◆  26  ◆







 ―――― 緑の森に あかいつぼみひとつ
 日の光にはぐくまれ
 月の光に見守られ
 命ふるえて ほころぶ春

 緑の森に あかい花ひとつ
 日の光にはぐくまれ
 月の光に見守られ
 今を盛りと 咲き誇る夏・・・・・・

 美声ではないが、暖かい春の日差しと調和する歌声は心地よく、忙しさに荒んだ気持ちを鎮めてくれる。
 カナタは、歌声に導かれるように、まだ所々傷んだ回廊を、音も立てずに進んで行った。
 「失礼、緻胤(ジーン)殿」
 声を掛けると、歌声は止み、広々とした部屋は一瞬、沈黙に支配された。
 「お迎えに参りましたよ」
 和んだ笑みを浮かべ、カナタは多くの神官達がかしずく中、露台に佇む緻胤に歩み寄る。
 「緊張していますか?」
 くすりと、笑みを漏らすと、緻胤は困惑げに顔を伏せた。
 「・・・・・・はい」
 東蘭の王妃であった頃は、常に堂々としていた彼女だが、母の故郷とは言え、まだもの慣れぬ国では、さすがに勝手が違うらしい。
 南薔王として初めて、民の前に姿を見せる―――― ただそれだけのことなのに、珍しく気弱になっている彼女に、カナタは笑みを深めた。
 「何も気負うことはありませんよ。東蘭に比べれば、まだまだ南薔の民は少ないのですから。
 あなたはいつも通り穏やかに笑って、手を振ればいいだけです。その他のことは全て、神官達がやってくれます」
 さぁ、と、差し出された手を取り、緻胤はカナタに従う。
 南薔国の国主が纏う装束は、東蘭や西桃で纏った王妃のそれと比べれば、むしろ質素とも言えるものだったが、その何倍も重いように感じられた。
 「猊下(げいか)・・・・・・」
 初めて南薔国に足を踏み入れて以来、常に彼女の側にいる聖太師に導かれるまま、緻胤は民と対面すべく、女王の間を出た。
 彼女達の後に付き従う女達―――― いや、改めて南薔国の都と定められた佳葉(かよう)の王宮にいる者のほとんどが神官であるためか、異様なほど静かな回廊を粛々と進むにつれ、不安は大きく、重く緻胤の上にのしかかってくる。
 「わからない事はわからないと、正直に言っていいんですよ?」
 強張った顔の緻胤の耳元に囁き、カナタはいたずらっぽく笑った。
 「私も、何もできないし、わからないから、筝殿に頼りきりです。だけど、神殿はちゃんと動いているでしょう?」
 だが、筝に全てを委ねている事と同義ではない、と、カナタは補足する。
 「大きな山を一人で動かそうだなんて、人間には無理な事ですよ。でも、何万もの人間が、何代もの時を重ねて行えば、可能な事もあるでしょう」
 それは以前、蟷器(トウキ)にも言った事である。
 「あなたは、南薔の女王ではあるが、神ではない。全部一人で背負い込もうなんて、無駄な努力はやめなさい。そんなこと、精霊王だってやっていませんよ」
 「・・・精霊王と、お知りあいのような口調だわ」
 目を丸くしてカナタを見上げる緻胤に、彼はにっこりと笑った。
 「今度、紹介しましょうか?繁葉(はんよう)に一人、間借りしているのがいますから」
 「間借・・・」
 たまらず、緻胤は笑声を上げた。
 「倪下には、素敵なご友人がいらっしゃるのね」
 「彼がどう思っているかは、知りませんけどね」
 片目をつぶって見せると、緻胤は再び笑声を上げた。
 ややして、笑いを納めた彼女の顔からは不安の色が消え、いつもの穏やかな笑みが表れた。
 「そうですね・・・。私は、私のできる事をします。手に余ることは、皆さんにお任せするわ」
 落ち着いた声音に、カナタが深く頷く。
 「あなたは、どうすれば南薔が豊かになるか、どうすれば他国と上手くやっていけるか、大元だけを考えていてください。計画して実行するのは、臣の仕事です」
 「はい」
 緻胤は、彼女を導くカナタの手を握り返し、強く頷いた。
 かつて、彼女の夫達がそうしてきたように、毅然と胸を張り、彼女を待つ民の前に立つ―――― この日、緻胤は歓呼に迎えられ、正式に南薔王の玉座に就いた。
 第三十二代南薔国王・緻胤。
 後世、世界に最も影響を及ぼした女王の誕生だった。


 ―――― 緑の森に あかいこのみひとつ
 日の光にはぐくまれ
 月の光に見守られ
 熟す日を待つ 豊かなる秋

 緑の森に あかい種ひとつ
 日の光にはぐくまれ
 月の光に見守られ
 眠り春待つ 静かなる冬・・・・・・

 「それは子守唄か?」
 穏やかな笑みを含んだ蟷器(トウキ)の声に、杏嬬(アンジュ)は柔らかく微笑んで夫を迎えた。
 「母が・・・幼い頃によく歌ってくれたのです。南薔の歌だそうですわ」
 以前の杏嬬は、一人でいる時ですら歌を歌うような女ではなかったのだが、子を孕んで以来、別の女になってしまったようだ。
 邸の最奥にある、小さな庭に面した部屋で、春の柔らかな日差しを受けながら、ゆったりと自身の腹部を撫でる様はとても落ち着いている。
 しかし、
 「・・・お聞き苦しゅうございましたか?」
 と、不安げに蟷器を見上げる目は変わらない。
 「いや、いい声だ」
 思わず笑みを漏らすと、杏嬬は顔を赤らめて俯いた。
 「・・・お恥ずかしゅうございます・・・」
 蟷器の愛妾には、東蘭一と謳われる歌姫もいる。
 耳の肥えた彼に、自分の歌はどのように聞こえたのかと思うと、杏嬬は泣き出したいほどの羞恥にかられた。
 「他の女達を気にしすぎだ、お前は」
 苦笑して、蟷器は赤面する妻を抱き寄せる。
 その身体は以前より柔らかく、蟷器はまた笑みを漏らした。
 「太ったお前も、初めてだな」
 「・・・・・・お見苦しゅうございますか・・・?」
 袖で顔を覆ってしまった杏嬬の、消え入りそうな声に、蟷器はいや、と首を振った。
 「前よりずっといい。
 今までのお前は儚すぎて、いるのかいないのかすらわからないほどだったからな」
 それにしても、と、蟷器は不思議そうに杏嬬の、まだ大きくはない腹部を見下ろす。
 「今、子守唄を歌っても、聞こえないだろうに。なにか効果でもあるのか?」
 「聞こえるかどうかは・・・わたくしも存じませんけど・・・。
 ただもう、わたくしの中にいてくれることが、いとおしくてたまらないのです」
 「そんなものか」
 完全には納得しがたい様子ながらも、蟷器は頷いて見せた。
 「で、どっちだ?」
 余人であれば、意味を図りかねたであろう問いに、杏嬬はくすりと笑みを浮かべて首を振る。
 「初めてなのですもの。生まれるまで、男子か女子かはわかりかねますわ」
 「そうなのか?嬢ちゃんは、傑が生まれる前から男だと確信していたぞ」
 だから、母親にはわかるものだと思っていた、と呟く蟷器に、杏嬬は楽しげな笑声を上げた。
 「いかに南海のご出身とはいえ、陛下は南薔王のお血筋であられるのですもの。
 常人にはわからぬ事もおわかりになられるのですわ、きっと」
 それは、盲信に近い過大評価だったが、薔家に対する、最も一般的な評価でもある。
 ずっと緻胤の側近くにいた蟷器には、彼女に神性や聖性を付加することは、中々難しいことではあるのだが、彼女自身を知らない者達にとっては、薔家の名が緻胤の全てを語ると言っても過言ではないのだろう。
 「じゃあ、名前を決めるのは、まだ待った方がいいのか?」
 「お気の早い・・・。生まれるのは、冬でございますよ?」
 まだ夏も訪れてはいないのに、と、杏嬬は笑声を収められない。
 「だが、産み月はあっという間に来るというからな。
 生まれてから慌てるのは嫌いなんだ」
 蟷器らしい言い様に、杏嬬がまた笑声を上げていると、
 「では、どちらでも良いように、二通りお考えあそばされてはいかが?そうすれば、慌てる事もございませんでしょう」
 女にしてはやや低い、威厳に満ちた声が、狭くはない部屋に響き渡った。
 「・・・義母上」
 あからさまにうんざりした蟷器の声に、『義母』と呼ばれた中年の女は、肉付きの良い頬に深く笑みを刻んだ。
 「そのように、嫌な顔をなさるものではありませんよ、泓河(コウガ)殿。誰のお陰で杏嬬と結婚できたと思っているのです?」
 「・・・全く、誰のせいで結婚する事になったんでしょうねぇ」
 蟷器はうんざりと吐息して、杏嬬を抱いていた手を離し、義母である女性に向き直った。
 彼女は、杏嬬が身ごもったと知った途端、はるばる岫州(じゅしゅう)からやってきて、身重の娘の代わりに邸の采配を振るっている。
 邸に帰る度、何やかやと世話を焼かれて、蟷器の気はやすりをかけられたようにささくれ立っていた。
 だが、そんな蟷器の嫌味すら頓着した様子もなく、彼女―――― 樹氏、もしくは樹夫人と呼ばれる―――― は、娘夫婦に歩み寄った。
 「杏嬬の笑い声など、初めて聞いたこと。
 この子は、母親のわたくしにさえ、笑みも涙も見せはしなかったから」
 ふっくらと笑う母親に、杏嬬は赤面した顔を俯けてしまう。
 「―――― 泓河殿。
 女華綾(おんなカリョウ)と呼ばれた娘に、人間らしい感情を持たせてくださったうえ、お子まで下さった事に感謝しますわ。お礼は何がよろしくて?」
 「別に、何も要りませんが」
 くすくすと、笑みを漏らす義母に、蟷器は憮然と答えた。
 彼は、世界中で最も、この義母を苦手としている。
 彼女の顔を見る度、嫌な思い出が蘇るのだ。
 独身を貫く予定であった蟷器が、東蘭国北方の豊かな州、岫州の姫を娶る事になったのには、南薔出身の彼女のせいだと言っても過言ではない。
 式の日取りまで決まった娘が言い出した我侭のために、彼女は夫である岫州候を脅し、蟷器を軟禁して、無理矢理結婚を承諾させたのである。
 蟷器が心から、南薔の女を恐ろしく思ったのは、あれが最初だった。
 やると決めたら何が何でもやり抜こうとする意志の強さは、東蘭や西桃の常識を超えている。
 彼が、南薔国の女王になろうとする緻胤の身の安全を、過剰なほどに案じ、自ら出向いて聖太師に後見を頼んだのには、この義母に象徴される『南薔女』への恐怖だったかもしれない。
 「全く、つれない婿殿だこと」
 くすり、と苦笑を漏らした後、樹氏は蟷器に真向かった。
 「では、あなたが更迭された際は、我が州へいらっしゃい、とだけ申しましょう」
 「―――― 俺が更迭される?」
 「ええ。このままだとね」
 嘲弄しようとした蟷器の機先を制し、樹氏は笑みを深める。
 「それは、巫女殿の予言ですか」
 「予言の力などに頼らなくても、この程度の事はわかります」
 皮肉げな蟷器の言い様も、頓着すること無しに聞き流して、彼女は邸主の勧めも待たず、柔らかなクッションを積み上げた長椅子に腰を下ろした。
 「あなたは能吏ですし、将来、必ず東蘭の国柱になるでしょう。ですが、若い王にとって、口うるさいじいやは目障りなもの。
 まだ幼いうちはあなたを頼りきっていても、親政を行う頃になれば、強大な権力を持つあなたを退けたくなる事でしょうよ」
 「お母様・・・・・・!」
 杏嬬の、たしなめるような声音を、蟷器はわずかに眉を寄せて制する。
 「それは、どういったお立場でのご忠告か。
 我が義母として?それとも、岫州候夫人として、国を憂えておられるのか?」
 「人の親として、他家の子供の話をしていますわ」
 そう言って、くすくすと笑みを漏らす様はいっそ無邪気とも言えるほどで、とても一国の宰相を相手に権力の行く末を語っているようには見えない。
 「どんなに聞き分けの良い、素直なお子であっても、親や教師に反発したくなる時はあるでしょう。
 いえ、なければおかしいと言うもの。成長の証なのですからね。
 ですが、なまじお子が権力を持っていれば、その影響は計り知れないものになりましょう。
 その時は、妙に抗わず、すんなりと身を引いた方が、傷口も浅くて済みますわ」
 違いますか、と、微笑む顔は、杏嬬の儚さとは似ても似つかない毅さがあった。
 「・・・義母上、生国の女性は、皆、あなたのように聡明でしたたかであられるんでしょうか」
 思わず、深く吐息した蟷器に、樹氏は、さぁ、と、笑って首を傾げる。
 「中にはそう、したたかでない方もいらっしゃるのではなくて?」
 「中には・・・ね」
 苦笑して、肩の力を抜いた蟷器は、再び吐息した。
 「かの国で、緻胤陛下がお心安くおられるのか、また心配になってきましたよ。まだお若くていらっしゃるのに、あなたのようなつわものを何人も相手にしなければならないとは、お気の毒な事です」
 「それは大丈夫でしょう」
 「・・・どこから来るんですか、その自信は」
 何度皮肉を言っても聞いてくれない相手に、段々気が立ってくる。
 「王というものは、どれだけ臣の信頼を得られるか、どれだけ臣を使いこなせるかにかかっているのでしょう?」
 少なくとも東蘭の前王は、蟷器をはじめとする能吏達を使いこなしていた、と、樹氏は笑った。
 「わたくしは、緻胤陛下とは数えるほどしかお会いしておりませんが、おおらかなお人柄でいらっしゃいますもの。波長の合う者達の信頼を得ることは、難しくありませんわよ」
 だが、と、蟷器は心中に呟く。
 緻胤は、人を使う事に慣れていない。
 南海王の王女として、また、東蘭王妃として、自身に与えられた領地の支配ですら、人任せにはしなかった女だ。
 「緻胤陛下がどれほど優れたお人柄だったとしても、意見の合わない者や対立する者というのは、必ずいる。そんな者達を使いこなす事は、まだ難しいだろうと思いますが?」
 だからこそ、蟷器は南薔に出向いてまで、聖太師であるカナタに会見を求め、緻胤の後見を頼んだのだ。
 なぜか彼は、南薔の中枢である神殿の主として、神官達の忠誠心を一身に集めているのだから。
 「危なくなる前に、東蘭が援助すればよいではありませんか。東蘭王陛下のご意志なのでしょう?」
 にこりと口の端を曲げ、樹氏はこともなげに言い放った。
 「どうぞ、南薔に恩を売って、繁葉に繋いだ綱を離さぬよう、お気をつけあそばせ。
 あの地から、富を吸い上げ続ける事ができれば、東蘭でのあなたの地位も、揺るぎないものになるでしょうよ」
 繁葉は、かつての南蛮―――― 現在は、東蘭王・傑の支配下にあるため、『南海王国』と呼ばれる―――― に侵略、領有された、南薔国南三州の一つ、栄州にある、世界最大の貿易港である。
 世界各国の船が一度は停泊する港は、莫大な富を生み、その地を南海王国ごと相続した東蘭の財政を潤していた。
 「あの繁葉を東蘭に与えたという一事だけでも、あなたが捺印される印影の、三品の位を表す三匹の蛇が二匹になる日も、そう先のことではないでしょうね」
 長い袖で、上品に口元を覆いつつ、再び予言めいたことをいう樹氏の目が、楽しげに歪んだ。
 南薔国の北州候ゆかりの者であった彼女は、近隣各国に侵略された南薔の中で唯一、その地位を守っていた北州候を粛清した前南州候と南州に対して、冷ややかな感情を持っている。
 為に、南州候が処刑されたと聞いた時などは、思わず『天罰だ』と、笑みを漏らしたほどだ。
 その上、彼女の娘婿が、南州の富の源であった繁葉を実質的に支配し、その功績によって中央で強大な権勢を握ったことで、何かと言えば『州候の娘を平民に嫁がせるとは』と、愚痴を言い続けていた夫の口を封じることもできた。
 蟷器は、彼女の誇りを十二分に満足させてくれた、本当に優秀な娘婿なのだ。
 心よりの賞賛を送ることに、やぶさかであろうはずもない。
 そんな樹氏の心情に、蟷器はとっくに気づいている。
 が、鬱陶しいことだと思いつつも、彼や彼の仕事には実害のないことだ。
 放っておいても、なんら問題のないことではあるのだが、神経がささくれ立っていくのはどうしようもない。
 しばらく家を離れようかと、密かに企んだ蟷器の心を読んだか、機先を制して、樹氏は娘の隣に席を移した。
 「ですが婿殿、老婆心で申し上げますが、頂上に行けば行くほど、足場は狭くなる事をお忘れなく。
 こんな時こそ身を慎んでおかねば、良からぬ輩の妬みを買って、陥穽(かんせい)に落ちる事もありましてよ」
 「・・・ご忠告、感謝いたします、義母上」
 にっこりと、口の端を曲げた蟷器に、樹氏もゆったりと頷く。
 「本心からそう思うのであられるのなら、もっと自然にお笑いあそばせ。女の目は、偽りの笑みを見抜きましてよ」
 「・・・・・・肝に銘じましょう」
 杏嬬が、はらはらと気をもみながら見守る中、彼女の母親と夫は、朗らかな笑声を上げた。


 悪夢に胸をふさがれ、はっと目を開けると、眼前は濃い闇に覆われていた。
 闇は、西桃の後宮に幽閉されていた時のことを思い出させる。
 為に、南薔に来て以来、緻胤は寝る時も微かに灯りを入れておくよう、命じていたのだが、薄く開いた窓から吹き寄せる風が、灯火を消してしまったのだろう。
 悪い夢の続きのような様に、彼女はたまらず寝台から滑り出た。
 窓を開け放つと、掻き傷のように薄い月と、飛沫のような白い星々が現れる。
 それらは、明かりというには微かなものではあったが、真の闇から抜け出した緻胤は、ようやく安らぎを得てほっと吐息する。
 そのまま、広大な庭へと歩み出ると、大きな人造湖を渡る風が、背に流した褐色の髪を揺らした。
 悪夢の中で、彼女の胸を塞いでいた、濃い獣性の香気を拭い去ろうと、緻胤は自然の花の香を含んだ風を胸いっぱいに吸い込む。
 と、鉛を溶し込まれたかのように重かった胸も、やや軽くなった気がした ―――― この日、彼女は西桃後宮に仕える宦官、荀(ジュン)から書簡を受け取った。
 彼女が産んだ子・・・。
 産まれた途端に引き離され、西桃の玉座に据えられた赤子の名が決まったと、知らせてよこしたのだ。
 汕(セン)―――― 西桃王家流に、水の名を与えられた我が子・・・。
 本来であれば、東蘭の王子として、木の名を与えられるはずだった子なのに、彼女の軽はずみな行動のせいで、あの暗く冷たい西桃に置き去りにしてしまった・・・。
 ぶるりと震えて、緻胤は自身の肩を抱いた。
 日差しにはそろそろ、熱のこもっていく時期ではあるが、夜の風はまだ冷たい。
 薄い夜着一枚で佇むには寒いかと、何か羽織るものを探しに部屋へ戻ろうとした時、目の端にゆらりと動く灯火を捕らえて、彼女は何気なくそちらへと目をやった。
 女王の部屋から伸びる回廊は、複雑に曲がりながら各宮を繋いでいるが、間に視線を塞ぐ木々などがないために、昼ならば遠くまで見渡せる。
 が、深更の闇に覆われた今は、各所に灯された灯火すら儚げで、わだかまる闇を更に濃くする以外の役目を果たしていないように思えた。
 「・・・風に揺れていただけかしら?」
 目の端に捕らえた時は、歩みと同じ速度で進んでいたように思ったのだが、気のせいだったようだと、再び歩き出そうとした時、再び現れた灯火が、ゆっくりと動いていく様を見止めた。
 誰かが足元を照らしているのだろうそれは、迷うことなく回廊を渡り、神官の中でも高位の者達に与えられる宮の方へと去って行く。
 「・・・まだ誰か、仕事でもしているのかしら?」
 呟いて、緻胤はあら、と、頬に手を当てた。
 最初に灯火を見止めた場所・・・その奥には、聖太師の部屋がある。
 「まぁ・・・まだお仕事してらっしゃるのかしら」
 それほど仕事熱心には見えないけど、と呟いて、緻胤は思わず苦笑した。
 「いつも助けていただいているのに、私ったら不敬だわ」
 呟きつつ、部屋に戻ると、緻胤は服を一枚羽織り、改めて火を灯した燭台を手にした。
 隣室にいるだろう侍女たちに気づかれないよう、足音を忍ばせて部屋を出ると、ようやく通い慣れた回廊を、聖太師の執務室へと向かう。
 こんな夜中に、と、思わないでもなかったが、一人で闇の中にいるのは、とても恐ろしかった。
 また悪夢の中に戻るよりは、あの人間の匂いのしない、変わり者の聖太師と語り合っていたかったのだ。
 緻胤が足音を忍ばせながら、ゆっくりと渡る回廊は、息を潜めているかのように静まりかえっていたが、まだまだ完全修復には至っていないためか、時折、彼女の足元で軋みを上げる。
 「・・・さっき誰かが通っていた時には、こんな音しなかったわよね」
 また太ったのかしら、と、吐息しつつ、緻胤はカナタの部屋へと続く回廊の、最後の角を曲がった。
 扉はなく、大きな衝立で目隠しをしただけの彼の部屋からは、やはりぼんやりとした明かりが漏れていたが、人が起きているにしてはあまりにも微かなそれに、緻胤は逡巡して立ち止まる。
 もう休んでいるのなら、邪魔するわけにも行かないと、踵を返しかけたのだが、不意に、静寂に慣れた耳が微かな声を捉えて、緻胤は改めて歩を進めた。
 が、部屋の前で、声を掛けようとした時―――― 緻胤は、衝立の陰から見えた光景に、声を失った。
 カナタは、冷涼な夜の空気に満ちた部屋の、大きな執務机に広げた書類の上に、無言で視線を落としている。
 彫像のように微動だにしない彼の銀髪は、淡い月の光に照らされて蒼白く輝き、白い膚は微かな灯火を受けて紅く染まっていた。
 一幅の絵のような姿に見惚れていると、彼の唇が、わずかに動いた。
 「・・・・・・これは、すぐに停止を命じたいんだけど、早急すぎるかな」
 まるで、誰かに意見を求めているような口調を、緻胤が訝しく思う間もなく、彼の周りに蒼い燐光が浮かんだ。
 蛍火のようなそれは徐々に集まり、女の姿を形作って行く。
 『誰が反対できるというの? あなたの思うようにすればいいわ』
 やがて、その口元から漏れ出た声はとても艶やかで、甘えるようにカナタの肩に絡められた腕は、女の目から見てもなまめかしかった。
 「妓楼の経営を禁じるのは、もう少し待った方がいいかな。余計な反感を招きかねないしね」
 カナタの呟きに、女は優雅な仕草で頷く。
 『まずは 神官が人身売買を行う事を禁じるだけでよいのではなくて?
 聖太師自ら命じたという事実が どんな影響を及ぼすものか 見極めてから決めても遅くないと思うわ』
 「そうだね。
 じゃあ、その後の事は、緻胤殿と相談してからの事にしようか」
 カナタの言葉に、女は蒼い陰の落ちる瞳を、すっと細めた。
 『だったら 今 相談したらどう? せっかく訪ねて来ているのだし』
 女の皮肉げな声に、カナタは書類に落としていた視線を上げ、部屋の外に佇んでいた緻胤は、ぎくりと肩を震わせた。
 「緻胤殿・・・どうしました、こんな時間に?」
 『南薔王陛下におかれましては 聖太師猊下へ夜這いでも仕掛けにいらっしゃったのかしら?』
 「麗華」
 くすくすと、意地の悪い笑声を漏らす女をたしなめ、カナタは席を立つ。
 「お入りになりますか?この部屋は、外よりも寒いですけど」
 言いつつ、カナタは広い部屋にただ一つ置かれた、小さな灯火を手に取り、いくつもの灯芯に火を灯していった。
 先ほどとは打って変わって明るくなった部屋では、麗華と呼ばれた女の姿が希薄になったことに勇気を得て、緻胤は一歩を部屋に踏み入れる。
 「あの・・・ごめんなさい、こんな遅くに・・・・・・」
 「私は構いませんけどね。なにか、ご用だったのでしょう?」
 そう言われて、緻胤は更に困ってしまった。
 真夜中に目を醒ましたら、カナタも起きているようだったから訪ねて来てしまった、などと言っては、先ほどの女に、また嘲弄される事だろう。
 何とか、うまい言い訳はないかと考えを巡らせては見たものの、元々嘘をつくのは苦手な性格だ。
 結局、正直に、この部屋から出てきた灯りが気になって訪ねて来たと言うと、カナタはくすりと笑みを漏らした。
 「つまり、私が神官に夜伽を命じたのかとは、思われなかったんですね?」
 「え・・・?」
 カナタのいたずらっぽい口調に、緻胤は目を丸くして絶句する。
 あまりにも人の匂いがしない彼に、彼女はその可能性をすっかり失念してしまっていたのだ。
 「一応私も、男なんですけどねぇ」
 そう言って苦笑するカナタに、緻胤は顔を赤らめてうつむいた。
 下手をすれば、彼女はカナタの濡れ場を目撃する所だったかもしれないのだから。
 「ごめんなさい・・・!私ったら、なんて失礼な事を・・・・・・!」
 思えば、こんな時間に女が一人で男性の――― カナタを男と見ていなかったなどとは、口が裂けても言えない――― 部屋を訪れるなど、非常識もいいところだ。
 なのに、緻胤は『夜中に訪れる無礼』には思い至っても、淑女としての礼儀をきれいに忘れていた。
 東蘭や西桃では、思いもしなかった自身の行動に耳まで赤くして、顔を上げられずにいる緻胤に、カナタは笑声を上げた。
 「なんてね。先ほどここに来たのは筝殿ですから、艶事とは無関係ですよ。
 第一、私には嫉妬深い守護精霊が憑いているので、あなたの神官達に手を出すことはありませんから。ご心配なく」
 「・・・守護精霊?」
 「さっき、ご覧になったでしょう?私の麗華を」
 言うや、カナタは長い袖を払って、身近の灯火をいくつか消した。
 再び闇の訪れた場所に、蒼く浮き上がる燐光は、未だ女の形を留めている。
 「麗・・・?まさか、蒼い薔薇の・・・・・・!」
 『そうよ
 惶帝(こうてい)陛下の御許にあった時には 南蛮の地でもたくさんの魂魄を狩ったわ』
 「またそんな、脅すような事を言う」
 苦笑するカナタにぴったりと寄り添った蒼い薔薇の精霊が、笑みを深める様に、緻胤はびくりと肩を震わせた。
 「怯える事はありませんよ、緻胤殿。
 麗華は、あなた達が思うほど恐ろしい精霊ではありませんから」
 『あら あなたの前でだけ かもよ?』
 くすくすと、肩を震わせて笑う精霊から、緻胤は思わず目を逸らす。
 麗薔(リショウ)――― それが、冥府の女帝に仕えていた頃の麗華の名だが――― の物語は、幼い頃に幾度も聞いたものだ。
 死人と同じ、蒼い膚をした蒼い薔薇の精霊・・・。
 闇に迷った魂魄を導き、時には死にきれずにもがく者達の命を奪っていったと言う。
 戦場(いくさば)の慈悲とさえ呼ばれ、闇精よりもなお、人々に恐れられていた精霊が、なぜこのような場所にいるのか・・・。
 人の魂魄には恐れを抱いた事のない緻胤だが、今回ばかりは恐怖に口を利くこともできない。
 その様子に、カナタは苦笑して、灯火の消えた灯芯に再び火を灯した。
 「驚かせてしまったようで申し訳ない。ですが、今の彼女は本当に、恐ろしい精霊ではありませんよ?」
 「・・・・・・そう言われましても・・・・・・」
 心身ともに頑強を誇る勇士でさえ、麗薔の名には、おののかずにはいられないはずだ。それほどに、幼い頃に植え付けられた恐怖は、克服する事が難しいものだろう。
 なのに、彼女の目前に佇む聖太師は、平然と麗華を受け容れている。
 「カナタ様は・・・その・・・平気なのですか・・・?」
 おずおずと尋ねれば、彼は当然のように頷いた。
 「初めのうちは、一人になれない事に苛立つ事もありましたけどね。慣れればそれほど不便なものでもありませんよ」
 緻胤の問いに対し、全く的外れな答えを返すカナタに、緻胤は更に戸惑う。
 聖太師という立場上、多少は浮世離れしているにしても、ここまで常識が通じないと、別世界の住人のようだ。
 「どうかされましたか?」
 唖然と、言葉を失った緻胤に尋ねると、彼女はようやく首を振った。
 「いえ・・・・・・お邪魔して・・・申し訳ありませんでした・・・」
 彼女らしくもなく、消え入りそうな声で呟くや、緻胤は一礼して踵を返す。
 早足で部屋を出る背を見送ってしまうと、カナタは元の闇に戻すべく、袖を振って部屋中の灯りを落とした。
 「・・・どういうことだろうねぇ、これは?」
 苦笑を含んだ声に、闇に浮かぶ蒼い陰は笑みを収め、憮然と呟く。
 『女王がこんな夜更けに 一人で出歩いても止める者もいない・・・
 これはいよいよ あなたの篭絡にかかったと言うことじゃなくて?』
 「やっぱり?」
 緻胤とカナタの部屋の間にはそれなりの距離があり、彼女がこの部屋に至るまでは、幾人もの女官や衛兵が息を潜めていたはずである。
 「明日には、すごい噂になっているかもしれないね」
 やれやれと吐息して、カナタは再び、執務机の席についた。
 『少々 釘をさしておいた方がよろしいのではなくて 猊下?』
 ふわりとカナタの側に寄り添った麗華が、蒼い瞳を細める。
 『このままでは いつ差し迫った状況に追いやられるか わかったものではなくてよ?』
 「差し迫る?」
 読み込んだ書類に署名し、特別にあつらえた青い印肉に聖太師の印を乗せながら、カナタが問い返した。
 「俺が周りの圧力に屈して、蟷器の思い通りに事が運んでしまうって事?」
 署名の最後尾に印を乗せ、均等に力を込めると、白い地にくっきりと青い印影が残る。
 かすれることなく描かれた、四柱を背景にしたフクロウの姿に、カナタは満足げに頷いて書類を置いた。
 『ありえなくはないでしょう?』
 「どうかな?俺は、面倒な事は嫌いだから」
 そう言って、笑声を上げるカナタに、麗華は笑みもせず、ただ、沈黙を返す。
 「そうは見えない?」
 『最近は仕事熱心よ?人が変わったみたいね』
 こうやって毎日、私を呼び出すし、と呟く麗華に、カナタは顎をつまんで首を傾げた。
 「そりゃあ、色々とショックなこともあったからねぇ・・・。
 それに、あのままあっちの世界にいれば、就職してあくせく働いていた事だろうし。いい加減、俺も大人にならなきゃなぁと、反省したんだよな」
 なにしろ、こちらの世界では、カナタの実年齢より若い者達が、命をかけて戦っているのだ。
 彼ばかりが安楽な場所で、暢気に過ごしているわけにも行かないだろう。
 しかし、そんなカナタに、麗華は苛立った声を上げた。
 『何度も言うけれど あなたは精霊の眷属よ  彼らと同じじゃないわ』
 これほど言ってもまだわからないの、と、麗華が不快げに眉を寄せるので、カナタの口調は、自然となだめるものに変わる。
 「精霊だって、命をかけて働いているじゃないか。
 近頃じゃ星が瞬く度に、『働け!』って、怒られている気分になるんだよねぇ」
 笑いながら、首をのけぞらせると、開け放たれた大窓の外に冷たく瞬く星々が煌く。
 その一つ一つが、火の、風の、闇の精霊達の、天道を守護する姿だ。
 今は薄い、掻き傷のような月にも、カナタが足を下ろす地上にも、そして、今は闇の底に没した太陽にも、それぞれの皇宮を守護する精霊と、世界を統べる皇帝達がいる。
 「俺だけ遊び暮らしていたら、冗談ではなく殺されますって」
 ね?と、いたずらっぽく笑い、カナタは墨と印影の、あらかた乾いた書類を手に取った。
 「さて、と。
 せっかく眠らなくていい身体なんだから、もう少し仕事熱心なところを見せておくかな」
 『もう 狂言だってばれていると思うけど?』
 「狂言だって、やらないよりはマシだろ?」
 麗華の素っ気ない言葉に苦笑を返して、カナタは新たな書類を取り上げた。
 先ほど、筝が持って来たそれは、前西州候、蘇維麗(ソ・ユイリ)による、佳葉復興のための提案書である。
 「・・・名前って、代えられないものなのかい?」
 その署名を見た途端、カナタはそう言って苦笑した。
 蘇維麗は、その名から想像するような、優美な女性ではなく、西州候を引退した子持ちの男性である。
 先日、南薔に返還された西州の州候であった彼は、女児を産むことができなかった母によって戸籍を改竄された上、女性として巫女の位を受け、西州候の位を継いでいたのだ。
 西州特有の、血筋に固執する性質が成した悲劇とは言え、異邦人であるカナタには、苦笑するしかない、滑稽な話だった。
 「まぁ、いいや。麗華、この書類、読んでくれる?」
 未だ、完全には文字を追えないカナタである。
 蟷器からの手紙のように、簡易な文章であれば、何とか自力で読むこともできたが、何かと難解な文字や言い回しを使っては、威儀を正したがる公式文書には、まだ歯が立たない。
 為に、これらを読み解くには、麗華の音読を必要としたのだが、頼みの精霊は沈黙したまま、口を開こうとしなかった。
 「麗華?」
 訝しげに彼女を見上げると、麗華はカナタを冷たい視線で見下ろしている。
 『・・・本当はどうなの?』
 「どうって?」
 彼女が何に対して怒っているものか考えようともせず、無防備に問い返すと、物凄い目で睨まれ、カナタは持っていた書類を落とした。
 『あなた自身は あの女のことをどう思っているの?
 まさか 東蘭のカマキリの思うように運んでもいいなんて 思っているんじゃないでしょうね?』
 以前、蟷器と会見して以来、彼に好印象を持っていない麗華である。
 緻胤にカナタを奪われるかもしれないという、屈辱もさることながら、彼の思う通りに事が運ぶことが許せないのだ。
 「そりゃあ俺も・・・蟷器の思い通り、緻胤殿の夫になろうなんて思ってないけどね」
 確かにカナタは、緻胤に対して好印象を持ってはいるが、大昔の政略結婚じゃあるまいし、『夫になれ』と命じられて素直に従う気にはなれない。
 しかし、
 「あ、今が大昔か」
 政略結婚が常識だった、などと、不用意に呟いたために、麗華の目が、更にきつく吊りあがる。
 『なんですって?!』
 きつく問い詰められ、カナタは冷や汗を流しながら、頭の中で言葉を探し続けた。
 相手が人間であれば、そんなわずかな沈黙は、疑わしくはあっても、結論を決定づけるものではなかっただろう。
 しかし、麗華はカナタの裡(なか)に棲む精霊だ。
 彼の考えることは、その混乱共々、口に出すまでもなく彼女の耳に届いた。
 『―――― やっぱりあなたは 人間と一緒にいたいのね』
 麗華の震える声に、否定する言葉を紡げないまま、カナタはただ彼女を見上げる。
 『・・・どうして・・・?』
 カナタがこの世界にきてから六年、麗華はずっと、人間だった彼の心を精霊の眷属に変えようとして来た。
 彼自身の人ならぬ能力―――― 老いや痛みのない身体、水を操る力を目の当たりにさせ、人とは完全に違う者なのだと、聖太師と言う身分ともあいまって、他より秀でた、特別な存在なのだと、存分に知らしめて来たのだ。
 何をしても、すべてが許される―――― そう教えてきたのに彼は、どうしても自身を、特別な存在だと認めようとしない。
 突けば簡単に死ぬような、凡百の人間と同じである事に執着する―――― 神官達の、崇拝と畏敬を集めてなお、その執着に変わりはなかった。
 『どうして・・・?
 あなたは水精の眷属だと言うのに どうして人間と同じでいたいなどと思うの?』
 身体を喪ったとはいえ、精霊である麗華には、理解し難い心情だ。
 元は人間でありながら、その功績により、精霊の眷属として迎えられた彼が、未だに人間と同じでいたいなどと思うのは、許せる許せないの問題ではなく、天地を司る皇帝と精霊達への冒涜にしか思えない。
 彼女の思いは、口にするよりも強く、彼女の宿主である彼に響いたことだろう。
 しかし、カナタは麗華から目を逸らし、俯いたまま呟いた。
 「・・・・・・ごめん。
 君には悪いけど、俺は人間だ・・・。
 どんな能力を持っていても―――― たとえ、この能力の為に、迫害されることがあったとしても、俺は多分、ずっと、人間のままだ・・・・・・」
 飲まず、食わず、眠らずにいても、決して身体を損なうことはないのに、カナタは自分でも可笑しいほど、それらの行為に執着した。
 もちろん、彼にとってそれらは必要な行為ではないため、水や食料の乏しい際には、あえて行おうとはしなかったが、他国に赴いた際など、食卓を囲んでの会合には積極的に応じたし、心地よい寝台があれば、夜明けまで目を閉じて横になることも珍しくはないのだ。
 「麗華・・・。君の助けには、本当に感謝している。
 だけど、こればかりは、本当にどうしようもないんだ・・・・・・」
 群れたがるのは、人としての本質か、カナタ自身の性質によるものかは定かではないが、彼は、木精の聖地である玉華泉(ぎょくかせん)から献じられた住処にも寄らず、彼に水精の身体を与えた精霊王の招きすら断って、荒廃した南薔に留まり続けた。
 それは、南薔の前々王、精纜(セイラン)を慕ったわけでも、彼女から献じられた、聖太師という特別な位に執着したからでもない。
 ただ単に、人として、人間の群れの中にいたかったのだろう。
 そう言って、改めて麗華を見上げれば、彼女はきつく眉を寄せ、唇を噛み締めて、横を向いた。
 『・・・悔しいわ』
 震える声以上に、その激情はカナタの心に流れ込んでくる。
 妬み、恨み、怒り、哀しみ・・・。
 そんな、暗い情念が、容赦なく溢れ出る。
 だが、カナタはそんな麗華を、見下げる気にはなれない。
 彼女とカナタは、同じ身体に棲む魂魄だ。
 彼女の激情は、また、カナタの激情でもある。
 麗華が、精霊の身体と能力を持つカナタに嫉妬するのは、彼女自身が喪い、切望しているものを持ちながら、彼がその価値に重きを置かない為だ。
 それだけでも、気が狂いそうなほど悔しいと言うのに、更に彼は、人間と同じでいたいなどと言う。
 この上彼が、神にすら愛された薔薇の精霊である自分よりも、何の取り柄もなく、美しくもない女の方を選んだ時、自分はその屈辱に耐えられるのだろうか?
 『・・・冗談じゃないわ』
 耐えられるわけがない。
 この麗華が。
 惶帝の側近くに仕え、湟帝に愛でられた蒼い薔薇が、人間の女ごときに負けるだなんて・・・!
 『カナタ・・・
 あなた 私とあの女と どちらが――――・・・』
 大切なの?という言葉は、紡ぐことができなかった。
 今はまだ、麗華と比較できるほどには、緻胤のことを想ってはいないカナタに、そんな問いを発しても困らせるだけだ。
 彼は、国のためだと割り切って、麗華を切り捨てるような、冷酷な男ではないのだから。
 だが、それとは別に、緻胤がカナタを惹きつけつつあることは確かだ。
 彼女は、麗華が失ってしまった暖かい身体を、更には、カナタを人間の群れの中に受け入れる包容力を持っている。
 麗華か緻胤か、ではなく、精霊の側に行くか人間の元に残るか、という選択を強いられた時、カナタがどちらを選ぶかは、最早、明白だった。
 彼自身、『ずっと人間のままだ』と、明言したのだから・・・。
 俯き、声を失った麗華へ、カナタは腕を伸ばした。
 「麗華。
 俺が、この世界で生きてこれたのは、君がずっと支えてくれたおかげだよ。
 緻胤殿のことは嫌いじゃないけど、まだ、君と比べられるほどじゃない」
 ・・・・・・『まだ』?
 その、無意識に混ざりこんだ言葉に、麗華は唇を震わせた。
 もし、身体を持っていたならば、蒼い膚は血の気を失って、更に蒼く彩られたことだろう。
 今はまだ、比べるべくもないとしても、いずれ、あんな醜い人間の女とカナタを奪い合うことになるのだろうか?
 そんな事態は、考えることすら許せることではない。
 「麗華?」
 差し伸べた腕からすり抜けた麗華を、カナタが訝しげに見上げる。
 『・・・・・・カナタ
 あなたは私のことを・・・・・・知っているわね・・・・・・?』
 ひどく冷静な声が、冷え切った部屋に響いた。
 常より深さを増した蒼い目―――― 既に決意を固めた、揺るぎない瞳に、カナタはじっと見入る。
 『私達が共にいた時間は―――― 何物でも計れない・・・・・・
 そうよね・・・・・・?』
 六年前、冥府で出会って以来、ずっと同じ身体を共有してきた。
 同じ目、同じ耳で世界を捉え、互いの思い、考え方の違いに、時折、驚きながらも、共に過ごして来た。
 カナタにとって、麗華はこの世界を渡るために必要な指針であり、麗華にとって、カナタは冥府へ落とされようとする魂魄を守る城壁だった。
 しかし今後、カナタの心が僅かでも、麗華と緻胤の間を揺れるようであれば、麗華はカナタの裡で過ごすことはできない・・・・・・。
 カナタが緻胤と共にある時、一瞬でも麗華の存在を失念するような事があれば、麗華は屈辱のあまり、自らの刺で緻胤とカナタ、そして、自身をも切り裂いてしまうことだろう。
 自身の誇りを汚す者を、決して許さず、誇りを失うくらいなら死を選ぶ・・・・・・それが、『麗華』。神の愛した薔薇だ。
 彼女が、決断を翻すことはありえない。
 カナタは深く吐息すると、自身を見つめる蒼い瞳から、目を逸らすことなく囁いた。
 「誇り高い君が、好きだよ、麗華」
 『・・・・・・だって
 私から誇りを奪われたら もう何も残らないもの・・・・・・』
 カナタの言葉に、麗華は寂しげに微笑むと、今度は自分から、彼の頬へと手を伸ばした。
 「玉華泉なら、君を守ってくれる。澪瑶公主(レイヨウこうしゅ)からだって・・・きっとね」
 『そうね・・・・・・』
 細い声で呟き、麗華はそっと、カナタに口付けた。
 『さようなら』
 唇を離しても、カナタの頬に添えた手は名残惜しげに伸ばしたまま、麗華は微笑んだ。
 「・・・・・・また会う日まで」
 カナタの言葉が、聞こえたかどうか―――― 蒼い燐光は闇の中で薄れ、霧のように儚く消え去った。
 しばらく―――― もしかしたら永遠に、身の裡から失われた魂の行方を追うように、カナタはその日の太陽が昇るまで、凝然と燐光の消えた場所を見つめていた。




〜 to be continued 〜


 










『ワタクシ、実家に帰らせて頂きます!』
『勝手になさい』
な今回。(ナニソレ;;)
どうしてもうまく流れてくれなかった別離までの感情表現。
悩んでいる時に流れたのは、『天城越え』でした(笑)
『誰かに取られるくらいなら あなたを殺して いいですか』
これを聞く度に思うんですが、どうですか、女性の皆さん。
殺したいのは、彼ですか、それとも、彼を取った女ですか。
聞いたところによると、恋人が浮気した時、男性の多くは自分を裏切った彼女を憎み、女性の多くは彼を取った女を憎むそうですよ。
しかし、自分で書いておいて言うのもなんですが、なぜかこの話、歌がよく出てきますね;;
今回で多分、5曲目ですか。
あんまり飾らず、『素朴なカンジ』をイメージしつつ、作詞しているようです。(長い時間をかけて少しずつ作詞したものばかりですので、細かい事は覚えてませーん;;)
私は音符も読めない人なので、『きれい系』『軽い系』くらいしかイメージが持てませんが、誰か作曲してくれたらすごく嬉しいぞ!(><)←無茶を言ってはいけません。












Euphurosyne