◆  18  ◆







 自邸に帰ったかと思いきや、すぐに王宮へ引き返してきた枢蟷器(スウ・トウキ)を、彼の次官である菎兪晏(コン・ユアン)は慌てて迎えた。
 「閣下、このたびは・・・・・・」
 「よくやってくれた。蔚も、俺からの連絡が着く前に捕らえてくれたそうだな」
 「は・・・・・・」
 恐縮して顔を上げられない菎の肩を、蟷器は軽く叩く。
 「刑部尚書には、話は?」
 「はい、尚書僕射にもご理解いただきました」
 刑部尚書は法や刑罰を司る機関、尚書僕射が長を務める尚書省の一機関である。
 「後で俺からも詫びを入れておく。ご苦労だったな」
 「はい・・・・・・」
 菎の、もの言いたげな返答に気づかない蟷器ではない。
 「どうした?」
 蟷器の問いに、やや逡巡したのち、菎は顔を上げた。
 「白蘭殿をお守りできなかった私めが、申すのは気が引けるのですが・・・どうか、中書令閣下の罪を減じてはいただけませんでしょうか?」
 「中書令の?奴が首魁ではないのか?」
 やや皮肉げにゆがんだ唇を見上げつつ、菎は再びこうべを垂れる。
 「閣下にはもう、おわかりでしょう。あの方は蔚殿に謀られただけなのです。大逆などと、そのように恐ろしい事ができる方ではありません」
 それに、と、菎は顔を上げて、真っ向から蟷器を見つめた。
 「中書令閣下が蔚殿の名をおっしゃってくださらなかったら、彼を逮捕する事はできませんでした。どうか・・・」
 「それは妃殿下・・・いや、太后陛下がお決めになることだ」
 きっぱりと言って、蟷器は菎に背を向ける。
 「渤州候も、中書令も、その罪を全て明らかにし、陛下にお目にかける。その上で、陛下は裁可を下されるだろう。それ以前に、臣がどうこう言うべき事ではないだろうが」
 違うか、と、肩越しに鋭い視線で睨まれて、菎は声もなくうな垂れた。
 「本来これは、俺達門下省がやることじゃない。だが、特例として陛下は俺達に任せてくれた。その御意を、汲み取る努力は惜しまない」
 はっと菎が顔を上げた時には、既に蟷器は部屋から出るところだった。
 「閣下!」
 「まだ何か?」
 うるさげに足を止めた蟷器に、菎が急いで追い縋る。
 「王都に捕らわれていた者達の調書は、僭越ながら私めが預かっております。どうか――――」
 「あぁ。俺も、面倒なことは嫌いだ。お前が調べたことならば、間違いはないだろう」
 「ありがとう存じます!」
 勢いよく垂れた顔に、菎は笑みを浮かべすにはいられなかった。
 蟷器は、菎が丁寧に調べ、聞いた話をそのまま太后へ奏上するつもりなのだ。とすれば、あの太后の事、中書令の事情をおもんぱかってくれるに違いない。
 そんな希望を持てた事に、いや、持たせてくれた事に、菎はさらに深くこうべを垂れた。


 東蘭の王宮において、牢獄は外宮の東端にある。
 外観は、青い甍(いらか)で覆われた瀟洒な平屋建てだが、その建物は上よりもむしろ地下に深く広がっている。
 細長いその建物に入れば、まず目に付くのは地下に続く十あまりの階段。
 その全ては石造りで、外からの光を一切遮るものだった。
 傾斜がきつく、一つ段を踏み外せばそのまま階下まで一気に滑り落ちる。
 それが原因で、命を落とす囚人が少なくなかったため、かつて、刑部省の実務機関、大理寺卿であった蟷器が、階段の灯りを多くし、階下に厚い布を敷き詰めさせたのだった。
 その第一階層、地上の建物の床下に掘られた、明り取りの光がかろうじて届く独房には、王族や貴族など、身分の高い者が繋がれる。
 普段、滅多に使われないそこは、今回の件でほぼ埋まり、中級貴族にかろうじてぶら下がる程度の蔚は、その更に下、第二階層のかび臭い牢獄に繋がれていた。
 「・・・・・・傷の具合はどうだ?」
 剣呑な声に辛うじて見える右眼を上げると、小さな灯火に全身を照らされて、枢蟷器が幽鬼のように立っていた。
 「私が侍医であれば、空気の乾いた地で静養すべきだと申すでしょうな」
 蔚が粗末な寝台の上に腰掛け、悠然と足を組んで見せると、蟷器は軽く手を振って、灯火で彼の足元を照らしていた看守を下がらせた。
 「ここの看守達は、医術に関してはまるで素人で・・・ご覧下さい、この巻き方」
 右手を上げて、厚く包帯を巻かれた様を見せる。
 「簪(かんざし)で貫かれたと言うのに、消毒も縫合もせず、塗り薬を塗って、血止めに包帯を巻くだけとは。もしかして、私を獄死させるおつもりですか?」
 笑みを浮かべようとして、蔚は左頬を貫いた痛みに顔を歪める。
 「―――― 自業自得だろう」
 冷ややかに蔚を見下ろして、蟷器は低く呟いた。
 「お前が、采を殺した・・・」
 「まさか。私はそんな恐ろしい事などいたしません」
 包帯に覆われた半面を庇うように、蔚は左手をかざす。
 「渤州候を操り、東夷を国内に入れさせて、大司馬を操り、采の背後を襲わせた」
 「渤州候も大司馬も、日ごろの鬱憤が昂じただけの事でしょう。私はぞんじませんよ」
 烈しい痛みに左頬をかばう事もできず、蔚は苦しげに吐息した。
 「しらばくれるな!」
 思わず声を荒げた蟷器に、蔚は痛みを堪えて笑みを返す。
 「しらばくれてなどいない。本当の事です」
 私は手を下していないと、すっと両手を広げてみせる蔚を、蟷器は激しく睨みつける。
 「では、なぜ私の妻をさらおうとした?流詩を、なぜ殺した?
 格子に手をかけて詰め寄る蟷器の、手の届かない場所で蔚はたがの外れたように甲高い声を上げて嘲った。
 「なんの証拠があって、私があなたの奥方をさらおうとしたなどと?」
 「俺の邸の屋根から、いくつもの黒蓮が見つかった―――― 催眠の毒霧を流したものだ。
 菎の動きが速くて、回収する間もなかったようだな」
 「なぜ私をお疑いなさる。私がそんなことをするわけがないでしょう?
 あの遊女にしても、昨日の夕刻にはあなたのお宅から出ています。その帰途、拙宅に招いただけのことですよ」
 「白々しい事を・・・!」
 「慮外な。私は嘘などつきませんよ」
 「流詩は都でも指折りの妓女だ。招いた者をそのように傷つけるはずは――――」
 「酒の上での戯言が、このような事となり、私も残念です」
 指を組み合わせ、ゆったりとした表情で蟷器を見遣る。
 「あなたこそ、私に女を取られた恨みを晴らそうとなさっているのでは?美しい少女でしたからね、白蘭殿は」
 「では、あくまでお前は関わっていないことと言うのか?」
 「もちろんですとも」
 「渤州候や中書令の証言があってもか」
 「人というものは、自身を守るために様々な偽証をするもの。彼らのように、高い地位と多くの財産をもっていればなおのこと、人を陥れてまでも守りたいと思うことでしょう」
 「らしくもなく、陥れられたか」
 「買いかぶりでございましょう。私はあなたじゃない」
 どこからか入って来た風が、灯火を揺らして蟷器の影を揺らめかす。
 「・・・・・・流詩は、最期に何か言葉を遺したか?」
 低まった声に、蔚はわずかに眉をひそめた。
 「―――― 特には」
 やや間の開いた返答に、蟷器はここに来て初めて、笑みを浮かべた。
 「そうか。私の妻には、お前の事を底の浅い、鼠のごとき小者だと言ったそうだが?」
 闇の中で、蔚が不快げに眉をひそめると、蟷器は笑みを深める。
 「菎もだ。
 奴は流詩ほどあからさまではなかったが、中書令に、俺が倒れた時から変だと思っていたと言ったそうだ」
 「まさか・・・・・・」
 はっと、口をつぐんだがもう遅い。
 蟷器は、不用意な言質を取り逃がすような男ではない。
 「まさか?それは、見破られるはずなどなかったのに、という意味か?」
 かしん、と微かな音を立てて、蟷器が格子に背を預け、目線だけを格子の奥へと向けた。
 「だから底が浅いというのだ、お前は。
 菎がな、言っていたよ。西桃に学んだ典医のくせに毒に疎く、名のしれた貴族のくせに腰が低い。しかも、秘中の技を見せびらかす。疑うなというほうがおかしいとな。
 人を見るには知識だけでなく、その身にまとう雰囲気を嗅ぎ取るだけの経験が必要だと、たしなめられてしまった」
 揺らめく灯火の中で、陰の濃くなった微苦笑が奇妙に捩じれる。
 「お前が、東蘭の呪縛を断ち切ったような経験がな」
 片目を失った蔚には、その笑みが人の姿を借りた魔のように映った。
 いや、蟷器はまさに、蔚にとっての魔だった。
 彼から地位と、財産と、家を奪っておきながら、顧みもしない―――― 憎まずにいられようか。
 蔚は目の前に立つ、美貌と才能に恵まれた男から、自分が奪われたものよりもっと多く、もっと大切なものを奪ってやりたかったのだ。
 彼の友を奪い、妻を奪い、地位を奪って財産を取り上げれば、どれほど溜飲の下がることか。その思いだけが、かつて蟷器の前に立った蔚を冷静にしていた。
 しかし今、囚われの身に甘い幻想は寄り添ってくれない。
 「・・・・・・俺もお前から多くを奪ったが、お前も俺からかけがえのないものを奪った。もともと少ない友人の中の、ただ一人の親友をな。
 俺は自身の人間関係に関しては、他の追随を許さない吝嗇家(りんしょくか)だぜ。
 そんな俺から采を奪いやがったんだからなぁ・・・・・・とっとと白状しねぇと、死んだ方がましな思いさせてやるぜ?」
 低く、蟷器は蔚の聞いたこともないような過酷な言葉を投げかける。
 「っ東蘭の法において・・・・・・」
 「元大理寺卿に法を説くか?」
 蔚の言葉を遮って、蟷器が薄い笑みと共に毒に似た声音を吐きかける。
 「俺の前で、刑は大夫に及ばず、なんて嘯きやがった馬鹿どもが、今どこにいるか知っているだろう?」
 前王妃に追従し、私腹を肥やすために国土を思う様荒らした者達は今、その罪にふさわしい死を得て土の下で眠っている。
 「た・・・確かに采王を手に掛けたるは大逆だが、裁きもなく拷問する気か?!」
 それが公になれば地位を失うぞ、と脅す蔚を、蟷器は冷ややかに嘲って見下した。
 「馬鹿もほどほどにしろ。どうして俺が、看守を帰したと思う?」
 蔚は声を上げることもできずに狭い獄舎の中で、寝台から立ちあがり、剥き出しの石が積まれた壁際まで後ずさった。
 「下がっても無駄だと思うぜ?小弓で狩猟遊びも面白いかと思って、持って来た」
 言うや、蟷器は足元にちらつく灯火を持ち上げ、弱い光でそっと背後を照らして見せる。
 そこには、黒々とわだかまって光を吸いとる弩(いしゆみ)と、返しのないまっすぐな矢が、何十も収まった矢筒が無造作に置いてあった。
 一方、蔚は粗末な寝台のほかに家具のない独房に取り残されている。
 唯一の頼みの綱であった寝台も、その脚は深々と石畳に埋もれ、下には隠れる隙間もない。
 「俺の弓の腕は知っているか?」
 からかうように言い募る蟷器を凝然と見つめる蔚に、再び灯火を足元に置いて笑いかける。
 「どんな闇の中でも百発百中。それが俺の自慢だ」
 だが、と灯火を見下ろす。
 「こんな中途半端な、そのくせ目に染みる灯りを見ているとな、残像が邪魔して、暗い所が見えなくなるんだよなぁ」
 言いながら蟷器は、三人がどうにか並べる程度の、狭い廊下の壁際に寄った。
 その左手が矢に触れるほどの位置に立って、悠然と蔚を振りかえる。
 「一応、四肢から狙うつもりではいるが、万が一と言うこともある・・・・・・胸にでも当たったら、そうとう苦しいだろうなぁ?」
 蔚の顔が、闇を透かしてもはっきりとわかるほどに引きつった。
 彼は、人間が胸を撃たれてもすぐには死なないこと、肺を撃たれようものなら言語を絶する苦しみに襲われることを熟知していた。
 それでも、上ずりそうになる声を低めて言ったものだ。
 「典薬寮が黙っているわけがない!検死の際、理不尽な傷があったことを必ず告発するぞ!」
 「心配はいらん。艾(ガイ)殿が、采を弑したことにえらくご立腹でな。すぐには死なないが、死ぬほど苦しい拷問方法と言うものを教えてくださった」
 淡々とした返答に、蔚は今度こそ目が眩んだ。
 典薬寮の長が味方した以上、彼の横死が闇に葬られるであろうことは確約されたのだ。
 「お前が動けなくなったら、杏嬬に渡してやろうか?
 嬢・・・太后陛下は采を陥れた者達に対して自制され、公平な裁きを下されるだろうが、杏嬬はああ見えて抑制が効かない。
 娘同然にかわいがっていた流詩の仇を、娘と同じ目に遭わせるのにためらいはないだろう・・・・・・かわいそうに」
 最後に付け加えた言葉が、誰に向けて呟かれたものか、蔚は判じられぬまま石床に跪いた。
 「どうする?白状する気になったか?」
 囚人を嬲って愉しむ趣味は、蟷器にはない。
 「どうせ死ぬなら、さっさと吐いて死んだ方が楽だぞ。俺もお前も、疲れないですむしな」
 平然と言い放った蟷器に、床の地模様に目を落としていた蔚が顔を上げた。
 「わかった・・・全て話す」
 悄然とした声に、蟷器はゆったりと口の端を曲げる。
 「聞こう」
 滑らかではない口調で蔚が話したことは、既に蟷器や菎が予想していたことだった。
 蟷器に毒を盛って判断力を低下させ、大司馬と渤州侯を操って采を陥れた。中書令に兵を集めさせて王都を襲ったのは、その混乱に乗じて杏嬬を奪う為だったが、それは名前も知らない下級軍吏によって阻まれてしまった。
 仕方なく、杏嬬の誘拐は自身で行うことにしたが、それすら流詩によって阻まれたのだ。
 「結局私は、きさまの愛人を殺しただけだ。中書令達が何を言ったかは知らんが、この証言以外に確たる証拠などない」
 引きつった笑みが、蔚の顔に浮かんだ。
 「そう、証拠などないのだ、全くな!そんな状態で、どうやって罪を宣告する?!どんなに立派な論理を並べても、証拠がない以上、それは捏造(ねつぞう)だ!
 東蘭の大理寺卿であったきさまに、東蘭の法を踏みにじることができるのか?!」
 蔚の自信に満ちた声を黙って聞いていた蟷器は、にやりと笑ってもたれていた壁から起き上がった。
 「大理寺卿は、刑部省の実務機関。尚書省の中で最もしたたかな省の、最もしたたかな役職だぜ?」
 なぁ、と、蟷器が声を掛けた先で、いくつかの影が蠢いた。
 闇の中から灯火の微かな灯りが届く中に現れたのは、尚書僕射・朷(チョ)、刑部尚書・裴(ハイ)、蔚が陥れた中書令と渤州侯の背後にもう一人、太后・緻胤。
 「あなたの証言、確かに聞きましたよ」
 静かな女の声に、蔚は低くうめいた。
 「これだけの証人がいれば、もはや罪は逃れ得ぬ。おとなしく刑を受けなさい」
 「陛下・・・・・・!」
 蔚は何か訴えようとしたものの、その先が出てこない。
 「中書令、渤州侯。彼の言うことに、間違いはないのですね?」
 確認する緻胤に、二人は黙したまま右手を左胸に当ててこうべを垂れた。『誓って』偽りないと応えたのである。
 「では、彼にふさわしい刑を用意なさい。わたくしは、これ以上の関与を避けます」
 刑部尚書が恭しく承声を上げた背後で、しかし、蔚は絶叫した。
 「お待ちを、陛下!これは脅迫によって奪われた証言です!東蘭・・・いえ、大陸諸国において、脅迫による証言は無効であると定められているはず!どうか・・・」
 「証言を翻すのですか?」
 淡々とした、激昂の見えない声に、蔚は力を得て頷いた。
 「私は門下侍中に脅されて、このような証言をしたのです!どうか、彼の言など、お信じなさいませんよう・・・!」
 平伏する蔚を見遣って、緻胤は無表情のまま、蟷器に向かった。
 「そうなのですか?」
 「まさか」
 くすりと笑みを漏らす蟷器を、しかし、蔚は容赦なく弾劾する。
 「証言しなければ弩で撃つと言ったのは誰だ!陛下、どうぞ彼の傍らをご覧ください!幾本もの矢が・・・」
 「矢?」
 蟷器は嘲い、証言者達は怪訝な顔をして蔚を見遣る。
 「もしかして、これのことを言っているのか?」
 言うと、蟷器は灯火を取り上げ、蔚が矢と思ったものに近づけると、その先端に次々と炎を点していった。
 返しのない矢だと思っていたものが、実は細長いろうそくを束ねたものだとわかったのは、多くのあかりが狭い廊下を明るく照らした後である。
 「看守がそろそろ牢内に灯を入れる時間だと言っていたのでな、運ぶのを手伝った」
 いけしゃあしゃあと言い放って、蟷器が取り上げたのは、無造作に重ねられた燭台・・・。
 「影のいたずらが、これを弩にでも見せたか?」
 笑みを含んだ蟷器の声に、蔚は愕然としてうな垂れた。


 「―――・・・人が悪いわ」
 声をなくした蔚の独房を退き、中書令と渤州候を元の独房へと帰した四人が、地上へ至る長い階段を上っていると、最前の緻胤がぽつりと呟いた。
 「結果、白状したではありませんか」
 蟷器は他の臣下の手前、丁寧な口調で言ったものの、その声音は皮肉を含んで低い。
 「騙したようなものでしょう?こんな証言が有効なの?」
 背後も見ずに呟く緻胤の問いを受けた刑部尚書は、しかし、あっさりと頷いた。
 「件が件ゆえ、処刑は迅速が第一かと存じます。
 これにもし、冤罪の可能性があれば私としてもためらいますが、中書令殿と渤州候殿の証言は完全に一致しておりました。滅多にお会いになれないお二人が、こうも完全に口裏を合わせられるとは考えられません。
 更に申し上げれば、蔚の証言でございます、陛下。蔚が真に無実であったならば、中書令殿や渤州候殿の思惑など、知りようがないのですよ?」
 刑部尚書の答に、緻胤は黙したまま階段を昇り続けた。
 「・・・醜いのが、そんなにお嫌でしたか?」
 ややあって、ぽつりと呟かれた蟷器の言葉に、緻胤は思わず足を止めた。
 「貴女はただ、采王を弑したほどの男が、あのように無様で、愚かな人間だったことに幻滅しているだけでしょうが。
 怒りより、悔しい気持ちを抑えている。違いますか?」
 緻胤は自身のすぐ背後に続く蟷器をゆっくりと振りかえり、深い色の瞳で静かに見下ろした。
 「・・・これ以上、わたくしは彼に会うべきではないと思います。息子に、君主たるもの自制すべきであると教えるために。
 皆ご苦労でした。後の処理は任せます」
 それだけ言うと、緻胤はその後一切振りかえる事なく足早に去って行った。
 「・・・・・・無礼ですよ」
 たしなめるように囁いた刑部尚書を、肩越しに見遣って蟷器は薄く笑った。
 「今日はこれでも慇懃に接したんだがな?」
 「内容が無礼だと申し上げているのですよ―――― 相変わらず」
 微かに苦笑を浮かべる刑部尚書は、大学では蟷器より二つ下の後輩だった。入学に年齢制限などなく、在学も何年かかるかわからない最高学府ゆえに、年の差などに大した意味はなかったが、彼は蟷器を先輩と呼び、親しげに言葉を重ねた。
 「学院の主席でいらっしゃったころから変わらない。あの時あなたは、『王宮は年老いた妓女に似ている。化粧を糊塗して醜さを隠そうとする、その心根こそが醜い』とおっしゃって、国官の地位をお捨てになった」
 早く帰りたいと言わんばかりにそわそわしだした尚書僕射を先に行かせると、二人は並んでゆったりと階段を昇った。
 「なに、ちまちまと働いて少しずつ地位を上げていくよりは、前王の庶子を立てて玉座を奪ったほうが出世の早道だと思っただけさ」
 順当に尚書となったお前と違って、と笑う蟷器に、裴は声を上げて笑った。
 「言っておきますけど、私はほぼ実力で地位を得たんですよ」
 「大学を出るや、大理寺卿になったくせにか?」
 平民出身の官吏にとって、四、五品の位は死ぬまで働いても得るか得ないかの地位だが、貴族の子弟にとってそれは勤め始めの通過点である。
 裴は法家や学者を多く排出した名のある貴族の惣領息子だった。
 「そこは大目に見てくださいよ。先祖の実績に免じて」
 わざわざ蟷器の嫌う言葉を吐いて、裴は愉快げに笑う。
 「お前も変わってないぜ、裴。有名なお貴族様の惣領息子のくせに、気安くていらっしゃる」
 蟷器の、たっぷりと皮肉が混じった慇懃な言葉を、裴はこれまたおおげさなまでに恭しく受け取った。
 「でもね、先輩。普通のお貴族様は、大理寺卿になっても遊んで暮らすもんでしょ。なのに私は、ちゃんと働いて、采王陛下や冷酷無比のあなたでさえも認める仕事をしていたから、こうやって首が繋がっているんじゃないですか。
 こんなに真面目で清廉潔白で忠誠心あふれる好人物を虐めるなんて、感心しないなぁ」
 「自分で言うなよ」
 本気で呆れてしまった蟷器に、裴は明朗な笑顔で応じた。
 「だって私、性格以外にあなたよりいいもの持ってませんから」
 「いい性格じゃねぇか」
 「先輩に言われたくないです」
 「もとは俺の上司のくせに、先輩って言うな」
 「一瞬だったじゃないですか、上司なんて。言っときますけど私、もう二度とあなたの上司はごめんです。
 冗談じゃないですよ、刑部尚書を差し置いて、実権を握る大理寺卿なんて」
 うんざりと吐息して先に立った裴の背に、蟷器は苦笑して囁く。
 「ばーか。お前に任せたら、采の敵まで公正に裁いてたじゃないか」
 「あなたね・・・・・・それ、外で言ったら許しませんよ?いくら非常事態だったとはいえ、入牢(じゅろう)ですむ人間まで処刑したなんてばれたら、あなただけでなく私まで失脚です」
 「そうか、それでこの茶番に付き合ってくれたのか。いやぁ、持つべきものは人の弱みだな」
 「なんということを・・・。私をあなたに敵対した若君達と同じ目に遭わせるつもりですか?」
 「まさか。もう、あんな餓鬼っぽいことはしない」
 「じゃあ、さっきのはなんです?」
 苦笑を浮かべた顔で振り向いて、裴は蟷器と並んだ。
 「誰でしたっけ?嫌がらせに情熱を燃やしていた若様達を、狩猟ごっこの獲物にしたのは?山の中を一晩中狩られた恐怖と疲労に、精神を病んで、未だに療養中の人が何人もいますよ」
 「おや、犯人がわかったのか?」
 にやりと、剣呑な笑みを浮かべた蟷器に、裴は失笑気味に言った。
 「誰がやったかは想像つくんですけどねぇ。それこそ証拠がないし、私が犯人ではないかと疑った人はその時、佳咲(かしょう)のはるか遠く、岫州(じゅしゅう)おいて花嫁を得ていたんですから。
 まったく、悪魔のような人ですよ」
 「そりゃ、さすがに一人じゃ無理だなぁ。頭のいい共犯でもいたんだろうよ」
 軽やかに上がった笑声は、白く切り取ったように晩秋の日差しが差しこむ扉を間近にすると、不意に収束した。
 「久しぶりに会ったことですし、飲みにでも行きませんか?・・・・・・随分と大変な目に遭ったようですし」
 日差しのせいか、やや陰を含んで見える笑みを浮かべての申し出に、蟷器はふと、二歳年少の後輩に目を向けた。
 刑部尚書たる彼はきっと、蟷器が今回の件で更迭されるだろうことを知っているのだろう。
 そうでもなければここ数年、顔も合わせたことのない蟷器に声を掛けようともしないに違いない。
 しかし、旧友の申し出を、蟷器はただ首を横に振って応えにした。
 「そっか。姚香楼(ようかろう)で、白蘭のお葬式をやっていると言うから、お誘いしようと思ったんですけどね。やはり、先輩は賑やかに騒ぐ方がお好きでしたか。失敬失敬」
 「待てこら」
 言うや、蟷器は足早に地下から出ようとした裴の襟を掴んで引き寄せる。
 「相変わらずいい性格してるな、お前。過酷な宮仕えにも、全く淘汰されることなく歳を食ったか」
 「いや、先輩にだけは言われたくないですよ、ほんとに。行くんですか?」
 「もちろん。杏嬬に采配させているから、お前は入れないかもしれないが」
 「入れて下さいよ。私と先輩の仲じゃないですか」
 「・・・・・・どんな仲だ」
 「独身主義を標榜(ひょうぼう)しておきながら、裏切った男と裏切られた男の仲です。第一、私だって姚香楼の常連なんですから、主人は歓迎してくれると思いますけどね」
 これにはさすがの蟷器も返す言葉がなく、二人はそれぞれの省で緻胤に任された仕事を片付けると、落ち合って姚香楼へと向かったのだった。


 この日、姚香楼を訪れた者は、妓女など花町の住人でなければ、亡くなった白蘭と親しい間柄の人間のみだった。
 白い弔幕が張られた楼の中へ粛々と入った者達は、彼女の棺が納まった部屋の様子に、瞠目せずにはいられなかった。
 部屋には一枚の弔幕もなく、代わりに部屋中に飾られた白蘭が、透き通る花弁をあるかなしかの微風に震わせて、香華の代わりとかぐわしい香りをはなっている。
 華やかながら上品なしつらえの部屋から絶えず聞こえる、妙なる琴の音と歌声に、姚香楼の妓女によるものかと、興趣を引かれた者達は、更にその奏者と声の主の正体に瞠目した。
 なんと、奏者は花泉楼(かせんろう)の名妓・香蘭。歌い手は錦婁楼(きんるろう)の名妓・翠蘭だった。
 二人とも、花町においては高位高官を跪かせるほどの権威を誇る美女だ。
 そして、弔問客たちの瞠目は、白蘭の棺の傍らに座るもう一人の女に向けられた。
 透き通るような白い肌を覆うのはゆるく波打った淡い金髪。煙水晶の瞳に涙を湛え、長い睫毛を憂わしげに伏せている。
 名妓達に優るとも劣らない美貌に、多くの者達は彼女の正体を詮索せずにはいられなかった。
 姚香楼の妓女かと言い、いや、白蘭の親族だろう、姉に違いないなど、不謹慎にもひそやかな囁きが交わされる。
 中に田舎者がいて、五蘭花の一人だろうとしたり顔で頷いたが、蘭花全員の顔をよく知る者達の中で、この発言は甚だまずかった。
 謹厳なる葬儀の間は、途端に彼への嘲笑で満たされ、彼は羞恥のあまり顔を隠すようにして花町を後にしたのだった。
 だが、夕刻になり、二人の男が姚香楼の門をくぐった時に、その場にいた者達は謎の美女の正体をようやく知ることができた。
 「あなた・・・・・・」
 蟷器の姿を見つけるなり、立ちあがった女に、客達の視線が吸い寄せられる。
 「ご苦労だったな、杏嬬」
 「心よりお悔やみを申し上げます」
 蟷器と、彼の友人である刑部尚書を喪主として迎える門下侍中夫人に、弔問客達は先ほどまでより烈しい感情の渦巻いた視線を彼らに向けた。
 あわよくば酒席にはべらそうと思っていた女が、現王朝で権勢を誇る枢蟷器の妻だったのだ。悔しさと妬ましさの混じった視線は、自然と蟷器に移された。
 「―――― 内輪で、と聞いていましたけど、結構、賑やかなんですね」
 さすがは名妓、と、微笑する刑部尚書に、杏嬬も微苦笑を返した。
 「鈴娃(レイア)殿と寛奈(カンナ)殿が見えていると、噂に広まってしまったようで・・・・・・」
 失敗でした、と、眉を曇らせる杏嬬の背を、蟷器は励ますように軽く叩いた。
 「いや、お前はうまくやった。流詩も喜んでいるだろう」
 言うや、演奏を止めてしまった二人の愛妾の方へ行ってしまった夫の背を見つめていると、
 「奥方も、大変でしたね」
 苦笑気味に声を掛けられて、杏嬬は夫の友人を振り向いた。
 「わたくしは別に・・・」
 薄く微笑むと、裴は大仰に首を振る。
 「いやいや、奥方のような美女が危険な目に遭われたとは、いかほどのご心痛であったかとご推察申し上げる。不埒な者の存在を許したのは、この刑部尚書の責にございますれば、これより一層の努力を持ってあい勤めんものと存じます。
 そんなわけで、お詫びと言っちゃあなんですが、一緒に食事でもどうですか?一日中、家の中じゃくさくさするでしょ。俺、いい店を知って・・・――――」
 唐突に言葉が切れたのは、蟷器の、鋭すぎる翡翠の瞳と目があってしまったからだった。
 「な・・・なんちゃってぇ・・・・・・冗談でっす!」
 「葬儀の場で、いい度胸だな。出て行くか?」
 冷ややかな声に、裴は汗顔を深々と垂れた。
 「すみません、追い出さないでください」
 地位ある男達とは思えない、子供のような諍いに、杏嬬は微笑を浮かべずにはいられない。
 「どうぞ、閣下。流詩をお見送りください」
 「はい、ありがとう存じます」
 裴は杏嬬から弔花を受け取ると、粛々と棺に向かった。
 「―――― 偉かったな、白・・・いや、流詩。大逆の黒幕を捕まえてくれてありがとう」
 穏やかに言うと、白絹に覆われた少女に花を手向ける。
 「惶帝陛下の御元にあれ。華南将軍に起こされるまで」
 死者への祈りを厳かに済ませると、再び杏嬬に向き直る。
 「では、私はこれで失礼致します」
 にこりと笑って、裴は東蘭人にしては色の薄い、茶色の瞳を和ませた。
 「まぁ・・・もうお帰りですの?」
 「ええ。早々に退出しなければ、枢閣下に虐められますのでね」
 冗談めかした口調で、納室を見まわす。
 「彼らも連れて行きましょう。お邪魔でしょうから」
 裴と目が合うや、慌てて逸らし、または会釈する男達に柔和な笑みを浮かべて彼は視線を杏嬬に戻した。
 「奥方の方がよくご存知でしょ、あの人の性格。人目があるところでは、意地でも愁嘆場を見せやしませんよ。
 一度あの人の泣くところが見たいんですけどね・・・って、こんなこと言ったなんて、告げ口しないでくださいね。
 あの人、穏便で人当たりのいい私でさえ一刀両断にしてしまうほど意地が悪いんですから、こんなことを知られては私、虐め殺されてしまいます」
 よく舌の回る男を穏やかに見返しながら、杏嬬は、よくこんな人の良さそうな人が刑部尚書など勤められること、と、意外に思わずにはいられなかった。
 「じゃ、閣下!先に失礼しますね―!」
 葬儀にはふさわしくない大声で蟷器に言うと、そのまま部屋の隅に固まっていた男達に歩み寄り、何事か囁いて一緒に部屋を出ていってしまった。
 それを見た杏嬬が、
 「まぁ・・・確かにお口はお上手なのかもしれないわ」
 と、珍しく呆れた様子で呟く。
 「あなた・・・」
 呼びかけると、既に女達は座を去って、いつのまにか杏嬬は、広い部屋に夫と二人きりになっていた。
 「・・・・・・出ていましょうか?」
 杏嬬の申し出に、しかし、蟷器は首を横に振る。
 なので、杏嬬は彼のそばに行って、何も言わずに棺の傍らに腰を下ろした。
 そのまま軽く両腕を開いてやると、蟷器は黙ってその中に収まった。
 「・・・お辛うございましたわね」
 声を掛けても、微かに頷く以外に返事はない。
 それ以上は一言も口にせず、杏嬬は子供をあやすように―――― かつて流詩にしたように、優しく蟷器の背を撫で続けた。


 前東蘭国王の葬儀を終えたばかりの夜。
 王宮の一室で、我が物顔に振舞っていたカナタは、南薔からの客人に捕まり、その目の前でうな垂れていた。
 いや、目の前、というのには語弊(ごへい)があるか。
 客人はカナタより頭一つ分はゆうに大きく、二人が意識なく向かい合えば、その目線が合わさることは決してないのだ。
 「聞いているか、カナタ?!」
 何を言っても反応のない彼に、業を煮やして声を荒げると、カナタはうな垂れていた顔を上げた。
 「ごめんってば、蒋赫(ショウカク)」
 「それだけか?!」
 「すみません」
 朗々とした声に怒鳴られて、再びカナタがうな垂れる。
 「違うだろう!『もうしません、奪ったものは返します』だろう!!」
 南薔中、いや、世界中の人間の中で、カナタの身分と美貌に全く遠慮することなくものが言えるのは彼一人だろう。
 南薔王となった沙羅ですら、直言できない唯一の男を、蒋赫は堂々と怒鳴りつける。
 「麗華も!どうせ一緒にいるのなら、少しはこいつの無茶を諌めてはどうなんだ!?」
 カナタの影の中にまで飛んできた火の粉に、彼に憑いている薔薇の精霊は、恐る恐る中から顔を出した。
 『・・・そんなに怒ることないじゃない』
 非難めいた口調に、蒋赫の烈しい視線が容赦なく突き刺さり、麗華は慌てて元いた場所に帰った。
 「互いに抑制は効かんのか、貴様ら!!!」
 歌手など相手ではないとばかりに、彼の声は室内を震わせる。
 「しょ・・・将軍、どうか落ち着いてください」
 止めに入った英華をも、荒く息をつきながら蒋赫は烈しく見据えた。
 「貴女も危地に立たされたことをお忘れなく!陛下は大変お怒りです」
 その言葉に、英華は息を呑んで立ち竦み、豪奢な部屋の隅で、筝は更に小さくなった。
 「大変ってあいつ、いっつも怒ってんじゃ・・・」
 「反省しているか、カナタ?!」
 余計なことを言いそうになったカナタの口を怒気で塞いで、将赫は改めて筝を見据えた。
 「筝殿、貴女は前王陛下によって入牢させられた身でしょう。それを、いくら聖太師に導かれたとはいえ、陛下のご沙汰もなしに牢を出られるとはどういうご了見か。これでは貴女が、陛下を蔑ろにしたといわれても反論のしようがないではないか!貴女らしくもなく、無分別なことをなされたな」
 カナタを押し退け、筝に近づこうとする蒋赫の行く手を、カナタが慌てて遮った。
 「ちょっと待てよ!筝殿をどうする気だ?!」
 「俺は陛下より、筝殿を引っ捕らえて来いとの命を受けている。できることなら、勝手に東蘭王の葬式なんぞにでしゃばった太師も連れて帰れと言われているが、どうする?」
 「なんで俺があいつの命令を聞かなきゃならないんだ」
 「そうか」
 むっとして刃向かうカナタをあっさりと押し退けて、蒋赫は筝の前に立ち、懐から書状を取り出した。
 「筝汪花(ソウ・オウカ)。勅命である」
 冷厳な言葉に、筝は黙したまま膝を折った。
 「大逆の疑いありながら、赦しもなく牢よりいでしは大罪である」
 歌うように音律を伴った低い声が、しんしんと筝の頭上に降り注ぐ。
 「南薔王の名に於いて、その方に死を賜る―――― もって逆らうことなかれ」
 「やめろ、蒋赫!!」
 カナタは書状をひったくろうと手を伸ばしたが、逆に蒋赫によって腕を掴まれ、ねじりあげられてしまった。
 「邪魔をするな、カナタ。お前が手出しさえしなけりゃ、こんなことにはならなかったんだぞ」
 「裁判もなしに、冬も間近の獄に繋いでおくのが正しかったと言うのか?
 言っておくが、初冬まであの牢に繋がれていたなら生きちゃいなかったぜ?!」
 「・・・陛下以外の女には優しいのだな、相変わらず」 
 「あぁ。あいにく俺は、美人が好きなもんでね―――― お前と違って」
 余計な一言に、蒋赫の目は険を増し、彼の手から逃れたカナタも、筝を背後に負けじと睨み返す。
 「南薔の臣下として、陛下を公然と侮辱することは許さん」
 「情人として、だろ。
 蓼食う虫も好き好きと言うし、俺は人の好みをどうこう言うつもりはないが、お前は趣味が悪すぎる!
 顔が悪いの我慢できるが、あんな性格の悪い女に玉座を与えようなんて、どうかしているぞ!」
 すさまじい暴言に、しかし、蒋赫は怒らなかった。
 代わりに、真冬の冷気に似たものがカナタに吹き付ける。
 「その言葉、そっくりお前に返すぞ、カナタ。
 前王陛下は、よくもお前のような傍若無人の輩に聖太師の位をくれてやったものだ。
 それこそ、狂人に刃物を持たせたようなものではないか」
 「俺が今まで、権威をかさに弱い人を虐げたことがあったか?」
 「南薔王に無断で大逆の罪人を解き放ち、勅命なく他国に入った上に聖太師としての処遇を望んだ。これが、権力をかさにきない者のやることか?掟を乱すような者に、聖太師の座はふさわしくない」
 「・・・それでお前が、正使としてわざわざやって来たわけか。お忙しいことだな、将軍」
 「山の太師と違って、ただでさえ忙しい俺を、くだらんことで煩わせるな」
 暴言の応酬を終えるや、すさまじい眼光でにらみ合ったまま凝固した二人の側で、英華と筝がただおろおろしていると、厳重に人払いをしていたはずの扉が開いて、南薔王の妹が気安げに顔を出した。
 「こんにちは、皆さん。ご一緒にお茶でもいかが?」
 そう言って、寒風吹きすさぶ二人の男の間ににこにこと入ってくる。
 「東蘭・・・太后陛下・・・」
 不意の来訪に、蒋赫が毒気を抜かれて呆然と見遣っていると、緻胤は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆったりと会釈した。
 「これは、お客様とは知らず、失礼を致しました。たしか、南薔のご使者様・・・?」
 お邪魔でしたか、と、微笑みかけてくる緻胤に、カナタは吐息を漏らして張り詰めた気を緩めた。
 「ちょっと、喧嘩してました」
 いたずらを目撃された子供のように、気まずげな笑みを浮かべて、カナタは緻胤に向き直る。
 「そのようですわね。いけませんよ、同国人同士、喧嘩をなさっては」
 穏やかにたしなめる姿には、嫌味も皮肉もない。
 ただ、母親のような慈愛が、彼女の周りに漂っていた。
 ―――― おそらく、この女性(ひと)はよい母親なのだろう。
 蒋赫はふと、そう思った。
 そして、孫にとっては優しい祖母になるに違いない。
 そんな、遠い将来のことを思いながら、蒋赫はなぜ、この国一番の貴人がここにいるのか、とも考えていた。
 確かにこの国の礼部尚書――― 条の接待は、カナタの好みではないだろうが、緻胤太后が自ら相手をしなければならないほど、この男はわがままを言い放ったのか?
 額の奥で、鈍い痛みが拡散してゆき、蒋赫は頭を抱えずにはいられない。
 そんな彼を無視して、カナタは緻胤に、蒋赫との喧嘩の原因を訴えていた。
 「筝殿はね、何もしていないのに、大逆の罪で前王と今の王が彼女を投獄したんですよ。気の毒に思って私が出してあげたら、勝手なことしたから処刑だそうです。理不尽ですよね」
 「あらまぁ・・・それは林彼様がいけません。無実かどうか判断するのは、刑部尚書や大司寇(だいしこう)の負うべき役目ですもの。邪魔しちゃいけないんですよ?」
 「太師でも?」
 「だからこそ、ですよ。法の乱れは国の乱れる元、といいますでしょ?」
 同じ言葉でも、蒋赫から頭ごなしに怒鳴られるのと、緻胤に穏やかな口調で諭されるのとでは、納得するまでに要した時間は雲泥の差だった。
 「そっか。俺が悪いのか」
 「・・・俺とはえらく差別するじゃないか、聖太師猊下」
 蒋赫の皮肉げな声を無視して、カナタは緻胤に軽く会釈した。
 「でもね、緻胤殿。私は筝殿が悪くないと知っているし、彼女を裁く者達が公平をきすかどうかが甚だ疑わしい。
 どうにかして助けてあげたいと思っているんですよ」
 「確かに、姉は一途なところがありますものね・・・」
 物は言いようである。
 カナタなら、『わがままで頑迷』と、一刀両断にするところだ。
 「私がお口添えできればいいのですけど・・・」
 その一言に、猛禽を思わせる素早さで男達が迫った。
 「そうだ、わが国へご同行しませんか、緻胤殿」
 「実は、南薔王陛下より、前王陛下の国葬の為、ご来薔(らいしょう)頂きたいとの親書を預かっております」
 それらの言葉に、男達は一瞬、烈しい視線を見交わした。
 互いに、相手が何を考えているのか、探る目つきである。
 だが、二人は自身の疑惑を胸の裡(うち)に押し込めて、一見穏やかに緻胤の返答を待った。しかし、
 「行きたい気持ちはあるのですけど、私はもう、東蘭の太后です。軽々しく国を空けることはできません」
 一瞬も迷うことなく言いきった緻胤に、カナタは落胆の他に清々しさをも感じずにはいられなかった。
 それは、蒋赫も同じだったのだろう。
 変に気を持たせるようなことをしない太后に好感を持ったらしく、良い声を上げて軽く笑った。
 「お決めになるのは、わたくしが陛下に正式にお目にかかってからでも遅くはないはずです。
 どうぞ、皆様に計られてから、お返事をくださいますよう―――― 聖太師よりのお声掛りでもあるわけですし」
 意味ありげな視線をひと睨みして、カナタもゆったりと微笑んで見せた。
 「でも、冬になればとても寒くなるところですからね。お腹のお子のためにも、あまり無理はしないように」
 「ありがとう存じます。ところで私、皆さんをお茶にお招きしようと思って参りましたのよ」
 それ以上の論争を止めるように、緻胤が話題を転じたので、二人は互いに舌鉾を収めた。
 「私はご遠慮致します」
 と、将赫。
 「ぜひ、同席させてください」
 と、カナタ。
 二人はその容姿と同じく、正反対の答を告げたのだった。


 白蘭の葬儀に赴いた夜。そのまま姚香楼に泊まろうとしていた蟷器を、どうやって探し出したものか、王宮からの使者が迎えに来た。
 「・・・・・・・・・っあの夫婦は!!そろいも揃って人の愉しみを邪魔しやがってっ!!」
 かつて、采にも楽しい夜を邪魔された蟷器である。緻胤よりの突然の呼び出しに、苦々しく吐き捨てた。
 「今度はなんだ?南蛮の王でも死んだか?!」
 「さ・・・さぁ・・・・・・」
 使者はちゃんと用件を聞いていたのだが、この剣幕に『一緒にお茶しましょう』などという言葉を伝える勇気はなかった。
 「と・・・とにかくいらっしゃってください」
 「醜い顔に愛想笑いなんぞ浮かべるな、気色悪い。拝命したと伝えろ!」
 むちゃくちゃな暴言を振りまわして使者を追い払うと、蟷器は姚香楼に預けていた朝服に着替えて伺候した。
 が、王宮の広間に、彼を呼びつけたはずの王妃の姿はない。
 「どぉこにいやがるが、小娘ぇ〜〜〜!!!!」
 不敬なことを呟きながらうろつく蟷器を見つけた侍従が、慌てて緻胤のいる場所まで案内して行った。
 太后となった彼女は、夜になっても後宮に帰ることはなく、正殿に移った傑の寝室の隣に一室を賜っている。
 「こぉ〜こぉ〜かぁ〜〜〜〜〜〜!!!」
 「なまはげ?!」
 「誰がハゲだ!!」
 扉を開けた途端、突如あがった男声に、蟷器は鋭く返した。その視線の先に、南薔の若き聖太師の笑顔を見止めて、蟷器はわずかに眉をひそめる。
 「将来の悪口を今言われてると思えばいいじゃん。いずれはハゲるんだから」
 「・・・なんでここにいるんだ、馬鹿太師」
 「うっわ、無礼」
 「傍若無人なお前に言われたくない」
 「いや、それは俺のセリフでしょ」
 軽く毒舌の応酬を済ますと、蟷器はその場にカナタと緻胤の他には緻胤の忠実な侍女である婀摩(アーマ)しかいないのを確かめて、勝手に太后と太師に同席した。
 「で?西桃王が死んで、聖太師に弔問に来るよう、要請でもあったか?」
 帰れ帰れ、と、手を振って追い払う仕草をする蟷器に、カナタがむぅ、と口を尖らせる。
 「まったく、あなたってなぜそんなに無礼なの?林彼様に失礼でしょ」
 という緻胤の言葉にも、
 「所詮、山の珍獣だろうが。
 おとなしく神殿にいれば、守護獣として敬ってもらえるというのに、わざわざ人里に下りてきて小心な俺の部下達を苛めんじゃねぇ」
 と、いたって機嫌悪く答えたのだった。
 「んもう!これでもと礼部尚書だなんて!東蘭の品格が疑われるじゃない!」
 「豪胆な太后陛下や物知らずの聖太師猊下も、意外と国の品格を損なうものだと思うけどな」
 「う〜ん。返す言葉もない」
 「いや、納得するなよ、そこで」
 思わず突っ込みを入れた蟷器に、しかし、カナタは曖昧に笑った。
 「だって俺、知らないこと多いもん。
 よいかね、門下侍中。人と言うものは、全て知ったと思いあがってはいけない。日々万物を師とあがめ、常に新たなる発見をして・・・」
 「お前が言うと、なんでそんなに嘘臭いかな」
 しかも陳腐、と、胸に刺さる暴言を吐いてカナタの長広舌を遮ると、蟷器は緻胤に視線を移した。
 「で?なんで俺が呼び出されたんだ?」
 「一緒にお茶しようと思って」
 「・・・・・・いつも冗談のきっつい女だと思っていたが、今日はまた最低の冗談だな」
 「冗談なんかじゃないわよ。相談があるんだもの」
 「個人的な相談なら婀摩にでも聞いてもらえ。公の相談なら朝議にはかれ」
 「だーかーらぁ〜〜〜!!!!なんでそんなに無礼なのよ、あなたは!!」
 「あのな、嬢ちゃん。自分が今、東蘭の太后陛下だと自覚しているか?他国の有力者の前で、簡単に相談なんかしてんじゃねぇよ。
 カナタ、お前も聖太師として自覚がなさすぎる。こんな話が出たらとっとと出て行け」
 憮然と命じられたカナタは、軽く首を傾げた後、頷いて立ちあがった。
 「お茶をありがとう、緻胤殿。また傑陛下と遊ばせてくださいね」
 そう言って、隣の部屋でまだ幼い傑を寝かしつけていた英華と筝を呼ぶと、護衛もつけずに自身にあてがわれた部屋へと帰って行った。
 「・・・奴もかなり変わっているな」
 聖太師の背を見送った蟷器は嘆息して、婀摩の手から緑茶の入った茶器を受け取った。
 「まさかあなた、南薔でもこんな調子だったんじゃないでしょうね?」
 六年前、礼部尚書の地位にあった蟷器は何度も南薔に赴いて、ちょっと人には言えないような仕事をしていた。
 前南薔王、精纜(セイラン)の第三子を、南蛮王の子ではないと証明し、彼―― 男子であった―― から王位継承権を奪って、傑王子に彼が得るべき権利の全てを贈ったのだ。
 その時に彼は、前王と現王のほか、東蘭が領有していた東州を治めていた老婆と王の親しい友人、カナタに出会ったのである。
 「以前から、そりゃあ変わった奴だったが、いまだあの気安さは変わらずだ。
 異常に傲慢かと思いきや、意外と繊細な心遣いを見せたりする。
 なんだか・・・そう、誰かに『傲慢に振舞うべきだ』と強要されているように見えるんだな。
 あんな奴には、真面目ぶった礼儀正しさとか卑屈なほどにへりくだった態度は逆効果だ。
 若い庶民に接するように、こっちも気安げに話を持っていった方がよかったのさ」
 今のあんたみたいに、と、蟷器に笑いかけられて、緻胤は得心したように頷いた。
 「なるほどねぇ。確かに、林彼様は堅苦しい条(ジョウ)礼部尚書よりあなたのやり方がお好きそうだわ」
 本来、宮殿の外にある大神殿に留まらなくてはいけない彼が、少々(?)わがままを言って王宮に一室を求めたのは、一つに礼部尚書や大神殿に仕える神官達の、仰々しいもてなしに辟易したからだと言う。
 故に緻胤が、寡婦となったばかりの女性としてはあるまじきことに、自ら彼に気を払っているのだった。
 「・・・・・・あんまり深入りするなよ」
 「え?」
 蟷器の、嫌に真剣な口調に、目を丸くして問い返すと、彼は椅子の背もたれに身体を預けて緻胤を見遣った。
 「奴を側近くに置くのは、あまり感心しないといっている」
 「あなたにまで言われるとは思わなかったわ。夫を亡くしたばかりで、もう別の男性を追いかけているなんて、本気で思っている?」
 やや傷ついたように眉をひそめる緻胤には答えず、蟷器は側に控える婀摩を見遣った。
 「お前はどう思う?」
 婀摩は蟷器に、返答を固辞するような素振りを見せたが、再度問われ、また、緻胤にも返答を求められて、曖昧な笑みを浮かべながら首をかしげた。
 「太后陛下におかれましては、そのようなご心配は無用の事と思われます。
 陛下は采王陛下の御世には良き妻であられ、良き王妃であられましたし、現在は傑王陛下の良き母、良き太傳(たいふ)にあられます。
 そのようなご心配は邪推であり、陛下に無礼なことであると存じます」
 無礼をお赦しください、と、婀摩は深く膝を折った。
 太傳とは官吏を束ねる三公の一つであり、王が成人に達しない時、王を補佐する官名である。
 東蘭は緻胤が王妃であった時の賢明な態度や、領有する地の善政を評価して、彼女を太后に据えるのと同時に太傳の位を献じたのだ。
 名実共に東蘭第一の女性である緻胤は、満足げな笑みを浮かべて婀摩を立ち上がらせると、『どう?』と、ゆったりとした笑みを蟷器に向けた。
 「殿方は嫌だわ、すぐに邪推して。私はそんな、浮気性の女ではありませんよ」
 「そんなことは知っているさ。あんた実は、男嫌いだからな。だからこそあの、男の匂いどころか、人間の匂いすら希薄なあいつに、惹かれるんじゃないかと心配している。」
 茶器を持ち上げようとした緻胤の手が、途中で止まる。
 「私が男嫌い?」
 意外そうに目を見開き、失笑気味に笑う。
 「夫も子供もいる私が?」
 「じゃ、俺みたいな男は好きか?いや、采以外の男を、夫とする勇気はあるのか?」
 翠の瞳に見据えられて、緻胤は彼女に似合わず居竦んだ。
 「ゆ・・・勇気とかの問題じゃなく、私は寡婦としての節を守っているつもりよ。王母として、太后として、当然のことじゃない?」
 「本気で言っているとしたら、あくびが出そうなくらい模範的な回答だ」
 「蟷器・・・!」
 怒気を含んだ声に、蟷器はにこりと笑みを浮かべる。
 「あんたの両親は、あんたが生れる前からいがみ合っていたんだろう?」
 蟷器の言葉は質問形ではあったが、既に答えを断定している。
 緻胤は言葉を封じられた形で黙り込んだ。
 「南薔と自分自身を奪われた精纜女王は、自分が産んだ子供を名前も付けず、俺に渡した。
 沙羅王女は、初対面の外国人にさえ、はばかることなく南蛮王・・・失礼、南海王を弾劾した。
 あんたは?」
 蟷器が、ほんのりと湯気の立つ茶器を取り上げ、一口すするだけの時間を与えたにも関わらず、緻胤は黙したまま彼を見つめていた。
 「あんたも、沙羅王女と同じ場所で、同じものを見て、同じ音を聞いたはずだ。なのになぜ、あんたは南海王に好意的なんだ?」
 「・・・娘が父親を愛することに、不自然があって?」
 茶を喫していたとは思えないほどかすれた声に、蟷器はあっさりと頷く。
 「この場合、不自然すぎる。
 父親が、あんたを母親達から隔離していたと言うならともかく、あんな毒気の側にいながら染まらないなんて嘘だ。
 あんたは父親と言うものは・・・いや、『夫』や『男』などという生き物は、女を殴り、無理やり屈服させるものだと思ってないかい?」
 沈黙を守ろうとする緻胤の意志を裏切って、血の気が音を立てて引いて行く。
 「今から思うと、あんたが嫁いで来た当初の怯えようも納得できる。
 あの時は皆、お姫様育ちのあんたが、未だ戦乱の残るこの国を恐れているんだと思っていたけどな。あんたは国なんかじゃなく、采自身に怯えていたんだ」
 「・・・・・・そうね。確かに私は、私を囲む男性方に怯えていました。でも、考えてもごらんなさい、私が生まれた国では、王妃や王女が後宮から出ることなど許されません。
 物心つく前から、周りは侍女と宦官ばかりで、父以外の男性など見たことがない。それなのに、顔も知らない人に嫁いだ途端、一斉に男性に囲まれてしまったのよ。怯えずにいられますか」
 強いて端然と話しているうちに、緻胤は本当に落ち着きを取り戻すことができた。
 「それに、采は外見が恐かったでしょ。本当は優しい人だとわかるまでに――― 私を殴ったりしない人だと確信するまで、ちょっと時間がかかったけど、それ以後は私、采の妻としても、王世子の母としても、立派に振舞ってきたつもりよ。
 それに今は、太后の位の他に、太傳の位まで頂いてしまったわ。自分勝手な好悪で感情的に朝を動かす気はないから安心して」
 そう言いながらも、自身が完全には家臣達の信頼を得ていないと知る緻胤である。
 彼女は、彼らが自身に下す評価―――― 強く、慈悲深く、賢明なる太后という評価に浮かれはしない。
 その評価は、『政治や法を知らない小娘にしては』という但書きが付くものであったし、さらにそれは彼女の父が、母への恋情に狂った途端に喪ったものと同じだったからだ。
 「本当に、あんたがものわかりのいいお嬢ちゃんでよかった。
 一応俺としても、東蘭王の嫁になる娘のことは調べさせてもらったんだがな、結局ぎりぎりまで、姉か妹かでもめていただろう?
 両方の性格を比較していたんだが、俺個人としては、妹に当たればいいなぁと祈っていたんだぜ」
 祈るだけでなく、画策もしたことは、この際言わなくてもいいことだった。
 「今ごろ南薔でも、現王と隣国の太后を比べて、『緻胤太后がうちの女王になってくれないかなぁ』と思っている奴らがいるんじゃないか?」
 「まさか・・・・・・」
 笑おうとするが、緻胤はそれ以上、言を継ぐことができない。
 「その急先鋒があの馬鹿太師であり、南州侯だろう。その証拠に、南薔の正使が慌ててやって来た」
 聖太師であるはずの林彼に対して、憤りもあらわに声を荒げていた彼。
 しかし、
 「それなら彼は、私を南薔へ入れたくないはずよね?でも私、その彼から、南薔への招待を頂いちゃったの。お姉様からの親書よ。
 お母様のお葬式に出てくださいって言われたのだけど、そしたら逆に、林彼様の方が招待を渋られたみたいで・・・だからあなたを呼んだの。どうしたらいい?」
 「その前に。親書を受け取って、あんたはなんて答えたんだ?」
 「まだ受け取っていないわ。
 行きたい気持ちはあるけど、私は東蘭の太后だから、軽々しく国を空けることはできませんと答えておきました」
 緻胤の優秀な答えに、蟷器は満足げに頷いた。
 「うん、気の利いた答えをありがとう。
 南薔の玉座に野心があるならともかく、覚悟もないままあの国に触るな。沙羅王は南海王に似て、直情的だからな、無闇に触ると大火傷をするぞ」
 「ええ、知っているわ。お姉様は決して認めないでしょうけど、お顔もご気性も、お姉様とお父様はそっくりなの。だからこそ、そりが合わないのかもしれないわね。
 あぁ、そうだわ、蟷器。明日にでも、正使殿がお姉様からの親書を持って、謁見に来ると思うの。
 事が事だし、無下にはできないわ。なにかもっともらしい理由をつけて、ご辞退する旨、起草してちょうだい」
 本来、公文書の起草は、門下省ではなく中書省の管轄である。が、その長である中書令は現在、虜囚の身だった。ならばその次官に命じるところだが、緻胤はあえて起草を蟷器へ命じると、ふと、ふっくらとした頬に手を当てた。
 「ねぇ、蟷器。この仕事を終えたら、しばらく休暇を取らない?」
 「いいね。ちょっと、息抜きしたかった頃だ」
 てらいもなく笑みを返してくる蟷器を、しかし、緻胤は屈託の影が澱んだ目で見つめ返した。
 そのまま言葉を継げないでいる太后に、蟷器は手を伸ばして、その柔らかい髪に覆われた頭を軽く叩いてやる。
 休暇、と緻胤は言ったが、実際のところ、それは門下侍郎の更迭である。
 東蘭に争乱を呼び込んだ原因が蟷器にある以上、乱を収めた功績があるにしても、一時的に彼を更迭しないわけには行かないのだ.。
 いかに緻胤が信を寄せているとはいえ、いや、だからこそ、緻胤は公平な裁決を要求されている。
 それがわからない蟷器ではない。
 「俺が先に言おうと思っていたんだが、先を越されちまったな」
 鮮やかな笑みと共に言うと、若い太后の頭から手をどけた。
 「あんたの判断は正しい。気にするな」
 そう言い置いて、席を立とうとする蟷器を、止めるように緻胤は声を上げた。
 「休暇は、そう長くはあげられないわよ。
 佳咲(かしょう)を出てもらっては困るから、旅行はしないで。商売を始めようなんて、長期的な計画も止めてね。
 遅くとも来月の終わりにはあなた、中書令なんだから」
 婀摩が淹れ直した茶から盛んに立ち上る湯気の影で、緻胤の口元がわずかにほころんでいる。
 「・・・・・・来月、といえば十日後じゃなかったか?」
 「それまでに、私はがんばって論功行賞と処刑をしなきゃね。
 特に処刑!あなたが渤州候を、菎が中書令を庇うものだから、署名して判を押すだけだった書類が全部無駄になったのよ。
 まったく、こんな時にこき使ってやりたいのに、よりよって休暇だなんて」
 「あんたがくれたんだろ。じゃぁ、そうだな。俺はその間、おとなしく謹慎していようか・・・」
 免職は一時的なものだと、他ならぬ太后が明言しているが、それが彼の輝かしい経歴に傷をつける事には変わりない。
 傷を致命傷にしないためにも、ここは大人しくしていようと言う蟷器に、緻胤は鮮やかな微笑を向けた。
 「家でじっとしているの?それは、杏嬬が喜ぶでしょうね」
 「まぁ、嫌がりはしないだろうな」
 訝しげに同意する蟷器に、緻胤はさらに笑みを深める。
 「いい機会じゃないの。杏嬬に、子供を産ませてあげなさい」
 「はぁ?!」
 意外な命令に、蟷器は声を上げずにはいられなかった。
 「なんだ、いきなり!俺はガキなんかこさえる気は・・・」
 言いかけたが、緻胤の厳しいまなざしに見据えられて、蟷器は声を失った。
 「結婚した女にとって、石女(うまずめ)と呼ばれることは最大の屈辱よ。
 私は幸い、そうでないことを証明できたけど、結婚して何年にもなるのに、未だに杏嬬は身ごもった事がないそうね。
 あなたが杏嬬を大切に思うなら、彼女を労わってやってちょうだい。なにより今は、とても辛い思いをしているでしょうから」
 白蘭のことは、緻胤の耳にも入ってきていた。
 杏嬬が、娘のようにかわいがっていた少女を殺されたと聞いて、緻胤も心を痛めたものだ。
 「あなたは子供なんか欲しくないでしょうけど、杏嬬は心から望んでいると思うわよ。
 私も楽しみだわ。あなた達の子供なら、そりゃあきれいで頭のいい子でしょうよ。
 どう?女の子だったら傑の妃にしない?」
 勝手に話を進める太后に、蟷器は弱々しく抗議の声を上げたが、それはまさに蟷螂の斧とばかりに、緻胤に撃砕された。
 「望んでも子を得られない女だって多いのです。杏嬬はちゃんと子供を産める可能性があるのに、あなたの勝手で産ませないなんて許さないわ」
 それに、と、緻胤はその腹部に手を当てた。
 「男の子でもいいじゃない。もし、この子が女の子だったら、お嫁さんにもらって欲しいし、男の子でも遊び相手になってくれるでしょうからね」
 東蘭で最も信頼のできる蟷器と姻戚関係を結ぶことを、緻胤は以前から考えていた。
 彼女の息子、傑が王権を維持するためには、強大な臣下の後ろ盾が必須なのだ。
 「あなたはもう、無名の学生じゃないの。権臣としての責任を果たしてちょうだい」
 言いたいことを言ってしまうと、緻胤は蟷器に退室を命じた。
 「一仕事仰せつかった上に説教までされて、今夜は眠れそうにないな。俺を罷免する文書は、短くしといてくれ。途中で居眠りするとやばいから」
 立ち上がり、苦笑する蟷器に、緻胤は軽く笑声を上げる。
 「私だって今日は、あなたのせいで安眠できそうにないわ。いろいろ問題提起をしてくださってありがとう。できるだけ早く帰れるようにがんばってね」
 「言われなくてもそうする」
 苦笑を深くして、太后の部屋を出かけた蟷器は、ふと足を止めた。
 「不眠ついでにもう一つ。
 西桃と南薔が手を組むとしたら、それはあんたを南薔王の妹として、西桃王妃に迎えるためだ。絶対に姉君の手中に落ちないよう、気をつけてくれ」
 軽くはない口調で単純ではない言葉を囁くと、呆然と彼を見送る太后を残して、今度こそ蟷器は王宮を去った。


 「牽制か陰謀か、それが問題だ」
 王宮内の一室に戻ったカナタは、珍しく腕を組んで考え込んでいた。
 「何か思惑があって、緻胤太后を南薔に招くのか、それとも、親書を送ることによって、深読みした俺達が緻胤太后の招聘を諦めるよう仕向けたか・・・・・・。
 どっちだとおもう?」
 問いを向けられた二人の女のうち、初老の女が、骸骨に皮が張りついたようなあごに指を当てた。
 「三つ、あります。最悪、最低、最下のどれからお聞きになりたいですか?」
 「う〜ん・・・・・・優しいのから行ってください」
 あの、気さくで明るい太后へ対する、沙羅の陰湿な思惑など聞きたくもないが、そうもいかない。
 そんな、やや積極性を欠く応えに、女――― 筝は軽く頷いて細いあごから指を離した。
 「最下とは、沙羅王が私情により、我々の邪魔をしているということです。まぁ、我々が、沙羅王を廃して緻胤太后を擁立しようとの企みがある以上、単に私情の枠にははまらないことでもありますが。
 どちらにしろ、沙羅王はご自身の地位に固執し、その地位を脅かそうとする者に対して厳罰を下そうとしている ―――― ご自身の徳のなさを棚に上げて」
 筝の声音は冷ややかで、一片の容赦もない。
 もしこれが、東蘭王や西桃王の身の上に降りかかった災難であるなら、そして、沙羅と同じ対応を王達が執ったならば、彼女はその対応を『是非もない』という一言で容認しただろう。
 邂逅(かいこう)より六年。
 沙羅は、筝の忠誠心を刺激する王ではなかった。これからもそうに違いない。
 のみならず、沙羅は彼女を暗殺未遂犯として、裁判にもかけずに冬の訪れ来る牢獄に繋いだ。
 筝の、痩せこけた体内を巡る南州の血を、瑰瓊(かいけい)のように熱い南州女の誇りを踏みにじったのだ。
 今、彼女は、沙羅への報復を終生の生き甲斐としているようだった。
 「最低、とは、人として、また、わたくし達にとってまずい選択です。
 南薔は、未だ首都州とその南の栄州、そして西の三州を取り返してはいません」
 東蘭に奪われていた東三州は、精纜の第三子と引き換えに南薔のものとなり、北三州は北州侯とその側近を粛清して取り上げた。南州の西、汀州(ていしゅう)はもともと南蛮王妃だった精纜の領地であったために奪還するまでもない。
 問題は、未だ南蛮領であるかつての首都州・佳葉(かよう)、世界最大の貿易港、繁葉(はんよう)を抱く栄州、南州の東、東蘭太后・緻胤が南蛮王より結婚の祝いに下賜された汪州(おうしゅう)、そして西州侯が治めていた西三州である。
 「沙羅王に忍耐力と洞察力があるならば、佳葉と栄州は南蛮王の力が衰えた時を見計らって取り上げるでしょう。
 ですが、東蘭に枢蟷器がいる限り、利益を生む港を、むざむざと南薔にくれてやりはしないでしょうね」
 それを望んでいるかのような筝の口調に、本来、南三州の主であるべき英華がわずかに眉をひそめた。
 が、かつての筝ならば、気づいたであろうその表情を、気にも留めずに話を続ける。
 「そこで、太后陛下です。西桃王は先ごろ、王妃を亡くしたと聞きました。西桃王妃は、子の生めないことを憂慮するあまり、気の病に罹ったとか。
 かの方に比べて緻胤太后は、南蛮、東蘭、南薔に深い縁(えにし)をお持ちの女性です。その上、ちゃんと男子を産める女性であることを実証されました。
 西桃王にとっても、邪魔者を除きたい沙羅王にとっても、願ってもない縁談だと思いませんか?」
 侵略され、領有された土地を取り戻すために、王族を嫁がせてその地を王妃領、貴夫人領にしてしまうことは、この世界の歴史上、何度もあったことである。
 逆に、土地を領有する女(南薔においては、女が土地と爵位を相続する)を妻に迎え、他国に領地を持つ者も多かった。
 カナタは既に、そのような方法があることを知っていたが、緻胤太后がそんな縁談を受け入れるわけがないことは確信できる。
 「この場合、太后陛下の御意志は関係ありません。沙羅王が何を望んでいるかです。
 わたくしはまだ、沙羅王を見下げはててはおりませんので、あの方が最悪の方法を―――― 自身の地位に固執するあまり、緻胤太后を殺すなどとという愚行に走ることはないと思いますが・・・・・・」
 もとより低かった声が、さらにひそやかになると、カナタと英華は、わずかに身を震わせた。
 「たとえこれが、わたくし達の行動を阻むものであったにしろ、緻胤太后の南薔入りにおいては、沙羅王には損のない選択ができます。・・・残念ではありますが、今は緻胤太后の招致は阻むべきだと思います」
 「ほんとうに、残念だね・・・・・・」
 苦い響きを持った声に、英華もそっと頷いた。
 「だが、沙羅にはまだ、子供がない。産めない可能性だってある」
 緻胤が蟷器に言ったのとは正対する可能性を上げて、カナタは筝と英華を見比べた。
 「今、南州は困難な立場にあるが、いつまでも沙羅の支配下にある必要などないだろう?」
 カナタの、聖太師という位は、本人が思っていた以上に強権な地位で、彼が側においている限り、蒋赫を除き、英華や筝を捕らえようとするものはいなかった。
 「わかった。あの女が自然に倒れるまで、君達のことは俺があずかる。あの太后陛下を南薔王として迎えるまで、耐えがたきを耐えてみよう」
 くすりと、冗談めかした笑みを浮かべて、カナタは女達を見やった。
 ―――― この時期、彼は全く気づけなかった。
 自身が、権力と言う名の毒に侵されていることを。
 かつて地の王が予見したように、玩具にするには強大なそれに操られ、彼は自らの足で崖へと歩んでいることを・・・・・・。


 采王崩御から傑王の壮年に至るまでの時期、王宮は東蘭史上、もっとも優れた官吏、軍吏によって支配されていた。
 采王の即位直後から、礼部尚書として人材を育ててきた枢蟷器の労力が実を結んだためである。
 蟷器は、前王の庶子であり、貴族に味方のいない采のため、民の中から有能な人物を推薦しては王宮に入れていったのだ。
 既に、西桃では施行されていた科挙(かきょ)という官吏登用試験から、不公平を取り除いたものを東蘭でも実施し、若い才能を育てる一方、在野の知識人、南海や東海で活躍していた商人などを九卿に迎えた。
 尚書ではなく、九卿に任命したのは、あくまで実務を重視する、彼らしい人事だったと言えよう。
 特に刑部省、戸部省、礼部省に有能な人材を登用し、民に不公平のないよう、心をくだいた。
 早急に整っていく朝と引き換え、昔からの特権をむさぼっていた貴族達は、采の登極後の粛清に耐えかね、有能な当主を持った一部の者達を除いてそのほとんどが衰退し、また、没後に再び吹き荒れた粛清の嵐に巻き込まれ、滅び去ったのだった。
 この時も、太后・緻胤は公平かつ有能な裁判官としての役割を果たし、東蘭王宮に欠かせない者としての信望を高めていった。
 中でも彼女の名声を高めたのは、采王謀殺の実行犯である前大司馬と主犯である典医、蔚の迅速な処刑であり、彼が明らかにした動機に深く関わっていた枢蟷器に対する処罰であった。
 たとえ寵臣であろうとも公平に裁くことを明確にした態度には多くの感嘆が寄せられたが、官位だけでなく王宮に入る権利すら剥奪すると言う厳しさには、さすがに息を呑んだ者も多かった。
 枢蟷器は、私生活においてはともかく、官吏としてはこれ以上ないほど有能な男であり、今回の件も彼がいたからこそ迅速に解決したのだ。
 ―――― なのに、そんな彼を更迭するとは、太后は政治を知らないのではないか。
 そんな言葉が王宮のあちらこちらで囁かれるのを、緻胤は放置した。
 彼女はその囁きが大声となり、臣下達が緻胤に向かって赦免の要求を叩きつける日を待っているのだ。
 彼等に蟷器が必要なのだと泣きつかれたので、これまでの功績に免じて罪を許す、という状況を作り上げれば、民も納得するだろう。
 そしてそれは、けして遠い将来のことではない。
 緻胤は確かな予測を抱いて、蟷器の罪を免じ、あらたに中書令に任ず、としたためた書簡を文箱に納めていた。
 彼の前任者であった男は、その生命と莫大だった財産の一部のみを許されたほかは全て剥奪され、王都・佳咲(かしょう)を追放されている。
 一部とはいえ、平民であれば一生遊んで暮らせるほどの額ではあったから、少なすぎるなどと恨まれる筋合いはない。命があっただけましというものだ。
 菎の嘆願さえなければ処刑していたであろう男を冷たく追い払った緻胤だったが、渤州候の処罰に関しては頭を悩ませた。
 彼は、積極的に采の謀殺に加わったわけではない。
 東夷に富を献納してまでも渤州を守った州候に対して、渤州の民の信頼は篤く、これを罰すれば東蘭は身内に火種を抱えてしまうことになる。
 だが、蟷器すら罰しておいて、州候の罪を不問にすることはできない。
 悩んだ末、緻胤は渤州候に入牢を申し付け、渤州の宣撫に留まっていた樹将軍に彼の監視役としての任を改めて申し付けたのだった。
 ―――― ただし、王都の牢には現在、空きがない為、渤州候は渤州城にて入牢のこと。
 緻胤の命を受けた刑部省の役人からその言葉を聞いた渤州候は、深く感謝して佳咲を去った。
 帰郷した彼は、元・岫州候(じゅしゅうこう)である樹将軍に礼儀正しく迎えられ、
 「州政に関しては全て渤州候の意に従えとの、太后陛下の御命にござる。お住まいこそ粗末になり申すが、ご不自由のなきよう取り計らう所存」
 との言葉を受けるや、膝を折って謝意を述べた。
 短いが心のこもった言葉であったことを、樹将軍は綿密に書き記して緻胤に報告し、王都でそれを受けた緻胤は、左手を胸に抱くようにして安堵の息をついた。
 大切にかばわれたその手の中指には、太后の物にしては質素な指輪が嵌めてある。
 それは、つい先ほど緻胤の元に届いた物で、彼女の手甲側からみれば、花芯に小さな紅玉をはめ込んだ、黄金の花弁の連なりでしかない。
 が、彼女が柔らかく握り締め、常にその感触を求められる掌側には、その中指の幅と同じ大きさの硝子が嵌め込んであり、更にその奥には亡き夫の、未だ若々しい黒髪が収めてあった。
 緻胤は、気を落ち着けるように、自身の手の中で温まった硝子の感触を求め、彼女を見守る者達に微笑んで見せた。
 「やれやれ。いい太后陛下になるって大変ね。こんなに身を粉にして働いているのに、なんでちっとも痩せないのかしら」
 その冗談めかした口調に、婀摩をはじめ、周りの侍女達は堪えきれずに笑いさざめいた。


 この年、二十数年振りに飄山の大祭が行われると決まった頃から、大陸の王族には闇精が取り憑いたようだった。
 年始めには、西桃王の正妃が亡くなった。
 子が産めないことを太后に責められ、心を病んだ挙句、錦の帯で首をくくって死んだのだと言う。
 秋になると、南薔王・精纜(セイラン)が飄山に拒まれて命を落とし、同じ頃、東蘭王・采が謀殺されて果てた。
 一国につき一人ずつ、王族を殺していった闇精は、とうとう南海を渡って南蛮に赴き、その冷たい手を南蛮王の首にかけたのだった。
 その当時南蛮王は、南薔への度々の出征に疲弊し、不満を抱いた臣下達によって後宮に幽閉されていたのだが、かつて彼の王妃だった精纜の死を知らされるや、老人のように覇気を失ってしまった。まるで、精纜の魂が彼の気力を珂瑛に持って行ってしまったようだと、臣下達が囁きを交わしていたある日、南蛮王は眠ったまま、瑰瓊(かいけい)が中天に昇っても起き出してこなかった。
 不審に思った宦官が、恐る恐る声をかけたが答えはなく、思い切って寝所に入った彼は、次の瞬間、甲高い悲鳴を上げて部屋を飛び出した。
 いまだ精強であったはずの王が、老衰のごとくひっそりと息を引き取っていたのだ。
 宦官は、その甲高い声で王の死を王宮中に触れて回り、南蛮国礼部省の役人達は慌てて船を出して、各国へと散らばって行った。
 彼らの中でもっとも早く目的地に着いたのは、西桃へ向かった使者だったのだが、この国は彼を、そこへ至る行程よりも長い時間待たせた為に、東蘭へ向かった使者の方が早く、太后・緻胤に南蛮王の死を伝えたのだった。
 「お父様が・・・・・・」
 緻胤はそう呟くと左手を握り、凝然と南蛮の使者を見つめた。
 「―――― 陛下」
 端然とした声に我に返った時には、既に随分と時間が経っていたらしい。
 乾ききった目が礼部尚書・条(ジョウ)の姿を映すまでに、何度も瞬きをしなければならなかった。
 「太后陛下、南海王陛下ご崩御の後、玉座を継がれるのは傑王陛下にあらせられます。急ぎ、南海にお越し下さい」
 「南海に・・・・・・」
 条の言葉を復唱しながら、緻胤はいまだ呆然とした目を、隣に座る傑に向けた。
 彼女の息子は大きな玉座に腰掛け、退屈そうにぷらぷらと足を振っている。その幼い足は、いまだ東蘭の地にすら付けないでいると言うのに、今また大国が一つ、彼の足元に投げ出された。緻胤は、あまりにも幼すぎる王に対して、不安を抱かずにいられない。
 しかし、
 「お悩みになっている時間はございません、陛下。早過ぎると嘆いたところで、南海王が生き返ることなどありえないのですから。どうか、迅速にご対処下さい」
 条の冷徹な言葉に気を取り直し、すぐさま南海王の崩御と傑の即位を発布させた。
 「礼部尚書、あなたは先に南海へ赴き、傑の即位式を整えていてちょうだい。
 もしかしたら、南海の臣下達や南薔から邪魔が入るかもしれないし、西桃がこの隙に南海の制海権を狙ってくるかもしれないわ。露払いをお願いね」
 かもしれない、などと緻胤は言うが、それは、彼女が手を打たなければ現実になるであろう予測だった。
 采と言う、大樹を亡くしたばかりの東蘭にとって幸運だったのは、迅速で的確な判断ができる臣下達が、このように彼らの意見を聞く寛大さと決断力を持った太后を得られたことだろう。
 「留守は尚書僕射、あなたに任せますよ。六官の長として、責任を果たしてください。もし、あなたの手に余るようなら、枢蟷器を朝に呼び戻しなさい」
 言って、婀摩に取りに行かせた文箱の中から、一通の書簡を取り出した。
 「これをあなたに預けます。くれぐれも、よろしくお願いしましたよ」
 諸官の目の前で、頼りなげな尚書僕射にそれを渡すと、緻胤は散会を命じた。
 「・・・今度こそ痩せるかもね」
 冗談と言うには、苦い口調だった。


 この時、一種道化めいていたのは西桃だったかもしれない。
 この国は儀礼を重んじる余り、せっかくの機会を逃してしまったのである。
 南蛮王の死を知った西桃国礼部省の役人達が、慌てて南蛮に入った時には既に、王宮は東蘭の役人達によって整えられ、東蘭太后・緻胤と東蘭王・傑を待つのみとなっていた。
 結果、西桃人達は、威風堂々たる行列をつくって南蛮に入った緻胤とその息子を、平伏して迎える羽目になったのだ。
 彼らは血走った目の奥で、母親に手を引かれてやってきた幼い東蘭王を、縊り殺してやりたいと思っていたことだろう。
 しかし、このような状況になったのは彼らの責任ではなく、西桃の体制―――― ひいては西桃王の責任である。
 彼らは、偉大なる先王の息子である凡庸な王の面差しに内心、歯軋りしながら、前南蛮王への弔辞と即位したばかりの王への祝辞を淡々と述べて帰国した。
 そうやって、まずは難しい客の一人を退散させた緻胤は、新たな客の意外な姿に、鼓動が止まるかと思うほど驚いた。
 黒一色の衣装を纏い、不吉な風のように王宮へと乗り込んできた客は女―――― 未だ二十代半ばの若さでありながら、老婆のように白い髪と紅い瞳を持つ、異相の女王。
 南薔王・沙羅、だった。
 「お・・・お姉さま・・・・・・」
 普段の豪放さからは想像できないほどに気弱げな声に、周りの者達はぎょっと目をむいて彼らの太后と隣国の女王を見比べた。
 「東蘭の太后は礼を知らぬと見える。隣国の王を、玉座から見下ろすか」
 皮肉げと言うには、随分と憎しみのこもった声だった。
 「し・・・失礼致しました。まさかおいでになるとは思いませんでしたもので・・・・・・」
 緻胤は慌てて玉座を降り、傑の・・・今や東蘭と南海、二国の王冠を戴いた息子の隣の席を沙羅に譲った。
 母親の代わりに、彼の横に座った異相の女を、傑がきょとんと見上げていると、
 「私はおまえの伯母よ、傑」
 微かに口の端を曲げて、沙羅は笑った。
 その会話は、王宮の奥深くで個人的に交わされたものであれば全く問題はなかっただろう。しかし、沙羅は公の場で、南海王になったばかりの傑の威信を堂々と無視して見せたのである。
 「・・・・・・っ南薔王!お控え下され!」
 すかさず、条が叫んだ。
 彼は、自身が最上の美だと信じる礼法を、ないがしろにされることが許せない性質(たち)なのだ。
 天球の将星達が剣をもって三珠を守るがごとく、礼を犯す者は王であれ容赦しない。
 それが美点とされることもあったが、この時、この女への態度としては、けしてふさわしいものではなかった。
 「黙れ、無礼者!誰の許しを得てその口を開くか!」
 条の声すら圧するほどの大音声に、その場にいた者達は、一様に身を震わせた。
 大の大人、たくましい男達ですらそうだったのだ。幼い傑が、泣き出したのも無理からぬことだった。
 しかし、いかに幼く、物慣れない子供だからと言って、彼が王である以上、公の場での醜態は許されざることである。
 「なんとか弱く、頼りなげな王であろう。東蘭も南蛮も、将来(さき)が見えると言うものだ」
 あからさまな嘲弄に、条の拳が震え、緻胤は蒼褪めた唇を噛み締めた。
 後世、沙羅は南薔王家に産まれた『精霊の娘』の中で、唯一非難の声を浴びることになる女王だが、全く、口を開けば毒を吐かずにはおれない、蛇のような女だった。
 彼女が人に会うのは、敵対する人間を増やす為だと極言する者もいる。
 だが、彼女が憎まれると同時に、恐れられていたのもまた、ひとつの事実ではあった。
 沙羅は、実父を心の底から憎んでいたと言われ、それは沙羅自身も認める事実ではあるが、彼女の、民を畏怖で押え付けて支配するやり方や、政敵、外敵との戦い方は、父親の南蛮王に酷似していた。
 その上、母、精纜の歪んだ薫陶を受けて育った彼女は、自身以外の尊者を認めず、南薔の地位を第一のものと信じきっていた。
 他国の者達、特に、現実的で堅実な政治感覚を持った者が彼女を恐れたのは、そんな、恣意的で狂信的な彼女が、いつ権力と言う刃物を振り回すか、予測がつかなかったからだ。
 自国を守ることを第一とする彼ら・・・――特に礼部省に籍を置く者達は、常に感情で動く女だと観察された彼女の機嫌を損ねて、無謀な行軍の目標にされることの愚を恐れたのだった。
 しかし、どこにも例外というものはいる。
 『礼』というものに対する熱狂的な信者である条はこの状況で、甚だまずい例外だった。
 「畏れながら申し上げる」
 全く恐れ入った様子もなく、しかし、作法だけは完璧に、条は玉座の前に進み出た。
 「我らが王は、幼き身ながら東蘭、南海の二国を統治する御方にあらせられます。それをなんの故あって侮辱されますか。
 あまつさえ、我らが太后にして東蘭の太傳であられる方への侮辱。
 いくら姉君様とは言え、世界の神殿をお治めになる南薔王のなすべきこととは思えませぬ」
 きっ、と上げた顔の、倣岸なまでに堂々とした視線に、沙羅がぴくりと細い眉を震わせた。
 「ひかえよ、条!」
 それを見取った緻胤が、すかさず条に叱声を投げる。
 緻胤は、自分の姉が狂った猿のように恣意的で激しやすい性格であることをよく知っていた。
 「条、謹慎を申しつけます、下がりなさい!」
 誰にも口を挟む間を与えず、緻胤は条を謁見の間から追い出してしまった。
 「ご無礼を致しました」
 立礼で済む身分であるにも関わらず、床に両膝をついて深くこうべを垂れた緻胤の背に、東蘭の臣下達の視線が、熱く刺さってくる。
 「臣下に、どういう躾をしているの、緻胤?大陸三大国の一つでありながら、もっとも文化が遅れていると言われるのも無理からぬことだわ」
 怒りを紛らわすためか、いやらしいまでの嘲弄に、しかし、緻胤は穏やかに微笑んで見せた。
 「申し訳ありません、お姉様。東蘭の官吏は、厳しい者達ばかりで・・・」
 ちらりと背後を見遣り、微かに頷いた太后に、東蘭の臣下達だけでなく、南海の役人達も、この国で生まれた王女の意図を悟った。
 彼女は、公人として、とんでもない失態を演じてしまった息子の威信と東蘭の威儀を守るため、あえて沙羅を姉と呼び、この公の場を、私的な場へと変えたのだ。
 「さぁ、傑。伯母上様にご挨拶をして」
 沙羅が、先ほど『伯母』だと名乗ったことを逆手にとって、緻胤は息子を、その大層な身分ではなく名で呼んだ。
 その上でさらりと立ち上がり、臣下達に向き直って、ゆったりと微笑んで見せたのである。
 「懐かしさのあまり、公の場を汚してしまい、申し訳なく思います。ですがどうか、察してくださいね。わたくし達、本当に久しぶりの対面なんですよ」
 多少、わざとらしい演技ではあったが、東蘭も南海も、面目を失わないためには、太后の演技に乗らないわけには行かない。
 「――― そう言うことならば、仕方ありませんね」
 東蘭の臣下の一人、条の次官である礼部侍郎が言い、やや緊張した視線で辺りを見回した。
 「久しぶりの、ご姉妹のご対面を、私どもがお邪魔しては申し訳ない」
 「・・・東蘭の御方のおっしゃる通りにございます。我々は、退出すべきかと存ずる」
 彼の視線を受けた南蛮の尚書僕射がすかさず唱和し、辺りが吐息交じりのざわめきを漏らした。
 「南海の御方のご賢察、感服いたしました。どうぞ、これからもよしなに」
 「恐れ入り申す」
 二人は、素早く挨拶を交わすと、先頭に立って緻胤と傑、そして沙羅に退出の礼を施した。
 「許す。皆も下がりなさい」
 沙羅に口を挟む隙を与えず、緻胤が命じると、臣下達は我先に部屋を出、その広い部屋には三人の王族と、数人の侍女達が残された。
 「・・・緻胤、随分と悪知恵が働くようになったものだこと」
 「恐れ入ります」
 改めて玉座の姉へと向き直り、深くこうべを垂れた緻胤に、沙羅の視線が深々と刺さった。


 「・・・どうなることかと思い申した」
 深々と吐息した南海人に、部屋の外で苛々と状況を案じていた条が詰め寄った。
 「一体、なにがあったのです、尚書僕射殿!」
 「れ・・・礼部尚書閣下、落ち着いて下され!」
 慌てて条を引き止めた礼部侍郎に、条の勘気が少し収まった。
 「ご無礼を、尚書僕射殿。私はどうも、性急過ぎるのです。侍郎、迷惑をかけてすまない」
 自身の過ぎる勘気を抑えるために、礼を学んだのだという条は、恥ずかしげにこうべを垂れた。
 「いや、あれは礼部尚書であればお怒りになって当然でござる。マフディーヤ姫は、昔から勘気の烈しい姫であられまして、おかげでシェーラザード姫は常にご苦労を・・・・・・どうなされた?」
 視線を交わし、首をひねる東蘭の礼部達に、南蛮の尚書僕射は不審の目を向けた。
 「いえ・・・どちらの姫のお話をされておいでで?」
 条の問いに、尚書僕射は一瞬、目を見開き、次いで目元を和ませた。
 「そうか、大陸ではお二人とも、南薔の名を名乗っておいででしたな。もっとも、この王宮におられた時も、マフディーヤ姫はお母上のつけられた御名に固執しておられた。
 お父上にさえ、後宮では『沙羅』、『緻胤』と呼ばせておいでだったとか」
 くすくすと、軽い笑声を上げる尚書僕射に、礼部省の二人は、再び視線を交わした。
 「では、シェーラザード姫とは、我らが太后陛下のことですか!」
 名前負けもいいところである。
 南蛮を憎んでいた沙羅とは別の意味で、緻胤がその名を名乗りたがらなかった訳がわかった気がした二人だった。
 「前王陛下は、それはそれはシェーラザード姫をかわいがっておられた。つけられたお名前からして、それはおわかりになれますでしょう」
 南蛮で、最高の美女につけられてしかるべき名を持った太后の顔を、二人はそっと思い浮かべた。
 昇りくる満月のような、と言う形容が、別の意味で似合う、ふっくらとしたとした容姿の太后・・・。
 いやしかし、彼女の真価は容姿など問題にしない。
 国は、顔で統治するわけではないのだから。
 あの心映えや慈愛、賢知をこそ、人は慕うのだ。そう言う意味では、まさにこの、美しい名にふさわしい太后ではないか。
 そうやって、無理に自分自身を納得させた二人は、次に太后に会った時吹き出さないよう、心に硬い鎧を纏ったのだった。


 「やっと静かになりましたね、お姉様。傑、こちらへいらっしゃい」
 さりげなく息子を取り戻し、婀摩に預けて部屋を出してしまうと、緻胤は未だ玉座に留まる姉に微笑みかけた。
 「・・・相変わらず嫌な子ね、緻胤。いつもいい子ぶって、あの男――― 南蛮王に媚びていたんだわ」
 組んだ足の上に乗せた白い腕が、いびつな蝋のようだ。
 薄く、血の色が滲んだ指先が、寄生した別の生き物のように蠢いて残った侍女達を下がらせる様に、緻胤は悪寒を覚えながらも笑みを浮かべつづけた。
 「久しぶりに、後宮で話をしない?誰にも邪魔されずに、ゆっくりと」
 沙羅の申し出に、緻胤は不吉な予感を覚えながらも、微笑んだまま頷く。
 先に立って歩く姉の背後に従い、緻胤は六年前、凶行が行われた部屋へ、そうとは知らず足を踏み入れた。
 水の涸れた世界においてさえ、豊かなせせらぎを歌っていた泉の間は、華奢な美貌の王妃が、物憂げに佇んでいた時のまま、美しく整えてあった。
 「・・・変わらないわ、ここは」
 珍しく感慨深げに呟く沙羅の背に、改めて緻胤はこうべを垂れる。
 「お姉様におかれましては、お元気そうでなにより。南薔王の位を継がれましたこと、重畳に存じます」
 「うちの馬鹿な聖太師に、あんたがたぶらかされなかったおかげ、とでも言わせたいの?」
 振り向きもせず、沙羅は冷厳な言葉を投げてきた。
 「そんな・・・・・・」
 「あんたは、お母様の葬儀を蹴った」
 容赦のない弾劾に、緻胤が言葉を失う。
 「その一事だけで、あんたにはもう南薔王を継ぐ権利なんてないのよ。東蘭で得た地位が、それほど大事なんでしょう?」
 「お姉様・・・!」
 「黙れ!」
 否定しようとした声は、喉を塞がれたように止まった。
 「どうせあんた、東蘭の田舎男達をたぶらかして、いい太后だなんて祭りあげられてるんでしょ?それが、他国でも通用するものか、試してみたらどう?」
 振り向いた沙羅の薄い唇が、禍々しく歪んで、笑みの容を描く。
 「西桃王の元へ嫁ぎなさい。あんたの身体を代価に、南薔の西三州を取り戻すのよ」
 「馬鹿な!私はもう、東蘭の太后なのです!そんな命令が聞けるものですか!!」
 激昂する緻胤に、沙羅は笑みを深めた。
 「あんたが従うかどうかなんて聞いてないのよ」
 言うや、沙羅は重たげな衣擦れと共に、ゆっくりと緻胤に歩み寄った。
 「私が南薔の地を取り戻すために、あんたは東蘭から西桃に行かなきゃならないの。
 ―――― そうそう、あんたがいなくなった後、東蘭太后として領有していた泓州(こうしゅう)は返してもらうわ。
 西桃に住んでいちゃ、領有するのは不便でしょうからねぇ」
 蛇に睨まれた蛙のように、緻胤は危険な姉が近づいて来ても、凝然と動けなかった。
 幼い頃からそうだった。
 姉がどんなに乱暴しようとも、抵抗すれば常に姉の味方である母にさえ手を上げられる。緻胤はじっと我慢して、姉の癇癪が収まるのを待つしかなかったのだ。
 他の場面ではいつも明るく、笑みの絶えない緻胤も、沙羅の前でだけは、猫の爪にかかった鼠より無力だ。
 だが、窮鼠は猫を噛むという。緻胤は、傑とお腹の子供のため、以前のように沙羅に負けるわけには行かなかった。
 「嫌よ!私はどこにも行かない!」
 勇気を出して、正面に立った姉を睨むと、彼女は緻胤が思っていたよりずっと小柄で華奢だった。
 「私は前東蘭王、采の妻で、現王、傑の母よ!東蘭を守り、育てる義務があるわ!」
 「その前にお前は、私の妹で前南薔王の娘よ!私の命令に従いなさい!」
 「嫌!!」
 反抗者の存在に耐えうる精神を、沙羅は持ち得ない。
 かっとなるや、緻胤の頬を音高く叩いた。
 「私に逆らうことは許さない・・・!!」
 激昂するあまり、甲高く裏返った声に、緻胤は身を竦めた。
 どんな覚悟があっても、長年培われてきた反射には勝てない。
 その声に、頬を打たれた痛みよりも強い衝撃に襲われて、緻胤が微動だにできずにいると、姉の、筋張った手が彼女の腕を掴んだ。
 「お腹の子供のことは、心配しなくていいのよ」
 冷酷な姉には不似合いなやさしい声に、背筋を冷水が滴ったような感触を覚えた緻胤を引き起こし、沙羅は強く妹の手を引いた。
 「南薔では、『不義の子』なんてものがいないから、あいにく中絶医の腕は良くないけど、西桃にはその手の名医がたくさんいるそうよ。
 堕胎したところで、母体は安全だそうだから、不安がることはないわ」
 「馬鹿なこと、おっしゃらないで!!」
 驚いて足を止めた緻胤を、沙羅はかまわず引き、力の均衡に敗れた緻胤は、たたらを踏んでつんのめりそうになった。
 「何を言うの。ここでやるよりはましでしょう?荀(ジュン)が出ていってから、ろくな医者がいないんだから、ここは」
 荀は、精纜と沙羅がこの国の後宮を抜け出す際、利用された宦官である。
 彼は、彼女らが奇妙な客人と共に大陸へ逃げ去った後、前王には無断で後宮を退き、故郷へ帰ったと言う。
 「そんなことを言っているんじゃないわ!采の子を、あなたは殺そうと言うのですか?!」
 「まだ生まれていないのに、殺すも殺さないもないでしょう。邪魔だから処理するだけよ」
 「ひとでなし・・・・・・!この中で懸命に生きているものを、処理ですって?!あなたがおっしゃっていることは、いとけない子を日の目も見せずに殺してしまうことなのですよ?!」
 「腹の中で生きているですって?気持ちの悪いことを言わないで。そんな肉塊を処理したくらいで、あんたから人非人呼ばわりされる覚えはないわよ」
 一瞬、緻胤は姉の露悪的な言葉を、彼女特有の偽悪的な性格に拠るものかと思ったが、姉が、本心からそう言っているのだとわかると、激しい怒りが恐怖を圧した。
 「王たる身がなんと言うことを言うのです!!恥を知りなさい!!」
 後宮中を揺るがすような大音声に、さすがの沙羅も鼻白んだ。
 「子は国の宝です!まだ生まれていない子といえ、それは同じことでしょう!それを物のように処分するなどと!!
 それが王の・・・・・・いいえ、女の言うことですか!!」
 「黙れ!!」
 緻胤の剣幕に圧された事実を、振り払うかのような烈しい声に、しかし、緻胤は怯まなかった。
 「お姉様も、御子を得られればおわかりになるはずです・・・!どうか、そのように惨いことをおっしゃいますな!」
 「黙れ、賢しらげに!!
 私より先に子をなしたことが、それほど誇らしいか!」
 老婆のように白い髪を振り乱し、悪鬼のように目を剥いて絶叫する沙羅を、緻胤は毅然と見つめ返した。
 「そのようなことを申しているのではありません。私は、南薔と南薔王陛下の御為を思い、稚い者達や弱い者達を大切に思っていただきたいと申し上げているのです」
 一瞬、緻胤の唇に、余裕のある笑みが浮かんだ。
 それを沙羅が自身への嘲弄と解釈し、手近にあった陶器の壺を投げつけるまでには、一瞬の時間も要しなかった。
 「きゃ・・・・・・!!」
 逃げる間もなく、頭をしたたかに殴られた緻胤が床に倒れこみ、沙羅は妹の意識が完全になくなるまで次々と物を投げつけ、彼女のために瓦礫の寝床を作ったのだった。


 南蛮で、緻胤が実姉に襲われていた頃、門下侍中を更迭された蟷器は、東蘭の王都、佳咲で惰眠を貪っていた。
 惰眠、と周りには思わせていたが、実のところは病臥である。
 蔚に盛られつづけた毒癘(どくれい)は思いのほか深刻で、彼の身体を未だ、蝕みつづけていたのである。
 彼を診た老医も、この時ばかりは温和な眉目を憂いに寄せて吐息した。
 「・・・・・・とんでもない。
 蔚は治療と偽って、更に毒を盛っていたようです。これほどまでに毒に侵されながら転戦して、命があったのは実に驚くべきことですな。
 戦場に倒れても不思議のないことでしたよ」
 言って、典薬寮の長である老医は、持参の薬箱から数種類の薬を出した。
 「・・・今から私が行いますのは、蔚が貶めた医師への信頼を回復するためでございます。けして、口外なさらぬように。お命を失いたくなければ、けして」
 常に温厚な彼らしくもなく、厳しい口調に、蟷器は丁寧に頷いた。
 と、老医は白いつばなし帽をかぶった白髪頭を身体ごと前後に揺すって頷きを返し、熟練の技で精確に薬を調合していった。
 「湯を」
 呟くと、彼の弟子があらかじめ用意していた小さな火鉢から、土瓶を取り上げて師の傍らに置く。
 老医はその中に、調合したばかりの薬を入れ、再び火鉢にかけてじっくりと薬を煎じた。
 やがて、土瓶に走るひびの間から洩れ出でるようにして、鼻腔に篭る薬の匂いが立ち昇ると、老医は土瓶を火から下ろして小さな茶器に薬湯を注いだ。
 濃い褐色のそれは、見た目の濃密さとは裏腹に、土瓶の注ぎ口からさらりと落ちて茶器を満たした。
 「私が先にいただきましょう」
 一度は高台の高い茶托に乗せた茶器を、再び取り上げて老医は口元に運んだ。
 熱いそれを、湯冷ましであるかのように頓着なく飲み干す。
 「残りも、全部飲み干しましょうか?」
 空になった茶器を傍らに置き、火から下ろした土瓶を示す老医に、蟷器はゆっくりとかぶりを振った。
 「あなたのお心、確かに拝見いたしました、艾(ガイ)殿」
 微笑むと、老医の引き締まった唇が温和に緩んだ。
 「よかった」
 一言、そう呟くと、艾は身体ごと揺すって頷いた。
 「・・・菎殿から、蔚めの所業を伺った時には、久しぶりにはらわたが煮えました。
 あれも医師の端くれである以上、本気であなたを殺めようとしたとは思いたくないものですが、少なくともあなたの判断力を奪うために、少しずつ毒を盛って毒癘を長引かせたのでしょう。味方だと言わんばかりの演目を披露したばかりに、菎殿に目をつけられましたがな」
 冷ややかな口調が、激昂したそれよりもよほど深い怒りを表現している。
 「では、奴の狙いは図に当たったという訳だ。
 俺の力不足を全て毒癘のせいにするわけにはいかないが、一要因であったことは確かだからな」
 言って、蟷器は重く吐息する。
 「更迭は確かに不名誉なことですが、このようなことでもない限り、あなたが激務から解放されることはないでしょう。太后陛下のご温情と思われ、ご養生なさいませ」
 「そうさせていただく。
 もういい年になったことだし、そうそう無理は利かないな」
 蟷器はこの年で三十二になった。
 政治家としてはむしろ若輩と言われる年齢ではあるが、若い兵士達のように体力が有り余っているわけでもない。
 「あなたの功績により、傑王陛下の王位継承には大した混乱がありませんでしたし、南海の方も、円滑に幼王の登極を認めたとか。しばらくは、内憂に頭痛を感じることもありますまいよ」
 老医の見立てを薬湯代わりに聞いて、蟷器は深く頷いた。
 「本当に、なんの問題もなければいいんだが・・・・・・」
 忙しさにかまけて、なにか、不穏な色をしたものを見落とした気がする。そんな、不安げな音律の混じった蟷器の声音に、艾は穏やかに微笑んでみせた。
 「枢蟷器殿。
 あなたは近い将来、この国の宰相になられるお方かもしれませんが、現在は無位無官の民にあられる。
 今のあなたがどれほどこの国の趨勢に目を光らせ、不穏な状況を打破する策を持たれたとしても、それを遂行できるご身分ではないことをお忘れなく」
 老医に明言されて、蟷器は気まずげに苦笑した。
 「その通りだ、艾殿。
 私は、自分が官位を剥奪された罪人であることをすっかり忘れていた。
 今はただ、官邸に住むことを許され、ご典医の治療まで施していただいた太后陛下のご厚情に感謝しよう」
 不気味なほど素直に応じて、蟷器は医師の命じるままに寝台に身を横たえた。
 「では、また参ります。くれぐれも、ご養生なさいますよう」
 丁寧に一礼すると、艾は質素な元・門下侍中の部屋を出た。
 数日後、彼が再び王宮から程近い蟷器の邸に訪れた時、朝廷は太后行方不明の報に、蜂の巣を突ついたような騒ぎになっていたのだが、長年典医を勤めてきた老医は自身の役目を重視して、患者の心身を煩わせるような言葉は一言も漏らさなかったのである。


 後世、この時代の秩序に責任を持たない者達は、艾や諸官が、緻胤太后行方不明の報を蟷器に伝えなかったことについて、口を極めて罵ったものだが、当時の秩序を守るべき者達は、形式的なものとはいえ、太后によって追放された者に極秘情報を漏らす訳にはいかなかったのである。
 それでも、蟷器の妻や家人が、積極的に王宮内の情報を探り、主人に伝えるべく奔走していたのならば、まだしも彼の耳に入る可能性もあっただろう。
 が、妻の杏嬬は、隣家が火事になっても全く異変に気づかないほどおっとりした女性であったし、家人らは、家内を整え、主人と夫人の世話をすることだけに情熱を注ぐ者達でしかなかった。
 結局蟷器は、極少数の見舞い客からも情報をもたらされることなく、放言した通りの惰眠を貪ることになったのだった。
 だが、更に数日経って、東蘭にもたらされた情報―――― それは、緻胤太后の行方と安否を記したものだったのだが、暫時『混乱の王宮』と呼ばれていたそこを、『懊悩の王宮』へと名称変更させるに足るものだった。
 その不吉な報告は、西桃を発して南海の傑王にもたらされ、彼の側にあった条の激怒した文を添えて東蘭王宮へ送られたのである。
 なんと、つい数日前まで東蘭の太后であり、国母であり、傑王の太傳であった薔氏・緻胤が、西桃王の王妃として迎えられたというのだ。
 西桃王からの親書には、緻胤の花押が入った手紙が添えられ、彼女が姉である南薔王・沙羅と、西桃の太后・李氏の懇請を受けて、西桃王妃の位に就いたことが記してあった。
 条は緻胤の侍女である婀摩に確認して、この手紙の署名と花押が間違いなく緻胤太后のものだと報告したが、同時にこの婚姻が緻胤の意思ではないこと、ゆえに無効であることを報告してきた。
 その上で、『西桃王が関わっている以上、この件は自分の手に余る。訪海の直前、太后陛下が尚書僕射に預けられた書状が役に立つのではないか』と提案してきたのだ。
 血の気を失って右往左往するしかなかった高官達は、条の適切な処方に、一旦下がった血流を再び昇らせる事ができたが、彼らの要請を受けた尚書僕射が、『そのような書簡は知らぬ』とそらとぼけるに至って、怒髪天をつかんばかりに激昂した。
 「なにを寝ぼけておられるのか!!貴殿はわれらの目の前で、確かに太后陛下より書簡を賜ったではないか!!」
 采の没後、王都での反乱を未然に防いだ功により、兵部尚書の位を賜った荻翼軌(シュ・ヨクキ)が怒号したが、鼠のごとき小物と言われたこの国の尚書僕射は、聞き分けのない子供のようにそっぽを向いて嘯いた。
 「あの書簡には、枢蟷器の任免の件など書いておらん。この朝をわしに任せると、そう示しただけのことだ」
 いけしゃあしゃあと言い張る彼の前に、暫時、蟷器に代わって門下省を任された箟が決然と進み出る。
 「確かに私どもは、陛下があなたに渡された書簡の内容を存じません。ですが、陛下はあなたにあれをお渡しになる前に、こう言われたではありませんか。
 あなたの手に余るようなら、蟷器を呼び戻せと。
 今がその時だと、お思いになられませんか」
 丁寧な口調の中に決断を促す強さを込めて、箟は正面から尚書僕射を見据えた。
 以前の彼からは想像もできない毅さに、尚書僕射は気圧されそうになったが、すぐに箟の前身を思い出して気を取りなおした。
 「二人とも、随分としゃらくさい口を利くようにあったではないか。少し前までは食うにも困っておったくせに、既に増長しておるか。
 これだから身分の低い者に高位をやるべきではないと言うたのだ。鼻持ちならぬこと、この上ない」
 「なんと?!」
 「お口を控えられよ、尚書僕射。功労者に対して、それは無礼と言うものですよ」
 尚書僕射だけでなく、激昂した荻までも抑えた声は、あくまでも穏やかだった。
 「刑部尚書・・・・・・」
 この場にあって、むしろおっとりと尚書僕射に迫った裴は、彼に対して請うようにこうべを垂れた。
 「尚書僕射、どうか、わかっていただきたい。別に我らは、あなたを無能呼ばわりしているわけではないのです。
 太后陛下があなたの手に余るようなら、などとおっしゃったことに、少々お気を悪くされたのだとは思いますが、これは我々やあなたのように、王宮の風習に慣れ親しんだ者には中々解決策の思い浮かばぬ類のことでございます。
 省みて、枢蟷器は前礼部尚書であり、軍師をも兼ねた上に、暫時とはいえ大司馬まで経験した者でございましょう。
 様々な経験から、なにか良い策を用いることができるやも知れませぬ。
 もし、位を与えることがご不快だとおっしゃるのなら、誰かがこのことを枢蟷器に伝え、策のみを授かればよろしいではありませんか。
 東蘭の大宰相へこの裴、一臣下として、国母であり太傳でもあられる太后陛下をお救いくださいますよう、お願い申し上げる」
 刑部尚書のへりくだった態度に、荻などは『そこまでする必要があるのか』と、口の中で呟いたが、箟は長く下級官吏をやって来ただけあって、すぐに刑部尚書に見習った。
 「わたくしめのご無礼をお許し下さい。小功に増長し、危うく名を汚すところでございました。
 明敏なる尚書僕射閣下、東蘭の大宰相閣下に伏してお願い申し上げます。
 どうか、刑部尚書閣下のお言葉をお容れ頂き、太后陛下をお救いできますよう、わたくしどもをお導きください」
 荻は、卑屈とも言える文官たちの態度を不満げに見つめていたが、尚書僕射に謝るよう、箟に促されると、憮然と声を張り上げた。
 「俺は間違ったことなど言っとらん!枢蟷器がおらねば何もできないことは事実ではないか!何を謝る必要があるか!」
 その頑迷な態度は、実力だけならとうの昔に将軍職を得ていただろうと言われた荻を、一兵卒に留めていた原因であり、この時も尚書僕射の血流を勢い良く昇らせる効果を発した。
 「きっ・・・きさっ・・・貴様っ!!」
 震える指で荻を指したまま、二の句が継げない老臣に、裴は労わるふりをして近づいた。
 「閣下、どうかお心安らかにいらせられませ」
 このまま頭の血管を切って死んでくれんかな、などと心中に呟いているとは思えないほど優しげな声に、尚書僕射は取りすがった。
 「あっ・・・あの不埒者をここから放逐せよ!!尚書省の長たるわしに、なんとっ・・・なんという・・・・・・!!」
 「おっしゃる通りです、閣下。ですが兵部尚書も、太后陛下の御身を案じるあまり、つい口が過ぎたのでしょう。ここはご寛恕ください」
 それよりも、と、裴は一同を振り返り、焦燥の炎に炙られたような顔を見渡した。
 「皆様方にお尋ねしたい。この件に関して、なにか策がおありだろうか?腹蔵なくおっしゃっていただきたい」
 裴の言葉に、朝臣たちが互いに顔を合わせ、あるいは絶望的に首を振る中、一人の男が挙手した。
 「・・・・・・よろしいか?」
 物慣れぬ様子に、裴はゆったりと頷いて促した。
 「どうぞ、槁(コウ)殿。ぜひ、お聞かせいただきたい」
 刑部省を司る男とは思えない、裴の穏やかな物腰に力を得て、槁は進み出た。
 文官僚とは思えないほどに日焼けした壮年の彼は、元は南海で活躍していた貿易商人である。
 大きな商船を何隻も持ち、南海だけでなく東海、西海にも名を知られた彼を戸部尚書に迎えたのは蟷器だった。
 彼は槁の、並外れた管財能力に目をつけて、東蘭の租税管理を任せたのだ。
 「・・・このようなことを申し上げては、諸官に笑われるかもしれないのですが・・・・・・」
 「槁殿、私は腹蔵なく、と申し上げました。あなたのご意見を笑える者は、あなたがこれからおっしゃる策以上に現実的で、確実に太后陛下をお救い申し上げる手立てを持つ者だけです。
 ・・・少なくとも、私は持っておりません。皆様はいかがか?」
 裴の見回した顔に、頷く首はなかった。
 「いらっしゃらないようですね。槁殿、どうぞ」
 微かに頷いた貴族の若君に、感謝を込めた視線で会釈すると、槁は一同を見回し、朗々たる声で語りかけた。
 「ここは、はっきりとこの婚姻が無効であることをふれたほうが良いでしょう。
 商売でもそうですが、不当な契約を呑んで従っていては、こちらが損をするばかりです。
 西桃はおそらく、太后陛下の御名と花押を盾にとってくるでしょうが、陛下はそれに対し、東蘭の太后位と太傳の位を返上されたわけではありません。
 私は法に詳しくありませんが、これは重婚と同じ、違法行為になるのではありませんか?」
 言って、槁が裴を見遣ると、彼は深く頷いた。
 「そうですね。陛下は既に未亡人であられるため、重婚にはならないでしょうが、あえて、法を持ち出すのもいいかもしれません」
 言いつつ辺りを見回せば、彼と同じく、深く頷く者もあり、頷きかねている顔もあり、意見の一致はなかった。しかし、裴の
 「代案がおありの方は?」
 という問いにも返事はない。
 ―――― 気位が高いだけの能無しどもめ。
 舌打ちをこらえて、裴はゆったりと微笑んで見せた。
 「私は、槁殿のご意見を支持します。いえ、それ以外の方法を、私が見つけ得ないというだけですが」
 ここまで言っても沈黙を守る高官達に、裴の目が半月形にゆがんだ。
 微笑みと言うには、あまりにも禍禍しいそれに、少なからぬ高官達がびくりと肩を震わせる。
 「一刻を争うのだということを、わかっていらっしゃいますか?」
 その口調は、あくまで柔らかく、これ以上ないほどに穏やかだったが、その表情に安らぎを見出せた者は皆無だったろう。
 「尚書僕射」
 呼ばれるや、びくりと震えて立ち竦んだ老臣に、裴は緩やかにこうべを巡らせた。
 「私めにお任せ頂いてもよろしいでしょうか?」
 状況を知らぬ者が聞けば、それは敬愛する上司への思いやりに満ちた言葉だと勘違いしたに違いない。
 だが、老臣はその長い経験から、悪事をたくらむ輩が、時に誰よりも優しい顔をして近づく事を知っていた。
 それでも彼は、太后と蟷器の消えた王宮で、頼れるものは裴一人だと認めないわけにはいかなかったのだ。
 「・・・宰相・・・閣下」
 歪んだ微笑が、言葉以上の圧力を持って迫り、老臣はあえなく屈した。
 「おぬしに・・・任せる・・・・・・」
 喘ぐようにしてその言葉が発せられるや、裴は笑みを深め、無言のまま右手を出した。
 「・・・・・・・・・!」
 うめき声すら発することができず、凝然と立ち竦む老臣に、手は、催促するようにニ、三度揺れた。
 「だ・・・誰ぞ、太后陛下よりお預かりした書簡を・・・・・・」
 「傑王陛下がおられない今、この王宮において、勅令を発布する権利を持つのはあなただけなのですよ、閣下」
 裴の、更なる催促に、尚書僕射はうなだれた。
 「・・・・・・・・・枢蟷器を・・・・・・やつの謹慎を解き、朝堂への復帰を赦す・・・・・・」
 「ありがとう存じます、閣下」
 冷笑を含んだ声に、老臣はうなだれたまま更に震えた。
 彼の視界から外れた場所では、蟷器に協力的な者達と彼の息のかかった者達が、生き生きと働き出している。
 彼は・・・采王登極後と没後の、烈しい高波を乗り越えたに見えた老臣は、既に自身の権威が蝕まれ、倒壊していたことに気づかずにはいられなかった。


 息苦しい暑さに目を覚ました時、緻胤は自身が、どうしてこんなに揺れているのだろうかと不審に思った。
 ―――― あぁ、船に乗っているのだったわ。
 父が亡くなったと聞いて、西桃の邪魔が入らない内に南海へ渡らなくてはならなかったのだ。
 ―――― 着いたらまず、内侍の荀(ジュン)に会って・・・あら、彼は後宮を出奔したのだったわ。
 自分がなぜ、そんな閉鎖された後宮の事情を知っているのだろうかと、混乱する頭の中でぼんやりと考え、緻胤は、自身が既に前南海王の葬儀を出したことを思い出した。
 「・・・・・・え?」
 閉じていると思っていたまぶたは開いているのに、なぜか彼女の眼前は濃い闇に覆われている。
 「なに・・・・・・」
 身じろぎしたが、四方を固い壁に阻まれて、腕を上げることもできない。
 呆然と、彼女を閉じ込める物に手を滑らせ、それが、彼女の身の丈にぴったりと合った棺のようなものだと気づくまでには多くの時間が必要だった。
 いや、実際は、それほどの時間はかからなかったのかもしれない。
 だが、無明の闇の中で、彼女の知覚する時間は停滞し、緩慢にすら進んでいかなかった。
 「誰がこんなことを・・・・・・!!」
 恐怖と屈辱、そして烈しい怒りに、緻胤は強く拳を打ち付けたが、厚い壁は力のこもらない打撃を難なく受け入れ、その外壁へ音を伝えることさえなかった。
 「誰かいないの?!早く出しなさい!!」
 自分のものとは思えないほど甲高い声は、厚い蓋を前にあえなく敗退し、彼女の訴えは沈黙によって応じられた。
 「誰か・・・」
 声をあげ続けることに、早くも疲労を感じた緻胤は、闇を睨んだまま、現在知覚できるだけの状況を把握するよう、試みた。
 まず、自分のいる場所。
 間断なく地震や風が訪れる場所でもない限り、揺れつづけることのできる場所と言えば船上でしかありえないだろう。
 南海諸島には、大陸にあるような大きな川も運河もない。
 つまり自分は、南海――― 諸島と大陸の間に広がる海の上を航行している可能性が大きい。
 ではどこへ?
 東蘭へ戻るのに、誰が太后をこんな目に遭わせるだろうか。
 東蘭の者を除外すれば、南薔、西桃、もしくは東夷、西戎の各国が考えられる。
 西戎に関しては、恨みを買った覚えも誘拐される覚えもなかったが、東夷に対しては、緻胤は確かに誘拐される心当たりがあった。
 渤州が東蘭に帰属したために、労せずして得ていた富を奪われた彼らが、更なる富と、もしかしたら領地を求めて太后である彼女を営利誘拐したことは考えられる。
 では、南薔、西桃においては・・・・・・?
 緻胤は、落ち着きかけていた鼓動が、再び早くなるのを抑えられなかった。
 彼女が、眠りにつく直前の記憶を思い出したのだ。
 「お・・・姉様・・・・・・」
 呆然と呟いた声は、彼女を覆う蓋に跳ね返って、彼女自身に降りかかった。
 「南薔と・・・西桃が・・・・・・?」
 緻胤は闇の中で、蟷器の忠告を思い起こさずにはいられなかった。
 ―――― 西桃と南薔が手を組むとしたら、それは緻胤を南薔王の妹として、西桃王妃に迎えるため・・・・・・。
 「馬鹿な・・・・・・」
 ありえない、との思いを込めた言葉は、弱々しく自身にはね返り、却って疑惑を確信に変えてしまった。
 「出して!!ここから出して!!」
 悲鳴に近い声を上げて、緻胤は再び自身を覆う壁に拳を打ち付けた。
 姉が・・・あの冷酷無比な姉が、緻胤を西桃に売るだけで良しとするはずがない。
 彼女は、たとえ一瞬であっても自身の玉座を脅かした妹に、過酷な報復手段を講じているに違いないのだ。
 偏執的なまでの誇り。それが沙羅と言う女の人格を構成する主成分なのだから。
 姉が関わっている可能性が高い以上、緻胤はなんとしてもここから抜け出さなければならない。
 東蘭に帰り、王宮の奥深くに篭って、能吏達の外交と弁論の盾に守ってもらわなければ、彼女など姉の策略によって、簡単に切り裂かれてしまう。
 追い詰められた獣のように、緻胤は必死で叫び、拳を振りかざすことすらできないほど狭い棺の内側を、懸命に叩いた。
 それほど暴れても、緻胤は呼吸に不自由することがなかった為、この棺に空気を入れるための穴があいていることは確実だ。
 だとしたら、彼女の声が外に漏れているに違いないのに、声の届く範囲に誰もいないのか、それとも無視されているのか、全く反応がなかった。
 叫び続け、打ち続けていると、さすがに息が切れてしまい、ぐったりと横たわったまま荒く息をついていると、拍子抜けするほどあっさりと、緻胤の上から蓋が取り去られた。
 「・・・・・・っ!」
 すかさず起き上がり、棺の淵に手を掛けて出ようとしたが、彼女は既に、水夫らしい屈強な男達に囲まれており、力ずくで逃げるのは不可能のように思えた。
 「ちょっと、あなた達!」
 逃げるのは無理だと覚った途端、開き直った緻胤は、すっくと立ち上がって、思った以上に厚かった板をまたぎ越し、彼女を閉じ込めていた棺の中から出た。
 「どう言うことなの、これは?!私を、東蘭の太后と知っての所業なんでしょうね?!」
 腰に手を当て、昂然と進み寄ると、狭い船室に肩を寄せ合っていた男達は、彼女の気迫に飲まれ、数歩あとずさった。
 「私を西桃に売るつもりなの?!まさかあなた達、『人買い』なんて穢れた二つ名を持っていないでしょうね?!」
 「いえ、姫君様、わたしらは決してそのような・・・・・・」
 「ならば私を、どこに連れていくつもりなのか、はっきりおっしゃい!!」
 緻胤が厳然たる眼光で見回すと、彼らは陽光を直接受けたかのように慌てて目をそらした。
 「船長は誰?!」
 厳しい口調で尋ねると、一同の視線が一人の男に集まった。
 「あなたね。誰に頼まれて、私をこんな目に遭わせたの?!」
 緻胤の怒声に、彼は小山のような巨体を、これ以上は無理だろうと思うほど小さくしてうなだれた。
 「私の姉、南薔の沙羅王じゃなくて?」
 やや低めた声に、彼が鋭く反応したのを、緻胤は見逃さなかった。
 「・・・・・・わかったわ。あなた、本業は何なの?」
 深く吐息して、話を変えた緻胤に、彼は馬鹿正直にも『商人です』と答えた。
 「だったら、私と商売の話をしましょう。
 姉が、私を西桃へ送るために、あなたに対してどれほどの報酬を払ったか知らないけど、お金である以上は使ったら減るでしょ。
 だから私は、私を東蘭へ送り返す代金として、南海国にある私の領地を報酬として支払うわ。
 領地から上がる農作物の収穫量は大したことないけど、その海では大きな真珠が採れるの。領主が得る富は莫大よ。
 あなただけでなく、あなたの子供や孫が、裕福に暮らせるだけの富をあげるから、私の頼みを聞いてちょうだい」
 緻胤が逆買収の為に提示した富は、沙羅が逆逆買収することができないほどの価値があったが、船長も水夫達も、無言で顔を見合わせ、こわごわと首を横に振った。
 「どうして・・・・・・!」
 「姫君様にはおわかりにならん」
 頑迷と言うよりは怯えによって強張ったような口調で、船長が断言した。
 「・・・経の愚王めが死んで、精纜陛下が即位なさった時は、もう南蛮や東蘭、西桃のやつらに虐げられることもないと思った。
 だが、南蛮の侵攻はより烈しくなり、ようやっと蛮人めが死んだかと思えば沙羅王陛下が・・・・・・」
 「お姉様が何か?」
 反問は、敏感に応じられた。
 「陛下は精霊の娘であられる・・・。逆らうことは赦されない・・・・・・」
 水夫達の思いを代弁するように、重く吐息した船長を、緻胤は眉をひそめて見つめた。
 南薔王家に、時に生まれる色素を持たない娘は、確かに南薔だけでなく、大陸諸国の畏怖を集める存在だが、彼らの態度は、偉大な巫女に対する畏敬と言うよりは、残忍な暴君への恐怖の色が濃いように思われた。
 いや、緻胤には、それが暴君への恐怖だと確信があった。
 幼い頃の彼女がそうであったように、南薔の民もまた、姉の勘気に怯えているのだ。
 「・・・・・・つまり、あなた達は私が差し出す富より、命のほうが惜しいわけね」
 彼らはおそらく、緻胤のことを、沙羅に負けず劣らぬ暴君だと思っていたのだろう。
 早くも諦観のこもった声で言う緻胤に、水夫達の意外そうな視線が集まった。
 やがて、
 「わかったわ」
 意を決して頷いた彼女に、知らず、水夫達は身を震わせた。
 緻胤が後日、沙羅のように残酷な報復に出るのではないかと、恐れている様子がありありと見えたが、緻胤は少なくとも表面上、それを無視して船長に詰め寄った。
 「あなたたちが命令されているのは、私を西桃の港まで運ぶことだけ?」
 壊れた人形のようにカクカクと何度も頷く彼に、緻胤は深く頷いた。
 「だったら間違いなく私を西桃に運びなさい。その後、私が東蘭へ帰ろうとあなたたちには関係のないことでしょ」
 「それは・・・・・・えぇ・・・確かに・・・・・・」
 気弱に頷く彼に、緻胤は昂然と胸を張った。
 決して大柄ではない彼女が、そうすると威厳に満ちて大きく見えた。
 「では、私を賓客として扱うよう命じます。
 どうせ海の上だし、どこにも逃げられないわ。こんな箱より広くて心地よい場所に案内しなさい」
 毅然と命じると、水夫達は顔を見合わせ、不安げな視線を船長に集中させた。
 「・・・・・・わかりました」
 決断を迫られた彼は、しばらく悩んだ後、緻胤の命令を受け入れた。
 「東蘭太后陛下、我が船へようこそ。大したおもてなしはできませんが、歓迎させていただきます」
 知り合いに客船の船長でもいるのか、妙に芝居がかった口調でつっかえつっかえ言い、彼は緻胤に一礼した。
 「よろしい」
 重々しく答えて、緻胤は船長の横をすり抜け、狭い船室を出た。
 「案内なさい」
 静々と背後に従った者達に、もはや逆う者はいなかった。


 緻胤が姉の陰謀によって誘拐された頃、彼女が向かった大陸を切り取るように、紅く大きな鳥が、南から北へと飛んでいた。
 火精王の化身である鳥は、一瞬も羽根を休めることなく飄山の麓へと至り、何かを探すように西へ東へと旋回する。
 そうするうちに、いくつかの言葉を乗せた風が彼を導くように吹き、彼はそれらに導かれるように更に北へと羽ばたいた。
 飄山南岳の裏、北の斜面には、既に厚く雪が積もり、暴風がそれを巻き上げて、一寸先ですら目に映らないありさまだったが、彼は難なく翼の下に風を捕らえ、彼らの王の元へと案内させた。
 やがて、雪に埋もれ、微動だにしない女を見つけた彼は、音もなくその傍らに降り立ち、彼女の帯に爪をかけて飛び立つ。
 南岳を越える際にひと声、高く鳴き、そのまま悠然と南へ飛び去って行った。




〜 to be continued 〜


 










来薔=来日、訪米とか、『来訪』の後ろに来るのが国名&地名なら、『来薔』でも『来蘭』『訪桃』でもかまわないっすよね(笑)
ちなみに、『福岡に来る』と『来福』ってカンジで縁起が良いです(福島でも可)

ところで、すみません、遅くなって;
実は、もっと先まで続けようとしていたのですが、気がつけば文字数いっぱいいっぱいで;;;;
これじゃいかんと、きりのよさそうなところで切りました;;;
そりにしても、『やったぁ!今回死人がいないじゃん!』と喜んだのに、救いがないっぽいのは相変わらずで・・・。(そっか、刑死はしてるんだった;)
しかも書いているうちに、存在感のなかった尚書僕射の名前を間違える、というミスをやってまして(^^;)
慌てて書きなおしていたら、あちこち勘違いが見つかって、かなり焦ってました(^^;)>蔚が怪我したのは左なのに、右だと思っていたり;;;
こんな馬鹿たれ作グランドツアーでございますが、次回もよろしく!(次もまた救いが;;;)












Euphurosyne