◆  4  ◆







 辺りが暗くなった頃、閉じた窓の隙間からひんやりとした空気が漏れ入ってきた。
 私は林彼(リンカ)師がくれた神殿の地図から顔を上げ、ガラス窓を見たが、それは暖かい部屋の空気に露を帯び、外の様子はまったく分からない。
 「・・・霧が出てきた」
 窓辺に寄って、外の様子を見ていた華綾(カリョウ)氏がつぶやく。
 「え?こんなに標高が高いのに?」
 雲ですら遥か下にあると言うのに・・・近くに水場でもあるのだろうか?
 しかし、聞いても答えてくれる華綾氏ではない。
 サラームと林彼師が神殿へ行き、依坤(イコン)少年が帰ってしまうと、この庵は気まずい沈黙に満たされていた。
 サラームが作り置きしてくれた食事を一人で食べ、食器類を片付けてしまった後、自室にいた華綾氏を誘って、食堂の隣の居間で持参してきた酒を振舞ったのだが・・・一人でいたほうがまだましだったかもしれない。
 酒が入れば少しは多弁になるだろうかとも思ったのだが、彼は強く芳醇な酒を飲んで顔色も変えない。
 ただ大理石の彫像のように微動だにせず、窓辺に寄り添うようにして外の闇を見つめている。
 「・・・神殿は寒くないんでしょうか。林彼様もサラームさんも、随分と薄着で行ってしまったけど」
 「カナタもサラームも・・・このくらいはなんともない」
 まさか応えが返ってくるとは思わなかったので、私は一瞬呆然とした。
 だが、この機会を逃すとまた沈黙に閉ざされるのが簡単に予想できて、私は必死で次の質問を考えた。そして、
 「そう言えば、あなたもサラームさんも、依坤君までが林彼様のことを『カナタ』と呼んでいましたが・・・それがあの方の本名なんですか?」
 聞くと、華綾氏は窓の外を見たまま、軽くうなずいた。
 「林かなたと言う」
 「ハヤシ・・・カナタ?」
 奇妙な名前だ。一体どこの国の名前だろう?
 だが、その問いには答えず、華綾氏は灰色に沈んだ瞳で私を見た。
 ―――― 無感情な、硝子玉のような目。
 ただ見られただけだと言うのに、ヘビに睨まれた獲物のように身がすくんでしまう。
 やがて、
 「・・・私も神殿に行くことにする。退屈なら二階に書庫があるから、好きにするがいい」
 そう言い捨てるや華綾氏は、足音もなく部屋から出て行ってしまった。
 「・・・なんなんだ・・・」
 華綾氏が部屋から、そして庵から出ていったのを、曇りガラスを透かして確認すると、私は盛大なため息をついた。
 私は人付き合いが苦手な方ではない。
 出身地である繁葉(はんよう)にはもちろん、仕事で行った土地にもたくさん友人をもっている。
 育ててくれた祖母を亡くし、妻も子もない独り身の私を気遣ってくれる親切な人たちばかりで、年末はぜひ我が家でとの申し出に、毎年どこで過ごすか悩むほどだ。
 友人の一人は、『君は老人に優しいし、人当たりがいいからみんな招待したがるんだろうね』と言ってくれたが、その自信も華綾氏の前ではことごとく崩壊する・・・。
 いっそ、彼が本物の『華綾』であったなら、こういうものかと諦めがつくだろう。
 神話に出てくる透明な薔薇の精霊は、常に無表情で、情に流されることなく罪人の罪の重さを計ると言う。
 罪を犯せば、姉であれ無情に殺してしまう精霊・・・。
 今でもいたずらをした子供を、『華綾に連れていかれてしまうよ!』と言って叱る親は珍しくない。
 しかし、実際にあのようなタイプの人間を相手にするのは精神的苦痛としか言いようがないだろう。林彼師はよく、彼と二人で住んでいられるものだ。
 穏やかな神官の、尊敬すべき点をまた一つ見つけた私は、ここにはいない師の健康を祈って杯を掲げた。
 だが、杯に残っていた酒を飲み干してしまうと、もう一杯注ごうという気はなくなってしまった。
 出していた食器を片付け、もう寝ようかとも思ったが、今朝は遅くまで寝ていたせいか、まったく眠気がささない。
 仕方がないので、暇つぶしに二階の書庫を覗いて見ることにした。
 古い紙の匂いに満ちたそこはひんやりとして、足元から冷たい空気が身体に沁みこんでくるようだ。
 廊下を中心に左右三間ずつ、六間に別れた部屋のドアの脇には、林彼師の手によるものだろうか、丁寧な字で書かれたプレートが何枚かずつ下げてあった。
 手に提げたランプを掲げて見ると、一番手前、左の部屋を1、手前右の部屋を2と、部屋番号もふってある。
 1のドアの横に下げてあるプレートには『総記』と書かれ、辞書などが置いてあるようだ。その向かい、右手前の2のドアの横には『宗教』『歴史』のプレート。
 乾(ケン)教授から付け焼刃的に歴史の講義は受けたものの、これから見に行く神殿がどう言う存在なのかもよく知らない私は、学生時代の曖昧な知識を補う必要を感じて、そのドアを開けた。
 途端、闇の中でもそこがどんな場所であるかを知らしめるような、濃密な紙の匂いがあふれ出る。
 かなり広い室内には整然と本棚が立ち並び、その中には大小の本がきちんと分類されて収まっていた。
 本の背表紙をランプの明かりに照らしながらゆっくりと歩を進めていると、神話や宗教の本、そして『南薔史』という割と厚めの本を見つけた。
 私は本棚から、美しく装丁され、挿絵のたくさんはいった神話の本と南薔史の本を取り出すと、さっさとその寒い書庫を出て一階の暖かい居間に戻った。
 簡素だが座り心地の良い長椅子に腰を下ろし、『南薔史』の目次を開いて、私はふと考えた。
 南薔で、『歴史上の有名人』と言えば誰だろうかと。

 街でもどこでもいい。その辺を歩いている人を捕まえて、『あなたがすぐに思いつく南薔史上の人物は?』と聞いたなら、南薔人であればほぼ全員が『海王・灑羅(シャラ)陛下』だと答えるだろう。
 南海を治め、南薔を豊かにした名君。
 彼女の名を呼ぶとき、南薔国人はそれは誇らしげに目を輝かせるのだと言う。
 だが他国では・・・西桃国や東蘭国ではあまり彼女の存在は重要視されない。
 彼女は南海を平定し、南薔国内を豊かにした王であり、彼女自身は西桃国や東蘭国にそれほど関わりを持たないのである。
 西桃国や東蘭国ではむしろその娘達、西桃国の王妃となった第二王女・蕾綺(ライキ)や東蘭国の王妃となった第三王女・愛紗(アイシャ)の方が有名であるし、それ以上に重要なのは、南薔だけでなく、同時に西桃国・東蘭国の王母となった『大母・緻胤(ジーン)』だろう。
 「歴史劇の公演でも、灑羅女王よりも、緻胤女王の物語の方が人気らしいしなぁ・・・」
 だが、実は私が最も興味を惹かれるのは、灑羅女王の第一王女・繻莉(シュリ)だったりする。
 王世子ですらなかった灑羅女王に王位を授けるきっかけとなった『精霊の娘』。
 灑羅女王在位中は王世子として、自らが王位に就いた時は妹達を通して三国を支配する女帝として、南薔国を世界に冠たる強国にした三十九代南薔国王。
 彼女の生涯には謎が多い。
 私は本のページを繰り、繻莉(シュリ)女王の肖像画が載った所を開いた。
 蝋ように白い肌と泡雪のような白い髪。若く美しい顔に穏やかな笑みを浮かべる紅い瞳の女王。
 彼女は本当に色素を持たない『精霊の娘』だったのか・・・?
 彼女の短い在位後、南薔国中を・・・いや、世界中を巻き込んだ王位継承戦争。
 なぜ彼女の妹達は、彼女の娘である王世子の継承を拒んだのか・・・?
 口の堅い神職達は、一言も真実を漏らすことなくその生を終えたと言う。
 『せめて王家の墓の調査が認められれば、明らかになるかもしれないのだが・・・』
 乾(ケン)教授の言葉が思い出される。
 しかし、少なくとも彼の生存中に、王家の墓が開かれることはない。
 有名無実とはいえ、王家を敬う人々は、まだまだ多いのだから。

 一つ息をついて、私はもう一冊の、神話の本を開いた。
 私がまず開けたのはやはり『華綾』の挿絵が載っているページである。
 透明な薔薇の精霊・華綾は、水の支配者である湟帝(こうてい)の娘・澪瑤(れいよう)公主に仕えているが、本来植物の精霊は、他の精霊のように特定の主を持たないと言われる。
 それは、植物は水・風・土・火(熱)・闇・光のすべてが交わって生まれるものだからだ。
 ゆえに、三人の皇帝に直属する精霊達とは違い、植物の精霊達はこの世界のどこかにある『玉華泉(ぎょくかせん)』という聖地で生まれ、主を持ったり持たなかったりしているのだと言う。
 なぜ華綾が澪瑤(れいよう)公主に仕えるようになったか。神話ではこうなっている。

 ――― ある日、水の神・湟帝が、娘の澪瑤公主を連れて玉華泉を訪れた。
 その地で蒼い花弁を持つ、美しい薔薇の花を目に留めた湟帝は、玉華泉の長である木精王・美桜(ミオ)に、この薔薇の精霊が欲しいと言った。
 美桜は快諾し、花の中で眠る蒼い薔薇の精霊を呼び起こした。
 すると、青い薔薇から陽炎のようなものが立ちのぼり、だんだんと女の容(かたち)を成していった。
 そうして湟帝が、美しい薔薇の精霊に『麗華(レイカ)』という名を与えるや、透明だった精霊は実体を持ち、蒼い髪と蒼い瞳を持った娘が現れた。
 だが、湟帝の娘・澪瑤公主の目に留まったのは、その蒼い薔薇の隣で、消え入りそうに儚く咲いていた透明な薔薇だった。
 『わたくしにはこの薔薇をちょうだい』
 だが、澪瑤公主の言葉に、美桜は困ったように答えた。
 『いけません。その透明な薔薇は、蒼い薔薇の影でございます。『麗華』が生まれた今、夏にたちのぼる陽炎のように、すぐに消えてなくなるものです。あなた様がこの薔薇に命を吹き込まれたとしても、他の精霊のように親しくお仕えすることはできません』
 だが、澪瑤公主は聞かなかった。
 『わたくしの側におきます』
 言うや、今にも消えそうなその薔薇に『華綾(カリョウ)』の名を与えた。
 しかし、華綾はもともと生まれるはずのない精霊だったため、髪にも肌にも瞳にすら色はなく、感情も表情も持たない。
 ただ、澪瑤公主の側に忠実に従い、その命令を実行するのである。

 「・・・ワガママ公主のお人形じゃないか」
 子供の頃はなんの疑問も感じなかったが、今ではつい辛らつな感想がもれる。
 「麗華も、どんな罪を犯したのかは知らないが、こんな弟に殺されたんじゃ、気の毒に」
 そのまま何気なくページをくっていると、ある名前を見つけて、私は思わず手を止めた。
 「・・・依坤(イコン)?」
 あの、生意気だがかわいらしい少年の名。
 その本には、『依坤』の名が、闇と死の世界を司る女神・惶帝(こうてい)の側近である地精王・坐忘(ざもう)太師の名として書いてあった。
 「・・・へぇ。さすが飃山だな。神話をよく知ってる親なんだろう」
 だが、同じページに書かれていた他の精霊王達の名。
 それを読んで、私は思わず声を失った。
 ――― 火と光を司る神・煌帝(こうてい)の側近であり、東方を守る将軍。火精王・サラーム・・・。その字は、『砂来無』と当ててあった・・・。
 私は彼らの容姿を思い出す。
 明るい褐色の髪、深い翠色の瞳をした少年、依坤。
 炎のような紅い髪に褐色の肌、金色の瞳を持つ青年、サラーム。
 そして、まさに神話から抜け出してきたように色のない青年、華綾・・・。
 「・・・まさか。単に容姿が似てるだけさ」
 生まれてきた子供に、神話の登場人物の名をつけることは、どこの国でも普通に行われていることだ。
 現に私の名、『英婁(エイル)』だって、もとは闇の精霊王・玄冥(げんめい)太子に仕える星の名前だ。
 しかもここは飃山。
 南薔だけでなく、世界中の人々の信仰を集める聖地だ。
 大して神話に興味を持たない私と違って、ここの親達は敬虔な信者なのだ。
 地精王の容姿を持つ子、火精王のような青年・・・。
 そんな人間がいたっておかしくないはずだ。
 だが、私の頭の中で、昼に聞いたサラームの言葉が木霊する。

 ――― あの方の護衛はエアリーかシルフがするだろうさ ―――

 エアリーもシルフも、この本にはいくつもの名を持つ西方将軍・風精王の名として載っていた・・・。
 では『あの方』とは・・・?
 風精王を従え得るのは、湟帝と澪瑤公主のみ・・・。
 首筋にひんやりとした空気を感じて、私はぎこちない動きで振り返った。
 閉じた窓の向こうは、闇すらけぶるような霧・・・。
 こんな高地に・・・。
 雲さえも遥か下にある場所に、こんな濃い霧が・・・。
 冷たい手に背を撫でられた気がして、思わず全身が粟立った。
 ここは・・・この山は人の住むところではない。
 神の領域に踏み込んだ人間は恐ろしい罰を受けるのではないか?!
 早く、早く誰か帰ってきて欲しい・・・!
 こんな寂しい所に一人でいるのは嫌だ!
 私はもつれる足をなんとか動かし、少しでも暖かいところ、明るい場所を求めて暖炉の側に寄ると、震える身体をなだめるように、自身を両手で抱いてうずくまった。
 何事もないよう、三人の神に許しを乞いながら・・・。




〜 to be continued 〜


 







Euphurosyne