◆  6  ◆







 誰もいなくなった水の間に、壁泉から落ちる水の音だけが満ちる。
 「会いたかったわ・・・」
 華綾の白い頬を両手で柔らかく包んで、澪瑤(れいよう)公主はひざまずく彼に深く口づけた。
 長い銀の髪が降り注ぐ雨のように、華綾の肩に、身体にからみつく。
 「早くこんな諍いなど終わらせてしまいたい・・・そうすれば、またあなたと一緒にいられるのにね・・・」
 お気に入りの人形にするように、公主はその白い頬を寄せ、包み込むように華綾を抱きしめた。
 「・・・おそれいります」
 感情のない声。しかし、それは他の者に対するよりは幾分柔らかかった。
 「麗華は、相変わらずあなたの前には現れないようね」
 カナタと並んで公主を迎えた麗華は、華綾が現れるや、慌ててカナタの影の中に隠れてしまった。
 「・・・まだ、殺せずにいるのね」
 「申しわけございません」
 華綾は、耳元で囁かれる冷たい声に震えもせず、淡々と応じる。
 「あの子だけは許せないの・・・」
 公主の、華綾を抱く腕に力がこもる。
 「わたくしと闇精王の事をお父様に密告した・・・。絶対に許すものですか・・・!」
 麗華は公主を陥れようとしてその秘密を打ち明けたわけではなかった。
 公主が父惶帝に幽閉されたと知った後は、自らの罪をすすぐためにも、カナタと共に公主救出に尽力したのだが、誇り高い公主はその程度では怒りを治め得ない。
 純粋にこの世界のために、自分を救ってくれたカナタの手前、怒りを治めたふりをしてはいるが、その心の奥底では未だに彼女への怒りがこごっている。
 「・・・公主・・・」
 怒りに震える肩をなだめるように、華綾が公主の背に手を回した。
 「貴女は私に名と生命をくださいました。
 私は、あなたの望みはすべて叶えたいと思います」
 宣誓に似た厳かさで、華綾は公主に囁き返した。
 華綾と麗華は、元は同じ花。
 人で言うならば、姉弟と言うよりは同じ人間と言った方が正しい。
 華綾はそんな自分の半身をも、公主のためには切り捨てるというのである。
 「綾なす華々よりも美しい、わたくしの華綾・・・。
 この諍いが終わったら、絶対にあなたを薔族の長にしてあげるわ」
 いとおしげに、公主が囁きを返す。
 薔族は、木精達の聖地である『玉華泉』の中でも、有力な一族である。
 しかし、この一族の長の位は、未だに麗華のもの。
 木精王・美桜(ミオ)が、麗華の死と華綾の存在を認めていないがゆえである。
 「でも、この戦で功を成せば、いかに木精王といえども、あなたを長に据えぬわけにはいかないでしょう・・・麗華はもう身体を持たないのだものね」
 ふふ、と、うれしげな声をあげて、公主は華綾の手を取り、立ち上がらせた。
 「帰りはあなたも護衛してくれるのでしょう?早く帰りましょう。
 渺茫宮(びょうぼうきゅう)へ戻ったら、久しぶりに髪を梳いてあげましょうね」
 少女のようにあどけなく微笑み、公主は華綾に手を差し出す。
 「お供いたします」
 華綾は恭しく公主の手を取った。


 「・・・カナタ、落ち着いてるか・・・?」
 まるで顔色をうかがうように、サラームが長い回廊の先を行くカナタの背中に問いかけた。
 「落ち着いてるよ」
 足早に歩きながら、カナタは振り向きもせず答える。
 「・・・かなり怒っておるな、あやつ・・・」
 そっとつぶやく依坤(イコン)に、風精王は思わず苦笑を漏らした。
 「カナタ、澪瑤公主の命(めい)は不本意だろうが・・・」
 「不本意だね」
 風精王の言葉をさえぎって、カナタは自室の前で立ち止まった。
 「あの方は全く変わっていらっしゃらない」
 扉を開けると、広い室内には煌々と明かりが灯っている。
 「あの方は、ご自身の目的のためなら手段を選ばないのだな・・・」
 明かりに照らされた彼の顔は、怒りに歪むわけでもなく、わずかに眉を寄せるのみである。
 だが、その静かな顔の下で、感情が嵐の海のように荒れ狂っていることなど、この場の誰にもわかることだった。
 「氷だっていつかは溶ける。石だって暖まると言うのに、あの方の心は一体何でできているのやら・・・」
 深く息を吐きながら、カナタは疲れた様子でずるずると肩からマントを引き剥いだ。
 「あの方は湟帝陛下の神子であると同時に、前水精王・淘(トウ)妃の御子でもある。誇り高さと気の強さは親譲りさ」
 湟帝に仕える将軍として、前水精王のことも澪瑤公主のことも良く知る風精王が、碧色の瞳に諦観を込める。
 「前にも話したけどな、淘妃はとても気の強い、嫉妬深い精霊で・・・自分が死ぬとわかっていて公主を産んだのも、それによって自分がいつまでも湟帝陛下の特別な存在となるためだった。
 澪瑤公主はそんな淘妃に似て、目的のためなら手段を選ばないところがある。今回の命も・・・公主らしいと言えば公主らしい命さ」
 「目的ね・・・。それも結局はご自身の復讐でしょう?」
 「カナタ」
 皮肉をこめたカナタの言葉を、依坤が静かに制した。
 「・・・失礼」
 目を伏せるカナタに、依坤はかすかにうなずく。
 「おぬしは常に『人間側』だから、今回のことを不本意に思うのも仕方はない。だが、わしらにとっては、公主の命は当然のことだと思う」

 公主がカナタに命じたこと。
 それは、南薔と南海の戦を長引かせ、人間達が北に・・・飃山に注意を向けないようにしろと言うことだった。
 「おぬしも人間がわしらの諍いに巻き込まれぬよう、神殿から追い出したのであろう?」
 「だからと言って、何も知らない人間達を殺し合わせるのかい?」
 冷えた瞳で見返してくるカナタの強い視線を、依坤はまっすぐに見上げた。
 「おぬしは『人間達』と言うが、おぬしの言う『人間』とは南薔人に限るのか?」
 「・・・なんだって?」
 「おぬしの守るべき人間は、いつも南薔におる。いや、南薔の王家に、と言うべきかのう?」
 長椅子の上で行儀悪くあぐらをかき、頬杖をつく姿は幼くても、その翠色の瞳だけは異様なほど深く、老成している。
 「・・・私は、君達のようにすべてを慈しむことなんてできない。南薔を見守るだけで精一杯だよ」
 カナタの皮肉を込めた言葉を、最も古い精霊は軽く鼻先であしらった。
 「わしらは何も慈しんでなどおらん。ただ、この地におるだけじゃ」
 世界を支える地の王は、こともなげに言う。
 「人間には、わしらは感情的で計りがたい存在とみえるだろうが、それは違う。わしらほど論理的に動くものはいない」
 風も火も水も・・・ただ気まぐれにそこに在るのではない。
 どのように激しく暴れ、渦巻こうとも、そこにはそうなるだけの理由が、秩序が必ずある。
 「しかし玄冥太子は、その秩序を狂わせておる。
 おぬしはこの諍いを澪瑤公主の復讐だと言うが、わしは一精霊の復讐に一族をあげて協力してやるほど優しくはない。
 世界の秩序が狂うのが、どうも居心地が悪くてならんゆえに、公主に味方するのじゃ。
 このまま玄冥太子に好き放題させるわけにはいかんからのう」
 「でも私は、戦を長引かせるなんていやだ!」
 「わがままを言うでないわ」
 「わがままで結構!」
 『カナタ  落ち着いて?』
 思わず声を荒げるカナタに、麗華も彼の影から現れて制する。
 「そうじゃ、落ち着け。
 風精王も言っておっただろう?澪瑤公主は、目的のためなら手段は選ばぬお方じゃ。
 おぬしがいやだと言うなら、華綾がやるだけのことじゃよ」
 カナタは声を失った。
 同じく『戦を長引かせる』という目的で動くとしても、カナタと華綾ではやり方が異なる。
 できるだけしこりを残さぬように動くカナタと違い、華綾は後のことなど全くお構いなしに、淡々と仕事をこなすだろう。
 そうなれば、たとえ戦が終わったとしても、南薔は『怨恨』という、癒しがたい呪いを受けることになるのだ。
 「・・・これが不死の代償か?」
 カナタは呆然とつぶやいた。
 望んで得たものではない。
 いくつもの偶然が重なって、麗華と出会い、冥府に囚われていた公主を解放した。
 その礼として、公主はカナタから『肉体の受けるすべての苦しみを除いた』のだ。
 「嫌ならやめてもよいのだぞ?わしらが傍若無人に振舞うのをただ見ているがいい」
 意地の悪い笑みを浮かべる依坤を、カナタは激しく睨みつけた。
 「そんなこと、できるわけがないと知っていて・・・!」
 「だったら頭を使え、アホウ」
 悠然と腕を組み、鼻で笑う。
 「何度も言うておろう。公主は目的のためなら手段を選ばん。
 十と言う答えを出したければ、足そうが引こうが結果が同じであればよいのだ。
 ――― 戦が嫌なら和平を取りもってやればよかろう」
 「・・・依坤?」
 呆然とするカナタを見上げて、依坤はにやりと笑った。
 「要は、誰も北を見ぬようにすればよいのだ。見せるのは南でも東でも西でもかまわん。
 むしろ、東西を巻き込んで南に注目を集めてはどうだ?」
 「そうか!西桃国か東蘭国に仲裁を頼めば・・・!」
 思わず声を上げるカナタに、依坤はサラームがするように軽く片目をつぶって見せた。
 「思わせぶりな態度は、南薔の最も得意とするところであろう?和平交渉で戦を中断させ、いくつかよい条件を出しつつじっくりと戦を治める方向に持って行けばよいではないか。
 それと同時に、各国の新聞社を煽って、南に目を向けさせるのを忘れるでないぞ?」
 「さすがジジィ・・・老獪だぜ」
 感嘆の声をあげるサラームを、依坤は鼻を鳴らして一瞥した。
 「おぬしらがアホなだけじゃ」
 すぱんっ!
 思いっきり馬鹿にしたセリフに、サラームは無言で依坤の頭をはたいた。
 「何するか、無礼者!!」
 「やかましい!!」
 長椅子から飛び降り、蹴りを入れてくる依坤の首根っこをつかんで、サラームは彼を子猫のようにぶら下げる。
 その横でカナタは、騒動を完全に無視して、頭の中で各国の主要人物の顔を次々に思い浮かべていた。

 「ここは・・・神職でないほうがいい。しかし、完全に神職を外しては角が立つな・・・。
 仲裁役には東蘭国の首相か西桃国の大統領・・・・・・」
 『私  西桃の大統領って嫌いだわ  南海に武器を売ってるんだもの』
 つぶやくカナタに、麗華が眉をひそめつつ言う。
 現在、西桃国に王はなく、民衆のみが支配する共和国になっている。
 現在の大統領は27代目だが、南海が南薔からの独立を願い、戦にいたるや、『民衆の味方』とばかりに南海を武力支援している。
 『そうだわ!  仲裁役は東蘭の首相にしましょうよ  東蘭の梯(テイ)王に命じさせて』
 麗華が胸の前で両手をあわせ、にっこりと微笑む。
 『梯王も  南薔の王と同じで実権はほとんど持たないけど  南薔の王家とは血縁だもの  純粋に『平和を願っている』という形が取れるでしょう?』
 東蘭も、西桃ほどではないが南海や南薔に武器を売り、戦場に食料を送っている。
 実権を持つ首相が仲裁に入れば、戦で儲ける武器商人などから圧力がかかるが、実権を持たない『王の命により』南薔と南海の戦の仲裁を『検討する』となれば、世論を味方につけることも可能だ。
 その際、仲裁役への礼として、南薔が南海の漁業権や貿易権を東蘭に少々譲ることも考えられる。
 「南海の利を目の前にぶら下げてやれば、釣れないことはない。さっそく縷璃(ルリ)に命じよう」
 カナタは、にっこりと笑みを浮かべて現国王を呼び捨てた。
 「都か・・・。私が最後に行ったのは、伽羅(カーラ)が生まれたときだったか?何十年前だったかな?」
 しなやかな指を顎にあて、軽く首をかしげて風精王が微笑んだ。
 「まだ100年はたってないくらいかな?伽羅が生きていたとしたら、いくつになるんだったか・・・」
 先代の国王までも呼び捨ててカナタが応じた。
 「100年か・・・。地上は結構変わっただろうな」
 『風精王・・・!  そうだわ  風精王ならわかってくださいますわよね?!』
 風精王のしみじみとした呟きを聞いて、麗華が思わず声を上げる。
 『見て下さいな!  王宮で流行っていた衣装ですの!』
 結い上げていた髪を解き、くるりと一転するや、麗華の衣装が変わる。
 袖も襟もなく、胸元の大きくあいた蒼い衣装は、細い腰の線に沿って長く足元に流れている。
 衣装自体に飾りはないが、真珠を長く連ねた首飾りを幾重にも巻いて、大胆ながら品のある装いだった。
 「ほう・・・。今は腰の細い女が流行っているのか。こんな感じか?」
 妙なところに感心して、風精王が身にまとっていたマントを引き剥がす。
 すると、鎧は消え、代わりに麗華の衣装に似た、白い衣装が現れた。
 だが、着ている者によって印象はだいぶ違う。
 麗華は、大胆に肩を出していても、まだおとなしやかな印象があるのに比べ、長身で武人らしく引き締まった身体の風精王は、思わず見つめずにはいられないほどの迫力がある。
 見事に盛り上がった胸と細い腰を強調するように、更に襟を下げ、腰のラインを細くしている。その上、両腿の上から切込みを入れ、長く容(かたち)のよい足が見えるようになっていた。
 『さすがですわ風精王!!  とっても素敵です!!』
 「そうか?少し地味だと思うんだが・・・」
 自分の姿を大きな鏡に映しつつ、風精王は軽く自分の髪を持ち上げた。
 「飾りは金色の方がよくないか?」
 そう言ううちに、波打つ褐色の髪が見事な黄金に変わり、首飾りや耳飾、腕輪などが美しい彫金を施された金細工に変わっていく。
 「目の色はなんにしようか?」
 『青にしてくださいな!  きっとお似合いですわ』
 大喜びする麗華の横から風精王の姿を見て、サラームが思わず息をつく。
 「・・・またど派手な姿だなぁ、おい。そんなカッコで地上に行ったら、目立ってしょうがねぇだろ」
 「ああ・・・それもそうだな。下は戦をしているんだったな」
 風精王は美しく化粧を施した顔で振り向いて、サラームに軽くうなずくと、再び鏡に向き直った。
 「だったら兵の格好をしていたほうが目立たないか」
 戦地は南海だが、都にも殺伐とした雰囲気が漂い、今では都中を、多くの兵達がうろついている。
 『・・・せっかくお綺麗なのに』
 残念そうに言う麗華へ、風精王は鏡越しに笑みを送った。
 「南薔の人間は、大体が肌の色は濃かったな」
 彼女の白い肌の色が、だんだんと濃くなっていく。
 「背も、もう少し高いほうが兵らしいかな?」
 ただでさえ高い身長が更に伸びた。
 「そうそう。兵ならば筋肉もなければいかん」
 剥き出しの腕に、筋肉が盛り上がっていく。
 「こんなカンジでどうだ?・・・って、おい」
 太い首をめぐらせて振り返った視線の先には、誰もいなかった。
 「何を床に這っているんだ、お前達?」
 たくましく引き締まった腰に筋肉の盛り上がる腕をあて、高い位置から見下ろしてくるごつい女を、依坤は思いっきり睨み上げた。
 「脳まで筋肉か、おぬし!!」
 「おかしいですか?」
 さやかな衣擦れの音と共に依坤の前にひざまずき、まじめに聞いてくる風精王に、依坤は全身の毛を逆立てた。
 「おかしくないと思っておるのか、おぬしはぁ!!!」
 背を丸め、フーッ!と威嚇までするその姿・・・。
 カナタはその小さな茶色の動物に思わず苦笑を漏らす。
 「依坤・・・猫になっちゃってるよ・・・」
 「困ったな。また地精王を怒らせてしまった。カナタ、この姿はそんなに変か?」
 触ると間違いなく引っ掻かれるので、依坤と少々距離をおいて、困ったように聞いてくる風精王にも、カナタは苦笑を返した。
 「・・・そんなに筋肉隆々の女の人って、滅多にいないから・・・」
 「おお、そうか!男だったらいいのだな!」
 ぽんっと手を打つ風精王の声に、床に付していたサラームが飛び上がって絶叫した。
 「やめろ!!!男にだけはなるんじゃねぇ!!」
 しかし、風精王は聞かなかった。
 「確かに男の方が便利だな」
 立ち上がり、風をまとう。
 「ふ・・・風精王!私は男になってほしいなんて言ってないよ!!」
 カナタも慌てて止めるが、遅かった。

 「あっらー!どうしてぇー?だって、男の方が便利なんでしょぉん?」
 長い金髪を太い指に絡めつつ、ごつい喉仏をうごめかして発せられた野太い声は、おぞましいなどというものではない・・・。
 カナタは思わず声にならない悲鳴をあげ、顔をそむけた。
 「やんっ!カナタちゃんったら冷たいのぉー!」
 カナタの頬を挟み、強引に自分の方へ向かせると、風精王はその額に口付けた。
 「久しぶりに会ったのにー!なんでアタシだといけないのぉー?」
 硬直するカナタの身体を抱き寄せて、更に唇を寄せてくる風精王に、今度こそカナタは絶叫した。
 「麗華!!麗華ー!!」
 『カナタ!  大丈夫よ  ここにいるわ』
 麗華はすばやく二人の間に入ると、懸命に風精王から逃れようとするカナタを包み込むように抱きしめた。
 「やぁん!そんなに嫌がらなくっていいじゃなぁい。ひどいわぁ、カナタちゃんったら」
 傷ついちゃう、と、悲しげに身をよじる風精王に、
 「せめて・・・服代えねぇか・・・?」
 サラームが、床に敷かれた豪華な絨毯の刺繍に視線を集中させて、息も絶え絶えに言う。
 「えぇー?ひらひらしてて好きなのにぃ」
 ふわりと白い衣をひらめかせ、優雅に舞う姿は、さすがに風の王だけあって軽やかで美しかったが、その容姿は拷問に近い・・・。
 「・・・風精王!!」
 頼むから、と哀願するサラームに、風精王は『うふっ』と笑って片目をつぶった。
 「シルフって呼・ん・で♪」
 ・・・撃沈。
 「・・・依坤、後は頼んだ」
 ぱたり、と床に倒れたかと思うと、見る見るサラームの身体が消えて行く。
 彼がいた場所には、代わりに紅く小さなトカゲが現れ、ちょろちょろと部屋の隅に逃げていった。
 「・・・待てい!」
 たしっ!と前足を伸ばして、茶色の猫がトカゲの尻尾を捕らえる。
 「おぬし、自分だけ逃げるつもりか?」
 「放せー!!!シッポが抜ける―――!!!」
 わたわたと足を動かすトカゲの背を、更にもう一方の前足が捕らえる。
 「逃がすか」
 猫の翠色の瞳が、恐ろしげに煌めいた。
 「カナタだって逃げてるじゃねぇかぁ!!!」
 泣きそうな声で哀願するトカゲに、猫が牙を剥く。
 「おぬし、それでも東方将軍か!」
 トカゲに噛みつこうとした瞬間、不意に依坤の体が浮き上がった。
 「もう!依坤ちゃんてばすぐ怒る」
 「放せ!気色悪い!!」
 手の中でじたばたと暴れる猫と目線を合わせ、風精王は悲しそうに眉を寄せる。
 「ひっどーい!なんでそんなにイジワルなのぉー?」
 ぷつり。
 依坤の理性が完全に飛んだ。
 「おぬし・・・」
 トカゲのサラームがその、地を這うような声におびえて、ちょろちょろと部屋の隅に逃げて行く。
 「おぬし大概にせいよ!!」
 叫ぶや、風精王の武骨な手指に囚われていた猫の胴が伸び、体中に茶色のまだらが浮き上がるヘビが、その腕を這いあがって首に絡みついた。
 「きゃ―――!!!いやぁ―――――――――――!!!!」
 魂まで消し飛びそうな気色悪い声を上げて、風精王はその首からヘビを引き剥がす。
 「嫌なのはこっちじゃ!」
 床に落ちたまだらのヘビは、鎌首をもたげ、威嚇音を発した。
 「アタシがヘビをキライだって知ってるクセにぃ―――!!!」
 風精王の泣きそうな声に、ヘビの依坤はふんぞり返って応じる。
 「知っておるからやっておるのだ!」
 そして更なる嫌がらせをと、うねうねと身をよじらせて風精王の足元に這っていく依坤に、風精王は再び恐怖に引きつった声を上げた。
 「やめて―――!!!」
 叫ぶや、風精王は鳥に変化して天井近くまで舞い上がった。
 「ひどいわ!なんでそんなにイジワルなのよ!!」
 低い女の声ともとれる声で、白い鳥が抗議する。
 「おぬしが不気味なのが悪い!!」
 容赦のない一言と共に、依坤が元の姿に戻った。
 「せめてもっと見栄えの良い格好をせい!!」
 「・・・仕方ないわね」
 白い鳥はふわりと舞い降りると、男の身体ではあるが、『エアリー』とそっくりな美青年の姿に変わった。
 しかし、衣装はひらひらした白い巫女の服である・・・。
 「アタシ、この顔嫌いなのよー。だって、エアリーってすっごくかわいくないんだもん」
 人間から見れば十分に美しい顔立ちなのだが、確かに『かわいげ』や『色気』のある顔ではない。
 「・・・その口調もエアリーと一緒にはできんのか?」
 いまいましげに言う依坤に、風精王はさも恐ろしげに首を振った。
 「イヤよ!女のクセに色気がないなんてサイテー!」
 「おぬしは男だろうが!!」
 依坤が思わず突っ込む。
 しかし、この変わり者の風精王は、『だからナニ?』と軽く応じた。
 「アタシの方が色気あるんだから仕方ないじゃない♪
 依坤ちゃんも、どうせ長い時間生きてるんだから、あんまり細かいこと気にしないほうがいいわよぉ」
 けらけらと笑う風精王に、依坤の目が剣呑な光を帯びる。
 「・・・またヘビに襲われたいか?」
 「い・・・いやぁ―――ん・・・・・・」
 冷や汗を流しながら、風精王が引きつった笑みを浮かべた。
 そんな二人のやり取りを見て、麗華はほっと息をつく。
 『カナタ  もう大丈夫みたいよ』
 「・・・ああ、怖かった・・・」
 深く息をついて、カナタがしみじみとつぶやいた。
 「なによ。失礼しちゃう!」
 「あのね、シルフ。筋骨たくましい男に迫られて、逃げない男はいないよ?」
 「だって、アンタってば迫りたくなるんだもの」
 さすがにむっとして言い返すカナタに、風精王はあっさりと言い返した。
 本当は、『麗華の他にも女はいるでしょう』と言ってやりたかったのだが、それは最大級の禁句である。
 「依坤ちゃんもかわいいけど、カナタはアタシの好みなの♪」
 珍しい物好きなのよぉー!と、けらけら笑う風精王に、もう返す言葉もない。
 「ところで珍しいものと言えば、今、アンタの家に普通の人間が来てるんですって?」
 どんな子?!と、興味津々に迫ってくる風精王に、カナタは身を引きつつ答える。
 「・・・そうだね。三十三歳だって聞いてるけど見た目は随分若いよ。茶色の髪と瞳で、笑ったらかわいいカンジかな?」
 『男性にしてはそんなに背も高くないし  雑種の犬みたいでかわいいんですのよ』
 すかさず麗華が補足した。
 どうにかして風精王の関心をカナタからそらそうとしているのがみえみえである。
 「きゃぁ!早く会ってみたいわぁ!!」
 麗華の思惑などとっくに見抜いていながら、風精王は無邪気に笑って見せた。
 「後は木精達に任せちゃって、早く行きましょう♪」
 言うや、風精王は軽く指を鳴らした。
 間もなくカナタの部屋に現れた木精に、
 「ここの後片付けをお願い。それと、水精王はもうお帰りかしら?」
 そう言ってにっこりと笑う。
 華やかな衣装をまとった木精は、巫女衣装に女言葉の風精王にひるむ様子もなく、完璧な笑みを返す。
 「承知いたしました。水精王はそろそろご出立なさるようです」
 「だ、そうよ、サラーム!帰りはアンタの部下が護衛してくれるんでしょぉ?」
 風精王はつかつかとサラームの側に歩み寄ると、その尻尾をつかんで、無造作に床の上に放りなげた。
 べちっとまぬけた音をたてて床に落ちたトカゲが、元の人型に変化する。
 「いってぇなぁ!もう少し優しくしてくれたっていいだろ!」
 「あぁら!ごめんなさーい!アタシ、好みじゃない男に優しくするほど寛容じゃないのよぉ」
 おほほほ・・・と手で口元を覆い、優雅に笑う風精王を苦々しく睨みつけながら、サラームは木精を下がらせ、部下の火精を呼んだ。
 「野郎ども!俺達が公主についたって知らしめるためにも、派手に護衛しやがれ!闇の奴らに負けんじゃねぇぞ!!」
 威風堂々と言い放つサラームの後ろで、風精王が軽く吹き出した。
 「えっらそー。さっきまでアタシにおびえてたくせに」
 「ケンカ売ってんのか、てめぇは!!」
 振り返りざまに胸ぐらをつかんでくるサラームを、風精王が懸命になだめる。
 「ごめんごめん!つい口が滑ったのよぉー。ゆ・る・し・て!」
 本人はかわいらしくウィンクしたつもりなのだろうが、容姿が変わってもそれは十分気味悪かった。
 「野郎・・・燃やす!!」
 「ほほほ!!できるものならやってごらんなさーい!」
 「やめんかい!」
 一触即発の二人の頭に、依坤が痛烈な一撃を浴びせた。
 背の高い二人に確実なダメージを与えるため、わざわざ椅子を運び、暖炉の火かき棒を用いての一撃である。
 「いくらなんでも頭割れるぞ・・・」
 「ひどぉい・・・髪の毛抜けちゃったら恨むわよぉ・・・」
 うずくまって頭を抱える二人を、冷ややかな目で見下ろして、依坤は鼻を鳴らした。
 「やかましいわ、アホどもが。
 ほらほら!おぬしらも見とらんとさっさと公主の護衛に行け!でかい図体しおって、暑苦しくてかなわんわ!」
 言うや、呆然と立ちすくむ火精達を、ばたばたと手を振って追い払う。
 「ほれ!おぬしらも行くぞ!
 ったく、年寄りを働かせおって・・・心労で殺す気か、この馬鹿どもが」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、うずくまる二人の長い髪を後ろ手に掴むや、ずるずると引きずって扉へ向かう。
 「いでで!!髪が抜ける!!抜けるー!!!」
 「やん!!痛い!!痛いー!!!」
 「重いわ、おぬしら!何か軽い物に化けんか!!」
 悲鳴をあげる二人に、理不尽な言葉を浴びせながら、依坤は見た目からは想像できない怪力で、大柄な二人を引きずって行ってしまった・・・。
 『・・・さすがにお強いわ』
 呆然と依坤の背中を見送る麗華の隣で、カナタが深々と息をついた。
 「・・・疲れた。
 もう一度ゆっくり湯に浸かって、考えをまとめることにする」




〜 to be continued 〜


 







Euphurosyne