◆  21  ◆







 天を覆い尽くした、厚い雲の狭間より降り注ぐまばらな水滴は、いつしか一連の銀糸となって、闇に沈む地に幕を下ろした。
 突如、地上を襲った地震により、大火を起こした地は、静かに、しかし、確実な質量でもって降り注ぐ水の幕に癒され、たちまち貪欲な炎の刃を撤退させた。
 「運が・・・よかったですね」
 東蘭の王宮で、国中から集まる被害報告をさばいていた裴は、傍らで硬い顔をしていた菎に微笑みかける。
 「火が収まっただけでも、だいぶ混乱を減らせたようですよ。
 この期に乗じて不埒な事を企んだ輩も、そう多くはなかったようですし」
 そう言って、刑部尚書は嬉しげに笑った。
 王宮の対応が早かったおかげで、彼の手を煩わせる事態は少なかったのである。
 「これで、枢閣下がいつお帰りになっても、怒鳴られることはありませんよ。良かったですね」
 終始にこやかな裴に、しかし、菎は不安げな視線を向けた。
 「しかし・・・・・・困りましたよ。
 海が荒れているせいで、閣下からの連絡が絶えてしまいました。陸路は、南薔が乱れているせいで危険ですし・・・」
 「そんなに気に病むことはありませんよ」
 あっさりと言って、裴は笑う。
 「あぁいうね、『早くくたばっちまえ!』と思われている人間ほど、長生きをするものです。ましてや太后陛下のように、『何がなんでも生き残ってやる』という、確固たる意志を持っている方は、この程度のことでは負けません」
 「・・・・・・そうは言われますけど」
 「大丈夫」
 穏やかな笑みに、菎はそれ以上の反駁(はんばく)を封じられた。
 「きっと今ごろ、西桃王宮の消火でもしていることでしょう―――― のんきですから、あの人たち」


 東蘭において、『のんき』と評された二人は、同じ卓に着き、困り果てた様子で額をつき合わせていた。
 後宮から出され、改めて賓客としてのもてなしを受けている緻胤と、彼女の忠実な臣下、蟷器である。
 「じゃあ・・・・・・東蘭にはまだしばらく戻れないのね」
 「あぁ。
 しかも、いつ復旧するかが全くわからん」
 緻胤が、西桃王の好意により移った離宮は、蟷器が与えられていたそれよりやや王宮寄りの場所にあり、東蘭より来た者達とも自由に会う事ができるようにもなった。
 しかし、そこまで状況を整えておきながら、この天災である。
 激しい地震により起こった津波に、多くの船と共に東蘭より来た船も巻き込まれてしまったのだ。
 現在、西桃の港は転覆した船や破壊された船の撤去のため、封鎖状態にある。
 「海がだめなら・・・・・・」
 「陸路は危険だ」
 蟷器は、容赦なく緻胤の言葉をさえぎった。
 「南薔は、ここやうちみたいに整った指揮系統を持っていないからな。
 西桃領の西三州くらいまでなら何とか大丈夫かもしれないが、他の州は、未だ盗賊や山賊を治めきれていない。そんな所に、あんたを連れて行くわけにはいかん」
 「足手まといですものね、私・・・・・・」
 拗ねるわけでもなく、淡々と事実を確認する緻胤に、蟷器も頷く。
 「そう。俺たちが来た時のように、馬を飛ばすこともできないからな。
 ここはおとなしく待つしかない」
 「仕方ない・・・のね・・・・・・・・・」
 重く吐息して、緻胤は飾り格子の向こうに広がる庭に目をやった。
 「東蘭は・・・無事かしら」
 天から下ろされた銀幕に覆われた庭は、つい昨日(さくじつ)までは見事に整えられていたことだろうに、今では折れた樹木や崩れた庭石などが、惨たらしい姿をさらしている。
 昨晩、王宮を襲った炎の害も、緻胤たちのいるこの離宮はそれほどではないのだが、王宮も中心へ向かうにつれ、黒く焼け爛れた痕(あと)が禍々しい爪跡のように残っていた。
 「うちは大丈夫だ。俺らがいなくったって、十分な処置が取れているさ」
 王も、と、蟷器は言い添える。
 「あんたの忠実な侍女達は、優秀で勇敢だからな。
 太后陛下の御子に傷一つつけず、守り通したことだろうよ」
 「そうね・・・・・・。彼女達のことは、信頼しているの」
 緻胤が懸命に笑みを作ると、蟷器が微かに苦笑した。
 「すまん。こんなこと、慰めにもならないよな。
 ―――― 海路も陸路も絶たれたおかげで、何の連絡も入ってこないんだ。鳥を飛ばすにしても、この雨じゃな・・・・・・」
 と、憂わしげに外の雨を見遣る。
 「せめて、この雨がやんでからじゃないと・・・・・・・・・」
 「すべては、雨がやんでからね・・・・・・・・・」
 実りのない結論に達してしまった二人は、そろって吐息した。


 「陛下!陛下!!」
 甲高い女の声に、否応なく目を覚ましたAは、虚ろな目で彼に縋る母の姿を見た。
 「母う・・・・・・・・・」
 途端、胸に激痛が走り、顔をしかめる。
 「あぁ!!陛下!!」
 悲鳴をあげる母の声が遠くに聞こえた―――― 深く息を吸うたびに、胸を刺されるような痛みが走り、耳の奥では激しい鼓動が、鈍い痛みを伴って鳴り響いている。
 「た・・・太后陛下、どうかお静かに・・・・・・・・・」
 典医の言葉も耳に入らない様子で、太后はAに縋りついた。
 「陛下、どうぞお気を確かに!!陛下!!」
 胸の痛みに、呼吸は浅く、せわしくなり、額に浮いた汗がこめかみを伝って明るい色の髪の中へ落ちていく。
 「あぁ!!一体なんとしたことじゃ!!何ゆえ陛下はこのように!!」
 錯乱し、掴み掛かってくる太后の手をやんわりと戻し、典医は眉根を深刻に寄せて彼女に向き直った。
 「陛下は、連燭台が落ちて来た時に、胸の骨を折られてしまったのです。その痛みで呼吸が・・・」
 「な・・・治るのじゃろうな?!」
 恐ろしいものを見るかのように太后は身を竦ませ、時折、Aが苦痛に顔を歪めながらも重く吐息する度に悲鳴を上げる。
 「誰ぞ、太后陛下を別室へお連れ申せ」
 とうとう、苛立ちを抑えきれなくなった典医が命じ、侍女や宦官たちが丁重に太后をAから引き離していった。
 やっと静かになった病室で、うっすらと目を開けたAに、典医はそっと顔を寄せる。
 「お加減はいかがですか?」
 そっと脈を取った彼の問いに、Aは答えることができなかった。
 それほどまでに、意識が朦朧としていたのだ。
 「典医殿・・・・・・」
 気遣わしげな宦官の声に、彼は更にきつく眉根を寄せた。
 「先程お目を覚まされた時は、しっかりとしておられた・・・・・・」
 「え・・・えぇ。東蘭の太后を、離宮にお移しするようにとお命じになられました時は、お言葉もはっきりとされて・・・・・・」
 「今は少々発熱されておられるので、朦朧とされているのだろう。解熱薬を」
 命じられて、処方した薬湯を飲ませる医師達の表情は硬い―――― 彼らは、王が危険な状態であることを知っている。
 王の折れた肋骨は肺に刺さっており、本当ならすぐにでも手術をして、摘出しなければならない状態なのだ。
 しかし、王の身体を切り刻む事は許されない―――― 万が一、その場で死なせでもしたら、彼ら全員の首が落とされる。
 ゆえに王は、効果のない、しかし、すぐに死ぬことはない治療を施されているのである。
 これでは行き倒れ同然だ・・・・・・心中に、そんな言葉を呟いた者もいたことだろう。
 いや、行き倒れより悪いかもしれない。
 彼らは、いたずらに王の苦痛を長引かせているのだ。
 「しかし・・・・・・困ったことになった」
 声を潜めに潜め、寝台から離れた場所で、内侍(ないじ)と呼ばれる最高位の宦官が呟いた。
 「王には、御子がおられぬ」
 「それに、ご血族の方々もことごとく・・・・・・」
 不安げな声で唱和する宦官に、彼は苦々しく頷く。
 「前王陛下には、陛下の他に御子はおられなんだし、王位に近い方々は皆、夭折(ようせつ)しておられる」
 その言葉には、Aの玉座を守るため、いくつかの若い命、幼い命が奪われたことをにおわせていた。
 「王世子も定まっておられぬ内に・・・・・・」
 さすがに言いよどんだ内侍に、宦官は深刻な顔で頷く。
 「後宮のどなたも、御子を宿した妃はおられません。
 このまま、どなたか王族の方を、となると、はるかに遠いお血筋になられるのでは?」
 深刻な顔をつき合わせていた二人は、申し合わせたようにその目を王へと向けた。
 彼らの視線の先では、王が苦しげな様子で横たわっている。
 もう、長くはないだろうと思うと、その若さが憐れだった。


 自分の命がもう、残日を数えるほどになっただろうことは、Aにもなんとなく予想はついていた。
 父が―――― いや、彼が父と呼んだ前王が、亡くなった時もそうだった。
 今のように、硬い顔をした典医達に囲まれ、そのくせ画期的な治療などを施そうとしない。
 与えられるのは、鎮痛剤と解熱剤―――― 世界最高の医術を持つと謳われる西桃の、最も高度な医療を施されるべき王への施術がこの程度とは、笑い話にもなりはしないではないか。
 しばしば失う意識の中で、Aは次の王に誰を指名すべきか、考えをめぐらせていた。
 ずっと以前から、頭を悩ませていた問題だ。
 前王には、御子どころか兄弟もいなかった―――― つい数年前までは、女が子を産むことが出来なかった世界において、それは特別異常なことではない。
 だが、王である以上、継子(けいし)を残すことは最大の義務である。
 今の自分以上に、前王は苦しんだに違いない―――― だからこそ、母の嘘を信じたのだ。
 誰の子かもわからないAを、自身の子として認め、王位を授けた・・・・・・Aは、目を見開いた。
 「陛下?」
 すかさず、かしましいだけの典医が寄ってきたが、Aは自身の思考の軌跡を追うことに集中し、彼の言葉を無視した。
 ―――― いかに仲が悪いとはいえ、東蘭王家も南薔王家も、西桃王家とは何代も前から婚姻関係があった。
 A自身には流れていない西桃王家の血も、東蘭の前王・采と、南薔王家の一員である緻胤、そしてその御子には間違い無く流れているのだ。
 「陛下?!」
 呼吸すら止め、思考に耽っていたAを、典医が焦慮の浮いた顔で覗きこむ。
 が、彼は微動だにせず、視線を天蓋の内に据えていた。
 ―――― 緻胤の子は、あと、どれほどで生まれてくるものだろうか。
 完全にごまかすことは出来ないかもしれない・・・・・・だが、他に誰がいる?
 西桃王家の血を引く者で、王位に近い者は全て母が排除してしまった。
 遠い者さえも、既に臣籍に下っており、王位を継ぐことは難しい。
 東蘭が力を増しつつある今、欲しいのは、全ての民に『王』として認められる者なのだ。
 庶子の生まれながら、兵を起こして国土を平定し、東夷の乱を治め、東蘭王として君臨した采王。
 南薔の血を受け、暖かい人柄と強固な意志を持ち合わせる緻胤。
 人を惹きつけずにはいられない魅力を持った二人の御子ならば、少なくとも自分よりは上手く、西桃を治めてくれるに違いない。
 ・・・・・・それに、と、Aはようやくまぶたを閉じた。
 王世子が女児であれ男児であれ、赤子であれば必ず摂政が要る。
 Aの御子であれば、それはほぼ確実に母が行うことだろう。
 そうなれば、たとえ今すぐAが死ぬことになろうとも、母は王宮を追われることはない。
 あの、特殊な世界を構築する後宮でも、変わらず第一の人でいられる事だろう。
 「・・・緻胤・・・殿を・・・こちらへ・・・・・・」
 浅い呼吸を繰り返しながらの命に、宦官達は訝しげな顔を見合わせたが、誰も逆らおうとはしなかった。
 正殿から緻胤の移った離宮へと、使者は小走りに駆けて行ったのである。


 「―――― そうはおっしゃられましても、ご寝所に他国の太后をお呼び出しになるのは、どうかと思われますよ」
 表情はにこやかに、口調はあくまで穏やかに、しかし、その内容は冷淡だ。
 「は・・・ですが・・・・・・」
 「昨晩既に、緻胤陛下は我らにお返しいただいた。いつまでも妃の一人として扱われるのは困ります」
 蟷器の笑顔に、宦官は伏せた面を歪める―――― これだから、東蘭の武骨者は嫌いだ。頑固ばかりが美徳ではあるまいに。
 「東蘭にご用がおありでしたら、わたくしか、別の者が伺いますが?」
 自分に用がないことを知っていながらの、蟷器の言い様に、宦官はむっとした顔を上げた。
 「病床にある我が王の、たっての願いでございます。どうか、緻胤太后陛下にお見舞いくださいますよう、お願い申し上げる」
 彼としては、蟷器の情に訴える作戦だったのかもしれないが、昨夜の彼はともかく、元来、蟷器は論理で動く男だ。
 外部との連絡が途絶えた今、王宮内に残った人数で緻胤を守り通すためにも、ここは冷たく突っぱねる必要があった。
 「申し訳ありませんが、現在、太后は伏せっておいでです」
 「え・・・・・・?」
 「西桃の方々にお気を使わせては、と、申し上げずにおりましたが、昨日の疲れが出られたようで・・・・・・」
 蟷器は言葉を切ると、深刻な顔をして見せた。
 「幸い、医術を心得たものがおりましたので、診させてはおりますが、今までのご心労が祟ったようですね」
 ―――― もちろん、真っ赤な嘘である。
 昨夜は徹夜で消火活動にあたっていたため、疲れて寝ているだけだ。
 「さ・・・さようでございますか・・・・・・」
 しばらく言葉を失った後、ようやくそう呟いた宦官に、蟷器は気遣わしげな笑みを向けた。
 「西桃王陛下におかれましては、我々に対して多大なるご厚意、ご高配を頂き、心より感謝申し上げます。
 陛下のご容態がもう少し落ちつかれましたなら、お見舞いに参上したいと思っております」
 「は・・・・・・」
 途端、引きつった宦官の表情を、蟷器は見逃さなかった。
 「あ・・・ありがとう存じます」
 「ご無礼をお許しください」
 言いつつ、使いの礼として金銀美玉を贈り、柔らかな笑顔でその背を見送った蟷器は、彼が離宮から出たのを確認してから、東蘭より連れてきた者達を集めた。
 「どうやら西桃王は、危篤のようだぞ」
 蟷器の深刻な表情に、自然、集まった者達の顔も引き締まる。
 「まだ、王に近い者達しか知らないことなのだろう。詳しい情報を集めてくれ。」
 たちまち散って行く近習達のうち、一人を呼びとめて緻胤を監視するよう命じる。
 「起きても、私室から出ないように言い含めてくれ。西桃王が危篤だというのは伝えるな。見舞いに行くと言い出すだろうからな」
 「はい!」
 近習は返事と共に駆け去り、蟷器は苛立たしげに彼らからの報告を待った。


 「・・・・・・緻・・・胤・・・殿は・・・・・・?」
 鎮痛剤のせいか、朦朧とするばかりの意識がわずかに浮上するたび、同じ事を呟くAを、誰もが遠巻きに見守っている。
 その輪の中から、一際太った宦官が進み出ると、恭しく拱手した。
 「申し訳ありません、陛下。緻胤様は現在、疲労のため、床に伏せっておられるそうです。もう少々お待ちくださいませ」
 「早く・・・時間が・・・ない・・・・・・」
 その言葉に、周囲の者達がぎょっと息を呑む。
 「荀・・・・・・」
 名を呼ばれて、一人、王の傍らにあった荀は顔を上げた。
 「なんとしてもお連れ申せ」
 嫌に明瞭な声で言われ、荀は身震いせずにはいられない。
 「う・・・承りました・・・・・・」
 足をもつれさせながら立ちあがり、王の寝所をよろめき出た荀は、困り果てたように眉をひそめた。
 先程、王から遣わされた使者が、蟷器によって丁重に追い返されたばかりだ。
 今頃緻胤は、東蘭の者達に守られ、離宮から一歩も出ないよう、言い含められているに違いない。
 正殿の廊下を離宮へと向かいながら、荀は懸命に頭を働かせた。
 なんとか・・・なんとか緻胤一人に会うことが出来たなら、言いくるめることも出来るのだが・・・・・・。
 と、荀の脳裏にある案が浮かんだ。
 「そうか・・・あの事があったか・・・・・・」
 思ってみれば、どうしてこんな切り札を放っておいたものか、不思議なほどだ。
 ―――― どうやら、運が巡ってきた・・・運が巡ってきたぞ!!
 ここで上手く立ちまわれば、一気に高位を勝ち取れる・・・・・・!!
 荀は気持ちの急くままに足を早め、意外な早さで緻胤の移された離宮へと至った。
 「枢閣下にお目通り願いたい」
 威儀を整え、申し出た荀を、ここでくだらない諍いを起こしてもしょうがないと判断した東蘭の者達は、愛想よく迎えて蟷器と引き合わせた。
 「何用でしょうか?」
 蟷器にもにこやかに迎えられ、荀は福々しい頬を揺らして大きく頷く。
 「太后陛下のご気分がよろしくないとうかがい、参上つかまつりましてございます」
 「ほぅ・・・・・・」
 笑みの容に目を細め、蟷器は長い指を自身の顎に当てた。
 「ありがたいお心遣いなれど、当方にも医師はございますので、どうかご安心を」
 「しかし、産医はお連れではないご様子」
 すかさず言葉を継いだ荀を、蟷器は笑みを貼りつけたまま見つめた―――― 既に、その目は笑っていない。
 「―――― ご冗談を」
 緻胤の懐妊を否定しようとする蟷器の言葉を、荀は再び遮る。
 「太后陛下と御子に何かあれば、冗談では済まされないのではありませんか?」
 いかにも気遣わしげに眉をひそめ、荀はその視線を蟷器から離した―――― さりげなく周囲を見回し、人払いを要求する。
 「・・・・・・何がおっしゃりたいのかな?」
 荀の要求通り、近習達を下がらせた蟷器は、ややぞんざいな口調で向き直った。
 その、冷淡な態度に気づかぬ振りをして、荀は拱手する。
 「お恥ずかしい事ながら、西桃には今、まともな腕を持った産医がおりませぬ。
 それも、前王の御世より、後宮におわす妃の方々のご懐妊がなかったため―――― 典医の中にも、緻胤陛下を拝見した者が何人かおりましたが、誰もご懐妊を疑う者などおりませなんだ。
 ・・・・・・まぁ、今回はそれが助けになり申しましたが」
 ちらりと、上目遣いに蟷器を見上げる目に、嘲笑がこもっている。
 「あのような者どもに緻胤陛下をお預けになることは、閣下もご心配のことでございましょう。
 ですがわたくし、南海の王宮におきましては前南薔王陛下のお世話を申し上げ、現王沙羅陛下、緻胤太后陛下のご出産をお世話し申し上げた者でございます。
 現在、緻胤陛下がご懐妊され、わたくしごときがこう申し上げるのはまことに僭越とは存じますが、我が事のように嬉しく存じ上げております。
 しかし、陛下はこちらにおいでになられた際、やはりご心労のせいか、床に伏せっておしまいになられました。
 陛下と陛下の御子の御為、どうかご診察をさせていただきとうございます」
 一気にまくし立て、深々とこうべを垂れる。
 そのうなじに、蟷器の苛烈な視線が刺さる感触が、はっきりと感じられた。
 「・・・・・・あなたのお気遣いには、心より感謝している。
 南海での縁もあり、太后陛下よりもくれぐれも礼を失することなきようにと申し付かっております」
 外の雨よりも冷たい口調を、荀は笑みすら浮かべて聞き流す。
 「陛下及び、閣下のご厚意には感謝しております」
 既に、荀は蟷器から多大な謝礼を受けている。
 「その御礼も兼ねまして、どうぞ、太后陛下のご診察をさせていただきたいと申し上げているのです」
 「ありがたい仰せだが、そのようなお気遣いは無用のこと。医師は当方にもおりますゆえ、お引取りを」
 「普通の病であられるなら、それでよろしいでしょう。ですが、これは緻胤陛下のみならぬこと。万全を期すべきではありませんか?」
 蟷器は沈黙した。
 この男を緻胤に会わせれば、まずいことになるだろうとはわかっている。
 しかし、緻胤の為には、この男の力を借りるしかない―――― 緻胤の懐妊を、まだ公にするわけにはいかない以上、この男の機嫌を損ね、この事を吹聴されては困る。
 「・・・・・・わかった。ただし、誰か立ち合せて頂くが、よろしいだろうか?」
 「わたくしに、お断りする理由はございません」
 荀の、恭しく伏せた面には、嬉しげな笑みが浮かんでいた。


 「あら、荀。どうしたの?」
 けろりとした顔で彼を迎えた緻胤に、荀は暖かい笑みを浮かべた。
 「姫には、多事多端であられ、お疲れのことでございましょう。御身と御子のご容態は如何かと、まかりこしましてございまず」
 恭しく腰をかがめる宦官に、緻胤は安堵したように微笑む。
 「良かったわ。私は丈夫だからいいけど、この子はどうかしら、って、ずっと心配だったの。診てくれる?」
 「はい。承りましてございます」
 短い応酬の後、寝室へ入った緻胤の後ろを、荀と、もう一人蟷器の部下が付いて来た。
 「・・・・・・?」
 訝しげな緻胤の顔に、彼は『お側にいるよう、仰せつかっております』と、呟くように言い、部屋の隅に佇む。
 「蟷器の命令?嫌だわ、出て行ってちょうだいな」
 顔を赤らめ、退室を命じる緻胤に、しかし、彼は従おうとしない。
 「早く出て行きなさい。侍女ならともかく、男性に見られたくないわ!」
 「あいにく、侍女を伴っては参れませんでしたもので」
 そんなことは、緻胤も知っている。
 その上、蟷器が西桃の者を出来るだけ遠ざけたために、緻胤は太后の地位にありながら、身の回りの事をほとんど自分でやる羽目に陥っていたのだ。
 「どうしても出て行かないというの?!」
 不快げな声にも、彼は退こうとしない。
 「・・・・・・・・・っ!!」
 怒声を浴びせようと、口を開いた緻胤を、荀が寸前で止めた。
 「姫、どうぞ落ち着きくださいませ」
 「だって・・・・・・!」
 「なにも、寝台の中にまでついてくると言っているわけではないでしょうから」
 そうですよね、と確認する荀に、彼も渋々ながら頷く。
 「天幕をきちんと閉めておけば、大丈夫ですよ」
 「でも・・・・・・」
 未だ納得できない様子で、緻胤が頬を膨らませた。
 荀はそれをどうにかなだめすかし、両者共に譲歩できる点を押さえて、緻胤の診療にあたったのだった。
 「・・・・・・全く、蟷器も心配しすぎよ!」
 寝台に横たわったまま、憤慨する緻胤に、荀が柔らかく微笑む。
 「姫は既に、東蘭になくてはならぬお方であられますからなぁ」
 「だからって、こんな扱いは許せないわ!」
 寝台を覆う天蓋から垂れる幕は、夏のそれほど薄くはないものの、冬でも暖かい土地柄を反映して、厚みの点では東蘭のそれに劣っていた。
 これでは、向こう側から透けて見えはしまいかと、気が気でならないのだ。
 「覚えておくがいいわ、蟷器〜〜〜〜!!!絶対仕返ししてやるんだから!!」
 わざと寝台の外へも聞こえるような声で言い放つが、当然のごとく、返事はなかった。
 「姫、どうぞお静かに・・・・・・」
 荀の、苦笑を隠せない口調に、緻胤は頬を膨らませて黙り込む。
 と、緻胤の手の中に、荀が小さく畳んだ紙を滑り込ませた。
 「?」
 片手で開き、視線を滑らせた緻胤の顔が、思わず強張る。
 ―――― A王 ご危篤
 眉を寄せ、荀を見上げると、彼は表情を消したまま、黙々と緻胤の診察を続けていた。
 「・・・・・・どうかしら?」
 緻胤の用心深い問いに、荀は深く頷く。
 「御子は、お健やかにお育ちのようです」
 御子は、と、わざわざ強調する様に、緻胤が強張った顔のまま頷きを返した。
 ―――― 緻胤の御子は、健やかだが、Aは、そうではない。
 「では・・・港が復旧するまでには、安定するかしらね?」
 「十日ほどでしょうか?それは無理でございましょう」
 ―――― いくらがんばっても、十日はもたずして亡くなるだろう。
 「そんなに・・・・・・」
 揺らいだ瞳に、荀の、暖かな笑みが映った。
 「・・・・・・どうか、お慈しみください」
 最期なのですから、と、一際声をひそめる荀に、緻胤は硬い表情のまま頷く。
 「今日の月は・・・どんな容をしていたかしら。
 ――――『生と死を司る惶帝陛下のお恵みあれ 満るとも欠くるとも 等しく安らぎの得られんことを』」
 早口の言葉は南海のもの―――― 祈りに乗せた意味は、『夜、寝静まった頃』。
 荀は微かに頷くと、診療の終わりを告げた。


 「蟷器、あなた、私を怒らせたいの?」
 「もう怒ってるじゃねぇか」
 衝立を蹴倒さんばかりの勢いで部屋に入ってきた緻胤に、蟷器は苦笑を浮かべた。
 「男性を寝所にいれるなんて、あんまりじゃない?!侍女を一人もつけてくれないのは我慢するけど、あれじゃあおちおち眠ってもいられないわ!!」
 「不埒な真似をするわけじゃなし・・・・・・」
 「居るだけで、不埒な噂なんていくらでも立つのよ!!さっさと引き上げさせて!!」
 彼女がばしばしと卓を叩く度、西桃の高級な酒肴が散らばる。
 「・・・あんたのためだって、言ったろう?」
 吐息混じりの声にも、緻胤の憤慨は収まらない。
 「あなたと私の価値観は違うの。
 そんなこと、とっくに知っているでしょう?だったら、もう少し理解してくれてもいいんじゃないの?!」
 この離宮が、もう少し正殿に近かったら、と、蟷器はつくづく思う。
 この声だけでも聞いてくれれば、西桃王の、緻胤への執着も薄れてくれるだろうに。
 「聞いているの、あなたはぁっ?!」
 「あーもぅ、わかったわかった。部下を引き上げさせりゃいいんだろう?」
 降参、とばかりにひらひらと振る蟷器の手を取り、緻胤は彼の目をまっすぐに見据える。
 「そう!そして、私の監視も解いて!!ずぅっと見られているなんて、気持ち悪いの!!」
 「太后のクセにわがままな・・・・・・」
 重い吐息と共に吐き出された言葉に、緻胤がまなじりを吊り上げた。
 「私!あなたにだけは言われたくないもん!!」
 両手を腰にあて、胸を張って一喝された蟷器は、やれやれと肩を竦める。
 「そりゃー悪かったね」
 「そうよ!悪いの!すぐに引き上げさせて!すぐよ!今すぐ!!」
 犬のようにきゃんきゃんと吠えまくって、緻胤は来た時と同じく、足音も荒く部屋を出て行った。
 「か・・・閣下・・・・・・」
 「まったく、嵐のような女だな」
 苦笑しつつ、蟷器は緻胤の出て行った先を見遣っていたが、不意にその表情を引き締める。
 「室内は、ちゃんと調べてあるな?」
 隠し通路などが穿たれていないか、との問いに、問われた者はうなずいた。
 「いくつかは見つけ、出入り口に配備しておりますが、あれが全てかどうかは確認できませんでした」
 表情を強張らせる彼に、蟷器はしばし考え込む。
 「―――― 室内からは引き上げろ。だが、警戒は怠るな」
 「はい」
 すぐさま部屋を出て行った、部下を見送る蟷器の表情は厳しい。
 港が復旧するまで、蟷器は王宮にいる、限られた人数で緻胤を守らなければならないのだ。
 連絡と人員の補充を絶たれた今、それは苦しい戦いになるに違いなかった。


 広い寝所の、柔らかな寝台の中で、Aは辺りが闇に落ちたことにも気づけずにいた。
 緻胤が来た時の為に、しばらく前から眠りを誘う薬の投与を止めさせていたせいで、苦痛は容赦なく彼の胸を苛み、霞んだ視界は闇よりもなお、彼の目を塞いでいる。
 Aは普段より静寂を好み、あまり周りに人をおきたがらない方ではあったが、今では人払いをするまでもなく一人欠け、二人欠け、容態を見守る医師見習と、宿直を命じられた宦官の何人かが側にいるだけだった。
 大国の王にしてはあまりにもわびしい様子に、隣室に控えていた太后は握った手を震わせる。
 彼女の権力の源であり、拠って立つ支柱であった息子が今、死を迎えようとしているのに、誰も、成すすべもないとは。
 彼の死によって、自身が多くのものを喪うだろうという焦慮が、どす黒い渦のように彼女の胸の裡を蝕んで行く。
 と、闇の中で過敏になった彼女の耳が、女の・・・それも、高貴な者のみが纏える重い絹が床を滑る音を捉えた。
 闇に慣れた目に、衝立の影、一瞬だけ白々とした絹がすり抜ける様が映る。
 「あの女・・・・・・!」
 闇の中で育まれた感情は怒りとなって顕れた。
 誰もいない室を横切り、回廊へ出ると、彼女の目の前で白絹の裾がするりと隣室に入って行った。
 追いかけるように足を早めたが、そのまま息子の寝所に入っていくことにはためらう。
 彼の息子との死と同時に、自身の権勢が崩壊する様を、目の当たりにする勇気がなかったのだ。
 彼女は、王の寝所に立てられた、豪奢な衝立の影に隠れたまま、そっと中の様子を覗う。
 淡く灯された光の中で微笑むAが、闇に慣れた母親の目にはあまりに眩しかった。
 「ようやく・・・来てくださいましたね・・・・・・」
 苦しげなAの言葉に、西桃の太后に背を向けた女―――― 緻胤は頷いた。
 「遅れまして、申し訳ございませんでしたね、陛下。
 まさか、これほどとは存じませんでしたものですから」
 緻胤の穏やかな声に、再び太后の胸が騒ぐ―――― つい先日来たばかりの小娘に、なぜ私が遅れを取らなければならない?!
 太后の怒りは、Aが震える手を差し出し、緻胤を呼び寄せる様に、更に増した。
 「お願いが・・・あるのです・・・・・・!」
 その声はあまりに微かで、寝所の外にいた太后は元より、Aを遠巻きに見つめる医師見習達や宦官達の耳にすら届かなかった。緻胤は、自身の手を取るAに逆らおうとせず、その口元に耳を寄せた。
 「貴女の御子を・・・私に・・・この国に・・・ください・・・・・・!」
 「なん・・・・・・・・・っ!」
 大きな目をいっぱいに見開き、恐ろしいものから逃げるように身を引いた緻胤を、Aは最期の力を振り絞って引き寄せる。
 「貴女の御子に、この地を・・・この玉座を差し上げます・・・・・・。男児であれ女児であれ、私が愛した女(ひと)の子を、私自身の子として残したい・・・・・・」
 「そ・・・そんなことは・・・・・・!」
 「どうか・・・無体なのはわかっております・・・しかしどうか・・・お聞き届けください・・・・・・」
 痛いほどに握られた腕以上に、Aの目が緻胤を捉えて離さない。
 しかし、それでも緻胤が首を横に振ると、Aは苦しげに吐息し、緻胤の身に縋るようにして身を起こした。
 「っ陛下!!」
 動けないはずの患者の、あり得ない行動に、医師達と宦官達が慌てて駆けより、再びAを横たわらせようとしたが、Aはそれを冷たくはねつけて、半身を起こした。
 「そこにいらっしゃいましたか、母上」
 たまらず、部屋の中へ飛び込んで来た母に向かって、Aは緻胤に縋ったまま、暖かな笑みを浮かべる。
 「ちょうどよかった。母上にも聞いていただきたかったことなのです」
 意外としっかりした声に、太后はよろよろと寝台へと歩み寄った。緻胤が、迫り来る彼女から逃れようと身じろぎしたが、Aの、重傷を負っているとは思えない膂力に身動きを封じられている。
 「母上・・・私はもう、長くはありません」
 「陛下・・・・・・!!」
 悲鳴じみた声は、彼を囲む医師達のもの。
 看護の為に置いていた医師見習の報せで、慌てて駆けつけた矢先の、王の言葉だった。
 「・・・・・・このままでは生殺しだ。いっそ、何の治療もせず、放っておいてくれたなら、すぐにでも楽になれるものを」
 冷ややかな声に、医師たちは揃ってうなだれるばかりだ。
 「しかし、これがこの国のやり方であろう。ならば私は、この国の流儀に従うまでだ。ただ、心残りがただ一つ――――」
 苦しげに言葉を切ったAの背を、緻胤は彼に囚われたまま撫でてやった。
 これから、彼が何を言おうとしているのか、それが、自身にどう関わるものなのか、予想できないではなかったが、目の前で苦しむ者をほうっておけるほど、緻胤は冷酷にはなりきれない。
 彼女の優しさに、Aは一瞬、切なげに顔を歪めた―――― 泣きそうになりながらも、必死で笑おうとするように。
 「・・・・・・王世子が・・・私には、王世子がいない・・・・・・」
 その言葉に、太后の目からは堪えきれず、涙が溢れ出し、医師たちや宦官達も、微かな呻き声以外、何も発することは出来なかった。
 「だが、最後の望みが、ここにいる・・・・・・・・・」
 人々が、ぎょっと目を剥き、息を呑む中で、緻胤は凍ったようにAの腕の中にいた。
 「私達に、惶帝陛下のお恵みさえあれば―――― 男児であれ女児であれ、私が消えても次代の王が生まれるだろう」
 違う、と、上げた緻胤の声は、興奮気味に語り合う人々の耳には届かない。
 まさか、と、声にならない叫びを上げた太后が、こぼれんばかりに見開かれた目を緻胤へ向けた。
 彼女は知っているのだ、Aと緻胤の間に、何事もなかったことを。
 東蘭王の王妃であり、南蛮王と南薔王の娘である女が、西桃の玉座を簒奪しようとしている・・・・・・!
 太后にとって、それは許すまじき行いであったが、再度、呼ばれて見遣った息子の目は、反論を許さない毅い光が宿っていた。
 「緻胤殿の御子であれば、きっと、私より、優れた王となることでしょう。血筋も、申し分のない、ね」
 今度こそ、太后は声を失った。
 Aが、前王の御子ではないことなど、彼女には痛いほどわかっている。
 権門・李家の裔(すえ)に繋がるとは言うものの、貧しい下級貴族の家に生まれ、本家の姫が後宮に入る際、侍女として付き従った彼女が、権力を得るため、必死で守り通して来た嘘・・・・・・。
 それを自ら公にすることなど、絶対にできない。
 太后は、緻胤の中にいる東蘭王の御子を、次の西桃王として認めるしかなかった―――― 認めさえすれば、彼女は次代の王を扶育する者として、権勢も今まで通り、振るえることだろう。
 そしてそれはきっと、Aの、母に対する思いやり・・・・・・。
 太后は唇を噛みながらも、Aとの最後の距離を詰め、その傍らに跪いた。
 「陛下に、惶帝陛下のお恵みのあらんことを。華南将軍よ、どうぞこの方に御子を授からせたまえ」
 震える声で祈りを捧げると、太后は緻胤を睨み上げる。
 ―――― 逃がさないよ。
 蛇のような目が―――― 姉のそれとよく似た目が、緻胤を竦ませた。
 ―――― この国のため・・・・・・いや、私のために、腹の子をお寄越し。


 「畜生!!」
 蟷器が容赦なく拳を叩きつけた台の上で、いっぱいに花を活けられた大きな花瓶がぶるぶると震えた。
 「あのブタ野郎め!!よくもやりやがったな!!」
 目尻を紅く染め、髪を振り乱して激怒する様は恐ろしいほどに美しい。
 「申し訳ありません・・・不手際でございました・・・・・・!」
 平伏する近習達の姿を見下ろし、蟷器はなんとか気を落ち着かせる。
 「いや・・・・・・この人数で、全ての抜け道を塞ぐ方が無理だったんだ」
 例え緻胤の命令でも、監視を退けるべきではなかったと、それが悔やまれてならない。
 寝所に緻胤の姿がないと、報告があったのはつい先程、真夜中のことだ。
 離宮中を探しまわったが、緻胤の姿は煙のように消えてしまっている。
 「しかし、まだ王宮内にいるのは間違いない。正殿の、それもA王の寝所である可能性が高いな」
 蟷器の言葉に、絶望的な嘆息が漏れる。
 「・・・・・・朝を・・・・・・待つしかないのでしょうか・・・・・・」
 乾いた声に、蟷器は眉をひそめた。
 「その前に何か、手を打っておきたいな。正殿の様子を、探れるか?」
 見回すと、何人かが精悍に引き締まった顔を縦に振る。
 「よし、頼んだ。出来るだけ詳しく事情を探ってくれ―――― 緻胤陛下は無事だろうが、こちらは命からがら逃げる羽目になるかもしれないからな」
 約定を一方的に破棄してまで、東蘭から緻胤を奪い返したとなると、もう手段を選ばない可能性が高い。
 良くて入牢、悪ければ暗殺されるかもしれないのだ。
 「・・・これに懲りたら、二度と無駄な情けをかけるようなことをすんなよ、嬢ちゃん」
 漏らした吐息は、蟷器が思っているよりずっと重かった。


 「・・・・・・あんまりです」
 「・・・・・・すみません」
 「・・・わたくしは、陛下をお信じ申し上げていましたのに」
 「・・・お気の毒なことを・・・してしまったと・・・心から・・・思って・・・います」
 極力明りを抑えた広い寝所の中に、ただ二人、男女の声が響く。
 「・・・・・・どうして、あんな嘘をおっしゃったのです?」
 誰の子かご存知なのに、と、Aの耳元に囁く緻胤に、Aは寝台に横たわったまま、弱々しげな笑みを返した。
 「・・・貴女に・・・側にいて欲しかったのです」
 縋るように、緻胤の手を握るAの手に力がこもる。
 「私は・・・・・・前王の子では・・・ありません・・・・・・」
 引き寄せられるまま、Aの口元に耳を寄せた緻胤は、しばらくの間、その言葉の意味がわからなかった。
 Aが、前王の子ではない――――。
 では、誰の子だというのだろう?
 蟷器などから聞いた話に拠れば、前王に兄弟はなかったはずだった。
 「ご養子でいらしたの?」
 緻胤の率直な問いに、Aは無言のまま、弱々しく首を振る。
 「父親が誰なのか・・・私は知りません・・・・・・」
 だが少なくとも、王族ではない。
 これほどまでに隠しおおせたところをみると、貴族ですらなかったのではないだろうか。
 そう言うと、緻胤は大きな目を見開いてAを見つめた。
 「私には・・・西桃王家の血など・・・一滴も流れていないのです・・・・・・」
 あまりに衝撃的な告白に、緻胤は声を失う。
 「しかし、貴女達は違う・・・・・・。
 西桃王家は・・・東蘭王家、南薔王家とは・・・何代も前から・・・婚姻関係がありました。
 私には・・・流れていない・・・西桃王家の血も・・・采王と貴女・・・その御子には間違いなく流れている・・・・・・」
 それに、と、Aは微笑の容に目を細める。
 「あなた方お二人の御子ならば・・・・・・私よりずっと上手く・・・西桃を治めてくれるに・・・違いありません・・・・・・」
 「・・・・・・東蘭の国母たるわたくしに、力を増しつつあるかの国の隆盛を、止めろとおっしゃるのですか?」
 緻胤は、政治については素人同然だったが、采と自分の子を西桃王に据えることがどう言うことになるなのか、わかる気がした。
 Aが欲しがっているのは、西桃の民が認める、由緒正しい『王』。
 彼らが、Aの子だと信じる王だ。
 「・・・母は・・・有力な王族達を全て・・・粛清してしまいました・・・・・・。
 今・・・この国に残っている者達は・・・あまりに遠い血縁のため・・・既に臣下に下った者ばかりです・・・・・・。
 そのような者達に・・・それぞれ・・・野心を抱く臣がつき・・・玉座を・・・争うようなことにでもなれば・・・この国は・・・簡単に・・・分裂してしまいます・・・・・・」
 長い話に、気力も萎えてきたのか、Aの呼吸は乱れ、苦しげな吐息を繰り返した。
 「陛下、もうお休みになってはいかが?」
 子供をあやすように微笑みかけると、Aは不安げに緻胤を見上げる。
 「・・・・・・眠れば・・・貴女は行ってしまわれるのではありませんか・・・・・・?」
 必死に縋りつく手を、緻胤は振り解くことができない。
 「・・・・・・行かないでください、緻胤殿・・・私の側に・・・いてください・・・・・・!」
 「陛下・・・・・・」
 子供のようなAに、緻胤は困りはて、微苦笑を浮かべることしかできなかった。
 「緻胤殿・・・・・・貴女は、私が初めて愛した人なのです・・・初めて、側にいて欲しいと思った人なのです・・・・・・」
 「―――― 光栄には・・・存じますが・・・・・・」
 目を伏せ、拒否の言葉を選ぼうとする緻胤の口を塞ぐように、Aが性急に言葉を継ぐ。
 「自分が前王の子ではないと知った時・・・私は、決して前王の轍を踏み外さないと誓いました・・・・・・。目の前に現れる物事を、前例通りに淡々とこなし、次代の王にふさわしい者を探し出して、前王の作ったものをそっくり譲り渡す・・・・・・それが、私にできる償いだと、信じていました・・・・・・」
 そうして、庶人と同じく、歴史からも、人々の記憶からも、忘れ去られればいい―――― そう呟いたAは、妙に清々しい笑みを浮かべた。
 「なのに、初めて貴女とお話した日、自分では気づいてさえいなかった―――― いえ、見ないようにしていた孤独が、癒されてゆくようでした・・・。
 おっしゃりたいことは数多くおありでしたでしょうに、貴女は決して取り乱すことなく、静かなお声で、毅然と私にお話になられた。
 貴女はこのように優しくあられるのに、芯は強い方です。私は、惹かれずにはいられませんでした」
 にこりと笑うAに、緻胤は苦笑を返す。
 「わたくしは、陛下の思ってらっしゃるような女性ではありませんよ。蟷器にいつも皮肉られるくらい、元気が良すぎるんですもの」
 「ずっと影の中に居た者にしか、日なたの明るさ、暖かさには気づかないものですよ」
 くすりと、笑みを漏らしたAの顔が、不意に泣きそうに歪んだ。
 「申し訳ありません・・・・・・。
 このようなことは間違っていると・・・わかっているのです・・・・・・。
 ですが私は・・・貴女を裏切り、悲しませても、側にいて欲しいのです」
 申し訳ありません、と、何度も弱々しく繰り返すAに、緻胤は吐息を漏らす。
 「もう・・・いいですから、陛下」
 淡い笑みを浮かべ、Aの手を優しく握り返す。
 「お目覚めになるまでは、お側におりますから。ゆっくりお休みくださいな」
 実の母親よりも母親らしくなだめ、Aを寝かしつけた後、緻胤は深刻に吐息せずにはいられなかった。
 はっきり言って、軽率だったと思う。
 荀の口車に乗せられて、最も信頼すべき蟷器を裏切ってしまったのだから。
 今頃彼が、激怒しているだろうことが容易に想像できて、緻胤は再び吐息した。
 「・・・・・・困ったわー・・・もぅ、どうしようかしら」
 状況の深刻さに比べると、どこか楽観的な緻胤の口調だった。


 まんじりともせず夜を明かしてしまった蟷器の元へ、近習達は正殿の厳重な警戒すらものともせず、蟷器の元に情報を携えて戻って来た。
 「まったく・・・呆れてものも言えない・・・・・・」
 緻胤が正殿の、Aの寝所にいたという報告に、蟷器は重く息をつく。
 情に篤い事は、確かに緻胤の長所ではあるだろうが、情けをかける相手は厳選して欲しいものだ。
 彼女にとっては、世話になった人間の病床を見舞うだけ、という感覚だったのだろうが、おかげで蟷器たちの、今までの苦労が水の泡である。
 「身篭っているかどうかはわからないが、だと?よくもいけしゃあしゃあと・・・・・・」
 緻胤は既に身篭っているのだから、順調に行けば産み月に子供が生まれるのは当たり前だ。
 数ヶ月の差は、早産だった、などと適当に理由をつけるつもりだろう。
 だが、
 「・・・・・・なぜ、そうまでして彼女の子を欲しがる?」
 独白は、声と呼ぶにはあまりに小さく、蟷器以外に聞いた者はいなかった。
 椅子に深く腰掛け、顎に手を当てたまま、自身の思考の裡に沈んで行った蟷器を、邪魔するものはいない。
 Aであれば羨むであろう静寂の中で、蟷器は病床にある彼を思った。
 ―――― 西桃には、Aの後継者にふさわしい王族はいない。
 彼の玉座を脅かす者を、その母親が排除して行った、ということが最大の原因ではあるが、元々、西桃には王族が少ないのだ。
 Aも、前王も、前々王ですら中々御子に恵まれず、西桃では随分と前から、王家の血統が絶えるのではないかと危惧されていたものだ。
 継承者がいないという状況に、死の差し迫ったAが、取り乱したと言うのか?
 誰もいないならば、最後に愛した女の子供に西桃の玉座を渡そう、と?
 馬鹿馬鹿しい、と、蟷器は眉を寄せた。
 凡庸な君主と呼ばれていたAは、猫のふりをした虎だ。
 脆弱そうな外見の下に、強固な意志を隠し持ち、何かを成し遂げようとしている。
 そんな彼が、そんな理由で、今まで守り通して来た国を明け渡すような真似をするだろうか?
 ―――― 否。
 何か他に理由があるはずだ。
 Aが、采と緻胤の子に玉座を譲ろうとしている理由・・・・・・。
 もしくは、西桃の王族に、玉座を渡せない理由・・・・・・?
 「それは一体、なんだ?」
 自身に向けられた問いには、すぐにひとつの答えが返って来た。
 采が、玉座を得ようと立った時と同じ―――― 国の分裂を防ぐため。
 継承者にふさわしい王族がいないとはいえ、西桃王家の血を継いだ者がまったくいないわけではない。
 現在は有力貴族の当主である者や、凋落したとはいえ『公』の名を持つ者達はまだ多いことだろう。
 だが、彼ら一人一人に擁立者が付き、玉座を狙うようでは、西桃はあっという間に分裂してしまう。
 かつて蟷器が、諸侯を糾合し、采を中心に纏め上げたように、Aも、緻胤の子を自身の子だと宣言して、誰からも文句の出ない『王』を仕立て上げたいのだろうか。
 赤子であれば、当然摂政が付く事になるだろうし、その座は彼の母が埋めることになるだろう。
 ―――― しかし、それだけが理由だろうか?
 Aが緻胤の子を望んだ、理由の一つには行き当たったものの、それ以外の理由が思い浮かばなかった。
 なぜなら蟷器は、Aが前王の子ではないことを知らない。
 為に、Aがどれほど西桃王家の血を重んじているのかも、他国の王家に縋ってまで西桃王家の血を得ようとした理由もわからなかった。
 行き詰まった思考に吐息した時、期を見計らったように近習の一人が王からの使者の来訪を告げた。
 「直接理由を聞く方が手っ取り早いか」
 蟷器は、椅子から勢いをつけて立ちあがると、身支度も整えないまま、使者の待つ室へと出た。
 「このような姿で失礼」
 着流し、と言ってもいい姿で現れた蟷器に、使者は驚いたように目を見開いたが、すぐに恭しい表情を取り繕い、一礼する。
 「すぐにお着替えあそばしますよう、お願い申し上げます。
 小国の王が、閣下にお会いしたいそうでございます」
 「・・・・・・我らが太后を、再び奪われた言い訳でもなさるおつもりでしょうか?」
 その、あまりに辛らつな口調に、使者はむっと眉を寄せた。
 「そのようなおっしゃり様は、無礼ではございませんか?」
 「失礼。
 昨夜より、我らが太后のお姿が見えず、一晩中お探し申し上げたため、少々疲れているのですよ・・・―――― その前は、地震の害よりこの王宮をお守りするため、微力を尽くさせていただいたものを、まさかこのような形で報いて下さるとは思いもよらぬことでした」
 何のための謁見かは、既に知っているのだと言外に言う蟷器に、使者は黙り込む。
 「・・・・・・お待たせするのは心苦しいが、この姿では拝謁できかねる。
 後ほど、こちらからも使者を立てて正殿に参りますと、お伝えください」
 ―――― 考える時間をやる。考え直し、緻胤太后を我らに返せ。
 と言う、声にならない言葉に、使者は胸を抉られるような圧迫感を覚え、早々に立ち去って行った。
 「・・・・・・もしもの時の為に、逃げる用意を怠るな」
 室に戻った蟷器は、時間をかけて身支度を整えると、集まった近習達にそう言い置いて、Aの待つ正殿へ向かった。


 Aの寝所に現れた蟷器は、最早、作り物の笑みを浮かべることもせず、淡々と作法にのっとった礼を施して寝台に横たわる王と、その傍らに囚われた緻胤に接した。
 表情の消えた顔は石の彫像のようで、緻胤は居心地悪げに身じろぎする。
 「蟷器卿、状況が変わった」
 微かな声は、既に蟷器の耳に届くほどの力もなく、緻胤と共に側に控える荀によって拡声されるありさまだった。
 「緻胤殿は、我が子を身篭ってくださったかもしれない」
 ぴくりと、蟷器の眉が吊り上がる。
 無言のまま、次の言葉を待つ蟷器に、Aは荀の声を借りて語り掛けた。
 「子のない私にとって、これは最後の望みである。
 せめて、緻胤殿が身篭っているかいないか、はっきりするまで、西桃にお留まりいただきたい」
 ―――― 良くもそんなことが言えたものだ。
 冷たい笑みを唇に浮かべ、蟷器は苛烈な光を湛えた目を、病床のAへ据えた。
 「つまり陛下は、夫の喪に服す婦人を陵辱されたと、そういうわけですか」
 「そっ・・・そのような言い様は、無礼であろう!!」
 蟷器の言葉に、荀は甲高い声を裏返して絶叫し、緻胤は顔を強張らせて彼を見つめる。が、
 「どう言葉を飾っても、そう言うことでしょう」
 じろり、と睨まれた荀は、その眼光の鋭さに、怯えて黙り込んだ。
 「こちらでは緻胤太后陛下ご本人が、東蘭での御位を捨てると署名されたそうですが、東蘭では緻胤様の太后、太傅のご退位を認めてはおりません。第一、東蘭の国母である事実を消すことなどできるわけがない」
 そうでしょう、と、周りを見渡せば、その場にいた者達は一様に蟷器から視線を逸らす。
 「これは東蘭が、西桃によって蹂躙されたことと同義です。これが、大国のなさりようですか?」
 蟷器の声音にも口調にも熱はなく、表情も凪いだように静かだったが、淡々と放たれる言葉は容赦なくその場にいた者達の胸を抉るものだった。
 そのまましばらくの間、時が止まったかのように誰も動かず、言葉を発することすらなくいたが、
 「・・・・・・返す言葉もない」
 沈黙の水面に、微笑を浮かべた唇から漏れた、かすれた声が一石を投じ、気遣わしげなざわめきが波紋のように室内を満たした。
 再び、自身の声が通らなくなったAは、荀の袖を引き、その耳元に囁きかける。
 「えー・・・・・・。
 大国を預かるものとして、軽率であったことは認めよう。
 しかし、貴卿も東蘭を支える者なれば、わかって欲しい。我が国には後継者が必要なのだ。
 もし、緻胤殿に懐妊の兆候がなければ、すぐにでも東蘭へお帰り頂いて結構。しかし、万が一にでも身篭っておられたなら、緻胤殿は東蘭のみならず、西桃の国母ともなられるのだ。
 同腹の兄弟が大陸の東西に君臨する―――― これ以上の繋がりが得られようか?
 貴国と我が国は、緻胤殿を要に、共に栄えることになるだろう」
 ―――― ふざけろよ!!
 荀の声で語られるAの言葉に、蟷器は沸きあがる怒りを必死に抑えた。
 緻胤が妊娠しているのは間違いない。しかしそれは、東蘭の前王、采の子だ。同腹どころか、父親さえ同じ兄弟―――― 決して、Aの子などではない!
 凄絶な光を宿す翠の瞳は、まっすぐに病床のAを見据えたが、彼は、その青い目に穏やかな笑みを浮かべ、蟷器の怒りを受け流した。
 「蟷器卿、側に」
 荀の声に、蟷器は立ちあがった―――― 膝行(しっこう)するなど馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな態度に、周りに集う高官達が眉をひそめたが、気にも止めない。
 「もっと近くに・・・・・・」
 A自身の声で囁かれ、蟷器は慎ましく下がった荀の代わりに、寝台の傍らに歩み寄った。と、Aに袖を引かれ、その口元に耳を寄せる。
 「この国を、あなた達に差し上げようと言っているのです」
 「・・・・・・・・・」
 その言葉自体は、蟷器にとって予想外のものではなかった。
 「悪い話ではないでしょう?緻胤殿を通して、西桃の文化は東蘭へ渡る。東蘭は西桃と並ぶ文化国家になれるのです―――― 西桃の技術、あなたは欲しているはずだ」
 それは、間違いのない事実だ。
 蟷器は西桃の文化を学ばせるため、何年も前から多くの留学生をこの国に送っている。
 「・・・・・・交換条件、というわけですか?」
 「あなたは他の官吏と違い、商売のできる方だと聞いています。
 いかがです?あなたが王に据えた方の御子で、西桃の文化を購う―――― いい話ではありませんか?」
 「・・・・・・・・・」
 蟷器は沈黙した。
 しかし、それは妥協への思案がもたらした沈黙ではなく、怒りに声を失った沈黙だった。
 そんな彼の様子に、Aは苦笑を浮かべ、二人を遠巻きにする高官達はざわめいた。
 「言い方が悪かったようですね。ただ私は、東蘭王の第二子として生まれるよりは、西桃王の第一子の方が扱いもいいのでは、と思うのですよ」
 憮然と沈黙を守る蟷器に、Aはくすりと笑みを漏らす―――― こんな事態になってさえ、笑っていられるその神経が、蟷器には理解できない。
 「男児であれ女児であれ、亡き西桃王の第一子であれば、その子を中心に西桃は治まる」
 「赤子を中心にですか?そのお考えは、甘いと言うものでしょう」
 冷ややかな蟷器の声に、しかし、Aは微かに首を振った。
 「赤子とはいえ、私が後継者だと指名した子です。我が母は、自身の権力を守るためにも、必死で擁立するでしょう」
 それに、と、Aは今までとは趣の異なる笑み―――― 冷笑と呼ばれるそれを浮かべた。
 「この子は、生まれながらにして強力な同盟国を得ている―――― あなたに、采王の子を攻めることができますか?」
 「・・・・・・・・・っ」
 「緻胤殿とあなた―――― この二人が、赤子の本当の父親を知っている以上、西桃は東蘭の外寇にさらされることはない。そうでしょう?」
 打ち寄せる波のように絶え間なく、Aは蟷器に説いていく。
 もしそこに、蟷器を屈服させようと言う意志がわずかでも入っていたならば、蟷器は決してAの言葉に取り込まれることはなかっただろう。
 しかし、Aの声音にも口調にも、そのような意志は全く感じられず、敢えて感情的に話を持っていこうとしていた蟷器の頭を冷やした―――― ある意味、政治よりも冷酷な商売の話へと、議題は移行したのだ。
 「・・・・・・私は間もなく、この世から消える。
 この身が消えた後、私は人々の記憶からも、歴史の記録からも消え去るだろう。栄光ある名君達の狭間に、私のような者の影があることになど、誰も気づかない・・・・・・」
 「・・・・・・まだ、生まれたわけではない。名君になるかどうかなど、わかるはずもない」
 「御子は必ず生まれるし、名君にもなる・・・・・・きっと、あなた達がそうする」
 確信に満ちた目が、蟷器を捉えて離れない。
 「私が預かっていた玉座を、緻胤殿の御子に差し上げる・・・・・・どうか、彼女達を支えてやってください、蟷器卿」
 「・・・・・・っ陛下」
 蟷器の答えを待たず、Aは目を閉じた。
 その後、何度呼んでも彼は目を開くことなく、取り乱した母親の乱入によって、蟷器ら他人は退室を強いられることになった。
 Aと、その母親と共に寝所に残された緻胤は、目を閉じた彼を見つめている他になすすべもない。
 ただ、彼と蟷器の他には、緻胤にしか届かなかった言葉を思い出しては、それほどまでに自身の存在を消すことに固執したのかと、哀しくなるばかりだ。
 とても哀しい、愛(かな)しい王――――。
 その彼が、今、息を引き取ろうとしている。
 世界一の医術水準を誇る国の王でありながら、ろくな施術もなく放置されて・・・・・・。
 緻胤は、両親の死を目の当たりにはしなかった。
 夫の死も、衝撃ではあったが、眼前にしたわけではない。
 しかしAの死は、彼女が初めて見取った死であり、同時に、王と呼ばれた者の、最も哀しい死の形だった。
 ―――― それから数日後、息を引き取ったAの穏やかな顔は、緻胤の胸に深く刻まれた。


 ―――― 天災に見舞われた大陸において、東西の両大国は迅速に対処し得たものの、二国に挟まれた南薔国は、確たる指導者の不在もあって、いつまでも混乱を収めきれずにいた。
 「雨によって火は消えたものの―――― 未だ、瓦礫の中に埋もれた者も多うございます。軍を出し、一刻も早い救助を」
 進言した老婆に、沙羅は鼻を鳴らした。
 「王位を継ぐことを許されぬ者が、軍を出して良いのか?頭の硬い神官どものせいで、私は未だに――――」
 興奮を増すごとに音階を上げて行く沙羅の声が、不意に途切れた。
 訝しげに皺だらけの眉間を寄せる老婆に、沙羅は紅い目を細めて笑う。
 「そうだ、神殿にやらせればいい。
 あれらは元々、民を救うためにいるのだからね。
 山から下りてきて、害を受けた民を助けておやりと、そう申せ」
 「は・・・はぁ・・・・・・」
 老婆が曖昧な頷きを返す。
 「では、軍を集めずともよろしいのですね?」
 「いえ、軍は集めるのよ。この北三州だけでなく、東三州にも救援は必要でしょうからね」
 「ありがたい仰せ・・・・・・」
 沙羅の言葉に、恭しく相槌を打ちながらも、老婆は内心、首を傾げずにはいられない。
 それもそのはず、沙羅は、自身の誇りの為にのみ玉座を望む女であり、民のためになど指一本動かそうとはしない女だ。
 「それでは、早速召集をかけましょう」
 訝しく思いながらも、東州を治める老婆は一礼し、沙羅の前から下がった。
 その、曲がった背を見送った沙羅の唇が、酷薄な容に歪む。
 「・・・・・・聖太師だなんて、偉そうに。南薔王の玉座は、誰にも渡さない・・・・・・!」
 脳裏に浮かんだ顔に、沙羅は毒に満ちた言葉を吐きかけた。




〜 to be continued 〜


 










・・・ノリにノって書いてしまった今回。
日本語のことわざに、『大名の病は行き倒れ同然』と言うものがありまして。(小学生の時に『ことわざ辞典』買ってもらってから、はまっていた時期がある)
Aの状況は、このことわざが元になっているのですけど、こんな死に方したくないですねぇ(苦笑)
しかも、究極の猫かぶりですよ、この人。
蟷器すら、おおっぴらに攻撃できないどころか、負けを喫してしまった唯一の男。(杏嬬に根負けした前科があるので、人生二度目の敗北っすか)
さくさく終わりそうな西桃編。
早く行こうぜ南薔編。(アンタ・・・;)












Euphurosyne