◆  28  ◆







 世界南方より迫り来る夏は、すでに、大陸の裾野までその影響を及ぼしていた。
 が、大陸北方に横たわる大山脈、飃山(ひょうざん)を越えた、湟帝の領土は、年月の移り変わりなど関わりなく、常に雪と氷に閉ざされ、あらゆる生命の存在を拒んでいる。
 この地において、唯一、生を許されるのは、湟帝(こうてい)の居宮、渺茫宮(びょうぼうきゅう)に住まうもののみ。
 外の極寒を完全に遮った宮内には、水精と風精に愛された美しい花鳥鱗虫が、穏やかに暮らしている。
 地上のいかなる場所よりも美しい地で、しかし、湟帝の娘、澪瑶公主(レイヨウこうしゅ)は、鬱屈した日々を送っていた。
 原因は、父、湟帝の命令である。
 父は、娘の澪瑶公主に、自身の妃になるよう、命じたのだ。
 人の倫理で測れば、娘を妃に立てるなどということは、到底考えられないことだろう。
 しかし、湟帝は神であり、公主は神の血を受ける高位の精霊である。
 彼らにとって、血は、濃いほどに価値があった。
 為に公主も、不義や倫理などと言う理由で父の妃となることを拒んでいるのではない。
 ただ、『公主』という、皇帝に次ぐ地位を奪われることに、鬱屈の原因はあった。
 『妃』は、皇帝の配偶者ではあるが、神と精霊の世界においては、その地位は意外と低く、将軍の更に下である。
 現在、妃の地位にあるのは、煌帝の妃である耀妃(ヨウヒ)一人だが、光精王でもある彼女は、七人いる精霊王の中でも格下の方だった。
 澪瑶公主は、かねてより快く思っていない、傲慢な耀妃と、同等の地位に堕とされることに誇りを傷つけられ、未だ、湟帝に対して『諾』と言えずにいる。
 しかし、かつて湟帝は、風精王を妃にと望んだが拒まれ、王を人の身に堕として人界に追放した。
 公主の身の上にも、同じことが起らないとは限らない。
 そう思うと、彼女は恐ろしさのあまり、震え上がらずにはいられなかった。
 何の力も、身分もなく、惨めに人界をさまよい、誇りを蹂躙される・・・。
 考えただけで、おぞましさに肌が粟立った。
 そんなことになるくらいなら、たとえ、妃の身分に落とされようと、このまま渺茫宮の女主人としているほうがましだ。
 湟帝も、水精王の位までは奪うまい―――― だが、そうなると、かつて風精王に囁かれた言葉が蘇った。
 湟帝が欲しいのはただ、冥府の女帝、惶帝(こうてい)に勝る手駒だけ。
 風精王を妃にと望んだのも、太子を産ませ、公主と掛け合わせて、より強大な力―――― 惶帝の太子である、闇精王よりも強大な力を持つ精霊を得ようとしたからだという。
 湟帝の、惶帝へ対する対抗心を知る公主から見れば、それは仕方のないことかと思う。
 父は、母皇と同じ女神である惶帝だけに許された力―――― 御子を産む力を持つ惶帝が今以上に力を増し、いつかはこの地、瑯環(ろうかん)をも支配するのではないかと懸念しているのだ。
 だが、父の懸念のために、どうして自分が犠牲にならなくてはならない?
 創世の女神の血を継ぐ公主であれば、もしかしたら、御子を産んでもただの水に環る事はないかもしれない。
 だが、そんな確証はどこにもないのだ。
 ―――― 花は、実を宿せば散るしかない。
 精霊達が、しきりに囁く言葉だ。
 永遠の生を許された者達は、増えることを許されない。
 どのような理由であるかは定かではないが、それは、精霊界の摂理だった。
 「花は・・・・・・」
 呟いて、公主は青味を帯びた銀髪に挿していた薔薇を抜き取った。
 硝子のように透明な花弁に、そっと唇を当てる。
 「醜く枯れ落ち、泥にまみれるよりは、美しいまま散った方がましだわ・・・・・・」
 所詮彼女は、流水の支配者でしかない。
 いかな大河であろうとも、最後は海に呑まれるもの。
 ならば。
 「条件次第では、瀏妃(リュウヒ)と呼ばれることも否めない・・・か・・・・・・」
 白い喉を反らせると、人型へと変容した薔薇が、唇を寄せてくる。
 「華綾・・・・・・。
 おまえともしばらくお別れね・・・・・・・・・」
 寂しげに呟いて、公主は白い腕を、華綾の首に絡めた――――。


 日々暖かくなっていく季節へ水を差すかのように、冷たい空気の満ちた日だった。
 大陸の北方にそびえる飃山(ひょうざん)に発した風が、南方の大海に湧いた暖かい雲を冷やし、いつまでも地上に雨滴を滴らせている。
 うんざりするほどの長雨に、水の有難さを良く知る者ですら、ため息を漏らすようになった頃、その精霊は、南薔国(なんしょうこく)の首都、佳葉(かよう)の地に降り立った。
 南薔は、巫女と巫女の長である女王が、その政権を握る国である。
 異形の者、異質な物に敏感な彼女達は、かの精霊が降り立つ以前から、北方より何者かが来る、という予感を抱き、誰が言い出すまでもなく、湿り気を帯びた王宮内を徹底的に清めていた。
 「一体、どなたがお見えになるの?」
 北方より、強大な力を持つ何かが来ることは感じていても、それが何なのか、明確に理解できずにいる現女王、緻胤(ジーン)は、肉付きの良い顎に指を当て、小首を傾げる。
 未知の者が迫る気配はあるのに、不思議と、恐怖や不安は感じていなかった。
 「きっと、悪いものではありませんわ」
 緻胤の問いに、新たに彼女の側付となった嘉蘭(カラン)が、妙に確信がある風に答える。
 緻胤よりも二十は年上の彼女だが、目も髪も淡い色であるせいか、老いの象徴たるものは目立たず、むしろ、少女のようにふわふわとした印象を与える女性だった。
 「あなたがそんなにはっきり言うなんて、余程のことなのね」
 「あら。実はわたくし、なんでもはっきり申しますのよ?」
 そう言って、口元を覆い、くすくすと笑う仕草は、とても可愛らしい。
 「そうなの?全然気づかなかったわ」
 そう言って緻胤は、まるで、同年代の友人に対するように、気安く笑いかけた。
 年の割には落ち着いた彼女だけに、むしろ、年の割には子供っぽい嘉蘭のような女と気が合うのかもしれない。
 彼女を緻胤の側役に推薦してくれたのは聖太師であるカナタだが、そのおかげで緻胤は、物慣れない国の、特殊な王宮にも、ようやく打ち解け始めていた。
 「そういえば、カナタ様はどうされたの?」
 麗華を失った後、どういう手段においてかは明かされなかったが、再び言葉を取り戻したカナタは、繁葉(はんよう)に赴いた後から、ふさぎこんだように佳葉の、大神殿とは名ばかりの廃墟にこもっている。
 王宮とは、長い回廊で繋がれているそこは、緻胤が女王として立って以来、王宮よりも先に修復の手が入った場所ではあったが、あまりに広大なため、資金不足もあいまって、未だ荒んだ様相を呈していた。
 「畏れながら、今回のお方は、陛下ではなく猊下に御用がおありのご様子ですから。
 猊下は、お一人でお迎えになるのではないか、と、神官達は申しておりますわ」
 「おもてなしは?しなくていいの?」
 「あら」
 緻胤の言葉に、嘉蘭は笑って首を振った。
 「精霊がお見えになる時は、呼ばれない限り、そのお姿を拝見することは禁じられております」
 「そうなの?」
 「ええ。惶帝陛下のお言葉にもありますでしょう?『私を見てはならない。私を語ってはならない。』って」
 「ああ、『眠るものを妨げてはならない。出入りするものは、静かに、厳かに歩み、道を外れてはならない。』ね?」
 南薔に入って以来、仕事の一部として、毎日のように聖典を学ばされる緻胤が、その言葉を引用すると、嘉蘭は笑って頷く。
 「はい。ですから本当は、このようにお噂することすら禁忌に当たります」
 「あら、大変!」
 慌てて口元に手を当てる緻胤に、嘉蘭はくすくすと笑声を上げた。
 「では、これは授業ということにしておきましょうね。
 まぁ、そう言う訳ですから、わたくしたちができることは、神殿内を清め、花を飾り、香を焚くことくらいですわ。けっして、拝謁しようなどとはお思いにならないでくださいね」
 「無礼に当たるのね?」
 「そうです。
 陛下も、例えば大事な御用があって、わざわざ東蘭に赴かれ、御子をお呼び出しになったとしますわね?
 その時に、何の用もない者に拝謁を求められた挙句、長話をされたのでは、不興でございましょう?」
 「それはそうだわ」
 嘉蘭の例えに大きく頷き、緻胤は神殿のある、北の方角を見遣った。
 「ご降臨ね」
 「ええ。
 どなたがいらっしゃったのかは、差し支えさえなければ、後で猊下がお教えくださるでしょう」
 にっこりと笑って、嘉蘭も緻胤と同じ方角を見つめた。


 「謹んで、ご使者をお迎えします。願わくは、貴女様のご尊称をお教えください」
 片膝を床につき、左手を胸に当てて、恭しくこうべを垂れたカナタを見下ろし、その水精は鷹揚に頷いた。
 青味を帯びた、美しい銀の髪を結い上げた姿は、かつて間近に見た公主よりもやや年かさに見える。
 「流鰭(りゅうき)夫人、流霞(ルカ)と申す」
 水精にふさわしい、魅惑的な高音が、妙なる音律を伴って、美しい唇から漏れ出た。
 「この度は、澪瑶公主の使いで参った。
 公主はそなたに、秘蔵の薔薇を賜るとのこと。ありがたく頂戴せよ」
 「・・・光栄に存じます」
 カナタの応えに少々の間があったのは、流鰭夫人が差し出した薔薇が、彼の予想通り、硝子のように透明な花弁を持っていたからだ。
 「華綾(カリョウ)―――― たぐいまれなる美花である。けっして枯らす事のないよう、留意せよとの、お言葉である」
 「・・・・・・承りました」
 そう言って、カナタは更に深くこうべを垂れ、両手を流鰭夫人に向かって差し上げた。
 「謹んで、恩寵を賜ります。
 水精の末席たる身に余る光栄、澪瑶公主には厚く御礼申し上げます」
 『華綾』を受け取り、恭しく一礼する。
 そこで、『儀式』は終わった。
 流鰭夫人はふっと、表情を緩め、未だ跪いたままのカナタに声をかけた。
 「あなたに絡んでいた茨が取り払われて、随分と、滑らかな動きができるようになったではありませんか」
 「流鰭夫人は、私をご存知であられましたか」
 水精の身体を与えられたとはいえ、湟帝の居宮である渺茫宮(びょうぼうきゅう)には、数えるほどしか伺候していないカナタである。
 多少の驚きを込めて問い返すと、彼女はわずかに頬を緩ませて、微笑んだ。
 「あなたは、珍しい水精ですからね。
 渺茫宮にある精霊は、水精のみならず、風精も、木精も、あなたの言動に耳目を集めていたことでしょう」
 「なるほど・・・」
 苦笑すると、彼女もちらりと笑みを深める。
 渺茫宮の、冷淡な水精たちを見慣れていたカナタにとっては、十分親しみ易い部類だと言えた。
 「こちらは、あなたにとっては、渺茫宮より居心地がよさそうだこと。
 元は人の身ゆえ、仕方のないことかもしれませんが」
 くすりと、笑声を漏らす口調に、皮肉は感じられない―――― もっとも、それを素直に信じると、痛い目にあうことくらいは、カナタも既に知っている。
 幾重にも感情を隠すことのできる、老獪な精霊に跪いたまま、カナタは再び一礼した。
 「公主におかれましては、取るに足らない身をお心にかけて頂き、身に余る光栄に存じます。
 ですが、流鰭夫人もおっしゃいましたように、私は、元は人の身より精霊へ召し上げられた者にございます。
 純粋な精霊方の中に立ち混じるには、あまりにも異質にて、度々渺茫宮へ伺候するには心苦しく存じております。
 どうぞ、御礼の言上を、夫人に託しますことをお許しください」
 その、恭しい物言いに、流鰭夫人は満足げに頷いた。
 「心得ました。
 こなたの言上は、わたくしから公主へ、しかとお伝えしましょう」
 「ありがとう存じます」
 こうべを垂れたまま、そう言ったカナタの上で、夫人はしばらく無言だった。
 長い沈黙を、カナタが訝しく思い始めた頃、
 「―――― 以後、公主のお言葉は、わたくしを通すことになります」
 ようやく発した彼女の声に、わずかに混じった逡巡を、カナタは聞き逃さなかった。
 「わたくしが・・・公主の御許に侍ることを許されている間に限っての事ですが・・・・・・」
 注意深く発せられた言葉の意味を理解するのに、カナタはしばしの時間を要した。
 ようやく、彼が彼女の逡巡の理由―――― 前水精王が、そして公主も、多くの水精を殺めたことに思い至った時には、使者の役目を終えた彼女は彼に背を向けていた。
 「あの・・・夫人・・・!」
 今までのやり取りとは全く違う、カナタの朴訥な言い様に、流鰭夫人は驚いたように振り返る。
 「えっと・・・がんばってください・・・・・・」
 ―――― 何を?!
 自身の言葉に、心中で激しく突っ込み、こんな時にふさわしい言葉が出てこない語彙の乏しさに顔が赤らんだ。
 だが、
 「ありがとう」
 くすりと笑みを漏らして、夫人はその美しい声で、歌うように礼を言う。
 「あなたも、お心安らかにいられますように」
 ―――― そう言えば良かったんですね・・・。
 更に赤くなった顔を隠すように、こうべを垂れて顔を隠したカナタへ、夫人は笑みを深め、再び彼に背を向けた。
 「またお会いしましょう」
 できることならば、と、微笑んで、霞のように雨の中に溶け去った彼女を見送り、カナタはようやく立ち上がった。
 長い間、跪いていたというのに、なんの苦痛もない足で歩を進め、透明な花弁を持つ薔薇を長椅子の上に置く。
 「・・・華綾」
 その名を呼ぶと、薔薇は一人の青年の姿へと変わった。
 骨格からして常人とは違う、整った顔立ちは、磁器の人形を思わせる無表情。
 白く、滑らかな頬に微笑が刻まれることは、おそらく、永遠にないだろう。
 「・・・・・・・・・口は、利けるんだよな?」
 彼と、親しい関係を築くことは絶対に望めないだろうと知ってはいたが、それでもカナタは、華綾へ声をかけた。
 と、長椅子にきちんと腰掛けた彼は、カナタの言葉を一応理解したのか、微かに頷いて見せる。
 「それは良かった。
 俺のことは、カナタと呼んでくれ」
 「カナタ・・・・・・」
 人の羨む美しさでありながら、全く感情のない声で、オウム返しに呟く華綾に、カナタは何度も頷く。
 「巫女達は俺のことを猊下(げいか)と呼ぶけど、俺は君の主人じゃないから、敬称はいらない」
 わかるか、と問うと、澪瑶公主にのみ仕える薔薇は、再び頷いた。
 「君は俺の友人として、ここにいるだけだ。だから、女王や王宮にいる巫女達には何の関わりも持たない。
 一切!何の!関わりもない!!いいね?」
 一々区切って言えば、華綾も律儀に頷きを返す。
 「だから、決して君は、彼女達を見つめたり、話しかけたり、触れたりしないように!!」
 いいね?!と、再び詰め寄ると、華綾は無言で頷いた。
 しかし、カナタの不安はまだ拭い去れない。
 なにしろ、彼の側にいる女達は、ほとんどが本物の巫女であり、異形の者を見分ける感覚は優れている。
 そしてその異形の者が、今では『冷酷な裁者』として知られる華綾だと気づいたら――――。
 巫女とはいえ、権力の中枢にいる者が清浄であるはずはなく、大恐慌が起るだろうことは容易に想像ができた。
 が、先日のサラームの助言を、カナタはカナタなりに検討し、既に対策を講じてある。
 「今の言葉を理解してくれたなら、王宮にいる間は、薔薇の姿のままで、俺の部屋から出ないでくれ」
 麗華と違い、実体のある華綾は、薔薇のままでいる事の方が、人型でいる時よりも楽であるに違いない。
 そうだろう、と、カナタが確認すると、華綾はこくりと頷いた。
 カナタは佳葉の王宮において、ある意味、女王よりも優遇されているため、その居宮は広く、庭も完璧に整っているとは言いがたいが、薔薇を一輪、宮内に隠すくらいは容易にできた。
 「もうじき、俺はここを出るつもりだから、その時は君も一緒に来てもらうよ。
 ただ、俺は薔薇の世話をしたことなんてないんでね、自分の健康管理には気を使ってくれ。君を枯らすと、公主に恨まれるだろうからさ」
 いいかい、と、念を押すと、華綾はまた頷いた。
 「話は決まったね!
 じゃあ、今のうちに居心地のいい場所を確保してくれ。この部屋の中だけじゃなく、この宮内だったらどこに寝てくれても構わないから」
 流鰭夫人を一人で迎えるため、カナタの居宮は今、彼と華綾以外の誰もいない。
 華綾が人型のままうろついても、誰にも見咎められることのない、滅多にない機会だった。
 ―――― が、
 「・・・・・・なんで動こうとしないかな、君は」
 かなりの時間、長椅子にかけたままの華綾と沈黙の時を過ごしてしまったカナタは、とうとう痺れを切らして尋ねた。
 「・・・・・・ここでいい」
 「だったら!さっさとそう言えよ、君は!!」
 華綾とのコミュニケーションは望めないだろうと、覚悟はしていたが、早速意思不通の洗礼を浴びて、カナタが思わず声を上げる。
 「〜〜〜〜・・・まぁ、いいや」
 改めて、意思不通の覚悟を決めなおして、カナタは現在の室内を見渡した。
 公主よりの使者を迎えるにふさわしく、彼の居宮で最も広く、美しい部屋だ。
 庭に面した窓はどれも大きく、開け放てばそのまま庭へ降りられるようになっている。
 庭には、流れを調えられた清流が、所々に池を作りながら、女王の居宮に面する湖へと伸びている。
 「一応、水は豊富にあるけど、肥料とかは?いるのかな?」
 すっかり植物扱いのカナタに、しかし、華綾は答えない。
 「・・・いる?」
 硝子玉のような目を見つめ、カナタが問うたが、やはり反応はない。
 「いらない?」
 と、華綾がコクリ、と頷き、カナタは思わず吐息を漏らした。
 「・・・なんとなーく、君との会話のコツがわかってきたような気がするよ」
 呟いて、カナタは華綾へ手をかざす。
 と、彼の身体がくしゃりと、紙をつぶすように歪み、縮んで、美しい青年の姿は瞬く間に失われた。
 代わりに、今まで彼が座っていた長椅子の上に載っているのは、透明な花弁を持つ、一輪の薔薇である。
 「やれやれ・・・」
 カナタは、長椅子から薔薇を取り上げると、多くの切花を挿した、大きな花瓶の中にそれを挿し入れ、両手を腰に当てて吐息した。
 「まさか、木精を部屋に飾ることになるとはね」
 ―――― まぁ、木精を宿していたことの方が、異常と言えば異常か。
 思いつつ、カナタは久しぶりに侍女たちを呼ぶため、呼び鈴の紐を引いた。
 「・・・ここに、一輪挿しなんてあるのかな?」
 華綾と同じ花瓶に挿した花々が、みるみる萎れていく様に、カナタは幾度目かの吐息を漏らした。


 「ご用はお済みになられたようですわね」
 侍女に命じて呼びに行かせるや、まもなく現れた筝に、カナタはにっこりと笑って頷いた。
 「おかげさまで、つつがなく」
 「・・・?
 わたくしは何もしておりませんが?」
 やや戸惑い気味に言う筝に、カナタは苦笑を浮かべる。
 哩韻が付けてくれた風霊たちのおかげで、会話自体には困らなくなったが、言い回しにはやや違いがあるらしい。
 「それはともかく、筝殿、あなたと、緻胤殿にはお話ししておきたいことがあります」
 「なんでしょうか?」
 カナタに促され、彼と対面する位置に置かれた長椅子に腰掛けた筝は、目の端にちらりと映った花に吸いつけられたように目を奪われ、その異様な姿に呑まれたかの様に、言葉を失った。
 「―――― きれいでしょう?
 実は、我が王よりあの美花を賜りまして・・・」
 「緻胤陛下から・・・?」
 訝しげに呟く筝に、カナタは笑って首を振る。
 「筝殿。
 確かに緻胤殿は、尊敬しうる国主ではありますが、私の王は南薔国王ではありませんよ」
 「・・・大変、失礼を申し上げました」
 彼が『我が王』と呼んだ存在に思い至り、筝は赤面してこうべを垂れた。
 「では・・・先程の御方は、水精王の御使いであられましたか」
 「はい。水精王より、この花を賜ることをお報せいただきました・・・筝殿、あなたには、この花が何か、分かりますね?」
 カナタの慎重な口調に、筝は硬い表情で頷く。
 「よかった。
 あなたなら、取り乱したりはしないだろうと思って、相談したのですよ」
 「ご信頼いただき、光栄にございます」
 カナタの、未だ改まった口調に、筝は、自身の表情が強張っていたことに気づいて苦笑した。
 カナタは、もう随分と前から筝に対しては気安く接している。
 その彼が、『聖太師』として振舞う際の、落ち着いた笑みを浮かべたまま、ゆったりとした丁寧な口調で語りかけるのは、重要な話―――― それも、あまり良くない話をする時の癖だった。
 改めてカナタに向き直り、覚悟を決めて彼の言葉を待った筝だったが、
 「あの花は、華綾です」
 という、カナタの言葉に、震えを抑えることができない。
 やはり、という思いと、思い違いであって欲しかった、という気持ちが入り乱れ、筝は震える両手を強く組み合わせた。
 目を逸らそうとしても、意識せずにはいられない。
 美しい、硝子の花弁を持つ薔薇―――― 澪瑶公主の命じるまま、何のためらいもなく実の姉の命を奪ったという、華綾。
 同じ根を持つ自身の、命の危険を顧みず、処刑を断行した精霊の名は、かつて南州の法を預かる身だった彼女にとって、断罪と同義であり、冷厳な法そのものだった。
 「彼は諸般の事情により、渺茫宮から出ざるを得なくなったため、私が賜る・・・いえ、お預かりすることとなりました―――― 我が王よりのご下賜ゆえ、お断りすることはできなかったのです」
 ご理解いただけますか、と、微笑んだカナタに、筝は無言で頷く。
 「ただし、私は王宮の巫女達に、不安を与えたくはありません。ですから彼のことは、私と、あなたと、緻胤殿。この三人だけで心得ておきたい」
 よろしいか、との言葉に、筝はきゅっと唇を結び、深く頷いた。
 「・・・心得ました」
 詰めていた息を吐き出すように、ゆっくりと言葉を吐いた筝に、カナタは微笑んで頷く。
 「では・・・あなたが十分落ち着いたら、緻胤殿をお呼びしましょう」
 くすりと笑みを漏らしたカナタに、筝は反駁しようと口を開いたが、何も言わずに再び唇を結ぶと、苦笑して頷いた。
 大丈夫だ、と言えるほどには、まだ落ち着いてはいないことを、筝は自覚せざるを得なかったのだ。
 「たとえ、緻胤殿が取り乱すようなことがあっても、あなたは優しくなだめてあげられますよね?」
 それは、確認と言うより、筝に取るべき行動を促しているような言い様だった。
 「随分と、陛下をお気にかけていらっしゃるのですね」
 カナタの気遣いを、微笑ましく思った筝の口が、ようやく元の滑らかさを取り戻す。
 「わたくし達には、喜ばしいことでございますわ」
 ふふ・・・と、笑声を上げる筝に、しかし、カナタは穏やかな笑みを浮かべたまま、黙っていた。
 いつもならば、『そんな気にはなれない』と、つれない言葉を吐きながらも、筝にはまんざらではない様子に見えた彼が、何も言わないことに、筝は訝しく眉をひそめる。
 「・・・先に、緻胤殿をお呼びしましょうか」
 静かな声に、ふと、不安がよぎったが、筝は何も言わず、深くこうべを垂れた。


 手が空いてからで構わないからと、聖太師の居宮より招待の使者が来た時、素直に頷いた緻胤に、嘉蘭は不満げに眉をひそめた。
 これでは、現在の南薔国において、女王が最高権力者ではないことを、公言しているようなものだ。
 事実はどうあれ、建前上、女王はこの国の最高権力者であるべきなのだが、どうも、この女王は素直すぎる。
 しかし、先だって沙羅という悪例があったためか、緻胤の素直さ、おおらかさが、好感を持たれている事も事実だった。
 「では、今から参りましょうか」
 と、今にも立ち上がろうとした緻胤を、しかし、嘉蘭はやんわりと押し留めた。
 「畏れ入ります、陛下。
 お手が空いてからでもよろしいのでしたら、本日のご執務を全て終えられてからでも遅くはないと存じますが?」
 「え・・・でも・・・?」
 無礼じゃないかしら、と、困惑げに眉をひそめる緻胤に、嘉蘭は笑みを深める。
 「せっかくですから、夕餉をご一緒されてはいかがですか?その方が、ごゆっくりお話しもできますでしょう?」
 「そうね・・・。
 では、手が空き次第、お伺いすると伝えてください。よろしかったら、夕餉をご一緒しましょう、と」
 そう言って、使者の巫女を下がらせた緻胤は、そ知らぬ顔で傍らに立つ嘉蘭を、軽くねめつけた。
 「女王の威儀は、聖太師を越えなければいけないものかしら?」
 そっと、嘉蘭にしか聞こえないほどの声で囁くと、彼女は少女のような声で、密やかな笑声を上げる。
 「いいえ。一国の王が、聖太師の地位を蔑ろにすることは許されません。
 ですが、この王宮の主は貴女様で、猊下は賓客であらせられます。
 神殿や、他国においては猊下の風下におられても、この王宮におかれましては、陛下が主であられます。その辺りは、はっきりさせて置いてくださいませ。
 でなければ、臣下は忠誠を向ける相手に迷いますもの」
 「・・・そういうものなの?」
 ずっと、他国で暮らしてきた緻胤にとって、南薔国のことは全くわからない。
 ただ、聖太師という地位が、人の王座の遥か上にあるということだけは、南薔に生まれ育った者達よりも強く受け止めていた。
 飃山の神殿を治める者は、すなわち、皇帝と精霊王の信者を治める者だ。
 つまり、世界中の神殿を司る長は、一国の王よりも多くの民を領有するのである。
 「やっぱり、お待たせするのは、気が引けるわ。
 だけど、嘉蘭、あなたの意見も正しいのでしょう。だから――――」
 ふっくらと笑って、緻胤は女王の玉璽を取り上げた。
 「急いで仕事を片付けてから、参りましょ」
 軽い笑声を上げつつ、緻胤は署名した任命書に印を捺した。


 幾日かぶりに、カナタに招かれた緻胤は、未だしっとりと濡れた回廊をゆったりと歩いて、聖太師の居宮へと向かった。
 水精が去り、ようやく雲の切れた空からは、初夏を思わせる日が差し込み、露を抱いた木々を、きらきらと輝かせている。
 こうしてみると、未だ整っているとは言いがたい庭も、それなりに美しく見えるものだ。
 若葉を茂らせた木々が、思うまま枝を伸ばしている様は、王宮と言うより、自然の野山に面した別荘にでもいるようで、むしろ心地よかった。
 「失礼します、カナタ様」
 扉のない居室の入り口に、目隠し代わりに置かれた、大きな衝立越しに声をかけると、聖太師自ら彼女を迎え入れてくれた。
 南薔国の女王に対し、供を連れず、一人で来るようにとの彼の要望は、南薔の伝統を重んずる者ならば、ひんしゅくせずにはいられないことだろう。
 が、この王宮に仕える者達は、すっかりカナタの流儀に慣れてしまい、一々目くじらを立てる者はいなくなってしまった。
 また、王宮の主である女王も、先程嘉蘭より注意を受けたばかりにも関わらず、別段、気にする様子もなく、幾日かぶりに会ったカナタに、ふっくらと微笑んだ。
 その笑みに、長い間緊張を強いられていたカナタは、ほっと和んだ笑みを浮かべる。
 「ご使者はもう、お帰りになられたのですか?」
 「ええ。なんとか、失敗せずにお迎えできましたよ」
 「それはよかったこと。幾日もお一人でおられたと伺って、案じておりましたのよ。
 お食事など、ご不自由はありませんでしたの?」
 「えぇ。その点はご心配なく」
 和やかに話しつつ、室内に招かれた緻胤だったが、やはり、彼女もカナタの態度に違和感を持った。
 いつも気安い話し方をする彼が、妙に改まった態度で、口数も少ない。
 何か・・・言いにくいことをうまく伝えようと、懸命に言葉を探しているような雰囲気だった。
 「カナタ様、何か、困ったことでもございましたか?」
 余計な駆け引きなどしない、緻胤の直截な言いように、カナタは一瞬、目を見開き、ややして苦笑を浮かべる。
 子供を案じる母親のような緻胤の口調に、いたずらを見破られた子供のような気まずさを感じつつ、カナタは緻胤に座るよう、促した。
 そこは先程、筝が座っていた場所だ。
 自然に、華綾の姿が目に入る位置だが、カナタは緻胤の視線の先に立ちふさがり、彼の姿を自分の身体で隠していた。
 「おっしゃる通り、実はちょっと、困ったことになりまして」
 カナタは微笑んで見せたものの、緻胤はその笑みに、そっと眉根を寄せる。
 「・・・どうか、落ち着いて聞いてください」
 言いつつ、カナタは部屋の隅に控えていた筝に、ちらりと視線を送った。
 心得て、筝が緻胤の側に歩み寄り、そっとその傍らに跪く。
 「緻胤殿、あなたも既に、ご存知かとは思いますが、私は南薔王ではなく、精霊王のお一人にお仕えしています。
 私にこの、水精の身体を下賜された、水精王、澪瑶公主です」
 傍らに侍った筝を、訝しげに見ていた緻胤の視線が、カナタに引き戻された。
 「水精の・・・・・・」
 そう言ったまま、緻胤は言葉を失う。
 確かに、カナタは人間と思えないほど、美しい青年であったし、男の匂いのしない、中性的な雰囲気を持っていた。
 だが、その性格は人間の―――― それも、庶民のような気安さで、お世辞にも神性や聖性を持っているとは言いがたい。
 あくまで殺人を拒否する姿勢も、聖職者にふさわしいと言う者もいれば、惰弱だと眉をひそめる者もいる―――― つまり、他人の評価を受ける程、彼は人々にとって、近い位置にいる。
 嘉蘭が禁忌だと言ったような、『語ってはならない』部類に、彼は入っていないのだ。
 しかし、
 「猊下が精霊であられると言う言葉を、巫女達の冗談だと思ってらっしゃいましたか?」
 傍らに跪いた筝の、苦笑気味な口調に、緻胤は気まずげに頬を赤らめた。
 「申し訳ありません・・・」
 「いいえ。精霊のクセに気安すぎるって、よく言われますから」
 カナタがにっこりと笑うと、緻胤はますます赤くなった。
 「わかっていただいたところで、話を戻しますが。
 私は先程、御使者を通して、水精王より、あるものを賜りました」
 また、改まった口調に戻ったカナタを、緻胤は真摯に見つめる。
 「誤解がないよう、先に言っておきます。
 彼は、私に賜ったのであって、あなたや王宮の巫女達に、なんら関わる者ではありません」
 カナタの顔から、段々と表情が消えていき、ただ、その瞳にのみ、真摯な光が宿っていた。
 「私からも、彼にはあなたや巫女達に関わらぬよう、重々忠告し、彼もそれを承諾しました。
 いいですか、緻胤殿。
 彼は、誰にも関わらないと、自ら誓いました。そのことを、まず、胸に刻んでいただきたい」
 「カナタ様・・・あの・・・彼、と言うのは・・・?」
 誰のことを話しているのだろうかと、訝しげに眉をひそめる緻胤の前から、カナタがわずかに立ち位置をずらす。
 と、目の端に映った一輪の花に、緻胤は視線を吸い寄せられたまま、凍りついたように身体を強張らせた。
 その花は、大きな花瓶の中に一輪だけ、生けてある。
 いや、一輪だけ、と言うのには語弊があるか。
 その周りには、枯れてしぼんだ花々の残骸が、惨めに首を垂らしていた。
 まるで、その一輪のために命を吸い取られたかのように、褐色の骸をさらす花々の中で、しかし、その花は透明な花弁を幾重にも開いて、凛とこちらを向いている。
 「あの花は、華綾、と言います」
 ゆっくりと、なだめるようなカナタの口調に、息をすることも忘れていた緻胤は、細く長く呼気を吐く。
 「あの花が、あなたたちにとってどんな存在か、私も知らないわけではありませんが・・・」
 苦笑を浮かべた目を筝に向けると、それとなく『華綾』から視線を外していた彼女は、心得て緻胤の震える手を取った。
 「何度でも言います。
 彼は、決してあなた達を裁く事はしません。あなた達に、危害を加えることも絶対にありません」
 それだけは信じて欲しいと、重ねて言うカナタに、しかし、緻胤は青ざめた顔をわずかに横へ振った。
 「緻胤殿・・・」
 「私は、罪人です・・・!」
 カナタの言葉を遮り、緻胤が震え、上擦った声を上げた。
 「私は・・・太后でありながら東蘭を捨て、幼い我が子を捨て・・・その上、生まれて間もない子を、西桃に売り渡したのです・・・!我が身分を守るために!!」
 左手を筝に取られたまま、自由な右手で顔を覆い、緻胤はその双眸に涙を溢れさせた。
 「浅はかな・・・愚かな行いでした・・・!
 私は、私の立場を忘れ、私のために動いてくれた臣下達を裏切り、姉の名誉を汚し、あまつさえ、姉の跡にのうのうと座っております・・・!!」
 「緻胤殿、それは私達が・・・・・・」
 「いいえ!
 私を擁立してくださったのは、確かにあなた方ですが、こうなることを選んだのは私です!
 なんと取り繕おうとも、私は私が罪人であることを知っております・・・知っていながら、罪を逃れようとした、卑怯者です・・・・・・!!」
 そう言うや、緻胤は、筝が両手で包み込んでいた手を引き戻し、両手で顔を覆って泣いた。
 喉が切り裂かれるのではないかと、カナタ達が案じるほどに声を張り上げ、息もままならないほどに慟哭する緻胤に、二人は顔を見合わせる。
 いつも、悩みなどなさそうに笑っている彼女の悲嘆ぶりに、さすがの筝も手を付けかねたようで、カナタは驚きながらも、彼女の前に跪き、視線を合わせようとした。
 「緻胤殿・・・どうか、落ち着いてください」
 カナタが声を掛けるが、その声も、緻胤自身の慟哭に掻き消され、顔を覆った両手に視線さえ阻まれて、ただ、カナタの手だけが、おろおろと宙をさまよう。
 「陛下・・・」
 筝が、呼びかけつつ、しなびた片手を緻胤の膝に乗せ、もう片方の手でその背をゆっくりと撫で始めた。
 「そうやって、ご自身をお責めになりますが、今更後悔したところで、どうなることでもありますまい」
 温かな手に反し、あまりに冷ややかなその言葉に、カナタがぎょっとして筝を見遣ると、彼女は任せろと言うようにちらりとカナタを見返し、頷いて見せた。
 「陛下、罪を犯してしまったのならば、償うべきです。罪を逃れるご自身を卑怯だと思し召すのであれば、罪の大きさに見合う償いをなさいませ」
 「・・・償い・・・・・・?」
 涙声が、両手の隙間から漏れる。
 真っ赤に染まった耳が、再び人の声を捉えられるようになったようで、ややすると、涙に濡れた顔が、両手の中から現れた。
 「そうです、陛下。
 東蘭を裏切ったとおっしゃるなら、南薔王として、東蘭と誠実にお向かいなさいませ。
 御子を捨てたとお嘆きになるなら、東蘭、西桃の王となられたお二人のために、できるだけお手を差し伸べておやりになればよろしいでしょう。
 そして、姉上から、南薔の玉座を譲られたからには、王として、立派に君臨なさればよろしいではありませんか。
 あなた様が偉大な南薔王になること、それこそが、あなた様の罪に対する償いでございましょう?」
 言い聞かせつつ、筝は、その骨と皮ばかりの手で、再び緻胤のふくよかな手を包み込んだ。
 彼女が、子供に対するように跪いたまま、緻胤と視線を合わせ、にっこりと微笑むと、緻胤も、ようやく落ち着きを取り戻した。
 「そうね・・・その通りだわ・・・・・・」
 その声は、未だに震えてはいたが、緻胤は深く頷くと、筝の手を握り返した。
 「カナタ様・・・取り乱して、申し訳ありませんでした」
 そう言って、同じく彼女の前に跪いたままのカナタに、ぺこりとこうべを垂れる。
 「あ・・・いえ・・・」
 なすすべもなく、おろおろとしていただけの自身に苦笑して、カナタは立ち上がった。
 「やっぱり、筝殿にいてもらってよかった。私だけでは、おろおろするしかなかったから」
 いつもの、気安い口調に戻って笑うカナタに、緻胤も、唇に未だ強張った笑みを浮かべる。
 が、すぐにその笑みを消し、緻胤は、まっすぐに『華綾』を見据えた。
 「カナタ様・・・私、『華綾』様は人の姿になることもできると伺いましたが、本当ですの?」
 「ええ。さっきまでは、青年の姿でそこに座っていましたよ」
 と、カナタが緻胤の座っている場所を示したため、彼女は怯えたように、わずかに身じろぎする。
 が、一時瞑目し、深く吐息すると、今度はカナタを見据え、声に力を込めた。
 「・・・あのっ・・・。
 もし、お嫌でなければ・・・いえ、ご無礼にあたらないのであれば、華綾様にお会いしたいのですが・・・!」
 「陛下?!」
 恐ろしい、と、言わんばかりの筝の声を無視して、緻胤は睨むようにカナタを見つめる。
 「叶いませんでしょうか?」
 再度言うと、カナタは、微笑を浮かべて頷いた。
 「そんなことはありませんよ」
 そう言って、カナタは『華綾』へと歩み寄り、大きな花瓶から、彼を引き抜いた―――― 随分と茎が長い。
 かなりの深さがある花瓶の丈を越えてなお、するすると引き出されてくるものが、茎ではなく、根であることに気づいて、緻胤は(無礼だとは思ったが)気味が悪いと思わずにはいられない。
 分岐するたびにその数を増やすそれは、花弁と同じく、ほとんど色を持っておらず、地に根付くためのものと言うより、海に漂うくらげの足のようだった。
 「華綾」
 完全に引き出されると、決して小柄ではないカナタの身の丈ほどにもなったそれに、彼が呼びかける。
 と、『華綾』はカナタの手で床上に置かれるや、しゅるしゅると微かな音を立ててながら、幾筋にも分かれた根を収め、徐々に、その姿を一人の青年へと変えて行った。
 「・・・・・・っ!」
 両手を口に当て、辛うじて悲鳴を飲み込んだ緻胤が、丸い目を見開いて、立ち上がった華綾を見つめる。
 その傍らで、筝も、凝然と凍り付いていた。
 「華綾、南薔国の女王、緻胤殿と、私の補佐をしてくれている、筝殿だよ」
 カナタの紹介に、しかし、華綾はなんの反応も示さず、眼窩の闇を映す目を、ただ正面に向けている。
 その、虚ろな視線を受けて、身じろぎもできない二人に、カナタは苦笑を浮かべて華綾に向き直った。
 「わかったら、頷くように」
 その言葉には、素直に頷いた華綾に、緻胤が微かな悲鳴を上げる。
 「緻胤殿、彼は動くし話しますけど、噛み付きはしませんから、怯えなくても大丈夫ですよ」
 「あ・・・申し訳・・・ありません・・・・・・」
 顔を真っ赤に染めてこうべを垂れた緻胤は、ややして、震える足を叱咤し、立ち上がった。
 「・・・初めてお目にかかります、華綾様」
 言うや、緻胤は両腕を胸の前で交差させ、両膝を床に付いて、華綾の前に深くこうべを垂れる。
 南薔だけでなく、多くの国で貴婦人の最敬礼とされる礼だ。
 「南薔国王、薔緻胤でございます」
 国王となって初めて、最敬礼を送った彼女の傍らで、筝も、落ち着き払ってこうべを垂れた。
 こちらは、足の甲までぺたりと床につけ、額づく、土下座に似た礼である。
 紹介されることすら畏れ多いといわんばかりに、無言で額づく筝に、カナタは苦笑せずにはいられなかった。
 それもそのはず、身体だけであるとはいえ、水精であるカナタは、華綾よりも身分が高い。
 にもかかわらず、今まで、筝や緻胤から、このような礼を受けたことは、一度もなかった。
 「二人とも、顔を上げてください」
 苦笑に、ほんの少し、険が含まれていたことは否めない。
 「木精ですよ、彼は」
 崇めなかったからと言って、祟るわけでもなく、ましてや、公主の命令もなしに、人を裁くことなどできはしない。
 そう、きっぱりと言うカナタに、緻胤は気まずげに顔を上げた。
 「どうやら、猊下へ礼を失してしまったようですわね」
 同じく顔を上げた筝が、苦笑してカナタを見上げる。
 「全くですよ」
 冗談めかして言いつつ、カナタは大仰に肩をすくめて見せた。
 彼には、どうして彼女達が・・・いや、人々が華綾を恐れるものか、その理由を知ってはいても、感覚としては理解できない。
 美しいが、感情のない、人形のような彼が、公主の命に寄らずして何かを判断できるわけがないのに。
 尤も、それは、死の象徴とまで言われた麗華を、身の裡に住まわせ、華綾に最も近い者からその人となりを聞いていた、カナタならではの心理だったかもしれない。
 死の象徴であった薔薇と、裁きの象徴となった薔薇・・・どちらも、人にとっては恐ろしいものには違いないだろう。
 「・・・さて、彼の紹介も終わったことですし、そろそろ本題に入ってもよろしいですか?」
 そう言うと、カナタは再び緻胤に座るよう促し、自らもその対面に座った。
 華綾が、未だ立ったままであることを気にしながらも、緻胤はカナタの勧めに従い、居心地悪そうに浅く腰を下ろす。
 と、カナタの口調が、また改まったものに変わった。
 「いきなり、このような重大事を申し出ることには、私もためらいがなかったわけではなかったのですが、華綾を賜った事を契機に、決断することとしました」
 海のように深い、蒼い目が、緻胤を見据え、次いで、彼女の傍らに立つ筝を見遣る。
 「あなた方二人に、彼を引き合わせたのも、この話を円滑に進めたかったからなのですよ」
 華綾の、暗い眼窩を映す、灰色の目を恐る恐る見上げた緻胤が、話の続きを促すように頷いた。
 彼女に頷きを返し、カナタは、きっぱりと言う。
 「私は、飃山に帰ります」
 「え・・・」
 「猊下?!」
 呆然とカナタを見つめる二人の目には、最早、華綾の姿はない。
 「一体、どうして・・・?」
 そう言う緻胤の顔が、飼い主に捨てられた犬のように、不安げに曇る様に、カナタは苦笑した。
 「あなたを見捨てるわけではありません、緻胤殿。むしろ、あなたのために、出て行こうと決めたのです」
 「・・・理由をお聞かせ願えますか?」
 筝の声音が、硬く強張る。
 「筝殿、賢明なあなたなら、私が言わなくても、お分かりでしょうに。
 政の中心となる場所に、神職は邪魔です」
 「邪魔だなんて・・・。
 この王宮から巫女を排除しては、国は立ち行かなくなりますわ」
 緻胤が言うように、多くの特異性を持つ南薔国が、他国と最も違っているのは、政教が分離していないところである。
 女王自身が、最高位の巫女であるというこの国のあり方は、この国の隅々にまで広がり、上は州候から下は小村の長まで、『主』と名のつく者は皆、巫女の位を持つ者だ。
 だが、現在の女王、緻胤は、おそらく南薔国初の、神職の位を持たない女王だった。
 「これは、いい機会なのです」
 膝の上で両手を組み合わせ、カナタはやや身を乗り出した。
 「何百年も、南薔は政と教が深く癒着してきました。これらを分離させる機会は、おそらく、今を置いて他にはない―――― 緻胤殿、あなたの後継者ができてからでは、遅いのですよ」
 「私の・・・?」
 「ええ。
 神殿は、巫女ではないあなたを玉座に据えることを、特別に認めました。ですが、あなたの後継者には、このような特例は認められません。
 あなたの娘は、幼いうちから巫女として教育され、巫女の王として育てられるでしょう」
 カナタの言う通りだった。
 緻胤は、彼女の姉・沙羅に対する神職達の反感から、擁立されたようなものだ。
 彼女が巫女でないことも、他国の太后であり、幼王を教育する太傳(たいふ)であったことすら問題としなかったほどの反感・・・それがなければ、緻胤など、見向きもされなかったに違いない。
 「ですから私は、役職に就いている者と、佳葉の神殿を守る者を除いた全ての神職を、飃山に連れて帰ろうと思います。
 緻胤殿、神殿と神職のことは私に任せて、あなたは政に集中してください」
 「カナタ様・・・」
 「私が、政に口を出してはいけないのです。そしてあなたが、私の命令でこの場に赴くようなことがあってもいけない。
 女王が聖太師の命に従う事が当然だと言うような、奇妙な慣習はやめさせましょう」
 そして・・・と、カナタは緻胤の傍らに立つ、筝を見遣った。
 「蟷器(トウキ)からの書状を取ってきてください」
 頷いて、カナタの執務机へと歩み寄る筝の背を見上げ、緻胤が訝しげに眉を寄せる。
 「蟷器・・・?」
 その問いに、カナタは深く頷いた。
 「緻胤殿、これも、あなたが在位中に成し遂げるべきことです。
 いや、あなただけではない。
 これは、私と蟷器が国の要職にある間、そして、東蘭の現王と西桃の現王・・・あなたの影響力が及ぶ王達が在位している間になすべきことなのです」
 「一体、何をおっしゃっているの?」
 答えの代わりに、カナタは、筝の差し出した書状を緻胤の前に広げた。
 「東蘭、西桃、南薔・・・大陸三大国を、一つにまとめます」
 視線を書状の上に落としたまま、緻胤は、微動だにせず、カナタの声を聞いていた。
 「一つに・・・?」
 ようやく、震える唇が、言葉を紡ぎ出す。
 「そう、一つに。
 それぞれの国で制定している暦、度量衡、通貨、そして、似通っていながらもそれぞれに違う言語。
 これらを一つにまとめるのです」
 何のために、とは、聞くまでもなかった。
 緻胤は南蛮で生まれ育ったが、その後、東蘭、西桃の王妃となり、南薔の王となった。
 南蛮の地に広大な領土を持つ領主として、また、東蘭、西桃の王妃として責務を果たしていた時も、まずはその国の言語、習慣、そして何よりも、その国を計る度量衡の違いに悩まされたものだ。
 これらが統一されたなら、多くの商業地で頻繁に起こる争いや、領主同士の戦が、どれほど減ることだろうか。
 「あなたと蟷器は、私にこれを成し遂げろとおっしゃるのですね」
 目に力を込め、緻胤はカナタを見据えた。
 「今しか・・・そして、あなたにしかできないことです」
 カナタの答えに、しかし、緻胤は首を横に振った。
 「いいえ、カナタ様。私達にしか、できないことですわ」
 そう言うと、緻胤は眼前に広げられた蟷器の書状を手に取り、何度も読み返した。
 「そう・・・私と蟷器は、通貨と度量衡の統一を成せばよろしいのね」
 「下界のことは、あなた達に。私は、大陸中の神殿に、言語と暦の統一を命じます」
 どのように、と言うことは、蟷器の書状に事細かに書いてある。
 まずは、東蘭と南薔が共謀し、二国の度量衡を統一する。
 そして、二国間の交易では、必ず統一された単位を用い、数量をごまかしては暴利をむさぼる商人達を取り締まるのだ。
 通貨も同じである。
 今は、それぞれの国で、混入される金銀銅の量を定めているが、悪銭が出回ることを防ぐためにも、統一された度量衡によって金銀銅の混入量を統一する。
 そうやって、まずは二国の経済を落ち着かせ、その流れに西桃を巻き込むのだ。
 「簡単には行かないでしょうね。でも、やる価値はありますわ」
 すっかり落ち着いた声音で、緻胤が言い、にっこりと笑った。
 「でもカナタ様は、お一人で大変ではありませんか?」
 気遣わしげな声に、しかし、カナタは笑って首を振った。
 「実際にやるのは、私ではなく、神職達ですからね。まずは、彼女達を説得します」
 政教の分離していない南薔国だが、その、原始的国家体制に唯一良い所があるとすれば、巫女の血統を大切に守ってきたことである。
 東蘭や西桃と違い、本物の巫女―――― すなわち、偽りではない、本物の霊感、霊力を持ち、天地の狭間に漂う精霊の声を聞く者達が、多く存在するこの国では、カナタが水精である事を、疑う者はいない。
 つまりは、聖太師の命が、欲や陰謀によって、途中でゆがめられる事もなく、その権威を保ったまま、速やかに浸透していくのだ。
 そこが、神事に携わる者達と、政に関わる者たちとの違いだった。
 「説得には、卑怯かもしれませんが、この華綾を利用します。
 私はあえて、神殿の神職達に、彼が無害であることを教えないつもりです」
 ふ、と、カナタの頬に、皮肉げな笑みが浮かび、緻胤の眉をひそめさせた。
 「聖職にある以上、彼女達は、常に清らかであるべきです。
 なんら良心に恥じることがない者は、華綾とともにあっても、恐れることなどないはず。
 そして、妙な欲を起こさせないためにも、彼は十分な抑止力となってくれるでしょう」
 妙な欲、と聞いて、緻胤は、カナタがまだ、麗華を身の裡に宿していた時、『神職による人身売買の禁止』を命じようとしていたことを思い出した。
 「・・・神殿中が、混乱いたしますわよ」
 思い余った者が、カナタを傷つけはすまいか、そう、忠告すると、カナタはにこりと笑みを深める。
 「ご安心を。私は、人間じゃありませんから」
 それに、と、彼は、傍らに立つ華綾を見上げた。
 「彼が私の傍らにいるのに、陰謀を巡らせるような勇気は、誰も持っていないと思いますよ」
 「まぁ・・・だったら、華綾様にはむしろ、私の側にいて欲しいものですわね」
 くすりと笑みを漏らす緻胤に、しかし、カナタは笑って首を振った。
 「清いばかりでは立ち行かないのが政と言うものでしょう?他国を呑み込む前に、再び南薔が喰い尽くされるようなことになっては、民に申し訳ありませんからね」
 「おっしゃるとおりだわ」
 軽い笑声を上げながら、緻胤は手にした書状をきれいに巻き戻し、カナタに差し出した。
 「あなたと蟷器が、私に玉座を下さったわけが、ようやくわかった気がしますわ」
 特に、転んでもただでは起きない蟷器の事だ。
 緻胤が彼の努力を無にして、西桃の王妃に立たされた時から・・・いや、西桃の王妃となることから逃れられないと知った時点で、この事を考え始めたに違いない。
 そしてこの、聖太師も――――。
 「嘉蘭は、有能な官吏ですわね」
 にこりと笑うと、カナタも笑みを返す。
 嘉蘭は、カナタが緻胤に付けてくれた、南州出身の官吏だ。
 南州候・英華が生きていた頃はその家臣として、王宮に勤めていたが、彼女が亡くなり、緻胤が即位した後は、彼女の側近として、南薔や南薔の神事について教育する役目も負っていた。
 「彼女は、おっとりしていますが、権威に踊らされない強さを持っています。
 今日、あなたがここへ、比較的のんびりいらっしゃったのも、彼女がそう勧めたからではありませんか?」
 カナタの問いに、緻胤は深く頷いた。
 「彼女は、一国の王が、聖太師の地位を蔑ろにすることは許されませんが、この王宮の主は私であると、はっきりさせて置くようにと申しましたわ。
 でなければ、臣下は忠誠を向ける相手に迷うから、と」
 そう言うと、カナタは軽い笑声を上げた。
 「嘉蘭は、神殿の権威と王の権力の違いを、よくわかっている」
 そう言って、筝を見遣れば、彼女は苦笑して軽く頷いた。
 「彼女は南州候の家臣の中でも、指折りの名家出身ですが、同じ名家出身の詩羅(シーラ)などと違って、政教分離の必要性をよく心得ております」
 それは、彼女自身が、優れた感応力を持つ巫女だからかもしれないと、筝は考え深げに視線を落とす。
 「彼女は、自身が本物の巫女だからこそ、その勘が絶対ではないことをよく知っているのです」
 筝の言葉に、緻胤も深く頷いた。
 彼女も、この王宮でしばしば目にし、驚いたことは、官吏が重要な決定を、勘や占いに頼って決断していたことだった。
 そして、そのようにして決定した事は精霊の託宣だと放言し、信じがたいことに、決断した本人がその責任を負おうとはしないのだ。
 「嘉蘭のような、神殿の権威に惑わされない者は、あなたの官吏として、王宮に残して行きます。私は、神殿に心酔する者達―――― ここに残っていては、あなたの邪魔になる者達を全て、飃山に引き上げさせます」
 よろしいか、と、微笑むカナタに、緻胤は、深くこうべを垂れた。
 「カナタ様・・・お心遣い、心より感謝いたします」
 「南薔のためですよ」
 ところで、と、カナタは、筝を見遣った。
 「筝殿、あなたはどちらを選びますか?
 王宮に残るか、私とともに、飃山へ赴くか」
 選択を許されたのは、カナタの、筝への信頼の深さを表すものだ。
 筝であれば、王宮にいても緻胤の味方になるだろうし、飃山へ行っても、今までと変わらず、カナタの片腕として働くことができるだろう、と。
 筝は、聖と俗、二人の権力者の視線を受けて、しばし、考え込んだ。
 彼女は元々、南州候の家臣だった。
 前南州候によって判官に任命され、その娘である英華に仕え、その後、カナタに仕えるようになった。
 カナタは、彼女の意見を尊重し、彼女の思う事を実現させる、得がたい主人だ。
 彼に仕えるようになってから、彼女の権力も、そして、前王の元で虐げられていた南州の者達の地位も上がったのである。
 南薔王の元で権力を行使すること―――― それは、とても魅力的なことではあったが、今まで築き上げてきた、『聖太師の補佐役』という地位に勝るものだろうか?
 筝は、静かに目を開けると、にこりと、微笑を浮かべた。
 「お若い陛下には、老婆のお節介など、煩わしいばかりでありましょう」
 そんなことはないと、口を開きかけた緻胤を制し、筝は首を振った。
 「選択を許されましたのは、ありがたいお心遣いなれど、わたくしは今まで通り、聖太師にお仕えしとうございます」
 カナタが、安堵したようにわずかに頬を緩める様に、筝は、口元の笑みを深めた。
 「それに、わたくしが陛下のお側にあっては、古い体制を改めようと言う、若い者達が萎縮しないとも限りません。わたくしは、王宮にいない方が良いのです」
 そう言って、やや皮肉げに口の端を曲げると、緻胤は苦笑して頷いた。
 「わかりました。
 でしたら、筝殿には今まで通り、カナタ様の補佐をお願いします。
 カナタ様、有能な補佐役に見捨てられず、良かったですわね」
 「本当に」
 くすくすと、軽い笑声を上げる三人を、華綾の灰色の瞳が、なんの感情もなく見つめていた。


 使者の任を終えて、流霞が渺茫宮に戻ると、ちょうど澪瑶公主も、湟帝の御座所から自身の居宮に帰ってきたところだった。
 妃の位を賜ってきた公主の顔色は、心なしか蒼ざめて見える。
 心ここにあらずと言った様子で、ふらふらと歩を進める彼女を、流霞は訝しく思いつつも跪いて迎えた。
 「お戻りなさいませ」
 しかし公主は、流霞の姿など目に入らないかのように部屋の中へ入っていく。
 流霞は、床に落とした視界の中を、公主の艶やかな銀髪が通り過ぎてしまってから、ようやく顔を上げ、公主に付き従っていた水精達がこうべを上げる前に居室の扉を閉めた。
 厚い扉で、外からの視線を防いだ途端、他の水精達と切り離された事に、流霞は強烈な不安を覚えた―――― この部屋は、尋常ではない。
 美しい調度で飾られた、広い室内には、各所におびただしい数の人形が飾ってある。
 しかし、それらの人形は全て、その双眸から眼球が取り除かれていた。
 暗い眼窩をさらす人形たちの、それでも微笑みを浮かべる顔から懸命に視線を逸らして、流霞は公主の後に従う。
 この部屋の、ほとんどの壁は、水の王の居室にふさわしく、壁泉になっていた。
 高い天井近くから水壇へと流れ落ちる水の音は部屋中に満ち、中の声が外へ漏れる事を防ぐ―――― 徹底的に他者を拒む部屋に引きこもった公主は、部屋の中央まで進むと、ぺたり、と、その場に座り込んだ。
 「公主・・・?」
 座り心地の良い椅子などが多くあるにも関わらず、わざわざ床の上に座り込んだ公主を、流霞は訝しげに見遣る。
 と、その身体がぐらりと傾いで、流霞は慌てて公主に駆け寄った。
 「公主!!」
 公主が床に倒れこむ直前、どうにかその脇に滑り込んで、神子の身体を支える。
 「どうなさいました?お加減でも・・・・・・?」
 驚きのあまり、水精らしくもなく息を乱した流霞は、覗き込んだ公主の目が、彼女以上に驚愕に見開かれている様に、言葉を失った。
 「・・・・・・どうして?」
 「は?」
 か細い声が、妙に幼くて、流霞は自身の腕の中にいる者は本当に澪瑶公主なのか、一瞬、目を疑ったほどだ。
 しかし次の瞬間、
 「どうして華綾がいないの?!」
 公主は、悲鳴じみた甲高い声で叫んだ。
 常に彼女の側にあり、身体を傾げればすぐに背を支えていたのは華綾だった。
 余計なことなど一切言わず、ただ、寄り添っているだけで良い存在がなくなったことに、公主はどうしようもない憤りを感じていた。
 「公主・・・華綾は・・・・・・」
 ご自身で、人界のカナタに賜ったではありませんか、と、流霞が訝しげに言うと、公主は駄々をこねるように首を振る。
 「いやよ・・・!!華綾・・・!!華綾・・・・・・!!」
 大きな目からぽろぽろと涙をこぼし、ひたすら薔薇の名を呼ぶ。
 「どうして・・・どうしてお父様は・・・・・・!
 お父様はわたくしの大事なものを奪うの・・・・・・!?」
 公主は、湟帝によって闇精王と風精王を奪われ、華綾をも手放さなくてはならなくなった。
 「そして・・・今度はわたくし自身を奪われた・・・・・・!!」
 流霞の両腕にすがり付き、胸に顔をうずめて泣きじゃくる公主の姿を、流霞は、公主と同じく、床に座り込んだまま、呆然と見つめる。
 ―――― これは・・・誰・・・・・・?
 彼女にとって・・・いや、彼女たち水精にとって、前王の淘妃(トウヒ)といい、現王の公主といい、水精王は冷淡で残酷な暴君であった。
 特に淘妃は、凄まじい悋気の持ち主で、湟帝に近づく者は容赦なく、その命を取り上げたものだ。
 ために水精たちは、常に王の怒りに触れることを恐れ、近づくことさえはばかってきたのである。
 しかし・・・と、流霞は、もう遠い昔、公主が生まれた時のことを思い出す。
 風精王に乳母の座を奪われるまで、公主は水精達の手の中にあった。
 誰もがこの、美しく、清らかな皇女に構いたがり、その愛らしい仕草に心奪われたものだった。
 それがいつの間に、このように恐れられるようになったのだろう・・・・・・。
 ―――― 私たちが恐れた・・・?いえ、公主に、私たちが避けられるようになったのだわ。
 ふと思い出し、流霞は、泣きじゃくる公主の背を撫でながら、自身の記憶を探った。
 公主はいつの頃からか、水精に懐かなくなった。
 心を開くのは、乳母である風精王と、同じ神子であった闇精王、そして、あの透明な薔薇だけ。
 水精達は徐々に公主の近くから追われ、ついには誰も、彼女の側に仕える者はいなくなった。
 ―――― どうして・・・そんなことに・・・・・・?
 どうして・・・自身に繰り返した問いに答えを見つけ、流霞はきり、と、唇を噛む。
 ―――― おのれ・・・邪悪な武人どもが・・・・・・!
 公主が心を開いていた、風精王と闇精王のどちらか・・・もしくはどちらもが、公主にあらぬことを吹き込んだに違いない。
 そうして、公主と水精達の間に、深い溝を掘り込んだのだ。
 「次は・・・次はきっと・・・わたくしの命を・・・奪われるおつもりなのだわ・・・・・・!」
 「何を馬鹿なことを!」
 ここにはいない風精王と闇精王、そして、何よりも湟帝への怒りを込めて、流霞は厳しく言い放った。
 その、あまりの激しさに、公主は驚いて流霞を見上げる。
 「しっかりなさいませ、澪瑶公主!
 あなた様は、この瑯環(ろうかん)にたったお一人の神子であられるのですよ!」
 誇り高い水精の中でも、最も誇り高くあるべき水精王が、実はこれほど柔弱な少女であったことに、流霞は烈しい憤りを感じていた。
 これまで、自分たちが恐れ、怯えていた王の真の姿が、このように弱々しいものだったことに、屈辱さえ感じる。
 だがそれ以上に、これほどか弱い少女に孤独を強いた者達へ、憎悪を感じずにはいられなかった。
 「公主・・・!
 これからは、わたくしが貴女様をお守りいたします」
 決然と言い放ち、流霞は、それまで目を合わせることすらできなかった公主を、正面から見据えた。
 「我が一族は、他族に比べてそれほど傑出した権威を持ち合わせてはおりませんが、貴女様にいただいた流鰭の名にかけて、心より忠誠を誓いますわ」
 この時流霞に、権力への欲望が全くなかったとは言い切れない。
 が、この繊細な少女を守りたいと思う心は真実だった。
 そして公主も、自分を抱く腕の感触に、不思議な安心感を味わっていた。
 今まで、彼女を抱いた腕は、肌をそろりと撫でる風のそれであり、心の中まで染みとおるような闇のそれであった。
 または、容赦なく支配し、飲み込む父のそれか、逆に、公主よって隅々まで支配された薔薇のそれしかなかったが、今、公主を抱く流霞の腕は、自分と同じ温度を持っている。
 自然と溶け合うように、自身と同化して行く感触に、公主はうっとりと目を閉じた。
 ―――― これが・・・わたくしの同族・・・・・・。
 風精王によって引き離され、闇精王によって疑心を植えつけられて以来、恐れ、避けてきた水精の腕は、隅々まで公主の身体と同調していく。
 その、いつまでも浸っていたい心地よさに、公主は甘えるように身体を預け、流霞は、前王の代わりを務めるように、母の慈愛をもって公主を抱きしめていた。
 二人の背後では、流霞をこの部屋に入れるきっかけとなった水球が、いつの間にか浮力を失い、床の上を静かに転がっていた。


 公主の遊び相手として献上していた風霊を、彼女の部屋から引き上げさせた哩韻(リィン)は、彼らを身にまとわりつかせながら、にこりと口の端を曲げた。
 「ようやく、公主に水精の『お味方』ができたね」
 くすくすと、軽い笑声を上げながら、その情報をもたらした風霊たちをねぎらうようになでてやると、哩韻の、肩で切り揃えた金色の髪が、さらさらと舞い上がった。
 「流霞が、本当のお味方になるには、随分と時間が掛かるだろうけどね・・・」
 流霞が自身で言ったように、彼女の一族は、水精の中でもそれほど力のある一族ではない。
 人間で言えば、せいぜい中流貴族が、王の寵愛を受けて側近に抜擢された、という程度だ。
 身分に厳しい水精達は、成り上がり者に対する嫉妬も深い。
 流霞が、真に公主の力になれるほど、水精の中で権力を持つようになるには、とてつもない時間がかかるはずだ。
 「がんばってね、流霞。僕も応援するよ・・・・・・」
 「随分と機嫌がいいな、ボウズ」
 くすくすと笑声を上げる彼に、笑みを含んだ声が掛かる。
 「紫覧(シーラーン)」
 細い身体に細い四肢・・・鞭に似た姿の風精に、哩韻はにこりと笑みを深めた。
 「そりゃあ、機嫌も良くなりますよ。また、王の元に行けるのですから」
 湟帝によって人の身に落とされ、人界で暮らす風精の王の元へは、用がない限り伺候することは許されていない。
 だが、逆に言えば、用さえできれば伺候を許されるのだ。
 「お前さん、王の元へ行きたいばっかりに、あちこちに風霊を放っているらしいな」
 紫覧の、針のように鋭く尖った細い目が、皮肉な笑みを浮かべる。
 が、哩韻は彼の嫌味など気に留める様子もなく、嬉しげに笑った。
 「あなたは、僕が情報操作をしているって、言いたいんでしょ?ひどい誤解だな」
 「誤解か?」
 敢えて問う彼に、哩韻は笑みを深める。
 「少なくとも、僕は、自分勝手な行動はしませんよ」
 言外に、王の意志で動いているのだと言う彼に、紫覧は皮肉な笑みを深めた。
 「水精王すら、あの方の手の内か」
 「だって、困るんですもの。あの方が戻られた時、公主の傍らに強大な権力を持つ者がいては」
 さらりと出た哩韻の言葉に、紫覧はにやりと目を細める。
 「渺茫宮の支配者は、風精王ただ一人で十分ってか?」
 「その通りでしょ?」
 にこりと、邪気のない笑みを浮かべて、哩韻は言った。
 「公主でさえも、あの方は支配しておられた。ちょっとした手違いで、王は人界に落とされましたが、あのワガママ姫も十分な報いを受けている」
 「父親の妃になったくらいで、あのお姫様が懲りたとは思えないがな」
 「そう?」
 意地の悪い笑みを浮かべて、哩韻は紫覧を見上げた。
 「彼女はもう、誰も信頼できないよ。父親にさえ裏切られたんだからね。
 今また、心許せる水精がいた、なんて、勝手に思い込んでいるようだけど、あんなのはいつでも取り上げてやれる」
 無邪気そうな少年の顔が、邪悪な感情に黒く染まっていく。
 「結局、公主が縋ってくるのは風精王だけだよ。そうなるように、仕向けるんだ・・・ね、紫覧?」
 す、と、哩韻は紫覧に身体を寄せ、その耳元に囁いた。
 「風精王のためだもの。あなたも、協力してくれるでしょう?」
 風を操る彼らのこと、その声が、他者に漏れることはあり得ないと言うのに、わざわざそうやって、耳元に囁きかける哩韻に、紫覧は眉をひそめる。
 「やめろ。俺は、お前のように気色の悪い策略を巡らせるのは苦手だ」
 「何を今更」
 ふふ、と、軽い笑声を上げて、哩韻は身を翻す。
 「あなただって、あの方以外の風精を王に据えるなんて、考えもしないでしょう?だったらもう少し踏み込んで、あの方の権力を維持するくらいの努力をして見せたらどうなのさ」
 「守るさ。お前とは、別の方法でな」
 「応援するよ、紫覧。僕のやり方と、対立さえしていなければね」
 甲高い笑声を上げて、哩韻は紫覧の前から掻き消えた。
 「腹黒い王の犬め・・・」
 『僕が腹黒い犬なら、あなたは狡猾な狐だね』
 毒づく紫覧の耳に、この場所にはいない、哩韻の声が送られてくる。
 「そいつぁ、言えてらぁな」
 軽い笑声を上げる彼の顔に、嫌悪の色はなかった。




〜 to be continued 〜


 







Euphurosyne