◆  8  ◆







 雲ひとつない青空に、紅い鳥が一羽、大きな翼をはばたかせている。
 鳥はやがて、母皇の山の東岳に降り立ち、その身を青年の姿に変えた。
 「酷いもんだな」
 眼下に広がるのは、乾き、荒れ果てた大地。
 木も草もなく、白い砂が漠と続いている。
 三人の精霊王が消えた結果がこれである。
 「シルフ・・・エアリー・・・」
 風精王が消えてからは、この世界を吹きぬける風は止まり、空には雲が浮かぶこともなく、海には波も立たない。
 「依坤・・・」
 地精王が守っていた土は痩せ衰え、乾ききって、触れれば崩れる砂と成り果てた。
 母皇の山から豊かに流れ、彼を潤していた雪解けの水は、太陽の苛烈な光にも溶けることなく、山頂で凍りついたまま眠っている。
 「この隙に領土を広げるつもりか、耀妃(ヨウヒ)!!」
 蒼穹の中、誇らしげに輝く太陽は、無情なまでに世界に光を注ぎ続ける。
 地の底までをも照らさんばかりに・・・。
 だが、火精王の怒りも、世界の嘆きも、天上に住まう煌帝とその妃は、一切意に介しはしない。
 「なにをそんなに怒ることがあって?」
 滑らかな黒い肌の上に、艶やかな黒髪を流した神妃は、不思議そうに尋ねるだけである。
 彼女は、幼女のように無邪気に、自分の力が及ぶ範囲が広がっていく様を楽しんでいる。
 その地に生きるもの達の苦しみなど、彼女らのいる場所からは見えはしないのだから。
 今、恵みの絶えた世界に住む者達は、生きるために食せるものは全て食し、それが無くなれば奪うために他の地へ移り、木の葉が虫に食われていくように、大地を侵食していく。
 多くのものが死に、多くの種族が死に絶え、生き残ったものは他を滅ぼしてわずかにその命を延ばす。
 冥府にすらない『地獄』が、美しかった母の身体の上に描かれているのだ。
 そんな中で、火精王とその一族の力は、奪うため、殺すため、そして、屍を焼くためだけに使われている。
 「・・・畜生」
 もう、何度となく呟いた言葉は、風にさらわれることもなく、彼の身に絡みつく。
 死臭が満ちた、澱んだ空気は濃厚に濾(こ)されて、精霊である彼ですら狂いそうなほどの不快さだ。地に住まう心弱い者達に至っては、さぞや心が荒んでいることだろう。
 不意に、彼の周りにあまやかな香りが満ちて、サラームははっとうつむけた顔を上げた。
 厚く塗られた絵の具のように透明感のない空から、ひらり、ひらりとひとつ、ふたつ・・・。
 木もない場所に、花弁が舞い降りる理由はひとつしかない。
 「美桃・・・樹李・・・・」
荒れた山肌の上に、花弁は踊るように楽しげに、ひらりひらりと降りしきる。
 やがて、薄紅と白い花弁はそれぞれに集まり、人の形を成して行った。
 「こんにちは、火精王」
 白い頬にやわらかな笑みを浮かべて、二人の少女は火の精霊王の前で可愛らしく会釈した。
 「お前達・・・」
 生きていたか、と言う言葉は声にならなかった。
 「朗報をお届けに参りました」
 久しぶりに聞く、美桃の独特な発音。
 懐かしさに思わず歩み寄ろうとした足を踏みとどめて、サラームは少女達に微笑した。
 「朗報とやらを聞こうか」
 「・・・あいかわらず、お優しいことやな、火精王」
 そんな彼の態度に、美桃が笑みを深くする。
 火の王は、無闇に彼女達に近づこうとはしない。
 その力が、彼女達にとってあまりありがたいものではないと知っているからだ。
 「・・・お辛うございましたなぁ」
 樹李も、彼の憂いを察したか、深々とこうべをたれた。
 「お前達の比じゃねぇと、そう思うがな?」
 サラームは世界を巡って、彼女達の同朋の、ほとんどがこの世界では生きられなくなったことを知っている。
 その根すら掘り起こされ、無残に命を絶たれている姿を、黒く焼け爛れている姿を、何度見たか知れない。
 が、少女達は顔を見合わせると、にっこりと微笑んだ。
 「そのための玉華泉やわ」
 声をそろえて言う二人の顔には、自信と誇りが満ち溢れていた。
 どんなに世界が荒れても、玉華泉だけは別である。
 あの地は、最初の木精王が母皇から賜(くだ)された土地。
 木精達の聖地であり、地上が豊かさを取り戻すまで、その種を保つ場所。
 「世界が潤いさえすれば、アタシ達は何度でも生き返れるんよ。種も苗も、みんなあの地で地上に出る日を待っとるわ」
 そんなことよりも、と、美桃は若芽色の瞳をきらめかせた。
 「風精王の居場所、探しとるんやろ?」
 「わかったのか?!」
 勢いあまり、サラームは彼女に詰めよった。
 近づいた距離をさりげなく元に戻して、美桃は頷く。
 「風精王がおらんようになってから、世界から風は消えてしもうたけど、この山からだけは時折風が吹き、わずかながらも雲が湧いてる。
 知ってる?
 今、人間達は、この山のことを『ヒョウザン』と言うてるそうやわ」
 ふわりと長い袖を翻し、宙に『飃山』と書く美桃に、サラームは硬い表情でうなずきを返した。
 「ああ。だから奴はこの山のどこかにいると、俺もしらみつぶしに探しているんだが、山中を何度巡っても、全く奴の気配が感じられない」
 悔しげに眉を寄せる彼を、樹李は気の毒そうに見上げた。
 「きっと、お助けできます。やから・・・」
 いいかけて、樹李はその帯に挿していた柳の枝が、微かに震えているのに気づいた。
 「あ、リュウちゃんから連絡やわ」
 美桃が、うれしげに声を弾ませた。
 「柳螺(リュウラ)か?」
 サラームにこくんと頷きを返して、樹李は柳の枝を取り上げ、地に降ろした。
 柳の精は千里に根を伸ばし、遠く離れた場所で起こった事でも正確に伝える能力を持つ。その柳族の長、柳螺は今、玉華泉において湟帝の渺茫宮に赴いた美桜と連絡を取っているはずだった。
 「リュウちゃん、姐さんの塩梅(あんばい)はどうやの?」
 美桃が問うと、柳の枝はその声が聞こえたかのようについ、と立ち上がり、やわらかな緑の葉を揺らして、乾いた地の上に文字を書きつづった。

 湟帝陛下は 澪瑤公主をお赦しになりました
 公主と風精王を 解放せよとの 勅命です
 ただし 
 地精王の解放と 闇精王への裁きは
 惶帝陛下へ 御裁可を仰ぐようにと
 ゆめゆめ 私刑などなさらぬよう
 精霊王方にお伝えください

 「赦す・・・?解放とか、私刑だとか、何の話だ?」
 地に書かれた文字を見つめながら、サラームは眉を寄せた。
 「・・・私刑はならぬ、なぁ。太子ならではの処遇やわ」
 サラームの問いを無視して、美桃はその唇に冷笑を浮かべる。
 「さぁ、お赦しは出たわ。はよぅ風の王様を助けてあげよ」
 掌を返すように、ころりと表情を変えた彼女を、サラームは眉を寄せたままねめつけた。
 「お前・・・簡単に言うがな、オレはこの山を何度も巡っちゃあ、奴を探しまくってたんだぜ?!一体どうやって見つけると言うんだ!」
 思わず口調を激しくするサラームに、樹李は身をすくませて美桃の後ろに隠れたが、睨まれた本人は、どこ吹く風とばかりに胸を逸らして、長身の火精王を見返した。
 「アタシが知るわけないわ、そんなこと。ただ、風精王が封じられた場所を知ってるもんを見つけただけやもん」
 「誰だ?!なぜそいつは、今までそれを黙っていた?!」
 さらに激昂するサラームを見上げ、美桃はいたずらっぽい仕草で唇に指をあてた。
 「火精王、アンタを漢(おとこ)と見込んで明かすんよ?誰にも言わんと、約束してくれるね?」
 馬鹿にするなと怒鳴りかけて、サラームは、美桃の後ろで震えている樹李に目を止めた。
 「・・・誰にもいわねぇと、約束する」
 「ありがとぅ。もういいよ、出といでぇ」
 ふっくらと笑って、美桃は錦繍(きんしゅう)の沓(くつ)のつま先でぱたぱたと地面をたたいた。正確には、自身の影を。
 すると、水面下から浮かび上がるように、彼はその姿を現した。
 「・・・誰だ?」
 左目をわずかに眇め、サラームは見慣れない男をじろじろと眺める。
 その気配から、人間であることは確かだが、存在感はかなり希薄だ。よくよく目を凝らして見ないことには、日の光にまぎれて消えてしまいそうになる。しかも、この世界に住む者が当然持っている匂いがしない。
 「魂魄か?それも、こことは違う世界の」
 あからさまな非難を含んだ声に、その魂魄、カナタは思わず怯んだ。
 冥府や玉華泉では、いつもと変わらず見えていた景色が、ここではあまりにも強い日差しに、目を開けることもままならない。更に、彼に向けられた声は、鐘の中で聞くように大きく響き、水の中のように奇妙に広がって、相手が自分に対して非難を向けているということしか判断できなかった。
 しかも、いまだ声で若い男と判断するしかない相手は、花の精霊達に容赦なく声を荒げている。
 「お前達、なに考えてやがる!異人を引き入れるとは、僭越(せんえつ)も甚だしいぞ!!」
 「だから言うたやないの、誰にも言わんといてねって」
 悪びれもせず言い放つ美桃を、サラームは激しく睨んだが、彼女は動じもせずに笑みを返した。
 「ついでにもうひとつ、黙っててほしいことがあるんよ」
 人差し指を立てて、かわいらしく片目をつむる少女に、とうとう彼の怒りは爆発した。
 「ざけんな、このクソガキ!!」
 怒鳴って、思わず詰め寄った少女の背後で、もう一人の少女が耐えかねたように泣き出した。
 「あらら、泣かんといてよ、樹李ちゃん。ホント、火の王様はこぉおていかんなぁ」
 うつむいた樹李の前にかがみ、その頭を優しく撫でてやりながら、美桃が非難を込めて火精王を睨んだ。
 「オレか?!オレのせいなのか?!」
 更に激昂する彼に、美桃はさらりと言う。
 「あんたやのぅて、誰のせいやゆうの。
 で?はよぅ答えぇな。あんたは秘密を守れる漢やの?」
 完全におもしろがっている調子で、にたりと笑う美桃に、火の王は抵抗を諦めて肩を落とし、うなずいた。
 「俺の誇りにかけて、約束しよう」
 「最高の誓約やわ」
 袖で可愛らしく口元を覆って笑うと、彼女は日の光の中で、いかにも頼りなげな魂魄に近づいた。
 「カナタさん、かがんでぇ」
 言われたとおり、カナタが少し腰をかがめてやると、美桃は彼の額に軽く口づけた。
 『私を見てはならない。私を語ってはいけない。』
 カナタの手をとったまま、美桃は口調すら変えて、厳かに言葉をつむぎ出した。
 『眠るものを妨げてはいけない。出入りするものは、静かに、厳かに歩み、道を外れてはいけない。』
 彼女を中心に、さざなみが立つように空気が振動した。
 『―――― ここにあるものは全て無である!』
 彼女がその言葉を言い終えた途端、それまでカナタを苛んでいた、強すぎる光や大きすぎる音が和らいだ。
 「・・・惶帝陛下の言葉とは、随分大げさな結界を張るじゃねぇか」
 額に汗を浮かべ、深く息をついた美桃に、サラームは眉を寄せた。
 「あの子が、誰にも見つからんようにしたかっただけやわ」
 『・・・大丈夫なのか?』
 カナタは、思わず目の前の少女に声をかけた。
 美桃は笑って見せたが、随分と体力を消耗しているようだった。
 『惶帝陛下のって・・・なんだ?』
 「なんだお前、話せたのか」
 意外そうに言う男の顔が、今ははっきり見える。
 褐色の肌に掘りの深い顔立ち。肩に流れた髪は、炎のように赤い。
 『あんたは?』
 初対面だというのに『お前』呼ばわりする倣岸な男に、かなりむっとしながら、カナタは尋ねた。
 『あいにく俺は、お前に『お前』呼ばわりされる筋合いはないぜ』
 「名乗れってか?この俺に?」
 片眉を上げて、その男は不快げに言う。
 『名を聞くときは自分から、なんて言うなよ』
 「・・・・・・」
 機先を制されてむっとしたのか、彼はカナタを激しく睨みつけ、カナタも退くことなくその目を睨み返す。
 二人の間にはさまれる形となった美桃は、目を逸らして苦笑し、樹李ははらはらと二人の顔をうかがう。
 そこへ、
 『おやめくださいな  お二人とも』
 懇願の声とともに、もう一人の精霊が、カナタの影から現れた。
 「麗華・・・」
 ほっとしたように、美桃と樹李がその名を呼ぶ。
 「お前・・・湟帝陛下の薔薇じゃねぇか。行方不明だと聞いていたが、その姿は・・・?」
 身体をなくし、魂魄だけでさまよい出た木精の姿を、サラームは困惑と共に見た。
 『お久しぶりでございます火精王  このような姿で失礼いたします』
 深々と頭を垂れる彼女と、無礼な人間の男を見比べて、サラームは首をひねる。
 「どういう組み合わせだ、これは?」
 『この方はカナタ様
 私がこのような姿になり  冥府をさまよっているところを  この方にお救いいただいたのです』
 ゆったりとした口調で語る麗華に、サラームは憮然として『そんなことは聞いてない』と吐き捨てた。
 『カナタ  こちらはサラーム様  この世界の炎を司る  火の精霊王にして  東方の守護将軍でいらっしゃいます』
 『別に、君には聞いてないんだけど・・・』
 言って、カナタはサラームと、再び睨みあった。
 『俺はこの男に聞いたんだ!』
 二人同時、異口同音のあまりのタイミングのよさに、美桃は思わず吹き出した。
 「あんたら、えらい相性のいいことやな。初顔合わせで息がぴったりやないの」
 『誰が!!』
 また声が合った。
 いまいましげに睨みあう男二人の間で、美桃ははじけるように笑い出した。
 その声に誘われて、樹李も麗華もクスクスと笑い出し、渦となった笑声の中、男達は気まずげに目を逸らした。
 「・・・で?風精王の居場所は、薔薇が知っているのか?」
 ようやく笑声が収まると、サラームは憮然として麗華に向かった。
 その問いにうなずきを返し、麗華は山の北方を指す。
 『母皇の峰の  頂きです』
 「馬鹿な!俺はこの山をくまなく探したんだぜ?見つからないはずがねぇ!!」
 だが、麗華は断固として主張した。そして、サラームにはにわかに信じがたいことを言ったのである。
 『風精王を封じたのは  闇精王です』
 「・・・馬鹿な。いかに闇精王とはいえ、他族の王を封じるなど、やっていいことじゃねぇ!!」
 『では誰が  あの不敗の将軍を封じ得ます?』
 ひた、と見つめ返してくる瞳に、サラームは反論できなかった。
 『闇精王以外の誰も  風精王を捕らえ  封じることはできません
 ましてや  あなたの目から隠しおおしてしまうなんて』
 サラームは喘ぎ、いまだ地に残る文字に目を落とした。
 『解放』・・・『私刑』・・・・・・。
 「まさか・・・」
 『公主』・・・『風精王』・・・・・・『地精王』・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 「そんなことがあってたまるか!王が・・・精霊王が他族を侵すだと?!」
 怒りが、烈火となって彼の身から吹きあがり、木精達に悲鳴を上げさせた。
 「ゆるさねぇ!!三皇帝が許しても、俺は絶対に太子をゆるさねぇ!!」
 『やめろ!』
 思わず制止の声を上げたカナタに、サラームは烈しい視線を叩きつけた。
 「黙れ!お前ごときに指図される筋合いはねぇ!!」
 『花が死んでしまってもいいのか!?』
 その言葉に、サラームは我に返った。
 慌てて見遣った先には、結界の中、逃げることもかなわず、身を竦ませている花達がいた。
 「美桃・・・樹李!!」
 烈しい熱に中てられ、荒く肩を上下させる二人に、いまだ炎を帯びたサラームは近寄ることもできない。
 『あいにく俺は、あんたがそこまで怒る理由がわからないが、その精霊の王様達を助けてやらなきゃいけないんだろう?
 だったらこんなとこでキレてないで、とっとと麗華に道案内でもさせたらどうなんだ?』
 烈しい反発を予期して、次はどんな言葉を叩きつけてやろうかと待ち構えるカナタに、火の王は意外な反応を返した。
 「・・・悪かった。俺は、お前達を苦しめてばかりだな・・・」
 うなだれて、花達に謝る彼に、カナタは瞠目した。
 「麗華・・・だったな。風精王の封じられた場所に、案内してほしい」
 ―――― 悪い男ではないらしい。
 ただ、呆れるほど単純だが。
 それが、火精王・サラームに対する、カナタの初印象だった。


 母皇の山とは、この世界の中心にある巨大な山脈の最北、最も高い山のことを指す。
 北の湟帝の領地から迫る、凍える風を塞き止め、世界に豊かな水を恵む偉大なる山。
 常に雪で覆われている、その汚れなき純白の頂きに、風の王は繋がれていると言う。
 だが、
 「闇精王の封印か・・・。どうやって見つけるんだ、そんなもん」
 苦い息と共に、サラームは呟いた。
 『私は  風精王が封じられるところを見たわけではないのですが  冥府に落とされる時  闇精王がおっしゃるのを聞きました』
 カナタの影から現れた麗華は、膝をついて地に触れた。
 『風精王にはしばらく、依坤の重みに耐えていてもらう  と・・・』
 「地精王の・・・」
 つぶやいて、サラームは足元に目を落とした。
 冥府の女神・惶帝の住まう坎瓔宮(かんえいきゅう)は、この頂きの、真下に繋がっている。
 「なるほどな。しかし、見えない相手を、どうやって探したもんか・・・」
 深刻に話し合う精霊達の中、カナタは一人、話に加わることもできずに辺りを見まわしていた。
 そこは、下界とは比べ物にならないほど美しい世界だった。
 玉華泉を出る時に、かの地の水鏡越しに見た地上は、惨憺たるあり様だった。
 水が涸れ、痩せ衰えた地には燃やすものすらなく、火がくすぶり続けている。風がないために空気は澱み、海は腐った匂いを発していた。
 それが、たった三人の精霊が消えたために起こったことだと言う。
 なんと不安定で、理不尽な世界だろうか。
 思わずため息を漏らした彼は、ふと、それと同じ音を聞いた気がして、改めて辺りを見回した。
 全てが白く覆われている世界。彼らの他には動くものとてないはず地で、ゆらりと、何かが動いた。
 初めは、雪が風にあおられたのだろうと思った。
 しばらく見つめていても、そこには何もなかったから。
 だが、気になって見つめつづけていると、かすかな、本当に微かな風が、その場所から流れてきた。
 まるでため息のようにわずかな空気の流れは、カナタと精霊達の傍らを抜け、山の斜面に積もった雪を、わずかに巻上げながら降りて行く。
 『美桃・・・』
 烈しい熱に中てられたせいか、力なく雪の上に膝をついている桃の精に、カナタは声をかけた。
 『俺、ちょっとその辺歩いてきても大丈夫かな?』
 口を利く力もないのか、うなだれたままの美桃に代わって答えたのは、彼女を抱くように側に膝をついていた樹李だった。
 「大丈夫やよ。でも、美桃ちゃんの結界は、カナタさんを中心に張ってるんやから、あんまり遠くに行かんといてね」
 心配そうに言う彼女に笑みを返して、カナタは彼らから離れた。


 『・・・この辺だったよな?』
 何かが動いたと思う場所に立ってみたものの、そこは雪が乱れた様子もなく、滑らかな白い斜面の延長でしかなかった。
 しばらくその辺りを見回してみたが、何かが動く気配はない。気のせいだったかと、カナタがきびすを返そうとした時だった。
 ほぅ・・・・・・・・・・・。
 今度は確かに、その音を聞いた。
 白く凍る吐息の姿を、その目で捕らえた。
 そしてその、小さな霧が晴れた先に、女はいた。
 向こうの景色がその身体を透かしてみえるほど、存在の希薄な女は、曲げた右ひざの上に肘をついて、緩慢な動きでその唇に煙管(きせる)を運んでいる。
 彼女はカナタの目の前で、随分と長い時間をかけて吸い上げた煙を、ため息と共にゆっくりと吐き出していた。
 『・・・風精王?』
 問うと、女は死んだ魚のような青白い目をカナタに向けた。
 なんと生気のない女だろうか。
 カナタは目の前の女をまじまじと見つめた。
 のっぺりとした容(かたち)の顔に表情はなく、その周りを縁取る、艶のない薄黄色の髪はもつれて背中に垂れている。
 この女が、麗華や精霊達の言う、『不敗の将軍』と同じ人物とは信じがたかったが、状況的にただの霊とは考えがたい。
 『風精王ですね?』
 確信をもった二度目の問いに、女は緩慢にうなずいた。
 『助けにきました』
 迷子の子供に対するように、カナタは優しく微笑んだ。
 『ちょっとまっててください。精霊達を呼んできます』
 だが、慌てて駆けつけてきた精霊達の誰も、彼女の姿を見ることはできなかったのである。
 「・・・ほんとに、ここにおられるのん?」
 困惑した顔で、樹李はカナタを見上げた。
 『本当に見えないのか?』
 問い返すと、彼女は困惑した顔でうなずいた。
 「カナタ。奴は、お前と話はできるのか?」
 苛立ちを含んだサラームの問いに、カナタは雪に半ば埋もれて座る女を見た。
 『風精王、どうすればあなたを助けられるんですか?』
 だが、彼女はその言葉が理解できないかのように、ぼんやりと彼を見返してくるばかりだった。
 『・・・声が、聞こえてはいるんだろうけど』
 その証拠に、先程彼女は、カナタの問いにうなずいた。
 『話せる状態ではないようだ』
 言うと、サラームは、しばし考えるように眉を寄せ、再びカナタを見た。
 「今の奴の状況を、正確に教えてくれ」
 カナタはうなずくと、樹李がもっていた柳の枝を手にとった。
 『彼女は、ここに座っている』
 白い雪の上に、女の身体に沿って線を描く。
 「女、なんだな?どんな容姿だ?」
 『背は高そうだ。薄黄色の髪で、蒼い目・・・あまり、生気がないね』
 本人の目の前では、少々言いにくいことだった。
 『白い服の上に、白い鎧。細工の綺麗な煙管(きせる)を持っている。それと・・・』
 カナタは目を凝らした。
 『これは・・・鎖?』
 どうかすると消えてしまいそうなほど、存在の希薄な彼女の身体に、銀色に光を弾く鎖が、幾重にも巻かれていた。
 そう言うと、サラームは悔しげに歯軋りして、麗華に、カナタの影に隠れているよう命じた。
 「美桃、結界を解け」
 美桃がうなずくや、透明な膜のように彼らを覆っていた何かが、ずるりと溶ける気配がする。
 途端、血のように紅い残照がカナタの目を射た。
 「お前達、ちょっと我慢してろ」
 今のカナタには、陽の光ですら、皮膚が灼かれるほどの痛みを伴うと言うのに、火の王は遠慮なくその身に炎を纏った。
 魂魄すら焼き尽くすその熱に、再び身を竦ませ、うずくまる花達を、かばうようにカナタは抱き締めた。
 『我を見上げよ!我を称えよ!』
 火の王の咆哮に、雪は白い蒸気となって消えていく。
 『生きるもの、死ぬるもの。この世にあるものは全て我が前にひれ伏せ!』
 雪の消えた地面は、黒い土を紅い陽のもとにさらした。
 『我が前に全ては暴かれる!!』
 太陽神・煌帝の言葉は、火精王を通して烈しい力を放出した。辺りは一面、炎の海と化し、厚く地面を覆っていた雪はすべて消え去ってしまった。やがて、炎がおさまると、露出した地面の上には一人の女が倒れ伏していた。
 「エアリー!」
 サラームは彼女の名を呼び、うれしげに駆け寄った。
 「エアリー!起きろよ!」
 ゆさゆさと乱暴に揺すると、サラームの力で引きちぎられた戒めの鎖は、同じく砕かれた彼女の鎧の上に音を立てて散らばっていった。
 「エアリー?」
 抱き起こしてやると、女の頭は力なく後ろに落ちる。
 「・・・死んじまったのか?」
 心音を聞こうと、サラームは反った胸に耳を当てた。と、その背を、だらりと垂れていた女の腕が這い上がり、彼の後ろ髪を乱暴に引いた。
 「・・・私を殺す気か、キサマぁぁっっ!!!」
 「生きてたか!よかったなぁ、エアリー!」
 「聞けぇ!!!」
 彼女を中心に、激しい風が巻き起こった。そして、それを機に、風が、澱んだ空気を流し始めのである。
 「・・・風が戻った」
 「風精王のもとに、風が集まってきたんやわ・・・!!」
 花達は歓声を上げ、彼女達をかばってくれた異人に、感謝を込めて口付けた。
 「美桃を愛するものが、カナタを愛するように」
 「樹李を愛するものが、カナタを愛するように」
 花達が声をそろえて言うと、カナタを苛んでいた強い刺激は消え去った。
 『・・・死ぬかと思った』
 「もう死んでるやないの」
 呆然と呟くカナタを、きょとんとした顔で樹李は見上げた。


 「・・・ひどいあり様だな」
 風を巡らせて、ひととおり地上の様子を見た風精王は、きつく眉を寄せた。
 「だろう?!はやく公主と依坤を助けてやらねぇと・・・!」
 サラームは、焦りの色も濃く風精王に詰め寄ったが、当の彼女は近くの岩に腰を降ろし、優雅に足を組んだ。
 「まぁ、待て。その前に一服させろ」
 言って、彼女は象牙の管に金の蔓草を絡ませた、美しい細工の長煙管を、ゆったりと唇に運ぶ。
 「のんきにしている場合かよ!!」
 だが、彼の怒声を微風とばかりに聞き流し、彼女はゆっくりと白い息を吐いた。
 タバコ独特の刺激臭どころか、何の匂いもしないその煙に、カナタは首をかしげる。しかもその煙は、消えもせず紫色に染まる空へ広がって行ったのだ。
 「エアリー・・・」
 雲となって空に浮かんでいく煙を目で追いながら、サラームは呆然と彼女の名を呼んだ。
 「公主が消えて、水が涸れてしまったんだろう?まぁ、私の力では大した雨を降らせることはできないが、ないよりましじゃないか?」
 笑みの容に吊り上げた唇に、彼女は再び吸い口を当てた。
 「・・・私の力が及ばなかったせいで、お前達には苦労をかけたな」
 花達を憐れむように見て、彼女はゆっくりと白い息を吐いた。
 「そして、カナタ。よく私を見つけてくれたものだ。心から感謝する」
 ついさっきまで、死んだような目をしていたとは思えない笑みで、彼女はカナタに礼を言った。
 「しかし、なんで俺達に見えないもんが、こいつに見えたんだ?」
 怪訝そうに首を傾げるサラームに、彼女は『多分・・・』とつぶやいて、吸い口を唇から離した。
 「異人ゆえに、この世界でないものが見えたんだ。
 おそらく私は、玄冥太子によって作られた異界にいたのだと思う。だからこの世界のもの達は、誰も私を見つけることができなかった」
 『異界・・・?あなたは、こちらに風を起こしていたのに?』
 カナタが問うと、彼女はにやりと口の端を曲げた。
 「封じられたとはいえ、この風精王をなめちゃ困る。狼煙代わりの風くらい、吹かせることはできるんだよ」
 ただし、それを続けるのは非常に困難で、随分と力を消耗してしまった。
 「もうだめかと思っていたら、いきなりこの馬鹿がとどめを刺しに来ただろう?ボケてた頭がすっかり醒めたぜ」
 「なんだー!俺のおかげか!感謝しろよ、エアリー!!」
 ばしばしと力強く背を叩かれて、風精王は激しくむせた。
 「・・・皮肉も通じねぇのか、この馬鹿が。
 大体キサマ、逃げられねぇ相手に、いきなり炎を叩きつけるとは、どういう了見だ!!」
 ぎっと、鋭くにらんだ相手は、だが、当然のように答えた。
 「だって俺、封印破りの術はあれしか知らねーもん」
 がごんっ!!
 ものすごい音をさせて、彼女はその煙管で力いっぱいサラームを殴った。
 「煙管が折れたらどうしてくれる!!」
 「俺の頭は割れてもいいのか!!」
 掴みあって罵詈雑言を吐きあう二人の王の姿を見ながら、カナタは既視感のようなものを感じていた。
 ・・・風精王、なんて比嘉にそっくりなんだ・・・。
 そして、火精王。
 ―――― 俺か?俺の姿なのかー?
 涙がこぼれないように見上げた空は、すでに紺色に染まっていた。
 ほとんど星の見えない空に、くっきりと浮かぶ満月。
 星座こそ違え、それは、彼が生きていた世界で見ていた空と、ほとんど変わりのないものだった。
 『・・・まだ空気が澱んでいるのかな?こんなに高いところにいるのに、星がほとんど見えないなんて』
 満天の星空よりも、光のまばらな空に懐かしさを感じるなんて、思いもしなかった。
 虚しく呟いたカナタを、花達だけでなく、王達すら動きを止めて呆然と見つめる。
 「・・・なに言ってんだ、お前」
 「・・・星はこれで全部じゃないか」
 『は?』
 空と王達を見比べて、カナタは眉をひそめた。
 『いくらなんでも、これは少なすぎるだろう?』
 空に点在する光は、一目で数え得るほど少ないわけではないが、いわゆる『天文学的数字』には見えなかった。
 が、王達は一様に首を振る。
 「東に俺の火精軍、西にこいつの風精軍。北と南は、闇精の北辰(ホクシン)と華南(カナン)の軍。別に少なくないぜ?」
 『なんで空に軍隊があるんだよ』
 「地上に軍を置いてどうするんだ」
 カナタにとって当然の問いは、風精王によってさも当たり前のように返された。
 「精霊王の軍は、この世界を・・・母皇陛下の御身をお守りするためにあるんじゃないか。外敵を懐内に入れてしまっては元も子もない」
 風精王の言葉に、サラームもうなずく。
 「俺達の軍は、三つの珠玉を守護するためにあるんだ。
 一つは当然、母皇陛下と湟帝陛下のおられるこの地上、『琅環(ろうかん)』。二つ目は、煌帝陛下のおられる太陽、『瑰瓊(かいけい)』。三つ目は、惶帝陛下のおられる月、『珂瑛(かえい)』だ。この三つが瓔珞(ようらく)のように連なって、この世界は存在する」
 言って、火の王は、闇に白く浮き上がる月を示した。
 「空にあるものを、どうやって地上で守れと言うんだ?」
 カナタの常識では図れないことを、サラームは当然のごとく語った。
 『・・・太陽とか月とか・・・大体、冥府はこの山の真下にあるって言わなかったか?!』
 思わず怒鳴るカナタを、二人の王は目を丸くして見返した。
 「お前・・・この世界の地下が、月に繋がらないでどこに繋がるんだ?」
 「いくら惶帝陛下でも、なんの繋がりもないままに魂魄を月まで運ぶことはできないと思うぞ?」
 混乱するカナタに、諭すような口調で風精王が続ける。
 「三つの珠玉は瓔珞のように連なっている、と言っただろう?瑰瓊は琅環に、琅環は珂瑛に、珂瑛は瑰瓊に連なっているんだ」
 「連なっているって・・・宇宙に浮かんでるもの同士が、どうやって繋がるんだよ!」
 「だから、俺達が繋げてんだって」
 サラームが、カナタの飲み込みの悪さにうんざりした様子で息をついた。
 「三つの珠玉に三人の皇帝と六人の王がいる。
 風は水に、水は地に、地は闇に、闇は光に、光は火に、火は風に繋がり、三つの珠玉を結びつける。
 そうやって世界は循環し、成り立っているんだ」
 『ここは・・・俺の知っている世界とは違いすぎる・・・』
 サラームの複雑な言葉に頭を抱え、うつむいた目の端に花達の姿を捉えたカナタは、『それじゃぁ・・・』と顔を上げた。
 『玉華泉は、どこにあるんだ?』
 カナタの問いに、花達はふっくらと笑う。
 「玉華泉は、この世界のどこにもないんよ」
 「でも、この世界のどこにでも現れることができるんやわ」
 なぞなぞのような答えに、カナタはとうとう音を上げた。
 『ここは不思議の国かー!!俺はアリスになっちまったんだー!!』
 「泣くなよ」
 冷静に言う火精王に、カナタは怒りと共に詰め寄る。
 『じゃぁアンタは、生き物のいる星が無数の星の中の一つでしかなくて、そこには精霊なんか一人もいなくて、守るものもなくただ太陽の周りを365日かけて一周しているだけなんて想像できるのかっ?!』
 「まぁ、世界にも色々あらぁな」
 『感想はそれだけか―――!!!』
 絶叫するカナタを、まぁまぁと風精王がなだめる。
 「私は、お前の住んでいた世界どころか、どうやってこの世界ができたのかを知らない。世界の初めであった混沌が、どうして『母皇陛下』となり、三人の皇帝方を生んだのかを知らない。 もしかしたら、別の世界からきた何者かが、手を加えた結果かもしれないが、この世界はこの世界として成り立っているんだ―――― お前は、なんと脆い世界かと思うかも知れないがな」
 カナタの思いを見透かしたような笑みに、彼はぎくりと身をこわばらせた。
 「だが、お前は、この世界の全てを見たわけではないだろう?全ての精霊王がそろった、完全な世界を」
 組んでいた足をほどき、彼女は立ち上がった。
 女のくせに、カナタより頭ひとつ分背が高い風の王は、手に持っていた煙管を腰帯に挟んで、軽く伸びをした。
 「見せてやるよ、お前に。・・・まぁ、全てを元通りにするのは無理だろうが、それに近い形に戻すため、公主と長老を助けに行こうか」
 不敵な笑みを浮かべ、彼女が見上げた先には、白い月が浮かんでいた。
 「ああ。運のいいことに、今日は満月だ」
 風精王と共に月を見上げたサラームも、その口の端を吊り上げる。
 満月の昇る日。
 闇精王の軍の大半は、冥府からこの世界に生まれ出でる魂魄を守るため、世界中に散っている。
 「・・・攻めるにはいい時だぜ、シルフ」
 戦いの予感に頬を紅潮させて、サラームは風精王を別の名で呼んだ。
 だが、女はその白い顔に冷笑を浮かべて彼を見返す。
 「だからお前は単純だと言うんだ。
 まだ水のないこの世界に、怒り狂っている『嵐』を呼んでみろ。お前の力を無理にでも取り込んで、暴れまわるに違いないぞ」
 世界中でくすぶっている『火』を暴風が巻き上げれば、ただでさえ荒廃した世界は焼き尽くされてしまうだろう。
 だがサラームは、彼女の当然とも言うべき答えに瞠目した。
 「・・・お前が攻めるのか?お前に、できるのか?」
 将軍の地位にある者に対して言うには、あまりにも無礼な言葉だったが、それに対して彼女は、眉をひそめただけで、反論はしなかった。
 「お前は守将だろう?!攻めは全部、シルフに任せていたじゃないか!」
 彼の言う通り、彼女は守りを得意とする将軍。だが、彼女のもう一つの人格、『シルフ』の方は、男の身体に好戦的な性格。どんなに逼迫(ひっぱく)した状況でも、常に余裕の笑みを浮かべ、敵をなぎ倒していく猛将である。
 互いに補い合う、この二つの人格によって、風精王は『不敗』の名をほしいままにしてきたのだ。
 「慌てるな、馬鹿。いつ私が行くと言った?
 私は長い間、虜囚の身に耐えてきたんだ。もう休むにきまっているだろう」
 「・・・だったら、誰が冥府に行くんだ」
 散々馬鹿にされて、ようやくむっとしたらしいサラームが口を尖らせた。
 「教えない」
 「なめてんのか、キサマ!!!」
 詰め寄るサラームに、だが、彼女は更にきっぱりと言った。
 「お前には教えたくない。冥府にもついてくるな」
 口調は毅然としていたが、その瞳に、わずかに揺らめくものがあった。
 やがて、彼女はサラームから目を逸らすと、そのまま美桃と樹李を見下ろした。
 「だが、樹李。お前には来てもらおう」
 その命令に、樹李はみるみる青ざめていく。
 「・・・風精王、この子は無理やわ。アタシが・・・」
 美桃はそう言って、力を使い果たした身体を無理にでも起こそうとするが、その上に降って来たのは、いたわりの言葉ではなく無情な宣告だった。
 「お前では役に立たない」
 「そんな・・・!」
 哀願するように見上げてくる目を、しかし、彼女は冷ややかに見下ろした。
 「動けないお前に、何ができる?戦場では、私に逆らうことは許さない」
 言われて、哀しげに俯いた美桃の頭を、サラームはなぐさめるように軽く叩いた。
 「玉華泉まで、送ってってやろう」
 ひょい、と抱き上げられて、美桃は思わず身体をこわばらせたが、火の王の身体はもう、彼女を苦しめるほどの熱を持っていなかった。
 「・・・サラーム」
 嫌にあっさりと退いた火の王の態度に、少々驚きながら風精王は彼の名を呼んだ。
 「安心したぜ」
 美桃を腕に抱いて、サラームはにっと笑う。
 「―――― 『戦場では私に逆らうな』。常勝将軍の口癖だ」
 からかうように口調を真似て、火の王は彼女に背を向けた。
 「公主とジジィを頼んだぜ。助けがいる時は、俺に伝令でもよこしやがれ」
 言って彼は、屈託なく笑う。
 その言葉に、彼女は自分がまだ、火の王の信頼にたることに、心の底から安堵した。
 「まかせておけ」
 思わず滲んだ笑みは、誇らかに輝いていた。


 山を降りようとするサラームの後に、当然のごとく従おうとしたカナタを、風精王が背後から呼びとめた。
 「私には、公主と地精王の姿が見えないかもしれない」
 そう言って、彼女は樹李と共に、彼に冥府についてくるよう命じる。
 「どうせ、美桜から『生き返らせてやろう』と言われてるんだろう?だったら公主と地精王に恩を売っておくべきだぞ。
 この世界で、御子と長老に逆らえる奴はいないからな」
 にやりと笑みを浮かべて、彼女はカナタに、冥府に着くまで樹李の影の中に入っているように指示した。
 言われるままに、彼は自身の影に麗華を隠したまま、樹李の影の中に沈んで行く。
 車のトランクの中に押し込まれれば、こんな感じだろうか。
 樹李の影の中は暗くて、辺りは何も見えないのに、樹李が歩く振動と、声だけはちゃんと伝わってくる。
 『・・・風精王』
 呼びかけると、なんだ、と問い返された。
 どうやらこちらの声も届くらしい。
 『まさか、このまま冥府に攻め入るなんて事はないよな?』
 「お前に危害は加えさせない」
 よほど不安げな声だったのか、彼女は子供をなだめるように優しい声音で言った。
 「・・・地精王と闇精王のことは、惶帝陛下に裁可を仰ぐようにとの、湟帝陛下のおおせです。くれぐれも私刑は・・・」
 恐る恐る、小さな声で言う樹李を、風精王はその腕に抱き上げて目線をあわせた。
 「私は精霊王だ。そんなことは、言われずともわかっている」
 叱られたと思ったのか、涙を浮かべて俯く少女に、風精王は薄く笑みを浮かべた。
 「もっとも、私の中の『シルフ』は、早くこの身体をよこせと、冥府を破壊してやると、怒り狂っているがな」
 不吉な言葉に、樹李の体が震えだした。
 「恐がらなくていい。今の奴に、この身体は渡さないから。
 しかし、私は『風精王』の中では穏やかな方なんだがな。そんな私でも、今回のことには憤りを抑えきれない。
 ここは、お前達には気の毒だが、『彼』に任せる」
 謎の言葉を残して、彼女はそれきり黙りこんだ。
 話し掛けても返事はなく、樹李の、怯え、早まる鼓動だけが闇の中に響く。
 外で何が起こっているのか、わからないままに時間は経ち、やがて、風精王が歩みを止めた。
 「―――― 出て来い」
 低い静かな声がカナタに向けられた。
 言われたとおり、樹李の影から出て来たカナタは、そこに知らない男の姿を見て呆然とした。
 闇の中でも煌めきを失わない、鮮やかな金髪に、光を孕んだ氷のように蒼く冷たい瞳。
 全身を白い鎧で覆っていた女将軍と異なり、風を孕んだやわらかな白絹の長衣を纏ったその男は、小さな樹李の身体を、荷物でも持つように無造作に抱えて佇んでいた。
 『・・・風精王?』
 容姿どころか、性別すら変っている精霊王に、呆然と問い掛けると、彼は軽くうなずいて再び闇の奥へと歩を進めた。
 「無幾(ムキ)だ」
 それが彼の名だと気づくのに、少々時間がかかった。
 『無幾・・・えっと・・・もう、冥府に着いたのか?』
 早足で前を進む彼の後を慌てて追って、カナタが問うと、彼はクイ、と、軽く顎で右側を示した。
 『え・・・?』
 見遣った紺色の空に蒼く浮かぶのは、地球によく似た惑星・・・。
 『・・・あれは・・・さっきまでいた・・・?』
 『琅環(ろうかん)』と呼ばれる水の惑星は、その身の上に地獄をえがいているなどとは思えぬ美しさで紺青の空に浮かんでいた。
 『じゃぁ、ここは月・・・?』
 カナタは辺りを見回したが、深い闇に染められ、その場の様子すら伺う術はない。
 「黙ってついて来い」
 有無を言わせぬ調子で、彼は命じた。
 地上で出会った風精王とは、全く別の人格に、カナタはどうしようもなく戸惑う。
 だが、そんな彼の様子を見かねた麗華が、彼の中でそっとささやいた。
 『心配しないで  風精王はいくつもの姿をもってらっしゃるの
 あの方の言う通りにして  そうすれば間違いはないから』
 いくつもの姿・・・。
 カナタはその言葉に、幼い頃に読んだ、昔話や神話に出てくる神を思い出した。
 様々な姿に身を変えて、奇跡をおこす神々。
 おそらく、精霊とはそんなものなのだろう。
 そう思い、無理やり自身を納得させて、カナタは彼の後に続いた。


 彼について、かなりの時間、闇の中を歩いた頃だった。
 低い、地響きのような音があたりに満ちてくるのを感じて、カナタは辺りを見回した。
 だが、いくら経っても目が闇に慣れると言うことはなく、琅環(ろうかん)が発する淡い光を白い長衣に受けた無幾の姿がようやくみえる程度だった。
 『無幾、この音は・・・?』
 返事を期待できないのはわかっていたが、獣の唸り声に似た音が、だんだん大きくなっていく様に不安は増して、聞かずにはいられなかった。
 「止まれ」
 案の定、問いには答えず、彼は短くカナタに命じた。
 だが、勢いのついた足は急に止まることができず、そのままニ三歩進んだところを、下から吹き上げてくる突風にあおられ、カナタは慌てた。
 目を凝らしてみると、その先に地面はなく、深い谷が闇を呑んで暗くわだかまっている。
 唸り声はそこからあふれ出で、あたりの空気を震わせていた。
 『・・・・・・・・・これは?』
 恐怖を感じずにはいられない、不気味な谷は、しかし、目を逸らすことを許さぬ引力をもってカナタを強く惹き付けた。
 「坎瓔宮(かんえいきゅう)の門前だ」
 『坎瓔宮・・・』
 冥府の女神が住まうという、闇の宮殿。
 『じゃあもしかしてこの谷は、宮殿を守る堀なのか?』
 広い谷の向こう側は、闇に染まって全く見えないが、城壁があるのかもしれない。
 そう問うと、風精王は微かにうなずいた。
 「入るぞ」
 短く、彼は言った。
 彼の求める公主は、この中にいる。
 玄冥太子の住まう艮琅宮(こんろうきゅう)で、他ならぬ父神に囚われて。
 『でも、どうやって・・・』
 呆然と問い返すカナタに、彼は『門を開けさせる』と、当たり前のように言った。
 『そ・・・そりゃそうだよな』
 サラームが、『攻める』だのなんだのと言うものだから、すっかり隠密行動だと勘違いしていたが、そもそも公主を取り戻すのは湟帝の指示であり、闇精王に危害を加えるつもりがない以上、こそこそと隠れる必要はないのだ。
 きっと、中の門番に呼びかけて、中から門を開けてもらうのだろうと安心した矢先、彼が、抱いていた樹李の身体を谷の中に放り投げた。
 「―――――――――――っ!!」
 『何をするんだ!!』
 恐怖のあまり、声も出せずに落ちて行く樹李の体を目で追いながら、カナタは絶叫した。
 『どういうつもりだ!!』
 詰めより、胸倉を掴もうとするカナタの手を、風の王はさらりとかわす。
 『無幾!!』
 激昂するカナタを、無幾はうるさげに見遣ると、視線を谷に戻して軽く手をひらめかせた。
 「樹李」
 彼の興した風に身を掬われ、空中に寄る辺なく留まった樹李は、声も出せぬまま震えて彼を見上げた。
 「鳴け。そのために連れてきたんだ」
 あどけない頬を涙にぬらして、樹李は闇の中で震えている。
 「・・・た・・助けてっ・・・・・・・!!!」
 「もっと大きな声で」
 冷ややかに言って、彼は樹李を支えていた風を流し去った。
 途端、樹李の身体は闇の中へ落ちて行く。
 「きゃぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 喉が裂けんばかりに樹李は悲鳴を上げた。
 『樹李!!』
 カナタは谷の際から身を乗り出して、樹李の姿を探した。彼女の白い姿は、闇の中に不思議と浮かび上がり、谷の底に上がった黒い飛沫に濡れる様さえ見てとれた。
 「いや・・・っ・・・!!助けて!!!いやぁ――――――――っ!!!」
 『何か・・・いるのか?!』
 樹李の悲鳴に、カナタは闇へ目を凝らした。
 そこは、深いだけの谷だと思っていたが、落ちた彼女の周りで、タールのように粘つく黒いものが蠢いている。
 それらは獣の咆哮するような声を上げて、次々と彼女に襲いかかり、その中に取り込もうとしていた。
 「冥府が封じている、化け物達だ」
 氷の色をした目に、黒く蠢くもの達を映しながら、無幾(ムキ)は独白のように呟く。
 「やつらも、サラームか私の軍に倒されたなら、苦しまずに死ねたものを」
 天球の北と南に陣取り、三珠が巡る天道を守護する闇の精霊達は、その強大な力のほとんどを封じること、守護することに使っており、火や風のように、敵を完全に消し去る事を得意としない。
 ゆえに、彼らの手にかかった侵入者達は、死ぬこともできず、飢えた腹を満たすために新たな侵入者を喰らっては、惶帝の城壁を護らされているのだ。
 『樹李をやつらに食わせるつもりかよ!!』
 「まさか」
 カナタの方を見ようともせず、彼は軽く指を鳴らす。と、樹李の髪を掴み、その喉に喰らいつこうとしていた化け物の体が、岩にぶつかった波のように砕け散った。
 「あ・・・」
 あまりの恐怖に、意識を失いそうになった樹李の耳元で、その髪の花飾りが脅すように弾ける。
 「鳴け。失神すれば、化け物どもに喰わせる」
 再び、谷の底から涙混じりの悲鳴が湧きおこる。
 その悲痛な姿を見かねて、カナタが目を逸らした時だった。
 谷の向こう側で、鎖の擦れ合う大きな音がしたかと思うと、激しい振動と共に吊門が落ち、谷に長大な橋を渡した。
 間もなく、城の中から一人の青年が現れ、未だ震えつづける橋を軽々と渡って対岸近くまで来ると、ためらいもなく谷の中へと飛び降りた。
 黒いマントを蝙蝠の羽根のように翻した彼が深い谷の底に降りたつや、黒いよどみの中に起こった波紋の広がりとともに、激しかった唸り声が遠のいていく。樹李の身体を喰らおうと、荒れ狂っていた化け物達が、彼の気配に怯え、急激に静まっていったのだ。
 「大丈夫かい、樹李ちゃん?」
 磨きあげた石のように滑らかになった谷の底を悠然と歩いて、彼は樹李に笑いかけた。
 「かわいそうに。声も出ないほど怖かったか?」
 瘧(おこり)にかかったように激しく震える樹李を抱き上げ、涙で頬に張り付いた髪を優しく梳き上げて、彼は緋色の瞳を和ませた。
 「・・・北辰(ホクシン)さんっ・・・!!」
 天球の北を護る将軍は、すがり付いて泣きじゃくる少女の背を、優しくなだめながら笑った。
 「落ちちゃったのか?来るって言っててくれれば、迎えに来てやったのに」
 言うと、彼は樹李を抱いたまま崖に突出した岩を蹴って、軽々と谷の対岸に上がった。
 「はい、到着!もう落ちるんじゃないぞ?」
 おどけるように言って樹李を地上に降ろすと、彼は彼女の頭を優しく撫でた。
 「せっかく可愛くしてたのに、髪も服もぼろぼろだな。
 おいで。華南(カナン)の所に行って、可愛い服を用意してもらおう!」
 英婁(エイル)にお菓子ももらおうな、と、笑いながら少女の手を取ると、彼は吊門に向かって歩き出した。
 だが、そこに至る前に、彼は目に見えない鎖に全身を戒められた。
 「私には挨拶もなしか、北辰?」
 突然目の前に現れた男の姿に、青年は目を見開く。
 「風精王?!」
 戒められた身をよじり、自由になろうとするが、もがけばもがくほど戒めはきつくなっていく。
 「一体今まで、どこに消えていた?!その上俺にこんな真似をして、何のつもりだ!!」
 「私がどこにいたか、知らないとでも?」
 冷ややかな口調に、北辰は不快げに眉を寄せた。
 「あんただけでなく、火精王までよく消えてくれてな。いい迷惑だったぜ!」
 天軍の将が消えるとは何事かと、侃々(かんかん)とわめく彼に、無幾は不吉な影のように音もなく近寄った。
 「樹李を谷に落としたのも、あんたの仕業か?!」
 問いに答えもせず、彼は北辰の喉元へと右手を伸ばす。
 「風精王!!何をするんですか!!」
 樹李の悲鳴を無視して、彼は北辰の首を締めあげた。
 「知らないだと?お前の王が、この私に与えた屈辱を?」
 表情のない顔から洩れる声は、押し殺したように低い。
 「ここに嵐を呼んでやろうか?奴が、どれほど怒り狂っているか、その身をもって知るか?」
 他人のように自身を語る彼に、北辰は全身が粟だって行くのを抑えられなかった。
 「・・・まさかあんた・・・無幾(ムキ)・・・?!」
 北辰は、ものすごい力で首を締め付けられながらも、何とか声を絞り出した。
 彼は答える代わりに、吊るし上げた北辰の目を、冷ややかな瞳で覗きこんだ。
 けして溶ける事のない、氷のような・・・。
 その目を、北辰は一度だけ見たことがあった。
 天軍が、どうしようもなく危地に立たされた時。
 火精王が退き、華南が敗れ、闇精王すらも防御が精一杯と言う、最悪の事態を打破したのは、風の猛将でも守将でもなく、音すら消し去る真空・無幾(ムキ)だった。
 彼は現れるや、戦の状況と敵の情報の全てを掌握し、冷酷に、残酷にそれらを操って、敵を自ら退かせたのである。
 ―――― 外面がどんなに荒れ狂っていようと、中心には必ず冷酷に静まりかえった人格がいる。
 北辰はその時初めて、風精王が不敗である理由を知ったのだった。
 「八つ裂きにされたくなければ、私を惶帝陛下の元へ案内しろ。誰にも知られぬようにな」
 冷ややかな口調で脅された北辰は、しかし、逆に冷静さを取り戻した。
 「断る。北方将軍の名にかけて、王と湟帝陛下をお守りするのが俺の役目だ」
 言うや、彼は一切の抵抗を止めて、その全身から力を抜いた。
 「やるならやれ」
 軽く目を閉じ、低く呟いた彼に対する、風精王の答えは短かった。
 「そうか」
 途端、風精王の周りの空気が変わった。
 北辰の身体をを絡めとった、目にみえぬ風の鎖が、更なる力を持って彼を締めつけていく。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・かはっ!!」
 肺から全ての呼気を取り去られ、北辰は声を上げることもできず、苦しげに目を剥いた。その耳の奥では、血が激しく流れる音が響き、巨大な足に踏みつけられているような圧迫感に、身体中の骨が悲鳴を上げる。
 「北辰さんっ!!」
 もはや、樹李の声も届かない。みるみる赤黒く膨れていく顔からは血が吹き出し、眼窩(がんか)から緋色の目が押し出されていく。
 『・・・気圧か?!』
 カナタは愕然と呟いた。
 彼は北辰を包む空気の圧力を急激に上げて、吊られた闇精を圧し潰そうとしているのだ。
 そんなことを、たやすくやってしまうとは・・・。
 カナタには、この世界の精霊達に、恐怖をおぼえずにはいられなかった。
 「やめてぇっ!!」
 無幾は、絶叫する樹李をちらりと見遣った。そのままようやく震えを止めた吊門に視線を移す。まるで、何かを待つのように。
 だが、城内からは誰も、現れる様子はない。
 「・・・まぁ、それもいいか」
 不気味に、彼が呟いた時だった。
 ぼぅ、と、宙に白い女の首が浮き上がり、カナタは息を呑んだ。
 「無抵抗の相手を嬲るなんて、いい趣味ね、風精王」
 紅く染めた唇から、ソプラノの声が洩れ出る。言葉は皮肉的だが、その声音に感情の昂ぶりはない。
 「待っていたぞ、華南(カナン)」
 何もない空間から、突如として現れた女に、驚きもせず無幾は言う。
 「北辰を放してちょうだい。陛下のもとへは、私が案内してあげるわ」
 無幾が、無言で北辰の身体を放り投げると、彼女は闇色のマントに包まれていた白い腕を開いて、彼を抱きとめた。
 「かわいそうに。抵抗できないとわかっていて、ひどい事をするのね」
 北辰の白い髪に、そっと手を滑らせる様子は、母親のように優しかったが、やはりその声音に感情の色はない。
 「案内しろ」
 にべもない無幾の声に反発もせず、彼女は軽くうなずいた。
 「どうぞ、無幾。私の中にお入りなさいな」
 細い左腕に、軽々と北辰の身体を抱いて、華南は右手でまとっていたマントをはらりと脱ぎ捨てた。
 とても武人には見えない、細い身体をした南方将軍は、ロングドレスのような黒い長衣の裾を長く地に引いている。その上を同色の鎧で、肩と胸、胴の周りだけを覆っていたが、武装と言えばそれと細身の剣のみだった。
 ―――― まるで、ワルキューレのような。
 カナタは高校生の時、授業で見たオペラを思い出した。
 高い声で勇ましく歌う、神の娘達。
 だが、ギリシャの戦女神と違って、彼女達が守るものは、誇り高い死者の魂と死の国である。
 彼女は北辰の身体をゆっくりと地に横たえ、その上にマントをかけてやると、仮面のように揺らがぬ顔を無幾に向けた。
 無幾がその、細いあぎとを捕え、上向かせた時も、彼女は眉一筋動かすことなく、静かに目を閉じて精霊王のくちづけを受けた。
 『・・・・・・・・・・・・・・何してんだ、奴は』
 思わず呟いたカナタの目の前で、不意に無幾の姿が霞んでいく。
 『無幾・・・?』
 目を凝らすが、彼の姿はどんどん希薄になって行き、とうとう闇の中に溶け込むようにして、消えてしまった。
 『無幾!!』
 「華南さん・・・っ!」
 違う名を叫ぶ二人の前で、女はがくりと膝を折り、両手を地についた。
 背で軽く束ねていた白い髪が、はらりとほどけて地を這う。
 「華南さん!!」
 涙声で彼女に走り寄った樹李が、その肩に触れた途端、冷たく突き飛ばされた。
 「かな・・・っ」
 地面に叩きつけられ、呆然と顔を上げた樹李は、華南の長い髪の間から覗いた目に、身をこわばらせた。
 白い髪の中で、不気味に光る青白い瞳・・・。
 顔は華南のままでありながら、その表情は男のように硬く引き締まっている。
 『・・・無幾?』
 まさか、と自らの言葉を信じられぬままに、カナタは呟いた。
 華南の姿をした者は、無造作に立ち上がると、長い髪をかきあげてほどけた髪を結いなおした。
 「行くぞ」
 声こそ高い、女のものだったが、その口調はまぎれもなく無幾のもの。
 『一体何をしたんだ?!』
 さっさときびすを返して、吊門へと向かう彼女・・・いや、彼を追いながら、カナタは声を荒げた。
 だが、無幾はそれを無視して、足音もたてずに長い裾を優雅にさばいて行く。
 『無幾・・・!』
 鎧に覆われた肩を掴もうと伸ばした手は、あっさりとかわされ、たたらを踏んだカナタの腕を、樹李がすがるように掴んだ。
 「華南さんは・・・風精王に身体を奪われたんやわ」
 闇の中でもそうとわかるほど蒼ざめ、震える声で樹李はささやいた。
 『・・・なんだって?』
 呆然と無幾の背を見つめるカナタの中で、女の声が響く。
 『精霊は 他人の中に入り込むことができるの  あなたの影の中に 私がいるように
 精霊王ともなれば 入り込んだ者の身体を乗っ取ることも可能だわ』
 『・・・恐いことを言うなよ・・・』
 舌打ちしたい気分で吐き捨てたカナタの中で、苦笑混じりの声が再び響いた。
 『心配しないで  私にはあなたの身体を乗っ取るだけの力はないから』
 『・・・本当に?』
 彼の不安は、中にいる麗華には思った以上に伝わったらしい。
 『まぁ・・・!』
 そう言ったきり、彼女は黙りこんでしまった。
 『ご・・・ごめん・・・』
 謝っても、声は返ってこない。どうやら完全に怒らせてしまったようだ。
 『ど・・・どうしよう、樹李ちゃん』
 「ど・・・どうかしたん?」
 不安げに見上げてくる樹李の身体が、不意に浮き上がった。
 「――――聞こえなかったのか?行くぞ」
 無造作に樹李を抱き上げた無幾は、再びカナタに背を向けて、早足で吊門へと向かった。
 慌ててその後を追い、吊門に至ったカナタは、その目の前に立ちはだかる巨大な城壁の姿を、橋梁に足を掛けることも忘れて呆然と見上げた。
 『・・・・・・すごい』
 闇の中に、圧倒的な質量をもって君臨する月の城は、しかし、意外にも威圧感を与えなかった。それどころか、中からは多くの人間が住まう街の中のようなざわめきと、甘い花や果実の香りが漂い出て、カナタを宮城の中へと誘っていた。
 「華南将軍、北辰将軍はいかがされました?」
 李花を抱き、一体の魂魄を従えて吊門を渡ってきた華南に、門番らしき兵士がおどろいて声をかける。
 しかしその声の中には、『将軍』への懼れはない。尊敬のこもった親しみ深い声音に、カナタは華南と言う闇精の将軍が、兵達に慕われている存在なのだと知った。
 そして、その彼に理知的な笑みを返した華南の声も、その身が無幾に奪われているとは思えぬほど優しく、穏やかだった。
 「かわいそうに、樹李は堀の中に落ちてしまったそうよ。
 怯えている女の子を、北辰になんか預けてはおけないでしょう?だから奪ってきてやったの」
 冗談含みに言って、華南は抱き上げた樹李に優しく頬を寄せた。
 「北辰は外ですねていてよ。
 どうかしら?いじわるして、門を閉めてやると言うのは?」
 くすくすと笑う姿は、無幾と対峙した時の無表情さとは別人のようだった。
 いや、事実、その身を無幾に奪われ、別人であるはず・・・。
 周りに集まってきた兵達へ向ける笑みの下には、無幾の冷酷な顔が潜んでいるのだ。
 ―――― 一体、何を企んでいるんだ?
 目の裏に、無残に吊るされた北方将軍の姿が浮かんで、カナタは胸を詰まらせた。
 「どうかしたのか、その魂魄は?」
 息をつめて華南の背中を見つめるカナタに気づいた兵士が、緋色の瞳に怪訝な色を浮かべた。
 「迷って、玉華泉に入ってしまったのを、樹李が連れて来てくれたんですって。
 えらかったわね、樹李」
 薄い唇を笑みの容に曲げて、華南は樹李の若芽色の瞳を覗き込んだ。
 だが、いつもは暖かになごむ緋色の瞳は、硬い紅玉のような冷たい光を宿す。
 思わず身を震わせた樹李を抱きすくめ、兵達の目から彼女の動揺を隠すと、華南はことさらに優しい声音で言った。
 「―――― 魂魄を眠りの地へ連れて行きましょうね。その後でゆっくり遊びましょう、樹李」
 視線でカナタをうながし、宮城の奥へと歩んでいく彼女を止める者など、一人としていなかった。


 厚い城壁の内側は、多くの精霊達で賑わい、ざわめいていた。
 闇精の宮城ゆえか、燈光はまばらで、闇の色が濃かったが、鎧を鳴らして歩く兵達に陰気さはない。
 城壁に囲まれた広場をしばらく行くと、目の前に扉を開け放った壮麗な門が現れ、その先には広い道が続いていた。
 『・・・ここが城内じゃなかったのか』
 中国などに今も残る、城市と同じなのだろう。
 宮城の周りに広がる街ごと城壁で囲んだ、広大な城の姿に、カナタはため息を漏らした。
 樹李を抱いたままの華南が、ちらりと肩越しに視線を投げる。そして、さりげなく人目を避けて大路をそれると、樹李を地に降ろした。
 「―――― 樹李。ここからなら地精王の気配をたどれるな?」
 青白く、冷たい瞳で見下ろしてくる華南・・・いや、無幾を見上げて、樹李は怯えそうになる自分を叱咤するように強く頷いた。
 「何か聞かれたなら、魂魄を連れていくのだと答えろ。行け」
 無幾は軽く顎をしゃくると、そのまま大路の方へときびすを返した。
 『どこへ・・・?』
 思わず呼びかけたカナタに、無幾が一瞬、足を止める。
 「公主をお救いする」
 低く呟くや、そのまま彼は、振り向きもせず行ってしまった。
 『一体なんなんだ、奴は・・・?!』
 無幾の背を見送ったカナタは、彼の、信じがたいほどの無礼さと冷酷さに、怒りを込めて吐き捨てた。
 『女の風精王がサラームに『ついて来るな』って言ったはずだぜ。あんな根性の悪い人格を見られたら、嫌われるに決まってるからな!』
 憤然とまくしたてるカナタに、しかし、樹李はふるふると白い頭を振った。
 「アタシも、無幾王は初めてみたんやけど、風精王の人格の中でこの状況に最もふさわしいんは、あの方やわ」
 彼によって、散々恐い目に遭ったと言うのに、それを全く気にしていないような、樹李の口ぶりだった。
 「アタシは地精王に『樹李』の名を賜ったんよ」
 カナタの手を引いて、細い道を奥へと導きながら、樹李はぽつりと呟いた。
 「昔はここで、地精王に仕えとったんやけど、李花は先代が散ってしもうたから、一番古いアタシが、玉華泉に戻らないかんようになったんやわ。
 北辰さんや華南さん、それに、冥府の宮殿を守る英婁(エイル)さんには、いつもかわいがってもろぉてたんよ」
 ほとほとと、乾いた石畳の上に柔らかい足音を立てて歩く少女の、人形のように可愛らしい顔を見下ろして、カナタは深くうなずく。
 可憐な、と言う言葉の化身のような少女は、甲冑に包まれた彼らの目に、どれほど愛らしく映ることだろうか。
 門番達は華南の腕の中で震えていた少女に優しく笑いかけ、何かと構いたがっていたし、彼らが通ってきた大通りでも、多くの兵達が少女に暖かい視線を送っていた。
 「だから・・・無幾王はアタシを連れてきたんやわ。
 今日は満月で、本当なら死者の魂を受け入れる北門は閉まってるものやけど、アタシが門の外で泣けば、北辰さんが助けに来てくれるのはわかってた。
 風を使って、アタシの泣き声を南門まで届けてしまえば、生まれていく魂魄を送り出すために門を開け放している華南さんの耳にも届くやろう。あの優しい女将軍が、わざわざ出てきてくれるやろうと言うのは、別に賭けでもなんでもなかったんやわ」
 きり、と眉をきつくひそめて、樹李はふと立ち止まった。
 つい、と空に顔を向け、あたりの気配を探るように眺めまわして、『こっち』と道を左にそれた。
 「・・・無幾王はきっと、風精王の人格の中では、『凪』にあたるんよ」
 『凪・・・?』
 ふわふわと揺れる髪の上を、無残に千切られた花飾りの欠片が零れ落ちていく様を見て、カナタはそれを砕いた男の、冷たく凍った横顔を思い出した。
 「アタシは今まで、風精王の人格は2つしか知らんやったの。
 天空に雲を流し、地を潤すエアリー王。カナタさんが見つけた、女将軍やね。そして、火精王や他ならんエアリー王に『嵐』やと言われてたシルフ王。
 でも、美桜姐さんから聞いたことがあるんやわ。風は、どんなに激しく荒れ狂おうと、必ずその中心に静かで動かんものをもってるんよって」
 きっと、風の『目』のことだろう、と、カナタは察した。
 どんなに激しく渦巻こうと、風の渦の中心には必ず、周りの嵐が嘘のような無風地帯が存在する。
 カナタは、『風の精霊』というものを、改めて認識した。
 彼は今まで、普通の人間と同じように話し、ここまで共に来た人物が、人外の存在であるなどと信じきれずにいたのだ。
 そして今、この手を引く少女の事も。
 伝わってくるぬくもりも、足早に歩きつづけて上がる息づかいも、人間の少女となんら変わる事はない。
 だが、この少女はカナタと同じ生き物ではないのだ。
 「カナタさん?」
 思考に囚われ、足の緩んだカナタを、樹李が不思議そうに見上げた。
 「こっちよ」
 くんっと改めて彼の手を引き、少女は闇の奥へとカナタを導いて行った。




〜 to be continued 〜


 










『メイグイファ』って、日本でも売ってるじゃん!!!!!(絶叫)
パソコンで字が表示できないなんて、思ってもいませんでした・・・(とほほー;;)
仕方がないので、『瑰瓊(かいけい)』になってしまった太陽の名・・・。
まぁ、これも紅玉の名前っすけどね・・・。(ぶぅ)
『マイカイ(紅い美玉の名。または薔薇科の花・ハマナスの名前)』って言葉を使いたかったのによーう(TT)
『琅環(ろうかん)』も、ホントは『王干(カン)』(←一文字)って字を使いたかったのに、でなかったんすよーう・・・。『真珠に似た青い珊瑚』って意味だったのに(TT)はぅぅ(TT)
しかし、新たに発見した『GrandTourメモ』を見てびっくり;;;
サラーム、『焔(ほむら)』と言う名前に改名しようとしてたんだね;;;早く見つけていれば、こんなアンバランスな名前で出なかったのに(^^;)←遅っ;;
ちなみに、風精王の別人格、『無幾(ムキ)♂』の名は則天武后の時代の人、『長孫無忌(ちょうそんむき)』から。なんでって・・・なんとなく・・・・(おいおい;)
本当は、『シュウ』と言う名前だったのですが、これもパソで字が表示できませんでした・・・。
漢和辞典くらいの字は表示しようぜー・・・パソー・・・(T▼T)












Euphurosyne