◆ 29 ◆
大陸北方を横断する大山脈、飃山(ひょうざん)から吹き込んでいた冷たい風雨は、いつしか、南海より吹き寄せた暖かい風にその支配域を譲り、大陸に、本格的な夏が訪れようとしている。 長い間空を覆っていた、厚い雲が振り払われると、濃紺の蒼穹は既に、黄金を溶かした陽光に明るく染め上げられていた。 輝きを増した太陽―― 瑰瓊(かいけい)と呼ばれる―― に、暑熱を増しつつある地上だったが、国中を大小の川と水路によって断たれた東蘭国(とうらんこく)では、むしろ、涼感を愉しむ季節である。 東蘭国首都・佳咲(かしょう)の王宮も例外ではなく、官吏たちはそれぞれの執務室を、流水を見下ろす回廊やあずまやに移し、時折、浮き草の流れに目を落としながら、うなじを涼風にさらしている。 それは現在、この王宮内で最も強権であると言っても過言ではない、中書省(ちゅうしょしょう)でも例外ではなく、広大な省内の中央部には、書類を取りに来る官吏がぽつぽつと現れるだけで、彼らの大部分は、王宮中を巡る流水の水際に卓を並べていた。 中書省の長官である、中書令・枢蟷器(スウ・トウキ)もその一人だったが、彼は一国の宰相にあるまじきことに、冠も着けず、長い黒髪を背中で一つに束ねて、次々と積み上げられる書類を淡々と捌いている。 が、彼の部下が、ある書簡を特別に恭しく運んで来た時、初めてその手が止まった。 「聖太師猊下よりの親書にございます」 蟷器の直属の部下である菎(コン)が、そう言ってにこやかに書簡を差し出す。 が、 「わざわざ言わなくても、そのくらい、お前の態度でわかる」 蟷器は憮然と言い放ち、片手で無造作に書簡を掴み取った。 神殿の最高権力者から書簡を拝受する大幸を賜った者の多くが、後生大事に保管すると言う珍しい蒼い封蝋を、惜しむ様子もなく割り、質の良い巻き紙をざっと広げた蟷器は、その内容に一層きつく眉をひそめる。 「・・・悪い知らせでございますか?」 「悪くはない」 と、蟷器は菎に書簡を渡した。 柔らかい紙を受け取った菎は、それを捧げ持つようにしながら目を通し、嬉しげに頬をほころばせる。 「猊下が、言語と暦の統一にご協力くださるとは! よろしゅうございましたねぇ。これで、閣下の願いが、二つも叶うことになるのですねぇ」 「あほう。そんなに簡単に行くか」 自身より、はるかに年かさの副官に、惨い一言を投げつけて、蟷器は再び、菎の手から書簡を受け取った。 「こんなのはな、別に、急ぐことじゃない。 せいぜい、俺らの子か孫の時代にでも完了してくれればいいこった」 「はぁ・・・。 では、私は見ることができませんねぇ」 寂しげに呟いた菎は、既に、老境に入っている。 あと、三、四年もすれば、王宮を退くことになる彼に、現在、蟷器が行おうとしている事の結果どころか、経過を見守ることすら不可能だった。 「俺にだって、見届けることはできんさ。 それよりも、嬢ちゃんのことだ」 「太后・・・あ、いえ、南薔王陛下のことでございますか?」 蟷器は、東蘭の前王、采の友人であり、彼を玉座に押し上げた男でもある。 それゆえか、東蘭の前王妃であった緻胤(ジーン)に対しても、その口調は、とても臣下とは思えぬほどぞんざいなもので、公式の場以外で、彼が緻胤を敬称で呼んだことはなかった。 「未だ政教の分離していない原始的な王宮で、あの嬢ちゃんを庇護できるのは、あの中で唯一まともな常識を持った聖太師だけだぞ。 その聖太師が、嬢ちゃんを放って山に帰るとは、どういう了見だ?」 「そんな・・・猊下は、南薔王陛下をお見捨てになられたのでしょうか?」 お気の毒に、と、眉をひそめる菎に、しかし、蟷器はあっさりと首を振った。 「いや、あの聖太師はお人好しで、義理堅い。余程のことがない限り、自分を頼っている嬢ちゃんを見捨てることはないだろう」 では、一体何が起こったのか、と、蟷器は、ろくな情報もないまま、無駄な推量をする努力を惜しんだ。 蟷器にも知らせておかねばならないことなら、馬鹿正直なカナタのことだ、律儀に書簡を送ってくるはずである。 知らせたくないことか、知らせるまでもないことか、どちらかには違いないと、蟷器は新たに紙を取った。 彼にしては気を遣っているらしく、彼の手許にあったものの中で最も上質な紙を取り上げると、その上にさらさらと筆を滑らせた。 「猊下のご使者に、返信をお預けしてくれ」 言いながら、蟷器は赤い蝋を溶かして封をし、印章を捺して菎に渡す。 「え・・・は、はぁ・・・」 いいのだろうか、と、菎が不安げな顔で受け取った書簡を見下ろした。 それも無理はない。 聖太師からの書状への返信を、重臣達に諮ることなく、一宰相が勝手に出していいものか・・・この件で、蟷器を専横と呼ばわる者が出るのではないか、そう、案じているのだ。 「正式な返信は、ちゃんとみなに諮る。それは私信だ」 良く見ろ、と、指し示された封ろうの印章は、中書令の正式な印章ではなく、蟷器の個人的なそれ―― 意匠化された橙の花と蟷螂(かまきり)―― の刻印がおされてあった。 「あいつが山に帰った途端、嬢ちゃんが蔑ろにされるようじゃ困るんでな。その辺の気を遣ってから帰ってくれ、と、頼んだのさ」 「げ・・・猊下にですか・・・?」 蟷器の下で働いて、彼の言動には慣れたはずの菎だったが、世界中の神殿を統べる聖職者にすら対等の口を利く蟷器に、震え上がらずにはいられない。 菎がまるで、毒を持つ蛇を持たされたかのように、びくびくと手にした書簡へ目を落とすと、蟷器は彼の弱腰を笑うかのように鼻を鳴らした。 「書いたのは俺だ。使者に渡しただけのお前に天罰が下るわけでもなし、そんなに怯えることはないだろう」 「で・・・ですが・・・」 「いいから、持って行け。 それだけでも先に、あいつの手に渡るよう、使者に心づけを添えるのを忘れるなよ」 「はぁ・・・」 商人の息子だからか、妙な所に気が回るな、と、菎は感心しながら預かった書簡を持って退出した。 聖太師が飃山に帰ると言う知らせを受けた神職達は、王宮でも飃山の神殿でも、その急な報せに浮き足立ったものだ。 特に王宮の神職達は、誰がこの場に残るのか、そして、誰が緻胤の側に仕えるのか。 どこからか情報は漏れて来はしまいかと、そわそわと落ち着かない。 そんな王宮の再奥で、人事は極密やかに行われていた。 決定するのは、カナタと緻胤、ただ二人である。 連日、忙しい執務の合間を縫っては、額を付き合わせる二人に、しかし、周りが期待するような甘い雰囲気はない。 多くの名と、その役職を連ねた分厚い紙の束を差し出して、 「緻胤殿に、誰かご希望の者はいらっしゃいますか?」 と問うカナタに、 「私は・・・特には・・・・・・」 と、やや困ったように微笑み、緻胤は首を横に振った。 南薔王になって間もないどころか、南薔国に来てさえまだ日の浅い彼女だ。 誰が王宮にふさわしく、誰が神殿に必要か、わかるはずもない。 「まずはカナタ様が、ふさわしい方を選んでくださいな」 そう言うと、彼はふと顔を上げ、淡く微笑んだ。 「緻胤殿、あなたの補佐をする者達です。あなたがそれぞれの評価を比べ、選ばなくては」 それとも、と、カナタはくすりと笑みを漏らす。 「占いででも、お決めになりますか?」 「まぁ・・・。そんなことはいたしません」 緻胤が眉を寄せる様に、カナタは更に笑声を上げた。 血筋ではともかく、育ち様は完全に外国人である緻胤が、この王宮に対して最も不満を感じることは、何もかもが『巫女』の勘と占いによって決められ、『天意』と称されて、人間にはその責任が及ばないことなのだ。 「すみません、怒らないでください」 くすくすと、まだ笑みを漏らしながら、カナタは頬を膨らませる緻胤に謝った。 そして、まだ口元に笑みを浮かべたまましばらく考え込み、 「・・・そうですね、私からこの件に関して、お願いすることと言えば・・・。 西州の者達を、新参者として遠ざけず、南州の者達と同等に扱っていただきたいと言うことと、東州の者をお見捨てくださるな、ということでしょうか。 私は既に、南州と深く関わりすぎて、東州と西州を引き立ててやることができませんから」 笑みを苦笑に変えて、緻胤に微笑みかけた。 「それはもちろん、出身地によって差別をしようとは思いませんが・・・それはカナタ様も同じことでしょう?」 確かに、カナタの・・・いや、神殿の重職にある者達は、南州出身の者が多いように思うが、それは西州が、南薔国に加わる前から彼の側に仕えていたというだけのことだ。 カナタ自身が、わざわざ南州出身者のみを取り立てているようには見えない。 そう、緻胤は言ったが、カナタは、彼女の言葉が終わらないうちに、その顔から全ての表情を消してしまった。 「もちろん、私も好きで東州と西州を隔てているわけではありません」 苦い声音に、緻胤が訝しげに眉をひそめる。 「ただ・・・私は、南州の者たちを憐れに思います。 各州候達の中で、彼らだけが領土を取り戻せていない・・・。 彼らは元々、情のこわい所がありますが、そのことが、より一層、彼らを頑なにしています。 南州候亡き後、南州の者達を取りまとめている筝殿が、私とあなたの側を南州の者だけで固めようとしているのも、領土を持たない不安ゆえ・・・。 それを知っていながら・・・いや、知っているからこそ、私は南州の者達を見捨てることはできないのです。 特に筝殿・・・。 愚かな、と思われるかもしれませんが、私は彼女がいないと、何もできないのですよ」 筝を深く信頼している、しかし、彼女に全てを託すことはできない。 そう言うカナタの表情は、今までに見たことがないほど、深い陰りを帯びている。 「緻胤殿には、私にできないことを任せてしまって、申し訳ないと思っています。 ですが、あえてあなたには、西州と東州を隔てなく扱っていただきたいと、お願いします」 そう言って、深くこうべを垂れたカナタに、緻胤は恐縮して頭を上げてくれるよう頼んだ。 「東州とは、カナタ様、東三州のことですわね?」 「ええ。東蘭に接した東側三州の件です。 ・・・・・・ある取引によって、東蘭から東三州が返還されたことは、ご存知ですね?」 ある取引、という言葉に、緻胤はカナタに劣らず、表情を硬くして頷いた。 東三州は、緻胤の母である南薔の前国王、精纜(セイラン)と蟷器の間で交わされた密約によって、東蘭から返還されたのだ。 母、精纜は、産んだばかりの南蛮王の王子―――― 緻胤の弟にあたる赤子を、東三州と引きかえに、蟷器に渡したのである。 結果、南蛮王のただ一人の息子は行方不明となり、緻胤の子、傑(ケツ)が王不在の南海諸島を治めることとなった。 緻胤は、蟷器と、まだ健在だった夫、采の、『決して殺しはしない。ただ、庶人として育てる』と言う言葉を信じ、沈黙を誓ったのだ。 「ですがその・・・新参の西州でしたらともかく、東州は母が南薔に来た時からの臣下であったはず。 今更それを見捨てるな、とおっしゃるのは、どういったことなのでしょう?」 訝しげに首をかしげる緻胤に、カナタは一瞬、苦笑を浮かべ、頷いた。 「おっしゃるとおり、精纜王が南蛮・・・失礼、南海王国から逃れ、南薔に逃れた時、彼女を助けたのは、南州候と東州候の、ただ二人でした」 あれから既に、既に七年が経った・・・しかしまだ、それだけの年月が経った気はしない。あの時、あの場にいた者達は、その多くが冥府の女帝の元へ行ってしまったと言うのに。 「どういった方ですの、東州候は?」 ふと、言葉を切ってしまったカナタに、緻胤は柔らかく微笑みかけた。 「・・・随分と年をとってはいますが、したたかな人ですよ。 東州に帰ってしまってからは、どのように過ごしているのか知りませんが、昔の南薔を知る、貴重な人でした」 どのように、との問いに、カナタは手にしていた書類を置き、軽くあごをつまんで記憶をたどる。 「・・・最も老齢の巫女らしく、王宮の有職故実にも、神殿の礼法にも通じていました。 神殿の外観だけでなく、内部の修理・・・つまり、巫女の階級や役職などですが、それらを再現できたのは、彼女の力によるところが大きいですね。 もっとも、彼女が誇りにし、当然の権利だと言っていた刺青(いれずみ)は、痛いから嫌だという者が多くて、廃れてしまいましたけどね」 「刺青?」 問い返す緻胤に、カナタは自身の袖をめくって、白い腕の腹を見せた。 「昔の巫女はね、この、青い静脈に沿って、植物の刺青をしていたのですよ。もちろん、女王も巫女である以上、例外ではありません」 カナタの言葉に、緻胤はあからさまに怯えを見せる。 「でも、今も言いましたように、若い巫女達には嫌がる者が多いので、段々と廃れてしまいました。 まぁ、神職の最高位である私が、刺青をしていないのですから、東州候にしても、強く言いづらかったのでしょう。 ですが、それ以外には私も巫女達も、彼女から多くのことを学びました」 カナタが未知の世界で、聖太師として振舞ってこられたのは、彼の裡に棲んでいた麗華と、彼に様々な事を教えてくれた『おばあちゃん』のおかげだった。 「ただ・・・お恥ずかしいことに南薔は、いまだ領土を回復していないというのに、王宮内で権力を巡った争いが絶えなくて・・・・・・。 東州候は沙羅亡き後、南州候との・・・いえ、その時には南州候も亡くなっていましたから、筝殿との権力争いに破れて、東州に追放されるような形で帰ってしまいました」 「それは・・・私も少し、聞いております」 それは緻胤がまだ、東蘭王妃だった頃、東蘭王であった采に蟷器が話していたことだった。 ―――― 精纜王妃が南蛮の後宮から逃げ、南薔王になった後、南薔は何度も南蛮の侵攻にさらされていながら、王宮内部では権力争いが絶えないらしい・・・今は、そんなことをやっている場合じゃないだろうに。 あの時の、蟷器の忌々しげな口調が、まだ耳に残っている。 采の決定によって、東蘭は南薔と南海王国の紛争に一切手を出さないと決めたはずなのに、彼がそうやって情報を集めていたのは、もしかしたら、一度は返還した東三州を、再び東蘭のものにする心積もりがあったからかもしれない。 そう言うと、カナタは、『彼らしい』と言って、苦笑を浮かべた。 「精纜王は、本物の巫女でした。 純粋な血筋の、南薔王になるべくしてなった女王です。 ですが、まだほんの少女の頃に国を滅ぼされ、父親によって南蛮・・・いえ、南海王国の後宮に引き渡された。 彼女は、後宮ではどうだったか知りませんが・・・王宮を収める術も、国を治める術も持ってはいなかった。そしてそれは、実は、南州候にも言えることなのです」 彼女達の武器は、純粋な血筋と、本物の巫女である自負だけだった。 もちろん、南薔においては、それこそが王侯の資格であるため、民はそのことに関しては何も言わない。 むしろ、ようやく正当な王と候を頂けたことに感謝したことだろう。 しかし、政治に関して、何も学ぶことを許されなかった彼女らは、何を優先すべきか、何を決めればいいのか、手をつけかねて、成り行きを見守ることしかできなかったのだ。 「もっとも・・・それは誰より、私に言えることなのですがね。 私は、精纜王によって聖太師と言う地位を与えられながら、何をするわけでもなく、巫女達にかしずかれるのを当然と思い、また、自身の好悪によって政に口を差し挟みました。 特に、沙羅との確執はひどいものだった・・・。 南州と東州の権力争いが烈しくなったのは、私と彼女との確執に便乗し、神殿対王宮の争いにまで発展してしまったからなのです。 ・・・はたから見れば、私の言動は、どれほど醜く見えたことだろうかと、今更ながら、身の縮む思いです」 「そんな・・・・・・」 と、緻胤は、言いかけて口をつぐんだ。 確かに、采が亡くなった時、東蘭にやって来た当時の彼と、今、彼女の目の前にいるカナタは、別の人間のように思える。 もちろん、あれから彼は、親しい人間を何人も亡くし、南薔を治める努力をし、東蘭と西桃を相手に交渉を重ね、緻胤を女王に迎えるなど、多くの困難事をこなしてきたのだ。 以前感じた、権力者にあるまじき無責任さが消えているのは当然かもしれない。 だがそれよりももっと、彼と話す度、顔を合わせる度に感じていた違和感のようなものが、今の彼からは消えている―――― ふとそう思って、緻胤は、東蘭にいたときに聞いた、蟷器の言葉を思い出した。 ―――― 彼は誰かに、傲慢に振舞うよう、命じられているような気がする・・・。 そう、確かに蟷器は、緻胤にそう言ったのだ。 カナタが、聖太師としてふさわしく、傲慢に振舞うよう、命じているものがいる気がする、と。 もしかしたらそれは、緻胤が一度だけ見たあの、美しい薔薇の精霊ではなかったのだろうか・・・。 だとすれば、麗華がいなくなって以来、どこかぎこちなかった彼の言動が、自然なものになったことも頷ける。 「人は・・・何度も誤るものですわ、きっと。 カナタ様は、真の水精として、巫女達の忠誠心を集めておられますし、これから飃山の大神殿を始め、世界各地の神殿の不正を正そうとなさっていることは、今までの過ちを、十分償うことになりませんか?」 そう言って、緻胤は破顔した。 「あら、嫌だ。私ったら、筝殿の言葉を、そのまま使ってしまいましたわね」 くすくすと笑声を上げる彼女に、カナタもほんのわずか、笑みを返す。 「そう言っていただけると、私も気が楽になります・・・」 そう言いながらも、カナタの表情は冴えない。 どころか、より重い沈黙が、二人の間に暗い幕を落とす。 「カナタ様・・・?」 長い間を耐えかねて、とうとう、緻胤がカナタの名を呼ぶと、彼は、緩慢な動きで視線を上げ、緻胤を見つめた。 その、心細げな顔に、緻胤は掛ける言葉を失って、彼が話し出すのを待った。 と、 「・・・話して・・・おかなければならないことがあります」 暗く、小さな声音で、カナタが呟いた。 カナタが握り合わせた手に力がこもり、みるみる白くなっていく様を見ながら、緻胤は黙って頷く。 「沙羅は・・・あなたの姉は、私が殺しました」 「え・・・・・・・・・」 信じがたい言葉に、緻胤は言葉を失い、ただ目を見張った。 すぅ、と、全身から血の気が引き、手が、制する事もできずに震えだす。 まさか、と、震える唇が、声にならない言葉を載せた。 「・・・・・・確かに、私が直接手を降したわけではありません。 どんなに憎まれていたとはいえ、王族ではない私達に、『精霊の娘』である彼女を処刑することははばかられたので・・・・・・」 しかし、と、カナタは、伏せた目を再び上げた。 「南州候・・・英華殿が亡くなる間際、沙羅に負わせた傷を、治療もせず、放置するように命じたのは・・・私です・・・・・・」 初めて、人を殺した。 直接手を下したのではないと、聖太師の手は未だ穢れてはいないと、巫女達は言う。 だが、命に関わる傷だと知っていながら、カナタは沙羅を放置した。 それは、苦痛を長引かせたと言うことでは、処刑するよりも残酷な処置だったと思う。 「・・・あなたに恨まれることが怖くて、今まで言うことができませんでした」 申し訳ありません、と、深くこうべを垂れるカナタの、さらさらと流れる銀髪を見つめたまま、緻胤は未だ、口が利けずにいる。 自分でも不思議なほど、姉が殺されたと言う事実が、衝撃を与えていたのだ。 緻胤は、癇癪もちで横暴だった姉を、愛していたわけではない。 南蛮の父の王宮にいた頃は、何か気に入らないことがある度に緻胤に乱暴をする姉と、そんな姉だけを溺愛し、緻胤に冷たかった母の側にいることが嫌で、父の側にばかりいたものだ。 父だけが、彼女を愛し、守ってくれたのだから。 そのためか、緻胤は、母が病で亡くなったと聞いた時も、沙羅が負傷して亡くなったと聞いた時も、父や夫が亡くなった時に比べ、冷静に受け止めていた。 悲しくはあるが、取り乱すことはない・・・むしろ、その程度の感情しか湧かない自分に愕然としたものだ。 だが、姉の死が、カナタの故意によるものだと聞いた時・・・自分でも信じられないことに、緻胤は身を引き裂かれるような悲しみと、烈しい怒りを感じていた。 「あ・・・姉は・・・・・・っ」 両手をきつく握り合わせて、どうにか手の震えは収めたものの、声の震えは抑えることができない。 「南薔王でありながら・・・なぶり殺しにされたと言うのですか・・・?!」 「・・・はい」 「あっ・・・あなたはその目で・・・姉が死んでゆく様をじっとご覧になっていたと言うの?!」 「・・・・・・ええ」 顔を上げたカナタが、目を伏せたまま頷く様を、緻胤は信じがたい思いで見つめた。 「それが・・・それが罰であったとしても、なんと惨いことを・・・・・・!!」 震える足を踏みしめ、よろめき立つ緻胤に、思わず差し伸べたカナタの手は、弱々しく振り払われた。 「カナタ様のことは・・・信頼しておりましたのに・・・・・・!!」 今まで座っていた椅子の背もたれに掴まりつつ、よろよろと踵を返した緻胤は、振り向きもせず言うと、部屋を出て行ってしまった。 一人残されたカナタは、きつく唇を噛んだまま、神職達の名が連なった紙面に、暗い視線を落としていた。 この日以来、緻胤とカナタの態度が、よそよそしくなったことを、誰もが感じずにはいられなかった。 二人だけで部屋にこもる事がなくなり、以前はちょっとした用事でも直接会って話していたことが、間に人を介すようになっていた。 「なにかございましたか?」 さすがに心配になったのか、気遣わしげに声をかけて来た筝に、カナタは子供のようにこくりと頷く。 「何がございましたの?」 手元に置いているだけで、まったくはかどった様子のない書類の束に目を落とし、筝は深く吐息した。 「ちゃんと、お話し下さらなければ、お力にもなれませんわよ?」 カナタの周りにいた者達を全て下がらせ、改めて問えば、カナタはようやく顔を上げて、傍らに立つ筝を見上げた。 「緻胤殿に嫌われた」 「あらまぁ・・・」 頬に手を当て、筝が困惑げに苦笑を浮かべる。 「ご喧嘩でもなさいましたの?」 「私が沙羅を殺したこと・・・話したんだよ」 途端、筝の表情が凍りついた。 「まぁ・・・どうしてそんな・・・・・・」 「どうしてって・・・」 気まずげに視線を逸らし、カナタは机上に置いた、自身の白い手に視線を落とした。 「隠しておけなかったから」 「それは・・・まさか、陛下に追及されたのですか?」 誰が漏らしたのか、と、ここにはいない者達の顔を脳裏に思い浮かべる筝に、カナタは黙って首を振る。 「誰も・・・誰も、私の罪を告発したりはしていないよ。私自身を除いてはね」 「え・・・?」 「私が、彼女を騙しおおせなかったんだ」 「まぁ・・・!ご自分からおっしゃいましたの?」 呆れた、といわんばかりの口調に、カナタは、机の上で組んだ手に視線を落としたまま、頷いた。 「ごめんなさい」 懺悔のような姿勢に、筝は、責める事もできずに吐息する。 「・・・わかりました。わたくしが、なんとかおとりなしいたしましょう」 「え?」 縋るような目を向けられて、筝は苦笑した。 「ことは、肉親の死に関わることですから、少々難しいかもしれませんが・・・。 幸いといってはなんですが、陛下と猊下は、これからしばらく、距離を置かれることになります。 陛下は決して、愚かな方ではありませんから、次にお会いになる時は、心の整理をつけていらっしゃいますでしょう」 「・・・・・・そうだろうか」 そんなに簡単に、許してくれるだろうか、と言うカナタに、筝は笑みを深め、その手を硬く組み合わされたカナタの手に重ねた。 「申しましたでしょう?わたくしが、ちゃんとおとりなし申し上げます。 それに、猊下とわたくしが山へ帰りましても、陛下のお側には嘉蘭(カラン)殿がお仕えしております。 彼女なら、陛下のお心に刺さった棘を、うまく取り除いて差し上げることでしょう」 「そうだね・・・・・・」 ようやく、淡い笑みを浮かべたカナタに、筝は、にっこりと微笑んで見せた。 「堂々としてらっしゃいませ、猊下。 この国で、緻胤陛下をお守りできるのはあなた様だけ。 緻胤陛下が、頼りとなさるのも、あなた様だけでございます。 今は、お心が乱れておられるだけの事。 いずれは元通り、親しい仲に戻られることでしょう」 「親しいって・・・・・・」 緻胤とは、周りが望むような甘い関係ではないと、そう言おうとした口を、筝は手をかざして制する。 「お二人はまだお若い。 いずれ、わたくし達が望む関係になってくだされば、それでよろしい」 南薔にも、なるべく早く後継者を、と、焦る気持ちをおくびにも出さず、筝は悠然と微笑んで見せた。 「お任せください」 胸に手を当て、深くこうべを垂れた筝に、カナタは、黙って頷いた。 カナタが、飃山へと帰る日。 筝の説得が功を奏したのか、緻胤は、特に嫌がる様子もなく、彼の見送りに立ってくれた。 ただし、それはあくまで形式的なもので、以前のように、周りに制されるほど親しげに会話することはない。 どこかよそよそしい雰囲気の中で行われた、旅の安全を祈る儀式が終わり、女王自らカナタが騎乗する馬をはなむけする。 緻胤から手綱を渡されたカナタは、目を伏せたまま、笑みも浮かべない彼女に淡く微笑み、その耳元に囁いた。 「失礼、緻胤殿―――― 蟷器が、あなたのことを大変心配しているようで、飃山に帰る前にできるだけの根回しをやっておけ、って、釘を刺されたのです」 「え・・・?」 困惑げに、カナタを見上げた緻胤の頬に、カナタは、そっと口づけ、 「またお会いできる日を、心待ちにしております、南薔王」 あえて周りの者達に聞こえるよう、声を放って、緻胤をそっと抱き寄せた。 「それまで、どうぞご健勝で。何か不都合がありましたら、ご遠慮なく私にご相談ください」 カナタの腕の中で、顔を真っ赤にして硬直している緻胤の額にもう一度口づけ、せいぜい名残惜しそうに見えるよう、ゆっくりと身体を離す。 そして、馬の背に上がると、緻胤の側に従う神官達を見渡し、 「王宮に残る者達は、しっかりと王をお助けするように。 私に仕えている時のように、誠心誠意お仕えしてください」 更に念を押して、首都を出る行列の先頭に立った。 この国で最も尊い二人の艶事に、好奇の念を隠せない神官達の間を通り、佳葉の城門を抜けたカナタは、彼の少し後を付いて来ている筝を振り返り、苦笑を浮かべた。 「ちょっと、演技過剰だったかな?」 囁くと、筝は笑みを浮かべて首を振る。 「事実としては、足りないくらいでございますよ。 ですが、噂は尾ひれがつくもの。 今はこれだけで十分、と申し上げておきましょう」 そう言って、若やいだ笑声を上げる筝に、カナタは深く吐息した。 「また・・・嫌われてなければいいけど・・・・・・」 肩越しに見遣った首都は、馬の歩みにあわせて徐々に遠ざかっていく。 「後は、お願いしますよ、嘉蘭殿・・・・・・」 この距離が、そのまま緻胤との心の距離にならないようにと、密かな願いを込めて、カナタは緻胤の側に残った巫女の名を呟いた。 〜 to be continued 〜 |