◆  7  ◆







 後始末を木精達に頼み、カナタが山頂の『水の神殿』を出る頃にはすでに、東の空の色が薄くなりつつあった。
 「今日もいい天気になりそうだね」
 つぶやくと、隣で麗華がうなずいた。
 『都にはいつ降りるの?  今回は東蘭まで行けるのよね?』
 「そうだよ。私は山の上での勢力争いに、関わるつもりはないからね」
 カナタの薄情ないい方に、麗華が少ししおれた。
 『・・・わかってる?  あなたは精霊に協力する義務なんてないのよ?』
 肩に置かれた麗華の手に自らの手を重ねて、カナタは微笑した。
 「・・・ごめん。きつかったね」
 もちろん、これが義務でないことぐらい、カナタにもわかっていた。
 公主も、彼が『否』といえば顔色も変えずに承諾するだろう。
 「私もね、これが、人間の間の問題なら、余計な口は挟まないで静観しているよ」
 しかし、それとは違う次元の問題で、人々が理不尽に苦しむのを黙って見ているわけには行かない。
 「それがどうしようもないことならともかく、私にはそれを防ぐだけの力がある・・・」
 公主は気性の激しい精霊ではあるが、誰よりも信義を重んじる精霊でもある。
 彼女を救った人間に不死を与え、厚く庇護し、その言を用いることすらあるほどに。
 『公主はすばらしい方よ・・・  私は  あの方の信頼を裏切ってしまったけど・・・』
 悲しげに、麗華は北を望んだ。
 ――― もう、あれから何年経つのかなんて忘れてしまった。
 カナタがまだ、普通の人間だった頃の話である。


 ―――― 大学三回生後期試験の最終日だった。
 この日をクリアすれば、春の長期休暇突入!
 そんな、めでたい日。
 カナタ ――― 林かなたは、室内の暖房にすっかり曇ってしまった縁なしの眼鏡を外して、試験会場の教室を見えにくい目で見回した。
 「カナタ!」
 階段状になっている席の、少し高い位置から世にも不機嫌そうな声がふってきた。
 曇りをふき取ったメガネをかけてみると、化粧気のない女が、無愛想に手を振っていた。
 「はよ。ご機嫌いかが?」
 ぞんざいなのか丁寧なのかわからない挨拶を送る女の席まで上がると、カナタはその前の席に荷物を置いた。
 「おはよ、比嘉(ひが)。試験どうだよ?」
 挨拶がてら言うと、彼女はオーバーに諸手を上げた。降参のジェスチャーである。
 「教育心理学、絶対落とした・・・」
 「おやまぁ。教職課程必修科目じゃないか」
 苦笑するかなたに、彼女も苦笑を返す。
 「やばいねぇ・・・。来年、教育実習行けっかな?」
 「努力次第じゃないですか、比嘉さん?」
 くすくすと笑うかなたに、彼女が憮然と頬を膨らませた。
 「・・・こんな不況の折でもなけりゃ、誰が教職なんか取るかよ、めんどくせぇ・・・」
 「四回生になったら就職活動だねぇ・・・。やはり今年も厳しいですか」
 「アンタはなんでいっつも人事かねぇ・・・。ところで、最後の春休みはどちらへ、カナタさん?」
 「村瀬に誘われて・・・」
 言いかけたところに、数人の事務員と担当教員が教室に入ってきた。
 カナタがバッグから筆記用具を出し、学生証と外した腕時計を机の上に置いている背後から、比嘉がまた話し掛けてくる。
 「今日はこれで終わり?」
 「そう。昼一緒する?」
 首だけを後ろに向けて答えると、彼女がにっこりと笑った。
 「じゃ、早く終わったほうが席取り」
 「オッケ」
 カナタが答えた数分後、三回生最後の後期試験が始まった。


 「どうだった?かなり苦しんだようですね、比嘉先生?」
 カナタに20分ほど遅れて食堂にやってきた比嘉を、カナタはにっこりと笑って迎えた。
 「なんとか単位は取ったかなー・・・」
 やれやれと、正面の椅子に沈む彼女に、カナタは更に笑みを深くした。
 「あの教科さ、先輩からノート借りたんだけど、去年のがそのまんまだったぜ?」
 ぴしぃっと、音をたてんばかりに彼女が硬直する。
 「・・・なんだと?」
 「ラッキ♪」
 にっこり笑ってブイサインなんぞ出すカナタの頭に、彼女の拳が飛んだ。
 「なんで早く言わんのだ!!」
 「なんですぐ殴るんだー!」
 頭を押さえるカナタに、比嘉はびしぃっ!と指をつきつけて宣言した。
 「罰だ!!今日の日替わり定食をおごれ!!」
 俺が何をしたと言うんだ、と、ぶつぶつつぶやくカナタの手から財布は奪われた。
 「食券買って来てあげよう。なににする?」
 「麻婆豆腐定食・・・って、いつ俺がおごると言った!返せ!」
 慌てて追いかけたが、相手の方が素早かった。
 すかさず財布から千円札を抜き取ると、食券の自販機に挿入し、日替わり定食と麻婆豆腐定食をゲットしたのである・・・。
 「ごちそうさま、カナタ♪」
 勝ち誇って笑う彼女から財布と食券を取り戻すと、カナタは憮然として、
 「次の昼食はおごれよ」
 と言ったのだが、彼女はにっこりと笑って言い返した。
 「次の昼食は3か月後ね」
 春の長期休暇、最悪のスタートだった。


 「で、村瀬に誘われてるって、何?バイト?」
 日替わり定食をつつきつつ、比嘉がカナタに聞いて来た。
 「いや。山に行かないかってさそわれたんだ」
 村瀬は、二人と同じ学科に所属する男子学生である。
 「あいつ、アウトドアにはまったらしくって、親の車借りるから山に行こうってさ。比嘉も行く?」
 だが、彼女はその誘いに眉をひそめた。
 「アンタ、今何月だと思ってんのよ。この国が一番寒い時に、なんでわざわざ寒い山に行って、外でごはん食べなきゃいけないの」
 「えーっと・・・。大自然のロマン・・・」
 「ばか言ってんじゃないの。温泉旅行に代えてくれるんなら行ってもいいよ」
 「・・・大自然で秘湯探しとか?」
 「アンタ、マジで言ってんならはたくけど、わざと言ってんなら殴るよ?」
 「・・・どう違うの、それ・・・」
 「はたくは平手。殴るは拳」
 左手をぐっと握り締め、冗談とは思えない顔で比嘉は言った。
 「で、どっち?」
 ・・・答えろと言うのか、それを。
 カナタは、どちらとも答えられないまま、茶の入ったペットボトルを手にとった。


 数日後。
 二月始めの寒い日に、家の前まで迎えに来てくれた友人の車で、カナタは山に向かった。
 少し大きめのワゴン車には、カナタを含めて4人の男女。
 いずれも同じ大学の学生である。
 「・・・でさ、比嘉も誘ったんだけど、ひどいんだぜ」
 そのときの顛末を話すと、車中は爆笑だった。
 「比嘉らしーじゃん!あの子絶対アウトドアしないタイプだもん」
 カナタと並んで後部座席に座っていた竹中が、肩にかかる髪を震わせて笑う。
 「えー、でも、比嘉も来れば良かったのになー。あいつ、料理上手いんだよ?」
 助手席から森田も、ナビゲーター用の地図を片手に話に加わった。
 二人はカナタと同じ大学だが、違う学科の女子学生である。
 「寒いのがいやなんだって」
 苦笑するカナタに、森田も苦笑を返した。
 「あたしだってヤダ。なのに村瀬がさ、切々と語るのよ、山の良さを!!
 最後には、ついてってやるからもうやかましく言うなってカンジ!」
 横から睨んでくる森田に、ハンドルを握る村瀬が苦笑する。
 「はいはい。今度はもっと気温が上がってからにするって!
 けどなぁ、今から行くところは、絶対今がお勧めだぜ!」
 「大きな湖があるんだって?」
 得意そうに言う村瀬に、カナタが話し掛ける。
 「ああ。真中に小さな島があるんだけどさ、今だと水が凍っちまってるから歩いて渡れるんだってさ!」
 「・・・やだ。途中で氷が割れたらどうすんのよ」
 不安そうに言う竹中に、村瀬が大丈夫!と請け負った。
 「キャンプ場もあるところでさ、ちゃんと管理人がいるから、危ない時は渡れないようにしてあるんだ。
 けどそれ以前に、お前ら、氷に乗っても大丈夫な体重だろうな?」
 問題&爆弾発言。
 「・・・ばーか」
 小さくつぶやいて、カナタは女性二人から攻撃される村瀬の悲鳴を無視した。


 「・・・ボクは今日ほどキミの薄情さを恨んだ事はないヨ」
 ペットボトルや食材の入った重い箱を運びながら、村瀬は深々と息をついた。
 駐車場からキャンプ場までの、上り下りの激しい小道を、重い荷物を持って行くことが、彼が女性達から課せられた罰である。
 「お嬢さん方に禁句を言ってしまったキミがオロカだと思うけどね」
 笑いをかみ殺しながら、カナタはバーベキュー用の木炭を持ちなおした。
 「まぁ、運転中で助かったじゃないか。じゃなきゃ、その場で襲われていたと思うよ?」
 からかうように言って、カナタは楽しそうに笑い合いながら先を行く女性二人の背中に苦笑を向けた。
 すると、突然二人が歓声を上げて走り出した。
 「・・・なんだ?」
 呆れるカナタの横で、村瀬がにやりと自信ありげな笑みを浮かべた。
 「だからすげーって言ったろう?」
 「はぁ?」
 いぶかしげに眉根を寄せたカナタだったが、視線を遮っていた坂の頂上に至ると、彼女たちの歓声と彼の自信ありげな笑みに納得がいった。
 立ち枯れた林の中、雪化粧を施した山の影を薄く刷いて、凍った湖が陽光をはじいて白く輝いている。
 「・・・これは・・・すごいな」
 湖の中心には、小さな社を頂に置いた島。
 すべてが白く塗り込められた世界で、それだけが取り残されたように、解けた雪の露に濡れていた。
 魅入られたように眺めるカナタを追い越した村瀬が、重い荷物を抱え直して振り返った。
 「早く来いよ。荷物置いたら島に行こうぜ!」
 湖に至るまでの斜面には、バーベキューなどができるように、雨除けの簡単な屋根をつけた炉が整然と並んでいる。
 その中の一つに荷物を降ろすと、村瀬とカナタは、湖のほとりではしゃいでいる二人と合流した。
 「おっそい!早く島に行こうよ!」
 重い荷物を持たせたことなど、完全に失念した様子で、森田が言った。
 「滑らないようにしなきゃね!」
 が、はしゃぐ竹中の言葉を、村瀬は強く否定した。
 「何を言ってるんだ!そんな事では冬季五輪を制覇することあたわーず!!みんな!俺についてこい!!」
 言うや、氷の上を勢いよくダッシュして行く。
 「馬鹿!エッジがないのに、どうやって止まるんだ!!」
 思わず叫んだカナタの予想通り、村瀬は止まりかねてそのまま氷の上を勢いよく滑って行った・・・。
 「馬鹿ね・・・」
 「馬鹿だ・・・」
 女性二人の冷たい視線を受けつつ、だが村瀬は、起き上がるや再び島へ向かってダッシュを始めた。
 「・・・目指せ、金メダル」
 「感心しねーの、カナタ」
 森田が、すかさず突っ込んだ。


 全員が島に着いたのは、それから15分ほどたっての事だった。
 岸までは、200mほどしかないのだが、凍った道を来たために、思ったより時間がかかった。
 「おせーぞ!」
 ジャケットやジーパンのあちこちを解けた雪で濡らした村瀬が、島の社に続く階段に座って迎える。
 「村瀬選手、スポーツマンは禁煙だろう?」
 「コーチ!この一本だけ!!」
 村瀬が、くわえていたタバコを笑って取り上げようとするカナタに、必死に抵抗する。
 「けどさぁ、ちゃんと階段とか整備してあるんだね。氷が張ってないときは、舟でくるのかな?」
 竹中が、頂にある社を見上げてつぶやいた。
 「みたいだぜ。ほら、あそこ!」
 タバコを挟んだ指で、村瀬が差し示した先には、幾艘かのボートが船底を上にして岸にあげられていた。
 「舟でお参りにくるのもいいね!夏になったら比嘉も誘って、また来ようか?」
 「今度は『何でこのくそ暑い時期に、炎天下の中ご飯食べなきゃならんのよ』って言うぜ」
 森田に、カナタが比嘉の口調を真似て言い返すと、辺りは爆笑の声で満ちた。
 「それ!絶対言う!!」
 「比嘉そっくり!!」
 ここに彼女がいたら、鉄拳が飛んでくるのは確実である。
 「こんなこといってたなんて、ばらすなよ。また殴られてしまう・・・」
 おどけて肩をすくめるカナタに、また笑い声が起こった。
 「神様にしっかりお願いしとけよ。『今年一年、無事に過ごせますように』って」
 村瀬が、吸い終えたタバコを備え付けの灰皿の中に落とし込みながら笑う。
 「じゃぁお前は、『留年しませんように』ってお願いしなきゃな」
 カナタが言い返すと、
 「お賽銭けちんなよ!」
 「万札くらいいれなきゃやばいんじゃない?」
 と、森田と竹中も唱和した。
 「出席してねーけど、ノートはしっかり手に入れたんだぜ。大丈夫・・・だと思うけどな」
 苦笑しつつ、村瀬は先に立って、階段を上り始めた。
 面積はそう広くはないが、建物で言うと四階分ほどの高さの小島の階段を上って神社へいく。途中に設けてある御手洗(みたらい)で手を洗い清めて、四人は頂上の社に至った。
 「結構高いな」
 参拝した後、柵で囲まれた小さな社から白く凍った湖面を見下ろして、村瀬がつぶやいた。
 社に至る階段が設けてある方は、整備されてなだらかな斜面になっていたが、その裏手はまさに絶壁だ。落ちれば何ら遮るものもなく、凍った湖面に叩き付けられる。
 「わぁ・・・落ちたらやばいんじゃない?」
 森田が、彼の横から恐る恐る湖面を見下ろすと、
 「打ち所が悪ければ、骨折程度じゃすまないかもね」
 両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、カナタも湖面を見下ろした。
 高い場所が苦手な竹中は、一人離れたままである。
 「お参りもしたし、早く戻ろうよー」
 表情が少しこわばっている。
 「タケもこっちおいでよ!気持ちいいよ?」
 森田が知っていながら、ことさらからかうように誘った。
 だが、
 「やだ!もう下りようってば!おなかすいたし!!」
 竹中の答えは取りつく島もない。
 「確かに、腹減ったな。そろそろ始めるか」
 言って、村瀬が柵を離れた。
 「しかたないなぁ。せっかく来たのにさ」
 森田も、不承不承といった風に柵を離れる。
 「カナタ!いくよー!」
 竹中が、いつまでも柵によりかかっているカナタに、痺れを切らしたように声をかけた。
 「ああ、ごめん・・・」
 振り返り、柵を離れようとした瞬間、激しく地面が揺れた。
 「きゃあ!!」
 「じ・・・地震・・?!」
 悲鳴を上げてうずくまる三人の視界の端に、柵が、その打ち込まれていた地面ごと崩れていく様が映った。
 「カナタ!!」
 叫ぶが、近寄ろうにも、激しく震える地面の上に立つ事もままならない。
 ようやく揺れが収まったころには、白く糊塗されていた湖面は、冷たく鋭い牙を天に向け、黒々とした水の中で揺れていた。
 「カナタ!!」
 柵のあった場所に駆け寄ろうとした森田を、村瀬が止める。
 「行くな!揺り返しがあるかもしれない!」
 そう言って、彼女に自分の携帯を放ると、救急車を呼ぶように指示した。
 「カナタ!!返事しろ!!」
 用心深く、匍匐(ほふく)して崖ににじり寄った村瀬は、湖面を見下ろして絶句した。
 作り損ねた飴細工のように、ぐにゃりとねじれた鉄の柵が、半ばを水面下に沈めたまま、崖の途中に引っかかっている。
 白い塗料のほとんどが剥げ落ちたそれには、赤く染まった湖水が絶え間なく打ち寄せていた。
 「カナタ!!おい!!」
 水中で血を流すと、傷口の血は凝固できず、その上水の流れに引かれて流れ続けるために、失血死する恐れがあるという。
 「森田!!リダイヤルにここの管理事務所の番号があるだろ!管理人にボート出させろ!!」
 村瀬は、背後に怒鳴った。
 凍った水の中に落ちた場合、一刻も早く救出する必要がある。
 祈るような気持ちで、村瀬はカナタの名を呼び続けた。


 ――――― 地面が激しく揺れて、硬い鉄の柵ごと氷の上に叩き付けられた。
 冷たい、と思うよりも刺されたような痛みを感じるほうが早かった。
 目の前が真っ暗になったのは、厚い氷の下に落ちたためか、それとも、意識を手放したためなのか。
 ・・・どうも、後者だと思われる。
 冬の柔らかな日差しにうながされて目を開けると、感覚が麻痺しているためか、冷たさはそれほど感じなかった。
 カナタは、身を起こしてみて苦笑した。
 深い湖だと思い込んでいたが、上半身を起こしただけの彼の、胸の辺りまでしか水はなかったのだ。
 立ち上がり、ざっと自身を見ても、大きな怪我をしている様子はない。
 社で心配しているだろう仲間たちに、無事を伝えようと辺りを見回して、カナタは絶句した。
 彼らがいた島がなくなっているのである。
 「・・・うわ。流されたかな」
 地震はとてつもない勢いで地を揺らし、水を流す。
 現在いるところはおそらく、湖の支流の一つなのだろうが、土地鑑がないのでどこだかさっぱりわからない。
 「携帯・・・。水に濡れたら使えないんだよな・・・」
 カナタは呆然とつぶやいた。
 人生最大の危機的状況である。
 食料もない状況で、ただひたすら救助を待たなければならないのだ。
 幸い、怪我はないようだが、真冬にこんな薄着で何日を過ごさなければならないのか、考えただけでぞっとした。
 「・・・とにかく、岸に・・・」
 カナタは、転がる荒い石を踏みしめて、川岸にあがった。
 「・・・早く服を乾かさなきゃ・・・」
 川岸から山に連なる、緩い斜面の向こうは、立ち枯れた林になっている。
 こんなところで火を熾(おこ)せば、後で山の管理人に怒られてしまうかもしれないが、背に腹は代えられない。
 薪にするのに良い枯れ枝を探そうと、林の中に入ったとき、ふと、花の香りがした。
 「・・・え?」
 いぶかしく思い、辺りを見回すと、木の影に衣服の端が見えた。
 「人だ・・・!」
 満面に喜色をたたえ、カナタはそこへ駆け寄った。
 「すみません!あの・・・!」
 しかし、声は途切れた。
 その、あまりの幻想的な雰囲気に。


 ―――― その佳人は、大木の根元に寄り添うように身を横たえていた。
 薄い木漏れ日の中で、緩やかに襞を作る蒼い衣装。
 脚を完全に覆いつつも、薄い衣地はその容を浮かび上がらせている。
 長く艶やかな髪は、穏やかに上下する胸元にかかり、細い腕に絡み、なだらかな腹部を覆って地に流れていた。
 カナタは、しばらくその美しさに見惚れていたが、こんな山の中で女性が眠っている事を、奇異に思わずにはいられなかった。
 だが、自分がここまで運ばれてきた原因を思い出して、すっと血の気が引いていく。
 カナタは、地震に遭って、おそらくは湖の支流に流された。
 彼女も、あの地震に巻き込まれたのだとしたら・・・。
 眠っているように見えるが、昏倒しているのだとすれば、大変な事になる。
 「大丈夫ですか・・・?!」
 もし頭を打っていたら、激しくゆするのは危険だ。カナタは用心深く、細い肩を軽くゆすった。
 が、ことり、と、力なくこうべを垂れただけで、長いまつげに縁取られた瞳はかたく閉じられている。
 脈を取ろうと手首をつかんで、その冷やりとした感触に、カナタは顔を強張らせた。
 体を温めてやろうにも、自分の衣服は濡れていて、かえって彼女の体温を奪ってしまうだろう。
 とにかく、この陽の当たらない場所に長く居ては、体温を奪われるばかりである。
 少々風はあるが、陽の当たる川岸へ連れて行こうと、カナタは彼女を抱き上げた。
 「・・・え?」
 人間を抱き上げる事など滅多にないが、ほとんど体重を感じさせない彼女の軽さには、驚かずにはいられない。
 だが、今はそんな事を不審に思っている場合でもない。
 足元に十分注意しながら、カナタは暗い林の中から陽の当たる場所へ出た。
 しかし、いくらなんでも荒い石ばかりが転がる川岸に寝かせるのはかわいそうだ。
 カナタは辺りを見回して、日当たりの良い草地を見つけると、そこに彼女を横たえた。
 そこで初めて、彼は彼女の髪と肌の色に気づいたのである。
 降りそそぐ陽を受けて、蒼く透きとおる髪。整った顔に落ちる翳すら蒼く見える、異常なほど白い肌・・・。
 「・・・ビジュアル系プロモの撮影か?」
 思わずそうつぶやいてしまうほど、彼女の容姿は現実ばなれしていた。
 しかも、困った事に彼女も、荷物を持っている様子はない。彼女が倒れていたところに戻れば、近くに転がっているのかもしれないが、今はあるかどうかわからないものを探している余裕はなかった。
 とりあえず額を冷やしておこうかと、ハンカチを探してポケットを探るが、何も入っていない。
 「・・・流されたのかな?」
 困ったときの癖で、ふと目元に手をやって、カナタは更に驚いた。
 「・・・メガネがない?」
 メガネがなければ、足元すら危ういほど視力の弱い彼である。
 それなしに、どうやって暗い林の中を歩き、彼女を見つけ得たのか・・・。
 その上、今も不自由なく周りを見渡す事ができるのは、どういう事なのか・・・。
 呆然とするカナタの膝元で、ぴくりと、長いまつげが震えた。
 まるで、陽の光にほころぶ花のように、かすかに唇が開く。
 声が出ないのか、苦しげに眉を寄せ、唇を震わせる様に、水を欲しがっているのだと察してカナタが水辺に向かおうと立ち上がった。
 その背に。
 女の蒼白い腕が伸びた。
 途端、カナタは激しい喉の渇きを覚えて、水辺に駆け寄るや、冷たい水を息を継ぐのももどかしく飲みつづけた。
 やがて、人心地ついて背後の川岸を見やると、さっきの女の姿がない。
 驚いて辺りを見回したが、彼の視界の届く範囲に、あの佳人の姿はなかった。
 「・・・どこに行ったんだ?」
 きつねにつままれたような気分で、呆然とつぶやいたときだった。
 『ここですよ』
 耳元で心地よい、まろやかな女の声がした。
 驚いて振り返ると、水面に映った自分の影から、ふわりと蒼い影が浮かびあがってくるところだった。
 『ありがとう  おかげで助かりましたわ』
 陽に透き通る蒼い髪と蒼白い肌。
 紛れもなく、カナタが林の中から連れ出した佳人だった。
 「・・・あの・・・あなたは一体・・・?」
 呆然と、傍らに浮かぶ佳人に尋ねるカナタに、彼女はふわりと微笑んでみせた。
 『麗華と申します』
 右手を胸に当て、貴婦人のように優雅に会釈する。
 『罪を得て  どこにも存在を許されず  渇く苦しみにさいなまれておりました』
 そうしてカナタの手を取ると、柔らかく握った。
 『あなたのおかげで  ようやく渇きを潤すことができました  感謝いたしますわ』
 「あの・・・つかぬ事をお聞きしますが・・・」
 カナタはいまだ状況が把握できないまま、呆然と彼女の蒼い瞳を見つめた。
 『はい』
 にっこりと微笑む佳人の様子に勇気を得て、カナタは思い切って尋ねてみた。
 「あなた、人間ですか?」
 『いいえ』
 極上の笑顔で、彼女は恐るべき答えを告げた。
 だが、それに次いで出た言葉は、さらにカナタを驚かせた。
 『ですが  あなたもすでに  人ではあられぬご様子ですわ』
 「・・・俺が?」
 呆然と聞き返すカナタに、彼女は優雅にうなずいた。
 『わたくし  ここに長く居りましたが  今まで生きた方が来られた事などありませんもの』
 「・・・って、ここはどこなんです?!」
 思わず大声を出すカナタに、彼女は少々考える素振りで頬に手を当てた。
 『わたくし共の世界では  ここは惶帝陛下の御領地とされておりますけど・・・』
 「こうてい・・・へいか・・・?」
 繰り返すカナタに、彼女は微かにうなずいた。
 『死者の魂が安らぐところです』
 ・・・その時の衝撃は筆舌に尽くし難いものがあった。
 足元が急に崩れ落ちたような感覚に、カナタは力なくせせらぎの中に膝をついた。
 「・・・俺・・・死んだのか・・・?」


 キャンプ場の管理事務所からボートを出してもらい、島に残された三人は無事、湖畔に送られた。
 先ほどの地震はかなり激しいものだったらしく、この山の麓でも、死者こそでなかったものの、多くの怪我人が出たという話だった。
 森田から連絡を受けた消防局は、事情を聞いてすぐにレスキュー隊と救急車を寄越してくれたが、凍った湖の中から引き上げられたカナタは、すでに蒼白い骸となっていた。
 「・・・落ちたときに、頭を打っちまったみたいだね。そのまま気を失って、溺れちまったんだ」
 白い景色の中で、鮮やかに浮かび上がるオレンジ色の制服を着た男たちが、気の毒な若い骸を遺された者達の目に触れぬよう、暗い色の布で包み込んだ。
 「車で来たのかい?今は運転は無理だろう。送っていってあげるから・・・」
 村瀬から、カナタの名前や住所を聞いた警官が、気の毒そうに言って、元気付けるように肩をたたいた。
 「お嬢ちゃん達は一応病院に連れて行くよ。怪我はないようだけど、ずいぶんショックを受けてるみたいだから」
 救急隊員が、救急車の後部ドアを閉めた。
 「亡くなったお友達の方も、別の車で麓の木村病院ってとこに連れて行くけど、お嬢ちゃん達は誰か迎えにきてくれる人がいるかね?」
 「あ・・・じゃぁ、電話を・・・」
 呆然と答える村瀬に、さっきの警官が首を振った。
 「今じゃなくていい。あんたも一緒に病院に行きなさい。今はあったかいところで、気を静めるのが先だ。
 松田さん、このお兄ちゃんも乗せてあげてよ」
 背中を軽く押されるまま、慣性にしたがって前に進む村瀬は、白い救急車の中で泣きじゃくる竹中と森田とともに麓の病院に運ばれていった。
 『―――― 本日11時37分。Y市で震度6の地震がありました。
 K山キャンプ場で大学生一人が死亡したほか、数人の重軽傷者が出たもようです』


 『ところで私  まだあなたのお名前を伺ってないわ』
 しばらくして、麗華が微笑みながら言った。
 「・・・かなた。・・・林かなたです」
 水面に視線を落としたまま、ぼんやりと答えるカナタに、麗華は小首をかしげた。
 『変わったお名前ね  どんな字を書くの?』
 「ハヤシは・・・木が二つの『林』、『カナタ』はひらがなです。漢字で書くと、『彼』に方角の『方』・・・」
 『とおい  という意味ね  素敵だわ』
 ゆったりとした彼女の口調に、ふっとカナタは顔を上げた。
 「姉が・・・『はるか』という名だから、親が冗談めかしてつけたんです」
 あまり、深い意味はないのだと思う。
 「母は、『姓が田中だったら面白かったのに』と、いつも言ってたし・・・」
 そうしたら、前から読んでも後から読んでも『タナカカナタ』である。
 『素敵な御家族ね』
 カナタは、麗華の羨望のこもった声に、微かにうなずいた。
 母には逆らえないが真面目な父と、絶対的な家庭内権力を持つ明るい母、弟には残忍で無慈悲だが楽しい姉。
 普通の、いい家庭だった。
 別れ難いと思うほどには。
 「・・・こんな事になるんだったら、ちゃんと『行ってきます』くらい言えばよかったな」
 夜には帰ると言い置いて、ろくに顔も見ないまま家を出てきた。
 「部屋の掃除もしてないし・・・」
 机の上に散らばった教科書とノート。小卓の上のビールの空缶。吸い殻が残ったままの灰皿・・・もはや、ベッドの下の健康的な雑誌を処分する手だてはない。
 「パソコンだって買ったばかりだったのに・・・」
 汗と努力の結晶は、弟を亡くした姉が、悲しみに暮れつつ我が物とするのだろう。
 自身と自身の所有したすべてを、一瞬にしてなくしてしまった悲しみにうな垂れるカナタを、水上から見下ろして、麗華は軽く首をかしげた。
 『どうして  生きていたいと思うのかしら?』
 「え?」
 カナタは、思わずその蒼い佳人を見上げた。
 『私は精霊で・・・  肉体に執着などなかったはずなのに  殺される時はとても恐ろしかった・・・
 身体がないと  自分がとても取るに足りない存在になった気がして  罪を犯した事や  それに対する厳しい罰の事を除いても  この姿でいる事がとても辛いの・・・』
 胸に手を当て、せつなげに眉を寄せる様に、先ほど共感した狂おしいほどの渇きを思い出して、カナタは蒼い佳人をまじまじと見つめた。
 「一体、あなたがどんな罪を?」
 尋ねると、彼女は哀しげに微笑した。
 『私は  誰よりも大切な方を裏切ってしまいました・・・』


 さきの水精王・淘妃(とうひ)は、とても嫉妬心の強い精霊だった。
 その他の事においては、誰よりも優れていた王だけに、それは彼女の唯一の瑕(きず)と言えた。
 だが、水精王の同輩であり、西の守護精霊である風精王は、彼女の悋気(りんき)が、彼女一人の責任でない事を知っていた。
 「北海に、また新しい氷山ができたようだな」
 長身の女将軍は、白い鎧に包まれた腰に手を当て、長椅子にもたれる女を冷たく見下ろした。
 「陛下の褥(しとね)に潜り込むようなはしたない女には、当然の報いでしょう?」
 顔を上げようともせず、ただ自分の、滑らかにふくらんだ腹部をいとおしげに撫でながら、彼女は目を細めた。
 「…本当に産む気か?」
 風精王は、飽くことなく愛撫を続ける白い手を、嫌悪に近い表情で見やった。
 だが、淘妃はそれに気づかぬ振りをして優雅に微笑んだ。
 「もちろん。陛下の御子ですもの」
 「実を結んだ花がどうなるか、知らぬお前ではないだろう?!」
 怒りを含んだ声に、淘妃は唇を歪めて笑った。
 「実を結んだ花は散る。そんな事、誰だって知っているわ」
 「ならば!」
 愛撫をやめない手を乱暴につかみ、風精王は淘妃の顔を自分に向けさせた。
 「なぜ産もうとする!死ぬんだぞ?!」
 「いいわよ!それでわたくしが陛下の特別な存在になれるのならね!」
 濃紺の瞳が、暗い光を宿して風精王の目を射た。
 「陛下は、けしてわたくし一人では満足なさらない!ほかの女に寵を賜っては、わたくしが苦しむ様を見て…わたくしが女に与える残酷な仕打ちをご覧になって楽しんでおられる!」
 淘妃が、自分の手を捕らえる風精王の手首に、左手を添えた。
 「毅く…美しい風精王。
 あなたには、わたくしの気持ちなんてわからないでしょうね」
 美しく整えられた長い爪が、風精王の手首に食い込んでいく。
 「あなたは陛下の、大切な片腕。かけがえのない無敗の将軍。
 誰も、あなたを王の座から追おうなんて考えないでしょう。
 でもわたくしは?!わたくしは、いくらでも替えのきく寵妃の一人でしかないのよ!」
 淘妃の爪が風精王の手首を掻き切り、二人の腕を鮮血が伝った。
 「・・・産むわ。もう決めたの」
 赤い珠を爪に絡ませた淘妃は、自らの手を捕らえる風精王の手を乱暴に引き剥がした。
 「さようなら、風の王」
 最期に、あでやかに微笑んで淘妃は風精王に背を向けた。
 ―――― 以来、風精王は淘妃の姿を永遠に失った。
 淘妃の命を吸い尽くして生まれてきた御子は、水精の王たるに申し分ない力を備えていた。
 皇女らしく、少々わがままなところもあったが、御子たる余裕ゆえか、淘妃のように他の精霊に敵意をむけることもなく、父である湟帝の助力もあって、幼いながら、水精の一族はよく治まっていた。
 そんな皇女へのご褒美として、人形を与えるように湟帝は、一人の木精を娘の遊び相手として選んだのだった。


 『私は  木精の中でも『薔族(しょうぞく)』という  強権な一族の者で  その中でも蒼い薔薇は薔族の長になると決まっていたの…』
 麗華の話によれば、三人の皇帝に直属する精霊達と違い、木精は特定の主人を持たないのだと言う。
 しかも、絶対的な力で一族を掌握する他の精霊王達と違い、木精王はいくつもの有力な一族の中から選ばれる、代表者だった。
 『今の木精王は  櫻族(おうぞく)の美桜(ミオ)様
 木精達を統括し  三人の皇帝陛下達を相手に  その無理難題をうまく折衝する有能な方
 でも私は  あの方の苦労も知らずに  「木精王にすらなれる私を公主の遊び相手に差し出すなんて」って  ひどく恨んでいたの』
 その上、本来なら存在を許されるはずのない『影』が、公主自ら名を賜り、麗華よりも公主に愛された事が、麗華の誇りを著しく傷つけた。
 『華綾・・・  私の弟は  公主を崇拝しているわ
 そんな華綾を  公主もかわいがった
 だから  余計に悔しかったの・・・  あの子をちょっと困らせてやりたかっただけなのに・・・』
 彼の失敗を望んだ、ちょっとした告げ口が、澪瑶公主と、何より闇精王の怒りを受けた。
 玄冥(げんめい)太子・珠驪(シュリ)は、冥府の女帝・惶帝の、ただ一人の御子である。
 闇を統べる王は、他の精霊王達と同列に扱われる事を何よりも嫌った。
 中でも惶帝の信頼厚く、最も古い精霊としてすべての精霊から尊敬される地精王、坐忘太師・依坤は彼にとっていまいましい存在だった。
 何かと口うるさく、常に『王の責任』を説くチビのじいやを黙らせる事。
 それが、彼が自由に振る舞うための最低条件だった。
 だが、さすがに最古の精霊は老獪である。
 力では太子の足元にも及ばないくせに、いかなる攻撃も掌中で珠を転がすように軽くもてあそんでは受け流していく。
 「馬鹿太子が。このわしと渡りあおうなんざ、千年早いわい。出直してこい」
 怨みの炎にさらに油を注ぐ台詞を吐きつけ、鼻を鳴らして地精王は背を向けた。
 以来、地精王には迷惑な事に、彼に対して陰謀を巡らせる事は、太子の楽しみの一つとなった。
 惶帝も、そんな太子の所業を密かに楽しんでいる節があり、地精王は眉をひそめつつも太子の対戦相手を務めていたのだった。
 そんなある時、地下の世界にも水精王・淘妃が、子を産んで死んだと言う報告がもたらされた。
 「正気の沙汰ではないな」
 惶帝の御前にもかかわらず、緋色の目を細めて、太子は嘲笑った。
 「精霊には冥府で眠る権利はない。あの驕慢な女が、ただの水に戻って世界を巡ることを選ぶとは、ずいぶんと笑わせてくれるじゃないか。なぁ、太師?」
 「・・・水精王も辛かったのであろう。謹んでお悔やみ申し上げる」
 使者として冥府にやって来た風精王に軽く会釈すると、依坤は惶帝に向き直った。
 「惶帝陛下に申し上げる。すぐに湟帝陛下のもとへ弔問の使者を送り、御子を水精王として認めるむね、お伝えなされ」
 精霊王は各皇帝の一存ではなく、三人の皇帝達が認めて初めて、王の位を賜るのである。
 惶帝がうなずくのを見て、依坤は深く膝を折って謝意を表した。
 「使者にはわしが参ろう。良いかな、風精王?」
 そう言って彼が風精王をかえりみた時だった。
 「いや、私が行こう」
 すっと、太子が進み出た。
 「新しい水精王は私と同じ御子だろう?一度見ておきたい」
 秀麗な顔に薄く笑みを浮かべて、太子は惶帝に膝を折った。
 「行って参ります、母上」
 許可を得ようとは微塵も思っていない、太子の態度だった。
 「・・・風精王。くれぐれもよろしく頼む」
 太子が面倒を起こさぬように、と言外に含んで、依坤は太子をいまいましげに見た。


 母皇の山の北側。
 一面の氷と、冷たい風のみが支配する世界。
 人も動物も、けして入る事のできない聖域に、湟帝の渺茫宮(びょうぼうきゅう)はある。
 王を喪った悲しみと、御子を得た喜びを同時に受け、心惑う精霊達の交錯する宮内は、太子にとっては嘲笑の的でしかなかった。
 だが、惶帝の使者として、弔慰と、御子を王と認めるむねを伝え、湟帝の御前を辞した後、その幼い水精に引き逢わされた彼は、新鮮な興味を持って彼女を見つめた。
 特殊な木精を除けば、最後に生まれた精霊である彼は、子供の精霊というものを初めて見たのだ。
 その子は、外見的には地精王より少し幼いくらいに見えた。
 だが、幼い顔に老獪な笑みを浮かべる太師と違い、青みがかった銀の髪を肩でそろえた少女は、年齢そのままのかわいらしい笑みで彼を迎えたのである。
 「はじめまして、玄冥太子」
 一生懸命大人を真似るその仕種も、とても愛らしく、彼は知らず、笑みをこぼしていた。
 「名は?」
 彼女の前にひざまずき、目線を合わせて問う闇の精霊王に、怖じもせず少女は微笑んだ。
 「澪瑶(レイヨウ)です」
 「良い名だ。私のことは珠驪(シュリ)と呼べ」
 側に控えていた風精王は、しばし瞑目して、驚愕の声を押し殺した。
 「澪瑶公主、おまえは水精王になりたいのか?」
 問うと、幼い公主はこくりとうなずいた。
 「なぜ?」
 問いの意味を図りかねて、公主は首をかしげた。
 「・・・だって、わたくしはそうなるために生まれてきたのでしょう?」
 不思議そうに問い返す少女の頭を、太子はくしゃり、と優しく撫でた。
 「私もだ。闇精王にふさわしいものがいなかったために、母は私を生んだ」
 緋色の目を細めて、太子は側に控える風精王を振り返った。
 「風精王。退出しろ」
 「出来かねます」
 傲慢な物言いに、風精王が穏やかに、だが毅然と応えた。
 「二度は言わん。公主と二人で話がしたいのだ。
 ・・・それとも、私が幼い公主を害するとでも?」
 立ち上がり、皮肉げに口の端を曲げる太子に、風精王は穏やかな笑みを返した。
 「滅相もない。ただ、護衛を命ぜられている以上、公主より離れることはできかねます」
 「エアリーの時は固いのだな。それでは公主も息が詰まろう」
 嘲笑って小さな水精を抱き上げると、太子は庭に続く大窓に向かった。
 「公主、庭に行こう。ここには私の住む宮よりも花は多いのだろうな?」
 突然抱き上げられ、色のない髪を呆然と眼下に見ていた公主は、優しくなごんだ緋色の瞳に、うれしそうに笑みを返した。


 渺茫宮の庭は、透明な天蓋で覆われており、寒さに弱い木精達を冷たい風から守っている。
 太陽の光は弱くとも、常に明るく照らされている宮内だが、この日は闇の王の来訪とあってほの暗く、咲き競う花々もひっそりと息を潜めていた。
 常とは違う雰囲気の庭を行くことに戸惑いつつも、公主は自分を抱き上げる太子に言った。
 「わたくし、自分で歩けますわ」
 だが、そんな少女の戸惑いに笑みを返しつつ、太子は緋色の瞳にいたずらっぽい光を灯した。
 「歩けるだろうとも。だが、公主を降ろしてしまっては、話をするたびに私は下を向かねばならぬ。
 そうなったら、せっかくの庭が楽しめぬだろう?」
 その言葉に、公主はこくり、と頷くと、太子のきれいな白い髪を引っ張ってしまわぬようにそっと、その肩に手を置いた。
 「ところで公主は、風精王の顔をいくつ見た?」
 背後についてくる風精王をちらりと見やり、密かにささやいてくる闇精王の耳に、公主は小さな手を当ててささやき返した。
 「ふたつです。エアリーはやさしいけど、わたくしが勝手にいなくなっちゃうと怒るの。でも、シルフは一緒に遊んでくれます」
 「そうか、それは良いな。私には子供嫌いで口うるさいジジイしかいないぞ。いつか負かしてやろうと、何度も策を仕掛けてやったが、いまだに勝った事はない」
 「太子は…」
 「珠驪だ」
 言いかけた公主の言葉を、太子がすかさず訂正した。
 「…珠驪様は、地精王のことがお嫌いなのですか?」
 子供らしい、率直な問いに、太子は思わず笑みをもらした。
 「そうだな、嫌いではないと思う。だが、公主も会えばわかると思うが…」
 「澪瑶ですわ」
 太子の言葉をそのまま返して、得意げに笑う少女に、彼は思わず声を上げて笑った。
 「すまぬ、澪瑶。
 そうだな、私は依坤を…地精王を嫌ってはいないが、やつは最も古い精霊で、最も精霊らしい精霊なのだ。
 だから、私のように、闇精達を統べるためだけに生まれた者を、快く思っていない」
 「…わたくしも嫌われるでしょうか?」
 不安そうに言う公主に、太子は微笑みを返した。
 「偏屈なジジイだからな。やつは誰に対しても無愛想だ。だから、何を言われても気にするな」
 不安げに口を結ぶ公主の頬を、軽く撫でてやりながら、太子は再び声を潜めた。
 「そんな事よりも、澪瑶、おまえのことだ」
 背後の風精王の気配に注意を払いつつ、太子は続けた。
 「なぜ、おまえは水精王になろうとする」
 先ほどと同じ問いに、公主は太子の腕の中で、居心地悪げに身じろいだ。
 「・・・わかりません」
 しばらくして、泣きそうな声で公主は答えた。
 「そうなるのが当然のことだと思ってましたもの・・・」
 「周りに流されるな。このままだと、おまえは一族の飾りだ。王ならば一族の上に君臨し、掌握しろ。さもないと・・・」
 太子の声が、さらに低くなった。
 「消されるぞ」
 公主はその言葉の意味を理解できなかったのか、ぼんやりと首をかしげた。
 「要らなくなった人形のように、捨てられるのだ。首を斬られてな」
 太子が白い指を首に走らせるのを見て、公主の小さな身体がびくりと震えた。
 「どうして・・・」
 泣きそうに震える声で問い返す公主に、太子は低い声のまま答えた。
 「依坤と同じだ。どの精霊も、頂く王は一族の者であってほしいと願う。そして、王にふさわしくないと判断されれば、一族の合意の下、王の座を降ろされるのだ。
 普通の精霊ならばそれで終わりだ。しかし、私も澪瑶も、闇精と水精ではあるが、半分は神である皇帝の一族。皇帝の一族をただの精霊にすることなどできない。
 だから、やつらは御子が王にふさわしくないと判断すると、御子を殺してしまうのさ。新しい王を迎えるためにな」
 不意に、頬に暖かいしずくを浴びて、太子はぎょっと目を見開いた。
 公主が、大きな目からぽろぽろと涙をこぼしていたのである。
 「澪瑶…」
 「わたくしは…殺されますか?」
 次々とあふれ出る涙をぬぐおうともせず、銀色の髪を濡れた頬に張り付かせた幼い公主は声を震わせた。
 「水精の上に君臨しろ。自分が王だということを、一族に知らしめるのだ」
 力づけるように、太子は公主を抱く腕に力を込めた。
 「驕慢でもいい。御子だと言うことに自信を持て」
 だが、それでも泣き止まぬ公主に、太子は苦笑を浮かべた。
 「困ったな。こんなに泣かれるとは思わなかった・・・そうだ、澪瑶」
 白く長い指で、太子は公主の涙をぬぐってやった。
 「一族を追われそうになったら、私のもとへ来い。私の后にしてやろう」
 「・・・冥府に行くのですか?」
 目を丸くする公主に、太子はたのしげに笑った。
 「そうだ。恐ろしいか?」
 公主はしばらく黙り込んだ。
 殺されてただの水になってしまうのと、死者の眠る冥府に行くのと、どちらが寂しいだろうかと。
 しばらくして、公主は太子の首にしがみついた。
 「珠驪様が側にいてくださるのなら、恐くないと思います」
 公主の真剣な様子に、太子は再び声を上げて笑った。


 「もぉ、驚いたのなんのって!あの太子が二回も笑ったのよ!声を上げて!!」
 太子の渺茫宮訪問からしばらく経ったころ、風精王は地上をさまよっている火精王のもとにいた。
 水精王となった澪瑶公主の、披露式の招待状を届けに来たのである。
 「アタシのかわいい公主を泣かしちゃって、殴ってやろうかと思ってたのに、公主ったらなぜかなついちゃっててさ!『大きくなったら珠驪様の后にしていただきます』なんて言うし!!
 よくもアタシのかわいい公主をだまくらかしたわねぇ!!」
 金色の髪を逆立てて、惶帝の御子に暴言を吐きまくる風精王を、火精王はうんざりした目で見やった。
 「いつからおまえのもんになったんだ、公主は」
 「世話したがる水精達を追っ払って、アタシが育ててきたのよ!いくら同じ御子だからって、横からさらおうなんて許さないわ!!」
 だんだんっと、激しく地団太を踏む彼に、何を言っても無駄である。
 「しかし…寄りによっておまえに御子の世話をさせるなんざ、湟帝陛下も豪気だな」
 「あぁら!アタシは無敵の乳母よ!子育ても護衛も一人でできるもの!」
 確かに身体的には、風精王の大きな翼の中で守り育てられた御子に危険はない。だが、精神的には・・・。
 「どんな子に育ったかが心配だぜ、俺は・・・」
 「とってもかわいらしい方よ!だから、会いにきなさいな、アンタも」
 子供を自慢する馬鹿な親のように、うれしげに声を張り上げる風精王に火精王は盛大に息をついた。
 「光精王・・・耀妃も来るのか?あの馬鹿女に会うのは嫌だぜ、俺は」
 「大丈夫よ。耀妃は『北の地は気候が合わぬゆえ、ご辞退させていただく』って。だから、アンタが来ないと、煌帝陛下のところは誰も出席なしなのよ」
 湟帝陛下がお怒りになるわよぉと、たのしげに笑う風精王に、火精王は頭を抱えた。
 「・・・なんで出奔した俺が、煌帝陛下の体面を保ってやらんといかんのだ!」
 だが、そんな彼に風精王は、容赦なく指を突きつけた。
 「そのくらいやっとかないと、アンタほんとに火精王の地位を追われるわよ」
 「別にかまわねぇよ」
 そのくらいの覚悟はした上で、出奔したのだから。
 「あらあら。いいのかしらねぇ、そんなこと言っちゃって。火精達がかわいそうだわ」
 「・・・関係ねぇだろ、おまえには」
 思わずむっとして言い返した火精王に、風精王は笑みを深くした。
 「アタシも王って事じゃアンタと同じよ。一族のことが先にあって、行動を決めなきゃならないわ。だから、アンタが煌帝陛下のもとを出奔した時も、一族がアンタを慕って次々と地上に降りてきた時も、余程の事があったんだろうって察したわけ。
 そんなアタシが、煌帝陛下の体面のためだけに、アンタに公式の招待状持ってくると思う?」
 言うと、彼は火精王が手の中でもてあそんでいた招待状を取り上げ、その目の前でひらひらとひらめかせた。
 「披露式に出るんだ、サラーム」
 硬質な女の声で、風精王は改めて招待状を差し出した。
 「まだ東方将軍であることを皆に示せ。煌帝陛下や光精王がなんと言おうと、二人の皇帝と五人の精霊王がおまえを王と認める」
 「・・・わかった」
 火精王は、改めてその手から招待状を受け取った。
 「礼を言う、風精王」
 かすかに口の端を曲げる火精王に、風精王は片目をつぶってみせた。
 「遅参するなよ。私のかわいい公主に、無礼は許さん」
 冗談とも本気ともつかない声音でそう告げると、風精王はその両腕を翼に変えた。
 「シルフだけでなく、エアリーまで親馬鹿だったとはな」
 大きな白い鳥に変化した風精王を見上げて、火精王は笑みを含んだ声で言った。
 「言ってろ。渺茫宮で待っているぞ」
 白い鳥は優雅に風に乗ると、北へと消えていった。


 『公主は  水精王として立派に水精達を治めていらっしゃった  でも  時々渺茫宮を抜け出しては  玄冥太子とこっそりとお会いになっていたの
 それを知っていたのは  公主のお側に仕えていた私と華綾だけ』
 湟帝の怒りを怖れ、しばしば逢瀬をとどまらせた麗華と違って、ただひたすらに公主の言うがままになっている華綾が、より公主に愛されたのは仕方がないことだった。
 しかも、華綾はその、翳(かげ)を含んだ水晶のような肌の色と髪の色が、玄冥太子に良く似ていた。
 だんだん公主は、麗華を遠ざけ、華綾のみを側に置くようになっていった。
 『華綾は公主のお人形よ
 公主は彼の髪を梳いたり  服を代えさせたりして  少しでも太子に似せようと夢中だったわ
 そんな意志のない人形なんかのために  私がないがしろにされるなんて  許し難かった』
 だからあの日、公主がこっそり宮を抜け出そうとしていることを、風精王に告げたのだった。
 風精王は『この事は誰にも言うな』と麗華に口止めをして、すぐに公主を追っていったが、麗華は黙っているつもりなどまったくなかったのである。
 二人の精霊王がいなくなって、薔族の長である自分を阻める者がいなくなってしまうと、麗華は宮内の兵達の目を盗んで、湟帝の御前に出た。
 そして、偉大なる水の支配者に、公主と太子のこと、そして、その手引きをしていたのが華綾である事を告げたのだった。
 「どうぞ、華綾を罰してくださいませ。
 二度とあの、意志を持たぬ人形が、悪しき事などできませぬように」
 湟帝が静かにうなずくのを気配で察し、麗華は俯いた顔に笑みを浮かべて、深い感謝の言葉を述べて御前を辞した。
 それが、大変な事態を招くなど、想像もせずに。


 薔薇の花に変化した華綾を髪に挿し、渺茫宮を出た公主を母皇の山の頂きで見つけた風精王は、彼女の前に舞い下りるや、厳しいまなざしでその腕を取った。
 「私に黙って宮内を出るとは、どういうおつもりです?」
 「腕を放して、エアリー」
 追跡者に対して悪びれもせず、公主は長身の風精王を見上げた。
 「黙って出てきた事は謝りますから」
 そういってにっこりと笑う公主に、反省の色は皆無だった。
 「ちょっ…っと、公主?!アナタ、アタシがなんでこんなに怒ってるかわかってないんでしょ!」
 無邪気に微笑む公主に、さすがにむっとした風精王が、思わず声を上げた。
 「なぜそんなに怒るんですの、シルフ?」
 きょとんとした表情で問い返してくる公主に、風精王は頭を抱えた。
 「なぜですって?それはね・・・!」
 「かわいい公主が、悪い男にたぶらかされているのではないかと心配したのだろう?」
 突然背後に現れた影に、風精王の言葉は途切れた。
 「太子・・・!」
 避ける間もなく、地中から飛び出してきた鎖が、風精王の首に絡みつく。
 「・・・アタシを捕らえようなんて、どういうつもり?」
 首に絡みついた鎖の、不快な感触に眉をひそめ、きつく睨んでくる風精王に、太子は皮肉げな笑みを返した。
 「私たちの逢瀬を邪魔するなど、恋多き風精王にしては野暮ではないか?
 別に、どうするつもりもない。少しの間、そこでおとなしくしていてほしいだけだ」
 「アタシにこんなことして、ただじゃ済まないわよ!!」
 御子といえども決して退かない性格のシルフが、怒りをあらわにその首に絡みついた鎖を渾身の力で引いた。
 しかし、それはびくともしないどころか、さらにきつく彼の首に食い込んでくる。
 「おまえこそ、私の力を見くびらない事だな。冥府の化物どもを、誰が地獄に繋いでいると思っている?」
 冷たく嘲笑う太子を、公主が心配げに見上げた。
 「珠驪様…苦しそうですわ。放してあげてください」
 「やさしいのだな、公主は」
 掌を返したように優しい笑みを向けて、太子は公主をマントの中に包み込んだ。
 公主の目に、冷たく嘲笑う自身の顔を映さぬように。
 「心配せずとも、すぐに解放してやる。それまで、ジジィの重みに耐えていろ」
 「・・・まさか」
 蒼ざめる風精王の表情に、太子はさらに口の端を曲げた。
 「お察しのとおりだ。その鎖の先には依坤が繋いである。逃げられるものなら逃げてみるがいい」
 そう言い残して、自らの影の中に消えてしまった太子に、風精王は知っている限りの罵声を浴びせた。
 「・・・くそっ!」
 怒りのままに、地面を蹴りつけたが、どうなるものでもない。
 これが平地ならば力任せに鎖を引き千切る事もできたかもしれないが、空気すら希薄な高地では、彼も存分に力を発揮する事ができないのだ。
 「ジジィも!捕まってんじゃないわよ!!」
 さらに渾身の力を込めて地面を蹴ったが、なんの声も返ってこない。
 「ジジィ!」
 もう一度呼びかけたが、地は沈黙したままだった。
 「・・・ちょっと・・・どうしたのよ!?」
 さすがに奇妙に思い、シルフは地に膝をついて何度も依坤の名を呼んだが、彼はまるで、死んでしまったかのように声を返さなかった。
 しばし瞑目して、落ち着きを取り戻した風精王の目が、きらりと光った。
 「・・・なにがあった?」
 硬質な女の声が、裡(うち)に冷たい怒りを含んで地に染みていった。


 「・・・地精王を、どうなさったのです?」
 玄冥太子の宮殿、艮琅宮(こんろうきゅう)で、彼の腕の中に抱かれたまま、公主が不安げに問うた。
 「坎瓔宮(かんえいきゅう)・・・冥府を出るのに奴は邪魔だったからな」
 くすくすと思い出し笑いをする太子を、公主が不思議そうに見上げた。
 「・・・まさか、あんなに簡単に捕らえられるとは思わなかった」
 あの老獪な依坤が・・・いや、老獪だからこそ、単純な力に勝てなかったのか。
 策など何もない。
 朝議を終えて出てきた依坤を、後ろから抱え上げて捕縛用の鎖で繋ぎ、部屋に閉じ込めてきただけである。
 「どんなに騒いでも声が漏れぬよう、結界を張ってきた。帰ったら、さぞかし怒り狂って毛を逆立てる事だろう」
 地上に悪しき者が這い出ぬよう、冥府の結界を守る強大な闇精王の力が、このような下らぬ事に使われたなどと知れば、依坤でなくとも逆上するに違いない。
 「そのような事が、惶帝陛下のお耳に入れば・・・」
 さすがに蒼ざめた公主の言葉は、太子によってふさがれた。
 「――――かまわん。そもそも、われらが逢う事を邪魔するほうが悪い」
 太子らしい倣岸な物言いに、公主は思わず声を上げて笑った。
 そして、初めて会った時のように太子の耳に手を当てると、
 「・・・内緒ですよ。
 わたくしも、風精王を閉じ込めてしまおうと思っていたのです」
 そう、笑みを含んで囁いた。
 「でも、わたくしは珠驪様のように力で風精王に勝てる自信がなかったので、こっそり目を盗んできましたの」
 なのに、あまりにもあっさりと見つかってしまった事に、公主は首をかしげた。
 「絶対に見つからないように出てきましたのに・・・」
 つぶやいて、公主ははっと顔を上げた。
 「麗華・・・あの子が告げ口したんですわ!」
 珊瑚色の、可憐な唇が怒りに震えている。
 「ほう・・・」
 相づちを打つ太子の目も、冷たくすがめられた。
 「それは、罰してやらねばいかんな。この・・・」
 太子の手の中から、銀の鎖がはかない音を発して彼の影の中に滑り落ちていった。
 「おしゃべり娘を・・・」
 片腕で公主を抱いたまま、もう一方の手は自身の影の中から鎖をひきずり上げた。
 その鎖の先に、苦しげにもがく蒼い精霊を絡めて。
 「麗華・・・」
 公主の冷たい視線にさらされて、蒼い精霊は苦しさも忘れて身を竦ませた。
 「あなた、わたくしが渺茫宮を抜け出した事を風精王に告げたのね?」
 公主は、冷たい床の上でうつむいたまま震えている麗華を冷たく見下ろしながら、その銀色の髪に挿していた透明な花弁を持つ薔薇を引き抜いた。
 「華綾」
 名を呼ぶと、透明な薔薇は人の形へと変わり、公主の前に恭しくひざまずく。
 「わたくしを裏切った精霊には、どんな罰を与えるべきかしら?」
 「おまえの母の淘妃は、裏切り者を拷問して殺していたぞ」
 恐懼(きょうく)する麗華の上に、さらに冷酷な声が重なる。
 「公主・・・私が公主を裏切るなど・・・」
 「裏切った上に嘘をつくの?」
 「違います!」
 あからさまに嫌悪を含んだ公主の声に、麗華が思わず声を上げた。
 「私は華綾が・・・華綾が公主を連れて行ってしまったと・・・」
 麗華は憎しみを込めて華綾を見やったが、彼は眉一つ動かす事なく、その視線を受け流した。
 「愚かな女だ。どうせ、自分よりあの人形が公主に愛されている事が許せなかったのだろう?」
 太子の嘲弄を、麗華は否定する事ができなかった。
 「・・・そんなことでわたくしを裏切ったの?」
 信じがたいと言うように、公主は眉をひそめた。
 「澪瑶、おまえは嫉妬のすさまじさがわかってない。おまえの母を殺したのは、その嫉妬心だと言うのに」
 「そんなもの、わたくしはわからなくて結構です」
 公主は思わず、太子に対して声を荒げた。
 今までなかった事に多少驚きながらも、太子は公主が、麗華をどのように裁くのか、好奇の目をむけた。
 「・・・わたくしを裏切るなんて、絶対に許せないわ。
 だけど、あなたは父上から頂いた精霊ですものね。私が勝手に殺してしまうわけにもいかないでしょう。
 玉華泉(ぎょくかせん)に戻りなさい。そして、わたくしの前に二度と現れないで」
 静かに宣告した公主に、太子は不満げに目をすがめた。
 「ずいぶんと温情ある処置だな。私だったら、即刻その首を刎ねてやるものを」
 「二度と会わないのならば、死んだと同じ事ですわ」
 冷たく言い放って、公主は麗華に背を向けた。
 「はやく消えて」
 もはや取りつく島はない。
 麗華は自分を拒絶する背を見かねて、力なくうな垂れた。
 玉華泉に帰っても、自分はもう、薔族の長とは認められないだろう。
 いや、もしかしたら、公主の信頼厚い華綾が、『影』の分際で長の座を奪うかもしれない。
 絶望的な想いで、床に流れる自身の蒼い髪を見つめていた時だった。
 公主の、空気すら引き裂くような悲鳴に、麗華は思わず顔を上げた。
 「澪瑶!?」
 「公主!!」
 太子どころか、常に無表情な華綾までが声を上げて、公主の側に駆け寄った。
 「麗華・・・!父上にまで!?」
 恐怖のあまり声も出ない麗華を、氷に覆われつつある公主が激しく睨み付けた。
 「よくも・・・・・・!!」
 すでに半身を氷に覆われ、身動きも取れぬままに、公主は華綾に命じた。
 「首を斬るなど生ぬるい!生きたまま焼き殺しなさい!!」
 命じられるままに、華綾は太子が公主のために用意した、室内をほのかに照らす手燭を取り上げる。
 「そんな・・・!!」
 逃げようとして、麗華は自分が太子の鎖に絡め取られたままである事を思い出した。
 「やめて・・・やめて!!!」
 必死の懇願にも、華綾は眉一つ動かすことなく、炎の灯る手燭を麗華の衣裳の上に落とした。
 炎は、長い裳裾を這い上がり、髪に燃え移り、麗華の身体を蹂躪していく。
 すさまじい悲鳴を上げ、悶える麗華を見下ろしながら、それでも身体を氷に支配され行く公主の怒りは収まらなかった。
 「天上・地上・地下に至るまで、水精王の名において、以後、蒼い薔薇が咲く事を禁ずる」
 木精にのみ許された転生すら禁じられ、麗華は絶望とともにくずおれた。
 「珠驪様・・・」
 黒く燃え尽きた薔薇にはもはや目もむけず、公主は太子の名を呼んだ。
 「澪瑶!!」
 公主を覆っていく厚い氷に、いや、それ以上に強い力に阻まれ、近づく事も許されず、太子も公主の名を呼ぶ。
 「父上がお怒りです・・・あなたを想う事を止めぬ限りは、この檻を出てはならぬと・・・」
 この厚い氷は、偉大なる水の支配者の、護りの手。
 闇の王が張った結界を、いともたやすく破って、略奪者の手が触れぬよう、愛しい娘を包んでいく。
 「ならば、澪瑶は二度とここを出られません。珠驪様・・・」
 公主は、太子に微笑みかけた。
 「もう二度と、お会いできませんわ」
 ふっと、意識を失ったように、公主は目を閉じた。
 「澪瑶・・・!」
 まるで水中花のように、彼女は厚い氷に護られて眠りに就いた。
 「・・・おまえのせいだ」
 太子が鎖を引くと、燃え尽きた薔薇の残骸が飛散し、舞い上がった。
 「冥府の王の名において、麗華!おまえを地獄に堕としてやろう!」
 気も狂わんばかりの怒りは、肉体を喪った魂にすら向けられた。
 「木精でありながら転生も禁じられた身だ!狂おしいほどの渇きにさいなまれ、冥府をさまようがいい!!」
 「・・・玄冥太子」
 「なんだ!」
 すさまじい呪いの言葉とともに、蒼い精霊の魂を冥府に堕とした太子は、華綾の静かな声音にすら神経を尖らせた。
 「私が、公主のお側を護る事をお許しください」
 恭しく膝を折って言うや、華綾はその身を荊(いばら)に変え、公主の周りを覆った。
 『誓って  公主のこのようなお姿を  あなた以外の者の目に  触れさせはいたしません』
 「・・・いいだろう。私もこの宮は封印する」
 相手が湟帝である以上、太子にすらどうする事もできなかった。
 「澪瑶・・・」
 冷たい氷の中で公主は静かに眠っている。
 「必ずここから出してやろう・・・そのために、この世界が損なわれる事となっても」
 太子は厚い氷ごと、公主を抱きしめた。


 『すべては私の愚かな行いが引き起こした事・・・  赦されるとは思えないけれど  せめて  私のせいで損なわれた世界を  元通りにできるものならば・・・』
 「元通りって・・・?」
 涙を流す事も赦されず、重い冥罰に苦しみつづける精霊に、カナタは問い返した。
 『地精王と風精王・・・  玄冥太子は  このお二人を質に取り  湟帝陛下に公主の解放を要求しておいでです』
 ――――― この世界が損なわれる事となっても。
 太子は、地と風の精霊王の力を奪い、母皇の世界を醜い荒野にしたくなければ公主を解放しろと、事もあろうに湟帝に対して要求しているのである。
 『湟帝陛下は神であらせられる  太子の要求など  お聞きとどけになるはずもなく  今  母皇の世界では  水は涸れ  地は痩せ  風は王を求めて荒れ狂っています
 私の一族はもとより  木精のすべてが  苦しんでいるのです』
 薔族の長として、また、有力な木精の一人として、自分のせいで一族が安息の地から追われ行くのを見るのは耐え難いものがあった。
 カナタは、彼女の悲しみに同情しつつも、遠い国の物語のように聞いていたが、
 『お願いです  カナタ  私をここから出してください』
 手を組み合わせ、祈るように訴えてくる彼女の姿に瞠目した。
 「っええ?!俺?!」
 思わず声を上げたカナタに、麗華がこくりとうなずく。
 「って、俺に一体、何ができると言うんだ?!」
 『私の宿主になってくれるだけでいいのです』
 ふと、カナタの頭の中に、『寄生』と言う単語が浮かんだ。
 「いやです」
 思わず断言してしまったカナタの目の前で、麗華はあからさまに肩を落とす。
 「え・・・っと・・・ごめんなさい、きつく言いすぎた」
 『私のほうこそごめんなさい・・・  いくらなんでも勝手なお願いですものね』
 慌てふためくカナタに、麗華はうな垂れたまま小さくうなずいた。
 『あなたの影に隠れていれば  この森を抜ける事ができると思ったの・・・』
 「え・・・?影?」
 カナタが間抜けな声をあげる。
 「体の中に寄生するとかじゃなくて・・・?」
 『・・・もう身体はないでしょ?』
 「・・・・・・そうでした」
 今度は、カナタがうな垂れる番だった。
 「・・・そっか。どうせ死んでるんだし、冥土で急ぐ用もなし・・・。協力しましょう、麗華さん」
 『本当に?!』
 瞳を輝かせる彼女に苦笑を返して、カナタはうなずく。
 「とりあえず、この森を抜ければいいのかな?」
 見上げた森は鬱蒼として、なだらかにのぼっていた。
 「・・・頂上が見えないんだけど」
 振り返ると、麗華はにっこりと笑ってカナタの影の中に沈んでいく。
 『これで大丈夫  あなたは森を抜けられるわ』
 「はぁ・・・」
 半信半疑のまま、カナタはできるだけ歩きやすそうな道を選んで、森に入った。
 薄い木漏れ日でほのかに照らされる森の、緩やかな斜面を登っていくカナタに、時々麗華が道を示す。
 その通りに進んでいくと、やがて、背の高い木々が生け垣のように整然と並んだ場所に出た。
 「ここは・・・?」
 問うが、麗華からの返事はない。
 おそらくここが、彼女が身を隠さねばならぬ場所なのだろう。
 緑の壁に沿ってしばらく行くと、まるで門柱のように立ち並ぶ二本の木を見つけた。
 他の木に比べて一際大きなその木々は、間に蔦を渡らせて侵入者を阻んでいるように見える。
 しかし、カナタが近寄って蔦に触れると、それは生き物のようにするすると解けていき、彼の前に緑の門扉を開いたのである。
 「この先が冥府・・・?」
 今まで歩いてきた森と変わらぬ風景に、カナタは不安を募らせた。
 この森をぬけたところは、一体どんな場所なのだろう・・・。
 血の池とか、針の山とか、荒んだ光景の中で、鬼のような顔をした地獄の獄吏達に迎えられるのだろうか・・・。
 そう思うと、この門の先に歩を進める勇気が萎えていく。
 そうして、どのくらい逡巡していたのだろうか。
 しゅるしゅると言う、かすかな音に気づいて傍らの木に目をやると、蔦が再びその門扉を閉ざそうとしているところだった。
 「・・・やばっ!」
 みるみる絡み合っていく蔦を押し分けるようにして、カナタは緑の門扉の向こう側に転がり出た。
 その背後で、音もなく緑の門扉は閉ざされたのである。
 もう、向こう側には戻れない。
 のろのろと立ち上がると、カナタは先へと進んだ。
 それからどのくらい歩いたのだろうか。
 肉体がないためか、ほとんど疲れを感じる事もないままに、カナタはその森を抜けた。


 そこは、良い意味でカナタの想像とはかけ離れたところだった。
 印象としては、王侯のための庭園。
 しかしそれは、西洋的な整然と区切られた美しさではなく、どちらかと言えば東洋的な、自然と人工が見事に融和した庭園だった。
 「・・・これが冥府?」
 緩やかな斜面を下って、舗装された道をしばらく行くと、白い石の欄干で周囲を囲まれた泉に出た。
 「まるで離宮の庭園だな」
 木の影が映る、清らかに澄んだ水を覗き込んで、カナタがつぶやいた。
 水面には、いつもと変わらない自分の姿も映っている。
 なのに、この影にはもう、肉体はないのだ。
 『どうしました?』
 白い石畳に落ちたカナタの影から、麗華が現れる。
 「・・・もう出てきてもいいんですか?」
 驚きもせず、カナタは欄干にもたれかかったまま、顔だけを背後の麗華に向けた。
 『ええ  おかげで冥府を抜けられましたわ』
 にっこりと笑って答える麗華に、カナタは首をかしげる。
 「抜けたって・・・ここは?」
 冥府ではないと言うのか。
 その問いに、麗華は笑みを深くしてうなずいた。
 『ここは玉華泉・・・木精の故郷です』
 麗華の告白の中に、何度か出てきた木精の生まれる場所。
 そう聞いてみると、確かに冥府と言うには美しすぎる場所だった。
 この澄んだ泉から流れる小川は広い庭園中を巡り、木々や花々は暖かな陽光を受けて馥郁たる香りを辺りに漂わせている。
 『そして  これが玉華泉 ―――― 私たちの命の源』
 ふわりと、花びらが風に舞うように、麗華は穏やかな水面に降り立った。
 『この水だけは  私を受け入れてくれる』
 懐かしい故郷の泉に、嬉しそうに身を沈める麗華だったが、その姿を見咎める者がいた。
 「誰だい、そこにいるのは!?」
 鋭く誰何する声に驚いて顔を上げると、三十代半ばほどと見える女が、正面の欄干からきつい目つきでこちらを睨んでいた。
 「ここはアタシ達木精の領地だよ!余所もんは出ていきな!!」
 桜色の髪をきちんとまとめ、身なり自体はとても上品なのだが、その口からはひどく険のある言葉が次々と出てくる。
 ―――― 極妻。
 カナタは彼女の姿に、思わず『姐さん』と呼ばれる某有名女優の姿を重ねた。
 ところが麗華は、
 『美桜(ミオ)様!!』
 水面から彼女の姿を仰ぎ見るや、うれしさと懐かしさをにじませてその名を呼んだ。
 「・・・麗華?!」
 声に気づいた女は、その姿を見るや、欄干から泉へと降りる階段を駆け下りる。
 そこには、泉よりあふれ、庭園中を巡る水に浮かべる小舟が繋いであったが、彼女はそんなものには目もくれず泉の中に入り、水を掻き分けて麗華の側に駆け寄った。
 「麗華・・・!麗華!!この、馬鹿娘!!」
 怒鳴ると同時に、彼女は麗華を抱きしめた。
 「いつまでも戻ってこないで!!アタシがどれだけ心配したと思ってんだい!」
 『美桜様・・・ごめんなさい・・・』
 全身ずぶ濡れになりながら、自分を抱きしめてくれる彼女に、麗華は感謝を込めて囁いた。
 『私が御子達のお怒りをかってしまったばっかりに  美桜様にまでご迷惑をおかけしてしまいました』
 「そうさ!ぜひとも状況を説明してもらいたいね!まずはあの人間についてだ」
 麗華を抱きしめていた腕を軽く上げて、彼女は欄干から、呆然と自分達を見下ろしているカナタを示した。
 『あの方はカナタ様  私を冥府から連れ出してくださいました』
 そう、麗華が言った途端、彼女の態度は豹変した。
 「・・・そうとは知らず、失礼いたしました、カナタ様」
 険は淡雪のようなはかなさで消え去り、穏やかな微笑を浮かべて、彼女は胸まで水に浸かりながら、軽く膝を折った。
 そして、すぐさま手を打って、他の木精達を呼び寄せると、状況を判断しかねて呆然としていたカナタを、賑々しく壮麗な建物の中に迎え入れたのである。


 外の庭園が見渡せる心地よい部屋にカナタ達を案内した美桜は、ずぶ濡れになった衣装を着替えに一旦退出した。
 しばらくして彼女は、木肌色の服に、裏地を山吹色に染めた苔色の帯と言う、和服に似た衣装で現れ、改めてカナタと向かい合った。
 「お待たせいたしました。わたくしはこの玉華泉の花守(はなもり)の司にて、櫻族(おうぞく)の美桜と申します」
 そう言って、美桜はオリーブ色の瞳をなごませた。
 「このたびは、わたくしの娘の一人、薔族の麗華をお助けいただき、心より感謝申し上げます」
 「ど・・・どういたしまして・・・」
 楚々と頭を垂れているものの、すさまじい啖呵を聞いた直後である。
 固くなったまま、卓上から顔を上げられないカナタを見て、美桜は苦笑した。
 「いまさら気取っても仕方ないようですね。先程は本当に失礼しました」
 「びっくりしたやろぉ?ごめんねぇ。姐さんは昔から気ィが強くって」
 はいお茶、と言って、波打つ淡い桃色の髪を二つに結んだかわいらしい少女が、彼らの前に香りのよいお茶を置いた。
 「アタシはええ男やったら、異人でも大歓迎やわ。なぁ、樹李(ジュリ)ちゃん、アンタもそう思うやろ?」
 桃色の髪の少女は、茶菓子を運んできた少女を振り返ってそう聞いた。
 問われて、恥ずかしそうにうつむいた少女は、顔も姿も、桃色の髪の少女とそっくりだったが、ただ髪の色が泡雪のように白かった。
 「カナタさん?麗華を助けてくれてありがとぉ。アタシ、桃族(とうぞく)の長で、美桃(ミト)ってゆうんよ。こっちの子は李族(りぞく)の樹李ちゃん。よろしゅうね」
 にこにこと愛想良くカナタに話し掛ける美桃に、美桜は微かに眉をひそめた。
 「アンタ・・・アタシが苦労してここを守ってるって言うのに、大した言い草だね」
 「そんなことゆうてるからいい虫もつかんのやわ、姐さん。散っても実がつかんかったらどうするの?」
 「ほほほ・・・余計なお世話だよ、美桃・・・」
 険を含んだ声を、少女は微笑んで受け流した。
 「姐さんはここ一番の姥桜やからね、散ってもろたらアタシが困るんやわ。姐さんの次に年のいったんはアタシやもん。木精王なんて、アタシはごめんやわ」
 そう言って、どう見ても14・5歳ほどにしか見えない少女は、鈴を転がすようなかわいらしい声でころころと笑った。
 「美桃ちゃん・・・・そないなことゆうたら姐さんに悪いわぁ。なんや母皇様の世界が狂うてから、姐さんずっと大変やったんやし」
 かわいらしく眉を寄せる樹李に、美桃は『そうそう』とうなずいた。
 「ホント、アンタが無事でよかったわ、麗華。
 アンタがいなくなった後、世界は大変になったやろ?アタシらも自分の一族守るんで精一杯で、薔族まで手が回らんかったんよ。
 まぁ、薔族は地力が強い分、長がおらんでも何とか生き残ってるけど、この環境は異常やわ。
 一体、何があったん?」
 彼女はひょいと卓の上に腰掛け、卓上の茶菓子を口に放った。
 「美桃ちゃん・・・!お客さんの前でお行儀悪いわ・・・」
 顔を真っ赤にして美桃の袖を引っ張る樹李に、カナタは思わず笑みをこぼした。
 しかし、美桜に視線で促されて、麗華がカナタに語ったことと同じことを三人に話した後は・・・。
 「・・・まさか、そんな状況だったとはね」
 麗華から事情を聞き終えた美桜は、長い沈黙の後、そうつぶやいた。
 「・・・ちょっと・・・それホントやの?」
 美桃は、大きな目をこぼれんばかりに見開いて問い返した。
 麗華がかすかにうなずいて応えると、美桃は小さな手を伸ばして、乱暴に麗華の髪をつかんだ。
 「アンタの勝手で、みんながどれだけ迷惑したと思っとんのよ!」
 「・・・申し訳ありません・・・!」
 髪ごと上半身を引かれ、麗華は苦しげに喉をのけぞらせた。
 「謝ってすむ問題やの?!」
 「やめて、美桃ちゃん・・・!!」
 樹李が、涙声で美桃に取りすがる。
 「おやめ!」
 バンっと卓を叩いて、美桜が制止の声を上げた。
 「だって姐さん!」
 「おだまり」
 真っ直ぐに見つめられると、美桃は渋々麗華から手を放した。
 「麗華は公主ではなく、湟帝陛下に仕える身だ。
 陛下のご意志に背いておられた公主をお止めしたことが、罪にあたると思うかい?」
 木精は、名を与えてくれた皇帝や精霊王に逆らうことは許されない。
 名を与えられることは命を与えられること。
 その条件として、彼女達は散り去るまで彼らに仕えるのだ。
 「答えるんだ、美桃。アンタが湟帝陛下の木精だったとして、陛下の御意志に沿わないことを、黙認できるのかい?」
 問われて、美桃は頬をふくらませて首を横に降った。
 「だったら、今は麗華を責めてる場合じゃないだろう」
 静かに言われて、美桃はうなずいた。
 「じゃ、やることはきまったね」
 パンっと手を打って、美桜が立ち上がった。
 「アタシは湟帝陛下にとりなしだ」
 「じゃ、アタシは風精王を助けに行くわ」
 美桃が、幼い容姿に似合わない、理知的な口調できっぱりと言った。
 「ア・・・アタシも行く!依坤様助けなきゃ・・・」
 樹李も、すがるような上目遣いで美桜を見上げた。
 「美桃様、樹李様、わたくしも参ります!地精王はともかく、風精王のいらっしゃる場所はわたくししか存じませんもの」
 両手を胸の前で組み、哀願するように言う麗華の目の前で、美桃がひらひらと手を振る。
 「なに馬鹿なこと言うてるの!玉華泉の中でならアンタも普通やけど、外に出たらなんもできんやないの!」
 「そうや。アンタ、闇精王から追われてるんやろ?出たら危ないわぁ」
 樹李も、白い頭を一所懸命に振って言う。
 「でも!わたくしのせいで風精王も地精王も・・・」
 「無理言うんじゃないよ。依り代でもあればともかく、どうやって闇精王から姿を隠し・・・おや?」
 美桜が、突然言葉を切り、蚊帳の外で居心地の悪い思いをしていたカナタを見つめた。
 「姐さん・・・アタシ、ええこと思いついたわ」
 美桃が、かわいらしい顔に小悪魔のような笑みを浮かべる。
 樹李は『おねがい』とばかりに目を潤ませ、麗華はすがるような目で見つめてくる。
 「・・・は?」
 戸惑うカナタに、美桜が真剣な顔で問うた。
 「カナタさん、アナタ、生き返りたいとは思いませんか?」
 「・・・はぁ?!」
 思いがけない申し出に、カナタは目を丸くした。
 まだ死んだことすら実感がないと言うのに、突然そんなことを言われても戸惑いが先に来る。
 「もちろん、すぐにと言うわけには参りません。私達木精は、意志を持つ精霊の中では最も下級ゆえ、あなたを生き返らせることなど出来はしません」
 美桜は、すっとカナタに近寄り、身をかがめて真っ直ぐにカナタの目を見つめた。
 「ですが、湟帝陛下の御子であられる澪瑤公主なら、もう一度あなたに肉体を与えることも可能です。
 ・・・いかが?」
 はらりと零れ落ちた桜色の髪の向こうで、オリーブ色の瞳がきらりと光る。
 「・・・冥府に行く代わりに、協力しろと?」
 そこに選択の余地があるのだろうか?
 「ええ話やないの!まだ若いんやから、このまま冥府になんか、落ちることないわ!」
 卓上に座ったまま、美桃がカナタの目の前に体を寄せた。
 「あ・・危ないことないんよ?アタシらもついてるし、カナタさんは麗華を影の中に隠してくれるだけでええんやから・・・」
 上目遣いでカナタを見ながら、おどおどと樹李も言う。
 「おねがいします!!」
 おまけに麗華にまですがられて・・・。
 ここで断れる人間がいたとしたら、それは超人的に意志が強いか、狂人ばりに自己中心的な人間か、どちらかだろう。
 そしてカナタは、そのどちらでもなかった。
 「恩に着ます」
 そう言って、木精の長である桜の精は、優雅に頭を垂れた。




〜 to be continued 〜


 










今回は、本当は外伝として書こうかと思っていた、かなたの過去の話です。
『自分ではかなたの過去を知ってるから筋がわかってるだろうけど、読んでる人はどうよ?』と思いまして、ここに挿入しました(^^;)
ところで、ここの世界観って、私の世界観なので、一般的なものとはちょっと違ってます。
まずは、『三皇帝の下のコンビって、どういうコンビ?!』ですね(^^;)
これを書いていた時期、『陰陽五行』も『四大元素』も知らなかったので、自分なりの世界観で決めたんです。
煌帝(太陽神)の下に光精王&火精王、惶帝(冥府の女神)の下に闇精王&地精王ってのはなんとなくわかるとしても、湟帝(水の神)の下になぜ風精王?ですね(^^;)
これは、地球が風を生むシステムから来ています(^^)
風は、もちろん団扇であおいだって生まれるものですが、気象の風は海の波が興しているのだそうです。更にうまれた風は海の水をかきまわして、自浄作用を高める。
水と風は切っても切れない関係なのです。
だから、湟帝の下に風精王がいます。
湟帝が風精王を創り、風精王が水精王・澪瑤公主を育てたという設定は、ここから来ています(^^)
どこの国でも、神話というのは、荒唐無稽な作り話ではなく、その国で起こった自然現象や災害、または部族間の戦争を元にしています。
私はこれを書くときに、『神話を作ろう』と思いました。更に、人間側の話を書くときは『歴史を書こう』と思ってます。
以後、もしかしたら『このエピソードはぁ!!』と思うものが出てくるかもしれませんよ(^^)v












Euphurosyne