◆  31  ◆







 聖太師(せいたいし)・カナタが南薔国(なんしょうこく)の北にそびえる、飄山の神殿に帰ってしまってのち、佳葉(かよう)の都に残された緻胤(ジーン)は、女王の宮殿というにはあまりに質素な一室で一人、執務机に向かっていた。
 南薔王として、人材の必要性を痛感した彼女は、政務の合間を縫い、改めて、聖太師が残していった人名録をめくっていたのだ。
 それは神殿が管理する、巫女と認められた者達の名簿であり、すなわち、南薔の国や州を治める者の名簿であると言ってもいい。
 が、彼女も気にかけていた通り、東州の出身者の名は、そのほとんどが国の中枢にある役職から外されていた。
 「あら、この人は確か・・・」
 母が王であった時代、南薔の礼部尚書として、東蘭に来たこともある女の名には備考として、『前礼部尚書』と記してあった。
 「・・・?」
 ふと思いついて、緻胤は東州の主だった家名をめくっていく。
 するとやはり、ほぼ同時期に、多くの東州出身者が免職され、東州に帰されていた。
 「これは・・・・・・」
 彼女達の免職の日付に、緻胤は眉をひそめる。
 それは、彼女の姉、沙羅(サラ)が、神官の大虐殺を行った直後だったのだ。
 虐殺された神官達の多くは、南州候・英華(エイカ)をはじめとする、南州の出身者だったと言う。
 「報復じゃないの、これは?」
 どこでもそうなのかもしれないが、国の中枢にある者達にしては、あまりにも子供っぽいやり口に呆れてしまう。
 「全く、しょうのない人たちねぇ」
 彼女よりずっと年上であるはずの巫女たちに向けて呟き、緻胤は免職された者や、東州の主だった家の者でありながら、無役の者の名を書き出して行った。
 「・・・私、王様なのに、なんでこんなにこそこそとやってるのかしら」
 別に隠れる必要もないだろうに、現在、彼女の側近が南州出身の者ばかりであるため、つい遠慮してしまう自身にも呆れてしまう。
 「大体、同じ国なのに、なんで四つに分割されているの」
 南薔に来て以来、この国の歴史を学ばされてはいたが、他に覚えることが多すぎて、火急ではない話はほとんど覚えていない。
 が、事実として、この国は東西南北、四人の州候の元に統治され、今は反目しあっていると言える。
 それを何とか折衝するのが、彼女の仕事の一つだった。
 「そして、北州候も・・・・・・」
 前王・精纜(セイラン)が南蛮王妃であった頃、彼女の父であった南薔王・経(ケイ)が身を寄せ、唯一南薔国領と認められていた北三州を治める長は、精纜が南薔王となる直前、『国をほしいままにした』との罪状で、一族の主だった者達ごと処刑されている。
 北州はそのまま、精纜の拠点となり、北州の巫女や兵士は精纜王と聖太師の配下に加えられたため、今まで、州候を必要としなかったのだ。
 しかし、首都が佳葉に戻された以上、いつまでもこのままと言うわけにも行かない。
 一国を四つに分割することが愚かしいと思ってはいても、この国の形態を、そう易々と変えることはできなかった。
 誰かふさわしい人物はいないものか、と、北州出身者の名をあらためるが、精纜の、北州候への恨みは余程深かったのか、生きている者の中に、北州候の直系は見当たらなかった。
 「困ったわね・・・」
 下手に有力貴族の中から選ぼうとすれば、血なまぐさい争いが起こってしまうし、生き残った北州の者達に『州候を選べ』と命じても、けして、公正な選抜は行われないだろう。
 誰もが認める直系はいないものかと、もう一度最初からあらためてみると、たった一つ、なぜか聞き覚えのある名があった。
 「・・・誰だったかしら?」
 確か、東蘭で聞いたのだ。
 『姉妹で、似たような名前で――――・・・』
 「采(サイ)・・・?いえ、蟷器(トウキ)が言ったのかしら・・・?」
 『西桃かぶれの父親の趣味が・・・』
 「西桃かぶれ・・・・・・」
 その言葉に、連想される人物は、東蘭に一人しかいない。
 東蘭国北方、岫州(じゅしゅう)の州候―――― 蟷器の妻である杏嬬(アンジュ)の、父親だ。
 「あぁ、この人・・・樹夫人じゃないの!」
 南薔の北州候ゆかりの人だ、とは聞いたことがあったが、前北州候の末の妹だとは知らなかった。
 「じゃあ・・・この方なら、資格は十分じゃない!」
 緻胤は、思わず歓声を上げて、紙を取り上げた。
 直接、夫人に親書を送ってもよいが―――― と、少し迷ったものの、しかし、緻胤は、宛名を蟷器に変えた。
 こちらの方が、後でもめなくて済む、と、元東蘭王妃ならではの判断だった。
 「便宜をはかってくださいね・・・っと。
 うふふ・・・よかったぁー」
 蟷器に渡してしまえば、これで自分の悩みは解決だ、と、緻胤は無邪気な笑声を上げて、親書に封をした。


 後日、親書を受け取った蟷器は、にやりと笑って、政事堂の面々にその文面をさらした。
 「あなたのお義母上が、南薔の北州候ですか」
 「今、中書令のお宅にいらっしゃるのじゃありませんでしたか?」
 刑部尚書の裴(ハイ)と、戸部尚書の言葉に、蟷器は深く頷いた。
 「初孫が生まれるまで世話をするんだ、って張り切って、俺の家にずっと居ついてやがるんだ・・・!
 頼む。俺の苛立ちが限界に達する前に、あのババァを追い出したい。協力してくれ」
 御前会議に出る前の、臣下同士で諮る場でのことではあるが、義母を『ババァ』呼ばわりする中書令に、裴が呆れる。
 「・・・仮にも義母上でしょうよ、先輩」
 しかし、蟷器は蒼ざめた顔に、凄絶な笑みを浮かべた。
 「なんなら、お前も経験してみるか?杏嬬の妹がまだ余ってるぞ」
 「・・・あの方を義母上と呼ぶのも、あなたを義兄上と呼ぶのも、ごめんこうむりますよ、私は」
 「しかし、ま、候夫人が都にいらっしゃるなら話が早い。
 中書令、ちょっとお宅に帰って、夫人の存念を聞いてきてくださいよ」
 と、戸部尚書が、権威も威儀も知らない、と言わんばかりの気軽さで言う。
 商人出身のこの尚書は、冗長なやり方を嫌い、最も効率のいいやり方を選んでいく。
 それが気に入った蟷器によって取り立てられたのだが、今回は、その蟷器さえも呆れた。
 「あのな、南薔国北州候の地位を、野菜かなんかと勘違いしてないか?」
 しかも、東蘭国を事実上動かしている中書令を、子供の使いであるかのように扱っている。
 が、彼は悪びれるどころか、懐こく目を和ませると、うんうん、と頷いた。
 「野菜は新鮮なうちに売ってしまわないと、腐ってしまいますよ」
 「・・・それもそうだな」
 親書を送って来た以上、緻胤本人は、樹夫人を北州候に迎える気でいることは間違いない。
 だが、精纜王の時代から権力の近くにいた者達は、北州候の復興を望まないだろう。
 「この話、潰されないうちに固めてしまう必要があるな」
 「そのためには、あなた自身が動くのが一番いい。駐在の南薔人に、怪しまれないためにもね」
 にっこりと笑った彼に、蟷器は苦笑を返した。


 戸部尚書の言う通り、早めに帰宅した蟷器は、迎えに出てきた杏嬬を伴って、いつもは避けている義母の元へ、自ら出向いた。
 「あら、お珍しい」
 妊娠中の杏嬬に代わって、邸内の事を取り仕切っている義母は、そう言うと、てきぱきと使用人達に指図して、夫婦の座を作らせた。
 まるで、この邸の主のような振る舞いに、蟷器の気は更にささくれ立ったが、彼女は気づいていないのか、気づいていても無視しているのか、にっこりと笑って二人の前に座る。
 「なにかございましたか」
 娘とは正反対の、堂々とした存在感を暑苦しく感じつつ、蟷器は社交的な笑みを返す。
 「実は、南薔王となられた緻胤陛下より、親書を頂きました。義母上を、北州候としてお迎えしたいとのことです」
 「あらま」
 そう呟いたきり、彼女は黙り込んだ。
 意外な言葉に、驚きもし、戸惑いもしているだろうに、全ての感情を頬の下に全て隠し、彼女はじっと蟷器を見つめた。
 彼女が、再び口を開いたのは、それからかなりの時間が経ってからである。
 その間、蟷器は一言も発せず、杏嬬も我関せずとばかり、自身の中で動く者に気を向けてた。
 「せっかくのお声掛りではございますが、お引き受けすることはできませんわ」
 「なぜ?」
 長い沈黙の答えとして、予想していたせいか、蟷器の声に、意外の響きはなかった。
 その様に、夫人は苦笑して杏嬬を示す。
 「私は夫を持ち、父親のはっきりした娘がいるからです」
 「やはり、それが問題ですか」
 蟷器も、苦笑した。
 南薔の家は特殊で、『夫』や『父親』がいない。
 他国では、時に災厄となる外戚に悩まされずに済む、と、王家や名家が推奨したためもあるだろうが、元々、女系の国なのだ。
 「周りが認めない、というのもありますけどね、私自身、初孫もできようかという年になって、政事なんぞに関わりたくありませんの」
 北州候になれば、嫌でも南薔王の側に仕えることになる。
 「まだ落ち着かない国ですのに、年に何度も領地と王都とを往復するなんて、私には無理ですわ」
 ですが、と、彼女は目を和ませた。
 「せっかくのお声がかりですからね。私の娘ではいかがです?」
 「成嬬(ソンジュ)ですか?」
 「えぇ」
 「しかし、成嬬は岫州候となるべき夫を迎える身でしょう。
 あなたが都にいらっしゃったのも、岫州にはふさわしい男がいなかったからなのでは?」
 言外に、成嬬の婿探しに来たのだろうと言えば、夫人はやや苦い表情を浮かべる。
 「岫州は、あなたに継いで欲しいのですけどね、蟷器殿。
 州候が中書令を兼任してはいけないなんて決まり、ありませんでしょうに」
 「それは、何度もお断り申し上げました」
 「えぇ、何度も断られました。
 でもあなた、我が家から北州候を出したいのでしょう?」
 それに、と、彼女はにこりと、食えない笑みを浮かべた。
 「成嬬・・・あの子が婿取りを渋っているのは、自身が州候になりたいがためでしょうからね」
 岫州候の野心的な次女は、姉が都に嫁いだために、岫州を支配する機会を手にした。
 しかし隣国と違い、東蘭国では、州候は男と決まっている。
 婿を取るなら、自分の意のままに操れる脆弱な男がいいと思っている成嬬と、岫州を任せるに足る男がいいと考えている両親とでは、初めから意見が合うはずもない。
 ために、多くの求婚者がいるにも拘らず、彼女は未だ、独身のままだった。
 「あの子が南薔に片付いてくれれば、岫州候は倫嬬(リンジュ)の夫に継がせますわ。
 まぁ、倫嬬は成嬬ほど、野心に溢れているわけではありませんから、すぐに良い方が見つかることでしょう」
 「では、義母上から、成嬬殿に図っていただけますか?」
 「もちろん」
 にっこりと笑って、夫人は頷いた。
 「嫌だと言っても、追い出しますわ」


 母からの報せに、岫州にいた成嬬は、二つ返事で了承した。
 よほど、嬉しかったのだろう。
 知らせを受けた日のうちに、身の回りの物をまとめ、単身、南薔へ乗り込もうとした彼女を、父親である岫州候は、真っ青になって止めた。
 「なっ・・・なにを考えているのですか、成嬬!
 東蘭の王都にご挨拶もしないで・・・臣下の一人もなしに行くとは!
 物見遊山に行くのではありませんよ?!」
 が、姉の杏嬬と同じ、淡い金髪に煙水晶の瞳を持った成嬬は、性格だけは姉と正反対に、行動力と生気に溢れた声で朗らかに笑った。
 「わかってますわ、お父様。
 でもあたくし、早く自分の領地に行きたいの。
 だって、岫州と南薔の北三州って、川を越えた向こう側ではありませんか。
 わざわざ王都に行ってから南薔に入っては、遠回りになります。
 ご挨拶は、お父様かお母様にお任せしますわ」
 言うや、くるりと踵を返した娘の腕を、岫州候は慌ててつかんだ。
 「待ちなさいと言っているでしょう!!
 母上が、なぜ前北州候の妹であったことを公にしなかったか、少し考えればわかることでしょうに!
 南薔は、とても危険な所なのですよ?!」
 いい年をした男でありながら、女のような物言いで懇願する父に、成嬬は不満げに眉を寄せた。
 「前北州候は、経王と共に南薔をほしいままにし、滅ぼしたとして、精纜王に一族ごと処刑されたのです!
 母上が無事だったのは、この東蘭にいたからで・・・今だって、南薔の者は、北州候の一族に、いい感情を抱いてはいないのですよ!」
 それに、と、岫州候は、まなじりを吊り上げて、娘を見つめた。
 「北州の者達にしても・・・北州候の一族が死に絶えたと思い、州候の座を狙う貴族も多いことでしょう・・・。
 あなたは自分の身を、わざわざ危険にさらすつもりですか?!」
 「危険じゃありませんわ。
 あたくし、南薔王陛下から、お声を掛けられたのですもの。
 陛下のご意向に逆らって、危害を加えるものなどいませんわ」
 「南薔王は、未だ南薔を治めてはおられません!」
 強情な娘に、思わず苛立った声を上げた岫州候は、自身の失言にはっとして、気まずげに目をそらす。
 「・・・そうですわね。
 ですから、あたくしがお輔けに参りますのでしょう?四人の侯爵の、一人となって」
 母親そっくりの、自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、成嬬は自身の腕から、父の手をそっと引き剥がした。
 「臣下は連れて行きませんわ。
 だって、ここにいる者は全員、お父様の臣下ではありませんか。
 あたくしを通じて、東蘭が内政干渉しているなんて思われたらやりにくいですし、あまり物々しく護衛をつけては、かえって反感を招きますでしょう?」
 だから単身で行くのだ、と笑う娘に、岫州候は声を詰まらせた。
 が、ややして、ふるふると首を振る。
 「やはり、北州候の件はお断りしなさい。あなたが危険な目に遭うことはない。
 ここで、岫州候の位を継ぐ男を婿にもらって、安全に暮らせばいいではありませんか・・・」
 「嫌です」
 きっぱりと言われて、岫州候は縋るような目で、娘に迫った。
 「では・・・あなたが好きな男を選んでも構いませんから・・・!
 少々頼りなくても、あなたが補佐をして、立派に岫州を治めるような男を・・・」
 「嫌ですってば」
 「成嬬・・・!」
 「岫州は安全で、いい土地ではあるでしょうけど、あたくしが直接支配できるわけではありませんわ。
 せっかく、手に入れた機会ですのよ?
 あたくし、この機会を逃したくはありませんの」
 父親の説得を、全く聞き入れない娘に、彼は、深く吐息する。
 「では・・・せめて、身の回りの世話をする侍女の幾人かと、北州に入るまでの護衛くらいはつけて行きなさい。
 岫州候ともあろう者が、他国に赴く娘に護衛の一人もつけなかったと言われては、立つ瀬がありません。
 その位でしたら、いかに気難しい巫女たちとて、大目に見ることでしょう」
 「準備に、どのくらいかかるのですか?」
 「そうですね、せめて三月は・・・」
 「十日にしましょ」
 「・・・・・・・・・」
 「十日でお願いします。その期間内にできる程度のお支度で構いませんから」
 娘の強引な要求に、岫州候は最早、反駁する気力を失っていた。


 その数日後、東蘭から届いたいくつかの書間に、緻胤はにっこりと・・・いや、正しくは、にんまりと笑みを浮かべた。
 それらは全て、岫州候の次女、成嬬が北州候となることを承認した、という内容である。
 「蟷器がいてくれてよかったわぁv
 あの人に任せれば安心ねv
 他国の重臣に自国の人事を任せた前代未聞の女王は、心中にそっと呟いて、最後の書簡をひもといた。
 北州候となる、成嬬自身からの書簡である。
 儀礼的に就任の挨拶でも書いて寄越したのだろうと、最後に回してた事を、緻胤は心から後悔した。
 それには確かに、儀礼的な挨拶も書いてあったが、こうも付け加えられていたのである。
 「すぐに生国を発し、北州に入らせていただきます」
 と。
 北州に入ると言う、予定日を見た緻胤は、思わず息を呑んだ。
 「明後日じゃないの!!」
 生国を捨て、国を越えてやってくるのだから、その腰はずいぶんと重いだろうと予想していたのに、見事に外れてしまった。
 「・・・・・・っ嘉蘭(カラン)〜〜〜〜!!!!」
 部屋の外にまであふれる大絶叫を発し、緻胤は臣下の名を呼んだ。
 「すすすすすすっ!!」
 「はぁ?」
 錯乱する女王に、嘉蘭は可愛らしく小首を傾げる。
 もう中年に入っているにもかかわらず、幼い顔立ちの彼女には、よく似合う仕草だった。
 「どうかなさいまして、陛下?」
 のんびりとした口調に、緻胤は大きく息を吸って、呼吸を整える。
 「・・・っすぐに、猊下に連絡して!」
 「はぁ。なにをですか?」
 気丈で豪胆な女王らしくない取り乱しように、嘉蘭はことさらのんびりと問い返した。
 そんな彼女に、ぱくぱくと口を開閉した緻胤は、説明する言葉が見つからず、成嬬からの書簡を差し出す。
 「拝見します」
 にこりと笑って受け取った嘉蘭は、一読し、苦笑して小首を傾げた。
 「・・・あらまぁ」
 困惑と焦燥とほんの少しの怒りをその一言に込めた嘉蘭を、緻胤はちょっと感心して見やる。
 「あと2日で北州に入っちゃうのよ!急いで手配お願い!!」
 「はいはい、承知しましたわ。
 しょうのない姫様ですわねぇ」
 最後の言葉は、成嬬に対して向けられたものだったが、北州候の人事とその後の処理を臣下と元臣下に丸投げした緻胤は、自分に言われた気がして、こっそりと舌を出した。
 「とりあえず、猊下に引き止めてもらいましょう。
 ・・・陛下、後でちゃんとお礼申し上げてくださいね」
 言わずもがなのことを言う嘉蘭を、気まずげな上目遣いで見やって、緻胤はぎこちなく頷く。
 「ふふ・・・v
 猊下もお喜びになりますわ」
 年下の女王をからかって、踵を返した嘉蘭は、そのまま退出し・・・手にした書簡に目を落とした。
 「詩羅(シーラ)ちゃんに任せようっと♪」


 回りまわって自分の手元に来た書簡を、飄山(ひょうざん)の神殿で受け取った詩羅は、もはや女王や嘉蘭のように、次に回すことが出来なかった。
 「・・・何をおいてもまず先に、東蘭の宰相殿に苦情申し上げよ」
 自身の書記官にそう命じると、すさまじい皮肉と毒舌を口述筆記させながら、詩羅は神殿奥の聖太師の部屋へ赴いた。
 「猊下、筝(ソウ)様、失礼いたします」
 憮然とした声をかけると、執務中の聖太師とその補佐役が、何事かと振り向く。
 「新しい北州候のことですが」
 尖った目を伏せて言えば、聖太師・カナタは筆を置いて頷いた。
 「蟷器の義妹に決まったんだって?
 どんな人か楽しみだね、筝殿」
 カナタが傍らの老女に笑いかけると、彼女はやや苦い笑みを浮かべる。
 元々、南州候の側近であった彼女は、本心を言えば、せっかく滅ぼした北州候が復活するのは面白くないし、また、緻胤が国内の貴族の中から選ばなかったことも不服の一つだ。
 南州候・英華(エイカ)亡き今、南州の者達の行く末は彼女の肩に掛かっている。
 西州が再び南薔の国土となり、西州候が参政したこの時期に、これ以上、政敵を増やしたくはなかった。
 ―――― 政敵・・・。
 自身の頭に浮かんだその言葉に、筝は自嘲した。
 ―――― なんとまぁ、心の醜くなったこと。
 自分の子供ほどの年の娘に対し、会う前からこのように思うなど、以前なら決してなかったことだ。
 筝は一つ吐息すると、詩羅がカナタに差し出した書簡に、傍らから目を落とした。
 「・・・筝殿、今日、何日だったかな?」
 「・・・どうも、本日、参られるようですわね、成嬬殿は」
 カナタの問いに、低い声音で応じると、筝は詩羅を見やる。
 「そういうわけで、こんな苦情を東蘭の宰相殿に送ってもよろしいでしょうか?」
 怒りに尖った目を上げ、詩羅は自身の書記官が書き上げた手紙を二人に示した。
 「もっと言ってやってもいいくらいだよ。清書して蟷器に送りつけてやって」
 詩羅が差し出した紙をそのまま返し、カナタは傍らに立つ筝を見上げる。
 「とりあえず、ここで引きとめよう。
 北州候の館には、今行かれてもまずいだろう?」
 「そうですわね・・・。
 前王がお住まいでいらしたので、館自体には問題ございませんが、今いる者達は南州の者が多うございますので、ご不快に思われることでしょう」
 筝の方こそ、不快げな顔をしてる、とは、賢明にも口に出さず、カナタは苦笑した。
 「しかし、まさかこんなに動きの早い人だとは思わなかったな。
 蟷器の奥方は、とても控えめな、おっとりとした人だと聞いていたから、その妹君も似たような人かと思っていた」
 「あいにく、性格は似てらっしゃらないようで」
 詩羅の口調がいかにも忌々しげに聞こえて、カナタは思わず吹き出す。
 「とにかく、誰か迎えに行かせて。
 こんな状況なんだ、準備が整ってなくても仕方ないだろう。
 だけど、今は山に登らず、麓で待つように聖太師が言っていた、と、伝えなさい」
 「承りました」
 深々と一礼して退出した詩羅は、来た時よりはやや落ち着いた足取りで回廊を歩んだ。
 成嬬が、どんな人間かはまだ知らないが、人騒がせな外国人を、ちょっといじめてやろうと思ったのだ。
 詩羅は神殿の表に出ると、聖太師への謁見前に、迎えの準備をするよう申し付けていた者達に笑みを向けた。
 「急ぐ必要はない。
 十分時間をかけて、念入りに準備なさい」
 詩羅の言葉に、彼女の意図を察した部下達がひっそりと笑みを交わす。
 ただ一人、成嬬の元へ使わされた使者だけが、足を早めて山を下りていった。


 常識はずれな早さで、意気揚々と南薔国に入国した成嬬は、早速北州候の館に乗り込もうとしたところで足止めされた。
 その上、北州候に就任する者へのもてなしとはとても考えられないほど、粗末な宿に押し込められてしまったのだ。
 小さな窓から、自身が入るべき居館の壮麗な外観を遠く眺めて、成嬬はしかし、にやりと笑んだ。
 「早速来たわよ、意地悪が」
 どこか楽しげに言えば、供の者達は、東蘭でも有力な貴族である岫州候の姫へ対する理不尽な仕打ちに憤慨する。
 が、彼女は全く気にしない様子で、居館の屋根を眺めながら持参の茶をすすった。
 暗く粗末な部屋の中で、その香りだけが上質のものだ。
 が、彼女はそれを飲んで初めて、眉をひそめた。
 「味が違うわ、阿藍(アラン)」
 不満の声を受けた侍童の少年は、恐縮した面持ちで茶色いこうべを垂れる。
 「申し訳ありません、水はろ過したのですが、どうしても我が国の水と同じには行かず・・・」
 言い募る少年を、成嬬は手を掲げて制した。
 「我が国、と言う言葉はもう、東蘭に対して使わぬように。
 ・・・でも、そうね。私も、ここの水に慣れなければならないわ」
 再び茶器を持ち、やや眉をひそめて茶をすする主人に、阿藍は気遣わしげな目を向ける。
 「あの・・・成嬬様、本当にこの土地の州候になられるおつもりなんですか?」
 遠慮がちな声に、成嬬は眉をひそめたまま、阿藍を見遣った。
 「ここまで来てそれを言うの?国を出るのが嫌ならお帰りと、最初に言ったでしょう」
 主人の不快げな声に、しかし、阿藍は不安げな表情を消せない。
 「僕は太后様・・・あ、いえ、南薔の女王様が自ら、成嬬様に北州候となって欲しいと望まれたのですから、成嬬様は歓迎されるのもだと思っていました・・・だけど・・・・・・」
 まだ、十五になったばかりの彼は、悄然とうな垂れた。
 「この地の民は誰も・・・成嬬様を歓迎しません・・・こんなひどい事・・・・・・」
 茶色い瞳に涙を浮かべる彼を、おもしろそうに見遣って、成嬬は空になった茶器を差し出す。
 「もう一杯、淹れてちょうだい」
 「あ!はい!!」
 慌てて茶器を盆に受け取り、踵を返した阿藍の背に、成嬬は呟いた。
 「幸せに暮らしたければ、あたくしは家を出やしなかったわ。
 この程度の意地悪をされたからって、泣いて帰るだなんて、あたくしを馬鹿にしないでちょうだい」
 そろそろと振り返る侍童に、成嬬はにっこりと笑う。
 「それに、見てご覧。
 お父様はここを、ずいぶんと恐ろしい所のように言っていらしたけど、あたくしがここに来るまでも来てからも、誰もあたくしを殺そうとしないじゃない」
 「え?!殺・・・っ?!」
 目を見張る少年の顔がおかしいとでも言いたげに、成嬬は笑声を上げた。
 「北州候の座を狙う貴族達に力があるなら、あたくしはここに来る前に刺客に狙われたでしょうし、神殿や他の州候に思惑があれば、あたくしはここで死んでいたはずよ。
 それが今、こうして何事もなく生きているってことは、この国の者はせいぜい、こんな意地悪しかできないってこと。
 だから、あたくしは平気よ」
 平然とうそぶく主人に、少年はうな垂れるように頷く。
 美しい顔に似合わず、気の強い主人が騒動に巻き込まれた時、身を挺して守る覚悟でついてきたと言うのに、着いたばかりで後悔する自身が情けなかった。
 「お茶・・・お淹れします・・・」
 今の自分に出来ることはそれしかないと、彼が部屋の扉・・・というより、木戸としか言いようのないものを開けて出ると、入れ替わりに侍女が入ってくる。
 「姫様・・・」
 不満げな声に、成嬬が目だけ向けると、侍女は神殿からの新たな使者が、宿を移るように言ってきたことを告げた。
 「ふぅん・・・あたくし、結構ここが気に入っているのだけど。
 どうしても移らなきゃならないのかしら」
 「ご冗談を・・・」
 成嬬の言葉に、侍女が息を呑む。
 「岫州候の姫ともあろう方が、このように粗末な宿をお気に召すなど・・・」
 西桃国の華やかな文化にかぶれていることで有名な父の臣下らしい言い様に、しかし、成嬬は平然と笑った。
 「お気に召してよ、あたくしは。
 生まれてこの方、こんなに目の休まる所にいたことはないもの」
 その言葉に、侍女は一旦あけた口を、何事も言えずに閉じる。
 ごてごてと派手に飾られた岫州候の館は、確かに、目の休まる場所ではなかった。
 「それに、ここからは居館も見えるじゃない?
 中はどんな風になっているのか、想像すると楽しいわ」
 そう言って、庶民の少女のように、粗末な木枠の窓辺に寄りかかる成嬬に、しかし、侍女は吐息して首を振る。
 「明日には、聖太師猊下の使者がお見えになるとのこと。
 姫様がこのような場所で幾日もお過ごしあそばしたと知れれば、お驚きになりますでしょう」
 「驚かせて差し上げましょ」
 苦い台詞をいたずらっぽい声音で返されて、侍女は思わず瞬いた。
 「あたくしに意地悪をすることが、どんなに危険なことか、最初に思い知らせないとね」
 にやりと口の端を曲げる成嬬に、侍女は不安げに眉をひそめる。
 「姫様、あまり軽々しい行いは・・・」
 「あたくし、姉様の妹というより、義兄様の妹にふさわしかったんじゃないかと思うわ。
 姉様の性格は大嫌いだけど、義兄様のやり方は好きだもの」
 彼女の言葉に、益々不安げな顔になった侍女に微笑み、成嬬は窓からわずか、身を乗り出して通りを眺めた。
 粗末な宿では、二階とはいえ、そう高い場所ではないが、行きかう人々を見下ろすことはできる。
 「ふふ・・・汚い街ね」
 舗装されていない道はぬかるみ、道行く人々の身なりは粗末だ。
 それに、北州候となる者が泊まっているというのに、誰もがそ知らぬ顔で通り過ぎていく。
 「今は、無視しているがいいわ。でも・・・見てらっしゃい。
 あたくしがあなたたちに・・・いえ、あなたたちの子供たちに、豊かな暮らしをさせてあげるわ」
 自信に満ちた笑みで笑いかけると、成嬬は阿藍が運んできた茶器を受け取った。


 その、翌日のことである。
 山から下りてきた使者は、成嬬が泊まっている宿を見て、目を丸くした。
 「これは・・・どなたの手配で・・・?」
 以前の北州候にも仕えていたという巫女は、成嬬の侍女に尋ねて、絶句する。
 「南の・・・!」
 唇を噛んで俯いた彼女に、成嬬はちらりと苦笑を浮かべた。
 ―――― これは、相当溝が深いわね。
 北州と南州の仲が悪いことは、成嬬の出立前に、慌てて帰って来た母から聞いている。
 前北州候は、四人の州候の中でただ一人、前々王であった経王を支持し、他州を全て他国に奪われてもそ知らぬ顔で薔国であり続け、民に重税を課して王と共に享楽にふけっていたと。
 そのため、特に南蛮に支配された南州の恨みは深く、精纜(セイラン)が南蛮を出て南薔に入るや、女王に手を貸し、北州に攻め込む尖兵となったことも。
 ―――― 今は逆に、北州の者が南州を憎んでいるわけね。
 目で天を仰いで、成嬬は肩をすくめた。
 「そのことはもういいわ。
 それよりあたくしは、どこに行けばいいの?」
 最初の使者は、神殿に上がることは許さぬ、ここで待て、と傲慢な口調で彼女に命じたのだ。
 そして粗末な宿に押し込め、更には外出まで禁じた。
 そう言うと、使者は悔しげな顔をして、「北州候を居館にお迎えします」とこうべを垂れた。
 「あら、やっと入れてくれるの」
 苦笑交じりに言えば、先に立って歩き出した使者は、振り返らぬまま頷く。
 「・・・南の者が・・・多くおりましたゆえ・・・」
 彼女がぽつぽつと語ったところによると、今の聖太師の側近には南州の者が多く、彼に従って来た南州人の兵が、兵舎代わりに使っていたということだった。
 「まぁ・・・金臭いのではありませんか?」
 不満げに眉をひそめる侍女に、成嬬はひらひらと手を振ってついてくるよう促す。
 この地に入って以来、初めて宿の外に出ると、美々しく着飾った巫女達の群れに、何事かと民が集まっていた。
 「あら」
 彼らの視線が、彼女ではなく、彼女を迎えに来た巫女たちにのみ集中していることに気づいて、成嬬はふっくらとした唇に白い指を当てた。
 「もしかしてこれは・・・助けてもらったのかしらね」
 意地悪じゃなかったかもよ、と、傍らの侍女に囁けば、彼女はいかにも疑わしげな表情で眉をひそめた。
 用意された輿に乗り、通りを行っても、見下ろす民達は不思議そうな顔で成嬬を見上げる。
 「尋ねたい。
 あたくしが州候に就任することは、民に報せていないのかしら?」
 そう、迎えの巫女に囁くと、彼女はややこわばった顔を上げて、頷いた。
 「それは、猊下のご命令で?」
 その問いにも、彼女は黙って頷く。
 「それはそれは、よほど恨みを買っていたのね」
 苦笑を浮かべ、成嬬は改めて、貧しい身なりの民を見下ろした。
 前北州候が民に重税を課し、南州の者から恨みを買っていたと聞かされていたのに、北州の民から恨みを買っているだろうとは、思っていなかったのだ。
 「あたくしとしたことが、うかつだったわね」
 ここに来て初めて、緊張の細い糸が背中を這う感触を得て、成嬬は苦笑する。
 「仕返しをしてやろうと思っていたけど、今はまだ、おとなしくしてあげた方が良さそう」
 使者が苦い顔をしたことから見ても、全くの好意ではないだろうが、少なくとも成嬬は、前州候を恨む民から襲われることなく日を過ごした。
 「まぁ、いいわ。先に様子を伺いましょうか」
 会った瞬間に吐いてやろうと思っていた毒舌は、今だけ胸の奥に沈めて、成嬬は行く手を見遣る。
 そこには、彼女が主となるべき居館が、白くそびえていた。


 粛々と輿に運ばれて、成嬬が入った北州候の居館は、思っていたよりずっと優雅なものだった。
 南薔は前々王に男王が立って以来、国土のほとんどを他国に奪われたと聞いていたので、北州候の居館とは言っても、今日まで成嬬が閉じ込められていた宿より、幾分かましな場所だろうとしか思っていなかったのだ。
 だが入ってみれば、自然を模した大小の庭を白い回廊が巡り、ところどころ渡された橋の下には清流が流れ、館というよりも王宮と呼んだ方がふさわしい優雅さだ。
 案内された部屋も、実家ほど華やかではないものの、白い壁は明るい色の壁掛けで覆われ、派手ではないが、質のいい調度で品よく整えられていた。
 「お待ちしておりました、成嬬様」
 満足げに部屋を見渡していると、何人もの巫女らしき女達を従えた、中年の女が入って来て、成嬬に一礼する。
 「わたしくは聖太師猊下にお仕えしております巫女にて、詩羅と申します。
 お見知りおきのほどを」
 詩羅はそう言って顔を上げると、黒い瞳でさり気なく、成嬬を眺め回した。
 ―――― 値踏みされているようだこと。
 にこりと笑って、成嬬は上手に不快感を消す。
 「成嬬と申しますわ。よろしくお願いしますね、詩羅殿」
 聖太師直属の巫女が、州候に対してどの程度の力を持つものか、成嬬は知らなかったが、妙に居丈高な詩羅の態度だ。
 成嬬の侍女達が、あからさまな反感と共に見つめる中、詩羅は笑みもせず成嬬に歩み寄った。
 「早速ではございますが、成嬬様、南薔国の州候となられるからには、他国の者をお側に置かれることはご遠慮下さい」
 予想通りの申し出とはいえ、会ってすぐに・・・しかも、これほど単刀直入に言われるとは思わなかった成嬬は呆れ、侍女達はあまりに無礼な物言いに激昂した。
 「・・・それは、当然のことでございますわね」
 怒気をみなぎらせる侍女達を制して、成嬬は苦笑混じりに言う。
 「では、父の家臣は皆、帰らせることにしましょう」
 館の外で待つ、護衛の兵は元より、幾人かの侍女も外に出した成嬬に、しかし、詩羅は首を振った。
 「全員、でございます」
 「あら・・・でもこの者達は、あたくしの・・・」
 「全員、お引取り願いますように」
 詩羅の傲慢な言い様に、初めて、成嬬の顔に怒気が浮かんだ。
 「あたくしから侍女を奪って、どうなさるおつもり?
 あたくしがはした仕事をするところでも、ご覧になりたくて?」
 「身の回りのお世話をする者は、どうぞ、北州の者からお選びくださいませ」
 成嬬の不快げな口調にも、詩羅は怯むことなくまっすぐに見つめた。
 「南薔国の州候となられるからには、他国のものはすべてお捨てください。
 それが、当然のお覚悟かと存じます」
 「・・・・・・そうね」
 必ずしも、納得はしていない様子ながら、成嬬は頷くと、嫌がる侍女達に厳しい口調で、出て行くよう命じた。
 ただ一人、阿藍を傍らに残して。
 当然ながら、詩羅は眉をひそめた。
 「その者も、出て行くようにお命じなされませ」
 「これは無理です」
 「侍童も、北州の者から・・・」
 「これは侍童ではありませんわ」
 詩羅の言葉を遮って、成嬬はふてぶてしい笑みを浮かべた。
 「愛人です」
 「なっ?!そそそそそそ成嬬様っ?!」
 真っ赤になって硬直する阿藍の腰に、成嬬は手を回し、抱き寄せる振りをして思いっきりわき腹をつねった。
 「あたくし達、東蘭国では身分が違いすぎて、仲を公にはできませんでしたけど、南薔では問題ございませんでしょう?」
 余計なことを言うな、と、更につねられて、阿藍は必死に悲鳴を噛み殺した。
 いくら南薔でも、『愛人だから側に置かせろ』などという理屈が通るわけもないと、身を硬くしたまま、解放の時を待つ阿藍に、しかし、詩羅は初めて、傲慢な態度を崩した。
 「・・・さようでございますね」
 頬に手を当て、しばし考えていた彼女は、その姿勢のまま頷く。
 「愛人ならば、離れがたいことでしょう。
 わかりました。
 その者以外、全てお国にお返しくださるというのであれば、認めましょう」
 ―――― 嘘でしょう?!
 東蘭であれば・・・いや、南薔国以外の、どんな国でもあり得ない展開に、阿藍は涙に潤んだ目を見開く。
 「良かったわね、阿藍v
 まぁまぁ、嬉しいからって、そんなに泣かなくてもよくてよ?」
 楽しげな声に、成嬬の顔を見れば、彼女はまんまと企みが成功した喜びに、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 ・・・涙は嬉しさではなく、痛みによってあふれたものだったが、成嬬と引き離されずに済んだことに、ひとまず、阿藍はほっと吐息した。


 成嬬が詩羅と、丁々発止の戦いを繰り広げていた頃、北州候の居館には既に、飄山から降りてきたカナタが入っていた。
 南薔国で唯一、侵略を受けなかった州候の館は、建設当初の優雅さをそのまま保っており、今、女王がいる佳葉(カヨウ)の王宮よりも過ごしやすい。
 その、広大な館を巡る回廊の上で、カナタはゆったりと首をめぐらした。
 「久しぶりだね、ここ」
 と、傍らの老女も微笑んで頷く。
 この居館はつい最近まで、精纜女王の住まう王宮だった。
 そして、彼女によって聖太師に奉じられたカナタが、長い間住んでいた場所でもある。
 「さて・・・」
 この館に住んでいた間、自室として使っていた部屋に入ったカナタは、変わりなく設えてあった椅子に深々と腰掛けて、筝に窓を開けるよう、命じた。
 「成嬬殿って、どんな人?」
 誰にともなく尋ねると、カナタの青味を帯びた銀色の髪が、微風に撫でられる。
 「・・・ふぅん。
 筝殿、成嬬殿はとても勇気のある女性のようだ」
 誰が声を出したわけでもないのに、問いの答えを得たカナタが、笑って言うと、筝は微笑んで頷いた。
 「さようでございますか。
 ・・・ですが猊下、そのお力、どうか成嬬殿にはお知らせなさらぬように」
 「どうして?」
 筝の言葉に、カナタはきょとんと瞬きして、執拗に彼の髪をなぶる微風を手で払う。
 と、たちまち風は収まり、窓は誰の手にも寄らずに閉まった。
 「外国人など、容易にご信用なさらぬように。
 猊下がまことの水精であられ、風霊をも自在に操られることを、不用意に吹聴されては、色々と不都合なことがございましょう」
 「そうかな?」
 「そうでございます」
 きっぱりと断言され、カナタは肩をすくめた。
 「ところで、成嬬殿を今の宿に置いたのは、筝殿の差し金かい?」
 「?
 いいえ。詩羅の手配でございますわ」
 「そう。詩羅殿はどこ?」
 「成嬬殿を迎える準備をしておりますが」
 「呼んで」
 「・・・はい」
 カナタの表情は、穏やかなまま変わらなかったが、抗い難いものを感じて、筝は詩羅を呼びに行かせる。
 ややして、カナタの前に現れた詩羅は、ちらりと苦笑して一礼した。
 「詩羅殿。
 イタズラにしては意地が悪いのではないかな?」
 カナタの言葉に、成嬬への嫌がらせがばれてしまったことを察すると、詩羅は言い訳をしようとはしなかった。
 「確かに、次期北州候に対しても、東蘭の州候の姫に対しても、ふさわしくない宿ではございましたわね」
 「全く・・・らしくないね、詩羅殿。
 西州候の時もそうだったけど、新しい州候が現れるたびに君達は神経質になる。
 せっかく陛下が、西桃や東蘭相手に南薔の国土を取り返してくれたのに、州候同士が反目していては、まとまるものもまとまらないよ」
 「もっともな仰せにございます。
 ですが・・・・・・」
 詩羅は、ちらりと筝を見遣ると、きつく眉をひそめた顔を上げた。
 「わたくしども南州の者には、仰ぐべき州候がおりません。
 英華様が亡くなって以降、何度もお願い申し上げているにもかかわらず、猊下も陛下も、候子を州候とはお認め下さらない」
 「・・・仕方ないだろう、英士(エイシ)は男だ。
 精纜王は即位後、この国の法を従来のものに戻された。
 男は家を継げない。よって、州候にもなれない」
 ややうんざりとした口調で言えば、詩羅はさらにきつく、眉間に皺を寄せた。
 「では、茱家(シュけ)に女子が生まれるまで、我らに州候をお与えくださらないのですね?」
 きつく睨まれて、カナタは返す言葉を失った。
 緻胤は、自身の領地と引き換えに、他国に奪われていた南薔国の領土をほぼ取り戻したが、いくら領土を取り返したと言っても、州候なしの土地は女王の直轄地となるしかない。
 それでは、いかに南州の者が結束しても、綻びが出るのは時間の問題だった。
 「寄る辺ない我らが、西州候や北州候の復権を快く思わないのは、当然でございましょう」
 カナタの傍らで、筝がぽつりと呟く。
 「だけどそれは・・・」
 成嬬自身には関係がない・・・と、言おうとして、カナタは口をつぐんだ。
 彼女が北州候になると決まった以上、その責任とともに、嫉妬や怨恨をも引き継ぐのは、最初からわかっていたことだ。
 カナタは自身の周りで渦巻く、どろどろとした怨念を振り払うように首を振ると、手を翻した。
 「あなた達の気持ちはわかる・・・つもりだ。
 だが、このような嫌がらせをして溜飲を下げるのは、美しいやり方だとは思わないよ」
 組み合わせた両手の上にあごを乗せて、カナタはまっすぐに詩羅を見つめた。
 「私に・・・聖太師に仕える者として、誇りを持ってほしい。
 今までの失礼は私が、成嬬殿へ詫びよう。
 以後はこのようなことのないよう、誠意をもって接してください」
 濃紺の瞳に見据えられて、詩羅のこうべが、ゆるゆると下がる。
 「・・・・・・はい」
 抗いがたい威圧感に、低い声で了承すると、詩羅は悄然と退出した。
 「筝殿も。
 成嬬殿を歓迎してあげてください」
 「はい、猊下」
 傍らに佇んでいた筝も、その言葉に気遣わしげな目を残して、退出する。
 広い部屋に、一人になったカナタは、両手を組み合わせたまま、視線を宙に据えた。
 「このままじゃ、だめだ・・・・・・」
 弱小国と成り果てた南薔にありながら、誇り高き巫女達は、未だ大国の夢を見たまま反目しあっている。
 「四人の州候を・・・いや、四つに分かれてしまった国を、一つにまとめなければ・・・・・・」
 そのためには、強力な力を持った王の存在が必要だ。
 佳葉にいる緻胤を思い、カナタは、濃紺の瞳に決意の光を灯した。


 ―――― その数日後、東蘭国岫州候の次女、成嬬は、神殿と女王の名のもと、南薔国北方三州を治める北州候に封じられた。
 封候前より、一部の者達の間では『騒動』と同義だったその名は、間もなく、北州中の民の間にも意味を同じくして広まり、やがて、国中の者が彼女を、西桃風のその名では呼ばなくなった。
 当初は気随候・・・勝手気ままな侯爵様と呼ばれていた彼女は、後に民に慕われ、この土地の史書に愛敬(あいぎょう)候の名を残すことになる。




〜 to be continued 〜


 







Euphurosyne