◆  25  ◆







 ―――― おねむり わたしの かわいい子
 月のまるい夜は 安心しておねむり
 やさしい精霊が 守ってくれるから
 いい夢だけを見て
 おねむり わたしの かわいい子・・・・・・


 かつて、南薔国の首都であり、昨年、王世子(おうせいし)・沙羅(サラ)によって奪還された城市、佳葉(かよう)には、この国が隆盛を誇っていた当時の王宮が残っている。
 ここは南蛮―――― 現在は、東蘭(とうらん)王・傑(ケツ)によって共同統治されているため、南海王国と通称を改めたが―――― によって侵略、略奪された上、飄山を震源地とする地震の害に、瓦礫と化していたが、沙羅が行った神官虐殺の事件の後、入城した聖太師によって急速に地と治安を整えられ、少なくとも、目を覆うほどの惨状ではなくなっていた。
 だが、そんな王宮の一角にも、誰もが手をつけかねている場所がある。
 南薔王家に、しばしば生まれる『精霊の娘』・・・先天的に色素を持たない者のため、特別に設えられた宮だ。
 ここは、明るい日差しに耐えられない彼女達のため、常に暗く、だが、過ごしやすいように作られているのだが、現在、その広い部屋には粗末な寝台が一つあるだけで、他に目を楽しませるようなものは何もない。
 南蛮の兵士らによって略奪され、地震が天井や壁を割った時のまま、瓦礫さえも片付けられることなく放置してあった。
 そんな、誰からも見捨てられた場所で、一人の女が息を引き取った。
 老婆のような白い髪を敷布の上にばら撒き、骨と皮ばかりに痩せた女・・・。
 肩口に負った深い傷は、治療を施されることもなく膿み、不快な臭いを発していた。
 佳葉を奪還し、神官達を虐殺した王世子、沙羅である。
 彼女は、恣意的な行いに対する罰として、聖太師によってこの部屋に幽閉され、ただ、死ぬまでの時間を無為に過ごしていたのだった。


 沙羅が死んだという報告を受けたカナタは、すぐに彼女の部屋へと赴いた。
 白い、蝋のような死体は、はっきりと苦悶の表情を浮かべ、白っぽく濁った赤い目を恨みがましく見開いている。
 気づいた時には既に硬直しており、まぶたを閉じさせることができないのだと、遠慮がちに申し出た神官に軽く頷いて、カナタは沙羅の骸を見下ろした。
 「・・・初めて、人を殺したな」
 ぽつりと呟いたカナタを、傍らの筝が気遣わしげに見上げる。
 カナタは自身の、神殿の最高権力者という立場をおもんぱかっていた訳ではないが、たとえ戦の渦中にいても、殺人という行為を嫌っていた。
 臆病と罵られようと、自らの手で人の命を奪うことはできない―――― それだけは譲れない一線だったのだ。
 だが、彼はとうとう、自身の為に人の命を奪った。
 直接手を下したわけではないが、放っておけば命に関わる傷だと知っていて、治療を施さぬよう命じたのは彼だ。
 いくら罪人とはいえ、このような死に様を命じて良かったものか・・・。
 「同じ殺すのなら、ちゃんと処刑した方が良かっただろうか」
 それはほぼ独白であったため、応える必要はなかったのだが、筝は共に骸を見下ろす青年に首を振った。
 「薔家の名を持たぬ者が、王族に手を下すことははばかるべきです。
 これが、あからさまな処刑だとしても、薔家の者が他者の手によって殺されたという前例を作ってはなりませんから」
 特に、これから沙羅の妹を迎えようとしている時期に、余計な波紋を投げかけるべきではない・・・。
 そう語る筝に、カナタは黙って頷き、部屋の奥にかたまって震えていた神官達に沙羅の弔いを命じた。
 沙羅の骸に群がった神官達に背を向けたカナタは、ふと、扉近くに佇む女に目を止めた。
 ぎり、と、烈しく彼を睨みつける女に、カナタはすっと目を細める。
 「恨むな、とは言わないけどね。新月になったら潔く珂瑛(かえい)に行けよ。あくまで留まると言うなら、力ずくで追い払うぞ」
 彼の言葉に、扉脇の女・・・沙羅の魂魄は、悔しげに顔を歪めると、闇の中へ姿を消した。
 骸から離れた魂魄の姿が見える者達にとっては、そんな沙羅の姿はひどく恐ろしいものだったのだろう。
 寝台に群がって淡々と作業を行っていた神官達は、ほっと吐息して作業を進めた。
 それらの様子を黙って見ていた筝は、部屋を出たカナタを追い、そっと問い掛けた。
 「倪下。沙羅様を、どのように弔われるお心積もりでいらっしゃいますか?」
 「王世子であった以上、密かに弔う訳にも行かないでしょう。かといって、国葬などにするのも、罪が罪だけにはばかられるし・・・」
 本当なら、沙羅の葬儀は、次の女王となる緻胤によって挙げられるべきなのだろうが、彼女の身柄は出産後、西桃から南薔に引き渡されるという契約がなされている。
 彼女が臨月を迎えるのは、今年の春。
 それまで、沙羅の骸を放置しておくわけにも行かない。
 「王族にしては質素な葬式だった、くらいの規模でいいんじゃないかな」
 「仰せのままに」
 そう言って、右手を胸に当て、軽くこうべを垂れた筝を、カナタは振り返った。
 「東蘭と西桃への連絡もお願いします。特に西桃へは、緻胤殿の身柄と共に西三州を返還する件、必ず約定を守るようにと、太后への念押しを忘れずに」
 「承知しました」
 頷いて、上げた顔には、くっきりと皺が刻まれていたが、それをすぐに年齢と結び付けることができないほどに、筝の顔には生気が満ちていた。


 筝とは逆に、皺の深さがそのまま重ねた年齢を語る老婆は、佳葉の北、未だ冬の去る気配もない峭州(しょうしゅう)に留め置かれたままだった。
 飄山南岳の頂上にある神殿から、最高権力者である聖太師が降りて久しく、多くの神官や国政の中枢にいた者達も既に佳葉へ移って行ったというのに、彼女だけは呼ばれる事もなく、留守役を命じられている。
 いや、彼女だけでなく、彼女が州候として束ねる東州の神官、官吏、武人の全てが、佳葉の外に出されるか、呼ばれても中枢からは遠い所に置かれていた。
 かつて、彼女と勢力を争っていた南州候、茱英華(シュ・エイカ)が沙羅によって殺された時には、これで東州が国政を牛耳れると喜んだものだが、それも束の間、沙羅は英華によって深手を負わされ、聖太師によって無残に裁かれた。
 聖太師側に取り入ろうにも、以前から南州の者達に親しんでいた彼は、南州候の片腕であった筝を深く信頼し、片時も側から離そうとしないという。
 いずれ、南州候の位も、英華の息子のものになるのか・・・。
 そして、東州の者達は更に権力の外へと追いやられるのではないか。
 そう思うと、いてもたってもいられない。
 焦りは、しかし、沙羅の訃報を受けた途端、諦めに変わった。
 沙羅の死によって、望みを断ち切られたからではない。
 訃報を運んできた使者―――― 筝の代理人だという神官に、冷たく宣告されたためだ。
 曰く、
 『今後、東州候におかれては、位をご息女にお譲りになり、ご隠居なさいますよう。
 くれぐれも、かつて繁葉で行われたような狂言を繰り返されるな。
 ご忠告申し上げたにも関わらず、無駄に足掻かれた場合は、こちらにも考えがありますゆえ』
 繁葉の狂言――――。
 その言葉に、老婆はぎくりと頬を引きつらせた。
 前王、精纜(セイラン)の信頼を得る為、東州の兵達に南蛮兵の武具をまとわせ、襲わせたのは彼女だった。
 後に、南州候を失脚させるため、その罪を筝に着せたのだが、彼女を必要とした聖太師が、その身柄を勝手に解き放ってしまったのである。
 筝は、元は南州の判官だったと言う。
 彼女自身の情報網を使い、あの一件が、老婆の狂言だったことを調べ上げたのだろう。
 『こちらにも考えがある』というからには、もしかしたら、なにか確証をも得たのかも知れない。
 老婆は、悄然として娘に州候の位を譲ることに同意した。
 筝への憎悪を糧に、権力復興に意欲を燃やすには、既に年を取り過ぎていた。


 ―――― おねむり わたしの かわいい子
 月のまるい夜は 安心しておねむり
 やさしい精霊が 守ってくれるから
 いい夢だけを見て
 おねむり わたしの かわいい子・・・・・・

 背後に迫る、幾人もの足音から耳を塞ぐように、緻胤(ジーン)は震える声で、ひたすら歌いつづけた。
 その腕は、生まれたばかりの我が子をしっかりと抱きしめている。
 既に冬は去ったというのに、氷よりも冷たい人々の手から守ろうとするように。

 おねむり わたしの かわいい子
 月のまるい夜は 安心しておねむり
 やさしい精霊が 守ってくれるから
 いい夢だけを見て
 おねむり わたしの・・・・・・

 闇を引き裂くように、甲高い泣き声が湧き上がった。
 それは、心地よい腕のぬくもりを奪われた赤子の抗議の声であり、柔らかい身体の感触を奪われた母親の悲鳴だった。
 「やめて・・・!!」
 奪い返そうとする腕は、幾人もの身体に遮られ、遠ざかっていく我が子に届きはしない。
 「返して・・・!!」
 絶叫は、目の前で閉ざされた厚い扉によって阻まれた。
 剥き出しの腕に、幾筋もの掻き傷をつくりながら閉ざされた扉ににじり寄れば、外から、重たげに錠をかける振動が伝う。
 「返して・・・・・・っ!」
 決して開かない扉に爪を立てて、緻胤は声を上げて泣き続けた。


 再び、その扉が開いたのは、緻胤が産んだばかりの子を奪われて、間もなくのことである。
 無表情のまま、西桃王妃の室へ入ってきた宦官たちは、緻胤が聞いてもいない口上を長々と述べた後、食事も喉を通らず、憔悴していた彼女を抱えるようにして衣装を換えさせた。
 「お別れでございます、緻胤姫」
 西桃に来て以来、ずっと彼女の世話をしていた荀の、偽りではない名残惜しげな声に、緻胤は自分が、西桃王宮にとって用のない存在になったことを悟った。
 子を産んだばかりの身体が復調するまで待とうともせず、厄介払いでもするかのように早速追い出しにかかった西桃の太后に対しては、しかし、不思議と怒りは湧かなかった。
 ただ、自らの軽挙が招いた事態に対する後悔に、涙が止まらない。
 「御子の・・・いえ、西桃王陛下の御身は、必ずわたくしがお守り申し上げます。どうか、お心安くいらせられませ」
 このような状況で、安穏とできる母親がいるのだろうか。
 まだ、名前も付けていない我が子の、最後の泣き声が未だ耳の奥に鳴り響いている。
 姉、沙羅の訃報を受け、南薔王となることが決まってからは、諦めなければ、と、何度も自身に言い聞かせていたのに・・・。
 ついさっきまで、身体の一部であったものを無理矢理切り離され、奪われた喪失感に、気が狂いそうだ。
 「・・・お願いよ、荀!あの子を守ってあげて・・・・・・!!」
 荀が確かに頷くまで、何度も同じ言葉を繰り返していた緻胤は、抱き上げられ、無理に輿に乗せられた。
 四方に重い幕が下ろされ、外の光景から切り離された狭い空間に押し込められた緻胤は、来た時と同様、荷物でも運ぶかのように西桃王宮を出されたのだった。


 「おめでとう存じます、奥方様。ご懐妊されていらっしゃいますわ」
 にっこりと、頬を緩めた女医は、次の瞬間、あら、と、笑みを消した。
 西桃国の遥か東、東蘭国の都、佳咲(かしょう)の宮城内にある高官の邸でのことである。
 彼女は王宮の医事を預かる典薬寮の医師ではなく、わざわざ城外より招かれた町医者であったが、本来なら絶対に出会うことはない宰相夫人に招かれ、特別に城内に入ることを許されたのだ。
 だが、彼女が懐妊を告げた夫人は、みるみる表情を失い、人形のように凍ってしまった。
 「・・・なにか、ご不都合でも?」
 思わず声を潜め、問うたが、夫人は瞬きすらせずに、一点を見つめている。
 その姿に、彼女は脳裏にいくつかの理由を思い浮かべた。
 まずは、懐妊したことがすなわち、罪の顕れである場合。
 夫以外の男の子だと、はっきりわかっているならば、夫人の反応は、恐怖を表すものとして、至極妥当なものだろう。
 だが、この夫人に限って、それはありえない。
 夫人は元々、家にこもりがちな人ではあったが、昔の婚約者にかどわかされそうになった一件以来、男は家人ですら近くに寄せ付けようとしないという。
 特に、男の医者へ対する不信感は強いらしく、城外からわざわざ女医を呼びつけているくらいだ。
 では、出産への不安だろうか?
 十代で出産するのが当然である現在、夫人は、妊婦として既に若いとは言えない。
 三十近い年になっての初産は不安だろう。
 むしろ、二番目の理由が、夫人の凍った原因かと判断した女医は、一度納めた笑みを深めて、そっと彼女の手を取った。
 「大丈夫ですよ、杏嬬(アンジュ)様。あなた様はご健康でいらっしゃいますし、臨月までお身体を大事にしてらっしゃいましたら、元気なお子をお産みなさいますとも」
 安心させるように、優しく手を撫でてやると、固まっていた身体が、微かに震えだした。
 「何も不安はございませんよ。大丈夫。健やかなお子を、お抱きあそばせ」
 その言葉に深く頷いたまま、杏嬬は、顔を上げることができなかった。


 「早速、旦那様にお知らせしなくては!」
 浮かれ、はしゃぐ侍女達に、しかし、杏嬬は静かに首を振った。
 「まだ、この部屋の外にいる者達に、話してはいけません」
 女医が帰る際も、決して口外することのないように、と、念を押した杏嬬である。
 「そんな・・・なぜですか?」
 「おめでたいことですのに・・・・・・」
 不満げな侍女達に、更に念を押し、杏嬬は紙と筆を持ってくるよう命じた。
 淡々と事実だけを記したそれを、まだ何も知らない家人の一人に預けて、王宮へと運ばせる。
 「どうしてこのようなことをなさるのですか?」
 一人の侍女が不満げに問うと、
 「あの方が、お喜びになるとは限らないからですよ」
 そう、あまりに素気ない答えが返った。
 だが、この邸で働く者達にとって、それは十分な答えである。
 この邸の主、枢蟷器(スウ・トウキ)は、なぜか跡取りを残すことを嫌い、今まで子供を作ろうとはしなかった。
 「子を産んでも良いと、お許しを得ましたが、それはあの方の本意ではなく、緻胤太后陛下のお言葉があった上でのことです。
 私は、懐妊を知った瞬間の、あの方のお顔を見るのが恐ろしい・・・・・・」
 言いつつ、杏嬬がぎゅっと両手を握り合わせる様に、侍女たちは気遣わしげに顔を見合わせる。
 「今日は・・・いえ、落ち着かれるまで、こちらにはお戻りにならないかもしれませんが、お恨みしてはいけませんよ・・・・・・」
 それは、侍女達だけにではなく、杏嬬自身にも言い聞かせているような口調だった。
 が、彼女の気遣いに反して、蟷器はその日、邸に帰ってきた。
 抱えきれないほどの祝いの品を携えて。


 「中書令様の奥方が、ご懐妊されたそうですな」
 にやにやと、無遠慮な笑みを浮かべる客の言葉に、香蘭(コウラン)は手にしていた笛を傍らの女童に渡して、ゆったりと微笑んだ。
 「おめでたいことでございます」
 「本当に?そう思われているのですかな?」
 「心から、お喜び申し上げておりますわ」
 ・・・もう、幾度このような問答を交わしたものか。
 蟷器の奥方が懐妊したと公表されて以来、彼女の元を訪れる客の多くは、この問いを発した。
 東蘭の都・佳咲でも五人の名妓にしか許されない、『蘭花』の名を持つ一人である彼女が、件の中書令に囲われている事を知る者達だ。
 いやらしい笑みを浮かべ、囲われ者の心中やいかに、と、問う者達に、内心苦笑しながらも、香蘭は決して感情を表に出すような真似はしない。
 だが、この時の客は、宮中の内情など大して知りもしないくせに、噂話だけは豊富に仕入れていたらしく、中々口を閉じようとはしなかった。
 「いやしかし、本来であれば香蘭殿こそ、中書令夫人となられていたはずだと伺いましたよ。皮肉なものでございますな」
 「わたくしのような者が、とんでもないことでございます。わたくしよりもふさわしい方はたくさんいらっしゃいましたから・・・・・・」
 今ごろは金縷楼(きんるろう)でも、翠蘭(スイラン)が同じ問答をしているのかと思うと、思わず笑みがこぼれた。
 彼女こそ、最も蟷器との付き合いが長い女である。
 降り注ぐ皮肉や嫌味の数は、自分の比ではあるまい。
 「ですが、あなたは元々、貴族のご出身で、楽人として王宮にお勤めであったとか。
 ご両親が亡くなられた折り、災難にさえ遭われなければ、今でも王宮におられたことでしょうに」
 にやりと、男の口の端がいやらしく曲がった。
 その様が、かつて王宮の楽人であった香蘭を追い回し、捕らえ、散々なぶった後に、飽きて妓楼へと売り飛ばした男の笑みと重なって、肌が粟立つ。
 「守ってくださるご両親さえご存命だったならば、ご身分から言っても、最も中書令夫人にふさわしかったのではありませんか?」
 「まぁ・・・よく、ご存知ですこと・・・・・・」
 穏やかな笑みを形作った目が、さりげなく男を見据えた。
 彼は私に、何を言わせたいのか。
 愛しい男を奪われた女の愁嘆場でも見せてやれば喜ぶのだろうか。
 それとも、下級とはいえ、貴族の家に生まれた女が、身体を売るまでに堕ちた悲話でも聞きたいのか。
 いや。
 彼は単に、自分が宮中の内情に通じている、と、思わせたいだけなのだ。
 多くの噂話を並べ、さも自分が見聞きしたことのように話して、国政の中枢にいるのだと思い込みたいだけ。
 ならば、話したいだけ勝手に話させておけばいい。
 適当に聞き流しながら、時折、感心したように相槌を打つだけで、満足して帰るだろう。
 「旦那様、もう一献、ご酒をいかが?」
 掲げられた杯に酌をして、香蘭は艶やかに微笑んだ。


 「近頃、嫌なお客ばかりですね、蘭花様!」
 客を送り出した後、自室に戻った香蘭に、幾人もの女童達が憤りの声を上げた。
 彼女達は、いずれはこの楼閣の妓女となる娘達であり、高位の妓女に仕えて、礼儀作法や芸を学ぶ者達である。
 それ故に、蘭花のことは実の姉のように慕う者も多かった。
 「なによ、知ったかぶっちゃって!あんな奴の名前なんか、政事堂の方々から聞いたこともないんだから!」
 政事堂とは、東蘭でも尚書以上の位を持つ者しか入れない、国政の中枢である。
 東蘭でも五本の指に入る名妓、香蘭の客には、政事堂で政務を執る者が何人もいた。
 「そうね・・・。でも、私が王宮にお勤めしていた事を知っているのだから、国官であることは間違いないと思うわ」
 そう言って、香蘭はいきり立つ女童達に苦笑する。と、女童たちは気遣わしげに彼女を見上げた。
 「蘭花様・・・」
 香蘭は、決して王宮での事を語りたがらない。そんな彼女の古傷を暴くような真似をした男に、女童達の怒りは再燃した。
 「あんな奴、今度来たら、思いっきり意地悪してやりましょうね!」
 二度と、楼の門をくぐれないようにしてくれる!と、息巻く女童達に、香蘭は穏やかに笑って頷いた。


 同じ頃、金縷楼でも、蘭花に仕える女童達が声を荒げていた。
 「おだまりなさい。そのように声を荒げて、みっともない」
 軽く手を上げ、制する翠蘭を、女童達は泣き腫らした目で睨む。
 「でも!蘭花様!!」
 「あんな言われ様・・・私、悔しくって!!」
 「蘭花様は悔しくないんですかっ?!」
 娘達は、先程出て行った客達の言葉―――― 蟷器が金縷楼に足を運ばなくなったのは、夫人の懐妊だけが理由ではない。年を取り過ぎた妓女に飽きたのだろう、という言葉に、激昂しているのだ。
 五大妓楼の『蘭花』の中でも、第一の『蘭花』だと誇っている翠蘭をそのようにけなされて、悔しさのあまり泣きじゃくる娘達に、翠蘭は苦笑した。
 「あんなのを気にしていたのでは、金縷楼の蘭花は勤まらない。笑って聞き流すくらいの度量がなくてどうするの?」
 「何かあったのかい?」
 更に苦笑を深めた翠蘭に、懐かしい声が掛かり、翠蘭は顔をほころばせて振り返った。
 「先代様!」
 「お久しぶりだね、鈴娃(レイア)」
 翠蘭を、その本名で呼んだ人物は、雪のように白い髪をきれいに結い上げた老女である。
 決して派手に装っているわけでもない上に、顔には幾筋もの深い皺が刻まれていたが、身に纏う雰囲気は、そこらの若い妓女では太刀打ちできないほどになまめかしい。
 何者かと、戸惑った顔を見合わせる女童達に、翠蘭は嬉しげに微笑んだ。
 「ちゃんとご挨拶なさい。私の先代様ですよ」
 言うや、真っ先に老女の前に膝を折った翠蘭に、女童達も慌てて倣う。
 翠蘭の先代―――― 金縷楼の初代『翠蘭』は、東蘭国の前々王、杲(コウ)の寵愛を受けた妓女で、前王、采(サイ)の実母である。
 佳咲の五大妓楼の最高位に位置する妓女を、『蘭花』と呼ぶようになったのも、彼女が杲王より『翠蘭』の美名を賜ってからのことだ。
 彼女は、『翠蘭』を退いた後も、金縷楼に残って妓女達に芸を仕込んだりしていたのだが、息子であった采が東蘭王となった折、さすがに外聞が悪いと、花街を出て行ったのだ。
 しかし、王宮に入ることも拒んで、今は佳咲の郊外に邸を構えている。
 そこでは、身寄りのない子供達を引き取り、扶育しているそうで、今日も彼女の周りには、二、三人の子供達が群がっていた。
 「堅苦しいのはやめておくれ。私の名を聞いた途端、あちらでもこちらでも跪かれて、辟易しているんだよ」
 そう言って、老女は苦笑したが、現王の祖母にあたる人物と知って、ぞんざいに扱う者など、この国には存在しない。
 「久しぶりに古巣に戻ってきたんだ。ちょっと、ゆっくりさせておくれでないか」
 そう言って、あでやかに微笑んだ老女に頷き、翠蘭は女童達に命じて部屋を整えさせた。
 既に日は高く、客もはけている。
 これから休もうかと言う女童達には気の毒だが、老女が連れてきた子供達の遊び相手を頼んで、翠蘭は茶と軽食を用意させた部屋へと老女を案内した。
 「おや、懐かしい」
 中庭に造られた、大きな池を見下ろす三階の一室である。
 部屋数を多くするために小さく区切られた妓楼の中で、特別の客の為に広く設えられたそこは、老女が『翠蘭』と名乗っていた当時、王であった人物と逢瀬を重ねた部屋だった。
 「今ではお前様が、ここの主なのだね」
 「ふつつかながら、長く務めさせていただきました」
 そう、答えた声に混じった、わずかな陰りを敏感に感じ取って、老女は穏やかに微笑む。
 「蘭花を退くのだね?」
 「えぇ・・・。もう、年を取り過ぎましたから・・・・・・」
 翠蘭は既に、三十を過ぎている。
 未だ若々しく、自慢の歌声にも衰えを見せない彼女だが、妓女としては大年増だ。
 五大妓楼で『蘭花』を務める者の中では、既に最年長である。
 事情を十分に心得ている老女は、翠蘭が淹れた茶を受け取って、深く頷いた。
 「まだまだ、花の盛りにあるうちに身を引くことは、潔くていいことだ。
 けど、その後のことは考えているのかい?」
 「えぇ。こちらに残って、娘達の世話をさせてもらおうかと思っています」
 そう言って微笑んだ翠蘭に、老女は微笑み返す。
 「今までの稼ぎがあれば、花街を出ても一生贅沢に暮らすことはできるだろうに、それは性に合わないか?適当な邸が見つからないというのであれば、私が世話をしてやってもいいのだけれど」
 だが、老女の申し出に、翠蘭は首を横に振った。
 「ありがたい仰せではあるのですが、私は生まれてより、この街の外を知りません。
 所詮は遊女よ浮かれ女よと、人にさげすまれ、恥をさらすよりは、こちらに留まった方が落ち着きます」
 売られてきた娘達と違い、翠蘭は花街で産まれ育った。
 艶歌と喧騒を子守唄代わりに、酒と白粉の匂いを纏って育った彼女にとって、この街の外で、静かに暮らすなど考えられない。
 「それは、私も同じだよ。
 なんの因果か、現王の祖母になってしまったせいで、ここにはいられなくなってしまったけれど、こんな場所でも、生まれ育った街は懐かしい。
 ・・・田舎は、静かではあるけど、喧騒に慣れた耳には寂しくてね」
 「それで、あんなにたくさんの子供達を引き取ってらっしゃるのですか?」
 くすりと笑みを漏らせば、老女は楽しげに笑って頷いた。
 「その通りさ。
 まったく、子供と言うものは、一時もじっとしてやしない。
 朝早くから夜遅くまで大騒ぎでね。
 寂しがっている暇もくれやしないよ」
 くすくすと、楽しげな笑みを漏らしながら、老女は中庭を見下ろした。
 色とりどりの花が浮かんだ池を囲んで、彼女が連れて来た子供達が楽しげにはしゃいでいる。
 「ほら、ご覧、あの子を。私が引き取った時は、まだ乳離れもしていなかったのに、大きくなっただろう?」
 「あぁ・・・六年前の?」
 「そう。蟷器が私の所に連れて来た、南蛮王だよ。私は南蛮の名前には詳しくないのだけど、南薔王の血筋でもあることだしね。纐(コウ)と呼んでいる」
 蟷器が連れて来た子とは、南薔の前王、精纜(セイラン)が産んだ最後の子供のことである。
 本来、南蛮王となるはずだった少年は、南薔国の東三州と引き換えに蟷器に渡され、更に、采の母親である老女に渡されて、自身の出自も知らずに扶育されていた。
 「少なくともお前様は、奥方も知らない事情を知らされる程度には、頼りにされているのだね」
 老女の言葉に、翠蘭は笑みを張り付かせたまま頷く。
 「どうしたね?」
 翠蘭の屈託を敏感に察して問えば、彼女は寂しげに微笑んだ。
 「・・・・・・どうせなら私も、信頼よりはお子が欲しかった・・・・・・」
 「そうだね。娘だったら、お前様以上の蘭花となるだろう」
 その言葉に、翠蘭の表情が凍りつく。
 「妓女の娘は妓女・・・。私や、お前様がそうだったようにね。
 必死に隠したところで、お里は知れるものさ。
 采だって、運良く東蘭王にまでなったものだけど、母親がこんなじゃなければ、もっと苦労は少なかっただろうねぇ・・・」
 自身の出自をおもんぱかって、息子の葬儀にすら出席を拒んだ老女は、ぬるくなった茶をすすって、眼下に遊ぶ子供達に目を細めた。
 夜通し働きづめで眠いだろうに、子供達と一緒に歓声を上げて池の花を取り合うあでやかな娘達・・・。
 彼女達には、この妓楼の妓女となる以外の道はない。
 「先代として・・・いや、街を追われた女として、これだけは忠告するよ。
 一度、名妓と呼ばれたからには、人様の家に波紋を投げかけて、せっかくの名声を廃らせるものじゃない。
 客は客と割り切って、それ以上、心を入れてはいけないよ」
 笑みを消し、深く頷いた翠蘭に、老女は寂しげに微笑んだ。


 濡州(じゅしゅう)は南薔国の西三州のうち、最も南に位置する州である。
 西桃国の首都、佳萌(かぼう)の隣にある汨州(いっしゅう)と、西の大河を挟んで対面する肥沃な土地は、現在、他の二州と共に西桃の領土となっており、三人の州伯と彼女らを統率する西州候も、当然のごとく西桃国の官吏として扱われていた。
 しかし先日、西桃王妃に擁立された緻胤が無事、『西桃王』を産んだため、前西桃王の母親、現在の西桃太后と南薔の聖太師、林彼(リンカ)の間に交わされた約定通り、西三州は緻胤自身の身柄と共に、南薔国に返還されることとなったのである。
 聖太師自ら赴いて、緻胤の出迎えと西三州返還の調印を行う場として選ばれた濡州の州城には、既に西州候はじめ三人の州伯が準備万端整え、南薔王となるべき女性と神殿の最高権力者を待ち構えていた。
 緻胤が、新王の誕生に浮かれ騒ぐ佳萌の王宮を出たと言う報せは、随分と早くに受けていたものだが、子を産んだばかりの彼女の体調を気遣っているのだろう、濡州の対岸、西桃国の汨州(いっしゅう)を横断する一行の進み具合は、非常にゆったりしたもので、緻胤が西大河の対岸に至ったと言う報せは中々訪れなかった。
 対して、聖太師側の動きは非常に早く、緻胤が佳萌を出たと聞くや、待ってましたとばかりに濡州城へと入城したのである。


 美しい街だと、話には聞いていたものの、初めて西州に入ったカナタは、その整然とした町並みに感動した。
 偏執的なまでにまっすぐ伸びた大道には、一分の隙間もなく石畳が敷き詰められ、両脇の側溝には丈夫な格子が被せてある。
 すっきりと横に伸びる小路にすら、馬糞どころか塵一つなく、舗装されていない場所には砂埃が立たぬよう水が撒かれていた。
 カナタは、これまで見て来た街や国とは全く違う清潔さに、懐かしささえ感じてしまう。
 「すごいねぇ。
 こんなにきれいに整備された街は、初めて見たよ」
 神殿の最高権力者にふさわしく、一人で輿に乗せられたカナタの独白に、
 『あなたが住んでいた町に似ているの?』
 と、自身の裡で女の声が答え、カナタは笑みを漏らした。
 「ここまで整然としてはいなかったけどね。ぬかるんでいたり、瓦礫に埋もれていたり、馬糞が散らばっていたりはしていなかったね」
 飄山の神殿に入るや、まず清潔さと美化を推し進めた聖太師は、満足げに笑う。
 「これだったら、州城も期待できるな。
 今まで、ノミやシラミと同衾するくらいなら、寝ない方がマシって所ばっかりだったからね」
 神殿や、仮の都であった峭州(しょうしゅう)、そして、佳葉の自室の寝台は、真っ先に改善させたものの、その他の寝台は、まだまだ虫だらけのものが多く、とてもではないが気持ち悪くて、横になる気にはなれない。
 周りの神官達には、眠りを必要としない身体だからと言ってごまかしていたが、今回はどうやってごまかそうかと、密かに頭を悩ませていたのだ。
 「この街を維持している州候に会うのが、楽しみになってきたよ」
 だが、実際に西州候とまみえた時、カナタはあっけにとられ、しばらく言葉を発することができなかった。
 「お初にお目にかかります、倪下」
 そう言って、三人の州伯と一人の少女を従え、カナタの前に跪いた西州候は、小振りの冠を載せた濃い金色の頭を深々と垂れた。
 「・・・どうぞ、お立ちなさい」
 ぼんやりと呟いたカナタに従い、優雅な挙措で一礼した西州候は、細い身体に良く似合う、白を基調とした朝服を上手にさばいて立ち上がった。
 「このたびのご来駕、ありがたく存じます」
 年は三十前後だろうか。若い声は柔らかく、とても感じの良いもので、西州候の柔和な顔に良く合っている。
 そう、全てにおいて上品に、優雅に振舞う西州候に、何もおかしなところなどはない。
 ただ一つ、男性であるということを除いては。
 「・・・・・・失礼。
 西州候であるからには、女性だろうと思い込んでいました」
 あまりにもじっと見つめ続けた非礼に気づき、カナタが苦笑した。
 南薔では女が家を継ぎ、州候は必ず高位の巫女である。
 それが当然であり、前南州候であった英華が、仮の都であった峭州の王宮で立場を悪くしたのも、南州候の位を息子に継がせようとしたからだと知るカナタは、意外に思わずにはいられなかった。
 だが、カナタの言葉を受けた西州候が、苦笑しつつ口にした言葉に、カナタは更に目を剥いた。
 「お言葉を返すようで申し訳ございませんが、倪下、私は女性でございます」
 絶句したカナタに、西州候は苦笑を深める。
 その様に、失礼、と、発しかけた言葉を、カナタは飲み込んだ。
 目の前の人物は絶対に、男性に見える女性などではない。
 その服装が男性のものであったために見間違えた、などということもあり得ない。
 顔立ちも物腰も、全て柔らかくはあったが、彼は確実に男性だとわかる骨格をしていた。
 「・・・どういった事情か、お聞きしてもよろしいか?」
 西州候にだけではなく、彼の背後で困ったように顔を見合わせる州伯達―――― 彼女達は、紛うことなき女性だった―――― にも問えば、西州候は笑みを浮かべたまま、深く頷く。
 「ですが倪下、立ち話がお好きだとおっしゃるのでなければ、先にお部屋の方へご案内したいと存じますが」
 「あぁ・・・そうですね。よろしく」
 戸惑いながらも、カナタは筝を始めとする側近の神官達と共に、案内に立った西州候の後ろに従った。
 城中を巡る回廊を歩みながら目に映る光景は、街よりも更に清潔に美しく整えてあり、カナタは思わず、感嘆の声を漏らした。
 「・・・濡州伯はどなたですか?」
 問うと、西州候のすぐ後ろに従っていた四人の女達のうち、肉付きの良い中年の女が脇にどき、立ち止まったカナタに一礼する。
 「街の様子と言い、城内の美しさと言い、すばらしい。どのようにして維持されているのか、ぜひともお聞きして参考にしたいものです」
 「恐れ入ります」
 にこりと笑うと、片頬にえくぼが浮いた。
 「ですが、この功績はわたくしのものではなく、西州候のものにございます。候のお力で、濡州だけではなく、洌州(れっしゅう)も沃州(よくしゅう)も、美しく整えられたのですから」
 「では候には、その辺りのお話もあわせて伺いたいものですね」
 機嫌よく笑うカナタに、西州候は控えめな笑みを返し、カナタに付き従う南州の者達を気遣うように見遣った。
 争うつもりはないと、さりげなく示す態度に気づかない筝ではない。
 筝が笑みを浮かべ、微かに頷いて見せると、西州候は安堵したように頷きを返した。
 「どうぞ、倪下」
 案内された部屋は、この日の為に特別に誂えたものか、全て新しい調度で整えられている。
 威儀を示したくても、財政的に無理のあった国でずっと過ごしてきたカナタには、それすらも新鮮な驚きだった。
 「前西桃王は、良い国主であったようですね」
 美しい街や州城に対する、それは率直な感想だったのだが、先程の好意を隠そうとしない発言と共に、カナタの言葉は一々西州の者達を怯えさせる。
 今回も、聞きようによっては『南薔に返還されるよりも西桃に与していた方が良かったか』『税をあつくしているのではないか』と取られても仕方のない言葉だ。
 カナタの言葉に裏がないことを知っている者達ならともかく、会って間もない西州の者達には心労の絶えないことだろう。
 ―――― まだ、その辺りの気配りが、おわかりではない。
 苦笑しつつ、内心で呟いた筝だが、緊張に笑みを引きつらせ、釈明の言葉を並べる西州候達に、それを教えてやるつもりはない。
 いずれ、権力をかけて戦うことになるだろう相手だ。
 南州に勝利を引き寄せるためにも、カナタがただならぬ相手だと思わせておいた方がいい。
 カナタのことを、気安く近づけない相手だと思っているうちは、西州の者達が権力の中枢に食い込むことはできないのだから。
 そんな筝の思惑も知らず、戦々恐々とカナタの対面に座した西州候は、問われるままに事情を語った。
 「古来、南薔の西三州は、西桃の影響を多く受けておりました」
 西桃と西三州の間には、西桃と南薔の国境であった西大河が横たわっているが、西三州が南薔領であった頃から、河岸の民にとって、河は境の意味を成すものではなかった。
 河に両国の船が往来しない日はなく、関は小さな漁船や商船にとって、河岸にある他の建築物と、何ら変わるものではなかったのである。
 為に、何度か西州を領有する国が南薔から西桃に変わろうと、民にはほとんど影響がなかった。
 むしろ、重税を課していた南薔の前々王、経(ケイ)の支配下からいち早く抜けたことにより、西三州はその栄華を維持することができたのだ。
 しかし、それ故に、他州では無残に侵された南薔の風習―――― 女は婚姻することなしに家を継ぎ、支配層は必ず高位の巫女であるという決まり事も、風化することなしに保たれていた。
 「その上、西州には、西桃からの影響か、血筋に固執する気風がありまして・・・」
 西州は、南薔国の中で最も階級に厳しい土地であると言われている。
 州都にある大神殿には、いかなる豪商、豪族といえども、爵位がなければ入る事は許されないし、『血筋』や『家名』の存続に熱意を注ぐあまり、女子に恵まれなかった家は男子に女装させ、女として育てる事もあるのだ。
 南薔は男子の家督相続を認めていないが、西州では戸籍を改ざんしてまで『女だ』と主張するため、大貴族、大領主に限って、薔家もその行為を黙認していたという。
 「そんなことがあるとは、以前、ちらりと聞いたことはありますが・・・。
 では候は、戸籍上、女性でいらっしゃるのですか?」
 「母が存命の頃は、姿も女性でございましたよ」
 「・・・・・・それはまた・・・ご苦労様でした・・・・・・」
 それ以上、なんと言えばいいかわからない。
 「しかし今、私に男性であることを隠されないのは、どう解釈すれば良いのでしょう?
 男子の家督相続を認めろとおっしゃるのであれば、それは受け容れられないと言うしかありませんが」
 それは王の決めることだと断言するカナタに、西州候は微笑を浮かべて頷いた。
 「はい。それはもちろんでございます。
 実は、我が娘が今年、十五になりまして。我が家督は既に、娘に譲っております」
 彼の言葉に、州伯達と共に州候に従っていた少女が進み出て一礼する。
 よく見れば、父親(と言っていいものか迷うが・・・)に似た面立ちをした、可憐な風情の少女である。
 「私はこの、倪下と新王陛下をお迎えするお役目を最後に、西州候の位を退こうと思っているのです」
 「まだお若いのに、隠居すると言うのですか?」
 「はい。西州が南薔国に返還された後は、私に西州候を名乗る権利はありませぬゆえ・・・」
 ゆえに、彼は西州が西桃領であるうちに、娘に家督を継がせたのだろう。
 だが、誰もそれを、気の毒とも浅ましいとも思わない。
 それほどに、西州において、『家名』と言うものは大切なものなのだから。
 「筝殿」
 西州候の話に、感心したように聞き入っていたカナタが、急に振り返った時、筝は、苦笑しそうになる唇を引き締めた。
 「これはもちろん、緻胤殿が決めることなのだけど・・・・・・」
 言いかけたカナタの側に寄り、その耳に囁く。
 「でしたら、新王陛下がお越しになってから、ご相談なさいませ。期待を持たせては、お気の毒ですよ」
 「それもそうだね」
 西州候の位を退いた彼を、中央に招いて尚書にできないか―――― そう、提案しようとしたカナタの機先を制して、筝は再び元の位置まで下がった。
 その動きは、西州の者達に、彼女が聖太師の信頼厚い人間であることを印象付けたことだろう。
 未だ、土地を奪還していない南州の人間にとって、唯一の武器は、中央の政権に食い込むこと――――。
 東州候を制した今、西州を新興勢力として、台頭させるわけには行かない。
 不慮の死を遂げた英華に代わって、筝は南州の者達に栄華を与える使命があった。


 西大河を渡り、緻胤が初めて足を踏み入れた南薔国は、とても美しい所だった。
 春の澄明な光を弾く白い石畳。
 港から州城の城門までをすっきりと見通せる大道。
 新王の姿を一目見ようと、道の両端に集った人の数は大変なものだと言うのに、地には塵一つない。
 以前、蟷器から聞いた南薔は、瓦礫にまみれた無法地帯だという印象を持ったものだが、そんな想像を良い方に裏切る光景に、緻胤は目を丸くして見とれていた。
 「とてもきれいな所なのね・・・・・・」
 誰にともなく呟くと、西桃領内ではずっと彼女の護衛をしてくれていた将兵が頷く。
 「西三州は、まだ西桃領のうちでございますからな」
 「あぁ・・・そうだったわね。じゃあ、もう一度覚悟しておかないと」
 鎧に身を固めた州兵達が抑える民を見回し、柔らかな拳を握る緻胤に、彼はくすりと笑みを漏らした。
 「ご心配なさらずとも、薔家のお方に危害を加えるような不信心者は、南薔にはおりますまいよ」
 「薔家の人間らしい、神々しさが備わっていればそうでしょうけどねぇ・・・。私、ちゃんと薔家の緻胤だって、信じてもらえるかしら」
 西桃にいる間に、すっかり細くなってしまった顎に指を当て、小首をかしげる緻胤に、付き従って来た者達は皆、たまらず笑声を上げた。
 「陛下であれば、きっと南薔を良い国にされることでしょう」
 好意に満ちた笑みに囲まれ、緻胤は嬉しげに頷く。
 西桃の後宮には、冷たく、悪意に満ちた牢獄のような印象しか持ち得なかった彼女だが、命じられていた以上に緻胤を丁重に扱ってくれる彼らに出会って、初めて、西桃国自体の印象を改めたのだ。
 「さぁ、陛下。どうぞお輿にお乗りください」
 緻胤の身体を気遣い、手を取って桟橋に降ろした輿へと案内してくれる将兵に、緻胤はふっくらと微笑んだ。
 「今までありがとう。これでお別れかと思うと、名残惜しいわ」
 「私共も、できることなれば、佳葉までお供したいのですが、そうも参りません。
 ですがこの濡州の、州城を出られるまでは、陛下をお守りいたします」
 「えぇ。よろしく」
 そう言うと、彼は深く一礼して、緻胤の乗った輿に幕を下ろした。
 外から姿を隠されると、緻胤はずっと浮かべていた笑みを消し、不安げに両手を握り合わせる。
 故郷とはいえ、初めて訪れる国で、子供たちとも親しい人々とも引き離されて、いよいよ彼女は南薔の王になるのだ。
 「采・・・!」
 左手の指にはめた金の指輪・・・。
 その中心に収められた亡夫の遺髪を掌に握り込んで、緻胤は祈った。
 「どうか・・・子供達を守ってあげて・・・・・・」


 「もう、河岸の港には着いたんだよね?迎えに行っちゃだめなのかい?」
 「落ち着かれませ、倪下」
 「迎えには、西州候が既に出ておりますから・・・」
 苦笑する筝と、恐縮する濡州候になだめられ、カナタは身を乗り出すようにして外を眺めていた露台から渋々室内へ戻った。
 「せっかくここまで来ているんだから、いいじゃないか。聖太師自ら港まで迎えに行ったと知れれば、緻胤殿にも箔がつくだろうし」
 ぶつぶつと不満を漏らすカナタに、筝は静かに首を振って近寄った。
 「用心のため、ですよ、倪下」
 小さく囁くと、訝しげに見返してくるカナタに、筝はちらりと苦笑する。
 「緻胤様は、とてもお人柄の良いお方ですが、まだ名君になられるかどうかはわかりません。もし、暗愚との評価を下された時、同時に神殿の権威まで失墜したのでは困ります。今はまだ、距離を置いて下さいませ」
 「そんな・・・」
 「倪下」
 反駁を防ぐように、筝はやや声を強くした。
 「倪下は、神殿と国を守る責任がおありです。そしてわたくしは、僭越ながら、倪下をお助けする大任を頂きました。時折、お耳に痛いことを申し上げることはご容赦くださいませ」
 「・・・・・・わかった」
 しばらくの間の後、カナタはようやく頷いた。
 「もう、軽率なことはしない、って誓ったからね。筝殿の忠告に従うよ」
 「ありがとう存じます」
 深く一礼した筝の前を通り過ぎ、先程とは打って変わって大人しく座に着いた聖太師を、濡州伯が複雑な表情で見つめている。
 筝が、やや大仰なほどに見せつける南州と神殿との深い繋がりに、割り込む隙はないものか、鵜の目鷹の目で探しては落胆を繰り返している顔だ。
 最後の望みは、西州候が緻胤と、上手く信頼関係を結ぶことだが、聖太師の様子からして、神殿が彼女を援助することは間違いない。
 国政の中枢は既に神官達が掌握し、新たに加わった地方領主達の付け入る隙はない・・・いや、筝が隙を作りはしないだろう。
 西州の者達は、南州によって牽制され、聖太師にも、そしておそらくは、新王にも近づくことを許されない。
 これからのことを思い、濡州伯は思わず、深い吐息を漏らしていた。


 濡州城の城門をくぐったことは、緻胤を囲む幕の色が、暗く翳ったことで知ることができた。
 隧道(ずいどう)の長さは、すなわち、城門の厚さだ。
 前面を覆う幕に視界を塞がれている為、いつ果てるともわからない暗い道を無為に運ばれていくことは、緻胤をとても不安にさせた。
 思わず、輿の枠を握り締めれば、気配が外にまで伝わったのだろうか、城の外で迎えてくれた西州候が、穏やかな声でなだめてくれた。
 「陛下、間もなく城内に着きますので、もう少々ご辛抱くださいませ」
 「えぇ・・・ありがとう・・・・・・」
 だが、不安と言うものは、そう簡単に拭えるものでもない。
 緻胤は、南海王国から東蘭へ嫁いだ日のことを・・・。
 南蛮の娘、蛮族の出自よと、冷酷な嘲笑と意地の悪い興味の視線に囲まれた日の事を思い出していた。
 南海の王であった父の後宮を出て、初めて触れた外の世界は、当初、決して居心地の良い場所ではなかったのである。
 また、この輿を降りれば、同じ視線にさらされるのだろうか・・・。
 城壁が作る濃い影の中で、徐々に膨らんで行く不安に押しつぶされそうだ。
 だが、緻胤は、浅く、せわしくなりつつある呼吸を整え、引き締まった口元を緩めた。
 ―――― 絶対に、笑って見せる。
 この幕が開いた時、決して不安げな顔を見せてはいけないと己に課し、緻胤は緩めた口元に穏やかな笑みを刷いた。
 悠然と、鷹揚に・・・。
 それは東蘭で学んだ、王族にふさわしい物腰だ。
 ―――― 厳しすぎては避けられる。冷たすぎては憎まれる。甘くない程度に優しく、おもねらない程度に寛容に。
 亡夫が、その行動で教えてくれたことは、きっと、南薔王となる彼女の指針となるはずだ。
 「采・・・」
 心を静める呪文のように、緻胤は何度もその名を呟いた。
 やがて、幕を包んでいた陰が取り払われ、代わりに、楽人達が奏でる楽の音と、多くの人々が発するざわめきが彼女を包んだ。
 ゆっくりと輿が下ろされ、緻胤を囲んでいた幕が、するすると上げられる。
 澄明な春の日差しは、未だ陰ることなく、緻胤の目を細めさせた。
 「・・・緻胤殿!」
 喜びを隠そうともしない声・・・。
 緻胤は何度か瞬いて声の主を探す。
 と、傍らに付き従っていた西州候よりも先に、白く美しい手が、恭しく彼女の手を取った。
 「お待ちしていました」
 笑みの容に細まった瞳は、深い海と同じ蒼。
 春の陽光すら弾いて輝く残雪のような銀髪を、惜しげもなく短く切り揃えた青年に、緻胤は心から和んだ笑みを返すことができた。
 「お久しぶりでございます、倪下」
 導かれるまま、輿を降りた緻胤は、そのままカナタに手を引かれ、ゆっくりと城内へ続く階を昇る。
 「まさか倪下御自ら、お迎えいただけるとは思っておりませんでしたから、驚きましたわ」
 「本当は、城外までお出迎えしたかったのですが、止められました。神殿の威儀に関わるそうです」
 そう、緻胤の耳元に囁くと、彼女はくすくすと笑みを漏らした。
 「そこまでお心配りいただきまして、ありがとう存じます。わたくしも蟷器から、倪下をお頼りするように言われておりますので、どうぞ、お見捨てなく」
 「こちらこそ。
 南薔の国と民を、あなたにお委ねします」
 和やかに話しながら、長い階を昇りきると、階下を見下ろすよう、カナタに促される。
 素直に振り返った緻胤は、その光景に目を丸くした。
 衣装の色まで合わせ、整然と居並んだ神官達。
 その口の端に上るのは、雑多な歓声ではなく、緩やかな旋律の歌声だった。

 ―――― 豊穣なる 世界を産みし 母皇陛下
 命見守る 惶帝陛下
 命育む 煌帝陛下
 命増やす 湟帝陛下

 我が王を見守りたまえ
 我が国を育みたまえ
 我が民を増やしたまえ

 南薔国に恵みあれ 南薔国に豊穣あれ
 我が国は 皇帝陛下の 御許にあり――――

 「これは・・・・・・」
 その歌声の、あまりの美しさに声を失った緻胤に、カナタが微笑みかける。
 「南薔は巫女の国です。皇帝陛下や精霊王閣下への供物は、必ず歌と共に饗されます。当然、新王をお迎えする時も」
 「これが・・・南薔・・・・・・」
 歌は何度も何度も繰り返され、緻胤は波のように打ち寄せる旋律にうっとりと聞きほれた。
 初めて聞く歌なのに、なぜか懐かしく感じるのは、昔、母が歌っていた歌と旋律が似ているからだろうか。
 血統正しい巫女であることを誇っていた母が、いつも懐かしんでいた国・・・。
 「南薔・・・。これが巫女の国・・・・・・」
 緩やかな旋律の、澄んだ歌声に包まれていると、ざわざわと身の内でざわめくものがある。
 この身に流れる薔家の血が、巫女の旋律を知っているのだと、歌いだしたかのようだ。
 「南薔国に恵みあれ 南薔国に豊穣あれ  我が国は 皇帝陛下の 御許にあり――――」
 巫女達の歌に自身の声を乗せ、緻胤は穏やかに微笑んだ。
 「倪下・・・。わたくし、この国の王になるのですね・・・」
 頬を紅潮させ、口元をほころばせた緻胤に、カナタは頷いた。
 「神殿も、あなたへの協力を惜しまないと誓います。南薔を、再び豊かな国にするために」
 「では・・・まず、わたくしのお願いを聞いていただいても、よろしいでしょうか?」
 「なんでしょう?」
 にっこりと、あどけないほどに無邪気な笑みを浮かべる緻胤に、カナタは、わずかに首を傾げた。
 「我が姉、沙羅に、第三十一代南薔国王の御位を追贈してくださいませ。そして改めて、南薔王として弔ってくださいな」
 さらりと、なんの気負いもなく放たれた言葉の意味を、瞬時に掴み損ね、沈黙するカナタに、緻胤は言い募った。
 「王世子であった姉を差し置いて、わたくしが玉座に就くわけには参りません。民の前で堂々と南薔王を名乗るためにも、亡くなった姉から玉座を継いだ事にしたいのです」
 「ですがそれは・・・・・・」
 「できないとおっしゃるなら、わたくし、今すぐこの階を降りますわ」
 それとともに、南薔の玉座を捨てると、暗に示した緻胤の顔には、相変わらず、なんの気負いもない。
 あくまでにこやかに、世間話でもするかのような様子に、仲睦まじいことだと思う者はあっても、聖太師を脅しているなどと気づいた者は皆無だったろう。
 あまりのことに自失したカナタが立ち直るまで、緻胤は穏やかな笑みを浮かべたまま待っていた。
 「・・・・・・参ったな」
 ようやく、そう呟くと、カナタは深く吐息した。
 「その件に関しましては、私の一存では決しかねます、と言っても、あなたは許してくれないのでしょうね」
 「言質を頂きとうございますわ」
 「脅かさないでください」
 苦笑しつつ、巫女達に背を向けたカナタは、緻胤の手を引き、城内へ入るよう促す。
 「わかりました。私からは、あなたの望む通りにしてください、と申しましょう。ただし・・・・・・」
 ちらりと、肩越しに居並ぶ巫女達を見遣ったカナタに倣い、緻胤も背を向けてしまう前に、美しい声で歌う彼女達の姿を見遣った。
 「同朋を虐殺された彼女達を説得することは難しいでしょう、とも、ご忠告申し上げます」
 詳しくは中で話しましょうか、と、なだめるように微笑んだカナタに従い、巫女達に背を向けた緻胤の顔からはもう、笑みは消えていた。


 緻胤が、カナタに手を引かれるまま、連れて行かれた部屋は、白を基調とした清潔な雰囲気の部屋だった。
 大きな人工の池の辺に面した部屋には、咲き初める花の香を乗せた風が吹き寄せ、爽やかな香気に満ちている。
 西桃の王宮で焚かれる、濃い獣性の香煙に悩まされていた緻胤にとっては、ほっと息のつける部屋だ。
 「素敵なお部屋ですね・・・とても落ち着きます」
 奥の座に就いた緻胤が、部屋で迎えてくれた女達を見回しながら言うと、最年長らしき老女が進み出、女達を従えて深く一礼した。
 「この度は、ご出産も間もなく長の旅路につかれ、お疲れのことと存じます。佳葉へご出立なさるまで、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
 「ありがとう・・・あら?」
 顔を上げるよう、命じた老女の顔を見て、緻胤が笑みを漏らす。
 「あなた、倪下と一緒に東蘭へいらっしゃった方ね?筝殿・・・でしたか?」
 「はい。陛下におかれましては、わたくしごときをご記憶いただきまして、恐縮にございます」
 「もう一人、南州候もいらっしゃいましたね。お元気ですか?」
 それは、何気ない問いだったのだが、重い沈黙を返されて、緻胤は訝しげに対面に座るカナタを見遣った。
 「英華殿は、亡くなりましたよ。あなたの姉上に、殺されたのです」
 「え・・・では・・・・・・」
 「あの夜の、被害者ですよ」
 カナタの口元から笑みが消え、禍々しい思い出がもたらす苦痛に耐えるように、眉根がきつく寄る。
 「緻胤殿、先ほど私は、神官達に姉上の即位を認めさせる事は難しいだろうと申しました。それほどに、彼女の罪は重い。到底、許すことはできません。それでもあなたは、彼女に三十一代南薔王の位を追贈せよと言うのですか?」
 思わず、きつくなってしまった語調に、緻胤がうなだれた。
 「でも・・・。
 姉は他国に対して、既に三十一代南薔王を名乗っております。
 それを、神殿が認めていないからと、全くなかったことにして、姉の名を薔家から消すことはできません・・・」
 きつく握り合わせた両手に視線を落としたまま、懇願する緻胤に、カナタは深く吐息し、筝を見遣った。
 「筝殿、緻胤殿はこうおっしゃっているが、どうだろう?神官達は、不満に思わないだろうか」
 カナタの問い掛けに対し、筝は珍しく即答しなかった。
 いつもならば、微笑を浮かべ、教え諭すように答えを紡ぐ唇は、硬く引き結ばれたまま、一向に開こうとしない。
 それが、彼女の答えだった。
 「・・・緻胤殿、あなたも、あの日の佳葉をご覧になっていれば、沙羅の行ったことの恐ろしさに、言葉を失ったことと思います。
 未だ、生々しい悪夢に悩まされる神官達は、沙羅の名前すら口の端に上らせようとはしないのですから、どうか彼女達の心情をおもんぱかって・・・」
 「でも、姉は亡くなりました」
 諭そうとするカナタの言葉を遮って、緻胤は顔を上げた。
 「わたくしも、話に聞いただけではありますが、姉が何をしたのかは知っています。
 有為の人々を奪われた倪下や、身内の方を亡くした人々にとっては、姉は、許しがたい存在でしょう。
 ですが、姉はその夜に負った深手の為に、治療の甲斐もなく亡くなったと聞いています」
 ―――― 治療の甲斐もなく・・・。
 その言葉に、カナタがぎくりと顔を強張らせた。
 緻胤は、沙羅がカナタによって見殺しに・・・いや、なぶり殺しにされた事を知らない。
 きっと、沙羅が南薔王家の王世子として、丁重に扱われたのだと信じ、疑いもしないのだろう。
 ―――― 俺が・・・殺した・・・・・・。
 緻胤の何気ない言葉に、自責の念が、抑えようもなく湧き出る。
 『あれは あの女が犯した罪に対する罰よ
 あなたが気に病むことなどないわ・・・』
 身の裡で、慰めるように女が囁くが、それをカナタは否定した。
 ―――― 違う・・・俺が命じて、俺が殺した・・・。
 『あなたは悪くない  あなたは何も 悪くない
 あの女は 自らの命で罪を償っただけ』
 ―――― 放っておけば死に至る傷だと知っていて、放置した・・・。彼女が苦しみもがく様を、ただ冷たく見つめていた。
 『当然の罰よ』
 ―――― 彼女を殺したのは、俺・・・。
 『違う』
 ―――― 処刑するなら、何もあんな苦しみを与えるべきじゃなかった・・・。
 『あなたは悪くない』
 ―――― 初めて人を殺した・・・。
 『あなたは何も・・・』
 ―――― 俺の・・・罪・・・・・・。
 「倪下?」
 思考と共に身の裡に沈んだ五感が、訝しげな緻胤の声によって現実へと引き戻された。
 「あの・・・わたくし、こんなにも倪下をお悩ませして申し訳ないのですけど・・・・・・」
 「いえ・・・」
 かろうじて笑みを浮かべたものの、それが隠しようもないほどに引きつっているであろう事は確信できる。
 ―――― 俺が姉をなぶり殺したと知れば、彼女は俺を憎むのだろうか・・・。
 笑みを浮かべることのできなくなった目は、瞬きもせず、緻胤を凝視する。
 そのまま、言葉を失ったカナタに、不安げな視線を返す緻胤から目を逸らして、カナタはそっと吐息した。
 ―――― いや、彼女はきっと、俺を憎みはしない。
 以前、蟷器が言っていた―――― 彼女は、母親の腹の中に、恨みとか憎しみと言った、暗い情念を忘れて来た女だと。
 だが、深く人を信じる者だけに、裏切りは、深く彼女を傷つけ、悲しませることだろう。
 その方が、烈しく責められるよりもむしろ、カナタを苛む。
 ・・・緻胤にこの事実を知られたくない。
 彼女に知られ、その信頼を失うくらいなら、死者に名誉を贈ることなどわけないことだ。
 そう、決意したカナタは、凝然と立つ筝に視線を移した。
 「筝殿・・・。沙羅に南薔王の名を追贈すれば、どんな不都合があると思う?」
 カナタの暗い語調に、筝も思い至ったのだろう、しばらく、漣の立った水面のように皺の浮いたまぶたを閉じ、意を決したように頷いて見せた。
 「お赦しを得て申し上げます。
 どのような不都合があるかとのご下問には、まず、神官達が不満を漏らすであろうと申し上げます。
 神殿を蔑ろにし、神官を虐殺した者が王位を襲うことは即ち、玉座を汚すことだと。
 更に申し上げれば、畏れながら緻胤陛下は、虐殺を行った沙羅殿下の実の妹君でありますゆえ、神官の中には陛下に対し、不信感を抱いている者もおりましょう。
 南薔へ入国されたばかりの折り、未だ陛下のお人柄を存ぜぬ者達ばかり故、どうか即時の追贈はご容赦くださいませ」
 『即時の』という言葉に、緻胤は考え込んだ。
 確かに、未だ恐怖の記憶も生々しい人々に対して、沙羅を王として認めよ、と言うのは、癒えてもいない傷口を広げるようなものかもしれない。
 さすがにそれは、王としてより以前に、人として心無い振る舞いであるように思えた。
 「・・・・・・わかりました」
 硬く組み合わせていた手を解いて、緻胤は微かな苦笑を浮かべる。
 「形式を第一に考える余り、あなた方の心情を蔑ろにするところでした。何事も、急いては仕損じますものね。
 追贈のことは、何年か経って、皆が口の端に上らせる事ができるようになってからの事としましょう。
 ですが、その後からわたくしが三十二代南薔王を名乗るのも妙な話ですから、わたくしの即位の際は、三十一代南薔王の名を空白にして、最初から三十二代南薔王を名乗らせてください。
 そのくらいはいいでしょう?」
 「そうですね・・・」
 曖昧に笑いながら筝を見遣ると、苦笑を返してきたので、カナタはゆっくりと頷いた。
 「緻胤殿のお望みのままに。この国は、あなたにお委ねしたのですから」
 「ありがとう存じます、倪下!」
 ほっと、安堵したように顔を綻ばせた緻胤に、カナタは笑みを返す。
 「カナタと呼んでください。倪下と言われると、どうも老けた気がしてしまうんですよ」
 「まぁ・・・」
 緻胤は、その言葉に軽い笑声を上げた。
 東蘭で初めて聞いた時に比べ、やや屈託が混じっているように思ったのは、カナタ自身が屈託を抱えていたからだろうか。
 ともあれ、南薔にも春が訪れた。
 それは未だ、冬の色を濃く残すものではあったけれども。




〜 to be continued 〜


 










・・・ようやく;;;
ようやく緻胤が南薔国に入りました;;;
ここまで来るのに、やたら長い道のりでしたね;;;
後はさくさく行ってくれたらいいなぁ;;;;(不安)
振り返れば、死ぬ予定の人はこれで全員お亡くなりあそばし、死ぬはずじゃなかった人まで巻き添え食らってお亡くなりあそばしてました・・・。(マジかい;)
これでしばらくは、血なまぐさくはないお話になる・・・はず・・・?(はっきりしろ;)
今回、南薔復興の第一段階として、西州候と三人の州伯も登場。
西州候のイメージは、歌舞伎の女形さん達です。(特に誰、と言うのはないです)
シルフが身分を偽る時に使った、『西州の貴族』の話が、実はこの人登場の伏線だったのですけど、ここに到達するまでにあまりにも長くかかってしまったので、完全に忘れられていますね、きっと;












Euphurosyne