◆  5  ◆







 昼食を済ませると、林彼・・・いや、カナタとサラームは飃山の頂上にある神殿へと向かった。
 人間の足なら、庵から歩いて6時間ほどはかかるだろうか。
 そんな険しい道のりを二人は苦もなく進み、間もなく神殿に至る。

 一口に『神殿』と言うが、これは飃山にある四つの神殿の総称である。
 西岳には惶帝の『夜の神殿』、南岳には湟帝の『水の神殿』、東岳には煌帝の『太陽の神殿』、そして建築物はないが、万年雪に覆われた未踏の北岳を母皇の『大地の神殿』とし、その四つの神殿を取り囲むように、飃山の西岳から東岳に至るまでを神職達が住んでいた『街』が連なる。
 それらすべてをして『飃山の神殿』と呼んでいるのだ。

 今はもうネズミ一匹いない死の街を抜け、二人は南岳の頂上にある湟帝の神殿に入った。
 そこは、無人ではあったが少しも荒んだ感じはしない。
 薄暗く、ひんやりとした石の神殿の床には、滑らかに磨かれた翡翠色の大理石が敷かれ、二人の足音が遠くまで反響する。同色の大理石を貼る壁には、神話の場面が描かれた色鮮やかな綴れ織が幾枚も下がり、一面に緻密な浮き彫りを施した天井を青金石(ラピスラズリ)の柱が支える。
 明り取りの大きな窓には、蒼く透き通る硝子がはめ込まれ、零れ落ちる陽光さえも蒼く染まった。
 まるで海の底にいるような、美しく蒼い神殿。
 だが、二人は華麗な装飾には全く関心を寄せず、無言で奥の間に至った。
 黄金で装飾された、両開きの大理石の扉。
 二人はそれぞれ取手に手をかけると、重い扉を滑らかに押し開いた。
 ざぁぁぁ・・・・・。
 数百人が一度に入れそうな広大な部屋は、水の流れつづける音に満ちている。
 「・・・相変わらず湿気臭い部屋だぜ」
 サラームが、この壮大な部屋の設計者が聞いたら憤死しそうな感想を述べて、鼻の頭にしわを寄せた。
 この部屋は、扉を除くすべての壁が壁泉(へきせん)になっており、天井近くから流れ続ける水で覆われている。
 水の支配者・湟帝の祭祀を行うにふさわしい水の間だが、水壇に流れ落ちる水の音にかき消され、外に声が漏れる事がないため、実際には祭祀よりも密談に使われる事の多い部屋だった。
 そして今も・・・。
 「ここにいるのが人間じゃないってだけでやることは同じだな」
 「私は人間だよ」
 サラームの言葉を、カナタが苦笑して訂正する。だが、サラームはそんな彼を鼻で笑った。
 「死にもせず、年もとらないクセに人間か?」
 「少なくとも、人間の心はまだ持っているつもりだよ」
 ひっそりと微笑むカナタを、わずかに高い所から見下ろしてサラームは正面に向き直った。
 「・・・精霊になる気はねぇってか」
 最奥の壁に刻まれた湟帝のレリーフを見つめてつぶやく。
 「じゃぁ、今回もお前は『人間側』だな」
 サラームが口の端を曲げるのを、カナタは軽く首をかしげて見上げた。
 「当然だよ。第一、私がなんの精霊になれるんだい」
 「俺が引き取ってやってもいいぜ?」
 にやりと笑って、サラームは片目をつぶってみせる。
 「火精に?麗華に嫌われてしまうじゃないか」
 カナタが冗談じゃないよ、と笑った。
 「それに、煌帝陛下の元を出奔した火精王の配下なんて、ぞっとしないよ?」
 「へっ。出奔した側にだって、言い分はあらぁな」
 サラームが軽く指を鳴らすと、細かな紅い光が散る。
 それらはふわりふわりと舞い上がり、四方に散って薄暗い室内を明るく照らし出した。
 「とっとと着替えてきやがれ。俺に見劣りしない程度にはめかして来いよ」
 「君に言われたくないよ・・・」
 洗いざらしの服に履きこんで柔らかくなった靴、伸びかけた赤い髪を無造作に束ねたサラームと、襟の高い神官服をきちんと着こなし、髪をきれいにとかしつけているカナタとでは、好感度を比べるのも愚かだろう。
 しかし、カナタは彼の本当の姿を知っている。
 毅く神々しい炎の支配者の姿を。
 「部屋の用意、任せていいかい?」
 「ああ」
 それだけ言うと、カナタは水の間を出て別室に向かった。


 この神殿は、カナタが神官の一人として長年棲んでいた所だ。
 彼はこの神殿に送られた王族達に仕えるふりをして、ここに棲み続けた。しかし、実際に彼に仕え、ここにつなぎ止めていたのは南薔国王を初めとする南薔の王族達だったのである。
 彼の存在は南薔の王族だけに伝えられ、絶対の秘密として高位の神官にも、彼の正体を知る者は数人しかいない。
 カナタにとって、南薔国の王達は便利な存在だった。
 精霊王達と通じる彼の意思を、絶対的な権力をもって遂行する者達。
 しかし、その彼らの力も今、民によって確実に削がれつつある。
 ―――― この山を、何も知らない民に渡すのはまだ早い。
 そう判断したカナタは、伽羅(カーラ)王の従妹であり、この山の神殿に巫女として送られてきた璃羅(リラ)を通じて、少しずつこの山に住む神職達を減らしていった。
 そしてとうとう、この飃山の神殿を人のない廃墟にしてしまったのだ。
 カナタは数年前、璃羅(リラ)が山を降りた時に自らも付き従うふりをして、南薔の王宮に入った。
 現国王・縷璃(ルリ)と王世子・愛綸(アイリーン)には、そのときに話を通してある。
 少なくとも愛綸の治世が終わるまでは、この神殿に人は入らない・・・。
 『これで、ここで何があっても人間を巻き込むことはない・・・』
 カナタは神殿内にある彼専用の部屋で湯浴みを済ませると、水の支配者への礼儀として、青い衣装を取り出して身につけた。
 鏡の前に立ち、真珠の飾りボタンを一つずつ留めていると、
 『素敵よ  私のカナタ』
 頭の中で女の声がする。
 「・・・これは、君が言ってくれてるのか?それとも、私が君の声を想像してしまったのかな?」
 鏡の中の表情が和んだ。
 『あなたが自分で? ありえないんじゃない?』
 鏡に写るカナタの首に、白い女の腕が柔らかくからんだ。
 『・・・本当に素敵  あなたには青が一番よく似合う』
 鏡越しにうっとりと彼を見つめる蒼い瞳。癖のない長い髪が、カナタの肩を滑り落ちる。
 「ありがとう、麗華」
 鏡越しに微笑を返して、カナタは蒼い薔薇の精霊の手を柔らかく握った。
 「公主がお見えになるんだ。礼服でお迎えしないと無礼だよ?」
 たしなめると、
 『見て! この間王宮に行った時に見た衣装よ』
 くるりと身を翻して、実体を持たない精霊は、蒼く透き通る衣装をひらめかせた。
 ゆっくりと振り向いて、彼女の姿を見たカナタは、苦笑して首をかしげた。
 「随分と胸元の開いた衣装だね。袖もないし、公主の御前に出るにはふさわしくないと思うよ?」
 『そう? じゃぁ  髪を結い上げてヴェールで覆うわ』
 蒼く美しい髪をなまめかしくかきあげた次の瞬間には、彼女の髪は結い上げられ、金糸で刺繍された白いヴェールが背中までを覆っていた。
 「・・・麗華。公主にお会いするんだよ?襟を高くして、袖をつけなさい」
 『カナタ・・・』
 甘えるような声。
 だが、彼は首を振った。
 「君が困るんでしょう?」
 そう言うと、麗華はしぶしぶうなずいて、ヴェールを払った。
 『これでいい?』
 麗華がカナタの前に立ち、軽く両腕を広げた。
 金糸の刺繍で縁取った蒼い衣装は、細い身体の線に沿って流れ、腕と襟元はさざなみのように白く細かなレースで覆われている。
 美しく結い上げた髪には、ヴェールの代わりに真珠をちりばめた細い銀冠。
 「さすが私の麗華。とても綺麗だよ」
 にっこりと微笑むカナタに、麗華は苦笑する。
 『今どきこんな衣装着てる女(ひと)なんていないわ  せっかく王宮ではやりの衣装を見てきたのに』
 「じゃあ後で、サラームと依坤(イコン)に見せてあげたら?」
 クスクスと笑うカナタに、麗華は盛大に眉をしかめた。
 『武骨者とおじいさんに見せてどうするのよ!  さっきのあなたと同じこと言うに決まってるわ!』
 腰に手を当て、大声で抗議する麗華をなだめるように、カナタは軽く両手をあげた。
 「ごめん。後で私がゆっくり見てあげるから、公主の前ではその衣装でいるんだよ?」
 『わかったわ  その代わりあなたも綺麗な水精達に目を向けないでね?  そんなことしたらすぐにさっきの衣装に替えてやるんだから』
 「それは気をつけないとね」
 そう言って、カナタはいたずらっ子のように笑う麗華の手を取る。
 「さぁ、戻って」
 『また後でね  カナタ』
 名残惜しげに微笑んで、麗華はカナタの唇に軽く口づける。
 すると、まるでカナタの影の中に沈むように、麗華の姿は消えてしまった。
 「・・・ちょっとゆっくりしすぎたかな」
 部屋の外からふわりと流れてきた花の芳香、そして暖かい空気を感じて、カナタは椅子に掛けていた青いマントを取った。金糸で縁取られた、足元まで覆うそれを器用に肩に巻きつけると、真珠の飾りピンで留める。
 足早に部屋を出ると、花の香りが濃くなった。
 大理石の回廊には各所に色鮮やかな花が飾られ、幾人もの華やかな衣装を着た女達が長い裾を優雅にさばいて立ち働いていた。窓の外を見ると、紅い鎧に身を包んだ精悍な兵士達が槍の穂先を日にきらめかせ、警護にあたっている。
 彼らはサラームが呼び集めた木と火の精霊達だった。
 水の間に至ると、カナタは水の間の中央に背を向けたまま立つ、炎の精霊王の隣に並んだ。
 「いつもそうしていればいいのに」
 「冗談だろ」
 カナタの言葉に、サラームは口の端を曲げた。
 鮮やかな紅い髪を肩に流し、引き締まった長身に金糸で飾った紅い鎧をまとう姿は、男の目から見てもほれぼれするものだったが、火精王は盛装よりも平服のほうがお好みらしい。
 『でも  私も火精王には鎧が一番よくお似合いだと思いますわ』
 カナタの影から、ふわりと蒼い精霊が現れる。
 「よぉ、お嬢ちゃん。そう言ってくれるのは嬉しいがな、俺は堅苦しいのが嫌いなんだ」
 『煌帝陛下の将軍であられたのに』
 「それが嫌で出て来ちまったんだよ――― お前はよく耐えてられるもんだな、風精王?」
 無人の奥へ向かって呼びかけると、
 『――― お前とは出来が違うんだよ』
 『水の間』の奥からやわらかな風が吹き寄せ、壁泉を幔幕のようになびかせた。
 「元気だったか、トカゲ野郎?」
 現れたのは長身の女。銀糸で飾った鎧を身にまとい、ゆったりと波打つ長い髪を結いもせず背中に流している。
 「なんだ。今日は女なんだな、アホウ鳥」
 金色の瞳をきらりと光らせて、サラームが応じた。
 「男が良かったのか?変態の根性なし」
 いっそ晴れやかとも言うべき笑顔で女は答える。
 「紳士だからな。どんなブスでも女は殴れねぇだろ、辞める度胸もない臆病者」
 二人は朗らかに声をあげて笑う。
 「今日は店はどうした?とうとうつぶれやがったか」
 「今日はキセルはどうした。いまさら禁煙かよ?」
 「・・・食中毒でも出してつぶされたんじゃねぇのか?」
 「・・・とうとう頭ン中までヤニで真っ黒になったんじゃねぇか?」
 ふふふふふ・・・と、不気味に笑いあう精霊王達の隣で、カナタと麗華はにこにこと様子を見つめている。
 やがて。
 どちらともなく手が上がり、ガッと派手に鎧を鳴らして二人は腕を組んだ。
 「よくきてくれた、火精王。礼を言う」
 「俺の方こそ、またお前と共に戦えることを感謝する」
 互いの目を見つめ、再会の喜びに抱き合う二人・・・。しかし、
 「あいっ変わらず暑苦しい奴らだのう!」
 感動の再会シーンも、無情な子供の一声にあっさりと水を差されてしまった。
 「これだから武人と言うのは好かんのだ。仲が良いのか悪いのかはっきりせい!」
 非常にご機嫌斜めな様子で、足音も高く水の間に入ってきたのは、神官の盛装姿もかわいらしい依坤(イコン)少年。
 「これはこれは地精王。お元気そうで何より」
 にっこりと微笑んで手を胸に当て、会釈する風精王に、依坤は鼻を鳴らした。
 「今日は『エアリー』か。全く、会う度に姿を変えおってめんどくさいやつじゃ。男か女かはっきりせいよ、おぬし!」
 風精王はいくつもの名と姿を持つが、女の姿のときは『エアリー』、男の姿のときは『シルフ』と名乗る事が多い。
 しかも、どちらの性でいる時も、髪の色・瞳の色・顔の形や身長・年齢まで自由に変えてしまう、精霊の中で最も特徴的で最も掴みどころのない精霊なのだ。
 「依坤、なんだか機嫌悪そうだけど、どうかした?」
 カナタが苦笑しつつ問うと、依坤は目の端に涙をにじませて彼を下から睨み上げた。
 「サラームの馬鹿たれが、わしの分の夕食を用意しておらんかったのだ!!」
 「・・・は?」
 思わず間抜けな声を出してしまったカナタに、依坤は更にいい募る。
 「だから!!作りおきの夕食じゃ!!食べてからこちらに来ようと思っておったのに、サラーム!!おぬし、わしの分を作っておらなんだな?!」
 「ったりめーだろ。用意してたら、てめー、いつまでも食ってるじゃねぇか!」
 「わしが飢えて死んだら絶対呪ってやるからな!!おぬしが足を下ろす大地には呪いが満ちておると思え!」
 「縁起の悪ぃジジィだな!!今殺るか?あぁ?!」
 「・・・はいはい。いい加減にしなさい、二人とも」
 呆れつつ制すカナタだったが、聞く二人ではない。
 「こやつが悪いのだ!!育ち盛りのわしを飢え死にさせようとして!!虐待じゃ!」
 「このクソジジィが!!誰より先に生まれたクセに、もうボケたか?!」
 「――― いい年をしてみっともない」
 低く、囁くようなカナタの声に、二人の精霊王は思わずビクリと震える。その身体には、いつの間にか鋭い刺のついた薔薇の蔓が巻きつき、彼らの衣服にゆるくしわを寄せていた。
 「精霊王たる身分を自覚しなさい?」
 にっこりと笑うカナタに、サラームも依坤も、ものすごい勢いで何度もうなずいた。
 「よろしい」
 カナタが言うと、蔓はまるで意思を持つ蛇のようにするするとほどけ、カナタの影の中に消えていった。
 「二人でいると無敵だな」
 くすくすと笑いながら風精王がいう。
 華綾によって身体を失って以来、蒼い薔薇の精霊・麗華はカナタと共にある。
 口の悪い依坤あたりに言わせると、『水精王が手を出せない唯一の人間に取り憑いて、魂魄までも滅ぼそうとしていた華綾からうまく逃げだした』ということになるが、二人が永い間共にいるうちに、互いの力を高めて行ったのは確かだ。
 「わがままで有名な地精王と火精王の二人を、よくぞここまで手なずけたものだ」
 自分のことは飃山の向こうに追いやって感心する風精王に、カナタの肩にじゃれ付きつつ麗華が微笑んだ。
 「愛ゆえですわ  風精王」
 「あっつー!暑くておじさん、発火しちゃう!」
 ぱたぱたと片手で顔を仰ぎつつ言うと、サラームは突然、陽炎のように揺らめく透明な高温の炎を全身にまとった。
 「ぎゃ!!!いきなり何するか、馬鹿者が!!!」
 驚いた依坤が慌てて飛びのく。
 「こうでもしねぇと、俺が辛いんだよ」
 ふる、と赤い髪を振って、やっと人心地ついたようにサラームは息をついた。
 と、先ほどサラームが部屋に放った明かりが次々と消えていく。
 気づけば、水の間にはもやが立ち込め、空気は彼らの衣服が重みを増すほどしっとりと濡れていた。
 「――― お出ましだ」
 サラームの声に、みな一斉に口をつぐんだ。
 ボウ・・・と、投影された映像のように、水の幕に美しい水精達の姿が映る。
 そして正面、一際高くなった水の祭壇の上に、その精霊は現れた。
 湟帝の血を引く唯一の精霊、水精王・澪瑶(れいよう)公主。
 氷のような白い肌を覆うように、青みを帯びた銀色の髪が足元にまで流れる。海の底と同じ色の瞳がゆっくりと巡ると、精霊王を除くすべての精霊達は、手を胸に当て、公主の前に深く膝を折った。
 「澪瑶公主・・・」
 精霊王達も、公主の前では手を胸に当て、深く首(こうべ)を垂れる。
 公主は淡い蒼の衣装を優雅になびかせ、祭壇より下りて精霊王達の前まで進んだ。
 「礼を免じます」
 耳に心地よい声で言うと、公主は精霊王達には顔を上げるように、カナタと麗華には立つように促す。
 そして改めてサラームと依坤に向き直ると、二人の前に深く膝を折った。
 「火精王、地精王。お越しいただき、感謝いたしします」
 「挨拶は結構。さっさと話を進めてもらいましょうかな」
 不遜に言い放つ依坤に、公主は機嫌を損ねる様子もなくうなずいた。
 神である湟帝の血を引く澪瑶公主は、身分的には惶帝の神子・玄冥(げんめい)太子と同じく、どの精霊王よりも身分は上である。しかし、地精王であり、惶帝の太師でもある最も古い精霊、依坤には敬意を払わないわけには行かない。
 依坤は公主に立つよう促すと、そのまま無言で手を振って、居並ぶ精霊達をすべて下がらせた。
 水の間の厚い石の扉が閉ざされると、室内には水の落ちる音のみが満ち、すべての声をかき消す。
 「さて、何か進展しましたかのう?」
 「・・・残念ながら」
 眉をひそめる公主に、依坤はいまいましげに鼻を鳴らした。
 「馬鹿太子が・・・。惶帝陛下はどのように?」
 「この件に関して、惶帝陛下は口をつぐんでおいでです」
 公主の言葉に、依坤はあからさまに肩を落とした。
 惶帝は闇と死を統べる女神である。
 母皇が産んだ最初の神である惶帝は、無口だが思慮深い女神で、すべての精霊に先んじて創った地精、依坤を深く信頼し、その言をよく用いて夜の世界を治めた。
 惶帝が産んだ神子、闇精王・玄冥(げんめい)太子も、闇精王の地位を得た当初はよく母を助け、夜の世界を治めていた。
 しかし今では、母から受け継いだ力をもって他の精霊を圧迫し、横暴にも自らの領地を広げつつある。
 依坤は幾度となく太子を諌め、惶帝に訴えたが、受け入れられず、とうとう一族を率いて惶帝の元から離反したのだった。
 「わしが離反することによって、少しはお考えも変わるかと思ったのじゃが、無駄だったようだのう・・・」
 「公主、煌帝陛下はこの状態をなんと・・・?」
 サラームが、彼らしくなく歯切れの悪い口調で尋ねる。
 そんな彼に、公主は瞳を伏せて首を振った。
 「・・・わたくしには、煌帝陛下のお気持ちは察しかねます」
 「・・・相変わらずですか」
 サラームは肩を落とし、深く息をついた。
 彼も元は、火と光の神・煌帝によって創られ、日の昇る地を守護する将軍だった。
 しかし、煌帝は自らが作り出した美しい光精王・耀妃(ようひ)の色香に惑わされ、下界をまったく省みなくなってしまった。
 享楽におぼれる主人に嫌気が差したサラームは、煌帝の元を出奔して下界に降り、彼を慕う火の一族もまた、次々と下界に降りてきたのである。
 そのおかげで人間は天上の火を手に入れ、その力を使ってさまざまなものを作り出すことを覚えたという。

 「湟帝陛下は、闇精王の無体を憂慮しておいでです」
 ぽつりと、澪瑶公主がつぶやく。
 『湟帝陛下が』とは言ったが、実際に憂慮しているのは彼女自身だろう。
 彼女は以前、闇精王に囚われ、長い間彼によって幽閉されていた。
 水精王である彼女がいない間、世界中の水は涸れ、大地は乾いて、すべての生き物は飢えと渇きに苦しんだのである。
 「二度とあのようなことがあってはならない」
 常に飄々としてつかみ所のない風精王も、この時ばかりは表情を厳しくした。
 澪瑶公主が囚われていた時、この風の支配者も飃山に繋がれ、乾いた土地にわずかばかりの雲を送ることしか出来なかったのだ。
 「地精王、火精王。この風精王からもお願い申し上げる。一時湟帝陛下の配下となり、澪瑶公主を助けて欲しい」
 二人の前に膝を折ろうとする風精王を、サラームがとどめた。
 「結局頼りになるのは湟帝陛下のみ。俺の心は最初から決まってたさ」
 言うと、彼は腰に下げていた剣を鞘から抜き放った。
 そして留め金をはじいてマントを外すと、刃を丁重にくるんで澪瑶公主に捧げる。
 うなずいて剣の柄を持った公主は、自分の前に跪き、こうべを垂れる火精王の肩に剣の峰を当てた。
 「火精王・サラームは、我が一族と共に澪瑶公主に従い、湟帝陛下に忠誠を尽くすことを誓います」
 「許します。ありがとう・・・」
 厳かに宣誓を受け入れた後、心から安堵したように礼を添える公主を、にっと笑って見上げると、サラームは立ち上がり、捧げた剣を改めて受け取った。
 「美女のお役に立てるなら本望」
 剣をすらりと鞘に収め、マントを炎に変えて消してしまうと、サラームはことさらに恭しく手を胸に当ててこうべを垂れてみせた。
 「・・・ふん。調子のよい奴じゃ。一族の去就をあっさりと決めおって」
 「長考したからっていい案が出てくるとは限らねぇだろ?結論が同じなら、時間を取るだけ無駄さ」
 皮肉たっぷりに言うサラームに、依坤は鼻の頭にしわを寄せた。
 「馬鹿め。頭領が真剣に悩んで考えた結果と思えばこそ、一族はついてくるのじゃ。たとえ結論が一緒だろうと、ちゃんと考えた振りをするのが長というもんじゃよ、若いの」
 誰よりも幼い顔に老獪な笑みを浮かべて、依坤がサラームを睨みあげた。
 「・・・では地精王、あなたもわたくしにお味方下さいますか?」
 ふたたび依坤の前に跪き、胸に手を当てて目線を合わせる澪瑶公主に、依坤は鷹揚にうなずいてみせた。
 「玄冥太子の野望は愚かじゃ。一族をあげてお止めするのが冥府の太師たるわしのつとめだろうのう」
 「・・・もったいぶりやがって、クソジジィが・・・」
 「何か言ったかのう、ひよっ子?」
 にっこりとサラームに笑みを返すと、依坤は公主に立つよう促し、その手を取った。
 「これよりわしはあなたの臣となる。ただし、それは我と我が一族があなたを正しいと信ずればこそ。あなたが道を外れた場合は、ためらいなく離反することをお忘れなく」
 「心得ております」
 厳かに公主が答える。
 「地精王・依坤。精霊の長老の名にかけて約定はたがえぬ」
 依坤が公主の手の甲に軽く口付けた。
 「火精王、風精王、そしてカナタと麗華が証人じゃ」
 「私もおります、地精王」
 そこへ、石の扉を開く気配もなく現れた華綾が、青白い神官の衣装をふわりとなびかせ、公主の前に跪いた。
 「澪瑶公主」
 こうべを垂れる華綾を、慈愛に満ちた目で見つめると、公主は彼に立つよう促した。
 「・・・では、華綾にも証人に加わってもらおう。精霊の長老たる地精王・依坤。澪瑶公主にお味方する」
 「感謝いたします・・・!」
 もう跪くことはなかったが、公主は依坤の手を強く握り、深くこうべを垂れた。




〜 to be continued 〜


 










ここに登場する『水の間』は実在します。
大昔の記憶なので、イタリアのどこかとしか覚えてないんですが、密談用の部屋として使われていたそうです(^^)
そして、このお話で重要な役割をする精霊達もほぼそろいました。
なんと林彼(リンカ)師は狐憑き!ではなく(死)、精霊に取り憑かれておられるのです;
林彼師に取り憑いている『蒼い薔薇の精霊・麗華』は、前の回で英婁氏が紹介していた、華綾に殺された姉の精霊でございます。
なぜ林彼と麗華がこんな状況になってるのかは、いつかでてくるでしょう。(おい;)












Euphurosyne