◆  27  ◆







 夜を照らし続けた珂瑛(かえい)が西の空に沈み、瑰瓊(かいけい)の放つ曙光が東の空を炙り出しても、カナタは無言で、永く共にいた精霊の、消えた場所を見つめていた。
 どれほど見つめたところで、あの誇り高い薔薇の精霊が、再び現れることはないだろうとわかってはいたが、彼は、まるで魂を失ったかのように呆然と、その場を見つめ続けていた。
 やがて、瑰瓊が空の濃度を明るく染め替える頃。
 起き出した人々の、動き出す気配が王宮中に満ち、それは更に時を置いて、カナタの部屋にまで達した。
 「猊下、お目覚めでございますか?」
 おそらく、そう言ったのだろうが、今のカナタにとってそれは、鳥のさえずりとなんら変わらぬ、未知の発音だ。
 「・・・猊下?」
 なんの反応も示さないカナタに、彼の侍女達は、訝しげに互いの顔を見合わせ、カナタは、再度の呼びかけに仕方なく席を立った。
 ――――・・・聖太師が片言じゃ、みっともないか。
 心中に呟き、跪いたままの巫女達に向き直ったカナタは、にっこりと微笑みかける。
 「おはよう」
 いきなり未知の言葉で話しかけられた侍女達が、きょとん、とした顔でカナタを見上げる様に、彼はくすりと笑みを漏らした。
 「麗華に去られてしまってね。君達の言葉が、わからなくなってしまった」
 日本語で話しかける彼の言葉が、彼女達に理解できるはずもなく、侍女達は狼狽した様子で互いの顔をせわしなく見合わせる。
 「とりあえず・・・緻胤殿と、筝殿を呼んできてくれるかな?」
 言葉は通じなくても、人名の発音はそう違いはないだろうと、二人の名をゆっくりと発音すると、侍女たちははっとしたように動きを止め、一礼すると、慌てて立ち上がった。
 が、
 「あ、そうだ」
 カナタの呟きに、びくりと足を止め、再び跪く。
 「この事は、他言無用に。ね?」
 言葉は通じなかっただろうが、カナタの、笑みを浮かべた唇に、人差し指を当てるジェスチャーは通じたらしい。
 深く頷いた彼女達に、今度こそ退室を命じて、カナタは暖めていた席に再び座り込んだ。
 「俺、六年はこの国にいたはずなんだけどなぁ・・・」
 麗華がずっと指導してくれていたおかげで、読み書きの方は何とかこなせるようになっていたが、会話は全て、彼女を通していたので、全く理解できない。
 「ライティングとリーディングはできて、ヒアリングとスピーキングができないって、俺って、典型的な日本人学生だな」
 麗華に去られただけで、六年間住んだ国の言葉も操れない自身に、自嘲することもできず、ただ呆れるしかない。
 そしてそれが、だんだん焦りに変わってきた頃、
 「猊下!!」
 筝が、骨と皮ばかりの顔を真っ青にして、カナタの待つ部屋へ飛び込んできた。
 しかし、カナタの、表面上は平然とした様子に、ほっと胸をなでおろす。
 「まぁ、猊下・・・。
 わたくし、侍女達が慌てふためいて要領を得ないものですから、何事が起きたかと飛んでまいりましたのに・・・一体、どうなさったのですか?」
 おそらく、そう言ったのだろうと察して、カナタは執務机に頬杖をついたまま、筝へ苦笑を向けた。
 「麗華が、実家に帰ってしまってね。あなた達と会話ができなくなってしまったんです」
 「・・・猊下・・・あの・・・・・・?」
 彼女が知る、いかなる外国語とも違う言葉に、筝が目を丸くするので、カナタは新しい紙を取り出し、執務机に置かれた硯の中に残った墨に、筆を浸した。
 ―――― 麗華に去られてしまったので、会話ができなくなりました。
 さらさらとしたためると、筝は文字の連なった紙面を凝視したまま、凍ったように立ちすくんだ。
 「・・・では・・・猊下・・・南薔語は全く、お話しになれないのですか?」
 震える手で、カナタから筆を拝借し、同じ紙面に書き加えた筝が、机上に腰をかがめたまま、上目遣いにカナタを伺う。
 そんな彼女に、カナタはしばらく考えた後、
 「ゼンゼン、ワカレンワケッチャナイケド、聖太師ガ、カタコトイウンモナンヤカラ、ダマッテタダヨ」
 にこにこと笑いながら言うと、筝はその顔から全ての表情を消した。
 「・・・・・・片言と言うより、訛りすぎです」
 しかも、と、カナタを睨みあげる。
 「今の、わざとおやりになりましたね?」
 カナタとは、もう随分と長い付き合いになる筝だ。
 カナタがこんな時にさえ―――― いや、こんな時だからこそ、冗談に紛らわせようとする悪癖を持つことを知っている。
 「しかし・・・困りましたね。
 聖太師猊下が南薔語をお話しになれないなんて、どう取り繕うべきか・・・・・・」
 困惑げに、首を傾げる筝を見上げて、カナタも吐息する。
 どうにかして、外に知られる前に元通り会話できるようになれないだろうか。
 すぐにいい方法など思いつくはずもなく、二人が考え込んでいると、もう一人、カナタが指名した人物が入ってきた。
 「カナタ様がご不調なのですって?」
 南薔国の現女王は、筝よりは落ち着いた様子で入ってくると、床に伏しているわけでもないカナタを見遣って、訝しげに首をかしげた。
 「ご不調って?」
 彼女がすぐに、カナタから筝に視線を移したのは、昨夜の気まずさがあったからだろうか。
 筝も、常の彼女であれば、女王の様子こそが変だと気づいたことだろうが、今は、冷静な目も曇ってしまっている。
 「それが・・・」
 なんと説明すべきか、慎重に言葉を選ぶ筝が、ふと視線を落とした紙面を見遣って、緻胤は思わず声を上げた。
 「まぁ・・・!南薔語がお話しになれないなんて・・・」
 更に目で文字を追い、麗華が去ったことを知った緻胤は、目を丸くした。
 「どうして突然、そんなことに・・・・・・」
 昨夜はあんなに仲睦まじい様子だったのに、と、驚く緻胤を手で制して、カナタは彼女へ笑いかけた。
 彼女もまさか、自分がその原因だとは思うまい。
 「ヨビダシテワルカッタナ、ジョウチャン。マァ、タイシタコトハネェンダケドヨ」
 「まぁ、カナタ様!蟷器の物真似なんかなさっている場合じゃありませんわ!!」
 「・・・猊下・・・東蘭の宰相殿は、砕けたお言葉をお話しになりますので、ご参照なさらないでくださいませ・・・・・・」
 カナタの口調に、緻胤が怒声を上げ、筝は砕けそうになる膝を支えながら、紙面に筆を走らせた。
 「デハ、ドナタノお言葉をご参照スレバヨロシイカシラ?」
 「・・・・・・わたくしの真似もおやめください」
 途端、筝の肌が粟立ったのを見て、『本当に鳥皮みたいだな』などと、不届きなことを思う。
 しかし、
 「・・・ちょっと待って下さいな」
 緻胤が、何か思い至ったように手を上げ、向かい合う二人の間に割って入った。
 「カナタ様、もう一度、同じことをおっしゃっていただけますか?」
 「陛下・・・・・・」
 強くたしなめる口調の筝を制して、微笑む緻胤に頷きを返し、カナタは同じ言葉を繰り返す。
 「デハ、ドナタノお言葉をご参照スレバヨロシイカシラ?」
 「あら・・・!」
 「ね?」
 彼女の言わんとするところに気づいたらしい筝に、緻胤は得意げに微笑んだ。
 一人、意味のわからないまま、カナタが首を傾げていると、緻胤は筝から筆を受け取り、黒く埋まりつつある紙面に新たな墨蹟を表した。
 「カナタ様はきっと、とてもお耳がよろしいのです。
 その証拠に、一度聞かれた言葉は、きれいに発音していらっしゃる」
 緻胤が、紙面に書きつつ、読み上げた言葉を繰り返すように示されて、カナタは言われるままに読み上げる。
 『カナタ様はきっと、とてもお耳がよろしいのです。
 その証拠に、一度聞かれた言葉は、きれいに発音していらっしゃる』
 「ほら!」
 「ええ!!」
 カナタの完璧な発音に、緻胤は筝に、得意げに頷き、筝は手を打って喜んだ。
 「不幸中の幸いでしたわ!
 このご様子でしたら、すぐに、会話にご不自由なさることもなくなるでしょう」
 安堵すると同時に、いつもの冷静さも戻ったらしい。
 再び、筆を拝借した筝は、新たな紙を取り出し、文字を連ねた。
 「猊下にできるだけ早く、復帰いただくためにも、男性の書記官を付けた方がよろしいかと存じます」
 「あら、そうね。いい考えだわ」
 頷く緻胤に笑みを返し、筝はカナタを見遣った。
 「蘇(ソ)殿にお願いしてはいかがでしょう?
 元は西州候であったあの方なれば、公の場での話し方にも通じておられることでしょうし」
 「蘇殿に・・・?」
 筝の言葉を、カナタは訝しげに繰り返す。
 蘇は、未だ若いながらも娘に州候の位を譲り、隠居してはいるものの、かつての西州候であり、西桃から南薔に返還されたばかりの西三州に多大な影響力を持つ人物だ。
 未だ領土を完全に取り戻せてはいない、南州の民をまとめる筝は、彼を、政治の中枢であるカナタや緻胤から遠ざけようとしていたはずだが・・・。
 ―――― どういった心境の変化だ?
 心中に呟いた問いには、いつまで待っても答えはない。
 常ならば、すぐに皮肉な口調で返ってきた声がないことに、カナタは、改めて失ったものの大きさを感じた。
 「でも・・・」
 沈み込んだカナタの傍らで、緻胤が呟く。
 「彼には今、首都の復興に専念して欲しいわ」
 カナタへの遠慮か、やや声を小さくして言う緻胤に、筝が深く頷いた。
 「陛下のおっしゃるとおりですわ・・・。
 あの方は今、お忙しい身でいらっしゃいますわね」
 世界中に広がった荒廃の中で、見事に西三州の都市を維持していた功績を認められた蘇は、緻胤によって工部尚書に任じられ、荒れ果てた佳葉の都を復興する任を負っていた。
 とても、聖太師のおしゃべり相手など、している暇はない。
 「ですが、聖太師猊下にお教えするのですから、男性ならば誰でもいい、と言うわけには参りませんものね。
 候子であればそれも可能でしょうが、南州の候子は現在、亡くなった英毅(エイキ)殿の後を継いで、兵をまとめるのにおおわらわでございますし・・・」
 「あら、南州にはもう一人、候子がいるでしょう?カナタ様、英利殿に命じてはいかが?」
 気乗りしない風の筝を遮って、緻胤はいいことを思いついたと言わんばかりにカナタに微笑む。
 ―――― なるほど。
 搦め手というやつか、と、カナタは思わず笑みを浮かべた。
 筝が最初から英利を推したのであれば、カナタも断りやすかったのだが、緻胤に勧められては断りにくい。
 しかも彼女は、英利を推したのが自分の考えだと思い込んでいる。
 筝の手管に苦笑を深める口元を隠すため、カナタはさりげなく手を当てて考え込む風を見せた。
 「・・・まぁ、書記もいいのですが」
 「何か問題でも?」
 他に何か手があるのかと、首を傾げる緻胤に、カナタは『可能性ですが』と、笑って頷いた。
 「繁葉(はんよう)に行って見ようかと思っています」
 カナタが紙面に書いた文字を読んで、筝は苦笑を浮かべ、緻胤は更に首を傾げる。
 繁葉は、佳葉の南にある、良港で有名な都市である。
 今も昔も、世界一の貿易港であり、この町が生み出す莫大な利益は、一国を支えるのに十分な金品をもたらした。
 その程度のことは緻胤も知ってはいたが、かつては南薔領であったここは、南蛮に奪われ、今では南蛮・東蘭を統合統治する緻胤の息子、東蘭王・傑(ケツ)が支配している。
 そんな場所に、南薔の聖太師がなぜ赴くのだろうかと、不思議そうに問うと、カナタはいたずらっぽく笑みを深めた。
 「以前、言ったでしょう?繁葉に、間借りしている友人がいると」
 カナタの言葉に、緻胤はそういえば、と頷き、筝は苦笑の容に唇を曲げた。
 「書記官を用意するのは、彼に会ってからにしましょう。もしかしたら、もっといい手を知っているかもしれないのでね」
 くすりと笑うと、緻胤は未だ納得しがたい様子で言った。
 「ですが、カナタ様が繁葉に赴かれるとなると、まずは東蘭に知らせを出さねばなりませんし、護衛を揃えるだけでも大変な時間がかかりますでしょう?
 せめて、繁葉へ赴く準備を整える間だけでも、書記官をお付けになってはいかがですか?」
 やんわりとたしなめようとする緻胤に、しかし、カナタは軽い笑声を上げて首を振った。
 「繁葉へは、私一人で参ります。
 だから緻胤殿も、私が繁葉へ行くことを、東蘭には内緒にしておいてくださいね」
 「お一人でって・・・まさか!」
 聖太師という身分を考えれば、あり得ないことだ。
 「御身に何かあられたら、どうなさるの?!筝殿、あなたも――――・・・」
 止めてくれと、言う以前に、筝に目線で制され、緻胤は自らの言葉を止めた。
 その様に、カナタは笑声を収めて新たな紙を広げると、
 「緻胤殿、ご心配いただけるのは嬉しいのですけど、私に危害を加えられる人間はいませんから、ご安心くださいね」
 そうしたためて、にっこりと緻胤に笑みを向けた。
 「それは・・・そうかもしれませんが・・・・・・」
 聖太師は本来、巫女の長である南薔の女王が座を譲った後に就く地位である。
 下界の政治に関わらず、飃山の神殿を治め、南薔のみならず世界中の神殿を支配する教主だ。
 神や精霊を畏れる人間ならば、決して害を加えようなどとは思わないだろうが・・・。
 「それでも、お一人で行かれるなんて、危険ですわ。
 せめて、護衛はつけていただかないと・・・」
 不安げに言う緻胤に、しかし、筝はやんわりと首を振ってたしなめた。
 「猊下は、真の精霊であられます。
 ご心配は無用ですわ」
 「そういうことです」
 いかにも自信ありげな二人に微笑まれて、緻胤は不承不承ではあったが、口を噤むしかなかった。
 ややして、
 「・・・わかりました」
 少々憮然とした口調ではあったが、緻胤が頷く。
 「カナタ様がそうおっしゃるのなら・・・それが南薔の流儀なのでしたら、わたくしは従うだけですわ」
 その口調が、すねた子供のようで、カナタは思わず笑みを漏らした。
 「すみません、緻胤殿。
 私達は決して、あなたを軽んじているわけではないのです。
 ただ、私にとって事は急を要しますし、友人を訪ねるのに大仰なことはしたくない・・・わかっていただけませんか?」
 カナタの書く言葉は、初めから聖太師として学ばされたため、非常に優雅で、柔らかく表現されている。
 その文面を見ていると、緻胤は自分一人が頑迷に格式にこだわっているように思えて、苦笑せざるを得ない。
 「お気をつけて行ってらしてね」
 「自重します」
 くすりと笑声を漏らして、カナタは緻胤に頷いた。


 大陸北方に横たわる大山脈、飃山の更に北は、月日の別なく、常に雪と氷に閉ざされた湟帝(こうてい)の領土が広がる。
 あらゆる生命の存在を拒むように、吹きすさぶ冷風が凍った雪を舞い上げるこの地において、唯一、生を許されるのは、湟帝の居宮、渺茫宮(びょうぼうきゅう)に住まうもののみ。
 広大な宮内は、外の極寒を完全に遮り、脆弱な花々でさえも生き生きと咲き競っている。
 中でも、湟帝の娘、澪瑶公主(レイヨウこうしゅ)の住まう清澪宮(せいれいきゅう)は、前水精王の在時には後宮であっただけに、女性らしい、曲線を多用した建築に様々な花が彩りを添え、渺茫宮随一の華やかさを誇っている。
 しかし、この宮の主である澪瑶公主自身は、花々の美しさになど目にも入らぬ様子で、ただ、傍らに侍る薔薇のみを寵愛していた。
 薔薇の名は、華綾(カリョウ)。
 硝子のように透明な花弁を持つ、美しい薔薇だ。
 木精の聖地、玉華泉(ぎょくかせん)に生まれた彼は、本来の薔薇の姿の他に、人の容をも持つ。
 銀の髪に、硝子玉の様な透き通った瞳―――― ただ、眼窩の闇を映すそれに、感情が浮かぶことはない。
 澪瑶公主の言葉にのみ従う人形は、頑なに他者の存在を拒む彼女の、唯一の話し相手だった。
 輝石を象嵌した真珠の目をくりぬかれ、暗い眼窩をさらす多くの人形達が飾られた部屋で、華綾の冷たく、滑らかな膚の感触や、指の間をすり抜ける、つややかな髪の感触を楽しむ―――― そんな公主の奇行から、水精達は黙って目を背けている。
 水精達は、他族の精霊達から見れば、異常なほど自身らの王を恐れていた。
 それは、闇精がそうであるように、神子への過ぎた畏敬がもたらしたものではない。
 暴君への恐怖―――― 公主を産んだ、前水精王に従っていた時からの、根強い恐怖だった。
 前水精王は、湟帝の妃であったが、悋気のあまり、湟帝に近づく女精霊達を次々に葬り去った暴君であり、公主もまた、自身を侮った水精の一部族を根絶やしにした、冷厳な君主だった。
 もっとも、公主の乳母役を務めた風精王に言わせれば、水精達の恐怖は完全に的外れであり、本当の公主は流血を好まない、繊細な神子だと、目を吊り上げて主張するものであったが。
 ともあれ、現在は渺茫宮を追われている風精王の主張を耳にする機会などない水精達は、今では公主へ声を掛けることさえも、多大な勇気を要するほどになっていた。
 「・・・・・・・・・失礼いたします」
 声が震えそうになるのを、必死に抑えて、流霞(ルカ)は公主と華綾と、目をくりぬかれた多くの人形達が住まう部屋の扉を開けた。
 「湟帝陛下の、お召しにございます」
 宮の最奥にある、公主の部屋に足を踏み入れることは禁じられている。
 壁泉から落ちる流水音が満ちる部屋の外から呼びかけた流霞へ、
 「嫌」
 と言う、素っ気ない一言が返された。
 恐る恐る、声の方を見遣れば、傍らに華綾を侍らせた公主が、流霞に背を向けたまま、風船のように宙を漂う水球を弄んでいる。
 一抱えはある水球の中では、真珠色の光沢を持つ数尾の魚達が、長いひれを優雅に揺らめかせながら泳いでいた。
 「公主・・・・・・」
 勇気を出して、再度呼びかけるが、公主は聞こえぬ風を装って『遊び』を続けている。
 公主は弄んでいる水球に、ふっ、と息を吹きかけては、水球と共に中の魚たちを凍らせ、また吐息をかけては、水球を元の水に戻した。
 中の魚達は、水球が凍れば眠り、溶ければまた、何事もなかったかのように泳ぎだす。
 命を弄ぶその遊戯に、流霞は内心、眉をひそめながらも、もう一度、公主の背中へ声を掛けた。
 「畏れながら公主、湟帝陛下が、公主をお待ちでございます」
 再三の呼び掛けに、公主はうるさげではあったが、ようやく振り向いた。
 「・・・恐れ入ります・・・・・・」
 粛々とこうべを垂れると、公主の立ち上がる気配がし、ややして、流霞の俯けた視界の中に、公主の、身の丈を覆ってなお余りある銀髪が、白絹の長衣の裾を飾って通り過ぎる様が映る。
 公主が彼女の前を通り過ぎるまで、慎重にこうべを垂れていた流霞は、公主の後に付き従うべく、踵を返そうとした時に、ふと目に映ったものについ、気を取られてしまった。
 それは、公主が弄んでいた魚達だった。
 公主の手を離れた途端、霧散した水球の中に棲んでいた魚達は今、冷たい床の上に投げ出され、苦しげに跳ね回っている。
 流霞は思わず、入ることを禁じられた部屋へと手を差し伸べると、再び水球を現して、水中に魚達を取り込んでやった。
 また、何事もなかったかのように、長いひれを揺らめかせながら泳ぎだした魚達に、ほっと吐息して踵を返した流霞は、既に先に行ってしまったと思っていた公主が、じっと、自分を見つめていたことに気づき、凍りついたように動きを止めた。
 「魚に水をあげたの?」
 公主の傍らでは、華綾が、感情のない目でこちらを見つめている。
 その目が、断罪する時を計っているかのように思えて、流霞は倒れるように両膝をついた。
 「お・・・お赦しください・・・っ!!」
 床に額づき、悲鳴じみた声を上げる流霞を、しかし、公主は興味深げに見下ろす。
 「あれはわたくしが創ったものだから、水がなくても死にはしないのに。そんなに、苦しむ様が憐れだった?」
 「せ・・・僭越をお赦しください・・・っ!!」
 今や、震える声を抑えることもできず、流霞は必死に額づいた。
 血の気を失った指先が、凍ったように冷たい。
 が、意外にも、流霞の上に降り注いだのは、冷たい言葉の刃ではなく、軽やかな笑声だった。
 妙なる音律を持つそれが、公主の笑声だと気づくのに、流霞はかなりの時間を要した。
 「水精にも憐憫の情があったなんて、意外だったわ。おまえたちはいつも、わたくしの前では、凍った顔しか見せないから」
 意外なのは流霞も同様―――― いや、公主以上に、驚愕している。
 恐ろしい暴君であった前王の娘であり、誇り高い神子である公主が、このように軽やかに笑うことがあるとは・・・・・・。
 呆然と、自身の影を映す床を見つめていると、公主が、流霞にこうべを上げるよう、命じた。
 「おまえ、名前は?」
 流霞を見下ろす笑みは、それまで傲慢に見えていたものだが、今は不思議と、親しみ深く見える。
 「流霞と・・・申します、公主・・・・・・」
 未だ震える声で言うと、公主は、深海と同色の瞳をじっと流霞に据えたまま、美しい唇に笑みを浮かべていた。
 流霞にとっては永遠とも思えるほど、長い沈黙の後、公主はすっと手を差し出し、白い指で流霞の顎をなぞる。
 その冷たい感触に、びくりと頬を引きつらせた流霞を上向かせると、公主は更に笑みを深めた。
 「おまえ、わたくしの魚達の、世話をさせてあげてもいいわよ」
 「え・・・・・・・・・」
 決して他者を受け容れようとはせず、ただ、風精王と闇精王にのみ心を開いていた高慢な神子の、意外な言葉に、流霞は言葉を失って、ただ瞠目する。
 が、
 「おまえ、わたくしの側に仕えなさい」
 と、繰り返された言葉に、慌てて床に額を擦り付けた。
 「も・・・もったいない・・・・・・!み・・・身に余る光栄に存じます・・・!!」
 流霞の、上擦った声を聞き流し、公主は自身の顎に手を当てたまま、考え込んでいる様子だった。
 ややして、
 「流鰭(リュウキ)夫人・・・・・・」
 呟やかれた声に、流霞の身の内を震えるほどの感動が走る。
 「おまえの尊称は、流鰭夫人にしましょう」
 「あ・・・!ありがとう存じます!!」
 更に高く上擦った声をも、聞いているのかどうか、公主は気に留める様子もなく、長い袖を振った。
 「流鰭、お父様の御座所へ参ります。輿を用意して」
 「は・・・はい・・・・!!」
 よろける足を叱咤し、立ち上がると、流鰭夫人・流霞は、今までの同僚達の元へと駆け戻った。
 自身が受けた栄誉を報せ、すぐに同僚であった者達を采配し始めたのは、身分に厳しい、水精ならではの光景だったかもしれない。


 「馬鹿なことをしたもんやわ、せっかく安全なとこにおったんに―――― だとよ」
 入り組んだ町の中にある、小さな料理店に入ったカナタは、店主が目を合わせた途端に放った言葉に、苦笑を返した。
 「さすが、情報が早いな。誰から聞いたんだい、それ?」
 聞くまでもなく、店主の真似た口調で、誰の言葉だったかは想像がついたが、一応問うて見ると、
 「さっきまで、そこに美桃(ミト)がいたんだ」
 と、彼はカナタが腰を下ろした丸椅子の隣を指し示した。
 「桃花の長が、わざわざ火精王の元へ?」
 言われてみれば、店内に満ちた脂の臭いの中に、甘い花の香りが混じっている。
 「意外な取り合わせだな」
 火を恐れるはずの木精が、選りによって火精の王を訪ねたということに、カナタは心底驚いていた。
 「俺も驚いたがな。まぁ、木精達が絶対に近づこうとしないここなら、安心して玉華泉の愚痴も言えるってとこかな」
 「愚痴・・・」
 その言葉に、カナタは苦笑した。
 美桃は、十四、五才の少女の姿をした木精であるが、その外見とは違って、玉華泉でも現木精王・美桜(ミオ)の次に古い精霊であり、次代の木精王と目されている。
 「あいつは、木精王になるのを嫌がっているのさ。
 美桜のように、玉華泉を背後にかばって、皇帝方や俺達精霊王と渡り合うことが、嫌で嫌でたまらないんだと」
 木精は、他の精霊族と違い、決まった主人を持たない。
 玉華泉という『聖地』で生を受け、まだ『実』のうちに皇帝、もしくは精霊王に『名』を与えられればその者に仕え、与えられなければ『名無し』の木精として玉華泉を護る。
 木精には、いくつかの力ある『一族』があり、木精王はそれら有力な一族の中でも最年長の者が勤める事になっていた。
 しかし、七つの精霊族の中では、最も無力な木精だけに、王となった者の苦労は計り知れない。
 「あいつはずっと、気楽な『名無し』でいたいんだとさ」
 しかし、いずれはそうも言っていられなくなることを、彼女は知っている。
 だからこそ、『誇り』などにこだわって、玉華泉に戻ってきた麗華に腹を立てているのだと、火精王は語った。
 「麗華は・・・」
 無事か、と、問うカナタに、火精王は笑みを消して頷いた。
 「今のところはな。
 だが、いつ、公主の気が変わるとも限らない。
 公主が玉華泉に対して、『罪人を渡せ』と言って来たら、美桜は断りきれるかどうか・・・・・・」
 美桜は、歴代の木精王の中でも名君と言われるにふさわしい王だが、麗華の件では、唯一の傷を残すことになるかもしれないと、火精の王は言う。
 「麗華は、身体を失った今でも、薔(しょう)族第一の薔薇だ。
 いずれは身体を再生させるものと、一族の者達は信じている。
 だが、あの魂魄をも公主に引き渡し、完全に抹消されたとしたら、薔族は木精王から離反するだろう」
 そうなれば、玉華泉は最悪の場合、分裂する。
 薔族全体の力は、どうにかすれば、木精王である美桜の力でさえ凌ぐのだ。
 「それは・・・美桃でなくても怒る・・・かな?」
 「怒る・・・というよりは、困る」
 そう言って、火精王は鮮やかな赤毛をかきあげた。
 が、ふと苦笑を漏らすと、
 「だがまぁ、それは玉華泉が決めることだ。俺達は関わらないほうがいい」
 そう言って、狭い店の奥にある厨房へと入って行った。
 「そんなことよりカナタ、おまえのことだろう?」
 「え?俺?」
 厨房の中からかけられた声に、カナタはやや声を大きくして問い掛ける。
 「え?って、麗華が出て行って、ここの連中と話せなくなったから、俺を頼ってきたんじゃねぇのか?」
 言われて、ようやくカナタは自身が繁葉までやって来た目的を思い出した。
 「そっか・・・。
 君といると、普通に会話ができるものだから、忘れていたよ、サラーム」
 「のんきなやつだ」
 軽い笑声を上げて、厨房から出たサラームがカナタに酒盃を渡す。
 「その件は、もう少し待っていろ」
 言って、彼は天井近くに穿たれた、小さな窓を指し示した。
 「もうすぐ日が落ちる。哩韻(リィン)が現れるまで、酒でも飲んでいようぜ」
 翳りつつある陽の姿を惜しむように、酒を満たした盃を掲げたサラームに倣い、カナタも軽く、盃を掲げた。


 陽が、完全に落ちてしまう以前に、その星は東の空に灯った。
 西の空に布陣する風精達の中で唯一、東方の空に昇る風精の諜報隊長、哩韻の星だ。
 しかし星は、灯ったと思った途端に、ふっ、と翳った。
 火精王に呼び出され、再び地上に戻った彼は、狭い料理店の一角で、酒を酌み交わすサラームとカナタの前に立つ。
 「お久しぶりです、カナタ」
 少年の姿をした風精が、軽く一礼すると、肩で切り揃えた明るい金色の髪が、風をはらんでふわりと舞った。
 「よぉ、哩韻。悪いな、わざわざ」
 言って、酒盃を掲げる精霊王に、哩韻は微笑んで首を振る。
 「いいえ。本日は、以前火精王よりご依頼のあった件の、ご報告も兼ねていますから」
 「依頼?」
 問い返して、カナタはサラームを見遣る。
 精霊王が、風精の諜報隊長に依頼したのだから、重要な情報には違いない。
 それを、自分が聞いてもいいものかと、問い掛ける視線に、サラームは口の端を曲げて頷いた。
 「カナタ、おまえにも関係のあることだ。聞いておけ」
 「俺に?」
 今度は哩韻に問い掛けると、彼は軽く頷いた。
 「水精でありながら、中々渺茫宮に伺候しようとしない水精には、貴重な情報だと思いますよ?」
 意地悪げに目を細めて言う彼に、カナタは苦笑を返す。
 「どうも俺は、寒いのが苦手でね」
 「水精なのに?
 正直に、水精が苦手だ、と言ったらどう?」
 くすくすと、軽い笑声を上げる少年に、カナタは苦笑を深めた。
 彼の言う通り、カナタは水精達が苦手だ。
 人界では水精と崇められるカナタも、渺茫宮では、末席の新参者に過ぎない。
 澪瑶公主によって、特別に取り立てられたとは言え、彼の出自が人間であることは、誰もが知っている。
 水精としては異形の存在である彼を、本来、身分差に厳しい水精達が快く受け容れるはずもなく、カナタは渺茫宮では、常に居心地の悪い思いをさせられたものだった。
 為に、自然と湟帝の宮殿から足が遠のいた彼に、風精の少年は、かの宮殿の事情を語った。
 「澪瑶公主は、もしかしたら、瀏妃(リュウヒ)と呼ばれる事になるかもしれません―――― 嫌がっておいでだけどね」
 「瀏妃?」
 瀏妃とは、直訳すれば『瀏家』出身の『妃』と言う意味だ。
 精霊の世界において、『妃』は皇帝の配偶者を意味する。
 だが、と、カナタは訝しげに首を傾げた。
 公主が『妃』になるような皇帝がいただろうかと。
 この世界には四柱の神があり、それぞれを母皇、湟帝、惶帝、煌帝と呼ぶ。
 このうち、母皇と惶帝は女神であり、湟帝は公主の実の父神であるから、公主が彼らの『妃』になることはまずあり得ない。
 残るは太陽神、煌帝だが・・・。
 「煌帝陛下には、既に妃があられるはずだけど・・・・・・耀妃(ヨウヒ)、だっけ?」
 光精王である精霊の名を挙げると、同じく煌帝に仕える身であるサラームは、苦々しげに顔を歪めて頷いた。
 「あの女が、いくら公主であれ、煌帝陛下の妃の座を譲るとは思えないな」
 「じゃあ、誰の・・・」
 言いかけて、カナタは言葉を切った。
 皇帝達以外で、神子である公主を『妃』に迎えられる者といえば、残るは同じ神子である闇精王しかいない。
 しかし、闇精王は公主への執着のあまり、世界を荒廃させた罪を得て―――― 神に、戦いを挑んだ罪を得て、母である惶帝により、闇に封印された。
 「まさか、闇精王が解放されたのか?」
 「馬鹿を言うな」
 カナタの問いには、すぐさま否定の言葉が返った。
 「何の咎めもない地精王ですら、赦されたのは先日のことだ」
 「・・・そして我が王・・・風精王は、未だ赦されず、世界をさまよっておられます。
 いかに太子であるとは言え・・・いえ、だからこそ、闇精王は赦されてはいけない。今は、まだ・・・・・・」
 冷淡な哩韻の言いように、カナタは困惑げに眉をひそめた。
 「だったら、公主は一体、誰の・・・?」
 「湟帝陛下の、に決まっているだろうが」
 サラームの言葉に、カナタは声を詰まらせた。
 「・・・・・・湟帝陛下の・・・・・・って、公主は陛下の神子だろう?!」
 倫理にもとる、と、声を上げるカナタに、哩韻はくすりと笑みを漏らした。
 「いいんだよ、人間じゃないんだから」
 「そりゃそうだけど・・・」
 あっさりと言う哩韻に、反駁しようとしたカナタだが、すっと、細められた目に言葉を失う。
 「公主が妃になってくれないと、困るんだよ。そうしないと、我が王が、湟帝陛下に殺されるからね」
 「殺・・・」
 「風精は、性を選べる―――― だから、湟帝陛下は我が王を妃にと望まれたんだ。
 風精王が生んだ神子なら、例え主人格が女子でも、身体は男子に変わることができるからね」
 そうして生まれた『太子』と、澪瑶公主を掛け合わせて、より強大な力を持つ神子を得ようとしている―――― 惶帝が生んだ、『玄冥太子』を上回る、強大な力を持った神子を。
 そう聞いて、カナタは目を見張った。
 「だけど・・・精霊は、子を産めば死ぬ・・・そう言わなかったか?」
 実を結んだ花が散るように・・・・・・。
 事実、前水精王は、公主を生むと同時に水に還ったと言う。
 「じゃあ・・・湟帝陛下は、公主の命を顧みもせずに、ただ強大な力を持つ神子を得るために、公主に神子を産ませようとしておられるのか・・・?」
 まるで、植物や動物を掛け合わせて、より良い種を作り出すような行為に、カナタは嫌悪を覚える。
 「神にとって、血は濃いほどに価値を持つからな」
 「そ・・・んな馬鹿な・・・!」
 サラームの言葉を否定したものの、カナタは自身が生まれ育った世界の、神話を思い出さずにはいられなかった。
 創世神話において、母神の夫は息子であり、大神の配偶者はその姉妹・・・・・・そして、古い神は淘汰されていく。
 「じゃあ・・・公主は本当に、湟帝陛下の妃に・・・?」
 呟きつつもカナタは、信じがたい思いだった。
 彼に永久の命を約束した、美しく、清らかな女精霊が、そんな穢れに身を堕とすなど、考えることさえおぞましい。
 「だけど哩韻、公主は、妃になることを嫌がっておられると言っていたよな?!それを無理矢理・・・」
 しかし、カナタの抗議を遮って、哩韻は平然と言った。
 「別に、大した事じゃないよ、こんなことは。公主が嫌がっておられるのも、湟帝陛下の配偶者になることではなく、『公主』たる身分を剥奪されて、『妃』という、精霊王の中では低い身分に落とされることを嫌がってのことだし」
 「え・・・?」
 意外な理由に、目を丸くするカナタに、哩韻は笑みを深めた。
 「君も、人界と違って、精霊界では『妃』の身分が低い事は知っているよね?」
 人界では、『妃』は王の配偶者として、『女王』とほぼ同じ地位を表すものだが、精霊界において、その地位は神子である『太子』『公主』、文官の最高位である『太師』、同じく武官の最高位である『将軍』の、更に下になる。
 神子として、他の精霊族からも敬意を表されてきた公主が、精霊王の中では最下位と言ってもいい地位に落とされるのは、大変な屈辱に違いない。
 「だけど、公主は陛下の妃になることを、受け容れざるを得ないと思うよ。
 あの方は誇り高い姫君ではあられるけど、我が王のように、人界に追放されても『妃』になるのを拒むなんて、できやしないんだから」
 そう語る哩韻の顔に、冷淡な笑みが浮かんだ。
 「なんにしろ、僕ら風精にはいいことだよ。
 我が王を守るため、一時はあの方を王座から追うことになっても、風精の誰かが『妃』になるべきじゃないかって、最近、長老達がうるさかったからね」
 「そんな言い方・・・!」
 水精の端くれであるためか、哩韻の公主に対する、あまりに冷淡な態度に抗議の声を上げようとしたカナタを、再び彼は遮った。
 「勘違いしないでくれるかな、カナタ?
 僕達にとって、最も大切な王は公主じゃない。風精王だ。
 公主には、風精王の命令があるから仕えているだけ。
 僕達が本当に必要としているのは、神子の栄光ではなく、僕達を導くあの方だけなんだよ?」
 「随分と慕われているな、あの風は」
 「もちろんです」
 喉を鳴らすように笑う火精王に、哩韻は軽く両手を広げて優雅に頷く。
 「数多くの風精の中でも、あの方のように、多くの人格を完璧に操れる風精なんか、いやしない。
 冷静で、過激で、慎重で、感情的―――― 全く違う人格を、ただ一人の『凪』が支配している。
 あの方以外に、僕達が王と仰げる方はいません」
 風精は、主人格の他にいくつかの人格と身体を持っている。
 しかし、それらを完全に支配することは非常に難しいのだ。
 なぜなら、主人格が完全に支配できる人格は、そのほとんどが脆弱で、天球を守る戦いの役には立たない。だからと言って、戦いの役に立つような強力な人格を出せば、変化している間の記憶がない上に、下手をすれば主人格を食ってしまう危険があると言う。
 ゆえに、いくつもの強力な人格を有しながら、それらを完璧に統御し、戦場に常勝をもたらす風精王は、彼ら風精の尊敬を一身に集める存在なのだ。
 そうは言われても・・・いや、だからこそ、カナタは自身の王を守るため、他族の王がその実父の妃となることを喜ぶ心情が醜く思える。
 公主の命が危ないと、知っての上ともなれば、なおさらだ。
 ―――― 真に美しいものはないのか・・・。
 心中に、カナタは呟いた。
 人々が追い求める、完全に清浄なるもの――――。
 荒廃した地に、それぞれの思惑を交わしながら生きる者達が追い求める『美』は、神と精霊の世界にすら存在しない・・・・・・それが、カナタには悔しい。
 彼はずっと、死後の世界について語る神官達を否定してきた。
 寄進を求めるため、ありもしない死後の安寧を約束する彼女達を、蔑んでさえいたのだ。
 しかし、彼らが清浄と信じる神と精霊の世界の醜さを知ったカナタは、初めて、彼女達の言葉が、荒廃した地に疲れ果てた人々の心を救っていたと気づかされた。
 この世界のどこか・・・たとえば飃山の北、雪と氷に閉ざされた湟帝の渺茫宮には、美しい神と精霊達が、時には清らかな心を持った人間を迎えて宴を催し、夜毎に浮かぶ珂瑛(かえい)では、正しい魂が闇精達に優しく迎えられ、永遠の安寧を得る―――― そう信じていなければ、どうして今日食べるものさえ覚束ない、辛い日々を過ごせるのだろう。
 重く吐息したカナタを、哩韻は苦笑して見下ろした。
 「随分と思い悩んでいるようだね、聖太師猊下?」
 その、からかうような口調に、カナタはむっとして哩韻を睨んだ。
 「ふふ・・・そんなに睨まないでよ。
 それよりも、どうして僕が君に、ここまで話してあげたのかをおもんぱかって欲しいな」
 「え・・・?」
 哩韻の言葉に、カナタは目を見開いて彼と、サラームを見比べた。
 「それは・・・サラームが、同席していいって言ったからじゃ・・・・・・?」
 「あのね、カナタ?僕はこれでも、風精の諜報隊長だよ?
 普段だったら、例え火精王の御前であったとしても、こんなにおしゃべりはしないものさ」
 大仰に肩をすくめる哩韻に、カナタは訳がわからず、眉をひそめた。
 「じゃあ・・・なんで・・・?」
 問うと、哩韻はくすりと笑みを漏らした。
 「君、我が王をお助けした時に、言われただろう?この世界で、見えないもの、聞こえないものはない、って」
 「あぁ・・・そう言えば・・・・・・」
 澪瑶公主より賜った『永久の命』と、依坤に与えられた『死の権利』。
 この二つが、あまりにも印象に残りすぎて、正直、風精王よりの贈り物は失念していた。
 ずっと身の裡にいた麗華のおかげで、この世界の住人との会話に不自由がなく、必要のない能力だった、と言うのも、彼にその贈り物の存在を忘れさせる一因だったろう。
 しかし、
 「そうやって、麗華は君を操っていたんだね」
 哩韻の、冷笑を含んだ口調に、カナタは目を見張った。
 「操って・・・?」
 「薔族は、木精の中でも最もしたたかな一族だよ?麗華はその中でも、惶帝陛下に寵愛され、湟帝陛下に名を与えられた薔薇さ。
 時には木精王にもなった、薔薇の刺にがんじがらめにされて、よく食い尽くされなかったものだって、感心しているんだよ、僕は?」
 「食い尽くすだなんて・・・麗華がそんな・・・・・・」
 馬鹿な、と言いかけた口は、哩韻の笑みに閉ざされた。
 「だって君、六年もこの世界にいながら、会話ができないどころか、自分で考えることすらできないんだろう?」
 哩韻の指摘に、カナタは黙り込んだ。
 彼が、会話以上に喪失を惜しんだもの―――― それは、麗華の判断力だった。
 彼女が常に傍にいて、カナタに指針を示していたからこそ、カナタは聖太師として、堂々と政治的判断を下せていたのだ。
 彼女がいなければカナタは、六年前にこの世界にやって来た頃からなんの成長もない、単なる学生に過ぎない。
 そんな彼が、復興を遂げようとする南薔国の政治的中枢にいていいものか―――― 緻胤にも筝にも言えなかった悩みを指摘されて、カナタは言葉を失った。
 そんな彼に、哩韻は笑みを深めた。
 「麗華を失ったことを悔やんでいるようだけど、あのままじゃ君、身体を乗っ取られるところだったよ。
 言っただろう?麗華は、したたかな薔族の、最もしたたかな薔薇だって。
 君が、彼女なしではいられないように、巧みに目と耳を塞いでいたのさ」
 青い目を笑みの容に歪め、哩韻がすっとカナタに顔を寄せる。
 「六年間も、よく耐えたものだよ。さすが、水精は違うよね」
 カナタの耳元に囁き、哩韻は羽ばたくように数度手をひらめかせた。
 「ご褒美に、今度は風精が君を助けてあげるよ。
 風霊をいくつか、君に付けてあげる」
 そう言って、哩韻は軽くカナタの背を叩くと、身を離す。
 「我が王の命により、カナタに与える。以後、見えぬもの、聞こえぬものはない」
 左手を胸に当て、厳かに宣言した哩韻を、カナタは呆然と見つめた。
 「風霊の使い方がわからなかったら、いつでも聞いてくれていいから。
 では、火精王――――」
 サラームに向き直り、一礼した哩韻に、彼も頷きを返す。
 「あぁ。俺も、もうじき天球に昇る」
 先に行け、と、身振りで示す彼に、もう一度一礼し、哩韻は顔を上げた。
 「そうだ、もうひとつおまけ」
 未だ呆然としているカナタに、いたずらっぽい笑みを向け、哩韻は人差し指を立てた。
 「華綾だけど、妃に立つ公主の傍に、いつまでも男妾が侍っているわけには行かないからね。多分、君が賜ることになると思うよ、カナタ」
 「は?!」
 あまりに意外な言葉に、自失から覚めたカナタが声を上げる。
 「何で俺が?!」
 「だって、玉華泉に帰そうったって、木精が彼を受け容れるわけがないよ。
 周りの被害なんかなんにも考えないで、公主が命じるままに麗華の処刑に火を使ったってことで、彼は玉華泉から追放されたも同然だからね。
 公主の手前、あからさまには言ってないけど、美桜は絶対に華綾を受け入れやしないよ」
 「だからって、なんで俺が・・・・・・」
 カナタは、一度だけ会った、透明な薔薇の精の顔を思い出し、きつく眉を寄せた。
 人の羨む美貌を持ちながら、何の感情もなく、眼窩の闇を映す瞳をさまよわせる精霊―――― あんなものと、どうやって付き合えと言うのだろう。
 思い悩むカナタに、しかし、サラームはのんきそうに笑った。
 「いいじゃねぇか、別に。邪魔なら、王宮の庭にでも放り出しておけよ」
 「あんなのが庭にぼぅっと突っ立ってたら、あっという間に怪談だよ!!」
 「巫女達がどんなに怯えるか、見物だね」
 くすくすと笑声を上げる哩韻を睨んだカナタだったが、時既に遅く、少年の姿は風のように消えていた。
 「哩韻〜〜〜〜〜〜!!」
 唸ったところで、少年はもう、現れない。
 東の空に浮かぶ星明かりが、再び鮮明に輝く様を見上げて、カナタは深く吐息した。
 「華綾が下賜されるなんて・・・。
 それが本当だったら、緻胤殿や神官達に、なんて言えば・・・・・・」
 頭を抱える彼に、サラームが笑声を上げる。
 「まぁ、なるようにならぁな。
 とりあえず今日は、泊まって行くか?」
 既に夜陰は濃い。
 天球を守る精霊達の篝火が煌く空を見上げ、カナタは静かに首を振った。
 「いいや。早く佳葉に帰らないと・・・・・・これでも、忙しい身なんでね」
 「そっか。
 ま、がんばれよ、聖太師猊下」
 「ありがとう・・・・・・・・・」
 火精王の励ましに、カナタは肩を落としつつこうべを垂れ、よろよろと小さな料理店を後にした。


 「―――― それでは、公主は瀏妃となることを了承したのか・・・・・・」
 哩韻の眼前で、しどけなく膝を崩した女が、ひっそりと囁いた。
 わずかばかりの家具と寝具があるだけの、狭い部屋である。
 燭台に灯された火は、常ならば、その狭い部屋ですら全て照らし出すには不十分なほど、小さなものではあったが、今は、女の豊かに波打つ金色の髪と、少年のさらさらと風を纏う髪に幾重にも反射して、部屋中を眩いばかりに照らし出していた。
 「嫌がっていたろう?」
 象牙で作った長キセルの、黄金の吸い口を含んだ唇に、冷ややかな笑みをのぼらせ、囁くと、哩韻は軽く頷いた。
 「それはもう。
 ずっと塞ぎ込んでおられましたが、本日、湟帝陛下よりお召しがあり、お心も決まったようです」
 芝居がかった仕草で両手を広げ、笑う哩韻に、女は冷笑を向けた。
 「決めざるを得ないだろう。
 断れば、私のように人界に堕とされると知って、あの心弱い娘が断れるはずもない」
 その冷淡な言い様に、哩韻は心から嬉しげに微笑んで頷いた。
 「それともう一つ―――― これは、無幾(ムキ)王にはご関心のないことかもしれませんが・・・」
 「ふん・・・では、エアリーにでも話せ。私は落ちる・・・・・・」
 そう言って、静かに閉ざされた女の目が、再び開いた時、冷淡な王の中の王は消え、代わりに、慎重な女将軍が姿を現した。
 「私なら関心のある事とは、なんだ?」
 その、見事な変容に、哩韻は主人に尾を振る犬のように、嬉しげに身を寄せる。
 「カナタのことです、エアリー王。麗華が、あの人間から離れましたよ」
 「麗華が・・・?
 あのしたたかな薔薇が、よくもあんな、操りやすそうな傀儡を手放したものだな。
 カナタが、人間の女にでも惚れたか」
 ふ、と、紫煙とともに笑みを漏らす女に、哩韻は笑って頷いた。
 「まだ、そこまでは行っていないようですが、敗北する前に撤退したようです」
 「ふん・・・。
 あれは、どんなに言い聞かせても、人間以外の者になんてなれやしないさ。
 あの老獪な薔薇が、そんなこともわからないとは、よほど欲望に目が眩んだと見える・・・・・・」
 「水精の身体は、実体を失った木精には、魅力的だったでしょうからね」
 楽しげに言う哩韻を、女はしばし見つめ、ふ、と、再び笑みを漏らした。
 「哩韻、おまえ、カナタをいじめたね?」
 「とんでもない!事実を教えてあげただけです」
 大仰に否定する臣下に、しかし、女は追及を止めなかった。
 「たとえそれが真実でも、偏った情報しか与えなければ、人は簡単に迷うものだ」
 違うか、と、咎められて、哩韻は冷笑を浮かべた。
 「六年間、同じ身体を共有してきたと言うのに、あの人間は簡単に麗華を疑い始めました。
 あの薔薇も、下手をしたものですね。
 誇りなんかにこだわって、手に入れようとしていた水精の身体から離れるなんて」
 ぐずぐずしているから、と笑う哩韻に、それにしても、と、呟いて、女は黄金の吸い口を口に含んだ。
 「麗華は、麗薔(リショウ)として惶帝陛下の寵愛を受けていた時、それは冷淡な女だった―――― 闇精以上に『死』を象徴する花だったが・・・・・・」
 木精は、他の精霊族と違い、『死』と『再生』を繰り返す精霊族である。
 寿命のない代わり、実体を喪えば、世界を循環するただの風や水に戻る精霊族と違い、寿命を迎え、散華するとすぐに実を実らせ、皇帝や精霊王から名をもらう日を・・・もしくは、名無しの木精として再生する日を待つのだ。
 散華がいわゆる、『死』ではない証拠に、彼女達は多く、『前世』の記憶を持ったまま再生する。
 が、麗華が麗薔の冷酷さを完全には引き継がなかったように、再生と同時に消される記憶もあるようだ。
 「あの女・・・『麗華』として湟帝陛下に仕えるようになって以来、随分と甘くなったようだな。
 『麗薔』の冷酷さは、むしろ、『華綾』に継がれているようだ――――」
 自身にしか聞こえないほどの声で呟き、エアリーは笑みを深めた。
 「なるほど・・・興味深い」
 「そうおっしゃると思いまして、風霊をいくつか、カナタにつけておきました」
 得意そうに笑う哩韻に、エアリーは笑声を上げた。
 「手回しのいいことだ」
 風精王が、カナタに約束した、『全てのものを見、聞く権利』。
 それはまた、風精王が彼の見聞きしたものを知る事と同義だった。
 カナタは、麗華の刺から逃れた代わりに、風精王の見えない鎖に繋がれたのである。
 「それでは、また何かありましたら、お知らせに上がります」
 「あぁ・・・」
 呟いて、エアリーは一礼した哩韻に、紫煙を吹きかける・・・・・・と、煙が消える頃には、少年の姿もまた、消えていた。
 「透明な・・・薔薇か・・・・・・」
 静かに目を閉じた彼女の、平穏を破るように、狭い部屋の扉が、乱暴に開けられた。
 「誰かいるのかい?」
 唐突に入ってきた男に、驚く様子もなく、彼女は静かに目を開けた。
 「誰もいやしないわよ」
 くすりと、笑みを漏らす顔はあだめいて、無幾とエアリーと、どちらの顔とも違う色っぽさがある。
 「しかし・・・誰かと話している声がしたが・・・?」
 質のいい服をひらめかせ、疑い深げに部屋を見回す男に、座るよう促し、彼女は軽く笑声を上げた。
 「アタシの独り言よ。アナタが来てくれなくて、寂しかったのでねぇ」
 笑声を上げながら、吸い終えた煙草の灰を落とす。
 「またそんな・・・・・・上手を言ってくれるが、私だって、この妓楼一の美女を独り占めにできるなんて、思っちゃいないさ」
 拗ねたように横を向く男の頬に、白い手を添わせ、女は艶やかな笑みを浮かべた。
 「確かに、アタシには沢山のダンナがいるけど、今、アタシの一番イイ人は、アナタよ?」
 「・・・・・・っあぁ!!玉婉(ギョクエン)!!」
 感極まった様子で、抱きついてきた男を受け止め、その首にしなやかな腕を回す。
 「ねぇ、アナタ。アタシ、今日は機嫌がいいの。一晩中、愉しみましょうねぇ・・・・・・」
 反らした白い喉に、男の荒い吐息がかかるのを楽しむように、彼女はまた、笑声を上げた。
 開け放ったままの窓からは、妓楼の女達や客達が上げる嬌声と共に、天球に布陣する精霊達が灯す、星影が降り注いでいた。




〜 to be continued 〜


 










魚には、絶対音感があるそうな。
そんな話を聞いて、『それで人魚は歌がうまいと言われているのかな』と思ったことをきっかけに、『カナタ(水精)は耳がいい』『公主は歌の名手』という設定を考えたことを思い出しました(笑)
それにしても、今まで書いてきたものをご覧になって、『くれはってもしかして、妓楼好きか?!』なんて思われているかもしれませんが、別にそんなわけでは・・・(もごもご)
吉原のしきたりとか読んでいると、確かに面白くはありますけどね(笑)
『指きり』は、愛しいダンナに小指を切って渡すことだとか、『○○命』の刺青を彫ったとか。
痛そうだよー(^^;)

〜書き直し後〜
前回が気に食わなかった、などと言う理由では全くなく、自分の大ボケで抹消してしまったNo.27を再アップ・・・。
これ、前回アップしたのとは、絶対違っている;;;;
いや、大筋はいっしょなのですが。(多分・・・;)
お詫びと言ってはなんですが、台詞&状況説明などは、大幅増量している・・・と思います;;;(ダメダメ;;)












Euphurosyne