◆ 30 ◆
清々しく晴れた日だった。 初夏の風は、まだ暑熱を含むには早く、黄金の輝きを放つ瑰瓊(かいけい)と地の間を涼やかに吹き渡っている。 そんな中、大陸中央の国、南薔国の首都、佳葉(かよう)を出ようとする者達があった。 大陸全土を―――― いや、この瑯環(ろうかん)全土を揺るがせた大地震以来、首都に留まっていた聖太師と、彼に仕える神官達が、飃山の神殿に帰るのだ。 「またお会いできる日を、心待ちにしております、南薔王」 短く切り揃えた銀の髪を、初夏の風になびかせながら、聖太師は南薔王・緻胤(ジーン)を抱き寄せた。 聖太師の意外な行動に、彼ら一行を見送るために集まった者達が、思わず息を呑む。 「それまで、どうぞご健勝で。何か不都合がありましたら、ご遠慮なく私にご相談ください」 そう言うと、カナタの腕の中で、顔を真っ赤にして硬直している緻胤の額に口づけ、彼は名残惜しそうに、ゆっくりと身体を離した。 そして、緻胤の側に従う神官達を見渡し、 「王宮に残る者達は、しっかりと王をお助けするように。 私に仕えている時のように、誠心誠意お仕えしてください」 そう言い残して、聖太師の一行は首都の門外へ、粛々と進んで行った。 緻胤の傍らで一行を見送った嘉蘭(カラン)は、ぎこちなく緻胤を抱擁した聖太師・カナタと、彼に抱かれたことに未だ硬直する緻胤の姿を見て、袖の陰で苦笑した。 「ひ・・・人前で・・・っなんと言うことを・・・・・・」 真っ赤になった顔を俯けて、小さく呟く緻胤に、嘉蘭はそっと歩み寄ると、その耳元に『お静かに』と囁く。 「衆目が・・・」 そう、一言を加えると、緻胤は、大きく吐息し、できるだけ平静を装って、まっすぐに前を向いた。 ―――― 睨み付けていらっしゃるようだわ。 どうしても、甘い雰囲気にはなってくれない二人に、嘉蘭は笑声を漏らしてしまう。 その声に、更に憮然としたまま、緻胤はカナタを門の外まで見送り、その姿が視界から消えてしまうと、踵を返して用意の輿に乗り込んだ。 「・・・あんなことをされては、困るわ」 王宮に戻り、侍女達が嘉蘭のみを残して去るまで待った緻胤は、二人だけになるや、憤然と声を上げた。 「あれでは、大勢の神官達の前で、私達が友人以上の仲だって宣言したようなものじゃない!」 「猊下とでは、ご不満ですか、陛下? あれほど見目麗しい殿方は、世界中を探しても中々いらっしゃいませんのに」 「話を逸らさないで、嘉蘭!!」 くすくすと、口元を袖で覆いつつ笑声を上げる嘉蘭を、緻胤は厳しく叱責する。 「わ・・・私はまだ、前夫の喪も明けていない、寡婦ですよ! なのに、艶めいた噂でも立ったら、東蘭の民になんと言われるでしょう!!」 「あら、いやですわ、陛下。 ここは南薔で、陛下は南薔王となられたのですもの。前夫だの寡婦だの、そんな東蘭語を使ってはいけませんわ」 「・・・じゃあ、南薔では、亡くなった夫のことや夫を亡くした夫人のことは、なんと言うの?」 「陛下、南薔には、『夫』などと言う言葉はありません。当然、元々ないものを亡くす婦人もおりません」 「で・・・でも・・・私は・・・・・・」 「陛下。 陛下は、南蛮の後宮でお育ちになられたため、南薔のやり方にまだ、なじまれないことは存じております。 ですが、南薔王は、南薔人でなくてはなりません。 東蘭や南蛮の慣習は、もうお忘れくださいませ」 嘉蘭は、いつも通りのにこやかさだったが、しかし、『南蛮』と言う言葉には、それとわかるほどに毒が含まれていた。 「・・・南蛮は東蘭に統治されて以来、『南海王国』と名称を変えたことを知らないの?」 嘉蘭の言い様に不快を隠せず、声を低めた緻胤に、しかし、彼女は動じもせずに笑みを深める。 「存じておりますわ。ですが、蛮族を蛮族と呼んで、悪いことがありまして?」 「嘉蘭・・・あなた・・・!」 誰もが、心中には思いながらも、前南海王を父に持つ緻胤の前では封じた言葉を、遠慮なく言い放つ嘉蘭に、緻胤は言葉を失い、ただ、いつもと変わらず微笑んでいる彼女を、呆然と見つめた。 「陛下、わたくしは、南蛮のことが、とても嫌いです」 一言一言を区切るようにして、嘉蘭は朗らかに言い放つ。 「南海が、あなたの恨みをかうようなことでもしましたか」 嘉蘭への不快を隠しもせず、冷淡に言った緻胤に、嘉蘭はにっこりと笑って頷いた。 「わたくしがまだ幼い頃、南蛮は南州に攻め入り、南州の貴族であったわたくしの母を殺し、我が家の財産を奪い、わたくし自身をも奪いました」 南州を襲った将軍の一人に、恩賞の一つとして与えられたのだ、と、嘉蘭は淡々と語った。 「わたくしを受け取った男は、わたくしを『妻』と呼び、子を産ませましたけど、わたくし、どうしても彼のことを好きになれなくて。 同じ身の上で、同じ男に『妻』と呼ばれた詩羅(シーラ)と共に謀って、彼を殺してしまいましたのよ」 「ど・・・どうしてそんな酷いことを!! いくら憎いからって・・・あなたの子の、父親でしょう?!」 信じられないと、目を見開く緻胤に、しかし、嘉蘭は目を細め、くすくすと、軽い笑声を上げる。 「酷いのはあちらですよ。南蛮の風習は野蛮です。南薔の人間であるわたくしには、とても受け容れられるものではありません」 「野蛮?」 緻胤の問いに、嘉蘭は深く頷いた。 「王家の行った蛮行は、将軍家でもまた、行われました。 あの男には、わたくし達のほかにも南蛮人の妻があり、その女が産んだ男子が家を継ぐことに決まっていましたので、その子に確実に家を継がせるため、あの男は、生まれたばかりのわたくしの子を、産湯に沈めて殺しました」 「なん・・・・・・」 「陛下、もしも陛下が、同じ目に遭われたならどうなさいます? 元気に産声を上げた子が男子だとわかった途端、乳をあげる間も無く、あの子は実の父親によって産湯の中に沈められました・・・・・・」 顔には笑みを浮かべたまま、嘉蘭の声だけが熱を帯びてゆく。 「そ・・・そんな話を・・・あなたはどうして笑って言えるの・・・・・・?」 「さぁ・・・?」 瞬きもせず、嘉蘭を見つめる緻胤に、彼女はにっこりと笑いかけた。 「もしかしたらわたくし、あの時に狂ってしまったのかもしれませんわ―――― たまには、怒りや悲しみの感情が戻ってくることもあるのですけどねぇ・・・。 でも、昔の事をいつまでも悲しんでいても、しょうがありませんでしょう?」 そう言って、窓の外を見やる嘉蘭の顔は、なぜか、困惑しているような表情を浮かべていた。 「陛下。 陛下は、お幸せでしたわね。 南蛮の貴族にでも嫁がれていらしたら、二人目の御子は確実に殺されていたことでしょう。 大陸の王家に嫁がれて、お二人の御子の、どちらも王になられるなんて、信じがたいほどの強運でいらっしゃる。 その上ご自身も、聖太師に想われて・・・そのご運、大切になさいませ。 おろそかにしては、いずれ、天にも見放されるかもしれませんわ」 嘉蘭に言われるまでもなく、緻胤は、今の立場が天与の幸運などでないことは知っている。 蟷器やカナタ、その他、多くの人々の協力や思惑があって、彼女は現在の地位にあるのだ。 「・・・・・・カナタさまは、あなたの・・・その・・・・・・・・・」 緻胤の言わんとすることを察して、嘉蘭はふわりと微笑んだ。 「もちろん、猊下はみんなご存知の上で、わたくしたちを取り立ててくださっているのですよ」 「達?」 あなただけではなく?と、問う緻胤に、嘉蘭は笑ってうなずいた。 「今申し上げましたように、詩羅はわたくしと共に『夫』を殺しましたし、筝殿も・・・・・・『夫』殺しの罪で、牢に繋がれておられました」 「筝殿もなの?! でも・・・筝殿は、南州の有能な判官として、有名な方だったと聞いたけど・・・・・・」 それでなくとも、常に冷静で、有能な官吏である彼女が、夫殺しなどするものだろうか? 疑わしげな緻胤に、しかし、嘉蘭は苦笑を浮かべた。 しばらく、話していいものか、と、言い訳するように小声で呟いていたが、緻胤の視線に促され、ようやく口を開いた。 「・・・・・・この事、決して、筝殿にはおっしゃらないでくださいね?」 上目遣いに顔色をうかがう嘉蘭に、緻胤が深く頷くと、彼女はためらいがちに話し始めた。 「南蛮の兵に捕縛された時、なぜ殺したか、と問われた筝殿は、『大切な蔵書を焼こうとしたので、あの男に油をかけて火をつけてやった』とおっしゃったそうですわ」 「まぁ・・・・・・」 恐ろしい、と呟いて、眉をひそめる緻胤に、嘉蘭は苦笑を深くする。 「でも、本当は違いますの。 あの方もやはり、南蛮の蛮人に財産を奪われた上、生まれた子を全て殺されてしまったそうです・・・全て、男の子だったからですって」 今、あの方に一人の家族もいらっしゃらないのは、そのせいです―――― そう呟く嘉蘭には、娘がいる。 まるでそれが、筝や、子を持たない女たちへの引け目であるかのように眉を寄せて、嘉蘭は再び窓の外に目をやった。 「ずっと耐えていらっしゃったのでしょうが、とうとうあの日、限界が来てしてしまったのでしょうねぇ。 思えばあれが・・・きっかけであったようにも思いますわ・・・・・・」 筝が『夫殺し』で捕縛された・・・・・・その知らせを受けて、嘉蘭は自身の『夫』も殺せないだろうかと思い、嘉蘭に同情を寄せていた詩羅が同じく、『あの男を毒殺しよう』と持ちかけてきた時、すぐさま話に乗ったのだ。 その直後、南蛮から精纜(セイラン)が逃げ出し、南州候の未亡人と呼ばれていた英華は州城から南蛮を追い払うことに成功した。 結果、嘉蘭達は自由になったが・・・未だ、生まれ育った地を取り戻せてはいない。 「陛下・・・。 聖太師猊下が、陛下の姉上になされたことをお恨みになるお気持ちはわかりますわ。 どれほど憎みあっていらしても、肉親を他人に殺されることは、なんともやりきれない思いであられましょう」 慰めるような嘉蘭の笑みを見つめたまま、緻胤は硬直した。 嘉蘭の話を聞いた今、緻胤は、自身が嘉蘭の同情に値する者であるのか、疑問に思わずにはいられなかったのだ。 確かにカナタは、彼女の姉、沙羅(サラ)を死に至らしめたかもしれない。 しかし、姉はカナタの肉親とも言うべき、多くの神官達を嬲り殺しにし、その悪評は国外にまで轟いた。 他国であれば、いかに王とはいえ、廃立されるか、悪くすれば処刑されても仕方のない、残虐な行いだ。 沙羅が公に廃立も処刑もされなかったのは、この国が彼女のような、色素を持たずに生まれてきた者を『精霊の娘』として崇め、南薔王家を宗教的支柱とする、特殊な思想で染め上げられていたからにすぎない。 「・・・・・・猊下をお許しくださいとは、わたくしの口からはあまりにもおこがましくて、申し上げられません」 考え込んだ緻胤に、嘉蘭が、遠慮がちに声をかけた。 「ですが、あの方のお立場を、どうかおもんぱかってくださいませ。 神官の中にも、気性の荒い者は大勢おりますし、恐れ多くも猊下に暴言を吐く者もおりましたわ。 それでもあの方は、姉上の処刑を拒まれ、暴言を吐いた者を罰することもなさいませんでした」 彼が命じたことと言えば、南州候・英華が、その最期に負わせた傷を治療することを許さなかったことだけだ。 その傷は深かったため、治療をしても助かったかどうかはわからない。 だがもしかしたら、治ったかもしれない怪我を放置し、死への苦しみを長引かせたことは、処刑よりも残酷な仕打ちだった。 カナタは、そんな自身の行為を重く捉え、緻胤に対し、深く詫びたのだ。 「陛下・・・・・・」 不安げに顔色をうかがう嘉蘭から、緻胤は視線をはずした。 「少し・・・一人にしてくれないかしら・・・・・・」 緻胤の沈んだ声に、嘉蘭は黙って頷き、退出した。 室内から彼女の姿が消えてしまうと、緻胤は、まるでこの王宮に・・・いや、この国に、一人きりであるかのような不安に襲われ、強い日差しの差し込む部屋の中で身を震わせた。 東蘭にいた時は、このようなことはなかった。 嫁いだばかりの時は、『蛮族の娘』と、好奇に満ちた目で見られることはあったものの、常に采や蟷器が側にいてくれたため、気後れなど感じる間も無く、東蘭王妃として振舞うことができたのだ。 しかし今は、誰を頼ることもできず、小娘のようにただおろおろとするばかり。 臣達は緻胤に対し、『まだこの国に慣れていない』『巫女のなんたるかを知らない』と言う。 巫女の古い血が尊ばれ、人間よりも神や精霊の言葉に従う国には、怨念はあっても生気がない―――― いつの間にか、深くうなだれ、じっと自身の組み合わせた手を見つめていた緻胤は、左の中指にはめた指輪に目を留め、きつく唇を噛んだ。 女王の持つものにしては質素な、金の指輪の中心には、亡夫・采の遺髪が収められている。 丁寧に編みこまれたそれを、透明な硝子越しに見つめて、緻胤は、深く息を吸い込んだ。 「そうね、采。おろおろしている場合じゃないわ」 決然と目を上げ、緻胤は窓の外に広がる、雲ひとつない空を見上げた。 「・・・・・・大丈夫。あなたが帰ってきた時、今見ているものをそのままお返ししてみせるわ」 かつて東蘭王妃だった頃、戦に赴く夫に対して常に手向けていた言葉を呟き、緻胤は立ち上がった。 「大丈夫。この国は、私が立て直して見せる」 自身に言い聞かせるように、大きな声で言い放つと、緻胤は拳を握った。 「そうよ、まずは人集め!この国を再興する、有能な人間を集めるの!」 言うや、早速執務机に向かい、女性のものとは思えない、強く大きな字で、幾枚もの勅令をしたためた。 「嘉蘭!嘉蘭!!」 一度は下がらせた臣下を再び呼び寄せ、緻胤は未だ墨蹟の乾かない紙を渡した。 南薔王緻胤からの書簡を、東蘭国と南海王国の主だった者達が受け取ったのは、聖太師が飃山の神殿に帰ってから、間も無くのことだった。 その主な内容は、東蘭国と南海王国で彼女が領有する地を買い取って欲しい、という要請だ。 前南海王の愛娘であった緻胤が南海に領有する地は、広く豊かであり、東蘭においても、前王妃として十分な地を領有している。 長年にわたって莫大な税を徴収できる地の代価に、緻胤は、少なくはない額の金を要求した。 『それができないのなら、繁葉(はんよう)を含む栄州を返してください』 という要請を、しかし、東蘭国の宰相である蟷器は、容赦なく却下した。 「栄州はともかく、繁葉はだめだ。 あの町ひとつで、西戎(せいじゅう)が半分以上買えるんだからな」 繁葉は、南薔国南三州の一つ、栄州の南海に面する町で、昔から大陸の中心的貿易港として栄えている。 南の蛮族でしかなかった南海王国が、西桃国の高価な産物を次々と買い込み、その文化水準を上げていったのは、ひとえにこの町の財貨を手に入れたためだ。 この町は今、南海王を継いだ東蘭王・傑(ケツ)の支配下にあり、東蘭に潤沢な資金を提供している。 『じゃあ、東蘭国内の領地は返すから、東蘭王妃領の汪州(おうしゅう)と、南海王妃領の汀州(ていしゅう)を南薔に返還して。繁葉の町を除いた栄州もね。 その代わり、南海王国の領地は今まで通り、私のものよ。来年から、南海の真珠の値段は上がると思いなさいね』 すぐさま返信の来た書簡に、蟷器は苦笑した。 次の東蘭王妃のために、南三州の一つ、汪州は、未だ東蘭国が領有し、汀州は前南薔王・精纜(セイラン)が『南蛮にいた時から自身の領地であり、王となった今、この地は南薔領である』と主張はしたが、正式には未だ南海王国領である。 後々の面倒を防ぐためか、自身と前王が領有していた土地をも『南薔に返還しろ』と正式に要求する辺り、少しは君主らしくなってきたものだ、と、蟷器はつい感心してしまった。 「俺は・・・南薔でも、国王製造者の称号をもらえるかもしれんな」 それほどに、緻胤の交渉は、蟷器のやり方を踏襲していた。 まず、到底呑めない条件を出しておいて相手の出方を見、段々譲歩して、本来の目的を達する―――― これは、蟷器が交渉事によく使っていたやり方だ。 緻胤は、見ていないようで見ていたのだろう。 懸命に彼のやり方を思い出し、真似ようとしている彼女の姿を思い、蟷器は思わず笑みを漏らしていた。 と、 「どうする?条件を呑むのかね?」 大した関心もない様子で、尚書僕射がのんびりと問う。 「繁葉を含む栄州を除けば、汀州と汪州自体に価値はない。むしろ、南薔王が、未だ東蘭で領有している領地を返してもらった方が得です」 そう言って、笑みを浮かべた蟷器が気に入らなかったのか、尚書僕射は 「せっかく得た南薔の地をみすみす返すのか」 と、ブツブツと呟きはじめたが、その声が大きくなることはない。 そんな、気の小さい老人を無視して、蟷器は居並ぶ尚書達に向き直った。 「さて、尚書がた。 南薔王のご要望は、今お聞きになった通りだ」 「国を立て直すための、資金集めと言うわけですか」 蟷器の声に呼応するように、刑部尚書が皮肉な口調で言う。 貴族出身の高級官僚らしい、品のよい顔立ちに笑みを貼り付ける様は、感情のない人形のようだ。 そんな刑部尚書に反して、商人出身である戸部尚書は、その日に焼けた顔で存分に感情を表した。 「そりゃあ、何をするにしても、先立つものがないと、どうしようもありませんからなぁ。 いくら南薔の民の人がいいったって、タダ働きはせんでしょう」 彼の独特な言い様に、座が笑いさざめく。 「しかし、繁葉を除いたとしても、南州を取り戻せば、太后・・・いえ、南薔王は、国を治めやすくなるでしょうね。 南州の者は情が強(こわ)いと言いますから、まずは彼女達の忠誠心を惹きつければ、多少の資金不足は何とかなるというものでしょう」 笑みの容に目を細める刑部尚書に、居並ぶ尚書達が頷いた。 「だったら、我々がここで話し合う事は、無駄じゃないのかね?」 憮然とした口調で声を上げた尚書僕射に、一斉に視線が集まった。 「・・・なぜなら、南薔王のおん為とあらば、我らが国王陛下は、繁葉でさえも返すようにおおせられるだろうからね・・・・・・」 言い訳するように、声を低める老人を見つめる尚書達の目に、やや冷淡な光が灯る。 しかし、 「尚書僕射の仰るとおり」 にやりと口の端を曲げて、蟷器が頷いた。 「だが、こちらが南薔王の条件をそのままのんで、繁葉を返したとしたら、南薔王はきっと、お困りになるに違いない」 「困る?」 なぜ、と、首を傾げる戸部尚書に、刑部尚書がくすくすと笑声を上げた。 「政をする者達は、性格が悪いですから。 未だ国力の弱い南薔が繁葉を手に入れたと知れば、無理矢理奪い取ろうとする者達―――― 例えば西の御方と、いらぬ争いをすることになりかねませんね」 彼の言う『西の御方』とは、大陸の西を制する西桃国の太后のことである。 欲深な太后は、西桃を貪り尽くせば、南薔や南海、果ては東蘭にまで手を出すだろうことは容易に想像できた。 「陛下には、このことをよくご説明申し上げて、ご納得いただきましょう。 その上で、繁葉を除いた南州を返還するかどうかだが・・・」 ゆっくりと座を見渡し、蟷器は尚書達の表情を読んだ。 どの顔にも、不満の色はない。 「では、東蘭国内の前王妃領を代価に、南薔の地は繁葉を含む栄州を除き、すべて南薔に返還することにしよう。その際、代価に少々色をつけても構わないが・・・」 一旦言葉を切った蟷器の顔に、意地の悪い笑みが浮かんだ。 「その代わり、こちらの要求も受けていただこう。特に、神殿関連の問題を、な」 笑みの容に目を細め、見遣った先では、礼部尚書の条が、苦い顔をして蟷器を見返していた。 夏が到達した後でさえ、肌寒い高山の頂に、その神殿はある。 大陸を南北に分ける大山脈の南岳にあるその神殿は、別名を『水の神殿』と言い、水の支配者・湟帝(こうてい)を主神として祀るそこは、世界中のあらゆる神殿の最上位にあった。 が、通常、神殿の神職達が、ほぼ例外なく巫女であるにもかかわらず、この神殿の長であり、神職で最も位の高い聖太師は男性である。 その、ほとんど唯一の男性である聖太師、林彼(リンカ)が、南薔の首都・佳葉から、罰の象徴とも言うべき透明な薔薇の化身、華綾(カリョウ)を連れて戻ってきた時の神職達の驚きようは、気の毒なほどだった。 彼は、神殿に住まう者を、上級神官から雑用の見習いに至るまで一人残らず集めると、ガラスのように透明な花弁を持つ薔薇が、美しいが表情のない青年に変化する姿を見せた。 あまりの驚きに悲鳴を上げることもできず、蒼ざめて硬直する彼女らを見渡すと、林彼は 「神職たる者、常に己の良心に恥じぬ生き方をせよ。 けして、自身や一族のみの栄誉を追い、欲深く財貨を求めることのなきように」 と戒め、華綾の前で、清廉であることを誓わせたのだった。 「これで、ちょっとはやりやすくなったよね」 首都の王宮よりも余程整った、美しい神殿の回廊を、『華綾』を挿した花瓶を抱いて渡りながら、林彼・・・いや、カナタは、たった一人の供へ機嫌よく話しかけた。 本来ならば、聖太師が行く先には、幾人もの供がついて回る。 が、今は彼が持つ、透明な薔薇の姿を恐れて、誰も近づくことはできなかった。 華綾に誓約させたのち、カナタが間髪いれず提示した、神官による人身売買と、妓楼の経営を禁止する法令を見た時の、彼女達の顔を思い出して、彼はクスクスと笑声を上げる。 「・・・ほんと・・・趣味悪いよ・・・・・・」 カナタの数歩後を追いながら、前南州候の末息子、英理(エイリ)が蒼ざめた顔を上げることもできず、ぽつりと呟いた。 彼は、神殿に入ることを許された、数少ない男性の一人であったが、今は紛れもなく、人身御供の気持ちを味わっている。 未だ、華綾を見た衝撃が薄れないのだろう。 若い心臓は、疾走直後のように早鐘を打ったまま、もうしばらくは鎮まりそうにない。 そんな彼の様子を見て、カナタは更に笑声を高くした。 「華綾を見せただけで、まさか、こんなに早く事が運ぶだなんて思わなかったよ。もう、澪瑶公主には、感謝してもしきれないくら――――・・・」 と、突然言葉を切って立ち止まったカナタに、俯いて歩いていた英理は、見事に頭頂をぶつけた。 「・・・なんだよ、もうっ!!」 神殿の最高位たる聖太師に、とんでもない言い様だが、カナタは全く頓着することなく踵を返し、正反対の方向へと足を速めた。 「あれ・・・カナタ?!部屋に戻らないの?!」 「先に行っていいぞ、英理。俺、大事な仕事を忘れてた!!」 年相応の青年らしい口調で言い置くと、カナタは、華綾を抱えたまま、更に数歩を進んだが、ふと我に返り、花瓶を回廊の床に置いた。 「華綾、自分で歩いてくれないか?」 人ではないカナタにとって、水を張った花瓶が重いわけではなかったが、歩行できる者をわざわざ運んでやる事もない。 カナタの言葉を素直に聞き入れた薔薇が、青年の姿に変わる様を見た英理が、その場で再び凍りつく。 が、カナタも華綾も、そんな彼のことは放って、まっすぐに神殿の中心へと戻って行った。 この神殿は、上空から俯瞰すると、『屮(サ)』という字を上下逆にした形に近い。 中央部の最奥にある、壁泉の間の更に奥は、聖太師にしか開けることのできない扉があり、その向こう、神殿の北側は、この水の神殿がある飃山南岳の頂上にあたる。 そこには、水の神殿がこの場に建てられる由来ともなった泉が湧き、頂に近い窪地に注ぎ込んでは、深い湖を作り出していた。 カナタは、件の扉を抜けると、華綾とともに、祠の中で大切に祀られた源泉へと歩み寄った。 幾匹もの肥えた蛇のような水流が、長い時をかけて地に刻み込んだ水路の一つに裸足を浸したカナタは、重い流れに逆らって、清水が滾々と湧き出る場所へ、ゆっくりと歩を進める。 そして、勢い良く水中の砂を押し上げる源泉の周りに散らばった、環状の玉―――― 瑜珈(ユガ)を、冷たい水の中から、大切に拾い集めた。 中心に穴の開いた、円い玉盤には、その表面に細かく、文字が刻んである。 一体、どういう訳があって湧き出るのかは謎だが、そこには、神に仕える精霊達の事―――― それは、精霊王の代替わりであったり、賞罰であったりと様々である―――― が刻まれるのだ。 カナタが、拾い集めた瑜珈を大切に長い袖でくるみ、既に知っている情報や、まだ聞かされずにいた事情に目を通していると、彼の傍らで、ぴくりと、華綾が身じろいだ。 「どうした・・・」 問おうとして、顔をあげたカナタは、その視線の先に答えを見つけ、破顔した。 「ジジィ!」 「相変わらず、無礼な小童じゃ」 カナタの呼びかけに、気を悪くした風もなく、地の王は微笑んだ。 祠の上にあぐらをかき、ふっくらとした頬に頬杖をついた姿は、愛らしい少年のもの。 だが、彼が生きた年数は、その尊大な口調や老獪な光を宿す翡翠の瞳にふさわしく、非常に長いものだった。 「このわしが、こうして待ってやっておったというに、なんと怠慢な奴であろう。聖太師が聞いて呆れるわ」 「あのな、ジジィ。元はといえば、あんたのせいで起こった大地震の始末で、下に下りてたんだぜ? 俺の怠慢がどうのと言う前に、地精王は地精王らしく、しっかり地を治めておいてくれよ」 「地震の始末のみにしては、随分とゆっくりだったではないか。 どさくさにまぎれ、気に入らぬ者を始末して来たのじゃと、素直にそう申さぬか」 ふふん、と、鼻で笑う彼に、カナタはムッと眉を寄せた。 「俺のこと、ずっと見てたのか? 随分と暇を持て余しているようじゃないか、依坤(イコン)?」 睨み付けると、彼は、楽しそうに鮮やかな翡翠の目を細めた。 「なんの、暇なものか。 闇精王がおらぬようになってからは、冥府の決め事は、全てわしに一任されてしもうた。 忙しゅうて、息抜きでもせぬことには、やっておれぬ」 そういいつつ、満足した猫のような表情に、カナタは、自分がからかわれている事に気づき、更に眉をひそめる。 「その薔薇、公主より賜ったそうじゃの」 カナタとは逆に、依坤は更に笑みを深め、カナタの傍らに立つ薔薇の精霊を示した。 「あぁ・・・」 頷いて、ちらりと華綾を見遣ったカナタは、依坤に向き直ると、その袖に包んだ瑜珈を差し出した。 「聞きたい事があるんだ、依坤」 「公主のことか?」 ふっくらと微笑む少年に、カナタは深く頷く。 「この瑜珈には、水精王が湟帝陛下の妃になられたと、はっきり書いてある。 だけど、その後に湧いたらしい瑜珈でも、水精王の尊称は『澪瑶公主』のままだ」 「それで良い。間違ってはおらぬ」 「なぜ?妃になられたのなら、御名は『瀏妃(リュウヒ)』になるんじゃないのか?」 瀏、とは、澪瑶公主の姓にあたる名だ。『瀏妃』とは、『瀏家出身の妃』という意味になる。 が、依坤はゆっくりと首を振った。 「妃となっても、尊称は公主のまま、と言うのが条件であったらしい。 誇り高い方ゆえ、神子の証たる尊称を取り払われること事を屈辱と思われたのだろう」 駄々をこねる幼子を見守るような、奇妙な笑みを浮かべて、依坤は、泉から滾々と湧き出る清水の流れに目を落とした。 「おぬしも、水精の末に連なる者として、覚えておけ」 言いつつ、依坤は頬杖をついていた腕を膝の上に下ろし、深い色の瞳を、まっすぐにカナタへ向けた。 「いかように穢れ、濁ろうとも、水の真性は純粋じゃ。 全てを呑み込み、また、あらゆる容にも納まろうとするがゆえに、極限まで穢され、歪められる。 じゃが、いかな泥濘となろうとも、己を見つめ、その真性に気づきさえすれば、水は必ず浄化されるのじゃ。 それは、水にのみ与えられた、優れた性質・・・。 それを忘れるな。 己も、己の仕える者も、決して穢れはせぬと知っておれば、少なくとも――――・・・」 「少なくとも?」 言葉を休めた依坤へ、先を促すように問うと、彼は意地悪げに口の端を曲げた。 「わしが、再び迷惑をこうむる事はない」 「うぉいっ!」 真剣に聞いていたカナタは、最後の最後ではぐらかされた気がして、思わず声を荒げた。 「相変わらず、自分勝手なジジィだな!」 「ふふ・・・・・・」 カナタの暴言にも、穏やかに微笑む依坤に、カナタは、訝しげに眉をひそめる。 「あんた・・・本当に依坤か?」 疑わしげに問うカナタに、依坤は無言のまま、わずかに首をかしげた。 なぜ、と問う仕草に、カナタは指を突き出した。 「わがまま度が激減している!!」 ずばり指摘したカナタに、しかし、依坤も華綾も、全く反応しない。 しん・・・と、静まり返った場に、カナタは居心地悪く佇んでいた。 ―――― 他に人か精霊でもいれば、何かの反応はあっただろうに・・・。 凍結した湖よりも冷たい沈黙の中で、突き出した指を収めることもできず、硬直したカナタに、ようやく、依坤の口元がほころんだ。 「その通り・・・わしは、以前の地精王ではない」 「やっぱり!あんた、誰だ?!」 ようやく答えを得、声を高めるカナタに、再び、彼は猫のように目を細めた。 「わしはわし、地精王じゃよ。瑜珈にも、譲位したなどとは書いておるまいが」 「なんだ、それ・・・」 依坤の言葉の意味をはかりかねて、首を傾げるカナタの前に、とん、と、軽い音を立てて、彼は降り立った。 カナタの身長の、半分ほどでしかない王は、しかし、昂然と顔を上げて、まっすぐにカナタを見据えた。 その、幼い姿に、以前とは違う雰囲気を見て取り、カナタは思わず手を差し出した。 「依坤・・・随分と艶がよくなったな」 ほんのりと赤みを帯びた頬に触れると、吸い付くような手触りと、心地よい弾力が手の平に感じられる。 以前、彼と共にいた間には、決して得られなかった感触だ。 あの頃の彼は、強く抱きしめれば崩れてしまうのではないかと思うほど、ざらざらとした砂の肌に覆われていた。 「あの頃の、乾いた身体は脱ぎ捨てたのじゃ。 今のわしは、清らかな水を存分に含んだ、良い土でできておる」 言われてみれば、その声も、口調が緩やかなだけでなく、しっとりとした湿り気を帯びているようだ。 「前の身体はどうしたんだ?」 「捨てた。 あれはもう、腕も足も、使い物にならなくなっておったからな」 「・・・つまり、トカゲの尻尾切り?」 「誰がトカゲじゃ!全然意味が違うではないか!!」 「じゃあ、蛇の脱皮」 「語彙の貧弱な小童め、もっと適切な表現は思いつかんのか!!」 「うん」 素直に頷くカナタに、依坤は眉を吊り上げて鼻を鳴らした。 「全く、どうしようもなく無礼で無能で無神経な奴じゃ!麗華が見捨てたのも無理はないのう!」 傲慢な言い様の中に現れた名に、カナタが気まずげに眉を寄せる。 「依坤・・・あの・・・玉華泉は何か、言っていたかな・・・?」 麗華と別れた彼の事を、美しいが気性の烈しい花達がなんと言っているか、気になっていたカナタである。 依坤の前にしゃがみこみ、恐る恐る問う彼に、依坤は皮肉な笑みを向けた。 「花どもはかしましいことよ。 ある者は、せっかくの宿りを捨てた麗華を馬鹿者と呼び、ある者は麗華を見捨てたおぬしを責めておる。 なんにせよ、おぬしはしばらく、玉華泉へ近づかぬことじゃな」 「やっぱり・・・・・・」 がっくりとこうべを垂れるカナタに、依坤が軽い笑声を上げた。 「花を敵に回すと、後が面倒じゃぞ?しらなんだか?」 「忠告ってものは、先にするもんだぜ、ジジィ・・・・・・」 憮然と呟いたカナタに、依坤は更に笑声を上げる。 「わしはそこまで親切ではないよ」 言って、依坤はくるりと踵を返した。 「じゃあなぜ・・・」 わざわざここに来たのか、と、そう問うカナタに、膝まで清水に浸かった依坤は、心地良さそうに微笑む。 「この水を守れ。 たとえこの国の王統が途絶えようと、この水への祀りだけは絶やすな。 そう、言いに来たのだ」 振り向いた依坤の目には、意外にも真摯な光が宿っていた。 無言で佇むカナタに、依坤は言い募る。 「おぬしはもう、精霊が実在することも、神がこの世界を支配しておることも知っておるだろう? 誰が、この世界へ恵みと祟りをもたらしているのか、おぬしはもう、知っておるはずじゃ」 笑みを消した依坤に、カナタは深く頷いた。 「神事を怠るでない。祀りは、故あって行われるものじゃ。 禁忌に触れるでない。いかに現状にそぐわぬことであれ、故なきことではない。 我らを侮るな。我らを蔑ろにするな。 それが神事の長として、おぬしが皆に伝えるべきことじゃ―――― 良いな?」 華綾を利用して、神殿の改革を行おうとしているカナタにとって、依坤の言葉は、守るべき境界を示すものだった。 「承りました、地精王」 右手を胸に当て、膝を屈して、深々と一礼する。 「私が行うのは、神殿の綱紀粛正、そして、世界が一つにまとまるよう、導くことだけ。 神事は古式を尊び、けして、絶やすことなく守り続けましょう」 「ふ・・・。 神官風の礼も、板についてきたようじゃの」 和らいだ口調に顔を上げると、依坤の笑顔があった。 「精進するのだな、聖太師。 おぬしの全力をもって、南薔のために働け。 そうすれば・・・おぬしにもこの国にも、皇帝方の加護があるやもしれんよ」 その言葉に、カナタは目を見開き、ややして、笑みをほころばせた。 「祈りは・・・君に届いていたのか・・・」 『皇帝方よ・・・あなた方の恩恵を、どうか南薔に賜りたまえ・・・ ・・・我が国を、お救い下さい・・・・・・!』 沙羅によって、多くの神官達が殺された時―――― カナタが一人、呟いた祈りを、地精王は聞いてくれていたらしい。 「恵みはある。 わしらはこの世界に、あまねく恵みを送り続ける。 その後のことは、自ら引き寄せよ」 言いながら、依坤はそう深くはないはずの源泉の中へ、ずぶずぶと沈んでゆき、カナタの前から姿を消してしまった。 「了解、地精王」 微笑んで頷くと、カナタも、勢いよく踵を返す。 「華綾!」 ぼんやりと、水の流れに視線を落としていた華綾が、カナタの声に顔を上げた。 「今年は、ようやく南薔王自身が行う祀りができる・・・! 澪瑶公主の御為にも、君にも働いてもらうよ」 公主の名に反応したのか、華綾が、鈍いながらも頷きを返す。 「よーし!張り切っていこう!」 陽気に声を上げて、カナタは、足取りも軽く神殿へと降りていった。 〜 to be continued 〜 |