◆ 19 ◆
彼女が目を覚ました時、まず目に写ったのは、苛立たしくなるほど明るい昼の光だった。 未だ夏の匂いのするそれにむっと眉をひそめて、彼女は粗末な寝台に絡んだ身体を起こした。 飃山(ひょうざん)であればこの時期、絶対に望めぬ日の光を浴びて、彼女は密かにほくそえむ。 ―――― どうやら奴は、『私』の依頼を果たしてくれたようだ。 先ほどから、盛んに窓を抜けては、彼女に甘えるように絡んでくる風に心地よく金色の髪をなぶらせて、風精王の化身である女は寝台を降りた。 「サラーム」 急な階段を危なげなく降りつつ、階下に働く火精王に呼びかけると、赤い髪の青年が厨房から顔を出す。 「よぉ!起きたのか」 「あぁ、おかげで怪我もないようだ。すまなかったな」 緩やかに波打つ髪を長身の背に無造作に流しながら言うと、サラームは屈託なく笑った。 「いいって。風精と風精王に借りを作っとくと、俺の方も仕事がしやすくなるからな」 そんな事を言いつつも、サラームには彼女に対して貸しを作ろうという気はさらさらない。 今回の件も、風精に王の保護を頼まれたからやったわけではなく、たとえ彼らに阻まれたとしても、お節介な彼は親友の風精王を助けに行っただろう。 「わかった。私が天球に戻った時は、お前の代わりに火精を率いてやろう」 くすくすと笑う風精王を見遣って、サラームは苦笑を浮かべた。 「やめてくれよ。お前に率いられちゃ、俺の無能が引き立つじゃないか、エアリー」 「これは、視野の狭い言いようじゃないか、サラーム?我慢の足りない火精どもに、守りの真髄を教えてやろうと思ったのにな」 「戦の時は、シルフのほうが相性いいんだ、俺達は。性格は・・・・・・まぁ、お前の方が好きだけどな」 言いながら、家事と言うには大仰な量の料理を次々と出すサラームに、エアリーが怪訝な顔をする。 「ところで、何をしているんだ、お前は?」 「そうだ、飯、食うか?」 「・・・・・・それ、全部か?」 求めていたものと違う答えを言うサラームに、エアリーが更に首を傾げた。 「いや、俺もさ、風精王に飯を出そうとは思わないんだけどよ、今のお前は人間なんだろ?飯食うのか?」 「あぁ・・・多分、食べてはいたんだろうが、あいにく私は裡(なか)で眠っていたものだから、シルフがどうしていたのかは知らないんだ」 風精は、一つの身体に二つの性といくつもの人格を持つ。 風精の王は、そんな一族の中でも全ての人格が確立していることで有名だった。 「そんなに疲れきっていたお前に、なんでこの役が振られたんだ?シルフなら、元気が有り余っているだろうに」 サラームの問いには、エアリーも首を傾げざるを得ない。 「さぁ?おそらく『奴』からの命令なんだろう。あの『嵐』が従うなんて、それしか考えられないしな」 彼女の言う『奴』が、どんな人格なのか、サラームは聞かない。 聞いても、彼女が言いたがらないことは知っている。 為に、サラームはただ 「じゃ、食えるだけ食いな」 とだけ言って、彼女の前に未だ湯気の立つ魚料理の皿を並べた。 「・・・・・・ちゃんと食える代物なんだろうな?」 通常の生き物のように食事をしたことのないエアリーが、やや不安げに問うと、 「多分大丈夫だ。ここに来る人間で、食中りになった奴はいないからな」 サラームが心もとないことを言う。 「ここに来る・・・人間達?」 まさか、精霊王ともあろう者が人間と親しいのか、と、瞠目するエアリーに、サラームは悪びれず笑った。 「そ♪食堂のオヤジなんだ、俺」 あまりにも意外な言葉に、エアリーは絶句してしまう。 昔から気安い奴だとは思っていたが、ここまで身分に無頓着な馬鹿だとは思わなかった。 そう、表情で語る彼女に、サラームが苦笑を返す。 「お前が言いたいことはわかっているさ。だけど、昔からやってみたかったんだよ」 いたずらの言い訳をする子供のようなサラームの表情に、エアリーは深く吐息した。 「部下達は知っているのか?お前の・・・その・・・・・・」 「王の道楽に関しちゃ、瑰瓊(かいけい)の精霊は、珂瑛(かえい)や瑯環(ろうかん)のとは比べ物にならねぇくらい寛容だぜ? なんたって、煌帝陛下と耀妃の享楽で慣れちまっているからな」 彼女の言を遮るサラームに、エアリーは先ほどのよりはやや軽い吐息で応えた。 「苦労しているんだな、お前も」 苦笑する彼女に、サラームも笑みを返す。 「宮仕えの悲しさってやつだな。お前も同じだろうが」 言われて、エアリーも笑みを浮かべた。 「つくづく、人の身がうらやましい。彼らは、絶対者に仕えているわけではないからな」 同じ人間に仕えるのならば、主人を変えることも可能だろうが、精霊はそうもいかない。 風精と生まれたなら風精として、火精と生まれたなら火精として、永い生の代価であるかのように唯一の主人に仕えるのだ。 だが、そんな運命を、サラームもエアリー自身も呪おうとは思わない。 世界を護る天将であるという誇りは、彼らの心を不満よりも深く満たしている。 「ま、こんなめんどくせぇ話はやめて、飯にしようぜ。忌憚のない感想を期待してるぜ」 そう言って火の王は、いくつもの皿を風の王に勧めた。 西桃の都は、南海を斜(はす)に睨む、国の東南に位置する。 南薔の港が衰えて以来、南海は南蛮の支配する所となったが、西桃はその海が生み出す富を少しでも多く手に入れるため、国の中央にあった都を遷都したのだ。 白渟(はくてい)と呼ばれる良港を中心に発展する都は、代々の王城としての歴史はかつての都に及ばなかったが、繁栄という点で凌駕した。 かつての都からこの地へ遷都を決行したのは、西桃の前王・深(シン)である。 彼はまだ、亡くなってから二十年ほどしか経っていないにもかかわらず、歴代の西桃王の中でも随一の名君と賞されているのは、かつて世界中に広まった荒廃の初期段階に、以後の凋落を見越して数々の改革を行った為であった。 他国がなんの手段も講じ得なかった時に、彼は国内を整え、南薔の侵攻があった際には反攻して、南薔の地を奪いもした。 更には水が涸れ、地が干からびた時期ながらも芸事を奨励し、教養人を招いて世界一の商業・文化国家としての地位を確立したのである。 百年ほど前までは唯一の宗教国家として、世界随一の文化と隆盛を誇った南薔は現在、南蛮に蹂躙(じゅうりん)され、東蘭は前王の庶子に玉座を奪われた。更に南蛮は、東蘭に嫁いだ娘の子供に奪われれるなど、かつて大陸の三大国と呼ばれた国々の、相克し、無残に凋落した様に、元々自尊心の高い西桃の民は誇らしく彼らの王を名君と称えたのだった。 しかし、その息子、A(ケイ)王の時代になってからはそうもいかなくなった。 いや、A王の母、李氏摩沙(マーシャ)が王妃の位に就いてから、と言うべきか。 西桃の王宮には、南蛮の王宮が範とした後宮の制度が整っており、摩沙は元々、名門・李家が輩出した妃に仕える女官だった。 その当時、後宮にあった多くの妃達は皆、懐妊することは出来なかったのだが、妃ですらなかった摩沙が深王の御子を身ごもったため、李家は遠縁であった彼女を養女に迎え、多くの妃達を制して王妃の位にまで上りつめさせたのだ。 そんな女が、並の野心家であるはずがない。 深王が生きている間はそれでも、その寵愛を失わぬように身を慎んでいたものだが、彼が老齢により亡くなると、王位を継いだ息子の存在を盾に、国政にも口を出すようになった。 どころか、自身の妹を東蘭王に嫁がせ、東蘭をも手に入れようとしたのである。 生憎、彼女の妹は東蘭王に嫌われ御子を成すことなく、東蘭の民にも憎まれた挙句、前王の庶子によって国を追われたとも、幽閉されたとも、処刑されたとも伝わっている。 しかしそんな事件も、太后となった摩沙の権勢に影を落とすことはなく、あいも変わらず王宮の最奥から西桃を操っているのだった。 いや、この時期彼女は、世界すら操れるとという妄想に浸っていた。 子を産めなかった嫁をいびり殺した後、彼女はやはり、王妃が不在では体裁が悪いと考えたようだ。 それならば多くの妃の中から、ふさわしい者を選べばいい事なのだが、彼女は息子の後宮に棲まう女たちに深刻な不信感を持っていた。 彼女自身がそうであったからかもしれないが、妃から女官に至るまで、後宮に入った女は全て野心を持っているものだと信じていたのだ―――― 西桃人が表裏違う顔を持つ人種であると言うのは、他国の者に言われるまでもなく、自身でよく知っていることである。 また王妃は、東蘭を手中にするという野心を未だ持ちつづけていたために、前東蘭王妃を息子の妻にと考えた。 前東蘭王妃・緻胤が、前南蛮王と前南薔王の娘であり、現在の東蘭と南蛮を統べる王を産んでいることも、摩沙には都合が良かった。 この女の産んだ子供なら、東蘭王位だけでなく、南薔と南蛮の王位すら望めるだろうと、老いてなお尽きぬ野心は計算したのだ。 だが現在の西桃王、A(ケイ)は、そんな母の企みなど知らぬまま、南蛮より届いた荷の報せに、ただ目を丸くしていた。 「東蘭の太后が、なんの用あって我が国に参ったのだ?」 最近、顔を見るようになった側仕えの宦官に問うたが、彼は西桃太后の思惑を知りながらも、穏やかに微笑したのみで答えようとしない。 「一体、どのような用件で参ったものか―――― いや、なんの用であっても、先触れもなしに参るとは、慎み深いと言えまい」 生まれてから一度も王宮の外に出たことがないと言う西桃王は、柔らかい肉に包まれた顎に子供のように丸々とした指を当て、ちんまりと首を傾げた。 すると、自然に波打った金色の髪がふわふわと揺れ、幼い少年が迷子になったような、困惑を描いた顔を彩った。 「まぁ良いわ。後宮のことは、母上にお任せしよう」 そう言うと、彼は顎においていた手を離し、筆を握って再び政務に戻った。 国政に対しては、父の敷いた轍(わだち)を決して踏み外さない、凡庸だが暴君ではない王も、後宮においては主と言うより、主の息子でしかない。 家内は全て母に任せて、国政に集中している、と言えば聞こえが良いが、かしましい女たちを相手に立ち回るのが面倒だ、と言うのが彼の正直な感想だった。 彼には最近亡くなった王妃がいたが、『家の名誉』と『自身の栄光』を両手に掲げて彼を迎える妻を、正直あまり好きではなかった。 彼の好みとは、後宮に入った彼を捕まえて、甲高い声で不満を叫ばない女なのである。 身分なんかなくていい。顔だって醜くていい。頭だって悪くて構わないから、無口でおとなしくて穏やかな女はいないものか・・・・・・。 後宮には何百人もの女がいるのだから、一人くらい彼の理想とする女がいてもいいはずなのに、白粉と香油の匂いがきついそこには、過剰な自意識と過敏な耳と壊れた口を持つ女しかいない。 始終、声高に誰かの噂話をする女たちに、いい加減うんざりしているのだが、かといって王宮の外に探しに行こうか、という積極性もない彼だった。 そんなことを政務の合間につらつらと考えていた王は、ふと、思い立って側に立つ宦官を見上げた。 「たしか、東蘭王は亡くなったのだったな?」 「さようにございます、陛下。 かの地では既に、王世子殿下が御位をお継ぎあそばして、あまつさえ、南蛮王の地位まで得てございます」 「ほぅ・・・・・・。 仮にも大陸三大国と言われた国の王が、南蛮王の位に就いたのか。東蘭の権威も落ちたものよの」 西桃王らしい、中華的な言葉を自然に吐くと、彼は持っていた筆を陶器の筆置きに戻した。 休憩にする、という合図に、宮女がすかさず茶と菓子を運んでくる。 「しかし、南蛮はどうして、東蘭王の子供なぞに王位をくれてやったのだ?」 花や果実をかたどった美しい菓子を、無造作に掴んで口の中に放りこみながら尋ねると、王の傍らに立ったままの宦官は、ゆったりと微笑んで頷いた。 「陛下も、前東蘭王がどのような出自かはご存知でしょう? なんでも遊女の産んだ庶子であったとかで、ご本人もずっと、遊郭で暮らしておられたとか・・・・・・」 西桃人にしては珍しい、あからさまな物言いが気に入って側に召すようになった宦官に、Aは頷いて先を促す。 「かのお方は御名を采(サイ)とおっしゃいまして、御名に『木』を持っておられる以上、確かに蘭家に通じる方でしょうとは言われておりましたが、父君であられた前王陛下が亡くなられてから見出されておりますので、真に庶子であられたかは誰にもわからぬことでございます。 しかし少なくとも、そう信じた者は多くおりまして、特に若い跳ね返り達が、恐れ多くも東蘭王妃殿下であらせられた西桃太后陛下の御妹君を退け、かの方を玉座に就かしめたのでございます」 他国の者であれば、由来縁起から語り始める長話に苛立ったことであろうが、Aは慌てず騒がず、ゆったりと茶を飲みながら聞いている―――― 他の宦官に語らせればもっと長い。 「しかし、もとは遊女の子、遊郭の侠客であったことなど、誰もが知っております。 どんなに身分の低い貴族であれ、姫君を嫁がせようなど、考えようともなさりません。自国でさえそうなのですから、南薔や西桃の、身分あるご婦人方などとんでもない。 そこでなんとか言う、かの方の側近が、南蛮より花嫁を迎えようと、進言したそうにございます」 「枢蟷器であろう。彼は有能な官吏だと聞いている。その、南蛮の姫と言うのが、今ここに来ている太后か」 空になった茶器を脇に置いて尋ねると、宦官はふくよかな頬の肉を揺らして、ゆったりと頷いた。 「さようにございます。 太后陛下は御名を緻胤(ジーン)様とおっしゃいます。南蛮の王女ではございますが、母君は先日亡くなった南薔王陛下、精纜(セイラン)様であらせられ、姉君は現在の南薔王陛下、沙羅様にございます。 どうも、そちらの血筋を重んじての、ご成婚だったように思われますな」 宦官の滑らかな語りに、茶器と菓子を下げさせたAは感嘆の声を上げた。 「宦官と言うものはよく宮内のことを知っているものだが、お前は国外の事情にも通じているのだな」 純粋な少年のように目を輝かせる王に、宦官は深くこうべを垂れる。 「ありがとう存じます」 それ以上のことは語らずに佇む宦官に、Aは機嫌よく笑いかけた。 うるさい人間がなにより嫌いな彼にとって、この宦官は好ましい存在だったのである。 「荀(ジュン)と言ったな?お前は以前、どこの邸に仕えていたのだ?」 自身の政務に関わる高級官吏や、他国の王族・要人の名前は知っていても、身の周りの雑事をこなす者達の名は中々覚えられない彼が、その名を知り、顔を覚えたこと・・・それも、新参の宦官のそれを覚えたと言うことは、王宮の外の者達が考えるより珍しく、貴重なことだった。 荀と呼ばれた宦官は、そのことを十分承知しており、膨れ上がった巨体を恭しく曲げてこうべを垂れた。 「南蛮に、捕らわれてございます」 彼が、長い間南蛮の王宮に住まい、前南薔王・精纜と、その二人の娘達の側に仕えたことを語ると、Aは感心して頷いた。 「そうか、かの王宮では、内侍(ないじ)まで勤めたのか」 内侍といえば、宦官をまとめ、後宮での諸事一切を取り仕切る高級官吏であり、時には、王の背後で権勢を振るうことのできる役目でもある。 蛮地でのこととはいえ、宦官としての最高位に上り詰めた身では、現在の境遇は不満だろうと、Aが声に憐憫をにじませると、荀はゆったりとこうべを横に振った。 「南蛮のあばら家とこの雲上の王宮を、なんぞ比べられましょうか。 南蛮王めが陛下の足下にある小虫であるとすれば、私は彼奴の食らう土くれにございましょう。 少々大きな土くれとはいえ、陛下の御手に握らるれば脆くも崩れ去る程度の物にございます。陛下の下男様の、更に下男殿でさえわたくしめにとっては上司にあられます。 不満などと、恐れ多い気持ちは些少なりとも持ち合わせておりませぬ」 兵士がかどわかしてきた女を買い叩いていた男とは思えない、殊勝な言葉に、根が正直なAは簡単に騙されてしまった。 「なんと清らかな心根だ。 そなたのような者こそ、後宮を束ねるべきだな」 政事ではともかく、家庭では多くの問題を抱える王は、彼が行ったの行かなかったのと細かいことで大騒ぎする女たちに、いつもうんざりしているのだが、そんな女たちに買収されて、彼をあちらの部屋、こちらの房へと連れまわす宦官達のことははっきりと嫌っていた。 男のくせに、甲高い声でキィキィとわめきたてる彼らに囲まれることが、鬱陶しくて仕方ない。 それでも、後宮の世話をするのに必要だと思ったから、Aはその存在に耐えてきたのだ。 しかし、王妃の死に、それなりに責任を感じていたAに対して、彼らは傲然と彼女を非難し、太后こそが正しいとキィキィ喚きたてた。 『太后陛下の御意向』、『太后陛下の御威光』と、同じ言葉を馬鹿のひとつ覚えよろしく喚きたてる彼らにとうとう怒り、Aは自身を侮る宦官を全員、王宮より追放したのである。 そんな王の心情を、荀はよくわかっていた。 この王は、彼が南蛮で仕えた王妃によく似ているのだ。 深刻な男嫌いであり、南蛮王のことを心底憎んでいた王妃・精纜に、しかし、四人もの子を身ごもらせたのは、ひとえに彼の功績であった。 極言すれば、この西桃王も重度の女嫌いである。 いやだと言う者の腕を無理に引っ張って連れて行っても、うまく行くはずがないのだ。 西桃の宦官達は、後宮の女たちが差し出す珠玉や絹に目を覆われ、その程度のことすら気づけないでいる。 荀は心中に冷笑し、南蛮に比べて遥かに闇の深い西桃の後宮に、確かな立地を手に入れた事を祝った。 微笑を浮かべたまま沈黙した荀が、そんなことを考えているなどとは夢にも思わず、Aは好意に満ちた笑顔を浮かべて一つ頷くと、再び筆をとった。 どんな時でも――― 正妃が亡くなったときですら彼は、自身に課せられた仕事を放り出したりはしなかった。 政務にさえ励んでいれば、後宮に足を向けない口実ができる、というのもひとつの理由ではあったが、幼い頃より名君の誉れ高い父の薫陶を受けていたことが効いたのか、彼は勉強や仕事をするのが好きな、まじめな王だった。 一日中執務室にいることも稀ではないため、背の低い、肉付きの良い身体はややたるんではいるが、その顔の造作は三十二歳とは思えぬほど幼いため、可愛らしい少年のようにも見える。 西桃太后となった彼の母が、何かと彼に構いたがるのも、自身の栄光の為のみではあるまいと、見る者に納得させる容姿だった。 ―――― 緻胤姫と並ばれると、さぞや似ておられることだろう。 緻胤がこの王宮へやって来た本当の理由を知る荀は、そっと苦笑を浮かべた。 西桃の太后が利己的な暴君であることは、ここに来て間もなく知ることができたが、沙羅姫もどうしてどうして、古狸に劣らぬ女狐だ。 南薔の土地を取り戻す為、既に嫁した妹を売るなど、常識や羞恥心を持ち合わせた人間には到底真似のできない所業ではないか。 思って、荀は自身の企みが、常識も羞恥心も持ち合わせないものであることに気づき、自嘲を口の端に乗せた。 ―――― せいぜい、お優しくして差し上げますよ、緻胤『王妃』。私の、輝ける未来のためにね。 西桃の港、白渟(はくてい)に着くや、待ち構えていた馬車に乗せられ、連れ去られた緻胤は暴れもせずに、西桃の後宮に入れられた。 彼女が唯々諾々と西桃王家の使者に従ったのは、自身の立場を運命などと言う都合のいい言葉にゆだねて、受け入れたからでは決してない。 彼女は、南蛮から西桃へと、南海を渡る船上で急に体調を崩し、頭も上がらぬほど衰弱していたのだ。 荷物を運ぶようにして、王宮の下男が緻胤を部屋に運び入れたが、彼女は贅を凝らした細工物などで飾りたてられていたそこを見ることすらできなかった。 が、西桃特有の香油や香水、白粉や紅の濃厚な匂いに目を覚ました緻胤は、不快な匂いに眉をひそめた。 「・・・・・・なんて・・・匂いかしら」 ぼんやりと、嗄れた声で呟くことはできたが、まだ自分が、毛足の長い絨毯の上に無造作に投げ出されていることには気づけないでいる。 「婀摩・・・・・・。 窓を・・・開けて・・・・・・・・・」 朦朧としながら侍女の名を呼ぶと、確かに誰かが窓か扉を開ける気配がしたが、わずかな風に乗って漂ってきたのは、清澄な秋の空気ではなく、濃い香料の匂いだった。 脂っぽいその匂いに嘔吐感を覚えた緻胤は、堅く目をつぶって堪えたが、 「これが緻胤とかいう娘か」 と、傲慢な声に見下されて、嘔吐感を上回る不快感に、かすむ目を見開いて声の主を睨んだ。 彼女の視線の先では、女官や宦官を大勢引き連れた、年甲斐もなくきらびやかな衣装を纏った初老の女が、ぎり、とこちらを睨んでいる。 首や両手に、大きな宝石をいくつもつけているせいか、前かがみに歩み寄ってくる様が、老いた猿のようだ。 「・・・何者ですか?」 嘔吐感を堪えつつ、なんとか身を起こした緻胤が、彼女にしては珍しく高慢な口調で問うと、女は眦を吊り上げて怒鳴った。 「口を慎め!!わたしはこの西桃王国の太后である!」 怒りに震える声が、緻胤の不快感を更に煽ったが、今の緻胤には怒鳴り返す力もなかった。 「・・・・・・わたくしも・・・東蘭の太后です・・・!なんの故あって・・・このような・・・・・・」 ふらふらと、風を受けた柳のように揺れる緻胤に、西桃の太后が感情的にわめく。 「このような、だと?! おまえ、未だに東蘭の王妃気取りかえ?!未だに、自分が権力を持っているとおもっているのかい?! お前はもう、東蘭の王妃でも太后でもないのだよ!ただの小娘をどう扱おうと、私を止める者があるものか!!」 紅く塗られた唇から嗄れた笑声が漏れる様を、緻胤は絨毯の上に座り込んだままぼんやりと見上げていた。 ・・・・・・あなたはそのように扱われたのですね。でも、わたくしの子や臣下達までも貶めるのはやめて・・・・・・。 緻胤は、声にならない声で西桃太后の言葉を否定していた。 彼らは決して、自分を見捨てたりはしないと、確信している。 しかし、そんな毅然とした態度は、西桃太后の矜持を傷つけずにはいられない。 太后は途端に笑うのをやめ、再び眦を吊り上げて緻胤を睨みつけた。 「誇り高くいられるのも今の内さ。 お前の身は、南薔王が西桃に譲り渡したのだからね。 この国に入った以上、二度と後宮を出られないよ!」 毒にまみれた声を吐き出すや、彼女はきびすを返し、足音も荒く部屋を出ていった。 その背中を見送った緻胤を、西桃太后に従って来た宦官達が囲む。 「・・・・・・おやめなさい」 低く、かすれてはいたものの、確かな怒りの込もった命令に、宦官達は熱いものに触れたかのように伸ばしかけた手を引き寄せた。 彼らは、しばらく緻胤を囲んで逡巡していたが、やがて困惑の視線が集まった顔が、意を決して進み出、彼女の前に平伏する。 「ご無礼をお許しください、殿下」 「敬称を間違えているわ。私のことは『陛下』とお呼びないさい」 何度も吐息しながらの、しかし、毅然とした声に、高位の宦官らしい、のっぺりとした顔の男は恐々と首を振った。 たるんだ頬の肉が、ふるふると揺れる。 「いいえ、殿下。いいえ・・・・・・」 何度も同じ言葉を繰り返して、彼は中々理由を話そうとはしない。 「・・・・・・・・・」 言葉は出なかったものの、その威圧感に彼女を囲む宦官達は、一様に身を震わせた。 「お・・・・・・お許しを・・・どうか・・・」 要領を得ない彼の言葉に、緻胤が剣呑に眉をひそめると、閉じられた扉が再び開いた。 「姫」 久しく呼ばれなかった敬称に、緻胤は丸い目を見開いた。 「荀・・・・・・」 結婚前は、常に彼女の傍にあった宦官である。 意外な場所での再会に、緻胤は怒りも忘れて呆然と彼を見上げた。 「お久しぶりでございます、緻胤姫」 深々とこうべを垂れるものの、首にわだかまる肉が邪魔をして顔だけが十分俯けないという姿勢に、緻胤は懐かしく目を細めた。 「ここに仕えていたの、荀」 和らいだ口調に、荀は温和な笑みの張り付いた顔を上げた。 「姫様におかれましては、この度のこと、まことに心外なことと存じます。 はばかりながら、わたくしめからお話させていただいてもよろしゅうございましょうか?」 そう言って、荀は緻胤と彼女を囲む宦官達をゆったりと見まわした。 「いいわ。この者達ではお話にならないもの」 即答した緻胤が、再び目をきつくして睨み渡すと、宦官達はおどおどとひとつところに固まった。 「ありがとう存じます、姫。 内侍殿、申し訳ありませんが、ここはわたくしめにお任せいただいてもよろしゅうございましょうか?」 荀の言に、内侍と呼ばれた宦官は一瞬、福々しい顔をしかめた。 新参者が余計な差し出口を、と、その顔が雄弁に語っている。 しかし荀は、そんな彼に殊更恭しく拱手した。 「わたくしめは、緻胤姫がお生まれになった時から存じ上げる者にございます。 このようにお話しにくいことでも、わたくしでしたら穏やかに申し上げることもできましょう。ここはどうか、お任せくださいませ」 と、にじり寄った彼に幾ばくかの金を握らされた内侍は、渋々と言った様子で頷いた。 「ご信頼、ありがとう存じます」 まるで下男のようにへりくだって、部屋にいた全ての宦官達を外に見送った荀を、緻胤は床に座り込んだまま、ぼんやりと見つめている。 「荀内侍ともあろう者が、随分と落ちたものね」 皮肉などではなく、ふと口をついて出た言葉に、荀が苦笑しつつ緻胤を顧みた。 「下男でございますからね、わたくしは」 言って、緻胤の傍らに膝をつく。 「お苦しくはございませんか?お立ちになれますでしょうか?」 気遣わしげな声に、緻胤の張り詰めていた気が解けて、ゆらりと半身が傾いだ。 「姫、どうぞお気をたしかに」 とっさに緻胤を支えた荀は、そのまま彼女を抱きかかえて、部屋の隅にあった長いすへとよろよろと歩みより、大事なものを扱うようにゆっくりと緻胤を寝かせた。 それも当然で、今の緻胤は、荀にとってこの後宮を支配するために必要な存在である。 「お加減はいかがでございますか?」 長椅子に身を横たえた緻胤の手を取り、優しく問いかけると、彼女は父が彼に寄せた信頼を受け継ぐかのように好意的な視線を送った。 「一体・・・・・・どう言うことなのか・・・教えてちょうだい・・・・・・」 深い吐息と共に吐き出された言葉に、荀はいかにも同情的な顔を作ってみせる。 「姫様、どうか冷静にお聞きください」 潜めた声に、緻胤は呼吸すら止めて頷いた。 「大変なことになりました。南薔王陛下が、先ほどご覧になられました、西桃の太后陛下へ、あなた様を売られたのでございます」 予想していた最悪の事態を、事実として知らされた緻胤は、意外と落ち着いて頷く。 「既に、南海におられる東蘭王陛下へ、あなた様が西桃の王妃となられることを了承したという書状が送られております」 「馬鹿なことを・・・!」 吐き捨てるように呟いた緻胤を、荀は同情のこもった目で見つめた。 「荀、わたくしのお腹には今、前王の遺児が宿っているのです。このような馬鹿な申し出は受けられないと、はっきりおっしゃい」 不快さを隠そうともせず、断言した緻胤に、荀は瞠目する。 「それは・・・まことにございますか?!」 演技ではなく、本気で驚く彼に、緻胤は毅然と頷いた。 「もちろんです。ですからわたくしは、絶対に西桃の王妃になどなるつもりはありません」 「緻胤姫・・・・・・そのことを、ここの人間におっしゃいましたか・・・・・・?」 福々しい顔いっぱいに汗を浮かべる彼を、緻胤は訝しげに見遣る。 「そんなことを言う暇はありませんでしたよ」 と、荀は肺を空にするほど大きな吐息を漏らして、滴る汗を拭いた。 「それはよろしゅうございました・・・・・・。 もし、姫が誰かにおっしゃっていられたら、御子のお命が危ないところでございました」 途端、顔を強張らせた緻胤に、荀は沈痛な面持ちで続ける。 「姫・・・・・・。西桃は南薔と違い、優秀な堕胎医が何人もおります」 南海の王宮で聞いた、姉の言葉を思い出し、緻胤の血の気が引いて行く。 「西桃王の後宮に入った女人が、別の男の子を宿していたなどと知られれば、すぐさま御子は堕ろされることでございましょう」 荀の言葉に、緻胤の顔色は蒼白を通り越して土気色になった。 縋るように荀の手を握った手も、みるみる冷たくなって行く。 「お分かりでしょう・・・?このままでは、亡き采王陛下の御子が殺されてしまいます。 姫様、どうかここは、西桃の太后陛下と南薔王陛下の思し召しにお従いください・・・!」 「ですが・・・・・・」 今にも気を失いそうなほどか細い声で、しかし、緻胤は反駁(はんばく)した。 「東蘭の・・・太后であるわたくしが、西桃王の妃になるなど・・・・・・」 決してできないと、震える緻胤に、荀は言葉を重ねた。 「ですが、このままでは間違いなく御子は殺されます。いえ、もしこのまま拒まれれば、姫様のお命ですら・・・・・・。 ええ、そのくらいはおやりになる方なのです。この後宮において、西桃の太后陛下の御意は絶対なのですから・・・・・・。 ですから姫、どうかここはお譲りくださいませ・・・・・・!!」 荀の必死の形相に、本来疑うことを知らない緻胤はあっさりと彼の策に落ちた。 「・・・・・・お前に・・・任せます・・・」 この子を守ってください、と、呟くように発せられた言葉に、荀は強く頷く。 「身命にかけましても」 恭しく右手を当てた胸の裡に冷笑を浮かべながら、荀は自身の未来に光明をもたらす王女の手を強く握った。 月が変わると同時に中書令の地位を得る事が決まっている枢蟷器は、それまでの時間を自宅で過ごしていた。 この、派手な遊びをすることで有名な男にしては、たった十日のこととはいえ、意外なほどつつましい暮らしぶりである。 彼は今、毒と政務に疲れた身体を、献身的な妻の介護にゆだね、ぼんやりと過ごしていた。 「・・・・・・なにか、咲いている」 庭に面した窓際に座る夫が呟いて、杏嬬はふと振り返った。 「なんて花だ?」 彼が指差した先では、細い枝にたくさんついた小さな花が揺れている。 「さぁ・・・・・・?」 杏嬬が首を傾げると、緩やかに波を描く白金の髪が肩を滑った。 「聞いてまいりましょうか?」 「いや、いい」 杏嬬の答えに、蟷器はゆるく首を振った―――― 花の名前になど、大して興味があったわけではないのだ。 「杏嬬・・・・・・」 蟷器が珍しく言い澱む様に、杏嬬は穏やかな微笑を浮かべながら、彼の前に膝をついた。 「はい?」 清澄な秋の光を受けて、白金の髪が淡く輝く・・・・・・ 実体を持たない精霊のような美しさを、蟷器がじっくりと見つめていると、煙水晶のように淡い瞳が、笑みの容に細まった。 「どうされたのです?」 嬉しげな声音に、蟷器が嫌に真剣な貌(かお)をする。 「正直に答えて欲しい」 「わたくしが、あなたを偽ったことがありましたでしょうか」 かつて、『感情のない女』と評されていたものとは思えないほど、情感にあふれた声音に、蟷器が苦笑しつつ頷いた。 「すまん。お前を信じられなくなっては、俺もおしまいだな」 自嘲する蟷器の膝に、杏嬬がそっと手を重ねる。 「大事なお話ですのね?」 穏やかに微笑みながら、杏嬬は蟷器が何を言おうとしているのか、考えていた―――― また、気に入った妓女でも見つけられたのかしら? ふと、そんな思いがよぎって、鼓動が跳ねる。 新たな女に嫉妬してのことではない。自身をかばって亡くなった少女のことを想い、胸が痛くなったのだ。 せめて彼女の喪があけるまでは、新しい女の話などして欲しくない。 そんな彼女の思いをなんとなく感じたのか、蟷器は杏嬬の髪をひと房手に取って、軽く口付けた。 「そうじゃない、杏嬬」 「それでは・・・?」 夫のただならぬ様子に、杏嬬は微かに眉をよせる・・・・・・一体、何があったのかと。 そんな妻の様子に、蟷器はまだ言いよどんでいたが、やがて意を決したように杏嬬の目をまっすぐに見つめた。 「俺の子供を産む気はないか?」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 だが、胸の裡にその言葉を何度も反芻し、やっとその意味が掴めた時、杏嬬の瞳が色を変えた・・・・・・淡い灰色の瞳に血流が集まり、藤色に染まって行く。 「・・・・・・うれしゅうございます」 ただそう囁く。 なぜ突然そんなことを、などとは、問おうとさえ思わなかった。 ―――― そんな問いを発すれば、蟷器は差し出した手を引き寄せるに違いないのだ。 「うれしゅうございます、泓河(コウガ)様・・・・・・」 感動のせいか、酷くかすれた声で何度も囁き、蟷器の膝に額づいて嗚咽を漏らす。 ―――― どんな気まぐれでもいい。勝手な都合でもかまわない。 ただ、蟷器に子を産むことを許されたというだけで、杏嬬は涙が止まらなかった。 「・・・まだ、お前が身ごもれるかもわからないが・・・子供が女だったら、東蘭王妃にしてくれるそうだぞ」 その言葉に、杏嬬は誰が蟷器を説得してくれたのか、理解した。 「ありがとうございます・・・・・・!」 泣きながら、杏嬬は何度も緻胤と蟷器に礼を言った。 そんな、感動と感涙にあふれた部屋へと、王宮よりの使者は迷い込んでしまったのだ。 「あっ・・・あのぅ・・・・・・・・・」 こわごわと、麗しい夫婦愛の間に入り込んでしまった彼は、気まずい思いで視線をさまよわせながら、蟷器を呼ばわる。 「・・・・・・すみません。閣下に火急のお召しです・・・・・・。 謹慎を解き、中書令の位を差し上げますので、至急王宮においでください」 途端、目を険しくした蟷器に使者が身を竦める。 「差し上げる?!陛下はどうなされた?!」 彼が『賜る』という言葉を使わなかったことに、蟷器は違和感を抱くと同時に鋭く反応した。 「実は・・・・・・そのぅ・・・・・・・・・」 杏嬬の存在を気にするように視線をさまよわせる使者に気づいて、蟷器が彼の傍に寄る。 「・・・・・・・・・太后陛下が・・・西桃に奪われましてございます」 その言葉に、蟷器はあからさまに顔色を変えるようなことはしなかった。 「杏嬬」 憎らしいほど落ち着き払った声で妻を呼び、休暇が終わったことを伝えたのである。 震えながら書いた書状は、横から乱暴に奪われた。 「東蘭王妃、太傅の位を退き、西桃王妃となる・・・高々この程度の書状を書くのに、こんなに時間がかかるのかえ? 蛮人の娘は、とんだのろまだこと」 ぎり、と睨んだ先では、西桃の太后が紅い唇を歪めている。 「こんな薄汚い血を継いだ女を王妃にしてやろうなどと、私も慈悲が過ぎること」 鼻で笑う太后を睨みつつも、緻胤は反駁を堪えた―――― 子供の命が、この醜い女に握られているのだ。 「この書状を十分調べてから、正式な書状として東蘭へお運び。この娘が余計なことを書いていないか、じっくり検分するのだよ。そして新たな富を得て、はしゃぎおる下人どもの目を醒ましておやり」 冷笑を含んだ声に、緻胤は固く拳を握って耐えた。 左手に握り締めた指輪の冷たさが、彼女を静めてくれることを願いながら・・・・・・。 それに反して、西桃の都から離れた南薔の王都、峭州(しょうしゅう)では、位人臣を極めた青年が、美しい銀の髪を振り乱して激昂していた。 彼の背後では、英華と筝が屈強な兵に囚われ、彼の傍らでは、東州候に返り咲いた老婆が彼と彼の眼前に立つ女をおろおろと見比べていた。 「王が反逆者を捕らえて何が悪い!」 「確たる証拠もなく、死を命じるのが王のすることか!!」 第一、と、カナタは老婆よりも白い髪を持つ女を睨みつけた。 「お前はまだ、王じゃない!」 王とは、厳密に言えば戴冠の儀式を経て、初めて民や他国に認められるものだ。 しかし、前女王の死から日の浅い現在、沙羅は喪に服し、華々しい舞台を未だ用意できずにいる。 「お前がまだ王世子である以上、身分は俺の方が高い―――― その手を離せ!」 鋭く命じられて、英華らを捕らえた兵士達が、戸惑いを隠せないまま沙羅を見遣った。 「沙羅。 このまま我を通すつもりならやってみるがいい。だが、聖太師を蔑ろにすれば、神殿が黙っちゃいないぜ」 脅迫に似たカナタの声音に、沙羅が悔しげに唇をかみ締める。 「さぁ、二人を寄越せ。俺の臣下だ」 蒼白になった手を震わせて、沙羅は兵士らに二人を放すよう、命じた。 勝ち誇った笑みを浮かべて、きびすを返したカナタの背を睨みつける。 「・・・・・・・・・・・・覚えているが・・・・・・いいわ・・・・・・」 屈辱に黒く染まった声を聞いて、カナタは肩越しに冷笑した。 「文句があるなら飄山に来るがいい―――― 山に拒まれないよう、言動には気をつけろよ」 胸を抉る言葉に沈黙した沙羅を背に、カナタは王宮を後にした。 「いい年した権力者がさぁ・・・・・・あんなこと言うかなぁ、ふつー?」 沙羅とぶつかった部屋を出た途端、待ち構えていた英利に皮肉られ、カナタは微笑を浮かべた。 「ああでも言わなきゃ、あの女は二人を放さなかったろうよ」 「だね」 素直に頷いた彼は、母親を放ってカナタと歩調を合わせた。 「それで?カナタは飄山にこもっちゃうの?あの女と戦うの?」 少年らしい好奇心を隠そうともせず、彼はわくわくとカナタに話しかけてくる。 「飄山には帰るよ・・・でも・・・めんどくさいことって嫌いなんだよね、俺」 沙羅と戦うとなれば、彼を崇め奉ってくれる神殿の者達を使って、王宮の貴族達をも掌握する必要がある。 そんな水面下の根回しというものが、カナタは好きではない。殺人にも、未だ慣れることはできなかった。 「優柔不断だね、カナタは」 鼻にしわを寄せて断言した少年に、カナタは苦笑を返す。 「君と俺とじゃ、価値観が違うんだよ」 罪というものは、従属する社会に対する禁忌であり、唯一の真実なんてものではないと、カナタはこの六年間で身にしみていた。 この世界は今、カナタの知る時代で分けるならば中世と呼ばれる辺りだろう。 欧州などでは暗黒の時代と呼ばれた秋(とき)―――― 常に戦時下である状態は人々の心を暗くせずにはいられない。 「まぁ、実際に戦うのは、あれが攻めてきた時でいいよ。また内戦なんてやらかしていたら、今度こそ西桃辺りが侵攻してくるだろうし」 そう言うと、英利はさすがに黙り込んだ。 「・・・・・・いつになったら、佳葉に帰れるんだろうね、僕達は」 ぽつりと呟かれた言葉に答える者は、誰もいなかった。 「詳しい状況を聞かせてもらおうか」 蟷器が駆け込んだ東蘭王宮は、意外と落ち着いて彼を迎えた。 「南海からの報せをまとめると、太后陛下が西桃にさらわれ、あまつさえ西桃王妃に立てられたということになりますね」 蟷器の問いに、裴(ハイ)が淡々とした口調で答えた―――― こんな状況にあって、王宮がなんとか取り乱さずにいられたのはきっと、彼の功績だ。 「それで?こちらからはなんとすべきか、対策は練れたのか?」 「まぁ、一応は」 蟷器よりはやや明るい頭を振りつつ、裴が苦笑する。と、法家らしく、いつもきちんとまとめられている髪がややほつれた。 「戸部尚書が提案して下さった策を採ることで、一致はしたのですが、誰が行くかで揉めているんですよ」 「策?」 「えぇ。我らが太后陛下に対する西桃の立后は無効であると、あちらに訴えようと思いましてね。 そこで、こんな状況を無効にできる、法律をこっそり作ろうかと思っているんです」 一法家であればともかく、権力を握った法家と言う者はやる事が汚い。 彼は遡行性をどうのと言うより、『太后となった者が他国の王妃になることはできない』と言う法律が東蘭には昔からあるのだと、でっち上げようとしているのだ。 「まぁ、そんなもんは常識であって、わざわざ明文化するようなものでもなかったしな」 西桃は、そんな常識の裏をかいて見せたのだ。 「向こうが先に、こんな汚い手を使って来たのですから、こちらが遠慮することはありませんよね?」 普段、穏やかな雰囲気を衣のように纏っている裴だが、法家一族の頭領のつむじは、生まれた時から曲がっている。 「それで?誰が行くか揉めているって言うのは?」 更に問う蟷器に、裴は苦笑した。 「誰が西桃王宮に乗り込んで、陛下を助け出すか、って問題ですよ。 力対力の戦じゃありませんのでね。弁舌の剣と法の盾を以って戦える者でなければ、この戦を任せることはできませんし、あちらのお国柄、それなりに権威のある人間でないと聞く耳を持たないでしょうから」 裴の意味深な口調に、蟷器は軽く頷いた。 「わかった、俺が行こう。中書令の位を寄越せ」 即断した蟷器に、裴が恭しくこうべを垂れた。 「承知致しました、枢閣下。我ら一同、閣下のご指示に従います」 本来、中書令と尚書達は同位である。が、このような状況では、どうしても指導者が必要だった。 東蘭王が未だ幼く、指導者足り得ない以上、その役目を負う者は臣下の内より選ぶべきであり、現在、その役目を負うにふさわしい者は、枢蟷器をおいて他になかった。 「よし、では刑部尚書には、独自に動くことを許す」 ただし、と、蟷器は先ほど裴が囁きかけた法の捏造を許さなかった。 「新法に許されるのは、遡行性を持つ所までだ―――― 捏造は国を滅ぼすぞ」 裴にだけ聞こえるように低められた後半の言葉に、彼は黙したまま一礼した。 「・・・・・・申し訳ありません」 長い沈黙の後、そう一言だけ漏らした裴に、蟷器は薄く笑みを浮かべて頷く。 「俺達の寿命などたかが知れているが、東蘭の寿命まだ続く―――― 焦ることなど何もない」 「すみません」 裴は、てらいなく言ってのけると、今度は軽く一礼して踵を返した。 「では、後の支援はお任せください」 「期待している」 そっけない口調での会話だったが、二人の、相手に対する信頼は、他人が思うよりも深いものがある。 「西桃へ使いを出せ!中書令・枢蟷器が参るとな!」 蟷器の命に、王宮に集った官吏達が忙しなく動き出した。 その夜。 西桃王・A(ケイ)は、後宮の最奥にある王妃の部屋で、何度目かの深いため息をついた。 今、豪華な内装の部屋には、彼の他にもう一人、女がいるだけだったが、彼女は石のように黙ったまま、彼に背を向けている。 「東蘭太后殿・・・・・・」 これでもう幾たびに及んだものか、数えるのも虚しいほどの呼び掛けを繰り返してみたが、彼女は微動だにせず、彼を無視した。 「・・・我が母が、貴女を辱めたことは申し訳ないと思っております」 つい口をついて出た率直な物言いに、誰より彼自身が驚いた。 大国の王にふさわしく、もったいぶった態度をとる事に慣れ親しんでいた彼にとって、それは少々不快さを伴う行為でもある。 憮然と黙り込んだ彼に、緻胤はようやく向き直った。 「そしてあなたさまも、わたくしを辱めるのですか?」 ぽつりと漏れた言葉に熱はなく、ただ淡々と事実を糾弾する。 「なん・・・・・・」 「人の妻を奪うなど、身分の低い者達ですら忌避する下賎の業ではありませんか。女を捕らえ、売買するのが西桃のやり方なのですか?」 泣き喚くでもなく、狂騒するでもない物言いに、Aの、反駁しようとする意志が急に萎えていった。 「どうぞ・・・続けてください」 Aの中で、緻胤に対する興味が抑えようもなく湧き上がる。 他国の王族、要人、自国のそれらでは・・・ましてや、後宮においてはついぞ見たことのない人間が、今、彼の目の前にいる。 彼の持つ身分や権力に一斉興味を持たず、ただ彼自身を見つめる人間―――― 生まれた瞬間より、次代の王として育てられた彼にとって、対応に話せる人間などという者は未知の存在でしかなかった。 西桃と同じく大陸を支配した南薔、東蘭の王達であればもちろん、対等と呼べたであろうが、Aが西桃王の位に就いた時、南薔は南蛮に蹂躙され、東蘭は内戦の最中であり、事実上、かの国々に王は存在していなかった。 彼にとって初めての、対等の人間―――― 興味を持たずにはいられない。 「どうか―――― 緻胤殿」 十も年下の女に恭しく差し伸べた手は、身を引かれたために届きはしなかった。 だが、Aは不満など欠片も感じることなく、緻胤に微笑みかける。 「失礼。貴女のお話を、聞かせていただきたい」 「お話することなど・・・・・・」 「なんでも結構です。貴女が今まで見てこられたこと、考えてこられたことなどを。私は、あなたとお話がしたいのです」 にっこりと、少年のように微笑むAを、緻胤は戸惑いながら見つめた。 このような状況にあって、好意の欠片すら抱けない相手であるはずなのに、その素直な物言いはまるで、母親を慕う子供のようだ。 「傑・・・・・・!」 途端、生国に残して来た幼い息子への想いが溢れ、緻胤の褐色の瞳から留めようもなく涙が流れた。 「息子が・・・いるのです・・・・・・」 「えぇ・・・存じております」 気遣うような声音に、緻胤の瞳から更に涙が溢れる。 「幼い子なのです・・・!まだ幼くして、父に先立たれた、可哀想な・・・・・・!」 嗚咽交じりの声は、うまく言葉をつむぐことはできなかったが、それでも緻胤はAに訴えた。 「この上、母まで失くしてしまっては、玉座でどれほど不安な想いをするでしょう・・・・・・! わたくしを・・・あの子の元に帰して下さいませ・・・・・・!!」 「泣かないでください、緻胤殿。必ず臣下に図りますゆえ」 Aの言葉に、緻胤ははっと顔を上げる。 「まことでございますか?」 未だ疑惑を拭い切れない顔の緻胤に、Aはゆっくりと頷いて見せた。 「実は、私も母の行いには困っていたのです。 他に人もあるでしょうに、東蘭の太后である貴女を、かどわかすようにしてここに連れてくるとは」 南薔王も困ったものです、と、呟く彼に、緻胤の表情が硬くなる。 「あぁ、失礼。つい、姉上のことを悪く言ってしまいました」 「いえ・・・・・・」 緻胤の表情を、肉親への愛情からと解したAは素直に謝ったが、彼女の、沙羅へ対する心情は、全く逆の方向を向いている。 あの姉が関わっている以上、例え緻胤が西桃王と太后を説得したとしても、決して姉は緻胤を東蘭へ帰すことはないだろう。 「緻胤殿?」 Aの、訝しげな声に引き戻されるまで、緻胤は無明の世界から出てくることができなかった。 「・・・西桃王陛下」 彼が初めてこの部屋へ入った時と同じ硬さを取り戻した声に、Aは小首を傾げる。 「わたくしの姉が、どのような策を用いても、わたくしを東蘭へお帰しくださいますか?」 「それは・・・・・・」 図ってみる、とは言ったものの、既に立后されてしまった女を帰すことができるのかは、正直言ってやってみなければわからないのだ。 「申し訳ありませんが緻胤殿。確たるお約束はできかねます」 ふぅ、と吐息して、Aは大国の王とは思えないほど率直に言った―――― なぜか、緻胤の前では素直になってしまう彼である。 「貴女が立后された状況が状況ゆえ、臣下に図る余地もあるのですが、本来ならば、一度後宮に足を踏み入れた女は一生外に出ることを許されません」 東蘭では違うようですが、と苦笑したAに、緻胤は微かに頷いた―――― 彼女自身の生国でも、女が後宮から出ることは許されなかった。むしろ、東蘭の気質こそが特殊なのだ。 「しかし、できる限りのことはしたいと思っております。貴女には、貴女を慕う御子もおられることですしね」 言って、屈託なく微笑むAに、緻胤もぎこちないながら、笑みを返す事ができた。 「お任せ致します」 深くこうべを垂れた緻胤に、Aは嬉しげに頷いた。 東蘭と西桃は、間を南薔に隔てられているからというだけでなく、心情的にも遠い国である。 東蘭の前々王とその王妃の仲にも象徴されたように、この二国の民の相性は、決していいとは言えない。 東蘭では西桃の、奢侈に傾く気質を嫌い、西桃では東蘭の、無骨な気質を蔑んだ。 しかし、南薔が衰退すると同時に、かの国を南蛮と三分した二国は、一段と近く国境を接して以降、大小さまざまな争いが絶えることがなかった。 新領土、とは言うものの、もてあまし気味だった南薔の地を、蟷器が精纜との密約により南薔に返還した時は、東蘭も西桃も、これで無益な争いが避けられると、密かに安堵したものだ。 さて、そんな甘いとは言い難い関係である東蘭の中書令がやってくるという報を受けて、西桃の高官達は色めき立った。 場合が場合だけに、穏やかな話し合いなどではないことは、簡単に予想がつく。 どう言い訳しても、醜い誘拐劇などをやってしまって、評判を落としてしたのは西桃の方だ。 対する東蘭の中書令は、その知略で一遊郭の用心棒でしかなかった男を東蘭王の地位に就かしめ、その息子に南蛮の王位までも授けた枢蟷器。 まともに戦って、勝てる相手ではない。 「―――― こうなったら仕方ない」 高官の一人が漏らした、苦々しげな呟きに、他の高官達も重いため息で答えた。 「言質を取られるよりましだ。絶対に、彼をこの国に入れるな」 情けないとは思うが、それしか方法はなかった。 「そう来ると思ったぜ」 慇懃に彼の来訪を断ってきた、西桃よりの書簡を握りつぶし、蟷器は冷笑を浮かべた。 「甘いっての」 言いつつ、彼は南薔国内にある西桃領―――― かつて、南薔の西三州と呼ばれていた地を馳せる馬脚を緩めようとはしない。 「構うことはない。入るぞ」 昔は南薔と西桃の国境であった大河のほとりに馬を寄せ、彼らを待っていた帆船に分乗して対岸を目指す。 西桃側には、南海を渡ってくる大型帆船に蟷器が乗っていると思い込ませてあるので、この河を渡る、速度を重視した小型帆船など気にも留めないだろう。 ―――― つまりは、奇襲である。 正面から行ってはまず西桃国内に入れないだろうと予想した蟷器は、東蘭から西桃へ赴く者が取る、最も常識的な海路に大型帆船を配し、自身は南薔を横断する陸路を取ったのだった。 もちろん、ただ別の道を行くだけでは、西桃側をこうも完璧に騙すことはできなかっただろうが、彼は南海を行く帆船と連絡を密にし、西桃側から送られてくる書簡の全てを、陸路を行く自身に届けさせていた。そして、それに対する返事などは、帆船を経由して西桃王宮へと届けさせていたのである。 次々に馬を取り替え、夜は揺れる馬車の中で休むという強行軍を成し遂げた彼は、通常の半分の時間で西桃国内に入り込んだのだった。 「直接、白渟に乗り入れろ」 大河の下るに任せ、西桃の首都に乗り込んだ時、蟷器一行は、いかにも長旅に疲れた隊商といった風情だった。 これでは西桃の国境吏にも、東蘭の中書令一行ではないか疑えという方が無理だ。 「船の方は?」 「白渟の外で、足止めされています」 すかさず返って来た答えに、蟷器は軽く頷いて、既に用意されていた宿に入った。 権威ある姿を取り戻すため、この日一日はたっぷりと食事と睡眠を摂り、翌朝、彼とその一行は、東蘭の朝服に身を包んだ。 「行くぞ」 短く命じて、蟷器は輿に乗る。 それは彼の好みではなかったが、権威を重視する国で、他国の中書令が騎馬で王宮に入るわけにも行かない。 「できるだけ派手にやれよ」 西桃の民に、東蘭の中書令が入国したと知らしめるため、蟷器はゆっくりと輿を進めさせた―――― 夜を徹して帆船を見張っている兵士達が、港から王宮近くまで引き上げてくるにはまだ時間に余裕がある。 そのまま、王宮へ続く大通りに乗り入れさせると、朝廷に参内する高官達の馬車や馬の群を構成していた人々は、突然現れたきらびやかな一行に、一様に目を剥いた。 「なんだ、あれは?!」 激昂に顔を赤く染め、あるいは青ざめた人々の絶叫が響き渡る中を、蟷器の一行は堂々と進んで行く。 そして、参内する群の中でも一際豪華な馬車の横に付いた時、蟷器は輿を担ぐ者達を止め、もったいぶって垂らされた沙幕をするすると上げさせた。 「ごきげんよう、宰相殿」 「・・・・・・枢殿」 苦々しげに吐かれた言葉を、蟷器は優雅な微笑で受けとめる。 「お久しぶりですね。ご健勝のようで、なにより」 老齢と呼ぶには、もう何年か要する西桃の高官は、ちらりと背後を見遣った。 「なんの行列ですかな、これは?」 「わが国の使者は、既に私の来訪を告げているはずです」 「その件に関しましては、お断り申したはず」 「おや、そうでしたか?あいにく、陸路を通ってきたものですから、そのお申し出は頂いておりませんでした」 いけしゃあしゃあと言ってのける蟷器に、彼は『あいにくなのはこちらだ』と、口の中で毒づく。 「しかし、ここまで来た者を追い返すような、無情なことはなさいませんよね?―――― 西桃の民も、我が名を知りたがっている」 見れば、きらびやかな蟷器の一行を一目見ようと、多くの民が大通りに集まってきている。 誰か、誰か、と囁く声に応える様に、先導の将兵が荘重な旗を掲げた。 「東蘭王国中書令・枢蟷器閣下の行列である!」 「枢殿!!」 どよめく人々に手を振り、愛嬌を振りまく蟷器に、宰相が引きつった声を上げる。 「なんのおつもりか!!このような・・・・・・!!」 「貴国ほどではありませんが、東蘭も中々に威儀を重んじるようになりましてね。第一、こっそり入城するなんて、私の性格に合わない」 堂々と嘯いて見せた蟷器に、宰相の顔色が赤から青へ、そしてまた赤へと変色して行く。 「先導していただけますかね、宰相殿?」 にっこりと微笑んだ顔は、憎らしいほど美しかった。 いつものごとく、なんの変哲もない朝議に臨むつもりだった西桃王・Aは、支度部屋へ慌しく駆け込んで来た宦官を、訝しく見遣った。 「大変でございます!!全く、大変なことで・・・!!」 全く要領を得ない絶叫を完全に無視して、Aは朝服に袖を通す。 朝の空気が冷たくなって来た頃だ。 ほんの少し前までは薄かった生地も、大国の王の装束にふさわしく、荘重なものになっている。 「やはり余は、夏より冬を好むものだ」 南海に面した地では、冬でもそう寒いわけではないが、夏の暑さときたら耐え難いものがある。 荘重な装束を纏うのが義務である彼が、夏より冬がいいと思うのは至極当然のことであった。 しかし、火急の報せを持って来た宦官にとっては、王の嗜好など、はっきり言ってどうでもいいことである。 彼の心情も知らず、暢気な事を言う王にもう一度呼びかけて、彼は王の前に平伏した。 「東蘭の中書令が、朝廷に参内してございます!!」 「そんな予定は聞いておらぬ」 宦官の言葉に全く動じる様子もなく、淡々と言った王に、彼は平伏したまま息を呑んだ。 だから大変なのではないかと、絶叫が喉からほとばしりそうになるのを、必死で堪える。 Aは、装束を整えさせながら宦官を見下ろし、そっと息を漏らした。 ―――― 全く、朝からキンキンと喧しい。 静穏を何より愛するAは、甚だしく気分を害してくれた宦官から目を逸らし、きつく寄っていた眉根をようやくの思いで離した。 「来てしまったものはしょうがないであろう。しかし、他国の宰相ともあろう者が、朝議に乗り込んでくるなど、浅ましい事だ」 苛立ちを消す努力が勝り、単調な声音になってしまった自身の声をぼんやりと聞きながら、Aは宦官に命じた。 「西桃王の名において、東蘭の中書令とは必ずお会いしよう。 ゆえに本日は、こちらの用意する邸内でごゆるりとされるよう―――― そう伝えろ」 Aの、茫洋とした様子に、平伏したままの宦官は納得し難い様子ながらも床に額を擦りつける。 「わかっておるのか?」 途端、刺を含んだ王の声に、宦官はびくりと身を震わせた。 「もし、我が言葉通りになっておらなんだ時は、お前が償うのだぞ」 後宮内のことに関しては、優柔不断の悪名高いAだが、前王妃の死の際には、彼女を責め立てた宦官達を一斉に処分したものだ。 おとなしい猫だと思って侮っていると、突然爪を立てることもある―――― 以前より随分と用心深くなった宦官達の一人である彼は、慌てて拝命し、Aの元を立ち去った。 「・・・・・・やれやれ。 しかし、これで緻胤殿との約束も果たせよう」 自身にしか聞こえぬほどの声で呟いたAは、ふと胸に沸いた感情を読み損ねて、訝しげに首を傾げた。 乾いた砂の上に落ちた一雫のようなそれは、たちまちその容を失ったが為に、Aの意識に確たるものとして上ることはなかったが、それゆえに彼の興味を引いてならない。 「まぁ・・・よいか・・・・・・」 思考の堂々巡りを絶ち切る様に、Aは一つ吐息を漏らした。 「そのうちはっきりするであろう」 淡々と呟いて、Aは袖を払った。 取り敢えず、彼は自身に課せられた責任を全うする為に、朝議の間へ向かった。 父王の敷いた轍から外れることなく、目前に現れた問題を淡々と処理する―――― それが王の・・・自身の役目だと、Aは信じていた。 日が暮れると同時に天球に駆け上ったサラームは、風精族の諜報隊長を呼び寄せた。 「・・・・・・哩韻(リィン)。あの馬鹿、どっか行っちまったんだけど」 重く吐息する火精王に、少年の姿をした風精はにこりと笑う。 「申し訳ありません、火精王。でも・・・・・・」 「わかってるよ。 風ってもんは、一つ所に居つけない―――― お前たちはちゃんと、王の居場所を把握しているのか?」 「えぇ。お守りしています」 少年がサラームにこうべを垂れると、、肩で切り揃えた金髪がさらりと揺れた。 「この度はご協力いただき、ありがとうございました」 「よせよ。別に、頼まれたからやったわけじゃない」 王と同じ事を言うんだな、と、苦笑する火精王に、哩韻は笑みほころんだ顔を上げる。 「いえ、言わせてください。我ら風精族は、心より火精王に感謝いたします。我らでお力になれることがあれば、なんでもお申し付けください」 「・・・・・・聞いてやがったのかよ」 気まずげに視線を逸らすと、哩韻が軽やかな笑声を上げた。 「敬愛する我が王を助けていただいたのです。お力添えしたいと言うのは、本気ですよ?」 「いいなぁ、風精王は。部下に慕われてて」 なぁ?と、振り返ると、火精王の側近達は一様に笑声を上げる。 「お慕いしているではありませんか、我が王よ」 「俺のいないとこで散々詰ってやがる奴らが、見え透いたことを言ってんじゃねぇよ」 笑い含みの声に、更に多くの笑声が加わった―――― 久しぶりに和んだ雰囲気に包まれた天球は、互いに巡る三珠を見下ろし、明るく瞬いた。 〜 to be continued 〜 |
・・・ようやっと西桃編突入です。 蟷器は無事、緻胤を取り返せるのか?!エアリーの行方は?!(っておい・・・) 段々、作者にさえ登場人物の名前が危うくなってきました(笑) 英華の三番目の息子の名前を、しばらく間違えていましたし;;(激白) 筋は決まっていても、登場人物たち(特に脇役)には苦労しますわね、ホント・・・。 「こいつの名前、なんだっけー?!」なんて叫びつつ、前作を読み返すことなんてしょっちゅうです(苦笑) すみません・・・;; こんな、わけのわからない作品でも、楽しんでいただけたら幸いです; |