 それが無幾。
 彼の前では、『嵐』のシルフも沈黙しないわけには行かなかった。
 ―――― お前にはお前の役割がある。それを全うすればいい。
 その言葉に、シルフはやや速度の緩んだ足元に目を落とし、口をつぐんだまま湟帝の元へ向かった。


 飄山から下りてきた風が日を追うごとに寒さを増していく頃。
 南薔国最北の州、峭州(しょうしゅう)にある王宮は、早くもぴんと張り詰めた冬の空気に満たされていた。
 一足早い冬が訪れた原因は、南薔国第三十代女王、精纜(セイラン)の死であり、その王世子、沙羅の不人気であった。
 本来であれば、精纜の娘であり、南薔王家特有の色素を持たない娘、『精霊の子』である沙羅が王位を継ぐのに反対するものはいない。
 しかし、南蛮で生まれ育った沙羅は大陸の習慣や気質になじめず、南薔の人間と衝突することが多かった。
 ために下級官吏よりもむしろ上級官吏や諸侯、上級神官などに、彼女は嫌われていた。
 沙羅は現在、第三一代南薔女王になる準備に、意気揚揚と取り組んでいるが、彼女には後ろ盾になろうという諸侯もなく、積極的に協力しようという上級神官もいない。
 こんな状態で王位に就いたとしても、それは砂の楼閣。すぐに他国の侵略に屈することだろう。
 そんな、暗い未来を目の裏に描いてしまった者達は、沙羅よりもむしろ、沙羅の次に南薔王になるべき者に目を向けていた。
 子のない彼女の後を継ぐ者―――― 東蘭王妃、緻胤(ジーン)。
 次の南薔王として、その名を思い浮かべた者達は、それとなく隣国の様子を探るようになった。
 ―――― 彼女が王位に就いたとしても、南薔が再び東蘭の属国になるようでは困る。
 そんな、恣意的な願いに適う者であるかどうかを観る目は、自然、厳しいものとなった。
 だが、そんな折である。
 東蘭王崩御の報せがもたらされたのは。
 「つまり、二国の王が同時に亡くなったということかい?」
 それも、南薔のみならず、大陸の三大国が関わる大きな祭祀が始まる前に。
 「すごい偶然だけど、これで王妃は実家に帰ってこれるじゃないか」
 夫のいない国に、いつまでもいる必要はないはずだと言うと、鉄格子の向こうに端座する女は、彼の言葉にわずかに眉をひそめた。
 「そんな単純なことではないのですよ、カナタ様」
 老齢に入ったばかりの女は、物静かな声でたしなめるように言った。
 「緻胤王妃には六歳になる王子がおいでです。
 まだ幼い王子が東蘭王になるわけですから、その摂政として、王妃は実際に東蘭を治めなければなりません。恐らく王妃は、南薔の土を踏むこともかないますまい」
 わずかな憐れみを含んだ声に、カナタは軽く頷いた。
 「でも何年か前、東蘭から使いが来ただろう?外交官の――――」
 「礼部尚書、枢蟷器殿ですわね」
 「そう、彼。
 いやに単刀直入に話を進めて、東の二州と精纜殿の王子をかえっこしただろう?
 彼はあの後、南蛮の王位継承権を緻胤王妃の子供にあげたって言うじゃないか。
 南薔の王位が目の前に転がっているというのに、放っておく人間なのか?」
 「・・・・・・それをお聞きに見えたのですか」
 女はちらりと苦笑を閃かせる。
 「うん。枢蟷器なら、この状況を利用して、何か仕掛けてくるんじゃないかなって思うんだ。
 思わない、筝(ソウ)殿?」
 率直な問いに、牢に閉じ込められた女は、その細い手を頬に当てた。
 「どうでしょう・・・?
 わたくしは、彼のひととなりを存じませんが・・・・・・」
 「うそでしょう?筝殿は、その辺の探索は怠らない人だ。貴女の思うところを聞かせてください」
 カナタの言葉に、筝は再び苦笑する。
 「敵いませんわね、カナタ殿には」
 一言、そう言って、筝はしばらく考え込んだ。
 やがて、
 「攻めて来ることはないと思います」
 と、女のものとしては低い声で断言した。
 「わたくしは詳しいことを知らされておりませんが、東蘭王は裏切りによってお命を落とされたとか。
 なれば東夷による外寇も、内なる敵によって仕組まれたものではないでしょうか。
 わたくしの見るところ、枢蟷器は誇り高く、自身の能力に自信を持っています。
 それが裏をかかれて、彼の大切な友人であり、全力をもって擁立した王を殺されてしまったのですから、彼の若さであれば、普通、我を忘れ、怒りのままに復讐の業火を燃え立たせて、東蘭を無残なまでに蹂躙することでしょうが――――」
 筝はふと言葉を切って、日の差さない地下牢の、冷たい石畳に視線を落とした。
 「あれは―――― 王でないのが不思議なほどの男です。
 若くして覇気と権力を持ちながら、その使い道をよく心得ている。
 このような状況に陥ってさえ、彼は我を忘れるということがないでしょう。
 東蘭の内乱は、彼が出陣した途端に収まり、敵軍は、完膚なきまでに叩き潰されますよ」
 まるで、そこに蟷器の描く戦況図が描かれているかのように、筝の視線は熱心に床石の上に注がれている。
 「そして・・・その後は・・・?」
 東蘭の未来図を頭に描いたカナタは、内戦終息後の南薔の姿を、同じく描こうとしていた。
 それに、筝は軽く頷く。
 「蟷器はもとより、戦よりも治政を好んでいるように思います。
 それが証拠に、彼は采王を玉座に就けて以来、一度も戦に出ていないのですよ。
 もし彼が芯から武人なのであれば、文官に収まろうなどと思わないはずです。ゆえに――――」
 筝は、顔を上げて、まっすぐにカナタを見つめた。
 「緻胤王妃をもって南薔を落とそうとは思わないでしょう。
 彼は権門の出身ではなく、能力だけで上がってきた男。
 正当なる王妃であり、誰もが幼い王の摂政として認める緻胤殿下の協力は、絶対に必要なものでしょうから」
 論理的な結論に、カナタは深く頷いた。
 「さすがだね、筝殿。こんなところじゃ詳しい情報をもらえないだろうに」
 素直に感心するカナタに、筝は曖昧に頷く。
 「戯言でございます。ただの憶測でございますから、どうぞ聞き流してくださいまし」
 そうは言いながら、彼女の頬は久しぶりの知的興奮にやや上気していた。
 かび臭い地下牢での生活に、眠りかけていた彼女の頭脳が覚醒したようだ。
 その様子に、カナタは彼女が入牢して以来、ずっと思っていたことを口にした。
 「・・・でも、あなたのような人が、なぜこのようなところに居続けるんだ?」
 「なぜといわれましても・・・・・・」
 困ったように笑うと、カナタは鉄格子の向こうから、真摯な目で筝を見つめてくる。
 「今、南薔に必要なのはあなたのような人だ。自分でそう思わない?」
 あまりにも率直な言葉に、筝は一瞬、罠かと疑った。が、すぐに相手が、裏表のない男であることを思い出して、そっと息をつく。
 「・・・そのようなこと、思いもしません。わたくしは、女王陛下によって入牢(じゅろう)させられた身でございますから」
 「そんなこと関係ないよ、俺には。それに貴方がここに入っているのだって、濡れ衣じゃないか」
 率直すぎる言葉と、やや傲慢な口調。
 それが、硝子細工のように繊細な口から出てくるさまに、筝は自分でも不思議なことに、柔らかく微笑んでいた。
 「確かに、わたくしには身に覚えのないことでございますわねぇ。
 ですが、陛下を襲ったという者達は東州候の手の中ですし、彼らがわたくしの名を出したというのなら、お疑いになるのも無理はないでしょう。
 あの当時、わたくしがあなた方を監視していたのは事実なのですからね」
 まるで他人の事を話すように淡々とした口調で、筝は笑った。
 「濡れ衣を晴らそうとは思わないのか?」
 わずかに眉を寄せるカナタに筝は答えず、ただやせ細った指でこけた頬をなぞった。
 「・・・・・・わたくしは、本当のことを申しました。
 陛下方を襲ったのは私ではない。誰が彼らを仕向けたのかなんて、知るはずがない、と。
 ですが、陛下も王世子殿下も、わたくしをお信じにはなりませんでした」
 凛とした微笑を浮かべて、筝はふと目線を上にあげた。
 明り取りの窓すらない闇の中を、力なく飛び回る虫の羽音が聞こえる。
 一夜ごとに近くなる冬の気配に怯え、震えているかのようだ。
 その様を、どこか諦観を感じさせる目で見つめながら、ふと筝は漏らした。
 「少々、策に溺れました。
 南州候のご高意により、非才ながらもりたてていただいたものを、たまさか峭州征定の折、下策が通りましたのをおのが実力とうぬぼれ、末席を汚した罪はあきらかにて――――――」
 「そんなことは聞いてないんだよ、俺は」
 筝の長広舌をぴしゃりと跳ね返して、カナタは鉄格子の向こうに鋭い視線を注いだ。
 「さっきから、俺が聞いているのはあなたの本当の気持ちだ。
 出たいのか、出たくないのか、どっち?」
 答えかねて、曖昧に首を傾げる筝に、苛立ったカナタは烈しくまくし立てた。
 「出たいなら出たいって、はっきり言ったらどうなんだ?
 いつも曖昧に真意を隠して、はたで見ているだけでいらいらするよ!
 あなたがはっきり言わないなら俺から言わせてもらうけど、別に俺はあなたのことを思って言ってるんじゃない。
 俺は南州候の立場がいよいよ苦しくなって、英利が終始暗い顔をしているのが嫌だし、英士が神経質になってつっかかってくるのがうざったい。
 それ以上に、あの白猿が玉座を手に入れるのがムカツク!
 だから俺は、あんたにここを出てもらって、反王世子派の樹立に協力してもらいたい。以上!」
 言い終えるや、ふんっと鼻を鳴らして傲然と腕を組む。
 その様子に、筝はしばし呆気にとられ、やがてたまりかねたように笑い出した。
 笑声は一度口から出てしまうと、自身の意思の力などでは容易に抑えかね、筝は延々と笑い続けた。
 これほどまでに笑う筝を、カナタは知らない。
 横柄に腕を組んだまま、呆然と見つめていると、筝は目の端に涙を溜めて、ようやく笑い止んだ。
 「本当に・・・裏表のない方だこと・・・・・・」
 未だ声音に笑声を込めながら、筝は苦しげに言う。
 「それに、ご存知かしら?
 今の貴方は、とても地精王閣下に似ておられました」
 途端、カナタが妙に引きつった、忌々しげな表情を浮かべたので、筝はまた笑いの発作に囚われてしまった。
 そしてようやく笑いを収めると、筝は威儀を正してカナタに向かった。
 「永く南州候の禄をはんできたものとして、茱(シュ)家を見捨てるわけにはいきません。
 非才なる身に何ができるとも思いませんが、微力を尽くさせていただきます」
 筝の微笑みを受けて、カナタはちらりと苦笑を浮かべる。
 「さっきの『ジジィ似』っての、取り消してくれたら、ここから出してやるよ?」
 「あらあら。わたくしは正直者ですので、自身の心は偽りかねますわ」
 いけしゃあしゃあと放言しながら、筝は立ちあがり、鉄格子の間近まで歩み寄った。
 「今回は、あなたのお力に縋りましょう。鍵をくださいまし」
 微笑みながらも真摯な色が含まれた声に、カナタは軽く頷いて懐の中の鍵を取り出した。
 「高価いよ」
 笑い含みの一言に、筝は頷きを返す。
 「もちろん、このご恩はお返しいたしますわ」
 自信に満ちた笑みを浮かべ、昂然と顔を上げて、筝は暗く冷たい牢を後にした。


 峭州に比べれば遥か南方にある東蘭国の首都・佳咲(かしょう)には、未だふわりとした秋の気配が漂っている。
 東蘭はもともと、気候の穏やかな国だ。
 その州のほとんどが海辺にあり、どの国よりも丈夫で速い船を造ることができるため、大地が乾ききった時も、民が餓死するということはなかった。
 しかし海に面した国のさだめか、この国は常に外寇にさらされてきた。
 世界広しといえども、東夷や南蛮、南薔、果ては西桃と、西戎を除く国々と一再ならず刃を交えたことのある国は東蘭だけであろう。
 それらの戦で、王を失ったことも一度や二度ではきかない。
 歴代王朝の中には、戦で王と王世子が同じ戦場で散ったために滅んだものもある。
 が、不思議と外寇の際に、味方の裏切りによって斬られた王はいなかった。
 西桃においてはむしろ、敵より味方に気をつけろという言葉があるほどだが、たとえ君側にあって簒奪を狙う者があったとしても、王の背後を襲おうという概念が、まったく頭から抜けているかのように、彼らはいくさ場においてだけは団結を見せたものだった。
 そんな、不名誉なばかりの前代未聞、史上初の事件は、東蘭王国第二七代国王・采(サイ)の身に降りかかった。
 事件を引き起こしたのは、彼の宮廷において『大司馬』の位を受けていた男、筐(キョウ)である。
 彼は、もとは現王朝の元勲を祖先に持つ名家の生まれで、『先祖は偉大でも子孫が偉大とは限らない』という言葉を全身全霊でもって証明できる男だった。
 体躯だけは大きく、立派であったが、その身体を動かす頭脳がまったく機能していない。
 『戦場においては怯惰(きょうだ)、宮廷においては不遜、市井においては傲慢』という評価が適切な男である。
 そんな彼が大司馬という、軍の最高権力を握る地位に就けたのは、彼の父の功績と、采と蟷器の企みによるものだった。
 筐家は代々武人として蘭家に仕える家で、大司馬はこの家の家業とも言うべきものだった。
 しかし、二六代・杲(コウ)王の妻、李氏が、遊女の産んだ子・采を排除しようと兵を興した際、彼の父は王妃を諌めて誰よりも早く殺され、彼の支配下にあった軍を奪われてしまったのである。
 采と蟷器は、李氏に刃向かって殺された人々の霊を慰めると同時ににその遺族を取立て、采王朝の基盤を確固たるものにしようとしたのだった。
 そこで、父の死と同時に大司馬の位を継いだにもかかわらず、李氏側にすら『無能者』とあざけられ、無視された筐家の惣領息子を改めて大司馬に据えたのには訳がある。
 采は、血統に一瑕(いっか)もなく、臣下の信頼厚い王だとはとても言えない。ために、有能で野心あふれる男に大司馬という大任を渡すことはできなかったのだ。
 采にとって、心を分かち合える唯一の男は蟷器だが、誇り高い将師達は若い平民の下に就くことを潔しとせず、蟷器もまた、大司馬の位に就くことは嫌がったので、采は無能非才の筐を大司馬に据えたのだった。
 所詮、軍を率いるのは采であり、彼に策を授けるのは蟷器だ。
 大司馬の位には、采の考えに口を挟まず、他の臣下達がとりあえずは文句を言わない無難な男を就けようと、二人は企んだのだった。
 ところが采は、そんな匹夫に殺されてしまった。
 蟷器の怒りは尋常でなく、王妃・緻胤より臨時に大司馬の位を賜るや、素早い行軍と鋭い指揮の元、あっと言う間に前・大司馬を囚えてみせた。
 更に蟷器は、筐を獄車に入れたまま東へ駆けつけ、東夷に占拠されつつあった淘州を解放し、返す刀で渤州に立てこもった東夷を蹴散らしてしまった。
 たとえ采の死に呼応して挙兵しようとした者があったとしても、それは蠢きすら見せる間もなく、東二州が瞬く間に鎮圧されるのを指をくわえて見ているしかなかっただろう。
 しかし、諸侯の感嘆も、解放された民の歓呼も、蟷器にとっては空しいものでしかなく、この声は采が受けるべきものであったのにと思うと、女ごときのことで筐の怨みを買った己が恨めしい。
 渤州城の見張り場から、東海の向こうに霞む東夷の島々を睨みながら、蟷器はさらにきつく眉根を寄せた。
 采の訃報が届いて以来、その愁眉が開かれたことはなく、そんな彼に兵卒達も声を掛けかねている。
 そんな時である。
 蟷器の元へ、緻胤王妃からの書状が届いたのは。
 やたらおどおどとした兵士が蟷器に書状を渡すや、彼はものも言わず封を切った。
 巻紙に並んだ字は、丁寧ではあったが女にしては大きく、柳のような、というより大岩に刻された碑文のような力強さがあった。
 その文字にさっと目を通して蟷器は、初めて笑みを浮かべた。
 笑みというよりそれは微苦笑と言うべきものだったが、蟷器を見つめていた者達は指揮官の久方ぶりの笑みに、痛いほど張り詰めていた緊張感がふと緩んだ。
 「閣下、何が書いてござったか」
 さりげなく将軍の一人が問うと、蟷器は笑みを深めて書状を手渡した。
 「敵わんな」
 呟くと、きびすを返して階下へ続く石段を降りていく。
 その背を唖然と見送った将軍達は、その視線をふっくらとした色の紙に落とした。
 忌中ゆえに、墨跡は涙のように淡かったが、その手蹟は女とは思えぬほど力強い。
 彼女になら王都を任せても大丈夫だ、と安堵し、将軍達は額を寄せて王妃の文字を目で追った。
 曰く、
 『枢蟷器殿、ならびに将軍方へ。
 淘州、渤州の鎮護成り、重畳にございます。
 渤州候もご無事で何よりと、お伝えくださいませ。
 ですが、淘州候はともかく、渤州候は急疾により東夷によって州城を奪われたと聞き及びました。
 それが真実ならば、候には渤州はさぞ恐ろしい所でございましょう。
 都に国官の位を用意します。
 今後はお心安く暮らせるよう、取り計らうとお伝えくださいませ。
 渤州は東夷を防ぐに主要な州でございます。
 将軍方には合議され、もっともふさわしい方を渤州候に推挙戴きますよう、お願い申し上げます。
 その後は速やかに、王都へお戻りくださいませ。
 王師が留まり続ければ、民は不安に思いましょう。
 これはいわば、夫を殺されたわたくしの私怨を、王を慕う皆様が晴らしてくださったというだけの私闘でございます。
 徴兵された者達にとっては、不本意なばかりの遠征でございましょう。
 どうぞ彼らをねぎらい、王都までお連れくださいませ。
 わたくしからも皆をねぎらい、巧にふさわしい恩賞をもって報いたいと存じます。
 皆様方には不公平のないよう、巧を並べてわたくしにお見せくださいませ。
 取り急ぎ用件まで―――― 』
 最後には王妃の御名御璽。
 東蘭王亡き今、王妃の御名御璽は奥宮のみならず国をも治める。
 将軍達はなんとも言えない表情を浮かべて目を見交わし、誰ともなく苦笑した。
 「確かに、女傑でいらっしゃる」
 「渤州侯は、今?」
 「自室で療養中でござる」
 「もう、枢閣下が捕らえておいでではないかな?」
 「いや、あの方のこと、ゆかれたのは食料庫であろうよ」
 「さっそく酒宴の準備か」
 低く笑いさざめくと、彼らはふと表情を消した。
 「―――― わしが行こう。
 逃げるようなら、首だけになってもひっとらえる」
 小さな瞳に剣呑な色を浮かべた老将軍を、白いものが混じり始めた黒髪を撫で上げながら、壮年の将軍が制した。
 「おまちください。
 ここで奴の首を取る事は容易ですが、それでは妃殿下の御意を踏みにじるようなもの。
 州侯と彼に同心せし者達を王都に連行し、裁きにかけてからでなければ、まさにこの戦は私闘と呼ばれますぞ」
 毅然とした声に、老将軍は渋々ながら頷いた。
 「では、お主がゆかれるか?」
 だが、彼はゆるく首を振る。
 「それがしはいけません。もし州侯が抗い、己を正当化しようものなら、かっとして一刀のもとに斬り伏せることでしょう。
 ―――― のう、芥(カイ)殿」
 将軍の声に視線を寄せた将軍は若い。
 筋肉隆々とした偉丈夫ではなく、すっきりとした長身の背に褐色の髪を流した美丈夫である。
 剣環を鳴らして身体ごと将軍に向き直ると、黙って拝聴の姿勢を整えた。
 「芥殿、お主がいい。
 お主なら、奴がどれほど腐った言葉を吐こうとも、激昂して首を取る事はなかろう」
 将軍の言に、老将軍をはじめ、他の将軍たちも深く首肯する。しかし、
 「若輩者でございます」
 呟いた声は、成人した男のそれよりやや高い。が、居並ぶ将軍達の鋭い視線を受けながら、落ち着きはらって会釈する物腰には一分の隙もなかった。
 「わしも、お主が良いと思う。
 わしらは長く軍中におる、無骨者ぞろいじゃ。お主のように、うまく感情を隠して引導を渡すことはできん」
 断言する老将軍に、芥はちらりと苦笑した。
 「それは、お褒めいただいているのでしょうか?」
 「褒めてはおらん。ただ、適材適所だと言っておるのだ」
 かかと大笑して、老将軍は芥の肩に手を乗せる。
 「お主に任せる。―――― もし奴がお主を侮るようでも、耐えてくれような?」
 やや気遣わしげな声の老将軍の手を、芥はやんわりと押しのけて頷いた。
 「女ゆえに侮られることは慣れております。今更何を堪えましょうか」
 飄々と言って、芥は老将軍に軽くこうべを垂れた。
 「ご信頼いただき、うれしゅうございます。妃殿下のおんためにも、必ず渤州侯を捕らえてまいります」
 言うやくるりときびすを返し、階下へ降りていった。
 その背中を見送り、老将軍が吐息を漏らす。
 「まったく、惜しいことじゃ。あれが男であったなら、これほど動きにくいことはなかったであろうに」
 しみじみと呟くと、『失礼ですよ』と諌める声がある。
 「権門出身でもないのに、彼女が将軍に取立てられたことで、芥家は隆盛したのですから。女と侮ることはできませんぞ」
 武人とは思えぬほど柔らかい口調で、禿頭(とくとう)の将軍が苦笑すると、老将軍は苦々しく口を曲げた。
 「わしは侮ってなどおらん。ただ、女だというだけで、あ奴の腕を信用せぬものが多いと憤っておるのだ」
 むぅ、と口を尖らせ、彼女の去った階下を見やる。
 「そう、あ奴だけでなく・・・・・・」
 言いかけて口をつぐんだ老将軍の後を継ぐように、将軍は禿頭を軽く下げた。
 「お忘れですか、御老。采陛下に玉座を与えたのは、今より若かった彼でござるよ」
 女と見まごうばかりに麗しく、文弱に見えた青年が兵を興した時、彼らは皆、鼻で笑ったものだ。
 『妓楼育ちの小坊主と男装した妓女に何ができるか』
 そう言った者の中には件の老将軍もいたが、彼と他者の違うところは、ただ嘲っていたのではなく、
 『いくらなんでも力不足だろう。協力させてもらえないか』
 と申し出たところだった。
 東蘭に生まれた者として、西桃出身であった前王妃の専横が許し難かったこともあり、また、強大な敵を相手に蟷螂の斧を振るって見せようという、武人ならではの意気込みに、年甲斐も無く血が滾ったせいでもある。
 当時鎮南将軍として、南蛮の前に立ちはだかっていた彼を、采は快く受け入れ、進軍の先鋒を任せたのだった。
 そんな彼が、蟷器の智謀を忘れるはずがない。
 なにしろ蟷器は、彼の『蟷螂の斧を振るう』という言葉に触発されて、改名したのだから。
 自分のことを『じいさま』と呼ぶ青年の声を思いだし、ふと口元をほころばせた老将軍の耳が、遠く歓声を捕らえた。
 「始まったようですな」
 目元にしわを寄せて、禿頭の将軍は微笑んだ。
 賑やかな楽の音も混じり始め、それは州城の外にまで広がっていく。
 「あ奴らしくも、盛大なことだな。酒蔵の酒を、全て出したのじゃないか?」
 軽く声を上げて笑いながら、老将軍は城壁の側に寄り、ひょいと身を乗り出して下を見やった。
 分厚い壁の頂点は、下が良く見渡せるよう、扇状の曲線を描き、その淵を滑らかに磨いてある。
 外観を気にしての造作ではない。
 進入してこようとする敵に手がかりを与えず、油を流して上ってこれないようにするためのものだ。
 渤州侯の裏切りは、この濡れてもいない障壁を見ても明らかだった。
 「おぉおぉ・・・楽しそうじゃな」
 「あれは・・・我らも早く行かねば、飲み損ねるのではありませんかな?」
 城下の大盤振る舞いを気ぜわしげに見渡す禿頭の将軍の背後で、穏やかに笑う声がある。
 「戦にも遊びにも政にも、加減というものがない。
 面白い男を、お孫様にお持ちでござるなぁ―――― 樹(ジュ)侯?」
 からかうような口調に振りかえり、老将軍はせいぜいしかつめらしい顔をして見せた。
 「孫娘の、婿じゃ。わしの孫ではない」
 そうは言いつつ、老将軍はまんざらでもない様子である。
 樹家当主の位―――― 岫州侯(じゅしゅうこう)の位は息子に譲ったものの、文弱な息子は北の州に引きこもって風雅三昧。
 その上、子供も娘ばかりとあっては、安心して死ぬこともできない。
 常々そう思っていた老将軍は、一番上の孫娘である杏嬬(アンジュ)が結婚したと聞いた時も、どうせ息子が選んだ貴族の子弟だと思い、鎮南将軍の役目を盾に、式に出席もしなかった。が、先王の遺児を旗印に挙兵した男が孫娘の夫だと知った時には驚いた。
 それでも実際に彼に会う前は、人の噂を信じ、ちょっと頭と顔がいいだけの若造がうぬぼれたか、州侯の位に目が眩んで世間知らずの孫娘を騙したのだろうなどと、悪い想像を巡らしていたのだが、采の軍中で出会った彼は、文弱と評した者達の目をくりぬいてやりたいと思うほど凛然としていた。
 しかも、決して礼儀知らずの若造などではない。
 天球の軍神と見まごうばかりに毅然としているかと思うと、人懐こそうな笑みで『じいさま』と呼ぶ。
 それとなく侯位への野心など尋ねると、『一州の長などで満足はしない』と、堂々と言い放つ。
 杏嬬の祖父だと告白しても、『本当にじいさまだったんだな』と、それ以上の感慨を述べず、以後も態度が変わることはなかった。
 ―――― つまりのところ、彼は蟷器を気に入ったのだ。
 ・・・・・・妓楼で派手に遊んでいると聞けば、たまに怒鳴り込んでいくこともあったが。
 「卿(けい)らも下に行ってはどうだ?
 あ奴のこと、遊びだろうが烈しく、容赦が無いぞ」
 間もなく酒がなくなるな、と、脅してみせると、将軍たちはさも悲しげに老将軍を見やった。
 その顔があまりにも情けなく、心もとなげなのに、老将軍は吹出してしまった。
 「卿ら、ここはこの老骨に任せて行くがよかろうよ。
 おぬしらがしたたか酔うまでには、芥も戻ってこようからな」
 一瞬、硬い視線を交わした男達は、次の瞬間には破願し、頷きあった。
 「ではお言葉に甘えて」
 「将軍も、お早めに」
 「卿らも、うちの孫に飲み負けるでないぞ」
 軽く笑いあって、将軍たちは老将軍に背を向け、一人残った樹は、改めて喧騒の城下を見下ろした。
 民をも交えての賑やかな酒宴に厳しい視線を投げかけ、蟷器の姿を探すが、当然のようにその姿はない。
 「泓河(コウガ)よ・・・・・・」
 今では彼の孫娘だけが呼ぶことを許された美名を投げかけ、老将は吐息した。
 「お前一人が、何もかも背負うことはないのだ・・・・・・」


 芥(カイ)はゆったりとした仕草で、渤州侯の私室を訪れた。
 私室、と言っても、そこは州侯だけに、ただの一室であるわけはなく、州城の最奥にある私館の最上階すべてが彼の私室だった。
 芥は私館に入る前に、全ての出入り口を密かに固め、自身は華やかな衣装を纏った女達を数人伴っただけで州侯の居室へと足を運んだ。
 「渤州侯。おいでですか?」
 閉ざされた扉の外から穏やかに問うと、中の近習が細く扉を開ける。
 「どうされました?」
 それ以上は開かない扉を前に、心底驚いたような口調を作って問いかけると、そこから覗いた近習の、小さな目がおどおどとさ迷う。
 「・・・・・・なんのご用で?」
 消え入るほどの声でささやく近習に、芥はことさら機嫌よく微笑んで見せた。
 「妃殿下より書状が参りまして」
 思わせぶりに言葉を切ると、扉の向こうで取っ手を握る近習がびくりと震えた。
 それを冷ややかに見つめる心を隠し、芥は嬉しげに笑って見せる。
 「・・・・・・渤州侯はお気の毒であったと仰せでした。
 つきましては、渤州侯をお慰めし、兵らの功に報いるため、酒宴を催せと。
 それを聞いた途端、枢閣下は飛び出してゆかれましたよ」
 せいぜい楽しげな声を作って、芥は渤州侯をおびきよせようとしたが、彼はのってこなかった。
 「・・・・・・主は気分が優れず、酒宴はご遠慮したいそうです」
 自分にしか聞こえないのではないかと思うほどかそけき声で近習が申し出ると、芥はやや大仰に驚いて見せた。
 「それはお気の毒に。
 蛮夷に囚われていたこと、さぞや口惜しく、情けなく、ご心痛であられたであろうと、推察申し上げます。
 ですが、さすがは妃殿下。州侯の心労甚だしきを察せられ、国官の地位をご用意くださった。
 州侯におかれましては、妃殿下にお礼言上奉り、我らと共に佳咲(かしょう)に赴かれますよう・・・・・・」
 途端、扉の向こうから甲高い悲鳴が上がり、芥は軽く伏せた顔に意地の悪い笑みを浮かべた。
 だがすぐに笑みを消すと、気遣わしげに声をかける。
 「どうされました?それほどにお加減が悪いのですか?」
 近習に向けた後半の問いは、そっと目を伏せることで無視されてしまった。
 「お加減が悪いのでしたら、無理にお勧めはいたしません。
 その代わり、わたくしからのお見舞いをお受け取りくださいませ」
 言うや、芥は半身のみ振りかえり、彼女の背後に控えていた女達を前に出した。
 その手は、色とりどりの花や果実が山と積まれた籠をささげている。
 「心ばかりの品にございます」
 さぁ、と差し出す女達を、近習は困惑げな上目遣いで見上げ、ちらちらと背後を振り返ってやがて、籠がすり抜けられるほどの幅に扉を開けた。
 ぬぅ、と差し出された、生っちろい、細い腕に、女の一人が籠を渡そうとした刹那、近習はもう一人の女に腕を掴まれ、外に引っ張り出された。
 わっと叫んでたたらを踏んだ近習の、男にしては小柄な身体を芥が鮮やかに宙に舞わせ、石の床に押さえつけた間に、彼を引っ張り出した女は、するりと扉の奥へ入っていった。
 それを見止めるや、芥は残った女達を目線で促し、彼女らがこの最上階を封鎖すべく散ったのを確認すると、近習に当身を食らわせて、扉の奥に消えた女の後を追った。
 芥が渤州侯の悲鳴を聞いて、それほど間を置いてはいなかったが、当然のようにそこに彼の姿はなかった。
 「・・・・・・胡蝶(コチョウ)・・・殿」
 ひそやかに女の名を呼んだ途端、隣の部屋から甲高い悲鳴が上がった。
 部屋どうしが横に繋がっていて、渤州侯は芥の声を聞くや否や次の間に隠れていたのだ。
 「胡蝶殿、こちらか?」
 脅すように声を低め、ゆっくりと剣環を響かせ行くと、動けないのだろう、同じ場所から立て続けに悲鳴が上がった。
 「失礼つかまつる」
 口元に剣呑な笑みを刷き、じわりと開けた扉の隙間から、仰向けに倒れた男が垣間見えた。
 その、幾重にもたるんだ喉元には、すっきりとした刃の切っ先が突き付けられている。
 芥は、それでも油断なく手を剣の柄に添えていたが、素早く扉の内側に滑り込んだ瞬間、目の前の光景に唖然と立ち尽くしてしまった。
 床に仰向けに倒れた男の、大きな腹の上に女が跨っている。
 優雅な衣装の、長い裾を腿まで捲り上げ、長靴を履いた容の良い足で、州侯の巨体をしっかりと床に縫い付けていた。
 「胡蝶・・・・・・」
 思わず非難めいた声を上げた芥に、女は宝石のように輝く翠の目を眇め、にっと笑って見せた。
 「遅いぞ、芥。もう少しで俺が仕留める所だった」
 女にしては低く、意外と太い声に、組み敷かれた州侯がぎょっと目を剥く。
 「仕留めないでください。それは、妃殿下のお仕事なのですから。それより・・・・・・」
 目のやり場に困るとばかりに、顔ごと目をそむけた芥を見上げ、女は声を上げて笑った。
 白い喉をのけぞらせ、身体中を震わせて笑う、その、派手な仕草・・・・・・。
 「きさまっ!!!枢蟷器か?!」
 「いかにも」
 言うや、たちまち笑声を収める落ち着きぶりも憎らしい。
 「なんの真似だ!!そのような格好で・・・!!わしを・・・わしを馬鹿にしおって!!」
 顔を真っ赤にして憤る州侯をその腹の上から見下ろし、蟷器は鼻で笑って見せた。
 「この辺りの田舎妓女より美しかろう?」
 色鮮やかな紅を引いた唇を歪め、蟷器は下から見ればこれほど憎らしいものはないだろう笑みを浮かべる。
 「恥を知れっ!!」
 まったくだ、と、芥は心中に唱和した。が、
 「主人殺しは恥ではないのか?」
 蟷器の冷え冷えとした声を耳にした瞬間、その肌が粟立った。
 恐れから、などではない。
 身を凍らせるほどの怒りが、彼女の身体を血流のように巡ったのだ。
 一方、恐怖に舌まで凍りついた州侯は、蟷器を見上げたまま微動だにせず、ただ脂汗をしとどに流すばかりだった。
 「命乞いなんてするなよ。
 きさまが醜ければ醜いほど、俺はきさまを嬲り殺したくなる・・・・・・」
 静かな声には、怒りによる熱はない。
 それだけに、彼が事実のみを淡々と告げていることを、芥も州侯も感じずにはいられなかった。
 凝然として蟷器に目を据える二人の目の前で、彼は口だけを笑みの容にした。
 「俺が、なぜここまでするのか分からないって顔だな?」
 眼下に見下ろした、脂汗にまみれた顔に語りかける。
 「あいつはね、俺にとっての海だったんだ・・・・・・」
 どこか遠い目をして呟く蟷器から、芥も州侯も目が離せない。
 二人の烈しい視線を集めながら、しかし、蟷器は微笑みさえ浮かべる。
 「あいつのおかげで、俺は自分の理想を現実にできた。
 あいつがいなければ、俺と言う魚は、干上がって死んでいたに違いない」
 蟷器が生まれた時、東蘭は西桃出身の前王妃によって、食い荒らされていた。
 賄賂が横行し、罪のない者が陥れられ、民は重税を課せられ、搾り取った財貨は王妃をはじめとする貴族達の贅沢のため、湯水のように浪費された。
 なのに誰一人、その現状を変えようとしないのだ。
 不満ばかりは声高に言うくせに、幼い蟷器が『王妃を倒せばいい』『貴族をなくせばいい』と言えば、慌てて彼の口をふさいで、恐る恐る周りを伺う。
 蟷器は、そんな卑屈な大人達を侮蔑せずにはいられなかった。
 後に、彼が首都の学院に入った時も、そこが貴族か金持ちの子弟、もしくは平民でもずば抜けて頭の良い者しか入れない学校だったため、成金商人の息子で誰よりも頭の良かった彼は、あらゆる人種から妬まれ、何度も嫌がらせをされたものだ。
 ために蟷器は、十代の終わりには既に、自分よりも頭が良く、人格に優れた者など存在しないことに気づいてしまった。
 それ以後、蟷器の目には世の中の何もかもがつまらなく見え、ただ死ぬまでの時間を無為に潰しているしかなかった。
 そんな時だ―――― 采に出会ったのは。
 「・・・あいつは錦縷楼(きんるろう)で働いていたよ。
 変な奴で、売られてきた娘達の話を親身に聞いてやって、帰りたいと泣く娘には、金を渡して帰してやっていた」
 妓楼の主人に見つかって、大声で怒鳴られながらも昂然と胸を張り、反論する大男に、蟷器の視線は吸い寄せられた。
 そのくせ、母親らしきたおやかな中年女が間に入ると、途端にうな垂れて母親に詫びを入れる。
 それがおかしくて、蟷器は彼を宴に誘った。
 『母上は南薔の女性か?なんと厳しく、毅然としていらっしゃることか!』
 爆笑する蟷器に、采ははにかんだ笑みをひらめかせ、名を名乗った。
 その名に『木』の字を持つのは東蘭の王族のみ・・・・・・。
 すぐに思い至ったものの、そのことには触れず、蟷器はその日、一晩中采と飲み明かした。
 帰り間際、翠蘭の名を得たばかりだった鈴娃(レイア)に、それとなく彼の母について尋ねると、彼女ははばかるように声を低め、『わたくしの先代にございます』と囁いた。
 思った通り、あの中年女が東蘭王により名を賜った名妓だったのだ。
 だが采は、知ってか知らずか、蟷器には一言もその出自を漏らさなかった。
 それから幾月かのち、病床にあった東蘭王がとうとう崩御した。
 王妃には子がなく、その側室も同様だった。
 見渡す限り、王族には次の王にふさわしい男子がなく、家臣達が途方に暮れていた時、王の側近が告白したのだ。
 ―――― 陛下には御子がござる。庶子にはござれど、確かに陛下の御子でございます。
 途端、王宮中が色めき立ったことは言うまでもない。
 王妃と王妃に与する者達は、『妓女の子など、誰の子だかわかるものか』と叫び、王妃に反するものはすぐにでも錦縷楼へ駆け出していこうとする。
 その喧騒は、あっという間に王宮を飛び出し、瞬く間に王都中に広がった。
 貴族から庶民まで、多くの人々が錦縷楼に押し寄せ、辟易した主人が金切り声を上げて門を閉めようとするその楼上で、蟷器はゆったりと酒を飲んでいた。
 『なんでこんなことになるんだ』
 困惑する采に、蟷器は鮮やかに微笑んだ。
 『お前はどうなんだ?・・・・・・この国が、欲しいか?』
 驚いて見返してくる采に、さらに笑みを深める。
 『お前にこの国をやってもいいぞ』
 采は、酒気に頬を染めた蟷器をまっすぐに見つめた。
 彼は、その言葉を酒の上での冗談と、笑うこともできた―――― が、笑えなかった。
 笑えば、この男は差し出した手を、あっさりと引き戻すだろう。
 「―――― 欲しい」
 考える間もなく、答えていた。
 彼が立つことによって、精霊王の恵みがなくなったこの世界で、東蘭の民がわずかでも希望を持てるのなら・・・・・・。
 交わした杯は、誓いと共に飲み干した。
 ―――― 決して互いを裏切らないという、誓いと共に。
 「兄弟以上に固い絆で結ばれて、生死を共にした無二の親友を、お前達がその薄汚い手で殺したんだ・・・・・・」
 闇精のように淡々と、事実のみを語る口調に熱はない。
 代わりに、ぞっとするような冷気が部屋中を満たすようだった。
 「だが、俺の怨みなんて、王妃や王子の怨みに比べたら、大したもんじゃない。そう思わないか?」
 蟷器の唇の端が、微かに上がる。
 そのさまを下から見上げながら、渤州侯はそれが微笑だと気づくのにしばしの時間を要した。
 「・・・・・・何が聞きたい?」
 渤州侯がようやく絞り出した声は、本人さえ意外に思うほど落ち着いていた。
 「逃げはせん。そこをどけ」
 落ち着けば、さすがに代々渤州を治めてきた家の当主である。
 立ちあがり、威儀を正した彼はただの肥満体ではなく、威風堂々とした巨漢に見えた。
 その前に立つと、比類ない美女に見える蟷器はいかにも頼りなかったが、本人は他人の目を気にするような男ではない。
 王のように傲然と州侯の前に立ち、悠然と刃を収めて腕を組んだ。
 「聞いてやる。全て話せ」
 あまりにも傍若無人な言いように、州侯はわずかに目を眇めたが、抗弁する労力を惜しんだか、蟷器を咎めることなく重い口を開いた。
 「お主も薄々察しておろう。
 あの采王を弑する者など、民や官吏の中にはいようはずがない」
 悔しいが、それだけは認めない訳には行かない。
 それほどに、その半生を市井で過ごした王は、人気が高かった。
 「いるとすればただ一派、前王妃と彼の方に与する者達・・・・・・彼の方の復権によって、利を得る者達だが・・・」
 座って良いか、と尋ね、州侯は蟷器が頷くのを待って近くの長椅子に腰を下ろした。
 「だが前王妃も、彼らの主だった者達も、俺が処理した。
 残ったのは、酒席で身の不遇を嘆くしかできない腑抜けばかりだ」
 言いながら、蟷器は何度も思い浮かべた顔をもう一度脳裏に描いた。
 その、皺の寄った頼りなげな顔・・・・・・。
 できるわけがないと、首を横に振った時、州侯は穏やかな口調で問い掛けた。
 「お主が思い浮かべた顔の中には、私が入っていたかね?」
 言われて、蟷器はわずかに目を眇め、州侯の福々しい顔を見つめた。
 「いや・・・・・・」
 そう呟いたきり、蟷器は押し黙った。
 彼の脳裏に、この男の顔が、不思議と浮かばなかったのだ。
 「・・・お主、忘れてはせぬか?
 いや、違うな。
 お主ほどの男でも、生まれながらの東蘭の民であるという呪縛からは逃れられぬということか」
 「東蘭の・・・呪縛・・・・・・?」
 「采王は誰に弑された?ここまで明らかなる証左を突き付けられ、まだ気づけぬのか?敵が前王妃の一派などと言う、わかりやすいものではなかったこと、おぬしら采王の一派が、一枚岩ではなかったということに」
 傍らで鎧が硬質な響きを上げたのをどこか遠くに聞きながら、蟷器は倒れぬよう、足を踏みしめた。
 だが、自身が、死人のような顔色をしているだろうことを自覚せずにはいられない。
 その証拠に、先ほどまで蒼白だった州侯が、ゆったりとした笑みを浮かべているではないか。
 「いや、無理もないか。西桃の血を受け、西桃流の生活に浸ったものですら、不思議と王の背後を襲うことを念頭に置かなかった。
 笑えることに、多くの臣下より怨まれていた王ですら、戦場では安んじていたと言う故事もある。
 采王ともなれば、なおさら背後の敵など見えまいよ」
 「・・・・・・お前には見えていたと言うのか、采の背を狙っていた者の姿が」
 蟷器の問いに、しかし、州侯はかぶりを振る。
 「東海に面した地に生まれ、西の匂いも嗅いだ事のない私に、どうしてそのような者が見えようか。
 ある者が、耳打ちしたのだ、『さすれば』と・・・」
 ―――― さすれば、王の背後を襲うものがあれば、勝利はたやすく得られるのではありませんか?
 采王に逆らう愚と、負けた時の不利益を説く州侯に、彼はそう言って笑った。
 彼もその時、初めて気づいたのだ。
 なぜ、東蘭に生まれた者は、主人の背後を襲おうとしないのか。
 だが、長く東海のほとりを治めてきた彼には、すぐに合点が行った。
 国は船、王はふなおさにして水先案内人。
 水精王が封じられた後でさえ、烈しく波打っていた東海は、船長と水先案内人なしに渡ることはできない。
 彼らを殺すと言うことは、残った船員達の・・・ひいては自身の死を意味する。
 海辺で、大河の川岸で、あるいは長大な水路が蜘蛛の巣のように巡る水のほとりに生まれた者達にとって、自身の安全のためにも、王は国と言う船を動かすためになくてはならない存在なのだ。
 ゆえに東蘭において、王朝を倒して自らの王朝を築き上げた王達の中に裏切り者はなく、その全てが戦の勝者、もしくは子のない前王に指名された者なのだ。
 それが当たり前だと・・・東蘭の空気を吸って育った民は誰一人として疑うことなく、皮膚のようにぴったりとその『常識』を身につけていた。
 「その・・・『ある者』とは?」
 采の周り、大司馬の周り、そして目の前の州侯の周りに、西桃の血を引くものは多いが、西桃の考えに染まったものは・・・いや、東蘭の呪縛から抜け出せるものはいない。
 親しい友人に西桃の人間がいるか、西桃で暮らしたことでもない限り、王の背後を襲うなどと言う考えは浮かびようがないだろうし、もし、そんな考えが浮かんだとしても、采を殺したいと思うほどに暗い情熱を抱く者となると、さらに思い浮かばなかった。
 だが、苦悶する蟷器に、渤州侯は冷ややかに笑った。
 「采王の身の回りには、そのような不貞の輩はおるまいよ。
 他ならぬお主が、注意深く排除して行ったのだからな」
 だが、と、州侯は言葉を継いだ。
 「おぬし、自身の背後を顧みたことはあるか?」
 「俺?」
 次第に落ち着きを取り戻して行く蟷器に、州候は軽くうなずいた。
 「大司馬・・・いや、筐(キョウ)の若造とて、最初から王の背後を突けなどと言われれば、怖じてそやつ自身を御前に突き出したであろうよ。
 だが、そうはならなかった・・・させなかったと言うべきか。
 奴は、そういった策略を用いるのが非常にうまい」
 「侯・・・・・・!!」
 彼の回りくどい言いように、芥が苛立って口を挟んだ。
 「はっきりおっしゃっていただきたい。あなたや筐の匪賊(ひぞく)めをたぶらかしたのは誰だ?!」
 「芥、この慮外者めが!!口を慎め!!」
 ぴしりと制され、芥は口をつぐんで州侯を見つめた。
 厳しい視線の先で、州侯はせっかくの大舞台を邪魔された役者のように投げやりに言い放った。
 「ウツだ」
 「何?」
 蟷器でさえも、とっさにその意味を掴めず、呆然と問い返す。
 「蔚。王宮の典医だ」
 「蔚・・・・・・?」
 「まさか・・・・・・」
 芥はその名に首を傾げ、蟷器は瞠目して州侯を見つめた。
 「なぜ奴が・・・・・・?」
 「なぜ?なぜも何も、おぬしの妻の、婚約者だった男ではないか」
 愕然とする蟷器を、州侯は怪訝に眉をひそめた。
 「知らなんだのか・・・?なんと傲慢な男よ」
 不快げに吐き捨てると、州侯は長椅子から立ち上がり、蟷器に歩み寄った。
 「おぬしのような頭の良いものでも、所詮は平民か。高貴な者達のどす黒さを、甘く見ておったな。
 覚えておけ。王宮の泥に頭まで浸かった者を侮ると、酷い目に遭うということを。
 わしからの、最初で最後の忠告だ」
 言って、追い越しざま軽く蟷器の肩を叩くと、州侯は芥の前に立った。
 「どこへなりと連れて行け。ただし、殺すと言うなら自刃させるくらいの気は遣えよ」
 死に臨んで居直ったのか、先ほどの怯惰(きょうだ)を脱ぎ捨てたような落ち着き振りに、芥の方が戸惑いを隠せないでいると、
 「待て」
 冷厳なほどに落ち着いた声が、州侯の退室を妨げた。
 「それだけか?」
 「何が」
 「たかがそれだけのことで、奴は王を弑したのか?」
 「たかが、か?
 まったくおぬしは、度し難い馬鹿者であったようだ。一瞬たりといえども、おぬしを認めたわしを恥ずかしく思う」
 ふん、と鼻を鳴らして、州侯は蟷器に背を向けた。
 「侯!!」
 蟷器は素早くその肩を捕らえ、州侯の正面に回って彼の歩を封じる。
 「どういうことだ?なぜ奴は、そこまで執拗に――――」
 「―――― 蔚家は代々、王の典医を勤めてきた家柄」
 蟷器の口上を、州侯は冷厳な声で遮っだ。
 「だが、精霊王の恵みのない世界で、医術を治め、医薬を手に入れることは、並大抵の努力で叶うものではない。
 それでもかの家は、領地を削ってこしらえた金で子供達を西桃に遊学させ、自身らの飲む水をも節して薬草を育てた。
 おかげで蔚家は、かつての隆盛など見る影もなく落ちぶれたものだ。
 そんな家にとって、州侯の姫との婚姻が、どれほど重要なことだったか、おぬしにわかるか?」
 北の岫州(じゅしゅう)は、東蘭でも一、二を争う豊かな州。
 西桃の文化に傾倒し、彼の国の緻密な細工物や美しい美術品を買い漁ることしきりだった岫州侯は、自身の愛する詩や音曲を理解し、西桃流の作法を身につけた蔚家の長男を殊のほか気に入った。
 また、岫州侯の一の姫が、『女華綾』と呼ばれるほど変わった娘であったため、侯も身分の差を不問にして、彼女を蔚家に嫁がせることに抵抗がなかったのである。
 「式の日取りも決まり、岫州侯の援助によってようやく息がつけるようになった蔚家だが、しかし、花嫁はどこの馬の骨とも知れぬ男に奪われ、援助の道は絶たれた。
 たしか、そのすぐ後に夫人が亡くなり、その後を追うようにして当主も亡くなったのではないかな。
 王宮に残った長男を除いて、弟妹は他国で働いているとも聞いた。
 おぬしが姫を奪ったことで、父母を亡くし、一族離散となったのだ。
 おぬしは、甲斐性なしの逆恨みと言うかもしれんが、わしは奴の恨みを買うても仕方ないと思う。
 どころか、それほどの事をしておきながら、虐げた者の名すら覚えておらぬと言うおぬしを、わしは蔑まずにはいられない」
 州侯の言葉に、蟷器は棒を飲んだように立ちすくみ、ただ蒼ざめてうつむいた。
 それは、かつて彼が、貴族たちに言い放った言葉だったのだ。
 勝利を重ねて采に玉座を渡し、知略を尽くして国内を治め、南蛮をも手に入れた。
 言うなれば、たかがそれだけにことで彼は国政をほしいままにし、かつて彼が批判した貴族たちの轍(てつ)を踏んでいる。
 そんな自身に吐気をもよおすほどの嫌悪を覚える蟷器に、州侯はさらに言葉を連ねた。
 「―――― しかし、奴はやりすぎた。この上の凶行は、止めるべきであろう」
 黒い瞳に憂色をたたえて、州侯はそっと息をつく。
 「奴は、主だった将軍が去った王都を攻めるつもりだ」
 州侯にとっては、この上蟷器を苦しめる言葉を吐く事は気の重い仕事だったろう。
 しかし、蟷器は蒼ざめた唇を歪め、一声、笑声を上げた。
 「枢・・・・・・?」
 驚き怪しむ州侯に、蟷器はさらに笑声を上げる。
 「狂ったわけではないぞ」
 未だ笑みを含んだまま、蟷器は州候を見遣った。
 「ただ、俺とて先手を取られっぱなしでは立つ瀬がないというものだ」
 「なに?」
 「王都を空けたのは、わざとだ」
 なぁ、と、芥を見遣ると、彼女は未だ強張りの取れない顔を無理に歪めて、笑みを作って見せた。
 「馬鹿な・・・。おまえ達の他に誰がいると言うのだ」
 この地を素早く治めて、王都に引き返すのであろう事は、誰もが当然のことのように考えていたことだ。
 その証左に、蟷器をはじめとする采王を支えた将軍達は、全てこの渤州城にいるではないか。
 だが蟷器は、既に憎たらしいほどの落ち着きを取り戻し、背に流れる黒髪を笑みさえ浮かべてかきあげた。
 「菎兪安(コン・ユアン)と萩翼軌(シュ・ヨクキ)の名を知っているか?」
 「誰だと?」
 記憶にない名前に、訝しげに眉をひそめる州候を、蟷器は軽く笑った。
 「どっちも無名だ、まだな」
 菎兪安は、万年下級官吏と、門下省の中ではかなりの有名人だったが、東海に面した州を治める渤州侯がそのような小者の存在を知るわけもない。
 さらに萩翼軌などと、どこの馬の骨やらわからぬ男を知るわけもなかった。
 この後、一人は蟷器の有能な補佐官として、一人は犬猿の仲ながら東蘭を支えた名将として、共に後世に名を馳せる男達であることなど、今の州侯には想像もつかなかった。
 その姿を、この時点で予想していたのは一人、蟷器のみ。そして、蟷器の言を信じた緻胤王妃だけだった。
 「この二人に王都と王妃を任せてある。
 うかつにも攻めてきた者達は、無事に帰ることができまいよ」
 長い黒髪をきりっと纏め上げ、女の服を無造作に脱いでいくと、その下から軽騎兵が纏うようなあっさりとした鎧が現れた。
 「ここはうちのじいさんに任せて、あんたは俺と同行してもらおうか。王妃は残酷な女じゃないから安心しろ。腕のいいのを雇って、殺る時は一気に落としてくれる」
 蟷器は親指を立て、首の前で横に引いて見せる。
 が、州侯は今更顔色を変えるような事はなかった。
 「知っている。ゆえに、我が民にはお怒りを向ける事はないだろうと、信じている」
 「それは信じてもいい。ついでに親族の無事もな」
 足元にわだかまった女の服を蹴散らして蟷器が扉に向かうと、州侯は黙ってその背後に従った。
 芥がその後ろに立ち、扉を出たところで、彼女が全ての出入り口を固めさせていた女達が三人の周りに集まってくる。
 「そろそろ来るだろうか?」
 女達に囲まれるようにして歩いていた蟷器が背後に呟くと、州侯を飛び越えて芥が曖昧に首を傾げた。
 「どうでしょう?私はその、蔚とやらのことを存じませんので、彼がどういった用兵をするものか、見当もつきません。閣下は、どうお考えですか?」
 自身の考えを保留して上司の顔色を伺う。
 文官がよく使う姑息な手だが、芥の口調はまったく困り果てた様子で、本当に判断がつかないのだと訴えていた。
 「そうだな。俺はもうすぐ、王都に乱ありと、急使が来ると思う」
 振り返り、にこりと自信ありげに笑う顔に、先ほどまでの屈託はかけらもない。
 敵を見定め、己の非を悟った後は、素早く立ち直って目の前の事柄に集中できる男だった。
 「今まではまんまと奴の手の中で躍らされたが、今度はこっちの番だ。せいぜい踊り狂うといいさ」
 蟷器が、冷たく笑った瞬間だった。
 「閣下!!将軍!!」
 階下で騒ぐ声があって、蟷器は笑みを深くする。
 「ほらな?」
 その読みの深さと正確さに、芥と州侯が凝然と固まっていると、階段を駆け上がってきた兵が訝しげな視線を二人に送りながら蟷器の前に立った。
 「王都に攻め入った者がいましたが・・・・・・」
 彼の言葉が既に過去形であるのに気づいて、蟷器はにやりと口の端を曲げた。
 「翼軌は殺さずに補らえただろうな?」
 先に彼が言うべきことを言った蟷器に、兵士は深く頷きを返した。
 「首謀者は中書令閣下であったと、報告が参りました。太后陛下と東蘭王陛下はご無事だそうです」
 一瞬、違和感のある言葉に蟷器の思考が止まった。
 それは中書令の事などでは決してない。
 彼の叛意など、とうに知っていたことだ。
 そうではなく、もうひとつの・・・・・・。
 「そうか、緻胤殿下はすでに、太后陛下におなりでしたね」
 「幼子が王では、ご心労も多いことであろうな」
 芥と州侯の言葉に、蟷器はぎこちなく首を巡らせる。
 「傑が・・・王・・・・・・?」
 その事実を今、初めて知ったような口ぶりに、芥と州侯は状況も忘れて顔を見合わせた。
 「枢閣下が、擁立されたのでしょう?」
 訝しげに眉を寄せる芥を、蟷器は不審げに見やる。
 やがて、
 「あぁ、そうか・・・・・・は、死・・・だんだった・・・・・・」
 どこか虚ろな声で呟いて、蟷器は伝令の兵士に向き直った―――― その時には既に、いつもの冷静な顔に戻っている。
 「全軍にこの事を知らせろ。ただし、戻るのは明日だ。今日はこのまま宴を続けるように言うがいい」
 「よろしいのですか?」
 走り去る伝令の背を見送りながら不安げに問いかける芥に、蟷器は振り向きもせず頷く。
 「今ごろ菎が、翼軌の捕らえた者達の処理をしているだろう。奴に任せておけば、二日後には反乱に関わった全ての者達の目録ができあがる。
 捕らえる相手がわかってから一網打尽にした方が効率がいい」
 蟷器の言葉に、渤州侯は憮然と眉をひそめた。
 大逆の罪人とはいえ、人は人。
 命の重みをまったく無視して、数字と効率のみを口にする蟷器に、生理的な嫌悪を覚えずにいられなかったのだ。
 だがそんな彼の表情を――― 背を向けたままの彼に見えるはずもないのに――― 読み取ったかのように蟷器は振り向いた。
 「世の中は馬鹿ばっかりだ」
 秀麗な顔に憎悪を漲らせて、蟷器は呟いた。
 「目の前の利得に阻まれて、先を見通せない馬鹿。
 つまらない嫉妬に囚われて、他人の足を引っ張る馬鹿。
 多少の弱みを握られただけで、去就を誤まる馬鹿」
 反論しようと開かれた口は、しかし、蟷器の白い手によって阻まれた。
 「だが本当の馬鹿は、少々の功にうぬぼれ、足下に踏みしめたものの多さに気づかない者だ。
 命を数字で数える者、殺人を効率よく果たそうとする者。
 到底、珂瑛に眠る事など許されまいよ」
 向けられた笑みは憂いを含んで、州侯に言葉を喪わせた。
 「侯よ、あなたほどの方が、なぜ弑逆に荷担した?ただ妓女の息子と言うことが、それほどまでにあなたの矜持(きょうじ)を傷つけたのか?」
 言いながら蟷器は、再び彼らに背を向け、階下に続く段に足を掛けた。
 「・・・・・・渤州は常に、東夷の猛攻にさらされてきた」
 独白のように呟きながら、州侯は先に行く蟷器の背を見つめる。
 「奴らは自身らで作物を育てるということをしない。秋になれば奪う、それだけだ」
 それと東海を渡る商船の護衛。それだけが、東夷の島々の生活を支える。
 「州兵とて命は惜しい。戦わずにすむのなら、戦わないがいい。金で解決できるのなら、その方が楽だ。それが、この州の民の本音だ」
 呟きは、滑らかとは言いがたい音律で続いた。『苦悩』という名の音曲のように。
 「前王の時も、前々王の時も、いや、ずっと昔からだ。渤州候は・・・我が孛(ボツ)家は、東夷と結んでいた」
 彼の告白に、蟷器は一瞬足を止め、芥は息を飲んで立ちすくんだ。ただ、動揺を隠す訓練を積んだ女達だけが、無言で三人に付き従う。
 「仕方のないことだった。
 この州の富さえ渡しておけば、東夷どもはこの州を跨ぎ越し、他州へ行く。無人の村、刈り終わった畑を、少々焼いて。
 だが、王にそのような事が言えようか?
 これは、王に対する裏切りだと言うことくらい、私にも分かっていた。
 だが、他にどんな手があった?
 渤州は東の端。佳咲(かしょう)より王の援軍が来るまで、少なくとも十日はかかる。
 その間に、東夷は渤州を蹂躪し、多くの民が、刈り入れを待つばかりの作物が、無惨に狩られ、火をかけられる。
 東夷の刃は、貴人とて避けて通らぬ。
 私の曽祖父が自ら東夷に赴き、東夷の最も有力な部族の首長に膝を屈するまでに、我が一族の者のほとんどが奴らに殺されたと言う」
 歩きながらの長話に息が切れたのか、州候は一時立ち止まって、深く息を吐いた。
 「・・・―――― 奴に、それを知られた。
 渤州では、既に民の間でも暗黙の了解だった事だ。奴の穏やかな声と、優しげな笑みに騙されて、彼らは簡単に渤州の秘密を明かした。
 他州の者には、決して口を開かぬ者達がだ」
 再び蟷器の背を追いながら、州候は話し続けた。
 腹の中に溜まったものを、無理矢理吐き出すように。
 そして蟷器は、それに黙って耳を傾けた。
 州候の告白を助けるためか、彫像のように無機的な冷たさをもって。
 「奴はある日、偶然を装ってこの邸に現われた。何も知らなかった振りをして、東夷の首長と出くわしたのだ」
 ―――― まさか、このような所で。
 わずかに目を見開きながら、その唇には笑みが浮かんでいた。
 ―――― 東海の島々でも、身分の高い方とお見受けする。
 海上を照らす日差しに焼かれ、たくましく鍛えられた上半身には渦模様の刺青。髪は潮に嬲られて紅い。
 貝や鮫の歯を連ねた首飾りを幾重にも巻き、黒い瞳はぎょろりとして大きい。
 誰が見ても、彼が東夷の一部族の長である事は明らかだった。
 ―――― 渤州候。
 不穏な声は、もはや欺瞞の穏やかさに包まれることなく州候に突き刺さる。
 ―――― お話が。少々お時間をいただいても?
 否やと言えようか?
 歴然たる証左に言い訳もできず、州候は蔚という大蜘蛛の糸に絡め取られた。
 水面下で暗躍する彼の、木偶(でく)の一つとされたのだ。


 長い話を終えて、渤州候は深く息を吐いた。
 死ぬ前に、少なくともこの男に告白する事ができて、ずっと胸の奥にあったしこりが溶けたようだった。
 いつの間に着いたのか、蟷器の背から視線を外すと、彼は既に邸の玄関にいた。
 城壁の向こうで、消えかかった斜陽がわずかに空を焦がしている。
 先に立っていた蟷器が扉を開けると、涼やかな秋の風が吹き込んで、重かった彼の肺を洗い流すかのようだ。
 「・・・・・・枢殿」
 窓越しに紫紺の空を眺めながら、州候は呼びかけた。
 「緻胤王妃に・・・いや、太后陛下にお伝えくだされ。私が、この命を捧げてお詫び申したと」
 言うや、州候は傍らの女を突き飛ばした。その腰に差していた短剣を奪い取り、鞘を払ってその喉にあてるまでの一瞬、蟷器は振り向きざま、短剣を持つ彼の手を蹴りあげた。
 「なにを・・・」
 「ふざけるな!!」
 鋭い一喝に思わず身を竦めた州候を、素早く芥が取り押さえる。
 「貴様が死んだところで、采が帰ってくるわけじゃない!!王妃や王子を悲嘆の底に叩き落としておきながら、自分だけ楽になろうと言うのか?!」
 闇を深めていく空を背に、眦(まなじり)を吊り上げて怒号する彼は、天将のごとく州候を圧した。
 「采を弑したことを心から悔いていると言うなら、妃殿下の御前で今と同じ事を申せばよかろう。
 その上で罰せられることこそ、その罪を雪ぐことになるのではないか?」
 冷厳な声に、州侯は床に手をついたままうな垂れた。
 「・・・不明で・・・・・・あった・・・・・・」
 「やっと気づいたか」
 侮蔑の色が濃い声に、州侯は更に深くうな垂れる。
 「余計なことを考えず、おとなしくついて来い。妃殿下は、きっと公正に裁かれる」
 憎悪という感情を母親の胎内に忘れてきた女だから、と、憮然と呟く声を、冷たい床に崩れ落ちたまま州侯は受けた。床に張られた白い石の模様に目を据えたまま。


 東蘭王国の太后になったばかりの緻胤は、王都にあって、目の前で次々と起きる事件をただ見つめているしかなかった。
 夫が弑され、蟷器が討伐に向かうや、王都に攻め入るものがあったが、翼軌によって平らげられた。
 しかし緻胤は、瞬く間に流れて行った時を振りかえることもできず、夫の葬儀を取り仕切り、息子の戴冠の儀を采配して、息つく暇もない。
 各国より次々に訪れる弔問と祝賀の使者に会うのも仕事だ。
 疲れ果て、笑みを浮かべることもできなくなった頃、彼はやって来た。
 すっきりとした痩身に品の良い神官服を纏い、短く切った銀の髪を風にそよがせ、彼は颯爽と現れたのだ。
 その不思議な雰囲気に、思わず目を引き付けられた緻胤は、自分から彼の名を聞いた。
 「林彼(リンカ)と呼んでください」
 涼やかな声をあげて微笑むと、深海のように蒼い瞳がきらりと揺れた。
 「南薔のご使者であられましたね。母と姉は息災でしょうか?」
 太后の、必要以上に丁寧な口調に、側の者達は訝しげな視線を交し合った。
 まさか、この美しい青年を恋慕してしまったのではないかと、老臣が視線で問うのを、彼女の側に在った侍女が微かに首を振って否定する。
 あの枢蟷器に対しても、夫の友人と言う以上の感情を持たなかった王妃だ。
 男の美貌ごときに惑わされる女ではあり得ない。
 だが、と、太后の侍女、婀摩(アーマ)は訝しげに太后の横顔を盗み見た。
 太后は、珍しくも目の前の青年に興味を引かれているようだ。
 そう思い、改めて目の前の青年を見やる。
 彼は―――― 今更だが、太后の前に跪きもせず端然と顔を上げていた。
 酷い無作法だが、そのあまりにも自然な身ごなしに、礼部尚書さえも彼の無礼に気づいていない様子だ。
 穏やかな微笑を浮かべた白い顔は、女々しくはないが繊細な美女を思わせる美しさ。
 その周りを、絹糸のようにきらめく蒼銀の髪が覆って、人間と言うよりも人界に堕とされた精霊のようだ。
 彼が突然、鳥に変化して飛び立ったとしても、婀摩は誓える、決して驚きはしないと。
 それほどに、彼からは人の気配も男の匂いもしなかった。
 「姉上様はまもなく、南薔王の位に上られます」
 清流を思わせる音律に、太后は黙って聞き入った。
 何度か耳の奥で彼の言葉を反芻し、かなりの時間をかけてようやくその言葉の意味を掴んだ。
 「・・・・・・・・・・・・母は?」
 ようやく紡ぎ出した言葉は無残なほどに掠れ、臣下達の憐憫の視線が自身を包んだことにすら気づけないでいる。
 「母はどうしました?」
 今ごろは飄山で祭祀を行っているはずだ。
 南薔王になって初めての大祭。
 二十年以上、執り行えなかった祭りに、南薔はもちろん、東蘭、西桃までも昂揚感に包まれたと言うのに、その中心に在るべき母はどうしたと言うのか・・・・・・。
 既に周囲は察した事実を、太后は林彼の口からはっきりと告げられるまで、頑迷に拒んだ。
 拒むことで、目の前の青年が悪い予想を好転させてくれるのではないかと、ひたすら祈った。
 しかし彼は、ちらりと苦笑した後に言ったのである。
 「第三十代南薔女王陛下、精纜様は、飄山へ昇る途中、急疾(きゅうしつ)にて崩御されました」
 彼が軽く会釈したことで、その場の全員が、やっと彼が跪いていなかったことに気づいた。
 しかし、それを咎める間もなく、
 「陛下!!」
 悲鳴じみた声に玉座を振り仰いだ家臣達は、棒を呑んだ様にその場に立ち尽くしてしまった。
 太后は、玉座より立ちあがろうとしたのだろうか、その座に縋るようにして厚い敷物の上にうずくまっていた。
 共に壇上に在った侍女たちに支えられても、立ちあがることができないようだ。
 その中で、太后の周りを固めた侍女たちの間から、婀摩がすっと首を出し、宰相の姿を探した。
 三人いた宰相のうち、門下侍中・蟷器は戦に赴き、中書令は反乱の首謀者として捕らえられている。
 今、王宮を守る宰相は、尚書僕射(しょうしょぼくや)・朷令嗣(チョ・レイシ)ただ一人。
 婀摩はすぐにその姿を見つけたが、彼女のような小者は公の席で声を上げることすら禁じられている。ゆえに彼女は、見事な白髯の老宰相に素早く目配せした。
 しかし、蟷器のように機敏ではない彼は、しばらく婀摩の意を計りかねたように辺りを見回し、ようやく宰相が自分一人だと気づいて、陛下の一堂に向き直った。
 「・・・・・・妃殿下ご不調により、謁見はこれまでとする。皆、退出せよ」
 人見知りする質なのか、いやに小さな声でぼそぼそと言うと、自らきびすを返して出て行ってしまった。
 残された者達が呆然とその背を見送る間に、侍女達は意識がないらしい太后を抱えて玉座を下りてしまい、残ったのは訃報を持って来た南薔の使者と尚書僕射を除く朝臣だけになった。
 「妃殿下?太后陛下ではなく?」
 首を傾げて呟く使者に、礼部尚書が進み出た。
 「礼部尚書の位を賜りし、条雅崘(ジョウ・アロン)と申します、ご使者殿」
 凛として会釈する仕草は、『礼』を体現したかのように、見事に美しかった。
 「尚書僕射が失礼をいたしました。ところでご使者殿のご身分は?」
 太后を前に跪きもしなかった理由を問うているのだろう、彼の言は厳しく、部屋中にこだました。
 「下界には身分が必要ですか」
 失笑する振りをして、林彼は―――― いや、カナタは目の前に立つ男を観察した。
 王への弔いか、死装束のように白一色の衣を纏った身体は、文官とは思えないほどたくましい。
 しかしその年齢は、カナタの実年齢より少々若いように見えた。
 「南薔の礼は、東蘭とは少々違いましたか?」
 カナタの振舞いに憤らぬよう、自制するかのように低くなった声を、彼は笑って受け止めた。
 「私は飄山の中心、水の神殿に住まう巫子(ふし)です。
 精纜殿にもらった身分は、神祇官(じんぎかん)の上のー・・・なんだっけ、聖太師(せいたいし)?」
 整体師みたいだな、と思ったことを覚えている。
 「聖・・・・・・っ!!」
 条は息を呑んだまま硬直し、周囲に群がっていた諸官の中には小さく悲鳴を上げた者すらいた。
 「あ、でも私の身分は気にしないで下さい。
 飄山に入る必要があって、便宜上もらったものですから、本当の身分は薔家の居候のようなものです」
 やや意地悪く微笑みながら、カナタは居並ぶ諸官に視線を巡らせたが、それを真っ向から受け止められる者はいなかった。
 それもそのはず、南薔に特異の地位で、他のどの国にも存在しない『聖太師』は、政治を統括し、権力を行使する通常の太師と違って飄山のみを管轄し、実権を持たない。しかし、位を譲った女王か、大功のあった元勲とも言うべきものにしか与えられないため、その身分は時に、南薔王すら跪かせるものだった。
 そのような尊い身分を、このような青年が持っているとはにわかに信じがたい。
 しかし、条は『彼が・・・』と思わずにはいられなかった。
 前任者、枢蟷器以来、東蘭の礼部省は優秀な外交官が揃っている。
 彼らは他国の内情を正確に把握し、礼部尚書への報告を怠らない。
 そんな、整然にして効率的な体制を作り上げた蟷器に選ばれて、条はこの地位にいるのだ。
 精纜女王の聖大師が、元の東州侯でも南州侯でもなく、若い男であることは既に知っていた。
 「ご無礼を致しました、猊下(げいか)」
 聖職者に対する敬称をつけて、条が彼の前に膝を折った。
 南薔王を玉座から追う者はあっても、飄山の太師に膝を折らない者はない。それほどに、飄山の神殿は権威が高かった。
 礼部尚書の礼に、慌てて諸官も従う。
 しかしカナタは鷹揚に笑い、皆に立つよう促した。
 「飄山の管理人に、そう畏まる事はありませんよ。しかも本日、私は弔問の使者として参ったのです。あまり大げさにしないでほしい」
 「沙羅陛下のご命令で・・・・・・?」
 膝はついたまま、面だけを上げた条に、しかし、カナタはあからさまに眉を寄せる。
 「私は私の意志で参りました。彼女は関係ない」
 しかし今、彼は『使者』と言わなかったか。
 ひざまずく者達の、訝しげな表情に気づいたか、カナタは表情を緩めて頷いた。
 飄山の太師にしては、随分と気安い青年のようだ。
 「前王、精纜殿の使いでまかりこしました。こちらの王妃に言付けを、とのことでしたが・・・・・・」
 前南薔王を親しげに呼ぶ太師にぎょっとしながら、諸官は跪いたまま続きを待った。
 「お忙しいあまり、お身体を壊されましたか?」
 気遣わしげな声音に、諸官はこの青年をさらに訝しく思った。
 飄山の太師が山を下りてくるのも訝しければ、いくら血が繋がっているとはいえ、他国の王妃に南薔王の訃報を伝えにくるなどあり得ない。
 ましてや、王妃の体調を心配するなど。
 それほどに、彼ら『平地の者』にとって、飄山に住まう『上の方』は、まさに雲の上の人々だったのだ。
 諸官らが、喉を詰まらせたように黙り込んでいるのを、カナタは訝しげに見廻し、一番話のつきやすそうな礼部尚書に言った。
 「王妃が私とお会いくださるまで、滞在してもいいでしょうか?采王のお参りもしたいし」
 何気ない口調の申し出に、しかし、条をはじめ諸官は、俯けた口から心臓が飛び出すかと思った。
 慣例として、聖太師が滞在すべきは邪気に穢れた王宮ではなく、首都の最北にある大神殿である。更に言うならば、聖太師などというものは四人の皇帝と七人の精霊王にのみ仕えるもので、人界の王を弔問するなど前代未聞、非常識極まりない。
 だが、それを正面きって彼に言うことは、その場の誰にもできなかった。
 ―――― ここに枢閣下がいてくれたら。
 誰もが切実に思ったことだろう。
 彼ならば、この世間知らずの青年を怒鳴るなり諭すなりしてその考え違いを改めさせるだろうと。
 しかし、ここには彼らに的確な指示を下す男はいない。
 条は、迷いつつも決断した。
 「ここよりも空気の良い場所に、宮をご用意させていただきます」
 彼の言葉に、何人かはほっと吐息する。
 『空気の良い場所』とは、大神殿の事に他ならない。そして今はこの王宮内に安置されている采王の遺体は、数日後にはその神殿へと運ばれる。
 葬儀の時、『たまたま神殿に泊まっていた』聖太師が、『なんの騒ぎかと思って』覗きに来てもおかしくない状況を、条は必死に作り上げたのだった。
 もっとも、カナタが彼の真情を知ったならば、
 『たかが葬儀に出るってだけなのに、難儀なことだね』
 と苦笑しただろうが。
 この申し出に対してカナタは、丁寧に礼を述べた上に会釈までしたものだから、気の小さい官吏などは、床に額づいたまま、気を失いそうになったという。
 「では、お借りしていた部屋に人を待たせていますので、失礼します」
 にっこり笑って再び会釈するカナタに、条がふと尋ねる。
 「・・・・・・どなたをお供に見えましたか」
 聖太師の従者と言えば、南薔でも『上級神官』と呼ばれる貴族出身の巫女達であるはずだった。
 「茱(シュ)家の英華(エイカ)殿ですよ」
 さらりと出た言葉に、とうとう卒倒する者が出た。条も、とても平静を装ってなどいられない。
 「南州侯を?!」
 「はい」
 あっさりと頷いた青年に、、条は『どこのお坊ちゃまだ、アンタ!!』と、絶叫しそうになるのを辛うじて堪えた。
 そして、素早く彼が待たされたであろう、控えの間の状態を思い出す。
 南薔王の使いと言うことで、侍従もそれなりにいい部屋に案内したと思う。が、確信できる。彼の直前に訪れた、西桃の使者の方が、いい部屋にいたはずだ。
 条は、自身の顔から血の気が引いていく音を、呆然と聞いていた。
 彼は、最高の賓客を陛下に立たせ、最良の部屋に導き損ねたと言う、礼部尚書としてとんでもない失敗をしてしまったのだ。
 そのことを、目の前の人の良さそうな青年は気に留めていない様子だが、南州侯はこの無礼を決して許しはしないだろう。
 脂汗さえ出てきた条を、カナタは不思議そうに見つめる。
 「お加減でも?お顔が青いですよ?」
 ―――― 誰のせいだ、誰の!!
 それは跪いた官吏達全員の、一致した思いだったろう。
 しかし、条は蟷器の見込んだ男である。
 このくらいで倒れるわけにはいかないと、気力を振り絞って立ち直った。
 「数々のご無礼、もはやご容赦くださいとも申せませぬ。
 この上は、更なるご無礼のなきよう、末官(それがし)自ら接待申し上げる」
 「え?いいですよ、そんなの。お忙しいでしょうし」
 しかし、諸官は『そうはいくか』と、必死の形相でカナタを見つめる。
 「どうかぜひ!!」
 「行幸(ぎょうこう)もったいなく存じます!!」
 一種、剣呑な刺さえ含んでいる、否やとは言わせない迫力に、カナタは曖昧に首を傾げた。
 「お騒がせして、すみません」
 「いいえ!」
 図らずして揃った声は、大音声となって林彼に押し迫った。


 謁見の間を出たカナタは、諸官に囲まれるようにして、たいそう豪勢な部屋に押し込められた。
 そこには既に英華がいて、彼より先にかいがいしいもてなしに預かっていたのだ。
 「・・・なんなの、あれ。体育系?」
 彼が部屋に入って以来、引きもきらずに出入りする女官と侍従の群れを眺めながら、声を潜めて囁くと、英華は小さく笑った。
 「だから申しましたでしょう?ちゃんとご身分をおっしゃらなくては、と」
 同じく、声を潜めて笑う初老の女に、林彼は苦笑交じりの吐息を漏らした。
 「でも身分を言ったら、ここには入れなかったんだろう?」
 「おそらく、国境まで迎えがやってきて、我々が河を越えるや大神殿に連行されたでしょうね」
 そして最初から、腫れ物に触れるがごとく大切に扱われたことだろう。今のように。
 「俺、精纜さんの遺言を伝えるついでに、緻胤王妃を見に来ただけなんだけどな」
 「太后陛下、ですよ、カナタ殿」
 「皇太后??」
 「皇、など付けてはなりません。ただの『太后陛下』でございます。前王妃になられたのですから」
 太后に『ただの』は不適切だが、この世界において『皇』は神を表す。
 王族とはいえ、この文字を頭に頂く事は大変な不敬にあたるのだ。
 そう、言い聞かせると、カナタは何度も頷く。
 「難しいね、ここは。もう六年もいるけど、細々とした言葉が多すぎるよ」
 たとえば『厚生省』『総務省』などの、実用一点張りの役所名に慣れ親しんだカナタに、『鴻盧寺卿(こうろじきょう)』などという役職名は理解できない。
 やたらと曲線の多い蔓草のイラストのような文字が『寺』であると知って、『鴻盧寺』という寺の住職かと思ったくらいだ。
 しかし、ここでいう『寺』は、いわゆる寺院ではなく、『役所』のことだと言う。
 『九卿』という役職のひとつである鴻盧寺卿は、礼部省の実務機関で、賓客のもてなしを専門にする役職だそうだ。
 ややこしい役職名と難しい身分制度に、何度癇癪(かんしゃく)を起こしそうになったことか・・・。
 「ところで、その太后陛下には会えないのかな、筝(ソウ)殿?」
 「東蘭太后殿、とお呼びくださいね、カナタ様。あなたのご身分の方が高いのですから」
 笑い含みに言って、筝は微かに首を傾げた。
 今、彼らが移されたのは、王宮内にある一室だ。
 おそらく、西桃よりの使者を追い出して入れ替えたのだろう。室内にはかの国独特の、すっきりした香水の香りが残っていた。
 「そうですね。わたくしが、この部屋を追い出されてしまった西桃のご使者殿にお詫びに参りましょう。そうして、この部屋にいる者達のほとんどを連れて行きますから、英華様・・・緻胤太后陛下にお会いいただけますか?」
 気遣わしげな声に、英華は無言で頷いた。
 かつて、明るく華やかだった英華は、この六年の間に陰気と屈託を友とするようになっていた。
 何をしても、何を言っても沙羅の気に障り、烈しい舌鉾に攻められつづけて萎縮してしまったのか、今では滅多に話すこともない。
 言葉少なな主人に、一瞬、憐憫の視線を向けて、筝はカナタに向き直った。
 「日が暮れる前には、彼らは私達を神殿に送るでしょう」
 微かな声に、カナタは頷いた。
 「英華殿の侍従に化けて付いて行けばいいんだね?」
 カナタの濃紺の瞳が、いたずらっぽい光を宿す。
 「じゃあ俺、『皆いなくなって暇だからー』って、お風呂借りる事にする」
 にたり、とカナタが笑うと、英華が立ち上がった。
 「これ」
 英華の声に、立ち働いていた者達が一斉に足を止める。
 「太后陛下にご挨拶申し上げたい。ご許可を頂いておくれ」
 一様に顔を引きつらせる者達に、筝も向き直った。
 「わたくしも、西桃のご使者殿に会わせて頂けまいか。こちらを譲っていただいたお礼とお詫びを申し上げたい」
 「・・・ただいま」
 落ち着こうと自身を律し過ぎたか、必要以上に声を低めて、件の『鴻臚寺卿』が一礼した。
 そのまま退室した彼を見送るや、筝がてきぱきと残った者達を動かし始める。
 「そちらの絹布と宝玉は英華様へ。太后陛下にお持ちします。ああ、その箱もよ。螺鈿(らでん)ですから、乱暴に扱わないで。
 こちらの錦は、西桃のご使者へ。わたくしの方へ寄せてちょうだい。
 あら、待って。こちらの方がいいかしら?どうです、猊下?」
 ことさら騒ぎ立てて、侍女達や侍従達を走り回らせているうちに、出て行った鴻臚寺卿が帰ってきた。
 「小国の太后が、お会いするそうです。
 それがその・・・・・・聖太師猊下も、お時間がおありならばと・・・・・・」
 非常に恐縮した様子で申し出る鴻臚寺卿に、お気に入りの入浴剤なんぞ持ってうろうろしていたカナタは目を丸くした。
 「え?行っていいんですか、わたしが?」
 そんなことをしたら、あの生真面目そうな礼部尚書が怒り狂って怒鳴り込んでくるのじゃなかろうか。
 つい、そう言ってしまうと、彼は更に低くこうべを垂れた。
 「本来なれば、東蘭太后自らまかりこさねばお許しは頂けないものと存じますが・・・・・・」
 「いえいえ、そうじゃなくてですね!」
 鴻臚寺卿の言葉を慌てて遮って、カナタは苦笑した。
 こっちがいらぬ画策をするまでもなかったと。
 「行きます。こちらも用事があってきたのですし」
 でも、と、カナタは首を傾げた。
 「お加減が悪いようでしたよね?行ってもいいのでしょうか?」
 騙し討ちと急襲を同時に行おうとしていた男とは思えない、気の利いたお言葉である。
 しかし、鴻臚寺卿はどこか嬉しげに微笑んで頷いた。
 「ご心配なく。少々、貧血気味でいらっしゃるのです」
 「はぁ・・・・・・」
 鉄分不足だろうか、などと、カナタが見当違いのことを考えていると、
 「まぁ・・・もしかして?」
 「まぁ、ほんとに・・・」
 女達がなにやら頷きあっている。
 「なに?」
 カナタが訝しげに女達を振り返ると、
 「ご懐妊でしょう?きっと、生まれてくるお子は、采王の生まれ変わりでいらっしゃいますわよ」
 筝が笑い、鴻臚寺卿が頷いた。
 「それゆえ、ご面会は短かく願えましょうか」
 彼の言葉に快く頷きながら、女達はどこか浮ついた声でカナタを急かした。
 「早く、早く参りましょう、猊下」
 「どれほど大きくおなりでしょう。あぁ、そう言えば小さなお子もいらっしゃったはず。ぜひ陛下にもご謁見賜りましょう」
 なぜ子供となると、女達はこんなにも目の色を変えるのかと、カナタは呆れながらも珍しくはしゃいだ様子の英華に手を引かれた。


 それまで住んでいた後宮から、王が政務を執っていた正殿に引越ししてきた緻胤は、ある一室の床に座り込んでぼんやりと目の前にあるものを見つめていた。
 それは、青みを帯びた美石で作られた、大きな棺。
 人並み以上の体躯を持つ夫のために、特別にあつらえたものだった。
 意外にも穏やかな顔をした夫は、厚いビロードを敷き詰めたやわらかな寝台に、眠るようにして横たわっている。
 が、その皮膚は青黒くくすんで、硬く閉ざされたまぶたはぴくりとも動かない。
 腐敗を防ぐための部屋は、晩秋の気配以上に冷え冷えとして、彼女以外の存在を忌避しているようだった。
 「采・・・・・・」
 また一輪、秋の花を傍らに置いて、緻胤は夫に呼びかけた。
 「お母様も・・・亡くなったんですって」
 その頬に指を添わせると、氷に触れた様に指先が凍える。
 「あなただけだったら、この子はあなたの生まれ変わりだって信じられたのにね」
 もう一方の手を下腹部に当てると、波打つような鼓動に触れた気がした。
 「でもお母様は、私のことがお好きではなかったから、私の子供にはなりたくないだろうと思うけど」
 微笑んでも、目の前の夫は何も言ってくれなかった。
 「どうしたの―――― 声が、出なくなってしまった?」
 首を切られてしまったから、と、緻胤は虚空へ空しく呟く。
 討たれ、首を斬られた采の身体は、蟷器が取り戻し、医師達が洗い清めて、傷を縫い合わせてくれた。
 彼に服を着せたのは緻胤だ。
 東蘭王にふさわしい礼装を一分の隙もなく着せ掛けて、永遠の眠りに就いた彼を守るように花を手向けた。
 「葬儀は、蟷器が帰ってきてからですって」
 言いながら緻胤は、彼が帰ってこなければいいのにと思う。
 そうすれば、采の葬儀を行わずにすむ―――― いつまでも、一緒にいられる。
 日が経って、やや花弁の端が黒ずんだ花をいくつか引き抜くと、その数を数えた。
 五本。
 白い花は弔花のようで嫌いだから、ちょうど良かった。代わりに、夏の太陽のように明るい色の花を持って来よう。
 そう思って立ち上がった時だった。
 婀摩(アーマ)が部屋の外から声を掛けてきたので、扉を細く開けてやる。
 「妃殿下、お客様がお見えですよ」
 彼女はこれ以上、緻胤に心労をかけることがないよう、以前通りの呼称で呼んでいた。
 「お客様?」
 細い扉の隙間から、仔猫のように澄んだ声が返ってくる。
 「采じゃなくて私に?どんな方なの?」
 「妃殿下・・・・・・」
 婀摩は一瞬、不安げに喉を詰まらせたが、すぐにいつも通り、姉のような口調で言った。
 「貴女が呼んだんでしょ?聖太師様自らお越しなんですから、遅れるとひどい無礼にあたりますよ」
 せいぜいしかつめらしく唇を曲げて見せると、緻胤は慌てて部屋を出てきた。
 「やっ・・・やだ!!もうみえたの?!なんでもっと早く言ってくれないのよー!!」
 「殿下、走ったら危ないでしょ。歩いてください」
 駆け出そうとする緻胤の腕を掴んで、無理やり足を止めさせる。
 「だめよー!すっごく偉い人なんだから、待たせたりしたら、地獄に落ちちゃうわ!」
 ばたばたと駆け出す緻胤に引きずられて、婀摩もまた走り出す。
 「だから走らないでって言ってるじゃありませんか!かんざしが落ちますよっ!!」
 謁見の間を退室しても、緻胤は太后の盛装を脱いでいなかったので、彼女の褐色の髪はまだ飾り立てられたままだった。
 「だってー・・・」
 「大丈夫ですってば!まだ先触れが来たばっかりだし」
 「は?」
 緻胤が、ただでさえ丸い目を更に丸くした。
 「それを先に言ってよー・・・・・・」
 軽く睨むと、『言う前に飛び出して行ったんでしょ』と、婀摩が鼻を鳴らした。
 「いいから落ち着いて、ゆったり行きましょ。お部屋には、陛下が先にいらっしゃってますから」
 言って、しまったと婀摩が口をつぐんだ。
 緻胤にとって、いまだ『陛下』は采王なのだ。南薔人達の前で、玉座に就いた傑王を叱りつけ、追い払ったりしたらどうしよう。
 不安げに黙り込んだ婀摩を見遣って、緻胤は苦笑した。
 「あの子ったら、采に近づこうともしないのよ。最期のお別れなのに」
 ごく普通に言った緻胤に、婀摩は目を見張った。
 今の太后は、采王の死をしっかりと受けとめているように見える。
 あの冷たい部屋で、采王の遺体と共にいた時は、決して彼の死を認めようとしなかったのに。
 ようやく受け入れることができたのか・・・いや、もしかして・・・・・・。
 婀摩は知らず、緻胤の腕を掴む手に力を込めた。
 もしかして、これが狂気というものだろうか―――――。


 カナタと緻胤はこの日、二度目の対面を果たした。
 英華を聖太師と勘違いしたらしい緻胤とのひと騒動があったが、それが収まると彼女は感じの良い、穏やかな口調で彼らをもてなしてくれた。
 ―――― 沙羅の妹とは思えないね。
 あたりさわりのない会話をしながら、カナタは心中に呟いた。
 おそらく、他の二人も同じことを感じているはずだ。
 カナタはまず、精纜の魂魄が遺した言葉を緻胤に伝えた。
 『幸せに』という母の言葉は、少々時期が遅かったとも言えるが、緻胤は儚く微笑んで頷く。
 「母も、心残りが多かったことでしょうね」
 カナタの言葉を疑いもせず、すんなりと受け入れた緻胤に、カナタは笑みを返す。
 「緻胤殿は、彼らをごらんになったことがおありなんですね?」
 堅苦しい呼称を取り払うようになったカナタに、緻胤はふっくらと微笑む。
 「もちろんですとも。今も、お話ししてきたところですわ」
 その言葉を耳にした侍女達が、不安げに顔を見合わせるが、カナタはお構いなしにうなずいた。
 「そちらでは、灯りは消してらっしゃいますでしょうね?室温も・・・・・・」
 一体何を言い出すのだ、と、瞠目する侍女達に、ふっと笑みを漏らす。
 「できるだけ冷やしてあげないと、辛いばかりですよ」
 「・・・・・・灯りは・・・いけませんでしたか?」
 真摯に問う緻胤に、カナタはゆったりと頷いた。
 「傷を水につければしみるでしょう?それと同じで、肉の殻から離れてしまうと、感覚が鋭敏になるのです。
 ほんの少しの灯りでも目が眩み、ほんの少しの熱でも肌は焼かれるように痛みます。声は鐘のように響いて、何を言われているのかもわかりません。
 緻胤殿、ご夫君とお話なさりたいのなら、同じお部屋にいらっしゃる時は全ての明かりを消し、お声を潜められませ」
 まるで霊魂になったことがあるような口調だと、緻胤が言うと、彼は微笑を浮かべたままあっさりと頷いた。
 「生きていると、色んなことがありますよね」
 英華や筝さえも呆気にとられて沈黙を守る中、緻胤は一人、声を上げて笑った。
 采が亡くなって以来、初めてのことである。
 元々、屈託とは縁の薄い彼女である。笑っているうちに胸の中にあったしこりが解けて行き、息をついた時には自然な、穏やかな笑みが浮かんでいた。
 「ご助言ありがとうございます、猊下。本当に、生きていると色んな事がありますこと」
 まだくすくすと笑いながら、緻胤は深く頷く。
 「いえ、私こそ、この話をわかって頂けて良かった。じゃないと、いくら私が『遺言をもって来ました』と言っても、信じてもらえませんからね。
 緻胤殿はやはり、巫女の血を引いていらっしゃる」
 カナタが笑うと、あら、と、緻胤は目を瞬いた。
 「血を引いてないと見えないものなんですの?」
 「見える者もいるようですが、多くはないようですね」
 カナタの返答に、緻胤は頬に手を当て、『あらあら』と呟いた。
 「皆が、私を怪訝な顔で見るはずだわ。私以外の誰にも、采が見えていなかったのね!」
 息子も見えてないようなの、と、聖太師に気安げな口を利く太后の背後で、侍女達がさまざまな意味で顔色を変える。
 「あぁ、結構笑っちゃいません?魂魄は別のところにいるのに、死体に取りすがって泣いているの。
 違う違う、こっちこっち、みたいな」
 「そうそう。どこ見てるの、って思ったことが、何度もあるわ」
 外見上は同年代の二人である。
 談笑していると、仲の良い友人同士に見えた。
 「よかった、同意見の人がいて!南薔でこんなこと言うと、おばあちゃんが怒るんだ。『彼らには見えておりませぬゆえ、余計なこといわぬがよろしい』って。
 あ、東州侯のおばあちゃん、知ってます?」
 「いいえ、残念ながら。確か、蟷器が何度か会ったと思うけど」
 腰の軽い礼部尚書だった蟷器は、東州と引き換えに南蛮を手に入れるため、精纜や東州侯に会いに、何度か南薔を訪れたことがあった。
 「あぁ、あの美人の彼。お元気ですか?」
 「元気みたいですよ。もうすぐ渤州侯を伴って、ここに戻ってくるはずです」
 「それはよかった。実は彼と、またお会いできるのを楽しみにしていたんですよ」
 「蟷器と・・・?何かお役目上のご用事ですか?」
 緻胤は首を傾げた。
 蟷器の部下達は、彼を崇拝していると言ってもいいほどだが、采を除いて、彼を友人とできる男は存在しないと思っていた。
 それほどに、あの男は毒々しい。
 しかし、毒とは縁の薄そうな、清らかな青年は一笑して首を振った。
 「いえ、とても面白い方でしたので、またお会いしたいと思っていただけです。
 ですが、お忙しいようですし、お会いしたいなどと申してはご迷惑でしょうか?」
 にこりと、悪びれず微笑む彼の申し出を断る者がいるだろうか?
 緻胤は快く首肯し、蟷器が帰ったら知らせると約束した。
 「大神殿は今ごろ、林彼様のために心地よく整えられていることでしょう。本日はどうぞ、旅の疲れをお癒しください」
 晴れやかな笑みを浮かべて、緻胤はカナタにこうべを垂れた。
 「緻胤殿も、お心安らかに。よいお子を生まれますよう」


 カナタ達が引き上げるや、緻胤は采の遺体が横たわる部屋に駆け込んだ。
 いぶかしむ近侍達を無視して煌々と輝く灯火を全て消し、闇に落ちた部屋をせわしなく見まわした。
 点々と残っていた灯火の残像が完全に消え去ると、薄蒼い陽炎が、あるかなしかの微風に揺らめいている。
 「采!!」
 思わず大声を出してしまった緻胤は、慌てて自身の口をふさいだ。
 「・・・・・・ごめんなさい。私、灯火や大きな音がだめだって知らなかったの」
 できる限り小さな声で囁くと、目の前の陽炎がゆったりと頷く。
 緻胤は嬉しくなって、満面に笑みを浮かべた。
 「今日ね、南薔の聖太師がいらっしゃったのよ。水精みたいに綺麗な方だったわ。
 その方がね、教えてくださったの。魂魄に刺激は辛いんだって」
 ゆっくりと言うと、陽炎の顔が苦笑の容にゆがむ。
 「ねぇ、お母様はね、太師にお言葉を遺されたんですって。貴方も何か話して?」
 その足元に、ねだるようににじり寄ると、すっとその手が伸ばされた。
 体温のない指が、緻胤の頬に触れる。
 ―――― マダ、無理。
 見上げると、陽炎がゆるく首を振る。
 ―――― 夜ニナラナイト。
 聞き取りにくい音をなんとか言葉に聞きなおして、緻胤は考えた。
 采が亡くなったのは満月の翌日。その五日後には蟷器が彼の身体を取り戻し、緻胤の元に届いたのは更に二日が経ってだった。
 東蘭において魂魄は、新月の日に珂瑛に逝くといわれている。
 単純に数えて、彼は次の新月の日―――それは既に、五日後に迫っていた――― には、彼女の元から去ってしまうのだ。
 「巫女の素養はあっても、ちゃんとした知識がないと役に立たないってわけね」
 緻胤は重く吐息した。
 彼女がそれを知らなかったばかりに、最期の日を二日も損してしまったのだ。
 「じゃ、夜になったらたくさんお話しましょうね。
 あと五日くらい、寝なくったって平気よ、私」
 寒いから毛布を持ってくるわ、と楽しげに笑って、緻胤は立ちあがった。
 だがすぐに、そうだ、と立ち止まる。
 「何か欲しいものある?」
 魂魄にそんな問いを発する緻胤も緻胤だが、采も采で、生真面目に考え込む素振りをする。
 「欲しいものがあったらちゃんと言ってね。
 紙銭も紙服も、こっちが勝手に上げてるもので、本当は何が欲しいのかわかんないんだから」
 にこりと笑って駆け出そうとすると、采が手を延べて止める素振りをする。
 「あ、そうね。走っちゃいけないんだったわ」
 生前と同じ素振りをする夫に笑いかけて、緻胤はゆったりと部屋を出た。
 「毛布とー・・・帽子とー・・・暖かい飲み物って、持ちこんじゃだめなのかしら?」
 夜に持ち込むものを吟味しながら、緻胤は考え込む。
 「林彼様に聞いた方が早いわね。まだいらっしゃるかしら」
 知らず、足を早めながら緻胤は呟いた。
 「林彼様もご一緒してくれたら楽しいのに」
 一人で楽しげに笑いながら、緻胤は足早にカナタの元へと向かった。


 枢蟷器の出征後、王都に攻め入った反乱軍を捕らえて以来、菎兪安(コン・ユアン)は日の光に当たらない生活を強いられていた。
 牢に繋がれていたわけではない。牢に繋がれた者達を尋問していたのだ。
 尋問、と言っても、司直ではない門下省の一官吏である彼は、いかに蟷器の依頼とはいえ、分を超えて牢に立ち入ることは許されない。
 ために、彼のやり方は他者のそれとまったく違っていた。
 彼が行っているのは、主に世間話だ。
 「地下というものは、夏に涼しく、冬に暖かいと言うじゃありませんか。いやほんと、そうなんですよ、アナタ。
 昔ね、中書令をやってらした、芙(フウ)様って方知りません?知りませんかね、アナタお若いから。
 いや、いらっしゃったんですよ、もうお亡くなりですけどね。
 それがアナタ、変わった方で、ほら、つい数年前まで、ここってものすごく暑かったでしょ。
 もう、人なんか熱射病でばたばた倒れちゃって、看護の医者も倒れたって言うんですから、笑えもしませんよ。
 いや、笑い事じゃなかったんですけどね、その時は。でも、あと数年もすれば、ちょっとこれって笑い話ですかね。
 まぁ、笑い話になるような世の中になってくれて、私は嬉しいんですけどね。って、あ、何の話でしたっけ?
 そうそう、昔の宰相閣下なんですけどね。
 いやもう、変わった方で、暑いからって、床に貼り付いていた事があったんですよ。宰相閣下がですよ、アナタ。
 服なんか上を全部脱いでしまって、こう、イモリのようにべったりね、床にへばっていらっしゃったんですよ!」
 真似するように菎は、机上に貼りついた。
 「その時私は、王宮に仕えたばかりの新参者だったんですけどね、アナタ、王宮って馬鹿みたいに広いでしょ。
 迷いませんでした?迷うでしょ。いや、迷わない人なんていないんですよ、ほんとに。
 私、杲(コウ)王陛下が迷っておられるのを見ましたから。
 采王陛下ならともかく、父上の杲王陛下ですよ?
 王宮で生まれ育った前王陛下が迷ってらっしゃるのを見て、私、安心したもんです。
 でね、門下省にいたつもりが、いつのまにか中書省に入ってたことに気づかないで、おっきな荷物を抱えてうろうろしていたんですよ。
 そしたらね、なにかぶにっとしたものを踏んでしまって、つんのめってしまったんですよ。
 私は、何か柔らかいものの上に倒れたんで、たいして痛くもなかったんですけど、その下で『げぅっ!』とかいうじゃありませんか!
 びっくりして起き上がったら、大きな荷物の下敷きになって、人がうんうん唸っているんですよ!
 私、熱射病で倒れてしまった人にとどめをさしてしまったんじゃ、って、そりゃあびっくりしましたし、事故とはいえ、人を踏み殺してしまったなんて知れたら、私クビですよ。
 真っ青になって、まだ意識があるらしい人を助け起こしたら、その人に絡まっていた服の柄は孔雀ですよ!
 それって、宰相のみが許された柄じゃないですか!
 そりゃあもう、驚いたの驚かないの。驚いたんですよ」
 聞いてます?と首を傾げる中年男の正面に座った若い男は、うんざりと頷いた。そのあごの下、ゆったりと皺を寄せる豪華な刺繍もまた孔雀である。
 「私、本気で首を失う覚悟をしましたね。宰相を踏んでしまうなんて、死罪ですよ、死罪!免職ならまだ良かったのに」
 重く息をつくと、長話に喉が乾いたのか、すっかりぬるくなった茶をすする。
 「でもね、さっき言いましたよね、変わった人だったんですよ、この人。
 あーびっくりした、って、むっくり起き上がってね、てくてく歩き出したんですよ。
 私、慌てて追いかけて、平伏して謝ったらね、大きな手をこう、振ってね、『ここは危ないから、他の所で寝ることにする』っておっしゃって、執務室に戻っていかれたんですね」
 くすくすと思いだし笑いをする菎を、青年が気味悪げに見遣る。
 「その後ね、なにやら中書省が騒がしいなと思ったら、暑がりの中書令閣下が、なんと地下牢に執務室を移されたと言うのですよ。
 地下は涼しいから、仕事がはかどるとおっしゃって。
 それがね、この部屋なんですよ、現、中書令閣下」
 にっこりと笑う顔には、嫌味も皮肉もない。
 それが却って癪(しゃく)に障り、青年は室内を見回す振りをして男から視線を外した。
 そこはもともと貴人用の牢獄だったのか、その言葉から受ける印象を少々裏切る存在だった。
 壁は白い漆喰で塗り固められ、わずかながら入る日の光を反射して明るい。
 少ないながら、品の良い調度も置かれて、菎の言う通り、牢獄と言うよりは質素な書斎と言うべき部屋だった。
 「でもね、お気の毒に、ある日地下牢の階段で足を滑らせてしまいましてね、本当にお気の毒でしたよ、お亡くなりになったんです。
 だってアナタ、思いませんでした、ここへ来る時?
 急ですよ、急なんですよ、ここの階段!
 上るのはまぁ、いいんですけどね、足元見えないくらい急でしょ、ここ。下りる時って、そりゃあ怖いんですよ、ここ。
 私も最近、用事があってよく来るようになりましたけどね、いや、看守大変ですよ、ほんとに。
 お話を聞いていたらね、あ、彼ら私が差し入れた葛餅を気に入ってくれましてね、いや、おいしいんですよ、ほんとに。アナタ、お召し上がりくださいな。毒なんか入ってませんし。
 なんの話でしたっけ?あぁ、階段ですよ。
 ほら、虜囚って、おとなしい人ばかりじゃないでしょ。アナタも散々暴れてくれたし、ぼやいてましたよ。あれ、ほんとに危ないんですって。
 だってアナタ、虜囚が勝手に滑りこけてくれるのはいいですけどね、彼ら、だいたい二人で虜囚を引っ張って行くわけじゃないですか。両脇を抱えるようにしてね。
 そしたらアナタ、大変ですよ。
 ある時、暴れた虜囚を取り押さえようとして、三人が団子になって転げ落ちたと言うんですから、大変ですって。
 でね、ほら、彼ら、お役目だから鎧を着てるでしょ!
 怖いですね。いやもう、ほんと怖いですよ・・・・・・踏み殺してしまったんですって」
 声を潜める菎を、青年は苦い顔をして睨みつける。
 一体この中年男は、何が言いたくてここで茶を飲んでいるのか。
 これが、本当にただ茶を飲みに来ただけと言うなら、この場でこの中年男を踏み潰してやりたい。
 しかし、そんな彼の心中をまったく斟酌(しんしゃく)することなしに、菎は続ける。
 「私、初めてここに来た時ね、なんでかなぁと思っていたんですよ、この階下に敷き詰められた布を見てね。
 だって私、この勾配のきつい階段がやっと終わったと思ったら、いきなり床に足を取られたんですもん。
 せっかく持ってきた葛餅が、全部ふたの裏にくっついてしまって悲しかったですよ」
 言って、今日はまともに持ってこれたらしい葛餅をひとつつまんだ。
 「やっぱり、怒られたんですって。
 せっかく捕まえて、仲間の名前を吐かせようとしたのに、その前に殺してしまうとは何事かってね。
 それ言ったの、蟷器様だったんですって。ほら、あの方、采王陛下が玉座に就かれた当初は大理寺卿をやってらしたでしょぉ!
 あの当時からきつかったらしいんですよ、うちの上司。
 知ってますでしょ、枢蟷器様。
 だってアナタ、蟷器様が門下侍中になるの、すごく反対してたんでしょ?
 私にとってはいい上司なんですけどね、他の人にはきついでしょ、あの人。
 綺麗な顔をしてますけど、喩えるならバラとか彼岸花ですかね。
 刺も毒も、そりゃあすさまじいんですよ。
 采王陛下の仁徳にはもう、感服します。なんたってあの人を使って、緻胤王妃・・・あ、もう、太后陛下ですね、あの方を妻に持ってらっしゃるんですから。
 本当に、良くできた妃殿下ですよ。うちの鬼神に、爪のあかでも煎じてやりたい所なんですけどね。
 お若いのに、さすがは薔家のお血筋ですか。
 あの家は、女性がしっかりしていますからね。
 緻胤殿下・・・いやいや、陛下はおやりにならなかったようですが、南薔は子供を鞭で育てるんですよ!
 信じられます、アナタ?小さな子供を鞭でぶつんですって!!
 でもね、それがいいって、東蘭でも西桃でも、あの南蛮でもですよ!武家は必ず南薔の女性を娶るというじゃありませんか!
 いや、南蛮は、西桃の真似をしたんでしょう。あそこはなんだって真似したがりますからねぇ。
 でもね、南薔はしたたかな国ですよ。東蘭も西桃も、南薔とは何かと長い付き合いですから、娶った女性に何をさせて、何をさせてはいけないか、わかるもんでしょう。
 それが南蛮にはわからないんですね。
 ごらんなさい、今の南薔を。南蛮はせっかく奪った領地を、治めきれずにいますよ。
 強い子が欲しければ、南薔の女性に生んでもらって、育ててもらえばいい。
 でも任せっきりにしてちゃあ、彼女達だって無欲じゃないんですから、母親にばかりべったりで、父親に平気で剣を向けるような子供ができるに決まっているじゃないですか。
 南蛮では、女性は無力で従順だと決まっているそうなんですよ。だからでしょうね、彼ら、あまりにも無謀ですよ。
 自分達の常識に囚われすぎて、目の前の現実にいつまでも気づかないんですから」
 菎の長広舌を黙って聞いていた青年は、目の前で悠然とぬるくなった茶を飲み始めた男を見つめた。
 やがて、菎が差し入れてきた葛餅をつまむと、湯気も立たない冷えた茶で飲み下す。
 「確かに美味いな」
 ぽつりと呟くと、菎は嬉しそうに頬を緩めたが、このおしゃべりな男は何も言わずに頷くだけだった。
 青年は、もう一つ葛餅をつまんだが口には入れず、しばらく中の餡が透けて見える、とろりとした皮を見つめていた。
 うるさいほどの長広舌はぴたりと止まり、耳が痛くなるほどの沈黙に、しかし、先に屈したのは青年のほうだった。
 「采陛下に、恨みなどなかった・・・・・・」
 ぽつりと呟くと、餅を菓子皿に戻し、ふわりとも湯気の立たない茶を取る。
 ゆらりと微かに揺れる面に、彼の、暗い陰がたゆたっていた。
 彼はしばらく無言でいたが、菎はそんな彼になんの言葉もかけず、無言で先を促す。
 いや、促されているように、彼は感じた。
 「・・・・・・私に叛意があるなどと、くだらない、悪意に満ちた噂が知らぬ間に立って、私は孤立した。
 なぜ、そんな噂が立つのかすら、私には分からなかった。
 そんな時だ。奴が、声をかけてきた」
 ―――― 奴?
 菎は、思ったが口には出さず、じっと若き中書礼を見つめた。
 若いと言っても、蟷器の五つ、六つは上だろう。が、生まれながらの品の良さと言うか、育ちの良さが、彼にどこか頼りない、文弱な青年という印象を与えていた。
 特に今、彼は常にきちんとまとめていた黒髪を結いもせず、豪奢な衣服の襟を正しもせずにうな垂れているため、一国の宰相と言うよりは落第を思い悩む学生のように見える。
 こんな青年が、よりによって弑逆などと言う大罪を犯すものだろうか?
 菎は、言いようのない違和感に、わずかに眉をしかめた。
 菎が調べた限り、他の虜囚は口をそろえてこの中書礼を首魁だと言った。
 中書礼が、平民を取り立てすぎる蟷器と、そんな蟷器を贔屓する采王に対し、蔑ろにされた貴族達と謀って、蟷器と王を暗殺しようとしたのだと。
 しかし・・・。
 菎は、穏やかな顔の裏で、この青年を観察した。
 何十年も下級官吏を務めてきた菎は、宮廷の人種と言うものを熟知している。
 清廉な顔をした酷吏、高貴な蛮人、小狡い武人。清爽たる貴公子が、自邸では下僕を嬲り殺して愉しんでいたなど、良く聞く話だ。
 しかしそんな宮廷人の裏の顔を多く見つめてきた菎には、どうしてもこの青年が采を弑し、蟷器をも罠に嵌めるような頭を持っているようには見えない。
 現在、東蘭において、王朝を転覆できるような度胸と頭脳を持つのは、彼が知る限りただ一人、枢蟷器のみ。
 国主が采王でさえなければ、きっと彼は鮮やかに王朝交代を成し遂げただろう。
 そんなことを考えつつ、菎が穏やかな目で若き中書令を見つめていると、彼は沈黙に耐えかねたか、堰を切ったように胸の内を吐露した。
 「私には、誰一人として味方する者がいなかった・・・・・・誰一人!!
 どころか、私の地位を狙う者は、殊更に私の叛意を吹聴し、私を陥れようとしたのだ!!」
 中書令は中書省の長官、王の勅令や家臣の上奏を起草し、政を動かす重職である。
 大司馬とほぼ同じ理由で任官された彼を免じ、自身が立とうとする者は多い。
 と言うのも、門下省と同じく、礼部省を粛清した枢蟷器の目から汚わいを隠そうとする魂胆あってのことだ。
 現・中書令も清廉潔白と言うわけではないが、若く、育ちの良い彼はどこかぼんやりとして、蟷器の目を欺くほどの悪どさがない。
 すねに傷持つ者達にとっては、いかにも頼りない男なのだ。
 「中書省も大変ですね」
 他人事だと言わんばかりの、ぼんやりとした口調に、中書令はかっと睨みつける。
 「安穏と暮らしてきたお前に言われたくはない」
 「否定はできませんなぁ」
 のんびりと笑うと、彼は怒りに頬を紅潮させた。
 「なぜ、お前のように安穏としてきた男が重用され、私が陥れられなければならない?!
 あの男も、はじめは私の味方のような顔をして・・・・・・。
 私ではない!!私があのように恐ろしいことを企むはずがないのだ!!全てはあの男・・・・・・」
 中書令はわずかに言い澱んだが、
 「そんなことを言って、あなたなんでしょ?」
 菎の誘い水に、
 「違う!!全ては蔚の企んだことだ!!」
 中書令は、まんまと白状してしまった。
 「蔚殿・・・・・・」
 はっと、息を呑んだがもう遅い。
 菎は、ぬるい茶のなくなった湯呑を机上に置くと、軽く頷いて立ちあがった。
 「ありがとうございます。それが聞きたかったんですよ」
 丸い盆の上に空いた湯呑を乗せて、中書令に『引いてもいいか』と目顔で問う。
 「知って・・・・・・?」
 呆然と呟く中書令に、菎は再び頷いた。
 「アナタも、さきの門下侍郎はご存知でしょう?」
 机上に散らかった湯呑や菓子器を片付けながら見当違いのことを言う菎を、中書令は苛立たしげに睨んで怒鳴ろうとしたが、菎に制されてむっつりと黙り込む。
 「私の前任者ですけどね、そりゃあまぁ、陰険で有名な人がいたんですよ。
 まぁ、有名と言ってもそれは門下省の中だけですから、アナタだって彼を、穏やかないい人だと思ってるんでしょうけどね」
 私もある意味、門下省一の有名人でしたけど、と、余計なことを言いつつ穏やかに笑う。
 「彼ね、外と上司にはいい顔をして、好人物だとかなんとか言われてましたけど、私達部下にはそりゃあ残酷な人でしてね。
 昔、官吏になったばかりの、まだ若い子でしたよ、少年をね、ちょっとした粗相を咎めて、王宮から追い出してしまったんですよ。
 それがね、取り返しのつかない大事件で、上から下まで彼をかばいきれないってことだったなら、何もあの方の株を下げることはなかったでしょうよ。
 でもね、たった、上官の名を覚えきれなかったってだけでですよ?そりゃあ国官って、人数多いんですから、入ったばかりの者には誰がなんのお役職だかわかる訳ないんですよ。杲王陛下なんてね、アナタ、どうしても名前が思い出せないって、『えーっと、誰だ』とか、『ほらそこの・・・』とか、苦し紛れに変な名前をおっしゃってたんですから。
 州侯方のお名前がどうしても覚えきれないって、州の名前をそのまま姓にすることを命じた王様もいらっしゃったでしょ。
 そんなものなんですよ、王宮って。
 よほど記憶力のよい方でもない限り、全員の顔と名前を一致させようなんて、無理な話なんです。
 なのにあの方は、ご自身のお名前をちょっと間違えたと言うだけで、そりゃあひどいいじめですよ、あれはいじめです。
 一々少年の失敗をあげつらって、彼の性根がなっていないとか、顔がよくないとか、時にはわざと大勢の目の前で失敗させたりね。毎日毎日大声で怒鳴って、できもしないことを無理やりやらせたりするんです。とにかく陰険なんですよ。
 しまいには彼、見るも無残にやつれ果てて、病気を理由に辞めてしまいましたよ。
 せっかく、難しい試験を通ってきたのにね。
 ところがね、彼がいなくなると、物足りなくなったんでしょうねぇ、次々と新しい獲物を見つけては、いびり倒していたんですよ。
 娘や奥方を、愛妾に取られた人もいましたねぇ。
 私なんか、妻を差し出せと言われたら、喜び勇んで差し出したでしょうけど、残念ながら、私は彼の眼中になかったようでして。
 いや、変わってるんですよ、あの人も。
 普通、気の弱い、いじめやすそうな人間を選ぶでしょ?
 違うんですよ。わざわざ健康な、活力にあふれた人間を選んでね、彼らが憔悴して行く様を見て愉しんでいるんですから・・・・・・あぁ、まったく、思い出すだに腹立たしい人でしたよ」
 「菎・・・・・・!」
 何が言いたいのかと、剣呑な声を発する中書令に、菎はまぁまぁとなだめるように宙を撫でた。
 「私も長い間下級官吏をやってましたけど、偉くなるにはそれなりの悪どさっているんですよ。この王宮において、人の上に立つってことは、誰よりもあくどかったってことでしょ。
 そんなね、上に立つ人の雰囲気ってのが、あの人にはあったんです」
 机上をきれいに片付けてしまうと、菎は再び椅子に腰を下ろした。
 他の独房と違い、ここにある椅子は座りごこちがいい。
 「そんな人が、なんで私なんかに丁寧に話すんでしょうと、最初から不思議でしたよ、私には」
 机上に組んだ手にあごを乗せて、上目遣いに中書令を見遣ると、彼は先ほどの苛立ちをどこかに置いてきたように呆然と菎を見つめていた。
 「・・・・・・さきの門下侍中もそうでした。前王妃についた人達の中にもいましたよ。ある意味、枢閣下だってそうです。
 悪いことを企んでいる人はね、普段、必要以上に物腰が穏やかなんですよ」
 無言で瞠目する中書令に、菎はちらりと微笑んだ。
 「アナタにも経験あるでしょう?誰だってあるんですよ。すごく興味があるのに興味のない振りをしたり、とても手に入れたいのに、欲しくない振りをしてみたり。
 人間ってね、自分に疑いがかからないように・・・いえ、自分を守るために、いろんな嘘をつくものですよ。
 自分さえ騙してしまう人だっています。単に自身の評価を下げたくないというだけだったり、国を奪うために被った化けの皮だったり、理由は様々ですけどね」
 「たった・・・それだけの理由で?」
 中書礼の問いに、菎は苦笑を閃かせる。
 「もちろん、他にもありますよ。
 嫌に頻繁に顔を出したり、閣下のお宅に行きたがったりね。
 私の、砒素中毒ではないかと言う疑問に、嫌に反応が鈍かったのも気になりましたし、なんと言っても、私達の目の前で薬を調合しようとした。
 そこで私は、絶対に怪しいと感じました」
 「それが?」
 やや興味を引かれた様子で再度問う青年に、菎は微かに頷いた。
 「変なんですよ。
 よく思い出してみて下さい。アナタ、生れてこの方、医師が薬を調合しているところなんて見たことないでしょう?」
 言われて、青年はしばらく考えた後、頷いた。
 「ちょっと考えてみればね、分かることでしょう?
 西桃は、その高い文化で世界に君臨するために、技術を決して他国に漏らしません。
 例えば絹や紙ですけど、その製法は秘中の秘ですよ。それが、あの国の財政を支えているんですからね。
 近頃は、医術が他国にも伝わっていると言いますけど、その治療を受けられるのは王族か、貴族の中でも一品や二品の大貴族だけです。
 そんな貴重な技術を、他人に見せびらかすものですか!
 それも、記憶力に定評のある枢閣下になんて、あり得ないと申し上げます」
 きっぱりと断言した彼を、青年は瞠目して見つめ、その視線に照れたように菎はちらりと笑った。
 「・・・・・・まぁ、私の勘なんかで逮捕するわけにも行きませんから、あなたには私のお喋りにお付き合いいただいたんですけどね」
 軽く笑声を上げて、菎は中書令に会釈した。
 「彼が、いかにしてあなたの口を封じていたかは存じませんが、太后陛下は公正な方です。
 全てを正直に申し上げれば、むごいことはなさらないであろうと、ご助言させていただきます」
 それでは、と、席を立った菎の背に、中書令はぽつりと呟いた。
 「・・・・・・枢は、蔚が黒幕だと知っているだろうか?」
 「さぁ・・・」
 茶器を乗せた盆を手に、振り返った菎は微かに首を傾げた。
 「これからお知らせしますので」
 言うと、中書令は席を蹴って立ちあがり、両手を机上に突いて菎を睨み据えた。
 「愚か者。蔚を未だ野放しにしていると言うことは、奴らしくもなく、蔚の叛意に気づけなかったと言うことではないか。
 怒りに我を忘れた頭も、大司馬を捕らえて少しは冷静になったことだろうが、それから手を打っても遅いのだ。
 今ごろ蔚は、奴に奪われた花嫁を奪い返しに行っているぞ」
 「花嫁・・・・・・?」
 訝しげに眉をひそめる菎に、中書令は獄に繋がれて以来初めて、若い喉に笑声を上らせた。
 「多くの昔話を聞かせてもらった礼に、私も一つ、聞かせてやろう。
 その昔、お前の好きな杲王陛下のご時世だ。蔚には侯爵家との縁談があったが、式直前に解消された。どこの馬の骨とも知れぬ学生に、花嫁が奪われてしまったそうだ。
 その花嫁の名を樹杏嬬(ジュ・アンジュ)。奪った男の名を、芳泓河(ホウ・コウガ)という」
 菎は、手にした盆を取り落とさんばかりに驚いた。芳泓河とは、蟷器の本名ではないか!
 「のんきに茶など飲んでいる場合ではなかったな、現、門下侍郎殿」
 皮肉げに曲げられた口元を、見る余裕すら菎にはなかった。
 この多弁な男が、辞去の挨拶もなく背を向け、一目散に地上へと駆け戻った。
 一刻も早く、蔚を捕らえんとばかりに。


 礼部尚書邸から門下侍中邸に変わった邸には、主人が留守にもかかわらず、華やかな女達が次々に出入りしては、女主人の気を紛らわせてくれていた。
 都でも指折りの名妓である彼女達は、いつもなら、主人と女主人に気兼ねして、例え呼ばれてもどちらかが留守の時にやって来ることはない。
 しかし今回の出征には、何か気がかりでもあるのか、三人は申し合わせて、常に誰かが女主人の側にいるようにしていた。
 「旦那様から、なにかお便りはありまして、お姉様?」
 今日は一人で訪ねてきた流詩(ルシィ)の、あどけない声に、杏嬬はさやかに首を振った。
 「なにも。きっと、うまく行っているのでしょう。心配はいりませんよ」
 はんなりと笑うと、流詩はぷくんと頬を膨らませて杏嬬の傍らに席を移す。
 「いやいや!お姉様までそんなことおっしゃらないで!
 翠蘭のお姉様も、香蘭のお姉様もそうおっしゃるの。まるで、私一人が旦那様のことを知らないみたいに諭すのよ。
 そりゃ、お姉様様達みたいに長くはないけど、私だってもう何年も旦那様の・・・・・・お世話になっているのに」
 さすがに正妻の前で『囲われている』とは言い辛かったか、婉曲な言いように改める流詩の金髪を、杏嬬は優しく撫でてやった。
 「そうね。本当はわたくしも、鈴娃(レイア)殿や寛奈(カンナ)殿も旦那様のことを心配しているのですよ。
 でも、旦那様はあのような方でしょう?
 お仕事中は、女達が周りでかしましくするのがお嫌いなの。
 だから、どんなに心配でもわたくし達は、旦那様のお好きなようにやっていただけるように静かにしていなければならないのよ」
 ね?と、淡い灰色の目で見つめられると、普段は驕慢な流詩が黙したまま頷いた。
 「・・・・・・いつになったら帰ってらっしゃるの?」
 頭を杏嬬の肩に預けて、すねた子供のような口調で甘えると、杏嬬は流詩の、子供のように細い肩を抱いて、しばらく考えた。
 「新月まであと五日でしょう?
 旦那様のことですから、明日か明後日には帰ってみえるわ」
 東蘭では、葬儀は必ず新月の夜に行われる。
 それは南薔の山岳信仰が入ってくる以前、潮が引いているうちに沖で水葬を行っていた慣習の名残だという。
 そんな、南薔以前の慣習が、東蘭のみならず世界各国に数多く残っている。
 「明日・・・・・・明日は私、宴に出なきゃ・・・・・・」
 流詩が、がっくりとうな垂れると、杏嬬は苦笑して彼女を慰めてやった。
 「じゃあ、お帰りが明後日になるよう、お祈りしましょう。また来てくれるでしょう?」
 淡く微笑むと、流詩は小鳥のように小さく首を傾げる。
 「来てもいいの?」
 不安げな声。
 本来、彼女のような妓女は、呼ばれでもしない限り、この高級官僚の邸宅が立ち並ぶ王宮内の街に入ることは許されないのだ。
 しかし、杏嬬はそのような常識を意に解さない。いや、そのような常識があることすら、知らないのかもしれない。
 屈託なく頷き、
 「わたくしも、あなた達が来てくれた方が嬉しいの。一人は寂しいもの」
 そう、穏やかに言ったが、流詩は頷きながらも心中に否定せずにはいられなかった。
 杏嬬はたとえ、世界に一人きりになろうと、今と変わらず穏やかに笑うのだろう。
 蟷器以外のことに関しては、寂しいとか楽しいとか、ありきたりの感情に流されない女だった。
 「・・・・・・じゃあ、明後日にまた参ります」
 小声で申し出ると、杏嬬は嬉しげに頷いた。
 「楽しみにしているわ」
 流詩の目には、杏嬬が本当に喜んでいるように見える。そして、自身を抱きしめるように背に回された腕・・・・・・。
 そのぬくもりを感じる度に、流詩は哀しくなる。
 それほどに、自分は眼中にないのだろうかと。
 他の女達・・・鈴娃や寛奈に対して、杏嬬は優しく、穏やかだが、ここまで暖かくはない。
 それが流詩には、女達への隔意に見える。
 蟷器に愛された女達への、あからさまではないが、わずかな嫉妬であるように。
 しかし、その隔意は今まで一度も、流詩には向けられたことがないものだ。
 それが、若い彼女には気にかかる。
 自身が、杏嬬を脅かす存在ですらないのではないかと。
 だが、そんな流詩の気も知らず、杏嬬は娘に接する母親のように優しかった。
 「そうだわ、流詩。今日はこちらにお泊まりなさい。そうしたら、旦那様が明日帰ってこられてもお迎えできるじゃないの」
 流詩が黙り込んだのを、蟷器に会えないためだと思ったか、なだめるような口調で言う。
 「いいの?」
 「もちろんよ。あなたさえ良ければね」
 すると、流詩は嬉しさに微笑まずにはいられなかった。
 都の五大妓楼の一つ、姚香楼(ようかろう)一の名妓、白蘭の名をもらってもう何年も経つが、自身の感情を胸の中に仕舞い込むことができない彼女は、その幼い外見とあいまって、無邪気な少女のようだ。
 「じゃ・・・じゃぁ、馬車を帰してしまわなきゃ!ほんとは外泊は禁止されているから、ちゃんと店の主人に言っておかないと怒られるの」
 「そうなさい。わたくしが手紙で、事情を説明するわ。
 旦那様が帰っていらして、あなたがいたら、きっとびっくりなさるわよ。楽しみね」
 珍しく冗談めかした杏嬬が、流詩の手を取って共に立ち上がった時だった。
 「奥方様・・・・・・」
 ひそやかな声を見遣ると、家人が蔚の来訪を告げた。
 「蔚殿が?」
 日が落ちて間もないとはいえ、主人のいない邸を訪れていい時間ではない。
 「火急のご用でも?」
 杏嬬の問いに、家人は精彩なく頷いた。
 「旦那様のことで、とおっしゃいまして・・・・・・」
 気遣わしげな声に杏嬬がわずかに身を強張らせた。
 「すぐに参りますと伝えて」
 杏嬬の言葉に、すかさずきびすを返した家人の背を見送ることもなく、杏嬬は流詩を振り返った。
 「ごめんなさい、ちょっと席を外すわね」
 「だめよ、お姉様!!」
 流詩の必死の形相に、さすがの杏嬬も驚いた。
 「どうしたの?蔚殿にお会いして、ご用を伺うだけですよ?」
 しかし、流詩は杏嬬の腕を掴んだまま放さない。
 「流詩・・・・・・?」
 「絶対だめ!!あの男は危険なの!!」
 鮮やかな金の髪を振り乱し、必死に杏嬬にすがりつく。
 「翠蘭のお姉様も香蘭のお姉様もおっしゃってたわ、あの男が杏嬬お姉様に近づかないようにしなくちゃって!」
 蟷器の留守に、正妻に何かあってはいけない。
 そんな思いから、彼女達は交代でこの家に訪れていたのだ。
 「でも、どうしてあの方が・・・?」
 流詩を信じないわけではないが、杏嬬にはあの穏やかな医者が、そう悪い人間だとは思えなかった。
 しかし、流詩は頑迷にかぶりを振る。
 「いいえ!私達にはわかるの!
 小さな頃から、色んな男を見てきたんですもの。あの男が時折見せる嫌な顔に、気づかないわけないわ!!」
 妓女は、ふとした表情や言葉の端々から人の本意を推し量ることができる。そんな勘が、自然と磨かれてしまうのだ。
 蔚の裏の顔に、蟷器は気づけなかったが、それは、蟷器の人を見る目がなかったというわけではない。
 菎や彼女達は、特殊な人種を見分けられるようになるだけの経験を積んでいるのだから。
 「お姉様お願い!私を信じて!」
 青い瞳に力を込めて、懸命に見つめると、烈しい感情に縁の薄い杏嬬は呆然として頷いた。
 「ありがとう!大好きよ、お姉様」
 流詩は杏嬬に抱きつくと、すぐさま身を離してその手を引いた。
 「しばらく隠れていてね。私がいいって言うまで、出てきちゃ嫌ですよ」
 やや屈託を含んだ笑みを浮かべると、流詩は杏嬬を隣室に押し込め、自分は手早く身繕いを整えて部屋を出た。
 途中で家人を捕まえ、蔚の居場所を聞くと、できるだけゆっくりとした歩調で彼の所へと向かった。
 蟷器の邸は、彼も杏嬬も物を置きたがらないために、嫌に殺風景な印象がある。
 絵も掛布もない、白い漆喰が剥き出しの壁に挟まれた廊下に一人、花を添えつつ歩を運べば髪に差した歩揺(ほよう)がさやかに鳴る。
 先触れの声を上げるそれに、開け放した扉の奥で蔚は訝しげに眉をひそめた。
 杏嬬は・・・かつての岫州侯の姫は、もの静かと言うよりは存在感の薄い女だった。
 結婚してからは、蟷器と家内のことに限り、口を利く様になったようだが、それでもまだ、歩揺を鳴らして歩くような女ではないはず。
 そう思うと、蔚は衝立に邪魔された扉の向こうを、凝視せずにはいられなかった。
 彼が立ちあがり、身体ごと扉へ向き直ると、まるでその動きを見計らったように外の歩揺も鳴り止む。
 そのまま凝然と立ち竦んでいると、さらりと衣擦れの音がして、衝立に半身を隠すように一人の女が現れた。
 女、と言うよりも少女か。
 小柄な身体に見事な刺繍の衣を纏った少女は、蔚を見とめると優雅な仕草で深く一礼した。
 と、その金色の髪を飾る簪が触れ合って、またさやかな音を立てる。
 「確か・・・白蘭殿であられたか?奥方様はいかがされた?」
 すっかり地声となった、穏やかな口調で話し掛けたが、少女はこうべを垂れたまま、長い睫毛を伏せている。
 「白・・・」
 「申し訳ございません」
 長い沈黙に再び声を発した蔚を、押し留めるような毅然とした声に、一瞬蔚が鼻白んだ。
 「蔚様がいらっしゃる直前に、旦那様よりお手紙が参りまして、奥方様はふさいでいらっしゃいます」
 「枢閣下が、何か?」
 思わず、気遣わしげな顔を作った蔚に、挑むように流詩は顔を上げた。
 「異なことをおっしゃる」
 訝しげな顔を作って、ひた、と、蔚の目を見据える。
 「妾(わたくし)はてっきり、蔚様も同じご報告を持ってらっしゃったのだと思っておりました。ゆえに、奥方様に二度もお聞かせするのは不憫と、妾が参りましたものを」
 底が浅い、と、流詩は冷ややかに目の前に立つ男を見上げた。
 采王を弑し、蟷器を罠にはめ、多くの者を傷つけた男にしては、簡単に心を読めるものだと、流詩は一瞬、自身の目を疑った。
 彼は本当は、大逆の罪人などではなく、ただの医師ではないのかと。
 しかし同時に、彼女の中の、妓女としての目は、彼が大逆の罪人であると、はっきり告げていた。
 自身の目に、誤まりのあろうはずがないと。
 すぐに流詩は、自身と二人の名妓の勘を信じて、蔚に向き直った。
 「もしや、別の悪いお知らせですか?妾にお教えくださいませ」
 「・・・奥方様はどちらに?直接お話したいのですが」
 「奥方様は、妾に全て伺うよう、お命じになりました。不遜ながら、妾を奥方様と思し召しください」
 流詩は、彼を杏嬬に会わせるつもりなどない。
 時間を稼いだところでなんともならないだろうが、もう少し夜が更ければそれを理由に退出を促せる。
 そう考えて、表向きは丁重に、口では詫びを並べながら蔚の相手をしていると、彼は流詩が覚悟していた割にはあっさりと辞意を告げた。
 「夜更けに申し訳ありませんと、おつたえください」
 あくまで穏やかに告げると、蔚は家人に見送らせて辞去した。
 流詩が、門を見下ろす二階の窓からそっと下を見遣ると、蔚は家人に送られて、一人で門を抜けて行った。
 「・・・・・・諦めたのかしら?」
 口の中でそっと呟き、流詩はきびすを返した。
 足早に杏嬬の元に戻り、蔚との会話を逐一報告してから、付け加えた。
 「今日は私、お姉様のお部屋で寝てもいい?」
 杏嬬が軽く頷くと、流詩は歓声を上げて抱きついた。
 「お姉様は、絶対私が守るから!」


 その日、深更のことである。
 門下侍中邸は深い眠りの中にあった。
 ただの眠りではない。
 密かに侵入した何者かの手によって、眠りを誘う霧に邸中が包まれていたのだ。
 その中を、ニ、三の影が蠢いていた。
 彼らは一様に、目から下を覆う覆面をつけ、眠りの霧を吸わないよう、用心深く歩を進めて、最上階の一室へと辿り着いた。
 軋みひとつ上げない滑らかな扉を細く開け、するりと内側に滑り込むと、広い部屋の中央を占める寝台へと忍び寄る。
 中では女が一人、身動きひとつせず深い眠りに落ちていた。
 影のひとつが女を抱き上げ、もうひとつの影が、今まで女が寝ていた寝台から、何枚もの毛布を取り上げた。更にもうひとつの影は、取り上げた毛布に幾重にも包まれた女が身動きできないよう、厳重に紐を掛ける。
 三人は、でき上がった荷物を担ぎ上げると、来たときよりも静かに邸を出て行った。
 邸の門を抜けると、眠りに沈んだ街を密かに歩んでいく。
 やや遠い道のりだったが、馬車を使わないのは、王宮を護る衛士達に見つからないようにするためだ。
 彼らは、正殿と官庁を中心とした内宮の城壁から降り注ぐ篝火の光を避け、高官達の広大な邸を囲む塀際や光の届かない小道を選んで、一品、二品の大貴族が住む一郭を出た。
 居住地の格は、それが王宮の外側へ向かうほど下がる。
 月も沈んだ闇の中を行く者達は、内宮の城壁からも街に面した城壁からも光の届かない中ほどにある、闇に沈んだ中級官吏の居住地の一つに入り込んだ。
 「旦那様・・・」
 邸の奥まった一室、窓もないそこで彼らを待っていた主人の足元に、毛布でくるんだそれを置く。
 「花嫁にございます」
 一言、そう呟いて彼らは退室した。
 灯火に晧晧と照らされた部屋に、一人残された邸の主は黙したまま、卓上にある手術用の刃物の中で最も大きな物を取り上げた。
 見下ろした荷物は微動だにせず、足音もなく近寄った彼が、固く結ばれた紐を切るために刃物を差し込んだ時も、まるで死んでしまったように無反応だった。
 しかし、彼がそれを包んでいた布を剥ぎ取るや、
 「・・・・・・・・・・・っ!!」
 その利き手に深々と刺さった簪(かんざし)に、彼は声もなく手を引いた。
 「なんのおつもりですか、蔚様?」
 厚い布の中からむくりと起き上がったのは流詩・・・。
 杏嬬のそれよりやや濃い金の髪を背に流して、青い瞳がひた、と蔚を見据える。
 「妾(わたし)を抱きたいなら、姚香楼(ようかろう)にいらっしゃれば?いつでもお相手をいたします」
 でも、と、彼女は薬を吸ったとは思えない確かな足取りで立ち上がった。
 「さらって思うままにしようなどとはお思いにならないで。妾は妓女ですから、お金にならないことはいたしません。
 好きな人にならともかく、そうじゃない人にただで抱かれるなんて嫌よ」
 ぞんざいに言い放って、流詩は細い腰に厚く巻いた帯に潜ませていた短刀を取り出した。
 枢邸の賄いから失敬したものだ。
 実用的なものだから、刃は厚く、きれいに研ぎ澄まされている。
 「・・・白蘭殿、思い違いをしているのはあなたのほうだ」
 取り繕うように笑みを浮かべる蔚を冷ややかに見据えたまま、彼女は蔚に刃を突き付ける。
 「思い違いなものですか。その証拠に、貴方は杏嬬お姉様をさらおうとしたじゃない。
 でもお生憎様ね。お姉さまは私の御者に預けて、今ごろは菎様のお邸よ」
 流詩は、自身の馬車に自身の服を着せた杏嬬を乗せて、蔚の行状を知らせに来た菎に預けたのだ。
 菎は意外にも行動力のある男で、萩翼軌(シュ・ヨクキ)の兵を使って密かに枢邸の周りとこの家の周囲を見張らせている。
 「観念して縛につきなさい。逃げられやしないんだから」
 やや余裕ができて、つい笑みが零れた。
 途端、
 「遊女ごときに侮られる我ではないわ!」
 豹変した蔚に、抗ういとまもあらばこそ、流詩は引き倒され、その細い首に蔚の全力を込められた。
 激しく震える手が、蔚の腕に、頬に、掻き痕をつけるが、その力はいっかな弱まる事がない。
 助けを呼ぶ事もできないまま、空しくさまよわせた流詩の手に、引き倒されたときにその手からはなれた短刀が触れた。
 夢中でそれを振り上げると、獣のような咆哮が頭上に弾ける。
 流詩が翳む目を上げると、左目と頬を切り裂かれた蔚が、傷に触れる事もできずに咆哮を迸らせていた。
 「お・・のれぇ・・・・・・・・!!!」
 最後の力を振り絞ったために萎えてしまった流詩の手から短刀が取り上げられたかと思うと、次の瞬間には彼女の、細い身体は床に縫い付けられた。
 薄い胸に、意外と長かった刃を沈ませて。
 ―――― よかった。
 最期の時に、流詩が得たのは満足感だった。
 ―――― 旦那様、わたし、お姉様を守ったわよ。
 恵みの絶えた世界に生まれた瞬間から、泥の底を這うような暮らしをして生きてきた。
 食べるために盗みはおろか、人を殺した事だってある。
 親には人買いに売り飛ばされ、さらには妓楼に売られて、幼女を好む男達の慰みものにされてきた。
 妓楼で教えられた舞いに、ひたすら打ち込んできたのは、そんな惨めな自分を舞っている間だけは忘れられたからだ。
 でも、そんな気持ちを、彼だけは・・・蟷器だけは見抜いてしまった。
 『お前の舞いは悲壮だな』
 見るに耐えないと、苦笑した顔を今でも覚えている。
 『そんなに客を取るのが嫌なら、俺の愛妾になるか?俺は変態じゃないから、小娘を閨(ねや)の相手にはしない』
 その頃既に、『白蘭』の名を得ていた流詩には、愛妾の話も多くきていたが、その全てを断っていた。
 白蘭が高官に肘鉄を食らわせるのではと恐れた主人が、やんわりと断ろうとしたところを素早く制して、流詩は蟷器の話を受けた。
 以来、彼女は舞を披露する以外に客を取らなくてもよくなったのだ。
 「旦・・・那・・・さ・・・・・・・・・」
 最期の吐息と共に吐き出された言葉は、途中で消えた。
 ―――― 誉めてくれますか?
 薄く、笑みを浮かべる。
 ―――― ううん・・・誉めてくれなくてもいいから・・・私のお葬式では、ちょっとでもいい、泣いて欲しいです・・・・・・・。
 永遠に目を閉じた顔は、いい夢でも見ているかのように穏やかだった。


 無言の帰還を果たした流詩を、蔚家よりもやや王宮寄りの菎邸で迎えた杏嬬は、蟷器が毒癘に侵されたときよりも取り乱した。
 流詩の骸に縋りつき、声もなく泣いている。
 彼女にとって、流詩は実の妹達よりも近しい存在だった。
 『女華綾』と呼ばれたほど感情のない女だった杏嬬になつき、子供のように華奢な身体で擦り寄ってくる。
 未だ子供のない杏嬬にとって、流詩は娘のような存在だったのかもしれない。
 それほどに、愛しい存在だったのだ。
 「・・・・・・奥方様。私が見張っておきながらまことに・・・・」
 杏嬬の背後で恐縮する菎の袖を、彼の夫人が強く引いて部屋の外に引っ張り出した。
 「あなた、なにするんですか!奥方様は今、お一人になりたい時なんですよ!それを邪魔するなんて、なんて気の利かない人なのかしら!」
 声を潜めつつも、がみがみと言われて菎は身を縮めた。
 「だって・・・蔚殿の邸を見張っていたのに、白蘭殿をお救いできなかったのは私のせいだし・・・・・・」
 「それがわかっているのだったら、ここでうだうだと言い訳するのはやめなさい!あなたにはまだやることがあるんでしょう?!」
 ぐいぐいと菎の背を押して、夫人はまだ一人しかいない家人に玄関の扉を開けさせた。
 「ほら!とっととお行き!蔚とやらを見事に裁いてこそ、枢閣下と奥方様に顔向けできるってもんでしょう!」
 「いや、でもね・・・私は門下省の役人であるから、罪人を裁くことはできないんだよ・・・・・・」
 「つべこべ言ってないでさっさと行きなさい!!お二人に立派に顔向けできるまで、戻ってくるんじゃないよ!」
 夫を家から追い払ってしまうと、夫人は流詩の骸を安置した部屋をそっと伺った。
 杏嬬は未だ、流詩に縋り付いて泣いている。
 夫人は静かに杏嬬の側に寄ると、その傍らに膝を突いて深々とこうべを垂れた。
 何も言わず、そのまま身動きもしない。
 「夫人・・・・・・」
ようやくその気配に気づいた杏嬬が背後を見遣ると、夫人は額を床に付けんばかりにさらに深くこうべを垂れた。
 「このたびの事、心よりお詫び申し上げます。夫の不手際により、お嬢様をお守りできず――――」
 「いいえ、菎殿には、何も不手際などありませんでした!悪いのはわたくしなのです・・・・・・」
 夫人の口上を遮ると、杏嬬はまた袖で顔を覆って泣き出す。
 「奥方様・・・・・・」
 不敬などと思うより先に、夫人は膝立ちのままにじり寄って、杏嬬を抱きしめていた。
 「・・・・・・お察しいたします」
 そっと、背を撫でてやると、杏嬬は縋りつくように夫人の胸に身を預ける。
 「流詩・・・・流詩・・・・・まだ若かったのに・・・・・・・・・・!」
 杏嬬の背中越しに見える、美しい骸に、夫人もまた、痛ましげに眉をひそめた。
 しかし、
 「奥方様、ちゃんとご覧になってやりましたか、お嬢様のお顔を?
 こんなに穏やかで、誇らしげな顔なんて、わたくしは見た事がございません。きっとお嬢様は、奥方様をお守りできた事を喜んでおられますよ」
 静かな声に、杏嬬がそっと夫人を見上げると、その顔は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
 「お泣きになるより先に、誉めておやりなさいませ。よく守ってくれたと、それが何よりの手向けでございましょう」
 軽く背を叩いて、共に立ち上がる。
 「さ、少しお休みなさいませ。もう時期枢閣下もお帰りになるでしょうから、それまでここでお待ちください。
 行き届いたことなどなにもできませんが、できるだけお世話させていただきます」
 さ、と、杏嬬を促して、夫人は共に部屋を出ようとしたが、それは杏嬬が固辞した。
 「申し訳ありません、夫人。できれば、わたくしと流詩を、邸に帰してください。夫は、私情を優先させることはしませんので、迎えに来る事はないと思います」
 「あら、まさか・・・」
 そんな事はないでしょうと言いかけて、夫人は口をつぐんだ。
 内情をよく知りもしない人間が、無闇に口を挟んでいい問題ではない。
 「・・・・・・失礼いたしました。では、萩(シュ)様にお願いしてお送りいただきましょう。馬車をご用意するまで、少々お待ちいただけますか?」
 夫人の申し出に杏嬬が頷くと、夫人は心得て家人を使いにやらせた。
 萩翼軌と枢家の家宰に杏嬬の意向を伝えに行かせたのだ。
 夫人の采配は見事で、間もなく菎家の前には、棺が乗せられる大きさの馬車が止まり、それを護衛する兵達が流詩の眠る棺を運び込んだ。
 「・・・・・・お礼をもうします、菎夫人」
 「とんでもございません奥方様」
 二人はひそやかに挨拶を交わすと、馬車に運ばれた棺の傍らに座り、あるいは出立する馬車を見送った。
 王宮内は大きな街ほどの広さがあるが、菎邸は王宮内を南北に貫く大通りに面しており、その最北に位置する王宮のすぐ南、大通りより少々奥まったところにある枢邸には、その直線距離にしては意外と早く着いた。
 杏嬬の乗った馬車が自邸の門を抜けると、玄関には既に大勢の家人達が彼女の帰りを待ちわびていた。
 「奥方様・・・!!」
 杏嬬が岫州から伴ってきた侍女が数人、たまりかねたように飛び出して杏嬬を馬車から助け下ろした。
 「ご無事で・・・!!」
 「・・・・・・無事ではない」
 返答があるとは思っていなかった侍女達が、呆気に取られている間に、杏嬬は家人達に命じて棺を邸内に運ばせた。
 「お・・・奥方様、妓女でございますよ?」
 邸の、最も奥まった所にあらかじめ作られている、主人夫婦のためだけの安置所に棺を置こうとする杏嬬に、侍女の一人が申し出たが、それは杏嬬の、冷ややかな視線で却下された。
 「流詩が助けてくれなければ、こうなっていたのはわたくしです。文句は言わせませんよ」
 「ですが、妓女ごときをこのように篤く遇しては、家の恥に・・・・・・」
 「もう一度言ってごらんなさい」
 淡い青灰色の瞳に射られて、侍女が身を竦めた。
 「恩を受けておきながら、まともに礼もできない事が、家の恥と言うのです。覚えておきなさい」
 厳しく言って、背を向けた杏嬬を、さらに呼びとめた者があった。
 「何・・・」
 苛立たしげに振り向いた視線の先に蟷器の姿を見止め、杏嬬は振り返った姿のまま立ちすくんだ。
 「今帰った」
 表情の消えた顔で一言、呟くと杏嬬の傍らを抜けて、冷気の立ち昇る部屋へと滑り込む。
 「あ・・・なた・・・・・・」
 重い扉を閉めさせ、家人達の視線を塞いでしまうと、杏嬬は慌てて蟷器の後を追った。
 「どういうことだ、これは?」
 棺を見下ろし、微かに笑みすら浮かべた流詩の骸を示して、わずかに振り返った夫の顔を、杏嬬は見る事ができない。
 「あの・・・・・・」
 何から説明すべきか、口篭もる杏嬬の手を掴んで引き寄せる。
 思わず身を竦めた杏嬬を抱き寄せて、一言、その耳元に囁いた。
 「・・・・・・悪かった」
 「あなた・・・・・・」
 恐る恐るその背に腕を回すと、杏嬬を抱きしめる腕に更に力がこもった。
 「流詩を殺したのは、俺だ」
 「そんな、違います!わたくしの、あさはかさが――――」
 蟷器に縋りついたまま、くずおれて行く杏嬬を支える。
 「わたくしが・・・・・・わがままを通しさえしなければ・・・・・・」
 蟷器には自分など必要なかったのに、父を怒らせ、蔚家を滅してまで手に入れた。もう、それ以上を望まないと思っていたのに・・・。
 「聞いたのか?」
 蟷器の言葉に頷くと、その手が子供をあやすように背を撫でてくれる。
 「ごめんなさい・・・ごめ・・・・・・・・・・」
 「お前が悪いわけじゃない・・・・・・お前が無事でよかった」
 「あな・・・・・・」
 顔を上げると、相変わらず表情のない顔で見つめ返してくる。
 「全部、俺のせいだ。流詩も、采・・・も・・・・・・」
 杏嬬にからめていた腕を解くと、蟷器はすっと膝を折って、流詩の棺の前に跪いた。
 「よく、やってくれたな。ありがとう、流詩」
 唇にだけ、微かな笑みを浮かべて、蟷器はそっと流詩の頬を撫でてやった。
 「仇は取るから・・・・・・」
 言うや、蟷器は立ち上がり、杏嬬に背を向ける。
 「いって・・・らっしゃいませ・・・・・」
 涙を拭って、生れて初めて平静な声を出す努力をした杏嬬は、粛々とこうべを垂れた。
 それに軽く頷くと、
 「姚香楼に金をやって、流詩の葬儀をあげさせてやれ。お前が主宰して、できるだけ盛大にな」
 「お言葉のままに」
 杏嬬の言葉を待って、冷えた部屋を出、そのまま王宮へと向かった。


 「枢閣下が帰って見えましたよ。
 渤州(ぼつしゅう)は樹将軍にお任せして、渤州候を伴なって帰られたそうです―――― いよいよですわね」
 自分の声に、冷えた部屋から出てきた太后の背を、婀摩は励ますように支えて、並んで歩き出した。
 「聞いた話では、聖太師様までご出席なさるとか・・・。大丈夫ですの?
 南薔の聖太師様までがご出駕(しゅつが)とあっては、西桃のお立場が・・・・・・」
 南薔が、宗教界の最高権威者を采王の葬儀に出したという報告は、既に世界中に飛び回っている。
 大陸の礼を重んじない南蛮はともかく、誇り高い西桃が、ほとんど国を無くした南薔に権威で負けるなどと言う事は、許しがたい侮辱だろう。
 「こう申してはその・・・・あれなんですけど・・・・・・荒れますわよ、今回。
 ここは聖太師様にご辞退いただいたほうが・・・・・・」
 「なに言ってるの、婀摩!采だって、聖太師様にお会いしたいって言ってるんだから、気にしなくていいの!
 第一、東蘭って前王妃の件で、西桃とは手を切ったんじゃないの?」
 「それはそうですけど・・・そう言う問題ではないんですよ!大体、貴女は政事に疎いんですから、ここは枢閣下にお任せして・・・」
 婀摩に最後まで言わせずに、緻胤はにこりと笑った。
 「大丈夫よ!私は太后陛下なんだから、ちゃんとやりますって!」
 気負いの取れた、すっきりとした顔で笑うと、緻胤は足取りも軽く正殿へと向かう。
 「あぁ、傑は?ちゃんとごはん食べていた?」
 「え・・・えぇ・・・・・・」
 「だめよ、好き嫌いさせちゃ。蟷器が帰ってきたんなら、私も母親に戻らなきゃ。一緒に人事異動もやらなきゃだし・・・ああ、忙しい。
 采、生き返ってくれないかしら」
 「そんな・・・・・・」
 思わず苦笑する婀摩に、緻胤は笑みを深くする。
 「そうそう、笑って送ってあげなきゃ。私がね、元気じゃないと『らしくない』っていうのよ。
 采がやれなかったこと全部、私と傑でやれって。ひどいじゃない?無理よって言ったら、蟷器や、支えてくれる家臣がたくさんいるんだから、やれないわけないって」
 身重とは思えない身軽さで、どんどん足を早くする太后に、慌てて婀摩が追いすがる。
 「だから、やれるだけやってみるわ。私が采の所に行くまで、もうちょっと時間があると思うから」
 軽く笑声すら上げて、緻胤はその日、堂々と葬儀に・・・いや、東蘭に臨んだ。




〜 to be continued 〜


 










初手がちょっぴりメルヒェン(笑)
わざわざ水精が雪を作らなくても、勝手に出来るもんだろ、とか言わないように。
それはさっき、作者が突っ込んだ事ですから(笑)
しかし、めっちゃ長かったですね、今回(^^;)
なにが文字数食ったかって、菎氏の長いおしゃべりなんですが・・・・・。
いや、マジなげぇよ、オヤジ!!なんでまとまらないんだ、オヤジ!(笑)
そして、前回から言っていた『死人』。四番手は流詩でした(^^;)
采を殺した時に、『殺す人間に情を移さないように』なんて、自身を戒めていたにもかかわらず、見事にはまりました、流詩!!(TT)
ねーちゃんが立派な葬式上げちゃるから、成仏してねぇ・・・・(TT)←いや、ブッティストじゃないと思うけど;;;
ほんとは蟷器と蔚の一騎打ちまでやりたかったのですが、菎のオヤジがおしゃべりだったせいで、文字数きちきち・・・;;;
次回にまわさせていただきます(^^;)
さて!今回、実は画期的だったんですよ!!緻胤とカナタが出会いました!!(しかもいい形で)
あー長かった・・・・。
この分だと、西桃編も長引きそうですね・・・(ふぅ・・)












Euphurosyne