◆  20  ◆







 初秋の風は、北にそびえる飄山の吐息を含んで、その冷気を増しつつある。
 南海に面した西桃の首都・佳萌(かぼう)にも、未だ寒冷には程遠いものの、冷涼な空気が満ちつつあった。
 夏には耐え難い暑熱が訪れる地も、やっと息がつける季節が訪れたことに、これまで以上の賑わいを見せているようだ。
 城門に近い離宮の外から聞こえる、微かな音に耳を澄ませながら、蟷器はこの国らしい、豪華な内装の部屋でゆったりとくつろいでいた。
 「・・・・・・失礼致します」
 西桃の民が『無骨者』と誹る東蘭の人間でありながら、まるで昔からこの宮の主であったかのような彼の雰囲気に、思わず見惚れていた侍女が、どこか夢見心地のまま声をかけてきた。
 「なにか?」
 高すぎず、低すぎもしない、深い声音に、彼女は次に言うべき言葉を失くして立ち竦む。
 「用があったのだろう?」
 対して蟷器は、慣れた様子で彼女に微笑みかけた―――― 事実、彼は女達が抱く自身への賞賛を、よく知っている。
 「あ・・・・・・はい、あの・・・・・・・・・」
 顔を赤らめ、俯く侍女の側に音もなく近寄ると、蟷器はその、女であれば心騒がずにはいられないという翠の瞳で、じっと彼女を見つめた。
 「王より、お召しがあったのか?」
 「はっ・・・!はいっ!!いっ・・・いえっ・・・・・・!!」
 混乱のあまり、しどろもどろになってしまった彼女をなだめるように暖かい笑みを浮かべ、蟷器はその肩を優しく抱いた。
 「大丈夫だ。落ち着いて・・・」
 囁きかけた耳朶まで真っ赤に染めて、侍女は自身が命じられた言葉を、やや上ずった声で告げる。
 「わっ・・・わが国の・・・たたたっ太后陛下より、東蘭の中書令様にお目にかかりたいとのお言葉でございますっ!!」
 緊張のあまり、言葉遣いまで妙な具合になっていたが、蟷器は指摘などせず、彼女から身を離した。
 「そうか、ありがたい。すぐ参ると、伝えてもらえるか?」
 遠くなった距離を惜しむかのように、蟷器の姿を目で追っていた侍女は、慌てて一礼し、踵を返そうとする。
 それをもう一度呼び止めて、蟷器は彼女の側に寄った。
 「失礼。君の名前は?」
 「えっ・・・栄妥(エイダ)と申します、閣下・・・・・・!!」
 「また、ここへ来てくれるか、栄妥殿?」
 「もっ!!もちろんですっ!!わっ・・・わたくし、僭越ながら、閣下の身の回りのお世話をするよう、申し付かっておりますのでっ!!」
 もし、自分の仕事を横取りしようなどという女が現れたなら、後のことなど考えず、蹴落としかねない勢いである。
 「そう、ありがとう。よろしく頼むよ」
 「はい!!お任せください!!」
 黄色い声を張り上げ、踊りだしそうな勢いで部屋を出て行った侍女を見送った蟷器は、浅い吐息と共に張り付いていた笑顔の仮面を取り払い、別室にいた近習達を呼び寄せた。
 「けっ!けったくそ悪ぃ。俺は、ババァの皺っ面を見に来たんじゃねぇぞ」
 謁見用の正装に着替えながら吐き捨てる蟷器に、着替えを手伝っていた近習の一人が苦笑を浮かべる。
 「西桃王との会見の前に、太后が釘を差しておこうってことなんでしょうね」
 「息子もいい年だってぇのに、まぁだ子離れができてやがらねぇとは、見下げ果てたババァだ。垂簾(すいれん)政治だなんて、いいトコ横紙破りのごり押しじゃねぇか。
 あんなババァをのさばらしておくようじゃ、西桃も終わりだな」
 言いたい放題の中書令に、近習達は乾いた笑声を上げるしかなかった。
 まったく、先程侍女が見惚れていた男とは思えない辛辣さである。
 「―――― ところで、閣下は西桃王と同じ年であられるのですよね?」
 近習の一人が、ふと思いついて尋ねると、蟷器はにやりと口の端を曲げた。
 「見えないだろ?」
 蟷器の挨拶状を持って西桃王と対面した彼は、何度も深く頷く。
 「・・・失礼ながら、御年三十二歳であられるとは思えぬほど・・・・・・えー・・・」
 「なんか、ガキっぽいんだよな」
 と、蟷器は言いよどんだ彼の言葉を無遠慮に継いだ。
 「噂じゃあ、後宮は母親が取り仕切っていて、彼は支配者の息子でしかないそうだぜ。前の王妃が亡くなったのも、太后にいびり殺されたって話だ」
 「さすが・・・・・・!いつもながら、見事な情報収集力ですね、閣下!」
 「一体、どこからそんな話を仕入れられるんですか?」
 感心してやまない、といった様子の彼らに、蟷器はにっこりと微笑んで見せる。
 「なぁに。さっきの女の他に、二、三人落としただけさ」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さすが」
 彼らが、げんなりと呟いたのも無理はない。
 蟷器ら一行が、無理やりこの王宮に入り込んだのは今朝のことである。
 なのに、蟷器は既に、何人もの女たちを口説き落として情報を仕入れていたというのだから、呆れるより他になかった。
 「まぁ、今はまだ、女どもの噂話でしかないが、もうじき確たる情報も入ってくるだろう。それまで、こちらからは絶対に口を開くな」
 軽々しい言葉一つが、どんな効果をもたらすものかわからないのが、この外交という戦だ。
 蟷器について来た者達は、言われるまでもなく情報というものについて、確かな知識を持った者達―――― いわゆる、間諜と呼ばれる者達だった。
 「ついでに、ここの太后も口説き落としたらどうです?話がうまく進むんじゃないですか?」
 笑みを含んだ提案を、しかし、蟷器は一蹴した。
 「ババァと傲慢な女は願い下げだ」
 どちらの条件も満たす西桃の太后は、仕事といえども断じて拒否する―――― 蟷器は、不敵な笑みを浮かべつつ断言した。


 「お目にかかれて光栄に存じます」
 つい先程、太后を激しく貶していた男とは思えないほど殊勝な態度で彼女の前に進み出た蟷器は、優雅な仕草で床に両膝をついた。
 「・・・・・・・・・そなたが・・・・・・東蘭の・・・・・・」
 やや呆然とした声に、蟷器は伏せた顔を、非礼にならない程度に上げる。
 「東蘭国中書令・枢蟷器にございます」
 「・・・・・・っおもてを・・・上げよ」
 ―――― こんの、色ボケババァが。
 心中に毒づきながらも、そんな様子は微塵も見せず、蟷器は命じられるまま顔を上げた。
 途端、感嘆の吐息を漏らす太后と太后の従える宮女達へ、蟷器は艶やかな笑みをふりまいた―――― 伊達に妓楼通いをしているわけではない。どんな演出が女達の心を捉えるものか、蟷器は熟知している。
 「太后陛下におかれましては、我らが度重なる無礼をもご寛恕頂き、恐悦に存じます」
 再び顔を伏せようとする蟷器を、太后が慌ててとどめる―――― 勝ったな、と、彼がその心中に冷笑したことも知らずに。
 「・・・・・・蟷器卿は、いかなる御用あって我が宮廷においであそばされたのじゃ?」
 「もちろん、我らが東蘭の太后、緻胤陛下を小国へお連れ申すためにございます」
 途端、苛烈な光を帯びた翡翠の瞳に、西桃の太后は思わず息を呑んだ。
 「栄光ある西桃太后陛下、どうか、我が国とわが民に、緻胤陛下をお返しくださいませ。あの方は、未だ幼き王のご生母として、東蘭になくてはならない方なのです」
 切々と訴える瞳からは、既に先ほどの光は消え、代わりに痛ましいほどの哀惜を湛えている。
 「誉れ高き西桃太后陛下・・・・・・我ら、陛下のお慈悲にお縋りします。どうか西桃王陛下にお取り成し頂き、緻胤陛下のご帰国をお赦しくださいませ」
 蟷器の言葉を聞くにつれ、太后の眉根がきつく寄って行った―――― 緻胤の誘拐は、南薔の沙羅に持ちかけられ、自身の利益も鑑みて決行したものだ。
 正当な行いだとは、さすがに思ってはいなかったが、彼女の心に後悔などは欠片もない。第一、この誘拐劇において、非があるとすればそれは沙羅にであり、自身が非難される謂れはないと、彼女は固く思い込んでいた。
 「蟷器卿・・・・・・」
 しかし彼女の目の前に控える、この美しい男に嫌われたくもない、との身勝手な心情も働き、彼女はできる限り慈悲深い笑みをその顔に貼りつけた―――― 尤も、蟷器は最初から彼女に対して、好意の欠片も持ち合わせてはいなかったので、その表情の変化に心動かされるようなことは全くなかったが。
 「・・・・・・緻胤殿の件に関しましては、あいにく、我の関知することにはございませぬ。
 あの方ご自身のご希望と、我が王の慈悲深き御心により、あの方は西桃王妃として迎えられたのでございます。
 卿らにおかれましては、お気の毒とは思いますれど、緻胤殿はご自身のご意志により、東蘭での御位を退かれたのですから、ここは卿も、どうぞお退きあそばしませ」
 思いつくまま口にした言葉だったが、中々良い言い訳だと、太后は満足げに微笑んだ。
 が、蟷器は虚言に惑わされるほど可愛げのある男ではない。
 「緻胤陛下の御親書は、確かに東蘭にて受け取りましてございます」
 まず、既に取り交わされた書簡の存在については肯定し、正式な文書として東蘭側が受け取ったことを認めた。
 「ですが、あいにくながら東蘭におきましては、既に太后として認められた者が、新たに夫を持ってはならないという法があります」
 「なに・・・・・・?!」
 玉座の肘置きに爪を立て、絶句する太后に蟷器は、艶やかな笑みを浮かべたまま優雅に頷く。
 「ご存知のごとく東蘭は、古くより南薔と交流のある国にございます。
 こちらにおかれましても、隣国であるかの国の気質はご存知のはず・・・・・・」
 蟷器の言葉に、太后は眉をひそめた。
 西桃に生まれた女―― 東蘭の女も同じだろうが―― にとって、南薔の気質、という言葉には、複雑な思いがある。
 かの国の女達は、世界中の神殿を支配し、政を動かし、家を継承して、結婚することなしに父親の違う子を成す。
 男尊女卑の国に生まれ、夫に従うことを美徳として課せられた国の女達にとって彼女らは、羨望のあまり憎悪せずにはいられない存在なのだ。
 「南薔の気質は、他国の者が口を挟むことでもありますまい。
 ですが、南薔の血を受けた女性であろうと、既に東蘭の国母となられた方が、未だ前王の喪も明けぬうちに他家に嫁ぐような軽々しいことでは、東蘭の国威にも関わります。
 ゆえに、既に何代も前から常識とされてきたことではございますが、この度、妃であった者、ましてや太后となった者が、新たに夫を持つことはできないと言う法を明文化致しましてございます」
 太后は蟷器の笑顔を見つめたまま、未だ言葉を継げないでいた。
 今回のことは、西桃の法家に図り、東蘭の法には太后の再婚に関する戒めがないことを確認した上で行ったことなのだ。
 だが、東蘭には法があったという・・・・・・自身の膝の上に視線をさ迷わせ、なんとかこの事態を打開する言葉は見つからぬものかと、彼女は必死で考えた―――― そして、
 「この度・・・・・・と申されたか」
 蟷器の、艶やかな言葉を反芻し、ようやく光明を見出す。
 「では、あの女―――― いえ、緻胤殿がこの国に赴かれた時には、未だその法はなかったと言うことではないか!なっ・・・ならば、我らが従う謂れはないであろ!」
 早口でまくし立てる老女に、しかし、蟷器は笑みを崩さないまま、落ち着き払って応じた。
 「法には、場合に応じて遡及性なるものがございます。
 このことは既に、何代にも渡り―――― 特に、南薔より妃を迎えた際には徹底して行われ、我が王宮では常識としてまかり通ってきた事にございます」
 西桃が、明文化されていない法を盾に取るのならば、こちらは法の遡及性で更にその裏をかく―――― 一時は大理寺卿を勤めた蟷器だ。現刑部尚書、裴との連携は強力で、西桃の狼藉を正面から論破するだけの武器は完璧に揃っていた。
 「―――― 賢明なる太后陛下、西桃の国母たる貴女様におかれましては、国を守る我らの困苦をお察しくださいますことと存じます。
 どうぞ、我ら東蘭の民にお慈悲を賜りますよう」
 蟷器が深く伏せた顔を、太后はもう、上げさせようとはしない。
 彼女はただ呆然と、彼の恭しく垂れたこうべを見つめているしかなかった。


 「西桃王への謁見はどうなった?」
 与えられた離宮に戻るや、性急に尋ねて来た蟷器の傍に、近習達はすかさず寄ってくる。
 「本夕、中書令をおもてなしする為の宴を設けるので、その前に、と」
 「よし!」
 言うや、威勢良く朝服を脱いでは近習達に渡して行く。
 「その前に、緻胤陛下にお会いしよう」
 簡単に言ってのけた彼に、しかし、近習達もあっさりと頷いた。
 「整えてございます」
 真に優秀な間諜である彼らから、この国の後宮の地図を受け取った蟷器は、短時間で作られたとは思えぬほど精確なそれに目を走らせると、満足げに頷いて、重厚な朝服から近習達と同じあっさりとした服に着替える。
 彼の脱いだ服は他の者が纏い、蟷器の代わりに奥の間へ下がって行った。
 「先程の侍女殿はまだか?」
 「もうそろそろ、見える頃でしょう」
 という、近習の言葉が終わらぬ内に、扉の外で控えめな声がし、
 「あの・・・お呼びと伺い、参上致しました・・・・・・」
 栄妥(エイダ)と名乗った侍女が、そろそろと部屋に入ってきた。
 「お待ちしていましたよ、栄妥殿」
 声音すら変えて歓迎する蟷器を、彼女は顔を赤らめて見つめる。
 「ご用は・・・・・・」
 うっとりと呟く彼女は、蟷器の衣装が近習達と同じ、質素なものであることにすら気づけなかった。
 「貴女に、特にお願いしたいことがありまして」
 「なんなりと!」
 彼の言葉に即答する彼女を、蟷器は慈愛のこもった目で見つめる。
 「どうか、私を緻胤陛下とお引き合わせいただきたいのです」
 直截な言葉に、彼女はしばらくの間、その意味を図りかねて黙り込んだ。
 が、段々と腑に落ちるにつれ、栄妥はその、あまりに恐ろしい申し出に、自身の血流が引いていく音を聞いた。
 「かっ・・・閣下・・・・・・!!それは・・・・・・!!」
 王以外の男・・・・・・それも、他国からやって来た男を後宮に導くなど、誰かに知れれば即、首を落とされる所業だ。
 なのに、彼女の眼前で微笑む男は、事も無げに言を継いだ。
 「貴女にご迷惑はかからない。
 道は既に存じておりますので、貴女は後宮の門番の目を、ほんの少し逸らしてくださればいいだけなのですから」
 なぜ他国の者が後宮の中のことを知っているのかという問いは、栄妥の中で発すると同時に消えた―――― 蟷器の優美な手が彼女のそれを取り、ゆっくりと口づける。
 「・・・・・・こまります」
 泣きそうな声で、小さく呟く彼女の逸らされた顔を、蟷器はやんわりと戻した。
 「大丈夫。貴女が手引きしたことなど、決して知られないようにしますし、もし、私が見つかったとしても、貴女の名前はけして出さないと誓います」
 「・・・・・・・・・」
 「契約を守護したもう湟帝陛下の御名にかけて。
 もし、私が貴女との約を違えるようであれば、不義理者を切り裂く湟帝陛下の氷刃に切り裂かれようとかまいませぬ―――― 栄妥殿」
 再び口づけられた手をびくりと震わせた彼女は、長い逡巡の後、ようやく頷いた。
 「わたくしは・・・何をすればよろしいのでしょうか・・・・・・」
 低く、囁くような声音に、蟷器がなだめるように優しく微笑む。
 「私の部下が、後宮近くで少々騒ぎを起こします。貴女はそれを門番に知らせてくださればいい」
 「・・・本当に・・・それだけ・・・なのですね・・・・・・?」
 「えぇ。目の前に起こった事を正確に伝えていただくだけで、門番達は部下の元に飛んできますよ」
 くすりと笑みを漏らした顔は、いたずら好きな少年のようでもあった。


 蟷器が王宮内で策略を巡らせていた頃、緻胤は、後宮の奥深い部屋に一人で捨て置かれていた。
 まるで、寵愛なく打ち捨てられた妃のように、一人の侍女も付けられることなく放っておかれるなど、彼女が過ごして来た二十二年の生涯において初めてのことであったが、今はその無礼さに憤りもせず、むしろその静けさがありがたいほどだった。
 「・・・・・・このまま、放っておいてもらえないかしら」
 「帰って来ないつもりかい?」
 深い吐息と共に呟かれた言葉に返答を受けて、緻胤はぎょっとした。
 「誰?!」
 後宮には珍しい男声に、厳しい誰何の声を投げると、庭へ通じる窓辺に厚く垂らされた幕の後ろから、見なれた姿が現れた。
 「蟷器・・・・・・!!」
 驚愕のあまり、それ以上の言葉を継げないでいる緻胤に、蟷器はにやりと笑みを浮かべる。
 「お迎えに上がりましたよ、太后陛下」
 軽く拱手する様が、いかにも彼らしい。
 「・・・・・・本当に、あなたなの?」
 幻覚ではないかと、しばらく疑った後、緻胤は恐々と囁きかけた。
 「こんな美男が、世界に二人もいると思っているのかい?」
 いけしゃあしゃあと嘯く様は、まさに彼以外にありえない。
 「蟷器、あなた・・・どうやってここに?!」
 西桃王宮の奥にある後宮―――― そのまた最奥にある王妃の部屋に、どうやって宦官でもない男が入り込めたのか・・・・・・。
 厳重な警戒を潜り抜け、王妃に会うことが事実上不可能であるという事は、南海の後宮で育った緻胤はよく知っていた。
 「早く、お隠れなさい!殺されてしまうわ!!」
 蒼白な顔で蟷器に駆け寄り、その袖を掴む緻胤の手を、蟷器が取り上げる。
 「大丈夫。衛兵はしばらくやって来ない」
 自信に満ちた言葉に、緻胤は訝しげながらも手を離した―――― 彼の、幻術にも似た詐術の技は、彼女もよく知っている。
 「それより、どうするんだ?東蘭に帰ってくるつもりはあるのかい?」
 「もちろん、帰るわよ!意地悪ね!!」
 ぷぅ、と、頬を膨らませる緻胤に、蟷器は失笑した。
 「その顔はやめな、お嬢ちゃん。河豚そっくりだぜ」
 「うるさいわね!それより、どうやって私を助けてくれるの?」
 まさか、このまま連れ出すわけじゃないでしょうね、と、眉をひそめる緻胤に、蟷器は軽くうなずく。
 「もちろん。東蘭としても、西桃と戦を起こす訳にも行かないんでな。穏便に持っていくつもりなんで、もうちょっと我慢してもらえるか」
 なだめるように、蟷器が肩を叩いてやると、緻胤は深く頷いた。
 「私なら大丈夫よ。あなたが来てくれた事もわかったし、がんばれるわ―――― ただ・・・・・・」
 途端、声を潜めた緻胤に、蟷器が耳を寄せる。
 「ここに、以前南海の後宮に仕えていた宦官がいるのだけど、密かに調べさせた所、西桃王や太后は、私が采の御子を宿していることを知らないみたいなの」
 「それは――――・・・」
 本当か、と、表情で尋ねる蟷器に、緻胤は深く頷いた。
 「お姉様は、私が身ごもっている事を太后に伝えなかったみたい。おかげでまだ、この子は無事だけど・・・・・・」
 「わかった。南薔からの連絡は、全て俺が止めさせよう。東蘭側も、その事実はまだ伏せているから、まだばれることはないはずだ」
 ただし、緻胤が身ごもってから、既に五ヶ月が経とうとしている。
 「騙し通すのは無理かもしれない・・・。でも、最悪の場合、私はこの子を守ることを優先するわ―――― だから蟷器・・・・・・」
 言いにくそうに言葉を濁す彼女の肩を、蟷器は力づけるように抱いた。
 「任せておけ。絶対にあんたを守って見せる」
 全ての悪意ある噂からも・・・・・・・・・。
 その囁きに、緻胤は微かに頷いた。
 ―――― もし。
 もし、蟷器が緻胤を取り返せなかった時は、緻胤は西桃王妃として、西桃王の寝所に侍る――――。
 胎の子を守る為、父親の名を偽る・・・・・・・・・。
 貞淑を女の美徳とする世界に育った彼女にとっては、身を切られるような選択ではあったが、緻胤は母として、子の命を守ることを選んだ。
 「・・・・・・荀、という宦官が、私の世話をしてくれています。彼にも、良いように取り計らってください」
 「あぁ。そっちも任せておいてくれ」
 蟷器は強く頷くと、緻胤から身を離した。
 「じゃあ、がんばってね、蟷器」
 「あんたもな」
 別れの言葉は、素っ気無いほど簡潔だった。


 後宮の門前では、未だに騒ぎが収まる様子がなかった。
 「そっちに転がったぞ!!」
 「踏むな!!傷がついたらどうする!!」
 むさくるしい男どもの怒声に、かしましい女達の嬌声も混じり、上を下への大騒ぎである。
 蟷器は、槍を放り出して床に這いつくばる門番達の背後を悠々とすり抜け、派手に動き回る自身の近習達の中に紛れ込んだ。
 「終わった」
 誰にともなく囁きかけると、近習達はそれとなく場を収集し始めた。
 磨き上げられた石造りの床一面に散らばる、珠玉の数々を拾い集め、落ちた拍子に解けた何十疋もの絹を巻き取り、繊細な細工を施した箱の中へ納めて行く。
 「大変、失礼を致しました」
 床の上があらかた片付くと、近習の一人が門番の長らしき男に、恐縮した様子でこうべを垂れた。
 「い・・・いや、お気になさらず」
 ぎこちない笑みを浮かべ、そそくさと踵を返した彼らの懐には、この混乱に乗じてせしめた、いくつかの珠玉が入っていることだろう。
 「宮女方にも、なんとお詫び申して良いやら・・・」
 「あ・・・あら・・・そんなに恐縮されることではございませんわ」
 同様に、細工物のいくつかを懐に収めたらしい彼女達が、さざめきつつ場を後にした。
 「西桃太后陛下に対し奉り、このように乱れたものを献上するのも無礼でございましょう。一度中書令の元に戻り、整えなおしてから、改めて献上したいと存じます」
 その悄然とした申し出を、疑う者はなかった―――― 東蘭の武骨者が、慣れぬ礼にしくじったと思うばかりである。
 おかげで彼らは、真の目的を悟られることなく、後宮門前から堂々と、中書令に与えられた離宮へ戻って行ったのだった。


 西桃王・A(ケイ)は、賓客との面会を控え、いつもより早めに執務を切り上げた。
 無言のまま立ちあがった彼の後に、多くの宦官達が従っていく。
 後宮の私室に入ると、既に謁見のための衣装が用意されていて、Aは粛々と進み出た侍女らの白い手によって、政務用の衣装を脱がされた。
 「そなた達はもう、枢蟷器の姿を見たか?」
 ふと発した問いに、侍女達は口を失くした者であるかのように無言で首を振る。
 「女であれば、誰もが心奪われすにはいられないという男だぞ。せっかく来訪しておるのだ。一度見ておくといい」
 王の言葉には、戸惑いがちな沈黙が返ってきた。
 それも無理はない、彼女達は、後宮の外には一歩たりとも出られない身なのだから。
 「そうだ、荀はおるか」
 名を指されるや、重々しく進み出てきた宦官に、Aは少年のような笑みを向けた。
 「蟷器卿との謁見は、後宮内で行おう。緻胤殿も、自国の中書令の顔を見れば、いくらか心安らぐことであろう」
 昨夜より、緻胤に対して少なからぬ好意を寄せるようになった彼は、彼女に気に入られたいという心情を隠そうともしない。
 大国の王とは思えぬ素直な物言いに、荀は、深く伏せた顔に苦笑を浮かべずにはいられなかった。
 「きっと、緻胤様もお喜びになることと存じます」
 「そうか。では、緻胤殿にはそなたから知らせておいてくれ」
 いつになく機嫌の良い王に、周りの者達は訝しげに顔を見合わせたが、何か言葉を発しようという者はいなかった。


 「・・・・・・それは願ってもないことだが」
 西桃王より、後宮へ招待された蟷器は、彼らしくもなく言葉を濁してしまった。
 「しかし、私のような者が、後宮へなど上がってよいものだろうか?」
 つい先程、王妃の部屋へ忍び込んだ男とは思えぬ言い様だが、招待されるのはまた別の問題である。
 「我が王の、お言葉にございますれば・・・・・・」
 王の側近くに仕える宦官にしても、意外なことなのだろう。
 できれば断って欲しいという思いを表情に込める彼に、さすがの蟷器も考え込んでしまった。
 彼には、西桃王がなぜこんな申し出をするのかがわからない。
 つい、罠の可能性を疑うのも、ここに来た目的が弁論を用いる戦であるからに他ならない。
 いや、ここで『単なる好意』だと思う方が無理というものだ。
 蟷器は長い沈黙の後、拱手して使者に向かった。
 「―――― せっかくのご厚意にはあられるが、やはり我のような他国の者が、陛下の宸襟をお騒がせすることは憚られます。謁見はどうか、常の通りでお願いできませぬか」
 注意深く言葉を選ぶ蟷器に、使者の宦官はほっと吐息を漏らした。
 彼としても、いかに王の命令とはいえ、後宮内に王以外の男を入れるなどという、暴挙に荷担する勇気はなかったのだろう。
 蟷器は彼とは違い、常識というものから自由な男ではあったが、正式な会見を望む以上、後宮内という、私的な場での謁見は避けたかった。
 しかし、蟷器の言葉を持って退出しようとした宦官を妨げるように新たな使者が現れ、是非にと彼を後宮へ招いたのだった。
 「・・・・・・・・・お断りすれば、却って非礼になるか」
 ここで西桃王の機嫌を損ねるわけにはいかない。
 蟷器は、渋々ながらも後宮への招待を受けた。


 「蟷器が・・・・・・」
 荀の報せに、緻胤は絶句してしまった。
 「だって・・・後宮よ?」
 ありえるのかと、いぶかしむ彼女に、荀は温厚な笑みを浮かべて頷いた。
 「陛下は、姫を殊の外お気に召したご様子。
 姫がお喜びになるのではないかと、お心を砕いておられるのですよ」
 「まぁ・・・・・・」
 そう呟いたきり、緻胤は困惑げに黙り込んだ。
 昨夜以来、彼女は西桃王を憎みきれずにいる。
 だが、事によっては騙そうとさえ思っている彼の、過分な優しさに、緻胤は素直に喜ぶことができなかった。
 「お受けなさいませ、姫」
 そんな、緻胤の様子を穏やかに見守っていた荀が、にこやかに言う。
 「せっかくのご好意を無にしては、王のご機嫌を損ねましょう。東蘭へお戻りなさるためにも、ここは穏便になさらなくては」
 緻胤に、東蘭に戻ってもらっては困る荀だが、そんな様子はおくびにも出さない。
 「そうね・・・・・・」
 疑うことを知らない緻胤は、荀の言葉に簡単にあしらわれ、西桃王の好意を受けることにした。
 「ご厚意に感謝しますと、伝えてください」
 緻胤の言葉に、荀は福々しく微笑んで、王妃の部屋を退出した。


 「ようこそおいでなされた、蟷器卿」
 にこにこと機嫌よく彼を迎えた西桃王に、蟷器は恐縮の体を装い、恭しくこうべを垂れて見せた。
 「西桃王陛下におかれましては、小国の臣にまでかくのごときご厚意を賜り、あり難く存じます」
 「いや、東蘭の蟷器卿とは、一度お会いしてみたかったのだ。そなたの評判は地を駆け、海を渡って、この西桃にまで及んでおる」
 「それはそれは・・・お耳汚しでございました」
 伏せた顔の奥で、蟷器はAの言葉、口調、声音に全神経を集中していた―――― 緻胤を取り戻すには、どのような交渉をすべきか。どうすれば、彼は快く東蘭の要請に応じるだろうかと、じっくりと観察している。
 そんな蟷器の眼に気づいていないのか、あるいは気づかぬ振りをしているのか、Aは相変わらず鷹揚に微笑んでいた。
 「そう堅苦しくならずともよろしい。もうすぐ緻胤殿も来られるだろうから」
 そう言って、部屋にいた全ての宦官、侍女を下がらせると、Aは蟷器に顔を上げることを許した上に、下座とはいえ、座を与えたのである。
 「既に、母にはお会いになったそうですね」
 「はい、過分なる栄誉を賜り、恐悦に存じます」
 「母も侍女達も、随分と喜んでいたことでしょうね。あなたのように美しい殿方は、この宮廷にはおりませんから」
 近習達が姿を消した途端、随分と飾り気の取れた言い様に、蟷器は意外さを感じずにはいられなかった。
 西桃王・Aと言えば、父王の敷いた轍(わだち)の上をただ沿って行くだけの、凡庸な王としか伝わっていない。
 ここに来る以前、以後に集めた情報でも、それ以上は元より、それ以下の評価すら聞くことはできなかった。
 学生で言うなら、真面目だがいまいち成績の良くない、中級どころのそれと言った風だ。
 蟷器はそんな、不確定な噂だけで判断を下すような、無能な男ではなかったが、その彼にしても、Aの気安さは意外と思わざるを得ない。
 言うなれば、Aには大国の王らしい傲慢さがないのだ。
 蟷器は今まで、何人かの王や王妃、そして、神殿の最高位にある聖太師の人となりと言うものを見てきた。
 どういうめぐり合わせか、彼の良く知る雲上人達は、ほとんどが気安く、庶民的で、その地位にふさわしいとは言い難い物言いをする人々ではあったが、それが一般的な王族であるかというと、絶対にそうではない。
 むしろ極少数派の、一言で表すならば『変』と呼ばれる人々なのだ。
 まさか、その一人である緻胤に、既に感化されているわけでもないだろうにと、Aの話を聞きつつ蟷器が考えていると、宦官が緻胤の到着を伝えに来た。
 「ご到着のようですね」
 言うや、Aが席を立ったので、蟷器もそれに倣う。
 「お待ちしておりましたよ、緻胤殿」
 その丁重な扱い―――― いや、彼女が現れた途端、明るさを増したAの声音に、蟷器はぎょっと息を呑んだ。
 経験豊富な彼にはすぐにわかったのだ―――― Aは、緻胤に惚れてしまっている。
 たった数日のことで、などと、野暮なことを言うつもりはない。
 だが、こう言ってはなんだが、緻胤は目を見張るような美女でもなければ、つい構いたくなるような可憐な美少女でもない。
 容姿はどこにでもいるような・・・・・・まぁ、褒めて十人並といったところだし、既に母親になっている女を指して『少女』というのもおこがましいだろう。
 この後宮には多くの美女がはべっているだろうに、なぜ、よりによって王は彼女に執心している?!
 蟷器の心の裡は、今までになく乱れていたが、礼部尚書として身につけた礼はあやまたず完璧な動きを見せ、混乱する頭をどうにかなだめる一因となってくれた。
 ―――― まぁ、顔はいまいちでも、このお嬢ちゃんほど気のおけない話し相手はいなかったろうしな。采も、お嬢ちゃんの顔ではなく、心根を愛したわけだし・・・・・・。
 と、素早く自身に言い聞かせ、臨戦態勢を整える。
 緻胤を見れば、彼女も一人、心もとない様子で蟷器を見返していた。
 「―――― お迎えに参上しました、太后陛下」
 「まさか、あなたが来てくれるなんて思ってなかったわ、蟷器―――― 西桃王陛下のご厚意には、感謝の言葉もございません」
 安堵したように、深く吐息する緻胤を、Aが気遣うように見つめる。
 「ずっと、気を張り詰めておいででしたからね。少しでも、お心安らかになられれば、と思ったのです」
 「ありがとう存じます」
 戸惑ったように、だが、微笑みを返した緻胤に、Aは嬉しげな笑みを返した―――― やめてくれと、蟷器が心中に絶叫したのも知らずに。
 「今回は、異例ではあるのですが、お二人に私の話を聞いていただきたく、こうやってお招きしました―――― 蟷器卿には、ご迷惑をおかけしました」
 素直に謝られた蟷器は、悠然とした微笑を浮かべたまま、ゆったりと首を振って見せた―――― こういった相手にふさわしい反応が即座に出来るほどには、蟷器は外交官としての経験を積んでいる。
 「お話というのは?」
 「もちろん、私的な話ですよ、蟷器殿。私の家庭内のご相談です」
 家庭、と言うには大きすぎる話だが、蟷器はしばらく、Aに話を任せることにした。
 どうぞ、と、身振りで示した蟷器に、Aはにっこりと笑って頷く。
 「・・・・・・うちの母は、わがままな人でしてね」
 やや沈思した後の言葉は、苦笑に似た笑みに彩られていた。
 「ご自身の信念に基づき、独断で動くものですから、周りが知らないうちに事が動いていた、と言うことも今まで何度となくありました」
 迷惑なババァだ、という心中の呟きは、微笑みの裏にうまく隠した蟷器である。
 「では、わたくしがここに連れられましたのも、陛下はご存知ないことだったのですね?」
 質問というよりは、蟷器の為の確認といった口調の緻胤に、Aはきっぱりと頷いて見せた。
 「はい。知っておりましたら、どうあってもお止めしました。
 まだご夫君の喪も明けぬ女性を、しかも、他国の太后であられる方を王妃に据えるなど、正気の沙汰ではありません」
 意外にも、決然とした口調を使うAを、蟷器は最初よりもやや好意的なまなざしで見遣る―――― これを、母親の前でも言えるなら本物だろうに、と、皮肉なことを考えながら。
 「では―― 率直に申し上げることをお許しください―― 西桃王陛下にあらせられましては、小国の太后を、お返し頂くおつもりはあられるのですね?」
 蟷器の、遠慮の無い言葉にも、Aははっきりと頷いた。
 「もちろんです。
 緻胤殿が、自ら望んでおいでになったのであれば、私は喜んでお迎えしますが」
 にこりと口元に浮かんだ笑みから、緻胤は困惑げに目を逸らす。
 「・・・・・・ありがたい・・・仰せとは存じますが・・・・・・」
 緻胤の、固くなった口調に、Aがおろおろと慌てだし、蟷器はげんなりとした表情を隠すのにただならぬ苦労を強いられた。
 ―――― あんた、ガキじゃないんだから・・・・・・。
 とても同じ年とは思えないほど、女の扱いを知らないAに、蟷器は内心、呆れずにはいられない。
 見る者が見れば、微笑ましい光景と写らないこともないだろうが、彼に言わせれば、『未熟』の一言で切り捨てられるものだ。
 ―――― まぁ、今まで美女を押し付けられるだけで、自ら狩りに行くことなんてなかっただろうしな。
 かく言う彼も、黙って座っているだけで美しい女たちが寄って来るという、大層な美貌の持ち主だったので、その点ではAのことを非難する資格はない。
 ともあれ、話を元に戻すべく、蟷器は口を開いた。
 「―――― 西桃王陛下の御意には、我が太后陛下も感謝にたえぬことと存じます。東蘭の臣としましても、我らが太后陛下をかくのごとく丁重に扱っていただき、不幸中の幸いと、安堵しております」
 「とんでもない。私は、当然のことをしたまでです」
 蟷器の助け舟に、Aがほっと吐息する。
 「東蘭とは長く、険悪な状態が続いていましたが、二国の友好を密にするためにも、私は緻胤殿を東蘭にお返しし、西桃の誠意をお汲み頂きたいと思っているのですから」
 そう、熱っぽく語るAの瞳が、きらきらと潤んでいる。
 これが本気で言っているのであれば、蟷器らにとってはありがたいことである。
 彼が西桃の太后に示したような、法や国威を持ち出すことなく、丸く収めることも出来るだろう。
 しかし、この件にはもう一人、厄介な人物が絡んでいる。
 緻胤は、無邪気に笑うAに、おずおずと視線を向けた。
 「・・・・・・陛下の御意は嬉しく存じますが・・・これは、西桃の太后陛下の御意のみではないのです。おそらくはわたくしの姉―――― 南薔王も結託してのことだと思います。
 この件で西桃は、南薔に土地をお返ししたりなさいませんでしたか?」
 「土地?返す、とおっしゃると、かつて南薔の西三州と呼ばれていた土地でしょうか?」
 「はい。姉はわたくしを西桃王妃とする代価に、西三州の全て―――― もしくはいずれかの州を、貴国から受け取りませんでしたでしょうか?」
 途端、Aの顔色が変わった。
 「まさか――――!!
 勝手にそんなことをすれば、いかに母とて、臣らの信望を無くしましょう!
 このような大事を、王の承認なく行ったとなれば、私とて母を罰しなくてはなりません!」
 優柔不断の噂からは程遠い、Aの決然とした態度に、蟷器がすかさず応じる。
 「南薔が利を得るために、東蘭太后の身で購ったなどという恥辱を受けては、東蘭も黙ってはおられません。
 西桃王陛下、どうぞ、陛下の忠臣の皆様に図られ、大国にあるまじき不面目を得ることのなきよう、お取り計らい頂きませんでしょうか」
 蟷器の、切々と訴える言葉はAの哀れみを誘い、また、Aの西桃王としての責任感に直接訴えるものだった。
 「もちろんです。それが真実であるのなら・・・・・・」
 「事実です。まだ、返還にまでは至ってないようですが、こちらの太后陛下と南薔王の間では既に、約束が交わされているようですよ」
 蟷器の、やや煽動的な声音は、Aがそうと気づく前に彼の中に入り込んでいる。
 「蟷器卿・・・・・・!ご存知のことは、全てお教え頂けまいか。いかに母とて、目に余る振る舞いは見過ごせませぬ!」
 A自身、いまだかつて覚えたことのない激しい怒りに声を震わせ、端然と座す蟷器に向かった。
 「西桃王陛下の、御意に添えますものならば、喜んで・・・・・・」
 緻胤を奪還するために、最大の味方を得た彼は、神妙な表情の奥でひっそりと笑みを漏らした。


 この日、西桃の宮殿で行われる宴の主賓は蟷器である。
 東蘭の中書令の、意外な若さと美貌に色めき立つ後宮の、最も豪奢な一室で、この国の権力を一手に握った女は、数々の珠玉に目を細めていた。
 昼の会見では、先手をとられた形になったものの、その後、彼女は法官達を叱咤し、蟷器に対抗する策を講じることをきつく命じて、自身はあの美しい男にふさわしく着飾ることに専念していたのだ。
 困り果てた様子の宦官がやって来て、おずおずと彼女の前に進み出たのはそんな時だった。
 「陛下がお渡りにございます」
 「なに?」
 彼の言葉に、太后は訝しげに眉をひそめる。
 特殊な世界を構築する後宮では、王とは言え、なんの前触れもなしに妃たちの室や房を訪れる事はありえない。
 少なくとも当日の朝までに、どの宮、どの室、どの房に渡るか、もしくはどの佳人に渡らせるかを知らせておくのがしきたりである。
 王宮におけるあらゆる決まりを遵守するAが、そのようなことを知らないわけがない。
 太后は事実上の後宮の支配者として、ここは断固として拒むべきであっただろうが、あまりに意外なことに、呆気に取られているうちにAの入室を許してしまった。
 「これは一体・・・・・・なんとしたことですか、陛下?」
 驚愕のあまり、虚ろになった声を無視して、Aは無言のまま母に歩み寄った。
 常におとなしい彼の、おそらく初めて見る怒りの表情に、太后はなんの感慨を抱くことも出来ずにただ、呆然と彼の言葉を待っている。
 「人払いを、母上」
 静かな声が、却ってその怒りの深さを伝えていたが、太后は未だ状況を把握することが出来ず、呆然としたままだった。
 「さがれ」
 いつまでも、太后が退出を命じない近習達に、代わってAが命じると、太后を囲んでいた彼らは、凍結した川が再び流れ出すように、そろそろと室を出て行った。
 「陛下・・・・・・?」
 本当に怒っているのだと、ようやく理解した頃には、太后の周りから人影は失せていた。
 「一体、何があったのですか?」
 常に傲慢な彼女も、ただ一人、Aにだけは恭しく振舞うのだが、彼は今、その媚びるような声に嫌悪を覚える。
 「母上、南薔王に、西三州を返還されたのですか?」
 全ての前置きを省いた簡潔な問いに、太后は言い訳を考える暇も与えられず、ただ激しく首を振る。
 「では、緻胤殿の身と引き換えに、南薔王とどんな取り引きをされたのですか」
 初めて聞く、Aの冷淡な声に、太后は呆然と呟いた。
 「どうしてそのような・・・・・・わっ・・・わたくしに、どうしてそのように冷たくされるのですか!!」
 「母上、今そのようなことを言っているのではありません。あなたが、南薔王とどんな取り引きをされたのか、それを確認したいのです」
 「あの女ですね!?あの東蘭の寡婦が、あなたにあることないこと吹き込んだのでしょう!?なんということを・・・・・・!!」
 「母上」
 いつもなら、この金切り声に黙り込むAなのに、逆に詰め寄られ、太后は言葉を失う。
 「話をすり替えないでください。私は、あなたと南薔王が、どのような取り引きをしたのかと聞いているのです。
 元、南薔の西三州と呼ばれた地を返還するなどという密約を、かわされませんでしたか?」
 「す・・・すぐに返すなどとは・・・申しておりません・・・・・・」
 静かな圧力に耐え兼ねて、太后は激昂に震える両手に視線を落とし、低く呟いた。
 「あの女が、陛下の御子を産みまいらせた時には、あの女にも、王妃領として西州を賜りましょうから、それを奪ってはいかがかと申しただけで・・・・・・」
 「御子?私のですか?」
 途端、冷気を増した声に、太后はびくりと顔を上げる。
 「母上、私はね、御子など残すつもりはないのですよ」
 す、と近づいた顔には笑みが湛えられていたが、その青い瞳は怜悧な氷のように澄んで、太后を凍えさせた。
 「なぜ・・・・・・」
 「なぜ?恥を知る心があれば、当然の決断だと思いますが?」
 太后を見つめる目をわずかに細め、Aは母の肩に手をかける。
 「私が何も知らないとでも?」
 「陛・・・・・・」
 「この身に流れる血の中には、前王のそれが一滴も混じっていないことを、私が未だ、知らずにいるとでも思っているのですか?」
 Aの言葉に太后は、きつく握られた肩の痛みすら感じることのないまま、今度は完全に言葉を失ってしまった。
 「・・・・・・前王は、稀代の名君ではあられたが、子種をお持ちではなかった―――― 多くの妃がありながら、一人の御子もなかったのはそのせいです」
 太后の額に浮かんだ汗が、厚く塗った白粉を溶かしながら顎に伝って行く。
 小刻みに震える唇からは最早、忙しない喘音以外に出るものはなく、こぼれ落ちんばかりに見開かれた目はただAを凝視している。
 「私が誰の子であるかなど、聞きはしません。ですが今、私が西桃王の位にあること―――― これは間違いなく罪なのです。
 私はこれ以上の罪を重ねることのないよう、前王の得られたもの、作られたものを守り通し、次の西桃王にそのままお渡しするのが使命だと、自身に課しております。
 ―――― 国を乱さず、変化を避け、子を成さずにこの国の歴史から忘れられること・・・・・・それが、私に出来る償いなのですよ、母上」
 言い終えると、Aは深く吐息し、知らず、力のこもっていた手を太后から離した。
 途端、老いた母の身体がわずかに傾いだ様を、Aは哀れみのこもった目で見つめる。
 「分かって頂けますか、母上?
 前王が得られたものを、私が失うわけには行きません。西州は、決してお渡しになりませんよう。
 そして緻胤殿も、東蘭にお返し致します―――― 飾り物にされる王妃ほど、気の毒な者はありませんから・・・・・・」
 ふと、遠くを見遣ったAの目には、深い悲しみが湛えられていた。


 太后の室から、そのまま緻胤の室に戻ってきたAを、緻胤は不安げに迎えた。
 Aが出て行くと同時に、蟷器も後宮を後にしている。
 厳重に人払いされた室は妙に静まり返って、緻胤の不安を募らせた。
 「陛下・・・・・・」
 この部屋から出て行った時には、怒りのあまりか、蒼白かったAの顔だが、今の彼はいつもの温和な色を取り戻しており、緻胤は少し安心した。
 「驚きましたわ。陛下でも、あのようにお怒りになられますのね」
 「私も、あんなに怒ったのは初めてでしたよ」
 多少、打ち解けた様子の緻胤に、Aは微苦笑を返す。
 「・・・・・・母と、貴女のことを話してまいりました」
 やや沈んだ声に、緻胤は息を詰めた。
 「貴女を東蘭にお返し致します。母も、異論はないようでしたから」
 異論を許さなかったのだとは、あえて言わない彼である。
 「お心安らかに、お過ごしください―――― 貴女の御子のためにも」
 ぎょっと息を呑み、声を失った緻胤に、Aは穏やかに微笑みかけた。
 「あぁ、やはり。貴女は嘘がつけない方なのですね」
 クスクスと、少年のように笑うAに、緻胤が目を見開く。
 「確信があったわけではありません。ただ、貴女がいつも腹部をかばっていらっしゃるのを見て、もしかして、とは思っていました」
 「お・・・お赦しください、陛下・・・・・・!わたくし・・・・・・!!」
 蒼褪め、声を引きつらせる緻胤をなだめるように、Aは更に笑みを深めて見せた。
 「お気になさらず。
 貴女が東蘭の太后であり、采王の王妃であった以上、采王の遺児を守ろうとなさるのは当然のことなのですから」
 ですが、と、Aはやや声を低める。
 「御身を守るためにも、少々の嘘は身につけたほうがいいですよ―――― 私ほどになれとは、言いませんけどね」
 「陛下・・・・・・・・・・・・?」
 Aの言葉の意味を図りかねて、困惑げに首を傾げる緻胤に、彼は再びくすりと笑った。
 「まだ、お会いして日も浅い我らですが、私は、貴女のことが好きでしたよ、緻胤殿」
 伸ばされた手に、緻胤はもう怯えなかった。
 「どうぞ、お元気で。貴女と御子たちの、ご多幸をお祈りします」
 緻胤の手を取り、恭しく口付けたAの笑顔を―――― 多くの哀しみを包み込んで、それでも笑みを浮かべる事のできる彼の毅い瞳を、緻胤は生涯、忘れることができなかった。


 宴の設えられた、王宮の広大な一室に入った時、蟷器はその口の端に笑みを乗せた。
 彼を出迎えたのは、西桃の高位高官たち・・・・・・まったく私的な場で行われた西桃王との会見とは違い、宴とはいえ、蟷器の望む公の場が、やっと用意されたのだ。
 この場で戦い、勝利を収めて緻胤を取り返す―――― それが、東蘭の中書令である彼の、今回の役目だった。
 蟷器はにこやかに、勧められた上座に着き、高官達とそつのない会話を交わしながら、王と太后と―――― もしかしたら、同席を許されたかもしれない緻胤を待っていた。
 やがて、もったいぶって現れたのは、西桃王ただ一人―――― 無理にでも割り込んでくるだろうと思われた太后の不在に、高官達が意外そうに顔を見交わす。
 そんな彼らの様子を無視して着座したAは、高官達に対しても鷹揚に着座を促した。
 「今宵は、東より珍しい客人を迎えての宴である。
 いくらか重要な話も出ることであろうが、以後、二国が共に繁栄するためにも、和やかに進めてもらいたい」
 宦官が、その甲高い声をせいぜい低くして、重々しく告げると、高官達は一斉に額ずく―――― 宴の、始まりだった。
 次々と運ばれてくる酒や酒肴が臨席者たちの手に渡り、段々と場が賑やかになって行く。
 しかし、いつものことなのだろうか、騒がしくなればなるほど陰の薄くなって行くAに、誰も注意を払おうとはしない。
 「陛下」
 にっこりと、蟷器が進み出ると、Aはやや驚いたような顔をした。
 「一献、献じてもご無礼にはなりませんでしょうか?」
 「頂きましょう」
 掲げられたAの杯に、蟷器が熱い酒を注ぐ。その際、
 「宴は、お好きではないようですね」
 そっと囁かれた声に、Aは笑って首を振った。
 「いいえ。
 賑やかで、大変結構だと思いますよ。
 ただ私は、あまり面白味のある人間ではないので、余計なことをして場を白けさせるのもどうかと思いましてね」
 「あぁ、小国の前王も、同じようなことを申しておりました」
 「前王・・・采王でいらっしゃいますか」
 その、屈託のない声音に、蟷器はゆったりとした笑みを浮かべて頷く。
 西桃に限らず、東蘭においてさえ、高位高官達は采の出自を卑しみ、蔑んだものだ。
 そう言う連中は、概ね自身の真情を悟られぬよう、大仰なほど采に好意的であるよう振舞うものだが、Aの態度にはそのような、卑しい雰囲気はかけらもない。
 「采王は、良き王妃、良き御子、良き臣を得られて、お幸せでしたことでしょう。志半ばでお倒れになったことには、私でさえも残念に思われてなりません。前王を慕う方々におかれましては、心痛いかばかりのものであったかと、お察しします」
 「恐悦に存じます」
 いつになく多弁な王の様子に気づくこともなく、杯を進める高官達を、肩越しにちらりと見遣り、蟷器は苦笑を浮かべた。
 「それにしても、西桃の宴はやや、小国のものとは違いますな」
 「・・・・・・国王臨席の宴では、ここだけでしょうね」
 くすりと、笑みを漏らすAに、蟷器はゆったりと頷く。
 「以前、わたくしが礼部尚書の位におりました際、何度か貴国に参りました事もございましたが、宰相の御位を務める方々までもが、このように楽しげでいらっしゃるのは初めて拝見致します」
 もちろん、皮肉である。
 国王も主賓も無視して何やってやがる、と、一喝してやりたいところだが、他国の王宮でそう言うわけにも行かないだろう。
 まさか、自分に緻胤帰国の話を出させないためかという蟷器の疑いを、Aは朗らかに否定した。
 「ご安心を、蟷器卿。今日が特別、無礼講であるわけではありません」
 「それでは・・・・・・」
 ―――― いつも、この王は黙って眺めているだけなのか?
 蔑ろにされていることに目をつぶって・・・・・・?
 蟷器が、この柔弱な王に対して、見た目通りの男ではないと確信したのはこの時だった。
 彼は凡庸なのではない―――― 凡庸に振舞っている。
 それが何のためであるのかは、まだ分からない。
 だが、猫だと思って侮っていては、痛い目に遭うかもしれないと、蟷器は密かに警戒した。
 「しかし・・・そうですね。卿は、実のある話を望んでおられるわけですから、これではお困りでしょう―――― 荀」
 Aは、間近に控えていた宦官を呼んで、耳打ちした。
 ―――― これが例の・・・・・・。
 南蛮にいた宦官かと、蟷器はその姿を観察する。
 近習に命じて、既に財宝を届けさせてはいたが、直に目にするのは初めてだった。
 南蛮では緻胤にも仕えたという彼は、福々しい身体を揺すって王のご前に膝行(しっこう)した後、大仰に額ずくと、もったいぶった様子で立ち上がる。
 上には恭順、下には服従を強いる、典型的な宦官であるようだ―――― 今はまだ、小心な振りをしているようだが、本性を顕わすのも時間の問題だろう。
 緻胤の為にも、賄賂を追加していた方が後々、使えるだろう。
 そんな、蟷器の皮肉げな眼差しに気づく様子もなく、荀は声を張り上げた。
 「宴もたけなわではあるが、今宵の主賓の希望により、緻胤王妃の処遇について話し合ってもらいたい。腹蔵ない意見を求める」
 途端、静まり返り、異様な雰囲気を醸し出した場を、蟷器は眺めまわした。
 どれも、王命により気が引き締まった、などという殊勝な顔はなく、ただ白けた雰囲気だけが漂っている。
 ―――― 一体、なんの為に?凡庸を装い、自身の臣を腑抜けにして、西桃王になんの利益がある?
 自身に与えられた席に戻った蟷器は、Aの真情を図りかね、眉をひそめずにはいられなかった。
 だが、高官たちの態度は彼にとって、都合の良いことでもある。
 このような輩は、彼ら自身の懐と誇りさえ満足させてやれば、簡単に手の上に乗せることが出来るのだ。
 ―――― しかし、本当にそれでいいのか?
 蟷器は、迷わずにはいられなかった。
 ―――― 西桃王の目的がわからないままでは、逆にこちらが彼の手の上、と言うことにもなりかねない。それだけは避けなければ・・・・・・。
 蟷器の焦燥は、傍から見てもそうと分かるほど顕著なものでは決してなかったが、Aは彼の心情を図り、軽い笑声を上げた。
 「蟷器卿、緻胤殿の件は、我が母の勝手な振る舞いであった。緻胤殿が東蘭に帰りたいとおっしゃっている以上、私がお止めすることは出来ぬことであるし、ましてや、我が臣が口を出せることでもない」
 私の家庭の問題なのだから、と、駄目押しまでした王に、高官達は憮然と口をつぐんでいる。
 「・・・・・・西桃王陛下」
 珍しく絶句した蟷器に、Aは少年のようにくすくすと笑った。
 「皆、話を難しく考えすぎだ。
 何度も言うが、これは私の家庭の問題であろう。
 確かに、我が家のことはすなわち、国家のことであるやも知れぬが、このように混乱した問題を、わざわざ大仰に扱うのはどうだろうか。
 礼部尚書」
 呼ばれて、いかにも文官と言った風の、ひょろりとした男が居住まいを正す。
 「尋ねるが、緻胤殿の立后の件は、正式に発表されたことなのだろうか?」
 「いえ・・・・・・」
 この場に太后のいない事に力を得てか、西桃の礼部尚書はすぐさま首を横に振った。
 「今はまだ、かの御方が東蘭の位を退かれることと、我が国の王妃となられるという、書簡が交わされたのみでございます。
 立后の儀を済まされてから、晴れて我が国の王妃と認められる訳ですから・・・・・・」
 「つまり、内々で決まったことであり、未だなんの正式な手続きは行われていない、ということだな?」
 「はい、その通りでございます」
 「では、問題ないではないか」
 晴れ晴れとした笑みを浮かべ、Aは一同を見まわした。
 「これが既に、正式に王妃と認められたものであれば、後宮から出しては我が国の威信にも関わろう。
 しかし、一度後宮に入ったものの、選に漏れて出て行くことも、稀にはあるではないか。
 それと同じようなことであろう?」
 Aの、簡易で楽天的な―― そう装っているのかもしれないが―― 言葉は、高官達を戸惑わせはしたが、冷静になってみれば、国の大事と騒いでいたのは西桃の太后ただ一人である。
 しかし、事は既に東蘭にまで渡り、中書令が直接乗り込んでくると言う事態にまで発展しているのだ。
 ちらちらと、自身を伺ういくつもの視線を受け、蟷器はふと、笑みを漏らした。
 「西桃王陛下のご賢知に、皇帝方の祝福がありますように。
 東蘭は陛下のお言葉に、喜んで賛同致します」
 そして蟷器は、緻胤の書簡を受け取った東蘭が、事を必要以上に荒立てないよう、内密に処理していたことを告げ、不安げな場を収めたのだった。
 「また、東蘭は今回の件に関して、貴国に対し、なんの弾劾もしないと誓約いたしましょう」
 さすがにざわめいた場を無視して、蟷器はまっすぐAを見遣った。
 「先程も申しましたように、こちらは我が太后の名に傷がつかぬよう、内々に処理しておりますし、また、西桃王陛下のお心遣いも、あり難く存じておりますので、殊更、騒ぎ立てるようなことはいたしません」
 「それは結構。貴国とは、これからも穏やかな関係を作っていきたいものだ」
 あからさまにほっとした雰囲気の漂う中で、Aは穏やかな笑みを浮かべ、蟷器を見返した。
 ―――― これで、終わり。
 Aは、穏やかな笑みを形作ったままの顔で、ふと、遠くを見遣る。
 間もなく、緻胤は東蘭へ帰り、いつもの日々が戻ってくる。
 目の前に現れた仕事を淡々とこなすだけの日々・・・・・・。
 野心的な蟷器には、決して分からないことだろう。
 知ることはできても、決して、理解はできない。
 自身で決めたことだ。感傷など、持つ必要もない。
 何も作らず、何も生み出さず、前王の残したものを何一つ欠かすことなく次の王に譲る―――― 確固たる意志を持って、自身の名を、人々の記憶から、歴史の中から消すのだ。
 ―――― この国の為に。
 やや警戒を含んだ視線で、自身を観察している東蘭の中書令に、改めて視線を移したAは、その穏やかな笑みを深めて見せた。


 ―――― 西桃の王宮において、緻胤の処遇が決まろうとしていた頃。
 南薔の王宮の一室では、妹を西桃へ売った女が、恐ろしい形相で白い髪を振り乱していた。
 「・・・・・・結局、飃山からはなんの返答も・・・・・・」
 口篭もった老婆を、沙羅はぎり、と睨みつけた。
 「あの男・・・・・・!!どこまで私の邪魔をすれば・・・・・・!!」
 色素を持たない瞳が、今にも血を吹き出さんばかりに赤く染まり、細く白い手の甲には血管が太く浮き出している。
 「もういい!!私が王となるのに、神殿の許可など必要ない!!」
 悲鳴にも似た甲高い声に、老婆は枯れ木のようになった手を震わせた。
 「ですが・・・・・・神職らの参列がなくては、民が納得しはしないでしょう・・・・・・」
 「なぜ私が、民意など気にせねばならない?!私は精霊の娘・・・・・・それだけで、最も王位にふさわしい!!」
 激昂した彼女には、もう、何を言っても無駄だと、南薔の東三州を治める老婆はそっと吐息せずにはいられなかった。
 ―――― あの経(ケイ)にすら、神職は王位を認めたものを・・・・・・。
 国土と民の大半を失い、南薔を一度、滅亡せしめた男王ですら、神殿は王位継承を認めた。
 なのに、十分な資格を持つはずの沙羅に王位を授けることは、頑なに拒んでいる。
 しかし老婆は、なぜ、とは問わなかった。
 前王・精纜が没する以前より、沙羅の暴虐は衆の知るところとなっている。
 先の南蛮王に似て、逆らう者を力で抑えつけようとする態度には、早くも反撥する勢力が生まれていた。
 その勢力の中でも最大のものが、聖太師を頂いた飃山の神職たちである。
 聖太師の元には、かつて南州を治めていた茱(シュ)家の当主をはじめとする、南州の者達が多く集まり、その力を更に強大なものとしていた。
 分からなくもない、とは思う。
 精纜と違い、南蛮で生まれ育った沙羅は、南薔の習俗を知らない。
 南薔の民の、心を知らない。
 全ての生活が、神への、精霊への信仰を中心に成り立つことなど、頭で理解しろと言っても無理だろう。
 そんな人間を、王として立てていいものか――――。
 神職達は、それを気にしているのだろう。
 自身らを、再び滅ぼす王の出現など、誰も望んではいないのだから。
 せめて、沙羅がもっと穏やかな、思いやりのある人間であったなら・・・・・・。
 老婆はそう、嘆息せずにはいられない。
 精霊の子にふさわしい神々しさと、慈愛。
 そんな気性さえ備えていたなら、誰も、彼女の登極を妨げはしなかったろうに。
 明かにふさわしくない態度で、喚声を上げる沙羅をなだめながら、ふと、老婆は聖太師が密かに推す、もう一人の王女のことを考えた。
 現在、沙羅と西桃太后の思惑により、西桃の後宮に入れられた王女――――。
 東蘭においては既に国母となり、采王亡き後は、幼王を守り、臣らの意見を尊重する、見事な摂政ぶりと聞く。
 今更ながら、老婆は緻胤の登極に思いを馳せた。
 緻胤の治世下における、自身と自身の家の発展を。
 老婆は精纜の治世時より沙羅についていた為、以前より緻胤に南薔王位を、と考えていた者達からは既に、遠く距離を稼がれてしまっている。
 しかし、最も沙羅の近くにいる自分が、彼女の失脚に手を貸してやったなら―――― 流れる血は最小限。いや、沙羅一人のもので済むかもしれない。
 緻胤は、老婆を重用しないわけには行かないだろう。
 老婆の、皺に埋もれた目に、野心の光が灯った。
 決断すべき時だ。
 沙羅の名を用い、茱家の英華を屠る――――。
 南州の恨みを全て、沙羅の身に集める――――。
 無力ながらも、必死に沙羅を諌めた老婆は、緻胤擁護派からの同情も集めることだろう。
 南薔が、かつての栄光を取り戻すために、少々の犠牲はつきものだ・・・・・・・・・・・・。


 ―――― それら人界の思惑などそしらぬ顔で、飃山はただ静かに地を見下ろしている。
 厚く積もった雪は、かつて、黒い地を曝していた山肌を被い尽くし、母皇の眠りは再び守られた。
 忙しない喘ぎが、穏やかな吐息に変わるまでの七年近く―――― 二千五百日の間、飃山の北岳に跪き続けた精霊は、やっとその目を開いた。
 「・・・・・・母皇陛下」
 七年ぶりに発せられた声はかすれる事もなく、闇に包まれた山嶺にふさわしく、密やかに流れる。
 「惶帝陛下。ありがとう存じます」
 昇り来る月に叩頭した後、彼はゆっくりと立ちあがった。
 長い間、彼を重く閉ざしていた雪が、音もなく滑り落ち、最も古い精霊王の身体を白く彩る。
 「この依坤(イコン)、今後とも母皇陛下、三皇帝陛下方の御為、力を尽くす所存」
 闇に沈んだ翠の瞳には、復権を果たした者のみが持ち得る、慎みを含んだ自信が満ちていた。
 「御赦しを得、再び地精王の位を賜ります」
 途端、彼が足下に踏みしめる地が震えだした。
 感に耐え兼ねたような微震は次第に大きさを増し、再び彼らの王を迎えた喜びに、地は咆哮を上げるように波打った。
 『人格』を持つ地精のみならず、地霊すら服従させた、王の中の王。
 地精王・依坤は、激しい歓呼に迎えられ、再びその玉座を手に入れた。


 「では、本当に東蘭へ帰れるのね?」
 緻胤の不安げな声に、荀はにっこりと笑って見せた。
 「えぇ。先程宴の席で、陛下がはっきりとおっしゃいました」
 「そう・・・・・・」
 ほっと吐息する緻胤を、暖かに見つめる目の奥で、荀は必死に考えを巡らせている。
 彼にとっては、東蘭の中書令からもらったいくばくかの珠玉よりも、緻胤を王妃に据えることで手に入るだろう、地位や財産の方が何倍も価値があるのだ。
 緻胤をこのまま、東蘭へ帰してなるものかと、様々な策略を思い描いているのだが、現実的な対処法は一つも浮かんでこない。
 東蘭は迅速な処理を望んでいるから、緻胤がこの後宮から出るのに、もう時間はほとんどないというのに。
 さすがに、歯噛みしそうになった荀に、天恵とも言うべき運が訪れたのは、そんな時だった。
 「・・・・・・・・・?」
 ふと、あらぬ方を見遣った緻胤の仕草に、荀も一瞬、気を逸らされた。
 「姫・・・?」
 「なんだか・・・・・・揺れてない?」
 眉を寄せ、周りの気配を探るように声を潜める緻胤の言葉に、荀も倣う。
 「揺れております・・・・・・!!」
 荀の言葉が終わらないうちに、緻胤は長椅子から降り、元よりそう多くはなかった燭台の明かりを全て吹き消してしまうと、豪奢な作りの寝台の下へと滑りこんだ。
 誰に教わったわけでもなく、地震と言うものを経験したこともない彼女だが、とっさに危険を避けやすい所に逃げ込めたのは、沙羅という残酷な姉の勘気を避けるため、腐心した幼少の経験のおかげだったかもしれない。
 「ひ・・・姫・・・・・・!!」
 次第に揺れを増す地から逃げ出そうとしたものか、立ち上がりかけた姿勢のまま、がたがたと震える荀を、緻胤は寝台の下から手招いた。
 「早く!この中に入りなさい!!ここなら、天井が崩れても安全だわ!!」
 地が発する咆哮に負けぬよう、張り上げた緻胤の声に引きずられる様に、荀はよろよろと寝台の下に潜り込んだ。
 「姫・・・・・・!これは一体・・・・・・!!」
 顔中を汗に濡らしながら、声を上ずらせる荀に、緻胤は首を振る。
 「わからないわ。こんなの、初めてだもの」
 ただ、これは大変危険な事象なのだと言うことは、緻胤は本能的に察知していた。
 「蟷器ならちゃんと説明できるのでしょうけど・・・・・・」
 かつて、雷雨というものについて得々と説明し、東蘭を混乱から救った彼ならば、この事象についても詳しいかもしれない。
 そう言ってみたが、荀は自身の不安に捕らえられ、緻胤の言葉など、耳に入っていないようだった。
 「大丈夫よ、荀。
 いつまでもこんなこと、続きはしないでしょうから」
 意外にも平然とした口調の緻胤に、荀は不安げな目を向けた―――― 先程とは、完全に立場が逆転してしまっている。
 「すぐに収まるわよ。安心して」
 そんな、確信的な緻胤の言い様に、荀もようやく落ちついた。
 「陛下達は、ご無事でしょうかねぇ・・・・・・」
 何か話していないと不安なのか、おどおどと舌を動かす荀をなだめるように、緻胤が優しい声を出す。
 「私達がこうして無事なんですもの。きっとご無事よ。じゃなきゃ、なんの為の警護なの」
 「そ・・・それもそうでございますねぇ・・・・・・」
 「そうよ。
 あら、ねぇ、止んできたんじゃない?」
 気づけば、緻胤の言う通り、揺れが段々と静まってきていた。
 「あぁ!!ありがたい!!」
 大仰に吐息しながら、素早く寝台の下から抜け出し、まだ揺れの収まりきっていない床を外へと、よろめき渡る荀を、緻胤は慌てて呼びとめる。
 「荀!まだ危ないわよ!!」
 「い・・・いえ・・・!!陛下の御身が心配でございますから!!」
 などと、忠義なことを言ってはいるが、実は、自室に溜め込んだ財宝の数々が、この地震のせいで暴かれてはいないか、貪欲な同僚達の懐に納まってはいないか、気が気ではない荀である。
 「じゃあ、この蒲団を被って行きなさい!火には気をつけて!」
 緻胤の的確な指示に、荀はできうる限りの早さで寝台へと戻り、厚く綿を詰め込んだ蒲団を引き被ると、再び外へ向かって走った。
 「気をつけるのよ!」
 荀の背に声を掛けつつ、緻胤もそっと周りの様子を窺った。
 王妃の室は後宮の奥深くにある上に、現在の彼女はいわば、隔離状態にあるため、外がどんな様子なのかは全く分からない。
 灯火の消えた室内では、わずかにさし込む月明かりと、遠くから微かに聞こえる物音だけが頼りだ。
 懸命に耳をすますが、これほど広大な宮殿内で、そう簡単に音が拾えるはずもなく、緻胤は仕方なく寝台の下から這い出した。
 「誰か!誰か近くにいますか?!」
 呼ばわってみたが、応答は全くない。
 緻胤は、寝台の上に残った毛布を頭から被ると、揺れが完全に収まるまで待ってから、そろそろと室の外へ出た。
 人気があるのではないかと思われる方へ、月明かりを頼りに進んで行くにつれ、その耳は甲高い悲鳴の数々を容易に捉えられる様になってきた。
 「・・・・・・混乱しているようね」
 欄干伝いに、更に歩を進めていった緻胤が、悲鳴の沸きあがる方へと角を一つ曲がった途端、その目に大きな炎の色が映った。
 「火事・・・・・・!!」
 緻胤の顔が引きつる。
 つい六年前まで、この世界の水は枯渇していた。
 そんな世界の住人にとって、炎は全てを呑み尽くす、恐るべき存在であると言う認識は、未だ生々しい記憶と共にある。
 しかし、ここで逃げ惑っていては、被害は拡大するだけだ。
 緻胤は、震える足を踏みしめ、更に歩を進めた。
 「落ちつきなさい!!」
 大の男をも黙らせる大音声に、西桃の宮女達や宦官達が、びくりと身を竦める。
 「落ちついて!!まず、火を消すのよ!!水はどこ?!」
 「み・・・水・・・・・・?!」
 呆然と問い返してくる者達に、緻胤は大きく頷いた。
 「そうよ。昔はともかく、今は水があるでしょう!大丈夫、火なんかすぐ消えるわ!
 さぁ、早く!!水を運びなさい!!」
 毅然とした口調に、命令されることに慣れきっている彼らが、慌てて動き出す。
 「大丈夫よ、慌てないで!!」
 言いながら、緻胤は炎に呑まれかけた部屋部屋を覗き込み、怪我人が倒れたままになっていないか、燃えやすいものが放り出されていないか、素早く確認して行った。
 「み・・・みみ・・・水を・・・・・・・・・!!」
 息せき切って、大きなたらいや瓶をいくつも運んで来た者達に頷き、火を消すよう指示すると、中の幾人かを選んで、怪我人達を庭へと運ばせる。
 「ここを消したら次へいくわよ!手押し車に乗せれば、女でも水瓶を運べるでしょう?!たくさん乗せなさい!!」
 「は・・・はい・・・!!」
 未だ小なりとはいえ、自分達で火を消したのだという彼らの興奮が冷めないうちに、緻胤は矢継ぎ早に指示を出し、水汲み場から、人造池から、汲み上げた水をいくつもの瓶に入れて後宮を駆け回った。
 その集団は急速に膨れ上がり、一個師団並の人数が消防隊となって後宮の各所に散っていく。ために、広大な場所であるにも関わらず、意外にも迅速に火は消し止められたのだった。
 「ご苦労様!さぁ、次は怪我人の処置よ!各所に避難している人達を一箇所に集めて、ぱぱっとやっちゃいましょう!」
 緻胤の陽気な物言いに、興奮気味の歓声が上がる。
 動けない者を運ぶため、瓶を下ろした手押し車が再び各所に散って行く様を、緻胤は満足げに見送った。


 西桃王の明言により、随分と和やかになった宴の場では、夜が深まるとも管弦の音が絶える様子はなかった。
 賑やかに談笑し、酒を酌み交わす高官達の中には、その異常に気づくことも出来ないほど酩酊した者も多かったのである。
 「陛下・・・?」
 「揺れています・・・ね・・・」
 酒豪の蟷器と、あまり飲んでいなかったAが呟く。
 元より一滴の酒も入っていない楽人や給仕の者達は、不安げな視線を交わしあっていた。
 「陛下、灯火を!」
 「皆、灯火を消せ!!」
 蟷器の意図を素早く読み取り、Aが迅速な命令を出すと、灯火の近くにいた者達が慌てて従った。
 しかし、豪奢な宴の間は、数多くの灯火で昼のように照らされており、その全てを消し去ることは事実上、不可能だった。
 「早く!!外に出てください!!」
 蟷器は、Aの袖を引いた。
 緻胤がやったように、寝台の下にでも隠れられればいいのだが、あいにくこの部屋に都合のいい場所はない。
 「立てる者は急いで外に出よ!!衛士達は、動けぬ者を運んでやれ!急げよ!」
 Aの指示を待つまでもなく、楽人達は我先に外へ飛び出し、その後を高官達がこけつまろびつ追いかけて行く。
 その間にも、地の揺れはますます激しくなってゆき、不意に足を取られたAが、床に膝をついたその場所に、天井に吊るされていた重い連燭台が落ちてきた。
 「陛下!!」
 蟷器はじめ、幾人かが駆け戻り、Aを連燭台の下から引きずり出し、燃え移った火を叩き消して、部屋の外へと運び出す。
 「医術を知っている者はいるか!?」
 このような緊急状態では、わざわざ典医を探しに行く時間はない。
 蟷器の声に、宦官達の何人かがまろび出てきた。
 「陛下の手当てを!後の者は火を消せ!!」
 「火・・・・・・?」
 後宮と同じく、火に対する拭いようのない恐怖に満ちた声を返され、蟷器が苛立たしげに怒鳴った。
 「ボヤのうちに消せって言ってんだ!!てめぇらの宮殿が燃えちまうんだぞ!!」
 思っても見なかった剣幕に、皆、びくりと身を震わせ、慌てて動き出す。
 「落ちついて!まずは水を汲んで、火を消すんだ!大丈夫、すぐ消える!!」
 後宮で緻胤が行ったように、客であるはずの蟷器が高官達の先頭に立ち、衛士達をも使って次々に火を消し止めて行った。
 「さぁ、へたり込んでいる暇はないですよ!王が負傷された以上、市井を鎮撫するのはあなた達の役目でしょう!
 すぐに兵を集め、消火と盗賊の取り締まりに行かせなさい!!」
 「は・・・はいぃっ!!」
 混乱と興奮が入り乱れ、自分がどんな物言いをされたのかすら理解できないまま散っていった高官達の背を見送った蟷器は、ふと我に返って頭を抱えてしまった。
 「〜〜〜〜〜〜何やってんだよ、俺・・・・・・!!」
 常に自国の混乱を収拾していたクセが、この非常事態でつい出てしまった。
 蟷器にとっては、この国が混乱しようが滅びようが、一向に構わないはずなのに、気がつけば消火活動の指揮を取り、市井の鎮撫にまで行かせている。
 自身の、あまりにも人のいい行いに赤面するばかりだ。
 ふと気づけば、宦官達の手厚い看護を受けていたAが、穏やかな笑みを浮かべて蟷器を見つめている。
 「感謝いたします、蟷器卿」
 「いえ・・・・・・とんだ、出過ぎた真似を・・・・・・」
 「いいえ。あなたのおかげで、王宮を守ることが出来ました」
 どこか怪我をしているのか、苦しげに顔を歪めたAの目が、はっと見開かれた。
 「陛下?」
 気遣わしげな周りの声も聞こえないのか、宦官達に縋るようにして身を起こしたAは、胸を押さえつつ声を張り上げた。
 「後宮は・・・・・・!!緻胤殿はご無事か?!」
 「へ・・・陛下、どうぞご無理をなさらず!!誰ぞ見にゆかせますゆえ・・・・・・!!」
 慌てふためきつつ、押し戻そうとする宦官達の腕を、苛立たしげに掻い潜ろうとするAの前に、蟷器は進み出た。
 「ご安心を、陛下」
 跪き、視線を合わせて、なだめるように微笑む。
 「我が太后は、普通の貴婦人ではありません。
 おそらく今頃は、後宮の方々を指揮して、火を消し止めていると思いますよ」
 「まさか・・・・・・」
 唖然と呟くAに、蟷器は軽い笑声を上げた。
 「そう思うでしょう?でも、あの方は深窓の姫君なんかではないのです。
 前東蘭王、采が心より信頼した、女傑なのですからね」
 そして私も、と言い添えた蟷器に、Aが微かな苦笑を浮かべた。
 「・・・・・・東蘭へお返しするのが、惜しくなりそうです。
 あの方が、いつまでも私の側にいてくれたなら・・・・・・」
 ・・・・・・そうしたら、もっと違う戦い方もできるかもしれない。
 「―――― 東蘭の民も同じく、あの方をお慕いしています」
 Aの望みを断ち切る、蟷器の穏やかな声音に、彼は笑みを深めた。
 「・・・・・・・・・そう・・・でしょうね」
 深い吐息と共に漏れた呟きは、意外なほど暗く沈んでいる。
 「東蘭の方々が・・・羨ましい・・・・・・」
 「陛下?!」
 再び、意識を無くしたAを引き止める様に、宦官達が甲高い声を上げた。
 「どこか、静かな部屋にお運び申し上げて、ご典医にお任せするべきだと思いますが?」
 またお節介な、とは思ったものの、なんとなく放っておけない気がして、蟷器は宦官達に囁きかけた。
 「さ・・・さようにございますね・・・・・・!!」
 汗に濡れた生白い顔を何度も振って、宦官たちは数人がかりで彼らの王を担ぎ上げた。
 蟷器は、注意深く歩を運んで行く彼らを見送りもせず、すっかり汚れてしまった袖を払い、自身に与えられた離宮へと帰って行った。


 飄山の神殿は、この地にあって最も震源地に近い場所であったが、同時に、下界の混乱とは最も遠い位置にあった。
 少なくともここでは、炎の恐怖がまったくなかったのである。
 灯火がなかったわけではない。
 むしろ、いまだ物資の窮乏に耐える南薔の地では考えられないほど潤沢に灯火が巡らしてあったのだが、地が激しい咆哮を上げ、掲げられた灯火の数々を落下させた直後、神殿は突如湧き出た濃霧に閉ざされ、火は炎と変わる遥か以前にその勢いを止めたのである。
 「こんな力も、たまには役に立つことがあるもんだ」
 しっとりとした重みのある濃霧の中、いやに感心した口調で、この神殿の最高位にある青年は呟いた。
 『だって 今のあなたは水精なんですもの  このくらい軽いものでしょ?』
 笑みを含んだ女の声は、彼の影の中から湧き上がる。
 「まぁね。
 でも、後の掃除が大変だよ、これ。火を消すためとはいえ、そこらじゅう水浸しにしちゃったし」
 『全部燃えるよりはましよ』
 軽くあがった笑声に、カナタも朗らかに応じる―――― ひどい地震に襲われた直後であるにも関わらず、これほどまでにのどかな会話ができるのは、不死であるがゆえの余裕だろう。
 「さて、そろそろこの霧をどけなきゃ。怪我人が多くなきゃいいけど」
 『少なくとも 火傷をした者はいないと思うわ』
 「いたら笑っちゃうよ」
 言いつつ、カナタは長い袖を大きく払った。
 「さぁ、もういいよ。みんなのところへお帰り」
 袖をもう一振り、二振り・・・・・・それだけで、火を消すほど濃密だった霧が晴れて行く。
 「ご苦労様」
 にこりと微笑んだカナタは、神殿の中をゆっくりと歩きながら、物陰に隠れた神官たちに、歌うように呼びかけた。
 「明かりをつけていいよ。もう大丈夫。怪我人はいないかい?消えてしまった者はいないかい?動ける者は周りをよく見て。倒れている者がいたら手当てをしてあげて」
 男のものとは思えない、柔らかで穏やかな声が、未知の恐怖を味わったばかりの人々の、ささくれだった心を落ち着かせて行く。
 「大丈夫。まず明かりをつけて。周りを見渡して。怪我人がいたら手当てをしてあげて・・・・・・・・・」
 同じ言葉を繰り返しながら、カナタはゆっくりと神殿中を巡った。
 彼の通り過ぎた後には、一つ、二つと明かりが灯って行き、水の神殿はたちまち元の明るさを取り戻した。
 怪我人の収容、処置にも混乱は全くなく、祭礼の最中であるかのように粛々と進められた。
 「はい、皆さんよくできました」
 背後へと、にこりと笑みを向けたカナタは、神殿の最奥にある扉を開け、いやに晴れ渡った空の下、飄山南岳の頂上へと歩を進める。
 神殿内を出てからいくらも進まない内に、彼の目は蒼く塗られた支柱に蒼い甍(いらか)を戴く、あずまや風の建物を捉えた。
 壁のないそれが守るのは、滾々と水の湧き出る泉――――。
 世界で唯一、瑜珈(ゆが)、と呼ばれる輝石を産する、聖なる泉である。
 王か、最上級の神官しか入ることを許されないその場所に足を踏み入れたカナタは、その清冽な水の中へ躊躇なく手を差し入れた。
 軽く水を掻き回した後、引き出した彼の手の中には、蒼く透き通った環状の玉があった。
 これが瑜珈―――― 精霊の叙任や天上での事件など、神界の出来事と思われる様々な事が、流れるような字体で彫り込まれた玉である。
 傾き行く満月の下、連なる文字を透かし見るカナタの口元に、隠しようもなく笑みが浮かんだ。
 「全く―――― 人騒がせなジジィだよ」
 安堵の息を漏らす間もなく、堪え切れない笑いが肩を震わせる。
 「復権、おめでとう!」
 瑜珈の中心に開いた穴に指を差し入れ、くるくると回しながら、カナタは足取りも軽く神殿へと戻って行った。


 「―――― 少々、はしゃぎ過ぎておる」
 久方ぶりに聞いた声はしかつめらしく、水精王・澪瑶(レイヨウ)公主はくすりと笑みを漏らした。
 「無理もございませんでしょう。地精にとっては、待ち侘びたご帰還でございますものね」
 「だからと言って、あのように歓声を上げては、地に這う者どもにとっては迷惑なことであろうよ。現に――――」
 ちろりと、足下に流れる水を見下ろすと、地上の各国、各地で、夜の闇をも焦がすほどの大火が立ち上る様が見て取れる。
 「このようなことになるのは、わしとしても遺憾なことじゃ。ゆえに公主、わしは珂瑛に戻る前に、この渺茫宮を訪れたのじゃ」
 「了承しております、太師」
 穏やかに微笑んで、水の公主は側に控えていた水精を呼び寄せた。
 「響威(キョウイ)をこちらへ」
 公主の命を受け、退出した水精を見送った依坤は、公主に向き直ると、微かな苦笑を浮かべた。
 「風精王は、未だお赦しを得てはおらぬか」
 「・・・・・・・・・渺茫宮には、渺茫宮のしきたりがございますれば・・・・・・」
 そう言って目を伏せた公主をに、依坤は無言で頷きを返した。
 間もなく、水精王と地精王の会見の場に、風精の割には重々しい風体の男が現れ、丁寧に一礼した。
 「太師、響威にございます。風精王不在の間、風精をまとめている者ですわ」
 「ふん・・・・・・。あやつも、後のことを考えておらなんだわけではなさそうじゃのう」
 「・・・・・・恐縮です」
 そつのない返事をする響威を身振りで立ち上がらせ、依坤は再び公主に向き直った。
 「では、大火の件、よろしくお頼み申す」
 「お任せを。
 響威、けして風を先行させることなく、雨雲を運んでください。できるだけ迅速に。できますか?」
 公主の言葉に、響威は右手を胸に当て、深くこうべを垂れた。
 「火精王にご協力を仰ぐことを、お許しいただけましょうか?」
 「それは、わしからも言うておこう。おぬしは風精の指揮に専念してくれればよい」
 依坤の約に、響威は大きく頷く。
 「承りました、地精王。微力を尽くさせていただきます」
 「微力では困る。全力を尽くせ」
 響威を恐縮させる、傲慢な物言いに、公主が再び笑みを漏らす。
 「太師におかれましてはお変わりなく、安堵いたしました」
 「いまさら殊勝にもなれぬ年ゆえ」
 傲然と言ってのける態度が、なぜか憎めない。
 「改めて、地精王の復権を、お寿ぎ致します。これからもよしなに」
 「こちらこそよしなに―――― このように口うるさいジジィも、おらぬではおらぬで寂しいもののようじゃからのう」
 薄く笑みを浮かべた顔には、彼らしい尊大さが彩りを添えていた。




〜 to be continued 〜


 










・・・ようやっと西桃編突入です。
蟷器は無事、緻胤を取り返せるのか?!エアリーの行方は?!(っておい・・・)
段々、作者にさえ登場人物の名前が危うくなってきました(笑)
英華の三番目の息子の名前を、しばらく間違えていましたし;;(激白)
筋は決まっていても、登場人物たち(特に脇役)には苦労しますわね、ホント・・・。
「こいつの名前、なんだっけー?!」なんて叫びつつ、前作を読み返すことなんてしょっちゅうです(苦笑)
すみません・・・;;
こんな、わけのわからない作品でも、楽しんでいただけたら幸いです;












Euphurosyne