◆  24  ◆







 世界北方にそびえる大山脈、飄山(ひょうざん)から吹き寄せる冬が、その裾野をあまねく覆う頃。
 大陸と外海に割拠する国々では、毎年そうであるように、年末年始の行事やその準備に追われ、賑やかに日を送っているはずだった。
 が、この年、大陸を支配する国々にとっては、あまりにも重大な事件が続いたためか、常ならば楽しげに賑わうはずの日々は、どこか切迫した・・・まるで、早く新しい年を迎えたいとの焦慮を映したかのように、慌しく過ぎていた。
 そんな折、南薔(なんしょう)から、何度目かの報告書を受け取った大陸東の大国、東蘭(とうらん)王国の中書令、枢蟷器(スウ・トウキ)は、幼い東蘭王、傑(ケツ)に申し出、主だった朝臣達を政事堂(せいじどう)と呼ばれる議場へ集めた。
 かつて、南薔王国の首都であった城市(まち)、佳葉(かよう)において、神官達の虐殺が行われた数日後のことである。
 蟷器は、居並ぶ朝臣達を見渡すと、受け取ったばかりの報告書を読み上げた。
 その内容は、既に受けていたいくつかの報告を、詳細に調べ上げ、確証とともに纏め上げたものである。
 信じがたい残虐な行為とその結果に、朝臣達は、あるいは息を呑み、あるいは眉をひそめて、しばらくの間は誰も口を開こうとはしなかった。
 その様に、読み終えた報告書を東蘭王に献じた蟷器は一同へ向き直る。
 「南薔王、沙羅(サラ)・・・いや、神殿が王と認めてはいないため、未だ王世子(おうせいし)と呼ぶべきか。
 彼女によって行われた佳葉奪還、神官虐殺の経緯は、今、報告があった通りである。
 現在、佳葉は、虐殺直後に都入りした飄山の聖太師(せいたいし)によって治められ、王世子は幽閉されているという」
 それは、未だ正確な報告のないことであったが、蟷器の情報収集力の高さは、周知のことである。
 深く頷いた朝臣達の顔を見渡し、蟷器は淡々とした口調で続けた。
 「東蘭としては、特に述べることもない。が、南海王国としては、これをどう処置すべきか。
 諸官の意見を聞きたい」
 今、東蘭の政事堂は、南海王国―――― かつて、南蛮と呼ばれていた諸島の国政をも支配している。
 南海諸島を統べていた前南海王が、世継のないまま死去したため、彼の王女、緻胤(ジーン)の息子、傑が、東蘭王とともに南海王の称号も継いだためである。
 翌年、ようやく七つになる少年は、既にその両足に、東蘭と南海、二国の玉座を踏んでいるのだ。
 かつて、未だ親政するには幼い彼の為、彼の母であり、東蘭の太后となった緻胤が太傳(たいふ)―――― いわゆる、摂政の位を得ていたのだが、彼女は件(くだん)の南薔王世子、沙羅の陰謀によって西の大国、西桃(せいとう)王国へと連れ去られ、今は西桃王妃として、西桃の国母となるまでの日々を過ごしている。
 彼女に代わり、幼王、傑の摂政役を務める蟷器は、玉座の陛下に立ったまま朝臣達を見回すと、中の一人が進み出たのを認めて、発言を促した。
 黒い髪を一本の乱れもなくまとめ、朝服を一分の隙もなく着こなした、いかにも文官風の男は、刑部尚書(けいぶしょうしょ)、裴(ハイ)である。
 彼は、このように陰惨な報告を聞いた直後でありながら、優しげな顔に笑みさえ浮かべて一礼した。
 「佳葉はかつて、南薔の首都ではありましたが、今は荒れ果て、民もほとんどおらぬと聞き及んでおります。
 南海も、前王が崩御された折、駐留していた兵の大半を引き上げたとか」
 ゆえに、沙羅も寡兵ながら城市を陥落できたのだということは、今更言うべきことでもない。
 「そのような土地を、今また領有する必要があるでしょうか?」
 裴の口調には、『荒廃した土地を手に入れたところで、何の得にもならない』という本音も多分に含まれており、彼の言葉には多くの者達が頷いた。
 「王世子のやり様は多くの問題があったようですが、南薔の巫女達にとって、佳葉はそうまでしても取り戻したい土地であったことは確かです。
 今、こちらが手を出すのは、興奮した虎から仔を取り上げるようなものでしょう。
 我が身を省みない輩を不用意に刺激しては、こちらの手を食いちぎられかねない」
 その言葉には、更に多くの者が頷く。
 「つまり、刑部尚書は、佳葉を再奪還する必要はない、という意見か」
 「えぇ。その通りです、中書令」
 蟷器の簡潔な言葉に、裴は深く頷いた。
 「繁葉(はんよう)のように、巨万の富を産む良港でもあれば、なんとしても確保すべきでしょう。
 ですが、あのように搾取され尽くした土地を領有しても、兵を駐留させる費用がかさむだけ損です」
 裴の言い様に、居並ぶ朝臣達の間から失笑が沸いた。
 「損の得のと・・・刑部尚書は、罪人を裁く仕事に飽きられたと見えますな。いっそ戸部省に移られて、算盤(そろばん)でも弾かれてはいかがか」
 そう、軽口を叩いたのは、国の戸籍や税収、国庫を預かる戸部省(こぶしょう)の長、戸部尚書、槁(コウ)である。
 彼は元々、南海を西へ東へと渡って商売をしていた貿易商人で、その手腕を見込まれて戸部尚書に抜擢された男であるため、高級官吏にありがちな、高慢なところがない。
 真っ黒に日焼けした顔は厳ついが、顔の容が変わるほど大仰に笑うと、妙に愛嬌があった。
 そんな彼に、裴はにっこりと笑みを返し、
 「ありがたいお申し出ですが、私はとても遊び好きですから、国庫の側にいては危険でしょう。我が身を滅ぼさぬためにも、暗い牢獄で罪人をいじめておりますよ」
 そう答えて、更に周囲に笑声を沸かせたのだった。
 結局朝議は、佳葉に手を出さぬことの他、沙羅からの使者を拒否し、以後は聖太師のみを交渉の相手にすることなどが決められ、散会となったのだった。


 政事堂を出て、蟷器は中書省に戻ったが、すぐに東蘭王、傑からの呼び出しがあり、席に腰を下ろす間もなく王の正殿へ入った。
 王の執務室では、広い部屋の奥に置かれた大きすぎる机の前に、小さな傑がちょこんと座り、蟷器を待ち構えていた。
 「お呼びと伺い、参上しました、陛下」
 幼い王に、恭しくこうべを垂れた蟷器は、招かれるままに傑の前に進み出る。
 「また、フクロウが来たんだ」
 少年独特の高い声で言い、傑は緑がかった青い封蝋を指し示した。
 その上に刻まれているのは、四つの柱を背景に、一輪のバラを咥えたフクロウの印章である。
 飄山の聖太師のみが用い得るその印章は、各国の王や高官から送られた封蝋を収集する傑の、大のお気に入りで、彼によって書簡から大事に剥がされ、今まで送られてきた数々の封蝋とは別の箱に、大切に並べられていた。
 「書簡はもう、ご覧になりましたか?」
 蟷器の問いに、傑は軽く頷く。
 「ははうえのことが書いてあったから、読んでもらった」
 ね、と、傑は傍らに控える女官を見上げた。
 飛びぬけて美しいわけではないが、暖かな雰囲気を持つ女官は、ゆったりと微笑んで頷く。
 「僭越とは存じましたが、陛下の命により、閣下より先に聖太師倪下の書簡を拝読することとなりました。お許しくださいませ」
 かつての東蘭王妃、緻胤に深く信頼されていた女官、婀摩(アーマ)は、遠慮がちに言って、深くこうべを垂れた。
 現在彼女は、特別に許されて、傑の世話をすべて取り仕切っている。
 本来ならば、秘書監がすべき正殿での仕事も、幼い王の為に彼女が引き受けているのだ。
 「いや、王命とあらば仕方ないことだ。
 陛下、内容はご理解されましたか?」
 政事堂で対する時に比べ、随分と和やかな表情と声音で問いかける蟷器に、傑は再び頷く。
 「・・・フクロウは、ははうえを王に欲しいそうだよ」
 幼い彼には、聖太師、という地位を完全には理解できてないのだろう。
 傑は、父親の葬儀の日に会った、美しい青年のことを、そう呼んでいた。
 机の下で、床に届かない足を揺らしているのだろうか、傑の肩がせわしなく揺れる。
 「今の王世子には、とても王位を継がせるわけには行かないから、ははうえに王になってもらいたいって。だから、邪魔しないでくれって」
 机の上に転がった青い封蝋を弄びつつ、言う傑に、蟷器は頷きを返した。
 「それは、以前より申し出のあったことですね。
 陛下も、その件に関しては、ご承諾されたはずですが?」
 蟷器の確認に、傑は頷いたまま顔を上げない。
 「陛下?」
 蟷器の訝しげな問いかけに、傑は不安げな顔を上げた。
 「大丈夫なの?」
 何が、とは、問うまでもない。
 傑にとっては、優しく、暖かかった母の命がかかっている。
 「あんな、虐殺があるような国の王になるなんて・・・ぼく・・・いや、私みたいに、信頼できる臣下なんていないのに・・・・・・」
 幼い彼にも、わかっているのだろう。
 一度壊れた信頼は、容易に回復できるものではないということが。
 王によって虐殺された神官達・・・虐げられた民・・・・・・。
 彼らが、沙羅の妹を温かく迎えることはあり得ない。
 「ですが、信頼できる方はいらっしゃいますよ」
 くすりと、思わず漏れた笑みに、傑の、封蝋を弄ぶ手が止まった。
 「フクロウは・・・ははうえを助けてくれる?」
 「えぇ、きっと。
 それに、陛下の御命さえいただければ、私も陰ながらお母上をお助けします」
 「いいの?!」
 身を乗り出した傑に、蟷器は再び笑みを漏らした。
 「もちろん。
 お母上をお助けすることで、東蘭は西桃だけでなく、南薔とも強力な絆を持つことになるでしょうからね」
 「そうだね!
 西桃は、ぼ・・・私の弟か妹が王になるんだし、ははうえが南薔の王になれば、大陸にある王国と南海王国はみんな家族になるね!」
 嬉しげな笑みを浮かべる傑に、蟷器は笑みを浮かべたまま頷きを返す。
 彼が考えていたことは、もちろん、傑のように単純なものではなかったが、方向としてはそれほど違いがあるわけではない。
 緻胤の影響力を利用し、限りなく無血に近い形で大陸を統一する――――。
 それが、蟷器の思い描く将来だった。
 そのほとんどが似通ってはいるものの、細かな言い回しや発音によって誤解を招く言語の標準化。
 国によって違う貨幣価値と度量衡の統一。
 そして、各国に列記される暦の統一。
 その全てを、できるだけ反発を招かぬよう行うには、三皇帝を束ねる母皇のような存在があることが一番望ましい。
 後世、数々の実績とそれ以上の創作により、その生涯を戦の中に置いていたと勘違いされる彼だが、真実の彼は、戦を軽蔑し、無血の交渉を重視していた。
 そのやり方を、甘い、と断じられた事も一再ではなかったが、戦を外交の最終手段だと認識する彼にとって、戦は外交の失敗と同義だったのである。
 戦を嫌う緻胤ならば、きっと、蟷器の構想に頷くはずだ。
 そのためにも、南薔における彼女の治世が、安定している必要があった。
 「お願いだよ、蟷器!必ず、ははうえを助けてあげて」
 「もちろんですよ」
 この幼い王に、将来、大陸の覇権を握らせるために。
 采に与えられなかった全てを、彼の息子に与えるために。
 蟷器は、自国だけでなく、他国の王さえも操る、国王製造者になろうとしていた。


 沙羅による神官の虐殺事件が起きて以来、佳葉に留まっていたカナタは、広いだけが取り柄の、荒れ果てた王宮内を巡り、ある一室の扉を開けた。
 途端、濃厚な百合の香りが溢れ出し、カナタはわずかに眉をひそめた。
 彼は、この香りが血の匂いや死臭を消すためのものだと知っている。
 ―――― これじゃあ、百合の匂いをかぐ度に、この光景を思い出しそうだな。
 そんなことを考えつつ、カナタは淡い灯火によって、足元だけを照らされた部屋に入った。
 そこは、完全に光を遮断され、夏でさえ冷気のこもる部屋―――― 貴族や富豪の屋敷などには必ずある、葬儀の日まで遺体を安置しておく部屋である。
 佳葉はかつて、南薔王国の首都であり、この宮殿は南薔王の居城であったため、その部屋も、貴族や富豪の屋敷にあるものなどより随分と広く設えてあったが、今回はさすがに遺体が多すぎた。
 血にまみれた身体はきれいに拭き清められていたものの、身体の各所に黒ずんだ傷を持つ多くの遺体が床の上を覆い、彩石で描かれた模様を隠してしまっている。
 そんな、完全な沈黙を守る神官達の間に、幾人かの生者達が祈りや嘆きを漏らしつつ、巡り、あるいはしゃがみこんでいたが、彼女達はカナタの姿を見止めると、一様に死者に倣って口を閉ざした。
 「英士(エイシ)、英利(エイリ)」
 カナタは、次々に跪く神官達に見守られながら、部屋の最奥で、最初から無言だった二人の兄弟に歩み寄っていった。
 「・・・・・・あの女、どうなった?」
 カナタの声に振り返った英士が、怒りや悲しみ・・・そんな、烈しい感情が突き抜けてしまった後の、妙に空虚な声で問う。
 「死んだ?」
 兄とよく似た声で、英利がカナタに向き直ったが、カナタは静かに首を振った。
 「だが、時間の問題だ」
 「こんなことをしでかしたって言うのに、処刑もしないのか・・・・・・?」
 氷の刺を含んだ英士の言葉には答えず、カナタはもう一歩、二人に歩み寄り、彼らが共に見つめていた母と兄の遺体を見下ろした。
 「あぁ・・・きれいにしてもらったんだね、英華殿。英毅も、血を拭いてもらって・・・・・・」
 カナタは、初めてこの二人の遺体を見た時の無残さを思い、声を詰まらせた。
 首を落とした者の刃が悪かったのか、腕が悪かったのか・・・。
 斬られたというよりは、何度も殴られて頚骨を砕かれ、首をちぎり落とされた英華と、ハリネズミのように全身に矢を受けていた英毅――――。
 人としての尊厳を完全に奪われ、単なる肉の塊として打ち捨てられた姿が、未だに脳裏から拭い去れない。
 惰弱と言われようが、臆病と罵られようが、カナタが戦いを好まないのは、これら、残虐な行いを、どうしても正当化することができなかったからだ。
 しかし、今回の沙羅の行いだけは、許すことができない。
 「・・・残虐な行いに対しては、必ずそれにふさわしい罰が執行される」
 傍らに活けられた花を取り、二人に一輪ずつ手向けて、カナタは改めて二人の兄弟に向き直った。
 「沙羅は、多くの神官達をなぶり殺しにした。これは確かに、処刑に値する罪だろう」
 この際、沙羅が王かそうでないかということは問題ではない。
 恣意的に多くの人間を虐殺したことが、人として許せない。
 「彼女は、英華殿が負わせた傷を治療しないまま、放置することにした」
 カナタの、冷ややかな言い様に、いつもとは違うものを感じて、兄弟は顔を見合わせた。
 「処刑なんかしない。そんな楽な死に方、赦してやらない」
 外聞も悪いしね、と、カナタは真面目な顔で言い足す。
 「沙羅は、あの事件で負った傷が元で死ぬ。
 緻胤殿を迎えられるようになっても死にそうにないなら、その時は手を加える。それでいいね?」
 淡々とした口調に、兄弟は黙って頷いた。
 「―――― 納得できたら、さっさとこの部屋を出てくれないか?
 後処理をする人間が足りないんでね。君達に、ぼうっとされてちゃ困るんだよ」
 「・・・・・・はい。申し訳ありません、倪下」
 立ち上がり、右手を胸に当てて、深々とこうべを垂れた英士に、英利も倣う。
 「うん。英士は、残った南州の兵をまとめて、決して暴走させないように監視してくれ。英利は、英士の援護。東州の兵は、私が一時預かる。
 今回の件で、争いや私刑が起こった場合、いかなる理由であれ、両者を厳罰に処すつもりだ。徹底するように」
 冷厳に言い放ち、踵を返したカナタの背を、兄弟は無言で見送った。
 だがその顔は、先ほどまでの虚脱感はなく、責任を負ったゆえの緊張に引き締まっていた。


 カナタが、佳葉の王宮で使うことにした執務室に戻ると、中で立ち働いていた幾人かの神官達が動きを止め、恭しくこうべを垂れて彼を迎えてくれた。
 そこは他のどの部屋よりも先に清掃され、古い長椅子などは、新しく清潔な布で覆って、居心地良く設えられている。
 広々とした部屋は中庭に面し、沙羅の寝所や死体の安置室とは比べ物にならないほど豊かな光が射し込んでいた。
 隣の、彼があまり必要とはしない寝室も、同じく清潔に整えられ、いつでも使えるようになっているようだ。
 もっとも、彼が望みさえすれば、こんな部屋の一つや二つではなく、広大な宮殿のいくつかが彼の為に用意されたことだろうが、探検する間もないほど忙しい時に、そんなものはわずらわしいだけだ。
 カナタは、初冬の冷涼な空気に満ちた部屋の中で、今までの鬱屈を吐き出すように深く吐息し、新しくはないものの、そう粗末にも見えない丈夫な執務机の前に座った。
 「詩羅(シーラ)」
 名を呼ぶと、白いものが混じり始めた黒髪を、きちんと結い上げた中年の女が進み出て、深々とこうべを垂れる。
 「筝(ソウ)殿の容態は?」
 「・・・南州候のことが、余程こたえたようで、未だに伏せております」
 そう言う詩羅の顔にも、疲労の色は濃く滲んでいたが、英華が死に、筝が倒れた今、自分がしっかりしていなければ、と、気を張っているようだった。
 「・・・先代から南州候に仕えていた筝殿には、気の毒なことだったけど、できるだけ早く復帰して欲しいね。彼女がいないと、事が進まないし」
 苦笑すると、詩羅もちらりと笑みを返す。
 「筝殿は、倪下のご信頼に背くような事はいたしません。ですが、どうかもう少し、お待ちくださいませ」
 そう言って、再びこうべを垂れた詩羅に、カナタは深く頷いた。
 優秀な人間が、一人でも多く欲しい。
 緻胤を迎えるまで―――― いや、迎えた後も、この国を支え、守れる人材が・・・・・・。
 砂漠をさすらう者が水を渇望するように、カナタは人を求めた。
 南薔を『我が国』と呼び、聖太師という位に伴う責任を、重く受け止めた日から、カナタはそれまでの好奇心などからではなく、積極的に国政に関わろうとしていた。
 そんな彼を、薔薇の精霊は裡(なか)から複雑な思いで見つめている。
 カナタは、常に彼女の意のまま、この国を、世界を、傍観者として冷淡に見ていた。
 その目は、既に凡百の人間のものではなく、精霊のそれとなっているはずだったのに、神官達を喪った悲しみに、あっさりと彼の感性は人間の元へ引き戻された。
 ―――― やり直しだわ
 麗華は、カナタに気づかれぬよう、そっと吐息した。
 ―――― カナタを完璧な水精にするには まだ時間が要る・・・・・・
 上手く行かなかった事への苛立ちが、実体のない膚を掻くように立ち上ったが、麗華は目を閉じて、その不快な思いを鎮めた。


 南薔の葬送には、いくつもの形式がある。
 その、最も古い形―――― かつて、南薔の民が飄山にのみ拠っていた頃の葬送は、死体を細かく砕いて鳥に与える、鳥葬だった。
 今でも、飄山の神殿で亡くなった神官の中には、鳥葬で送って欲しいと言い遺す者が少なくない。
 飄山の麓に下りてからは、土葬が主になったが、東州では、隣国、東蘭の風習に倣って水葬にする者も多かったし、南方に下れば、夏の死体は安置所にあっても新月まで保たず、火葬にする場合が多かった。
 だが今回、佳葉で殺された神官、兵士の数は三百以上。
 たとえ事前に遺言していたとしても、その希望をかなえてやることは難しい。
 カナタは、全員を火葬にするよう命じ、家族のいる者にはその遺骨を渡し、いない者は飄山の神殿に収めるよう指示した。
 「・・・せっかく、佳葉を取り戻したのに、最初にやることがお葬式だなんて、悲しいですね」
 言いながら、嘉蘭(カラン)は部屋にこもった薄闇を払うかのように、窓を覆う幕を開けた。
 冬の空は、雲ひとつなく澄み渡っていたが、夏の苛烈さを失って久しい陽光はやわらかく地上へ降り注いで、薄暗かった部屋を明るく照らした。
 「まぁ・・・いいお天気。
 でもこんな日は、雨でも降っていて欲しいものですね、筝様?」
 嘉蘭は、開け放った窓の外へ向けていた目を、寝台へと戻した。
 そこには、やせ細った老女が一人、力なく横たわっている。
 英華の無残な遺体を見てから数日、床に臥したままの筝は、嘉蘭の声が聞こえているのかどうか、無言で天井の一点を見つめていた。
 嘉蘭は、苦笑を浮かべた顔を再び窓の外へ向け、火葬の煙が立ち昇る様が見えないかと、視線をめぐらせてみたが、それを見つけることはできなかった。
 と、
 「・・・・・・嘉蘭殿、死臭がします。窓を閉めてください・・・・・・」
 弱々しい声を背に受けて、嘉蘭は筝の望み通り、窓を閉ざした。
 「・・・嘉蘭殿、神官達は皆、珂瑛に昇れたのでしょうか?」
 乾ききって、砂を擦り合わせる音に似た声に、嘉蘭は深く頷いた。
 「あの夜は新月でしたから、神官達は絶息すると同時に、闇精に迎えられたのでしょうね。
 私がこの王宮に来た時には既に、一つの魂魄もなく、ただ空虚な遺体だけが転がっていました。
 誰も、恨みや悲しみを遺す事すら出来なかったようです」
 「・・・・・・英華殿も?」
 その問いに、嘉蘭は即答しなかった。
 「・・・・・・さぁ?
 先程も申しましたように、私がこちらへ参りました時には、既に一つの魂魄も見当たりませんでしたから」
 ややして、嘉蘭は曖昧に答えたが、筝がじっと自分を見つめていることに気づいて、気まずげに視線をはずした。
 「嘉蘭殿、この王宮には、貴女がご覧にならなかった場所もたくさんあるのではありませんか?」
 「・・・えぇ。
 私、王世子殿下のご寝所までは、覗きませんでしたわ」
 近づきたくない、という感情を隠すことが出来ず、嘉蘭は憂鬱そうに認めた。
 「嘉蘭殿、貴女は、私達より余程多くのものを見る力を持ってらっしゃる。
 そんな貴女に、この王宮はどのように見えるのです?」
 筝の問いに、嘉蘭は辛そうに顔をうつむけた。
 そうすると、ただでさえ年の割には幼い顔立ちをした彼女が、道に迷った子供のように頼りなく見え、思わず手を差し伸べたくなる。
 「嘉蘭殿・・・」
 「・・・ここはもう、王宮などではありません」
 筝の言葉を遮るように、嘉蘭は首を振った。
 詩羅と同じ年でありながら、日に透ける明るい色の髪に埋もれ、白髪は目立たない。
 「ここは、奪い尽くされ、見捨てられた廃墟・・・怨恨すら霧散した瓦礫です」
 泣きそうにか細い声が、更に憐憫を掻き立てる。
 「筝様、死者は決して蘇ることはありません・・・それと同じで、この王都も、決して蘇りはしないのではありませんか?」
 「嘉蘭殿・・・・・・」
 「私は、恨みでも悲しみでもいい、なにかが残っていて欲しかった・・・!
 それが、惶帝陛下の御意に背くことであるとは知っています。ですが・・・・・・」
 ここにあったのは、あまりにも完璧な空虚だった。
 怒りも、憎しみも、悲しみも、佳葉の惨事を聞きつけてやってきた者達が持ち込んだもので、この場には何もなかったのだ。
 「私は、王世子の部屋に行くことが出来ません・・・!あの部屋にすら、誰もいないことを知れば、私はこの手で、あの女を縊り殺してしまうでしょう・・・!」
 あれほどの事をしておきながら、何の糾弾もないのは許せない・・・!
 そう言って、嘉蘭は握った拳を震わせた。
 「―――― でも嘉蘭殿、何も残ってないということは、却って、いいことなのかもしれませんよ?」
 言いながら、筝はよろよろと身を起こした。
 「新王が入城された時、王宮内が怨恨に満ちていれば、きっと恐ろしくお思いでしょう。
 亡くなった方々のためにも、これから南薔を支えていく方々のためにも、怨恨は出来るだけ早くなくしておくべきです」
 もっとも、事はそれほど単純に解決できるものではないが、と苦笑し、筝は両足を床へ下ろした。
 「筝様・・・」
 気遣わしげに歩み寄る嘉蘭を笑みで制し、筝は寝台を下りた。
 「いつまでも、臥せってはいられませんね。多くの神官方を亡くされて、倪下がお困りでしょうから」
 「・・・ええ。筝様なしでは、色々とお困りのようですわ」
 ご相談にのって差し上げてください、と、嘉蘭も笑みを漏らす。
 英華をはじめとする多くの神官達が亡くなった今、遺された者達は、南薔の為に精一杯生きる義務があった。


 冬にしては、暖かく、過ごしやすい日々が続いていたが、いかに空が清澄を誇っても、常に死体を焼く煙にいぶされ続けていると、さすがに気が滅入ってくるものらしい。
 佳葉の王宮で、死者を弔う仕事に携わった神官達は、いくら焼いても終わりの見えない死体の数に神経を病み、髪や衣服に死臭が染み付いてしまった、と、浴びるように香料を降りかけていた。
 それは、彼女達にとっては、だんだん磨り減っていく神経を、現実に繋ぎ止める役目を果たしていたのだろうが、カナタの神経は逆に、王宮中に溢れたきつい香気を嗅ぎ過ぎて、ささくれ立っていった。
 「・・・普通の人間だったら今ごろ、頭痛に苦しんでいると思うよ」
 苛立ちを鎮めるため、窓をいっぱいに開け放って、部屋を冬の冷気で満たしたカナタは、憮然と呟き、机上に積み上げられた書簡の封を、一つ一つ剥ぎ取っていく。
 その作業は、とても面倒ではあったが、書簡を封じる蝋に刻まれた印章が差出人を表している以上、彼自身で剥がないわけには行かない。
 「・・・西桃の代表者が、また変わったよ」
 二品の位を表す印章はそのままに、署名だけが見知らぬ名前に変わっている。
 「西桃の太后は、余程わがままな人のようだね。
 気に入らなかったらすぐ更迭、なんて、わざわざ国を混乱させて楽しいか?」
 ちなみに、頻繁に変わる代表者の名には、カナタもかなり混乱させられている。
 「私は一体、誰に返信すればいいんだろうね!」
 机に叩きつけてやると、西桃製の質の良い紙は、ぱし、と、小気味良い音を立てた。
 「いっそ、『西桃王宮御中 政事堂内 宰相殿』、とでもお送りしますか?」
 半分以上本気の表情で、暫時、カナタの秘書監を受け持った詩羅が笑う。
 「宰相は通常、三人いらっしゃるのですから、全員が更迭されていない限りは、どなたかのお手元に届くことでしょう」
 「・・・そっか。西桃でも東蘭でも、中書令・門下侍中・尚書僕射が政事堂をまとめているんだったね」
 言って、カナタは吐息する。
 「南薔も、早く人材を集めないとなぁ・・・」
 「本当に・・・」
 頷き、閑散とした周りを見回す詩羅の吐息も深い。
 南薔は、王家唯一の男王、経(ケイ)の時代に一度、滅んだとさえ言われる。
 国土は近隣三国に分割され、北三州の内、峭州(しょうしゅう)一州のみが南薔領として残された。
 それは峭州が、大陸北方に広がる飄山(ひょうざん)南岳の麓にあり、南薔王家が神官として守ってきた神殿を守る場所だとされてきたからだ。
 ゆえにここを、南薔の仮の首都として、峭都(しょうと)と呼ぶこともある。
 経王が亡くなり、彼の娘であった精纜(セイラン)が南州候と東州候の軍を率いて峭都に入り、南薔王を名乗ってからは、様々な思惑が大陸を巡り、いくつかの州が南薔国の名を取り戻したが、その後、幾度か南蛮の侵攻にさらされ、民の数は極限まで減っていた。
 それほどに衰微した小国が、大国と同じ官制を敷こうにも限界がある。
 現在の南薔は、南薔王がかつての北州軍を直属の軍とし、南州軍は南州候が、東州軍は東州候がそれぞれまとめていた。
 国政も同じようなもので、精纜が亡くなる何年か前からは、沙羅の側に東州候がつき、筝を信頼するカナタの元に南州候がつくようになっていたが、大まかに言えば王を頂点に、二人の州候が宰相を勤め、それぞれの腹心を国官として送り込んでいる状態だった。
 「まず人だ。
 信頼できる・・・いや、この際、誠実でなくたっていい。有能な官吏が多く欲しいな」
 彼のような、と、苦笑しつつ、カナタは東蘭の高官から届いた書簡の封蝋をはがした。
 意匠化された蘭花を中心に、三匹の蛇が互いの尾を噛み合う印章。
 東蘭国三品の高官、枢蟷器からの書簡はいつも簡潔で、カナタの中の麗華が、翻訳に努力を要するまでもなく、理解しやすく書かれている。
 今回も、東蘭における緻胤の処遇について決定した様々なことを報告してくれていた。
 「傑・・・と言ったっけ、東蘭の小さな王様は?かわいそうに、お母さんに会いたいだろうね」
 言いつつ、カナタは何気なく触れた紙の端が、妙に厚いのに気づいた。
 なんとなく気になって、擦ってみると、その部分だけぺろりと二枚に分かれる。
 ―――― 近々、お目にかかりたい。
 消えそうに薄い墨で書かれた一言に、カナタは微かに笑った。
 ・・・その日、詩羅が代筆した蟷器への返信を確認したカナタは、自身の署名を入れる際、その脇に小さくいたずら書きを添えた。
 白抜きの円で囲んだ十二の文字。
 『十二月の満月の日に待っている』という意味は通じるだろうか。
 蟷器が、あの澄ました顔にどんな表情を浮かべるのかと想像して、カナタはくすりと笑みを漏らした。


 十二月。満月の昇る日。
 蟷器は、槁に手配してもらった商船から、繁葉(はんよう)の港に降り立った。
 ここはかつて、世界中の富が集まる南薔国第一の港であり、現在、その富は全て南蛮―――― 現在は、東蘭王国と合同統治される南海王国のものとなっている。
 だが、その土地で働く民にとっては、彼ら自身の作り出す活気こそが真実であり、彼らから税を徴収する国が南薔から南蛮へ、更には東蘭へ変わろうと、その生活に大した違いはないようだ。
 繁葉に満ち溢れる商人や船乗りと変わらぬ、質素な服装をした蟷器は、賑やかな通りを横に逸れ、昼でも薄暗い路地を一人で進んで行った。
 道は、進むに連れて幾筋にも分かれ、振り向けば来た道もわからなくなるほど入り組んでいる。
 事前に地図を頭に叩き込んでいたため、迷わない自信はあったが、妙に心を騒がせる道のりだ。
 為に、目的の場所を見つけた時には、彼らしくもなく安堵の吐息を漏らしていた。
 古く、小さな民家が密集した場所。
 空は、ひしめき合う屋根によって細く、小さく切り取られ、まだ昼だというのに影ばかりが濃い。
 風の強い日に火を放てば、ひとたまりもないだろうに、どうやら先の地震の被害を耐え抜いたらしい。
 信じがたい思いで、蟷器は扉を開け放した民家の、目隠しに下げられた麻の幕をめくって中に入った。
 「いらっしゃい」
 途端、若い男の声に迎えられ、蟷器は入口で足を止めた。
 狭い屋内は、まだ昼だと言うのに、薄暗い外よりはるかに明るく、暖かい。
 どこにそんな光源があるのか、ちらりと見回しただけでは判然としなかったが、蟷器には不思議と、狭い部屋の中央に立つ長身の、赤毛の男が、光を放っているように思えてならなかった。
 「あんたが林彼(リンカ)の客か。思っていたよりいい男じゃないか」
 金色の目を細め、にやりと笑う様には、妙に愛嬌がある。
 「林彼はもうすぐ来る。
 その辺にでも座って、ちょっと待っていてくれ」
 南薔の―――― いや、飄山の聖太師を呼び捨てにする彼には驚いたが、久しぶりに気の置けない扱いを受けて、蟷器は笑みを漏らした。
 「そうさせてもらおう。俺は――――」
 自己紹介しようとしたが、相手に制される。
 「俺は南薔の人間じゃない。同じく、南海や東蘭の人間でもない。
 あんたの名前なんか知らないし、あんた達の話を聞くつもりもない。当然、関わりを持つつもりもない。以上!」
 断言されて、蟷器は思わず笑みを漏らした。
 「了解した。この家の中では、俺は自分の名と身分を捨てよう。林彼殿も、そうしているようだからな」
 「あぁ、倣ってくれ」
 そう言って、赤毛の男は鮮やかに笑い、軽やかに踵を返した。
 「あんたは武人か?」
 その身のこなしに、つい口を出してしまった蟷器は、苦笑して首を振る。
 「―――― あぁ、すまない。余計なことを聞いてしまった」
 「そのくらいは別にいいさ。
 まぁ、俺は武人兼漁師兼料理人ってことかな?」
 てらいなく答えた男に、蟷器は首をかしげる。
 「どれが本職だ?」
 その問いには、『どれもだな』と、笑声が帰ってきた。
 「戦や争いがおこれば武人だ。だが、普段は魚や貝をとり、それを料理して生活している。あんたも、どっかのお偉いさんなんだろ?
 高官の中には、軍出身の文官だっているだろうが。それと同じさ」
 まるで自分のことを言われているようだと、蟷器は苦笑を深める。
 「それもそうだ。
 では、もし今が営業中なら、料理人のあんたに得意料理を頼んでいいか?」
 「おぅ。繁葉の海鮮料理を堪能して行ってくれ」
 そう言って、男が再び踵を返した時、
 「じゃー、俺には海鮮麺ねー。
 そろそろ牡蠣(かき)が獲れてるんじゃないかって、わざわざ山を降りてきたんだからさ、うまいもの食わせてくれよ」
 麻の垂れ幕と共に外の薄闇をも払ったかのように、カナタが陽気に入ってきた。
 「げ。牡蠣」
 途端、顔を引きつらせた男に、カナタは大きく頷く。
 「麺は柔め、野菜たっぷり。牡蠣を煮すぎて硬くしちゃったらやり直し。そこんとこよろしく、料理人」
 言いたい放題言って、男を奥の厨房らしき場所に追いやってしまうと、カナタは蟷器を振り返った。
 「久しぶり。元気だった?」
 いきなり、親しい友人のように話し掛けられ、蟷器は苦笑する。
 「元気とは言いがたいな。なにしろ、忙しすぎた」
 言いつつ、勧められた質素な椅子に腰掛けると、対面に座ったカナタも深く吐息した。
 「俺も、今回ばかりは大変だったよ。なにしろ被害者が多すぎてさ」
 このままでは、緻胤を迎えることも危うい、と、真面目な口調でぼやく。
 「あの女の狂気を、甘く見ていた。あそこまでやるとは想像もしなかったんだ。南薔の人的損害を大きくしてしまったのは、俺のせいだな」
 暗く沈んだ海の色の瞳を覗き込んだ蟷器が、苦笑を浮かべた。
 「なに?」
 怪訝そうに聞き返したカナタに、蟷器は猫のような翠の瞳を細める。
 「俺さ、ちょっと前まであんたのこと、そりゃあ嫌いだったんだが、今のあんたはそうでもないな」
 「・・・・・・嫌われていたのか、俺?」
 「もちろん」
 カナタが目を丸くする様が面白くて、蟷器は笑みを深めた。
 「あんたにはわからないかな?人は、自分の欲するものを、努力なしに手に入れた人間を憎むものさ」
 蟷器の言葉に、カナタは深く頷く。
 人の上に立ちたいと言う野望は、誰しもが持っているものだ。
 カナタは、望んで今の地位を手にしたわけではないが、事情を知らない者が見れば、カナタの現状は嫉妬の的になっても不思議ではない。
 今までそうならずにいたのは、彼を囲む者達がすべて巫女であり、カナタの正体に、なんとなく気づいていたからなのだ。
 「まぁ、飄山の外では、そう思われるのも無理ないね」
 ようやく納得できた、と、何度も頷く彼に、蟷器はまた笑声を上げる。
 「言っておくが、俺があんたを嫌いだった理由はそれだけじゃないぜ。
 国官なんざ、ほとんどが貴族だ。世襲制を頭から否定すれば、国が立ち行かなくなる。
 本当の問題は、そうやって得た地位に、そいつが責任を持つかどうかだ」
 「あ・・・・・・」
 単刀直入に切り込まれた言葉に、カナタは目を伏せた。
 「・・・うん。それは、すごく反省したよ。
 俺は、神官達にかしずかれて、大切に扱ってもらっていたのに、彼女達に対しても国に対しても、なんの責任も持とうとしなかった。
 個人的な好悪を国政に持ち込んで、神殿の権威を盾に横槍を入れて、結局、国を荒らしてしまった・・・」
 その言葉に、カナタの裡で、薔薇の精霊が憤然と声を荒げる。
 ―――― あなたは悪くない  あなたは精霊王の眷属なのだもの!
 ―――― 神官達があなたに仕えるのは当然のこと  人間に対して 罪や責任を負う必要はないわ!
 だが、精霊の声に、カナタは静かに首を振った。
 「俺はまだ、人間の心を失っていない。ただ、長い間山にこもっていて、自分が人間だったことを忘れていただけなんだ」
 まるで、人間以外のものになったような口調に、蟷器は怪訝そうに眉を寄せる。
 が、カナタはそれには答えず、伏せた目を改めて蟷器に据えた。
 「東蘭の宰相である君に、こんなことを頼むのは筋違いだとわかっている。だけど、私は王が不在の国を、なんとか支えなければいけないんだ。
 どうか、協力して欲しい」
 カナタは自分のことを『俺』ではなく『私』と言い換えた。
 この会談・・・いや、密談と呼ぶべきものが、本筋に入った証拠である。
 深くこうべを垂れたカナタに、しかし、蟷器は恐縮したりはしなかった。
 ただ、にやりと口の端を曲げ、頷く。
 「わかった。できる限りのことはすると、約束しよう。その代わり、俺も協力して欲しいことがある」
 「交換条件だね?」
 どんな無理難題かと、やや表情を強張らせたカナタに、蟷器は鮮やかに笑って見せた。
 「あんた、嬢ちゃんの夫になるつもりはないか?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・―――― は?」
 カナタの返事は、料理人が注文の品のほか、何品かの皿を卓上に並べ、再び厨房へ去るほどの時間を置いてから、ようやく発せられた。
 「やたら時間をかけた割には、間の抜けた返事だな」
 瞬きも忘れて、呆然と蟷器を見つめるカナタに、彼は平然とうそぶいた。
 「あ、ごめん・・・・・・・・・いや、そうじゃなくてさ!!」
 思わず拳を叩きつけた卓上で、料理を載せた食器達が跳ねる。
 「いきなりなに言ってるんだよ!そんなこと、考えたことないよ、俺!!」
 猛反駁するカナタに、蟷器は、
 「そうなんだよなぁ・・・。俺も学生の時は、生涯独身を貫くつもりだったんだ。
 それが、たまたま遊びに行った岫州(じゅしゅう)で、州候の姫に跪かれてよ・・・・・・」
 と、額をおさえ、わざとらしく吐息する。
 「一応、嫌だとは言ったんだが、あれの母親ってーのが、元は南薔の州候の一族で、非常に強引な人でさ。
 岫州候は女房に頭があがらねぇのか、彼女の言うままに杏嬬(アンジュ)の婚約を解消させるわ、前途ある学生を軟禁しようとするわ・・・・・・!
 結局、州候をその一族ごと敵に回すわけには行かなくて、結婚させられちまったんだ」
 「・・・・・・君の不幸話と俺の結婚に、何の関連があるんだよ」
 カナタの剣呑な口調に、蟷器はにっこりと微笑む。
 「つまり、結婚なんてもんは、必ずしも自分の意志によるもんじゃないってことさ。
 俺みたいに、名前も知らない相手からいきなり『はした女でもいい。お側に置いてください』なんて跪かれた挙句、その両親に追い詰められるよりはいいだろ。相手の名前も顔も知っているし、互いに好感も持っているようだしな」
 人生最初の敗北経験を語る蟷器の笑みは、段々自嘲の色を帯びていったが、カナタに同情する余裕はない。
 「確かに、緻胤殿のことは嫌いじゃないさ!でも、こっちにだって都合が・・・・・・!」
 「嬢ちゃんには次の南薔王を産んでもらわなければならないが、彼女は南薔で生まれ育ったわけじゃない。頭では、南薔王が結婚しないことを知っているだろうが、相手は誰でもいい、なんて割り切るのは無理だろう。
 東蘭や西桃のように、女王の夫を大公として立てることはできなくても、彼女を支える夫は必要だ。
 とはいえ、彼女も三人目の夫だからな。お前に愛人がいても気にしないよう、言い含めておく」
 勝手な解釈をして頷く蟷器に、カナタは絶叫した。
 「そうじゃなくてね!!」
 カナタの真性や、その裡に住む麗華の存在を知らない人間に、事情をわかってもらうことは難しい。
 なんと言えばいいのか迷った挙句、カナタは厨房の陰に隠れて笑いを噛み殺しているらしい料理人に縋った。
 「サラーム!俺って、人間と結婚するのは許されてないよね?!」
 しかし、料理人は首だけ厨房から覗かせると、愉快そうに笑った。
 「確かに、俺ら瑰瓊(かいけい)の眷属は、相手が俺らの熱に絶えられないって理由で、はっきりと禁じられているけどな、珂瑛(かえい)の眷属にはそんな禁忌はないし、瑯環(ろうかん)はむしろ推奨されているぜ」
 「ウソッ?!」
 目の前で命綱を断ち切られた登攀者(とうはんしゃ)のように、カナタの顔は血の気を失っている。
 「そうでもなきゃ、いくら能力を封じられたからといって、シルフが好き放題やれるわけねぇだろ?
 ちなみに、南薔王家に白い人間がよく生まれるようになったのは、闇精の血が入ってからだな」
 「えぇっ?!」
 「・・・すまんが、何の話をしているのか、聞いてもいいか?」
 現実的な話をしていたはずが、いきなり神話世界の話に摩り替わってしまったことに、蟷器は戸惑わずにはいられない。
 「・・・・・・飄山には、山より大きな事情と、海より深い秘密があるんだ」
 カナタの、搾り出すような声に、再びサラームが笑声を上げる。
 「そうそう。飄山の林彼師には、嫉妬深いが美人で聡明な想い姫がいてな、常に監視されているから、第二夫人の入る隙はないなぁ」
 その評価に、カナタの中の麗華は憮然と黙り込んだ。
 他の者に言われたならば、彼女も烈しく抗議の声を上げただろうが、精霊王に逆らうことはできない。
 その気配を察し、そっと苦笑したカナタには気づかず、蟷器は厨房を見遣った。
 「第二夫人だって?」
 蟷器が怪訝そうに眉をひそめる。
 「南薔の女達は、『夫』なんか持たないのだろう?」
 他国と違い、南薔では女が家を継ぐ。
 他国・・・特に、南蛮に侵略された土地では、一夫一婦制、または一夫多妻制を押し付けられ、家の中に押し込められているが、本来、彼女達は決まった夫を持たない。
 子供達の父親がそれぞれ違う男であることなど、珍しくないのだ。
 「なのに、その想い姫とやらは、そんなことにこだわっているのか?」
 「そりゃあ、あいつは南薔の女じゃないからな」
 サラームが楽しげに金色の目を細めると、蟷器はやや顔を強張らせてカナタに視線を戻した。
 「既に結婚していたのか?」
 情報収集力には自信のある蟷器だ。
 調べ損ねたことに対し、慙愧の念にたえないようだった。
 「いやー・・・なんと言えばいいのか・・・・・・」
 「別れられるか?」
 曖昧に笑ったカナタへ放った、蟷器の言葉はあまりに簡潔で、カナタの中に棲む精霊から理性を奪い去るには十分な効果を持っていた。
 カナタの中で、烈しい罵詈雑言が泉のように溢れ出し、耳を塞ぐことも赦さずに頭蓋を満たす。
 思わず眉を寄せ、額をおさえたカナタの表情を、苦悩のそれだと勘違いした蟷器は吐息を漏らした。
 「非情なことを言っている自覚はある。
 だが、できるだけ血を流さないようにするためには、神殿の長であるあんたに、彼女の夫となってもらうしかない」
 蟷器は、真摯にカナタを見つめる。
 「あの佳葉の事件を処理したことで、現在の南薔の支配者であることを示したあんたが、彼女を王と認め、擁護するという証拠を見せてくれたなら、南薔は余計な混乱を避けられるだろう」
 「・・・もちろん、援助は惜しまないつもりだ。なにしろ緻胤殿は、私が東蘭に赴いてまで女王にお迎えしたいと望んでいたんだからね。
 そのことは、私の神官達もよく知っている。それ以上の証拠がいるのかい?」
 聞きようによっては、カナタの言葉は、『神官を疑うのか』という、脅しにも取れたし、事実、カナタはその効果を狙っていた。
 が、蟷器はきっぱりと頷いた。
 「悪いが、それだけでは足りない。神殿が確実に彼女を受け容れたと知らしめるためにも、次の南薔王はあんたと嬢ちゃんの娘である必要がある」
 「・・・だから、そこまで飛躍するなっつーに」
 頭蓋の中で、相変わらずがんがんと鳴り響く罵詈雑言に額をおさえれば、蟷器には彼が、難事を前に悩んでいるように見えたのだろう。
 蟷器は、その目を厳しくした。
 「・・・あんたは、何度か彼女に会っているから、彼女がどんな女かはなんとなくわかっているだろう。
 だが、その人となりを知らない民は、南蛮で生まれ育ち、南薔のことを何も知らない彼女に、沙羅の前例を苦々しく思い出すのじゃないか?
 第二の沙羅を作らないため、南薔史上初の弑逆が起こらないとも限らない。
 そうなれば、南薔は更に乱れるぞ。
 州候達は覇権を争い、東蘭や西桃は彼女の血統を盾に、南薔の玉座を求める・・・・・・」
 まるで、未来の惨状を見つめるかのように、蟷器はこの場ではない、どこか遠くを見遣る目をする。
 「東蘭の国官である俺が、こんなことを言う権利はない。あんたはこれを、国政干渉だと突っぱねることもできるさ。だが、多量の流血を防ぐにはどうすればいいか、よく考えて欲しい」
 多量の流血を防ぐ――――・・・
 蟷器の言葉に、カナタは考え込んだ。
 流血を恐れる、と言えば、すぐに戦を始めたがる、頭のたぎった連中はこぞって非難することだろう。
 甘い。怯惰。腰抜け。
 そんな言葉や嘲笑が、波のように寄せてくる。
 だが、戦がなにを生む?
 資金や人命を、本来の単位とは違う重さで計って、それに見合うだけのものを奪えると思っているのか。
 全ての物事を武力で解決しようとする輩は、外交の迂遠さを嫌い、血を流さないために奔走する文官達を嘲弄するが、戦を起こすよりも、戦を起こさせない事の方が遥かに努力を要することに気づいているだろうか。
 「民に血を流させないために、私の血がいるわけか・・・・・・」
 カナタが呟いた時、彼の裡を満たしていた喚声は止んでいた。
 まるで、凍った湖のような沈黙・・・。
 だが、氷の下では、冷たい水流が渦巻いていることをカナタは知っている。
 「だが、南薔のしきたりとして、王は夫を持たないことになっている。子供の父親が誰か、公表することも禁じられているはずだけど?」
 それは、外戚による害毒を排除するためだとも言われる。
 他国のように、王の伴侶となった者の一族が、その血筋を伝手に権勢をほしいままにすることがないよう、先手を打っているのだと。
 「そう、だから、それとなく情報を流してもらうだけでいい。
 折々に、『信頼している』『尊敬している』なんかの言葉を並べて、仲睦まじい様子でも見せてくれたなら、民は女王が産んだ子供の父親が誰か、予想するだろう」
 「それは、本当の父親が私ではなくても、ということかい?」
 「・・・そうだな。あんたがどうしても無理だと言うなら、そう演技してくれるだけでもいい」
 蟷器が残念そうに吐息する様子を、厨房の陰から見ていたサラームが、面白そうに目を細める。
 ―――― これでカナタは、承諾するしかなくなったな。
 風精王などが得意とした策略を思い出し、彼はわずかに口の端を歪めた。
 蟷器は、自身の意図する通りにカナタを動かすため、まずはすぐに受け容れられないだろう『夫』という条件を提示して見せ、段々と譲歩して行ったのだ。
 カナタは今、『夫になるのは無理かもしれないが、その振りをするのは大したことではない』と思い始めている―――― この時、カナタが振り返ってさえいれば、サラームの苦笑に気づいただろう。
 だが、カナタは自身の思考に捕らわれ、周りを見回すどころではなかった。
 やがて、
 「・・・・・・わかった」
 低い声が、カナタの口から漏れる。
 「緻胤殿には、最大限の協力を惜しまないという言葉に嘘はない。南薔のためにも、彼女の夫役を演じよう」
 ただし、と、カナタは苦笑を浮かべた。
 「俺が振られたら、その時は許してくれ。嫌だと言うご婦人に無理やり言い寄るなんて、野暮な真似はしたくないからね」
 「承知した」
 カナタの軽口に、蟷器も表情を緩めて頷く。
 「あんたが、嬢ちゃんに振られないことを祈っているぜ」
 そう言って、蟷器は軽く片目をつぶった。
 「・・・けど、君はなんで、そんなに南薔の行く末を案じてくれるんだ?まさか、緻胤殿に惚れてる?」
 「・・・・・・いきなり力の抜けることを言わないでくれ」
 カナタの言葉に、蟷器は思いっきり苦笑する。
 「俺は嬢ちゃんのことは好きだし、守ってやりたいとも思っているが、それは友人や妹に対するものと変わらないよ」
 が、硬い背もたれに背を預けた蟷器は、ふと、表情を消した。
 「・・・いや、もし、彼女が采の妻でなかったら、俺は遠慮なく南薔を奪っただろうな」
 途端、ぞくりとするほど冷たい声が漏れる。
 が、カナタは気にとめることなく、にこりと笑った。
 「東蘭の前王は、余程魅力的な人物だったんだね。この枢蟷器に、そこまで言わしめるとは」
 「いや、采も、魅力的だったということさ」
 采は、国を分割されなかったと言うだけで、現在の南薔と変わらぬほど荒れていた東蘭を建て直し、率いた、力強い王だった。
 その彼を、緻胤は十六歳で嫁いで以来、ずっと支えてきたのだ。
 「考えてもみろよ。いくら王族の役目とはいえ、まだ十六歳だった小娘が、戦続きだった国で、見事に夫と国を支えたんだぜ?
 あんな女傑っぷりを何年も見せられたら、逆らう気力も失せるってもんだろ?」
 冗談口調に紛らわせてはいたが、それは、蟷器の本心だった。
 緻胤は蟷器の期待以上に優れた王妃であり、国柱だったのだ。
 「ごめんね。君達の、大事な太后をもらっちゃって」
 蟷器の気持ちを察し、カナタが、くすりと笑みを漏らす。
 「まったくだ。
 南薔王になった後、王宮で蔑ろにされているなんて噂でも聞こうものなら、すぐに取り返しに来るからな。丁重に扱ってくれよ」
 「それは確約するよ」
 大げさに肩をすくめて見せる蟷器に笑みを返しつつ、カナタは頷いた。
 ふと、外からではない、身の裡からの囁きを聞いて、もう一度頷く。
 「――――・・・彼女を大事に扱うことで南薔が、東蘭と、いずれは西桃をも手中にすることができるかもしれないしね」
 なんたって、緻胤殿は二人の王の母親なんだから、と、笑うと、蟷器は笑みの容に目を細めた。
 「東蘭と南海は、渡さないぜ?」
 「もちろん、君はどんなことをしても、そんな事態を阻むだろうね。だけど、君だって同じ事を考えているんじゃないか?」
 突然、勘の鋭くなったカナタを訝しく思いつつも、蟷器はその感情を表には出さない。
 「この大陸を、一つの国にすることは現実的に言って難しいよね?
 だけど、貨幣価値と度量衡の統一くらいは、緻胤殿の影響力で、何とかなるんじゃないか?」
 「それはいい考えだな」
 表面上、平然と言いながら、蟷器は内心、驚いていた。
 自分と同じことを考えている人間が、もう一人いたことに。
 しかも、その人間は南薔だけでなく、世界中に影響力を持つ神殿の長なのだ。
 「けどそれは、嬢ちゃんの影響力がなくても、あんたの力で何とかなりそうだとは思わないのかい?」
 「そうだね。言語や暦の統一くらいだったら、私が協力してもいいよ。
 だけど、神職の最高位にある者が、下界の経済に関わると、碌なことがないと思うんだ。今でも神殿は、金儲けに執心しすぎているからね」
 カナタの意見は、まさに、蟷器が牽制しようと思っていたことと同一だった。
 「倪下におかれましては、神殿の蓄財を快く思ってらっしゃらないと?」
 からかうように、殊更慇懃な口調で問えば、もちろん、と、カナタが頷く。
 「南薔は、女王が最高位の巫女を兼ねる、政教一致の国なんでね。巫女が州候や領主を勤めるのは仕方がないし、彼女達が領地を治めるため、税を取るのも仕方ないだろうさ。
 だが、民の無知をいいことに、ありもしない神話や祟りを捏造して、金儲けに利用するのはいただけないね」
 南薔だけでなく、世界中の神殿は大きく四派に分けられる。
 母皇の神殿と、湟(水)、煌(太陽)、惶(月)の三皇帝を祀る神殿である。
 そこには皇帝に仕える精霊王たちも共に祀られているのだが、煌帝の神殿に無礼があれば戦場で火精王の剣に掛かるだの、惶帝の神殿に奉納を怠れば地獄に落ちるだの、神殿に寄進させるための嘘があまりにも多い。
 「神殿を維持するだけの領地は既にあるんだ。この上、蓄財する必要を感じないし、それを非合法に増やすのは更にいただけない」
 神官の中には、領地から得た税や、寄進された財貨を使って、高利貸しを行う者もいる。
 いかに、この世界の神職が俗世になじんでいるからといって、神殿の威を借りて金銭を取り立てるやり方はカナタの気に入るものではなかった。
 「倪下おん自ら、神職の綱紀粛正に乗り出すと言うわけですか?」
 神官が高利貸しを行ったり、妓楼を営んで人を売り買いしたりする様を、忌々しく思うのは蟷器も同じだったが、そこは唯一、彼の手が出せない場所だった。
 それを、この青年には粛清することが可能なのかと、蟷器の口調には嘲弄の影が濃い。
 しかし、カナタは一見、平然と笑って見せた。
 「そうだよ。だから、私としては早く緻胤殿に女王になって頂いて、政からは自由になりたいのさ」
 「そして、本格的に神殿の体質を改善しようというのか。どうやって?」
 興味を引かれながらも、努めて冷静な口調で問えば、自分でも驚くほど冷ややかな口調になってしまった。
 だがそれすらも、カナタは気に止めずに笑う。
 「私は、商人のことに関しては疎いのだけど、彼らには国を越えて協力し合う組合というものがあって、組合員ならばどの国へ行っても安全に商売ができるように、様々な便宜を図っているんだろう?
 それを円滑に行う為に、組合内には厳しい規定もあると聞いているよ。
 そういうのを、神職にも作ろうかと思っているんだ」
 カナタが構想するのは、いわゆる倫理規定のようなものだ。
 聖職者であることの意識を十分に持って、聖太師が禁じる行いに手を染めた者は神官の資格を奪うという。
 「簡単に言うけどな、今まで特権を貪ってきた連中からそれを奪うには、かなりの力が要るぜ?」
 あんたにそれだけの権力があるのかと、言外に問う蟷器に、カナタは笑みを返す。
 「君は常人だからね、どうして飄山の神官達が、素直に私に膝を屈しているのか、納得はできないと思うが、私にはそれをさせるだけの力があるんだ。
 でも、世界中の神官達に、私が一々説いて回るのも無理な話なんでね。同時に協力者を作ろうと思っているのさ、私は」
 「協力者?」
 訝しげな蟷器に、カナタはのんきに笑った。
 「何もかも、すぐにどうこうできるわけがないだろう?
 まずは国を安定させて、財政にも余裕ができたら、学校を増やして識字率を上げる。
 識字率が上がれば、民は王や神殿の言葉に惑わされず、自分の権利や主張をみずから考えることになるだろう。
 国を支える民自身が、王や州候、神殿の意義について考え、結果、そこに不公平があれば是正を要求するべきさ。
 いくら最高権力者だからといって、私一人では神官達の反発を支えきれない。でも、何万もの民が私の味方になれば、不承不承でも神殿は変わらざるを得ないよ」
 カナタの構想は、後に商人の台頭を促し、南薔王家の権威を奪うことになるのだが、そうなるならばそれでもいいと、彼はぼんやりと思っている。
 元々、王のいない国に生まれた彼だ。
 南薔から王制が消すことに対して、躊躇はなかった。
 「・・・まぁ、字を読めるようになっても、そこまで考えるようになるかは別問題だからね。上手く行くかどうかなんて、今はまだわからないけど、一朝一夕に結果が出るような問題でもない。
 どうせ長い命なんだ。のんびりやっていくよ」
 「人なんて、いつ死ぬかわからないぜ?のんびりやっていく暇なんてあるのか?」
 苦笑する蟷器に、カナタは大きく頷いた。
 「結果を作るのは、私自身じゃなくてもいいだろう?この国は私の国だけど、私のものではないんだから。
 君は?ちゃんと足元、見えているかい?」
 言われて、蟷器は本気で苦笑した。
 様々なことが起こりすぎて、また、全てを自分一人で行おうとしていた事に気づいたのである。
 「説教も上手くなったようだな、倪下」
 「ない頭ひねっているんだよ、これでも」
 しばらく、座には笑声が満ち、会談は和やかに終わりを告げた。
 そしてようやく、卓上に置かれた料理に目をやったカナタだったが、既に冷えきったそれを見た途端、その目が蟷器との会談中よりも厳しく吊り上った。
 「麺がのびてる!」
 「あったりまえだ、ボケ!!」
 鋭い非難は、更に烈しい口調で迎撃され、飄山最高位の聖太師は、東蘭を事実上掌握する中書令の目前で、一介の料理人と激しく口論することになったのだった。




〜 to be continued 〜


 










前回よりは軽めに書いたつもりの今回。
読み返せば、会話の内容はかなり硬いものでございました;;
この回で、蟷器とカナタが構想している世界の形と言うのは、古代中国で秦の始皇帝が行ったような絶対的な支配ではなく、今のEU(ヨーロッパ連合)に繋がる汎ヨーロッパ思想の方です。
昔、この二つってどう違うのかな、と考えたことがありまして。
きっかけは漢文の授業だったことを覚えています。(秦の厳しい法に耐えかねて、反旗を翻す話でした)
それを読んだ当時は、始皇帝は悪者さー!という説が主流だったのかなぁ?
でも後に、始皇帝がいなければ、中国は今のヨーロッパのように、違う言語の国がひしめき合っていたでしょう、と言う話を聞いたか読んだかしてですね、おもしろいものだなぁと思ったのですよ。
現在、EU加盟国の貨幣はユーロに統一されつつありますし、一部地域(日本含む)を除いて、カレンダーは統一されつつありますよね。
ニュースを見ながら、今まで書くのを待っていて良かったかもしれない、と、ふと思っていたりします(笑)












Euphurosyne