◆  9  ◆







 冥府の女帝が住まう坎瓔宮(かんえいきゅう)は、北門から続く大路と南門から延びる大路のぶつかる場所、城市の中央にある。
 白亜の宮城の周りには、鏡のように澄み、揺らがぬ湖水が渺漠(びょうばく)と広がり、幻想的な美しさを見せながらも侵入者を冷たく拒んでいた。
 「坎瓔宮へ渡してちょうだい」
 無幾は、華南の顔におっとりとした笑みを浮かべて、『門』を守る兵達に命じた。
 南方将軍の道を、阻むものなどいようはずがない。
 恭しく拝命するや、長に命じられた四人の兵が一斉に剣を抜き、地に突き立てた。
 『我と共に在れ』
 低く、ささやくように兵らが唱和するのは、水の支配者・湟帝の言葉。
 『我こそは至高の恵み。生命の支配者』
 一言発するたびに、目にみえて消耗していく兵達の様を、無幾は無言で見つめていた。
 『全ては我が器となれ!』
 最後の言葉を言い終えるや、倒れるように地に膝をついた兵達に、華南らしくねぎらいの言葉をかけてやると、無幾は坎瓔宮まで延びた氷橋に足をかけた。
 ・・・慣れないことをするからだ。
 兵達から背けた顔に、はっきりと侮蔑の笑みを浮かべる。
 この門を守るのは本来、地精の役割だった。
 地精王が封じられると共に、冥府から地精達は消えてしまったのだろう。琅環から、風精と水精が消えてしまったように。
 数人がかりで湟帝の言葉を使い、倒れるほどの力を使わずとも、かつて地精は一人で、歌うように、踊るように湖水をはじき、簡単に坎瓔宮への橋を作ってみせた。
 「・・・太子」
 闇の奥に、ぼんやりと浮かぶ宮城へ、深い笑みを向ける。
 「ただで済むと思うなよ」


 「華南?お前、こんなところで何をしているんだ?」
 華南が坎瓔宮の最奥にある、玄徳殿(げんとくでん)に入るや、惶帝の身辺を警護する英婁(エイル)が声をかけてきた。
 「今日は満月だというのに、南門を離れていて大丈夫なのか?」
 華南や北辰と違い、いかにも武人らしい、武骨な容姿の英婁は、太い声にわずかな非難を含ませ、華南の前に立ちはだかった。
 「許してちょうだい、英婁。惶帝陛下に、火急のお報せがあって・・・」
 深刻な表情でささやく華南に、英婁は眉を寄せて頷いた。
 「まずは武器を私に渡せ。それからお前の話を聞こう」
 宮中にあって、玄冥太子の他に佩剣(はいけん)を許されるのは、太尉(たいい)である彼と、衛士だけである。いかに南方将軍であろうと、武装して禁中に入るなど、絶対に許されることではなかった。
 「剣は渡すわ。だけど、あなたに話している暇はないの。陛下に急いで申し上げなければ」
 きっぱりと言う華南に、英婁が鮮やかな緋色の目を見開いた。
 「私には言えないとでも?」
 太尉は大司馬を兼任する玄冥太子に次ぐ、軍事の有力者である。華南と北辰は、英婁と親しい間柄とは言え、身分上は彼の部下だった。
 「華南、私には闇精軍の全ての状況を把握する義務がある。まずは私を通せ」
 やや厳しく命じる英婁に、華南はいらだたしげに唇を噛んだ。
 「わかったわ。でも、本当に火急の件なのよ。陛下の御座所(ござしょ)に向かいながらでいいわね?」
 言うや、早足に歩き出す華南の後を英婁が追う。
 「いいだろう。話してくれ」
 並んだ英婁の顔を、華南がちらりと見遣った。
 「太子のことよ。とんでもないことになってしまったわ」
 半歩先を進む華南に、英婁は先を促すよう、無言でうなずく。
 「琅環に風精王が戻ったらしいのだけど、王は湟帝陛下に、太子が自分を封じたのだと、言い掛かりをつけているらしいの」
 腹立たしげな華南の言葉に、英婁は眉を寄せた。
 「・・・そんなことを、どこで?」
 「さっき樹李が、玉華泉に迷い込んだ魂魄を連れてきたの。玉華泉はこの噂でもちきりだそうよ。
 ―――― 英婁、風精王の事だもの。太子に何をするかわからないわ。すぐ陛下にお報せしないと!」
 華南は、常に冷静な彼女らしくもなく取り乱しているようだった。
 「華南」
 諭すような口調と共に、彼女の腕をつかもうとした英婁の手を、華南は激しくはじいた。
 「・・・華南?」
 驚く英婁に、ぎこちなく笑みを返そうとした華南の顔が急に強張る。
 「英・・婁・・・」
 目を見開き、あえぐように苦しげに口を開いて、華南は激しく身体を震わせながら床に膝をついた。
 「英婁!!」
 悲鳴のように高い声。
 「私を斬って!!」
 「か・・・!?」
 戸惑う英婁に、更に華南が絶叫した。
 「早く!!」
 その声に弾かれたように、英婁は剣を抜いた。刃は迷うことなく華南の細い首を捕らえ、一瞬後には華南の首が転がり、赤い血が白く滑らかな石床の上に流れをつくる。
 そんな光景を、疑いもなく目の裏に描いていた英婁は、彼に空を斬らせ、嫣然と笑みを浮かべる華南の姿に鋭い視線を向けた。
 「誰だ、貴様!?」
 誰もが怯まずにいられない死神の目線を、彼女は軽く受け流し、あざけるように唇を吊り上げる。
 「無礼者」
 華南の、高く細い声が、徐々に音程を下げていく。
 「精霊王に剣を向けるとは何事か」
 瞬いた瞳が、青白い珠のように鈍く光った。
 「・・・風精王」
 確信を持ったその声に、彼女は目を眇める。
 「そうか。お前は知っていたのだな。太子が、私を封じた事を」
 「・・・華南から離れて頂けますか、風精王」
 問いには答えず、英婁は剣を鞘に納めた。
 「華南は関係ありません。どうか・・・」
 言って、こうべを垂れる英婁に、しかし、王の返答は冷酷だった。
 「この女は今、私を殺めようとした。その報いは受けてもらう」
 言うや、風精王は音を立てて、彼女の胸を覆っていた胸甲(きょうこう)の留め金を外す。
 剣を持つ者とは思えない、白く細い手で浮き出た鎖骨をなぞり、肋骨をたどって、その心臓の上で指を止めた。
 「止めて見せようか?」
 わずかに小首をかしげ、赤い唇を吊り上げる。
 「・・・やめてください」
 懇願する英婁に、風精王は更に笑みを深くした。
 「私はただ、惶帝陛下にお会いしたいだけなのだ。お会いして・・・!」
 突然、引きつるように声が高くなった。
 「お会いして、どうするつもり!?」
 「華南!」
 再び身体を取り戻した女は、白い喉をのけぞらせ、見開いた目から苦しげに涙を零しながら、緋色の瞳だけを英婁に向けた。
 「英婁、早く私ごと斬りなさい!王は、太子を害するつもりよ!」
 震える腕が、腰帯に挟んでいた小柄(こづか)を握る。
 「・・・うるさい女だ」
 呟きと共に、風精王は小柄の薄い刃を、華南の胸に埋め込んだ。
 途端、鈍い呼気と共に口から血があふれ出る。
 唇を、紅よりも赤いもので染めながら、華南は再び床に膝をついた。
 「私の邪魔をするな」
 衣服を脱ぐように華南の身体から抜け出した無幾は、足元にうずくまる女の胸から小柄を抜くと、冷ややかな目で見下ろした。
 「英婁」
 すっと、刃物の色に似た目を向ける。
 「考えろ。
 お前が失って困るのは、太子か?将軍か?」
 足元に広がっていく生暖かい流れから、無理やり目を引き剥がした英婁は、息を詰めて風の王を見つめた。
 「答えろ。
 消えて困るのは、天軍の将か?闇精の王か?」
 血溜まりを踏み、赤い飛沫を散らして、風の王は選択を迫るように英婁に近寄る。
 青白い目から、視線を逸らすことができない。
 白い手を肩に置かれて、英婁はビクリと身体を震わせた。
 「・・・後悔しなくてもいい。お前の選択は正しい」
 すれ違い様、英婁の耳元にささやく。
 「風・・・っ!」
 英婁が、視界の外に消えた風の王を追おうと振り向いた時には、すでに彼の姿はなかった。
 「華南!!」
 抱き起こし、風精王に抉られた傷に手を当てると、華南はうっすらと目を開けた。
 「・・・何をしてるの・・・風精王を止めなさい・・・!!!」
 紅く染まった手が、流れ出る血を止めようと当てた英婁の手を強く掻いて引き剥がす。
 「太子をお守りするのが、あたし達の役目じゃなかったの?!早く行って!さもなければ、自分でこの首を掻き斬ってやる!!」
 緋色の瞳に激しく睨まれ、英婁は声を上げて衛士達を呼んだ。
 「華南を頼む」
 短く命じると、英婁は数人の衛士達を連れて、風精王の後を追う。
 足の早さでは、決して風に劣らない彼らは、瞬く間に風の王の姿を捕らえた。
 「足の遅い奴らだ。・・・いや、状況判断が遅かったのか?」
 冥府の女帝の御座所へと続く扉の前に、衛士達の身体を沈めた風の王は、鎧を鳴らして駆けつけた英婁達にあざ笑うような笑みを向けた。
 「・・・風精王!こんな事をして・・・!」
 「ただで済むと思うな、と?」
 大きな両開きの扉の中心に背を持たせ、悠然と腕を組んだまま、風精王は英婁を嘲弄した。
 「それはこちらの科白だと、何度言えばお前達の鈍い頭は理解するのだろうな?」
 斬りつけるような視線に、英婁は思わず視線を逸らす。
 「闇精王になれなかったはずだ。惶帝陛下は、お前にどれほど絶望されたことであろう」
 無幾は、自分の言葉に、英婁が悔しげに唇を噛む様を、心地よく眺めた。
 「王になるために生まれた太子より、闇精達を長くまとめてきた自分の方が王にふさわしいと、何度思ったことだろうな?」
 「馬鹿な!」
 風精王のあからさまな嘲弄に、英婁は激しく反撥した。
 「太子は我らが王だ!あの方以外に闇精王はない!他族のあなたに、我々の何がわかる!?」
 「わかるとも」
 容のよい唇を吊り上げ、無幾は誰もが怯まずにはいられない美しい笑みを浮かべる。
 「太子は、半分しか闇精ではない。王として頂くのは仕方がないが、彼は本当に闇精のことを思ってくれるだろうか?
 ―――― 私が一族を守ってやらねばならない。敵から、何よりも、王から」
 うっとりするような低音で、歌うように言葉をつむぐ風精王に、英婁だけでなく、彼の周りの衛士達も、凍ったように動きを止めた。
 「無理もない。精霊と言うのは、頑ななものだ。一族しか愛さない。愛せない。
 おまえが、王と南方将軍を秤にかけて華南を選んだのは、当然だと思うぞ?」
 英婁が、王よりも華南を選んだのは、彼女が御子などではなく、闇精―――英婁の一族だったからだ。
 言外にそう断言する風精王に、何も言えないまま、英婁は苦しげに喘いだ。
 「お前の選択を悔やむ事はない。私は、何もお前達まで、私達と同じ目に遭わせようなどとは思ってないのだから」
 内に秘めた残酷さを包み隠すような、柔らかい笑みを浮かべた風精王は、その背をもたせた大きな扉が、緩やかに内に開いていくのを感じて身を起こした。
 「謁見のお許しが出たようだ―――― 王になれるかもしれないぞ、英婁」
 闇精達の中に恐ろしい波紋を投げかけて、風精王は扉の向こうの闇へと、吸い込まれるようにして消えた。


 樹李の小さな手に引かれるまま、カナタは闇の中をどこともわからないままに進んで行った。
 樹李は、時々足を止めては、小動物のように辺りの気配を探り、闇の奥へとカナタを導いていく。
 やがて、彼女は高い塀に囲まれた広場に出ると、おどおどと周りを見回した。
 『樹李ちゃん?』
 ここなのか、と言外に問うカナタの顔を、不安げに見上げて、彼女は曖昧に首をかしげた。
 「ここやと・・・・思うんやけど・・・・」
 自信なげな口調に、カナタも辺りを見回した。
 足裏には、石畳のごつごつした感触を得ているが、辺りに満ちる匂いは雨に濡れた後の土の匂いだ。暗くてよくは見えないが、けして広くはない広場を仕切る壁には、蔦が一面にはびこっている。
 その景色に、カナタはなぜか冥府から玉華泉に至る道に現れた木の門を思い出し、闇の中に白く浮かび上がる葉に触れた。
 ここが死者の世界だからだろうか。琅環では木精たちにしか触れることができなかった手が、生きていた頃のように壁に絡まる葉を捕らえてくれる。
 そう、麗華に会った森の植物たちも、玉華泉の花達も、魂魄であるカナタに優しかった。
 『・・・秘密の花園への扉は、蔦の陰に・・・』
 思わずカナタが呟いた言葉に、樹李は弾かれたように走り出した。
 「頼蘿(ライラ)ちゃん!!!頼蘿ちゃん!!!!」
 壁に這った蔦を掴み、狂ったように激しく揺さぶる。
 「頼蘿ちゃん!!返事してぇ!!!」
 必死に叫ぶ彼女に、闇の中、緩慢な声が返って来た。
 「・・・煩(うるさ)いねぇ」
 ゆらり、と蔦が揺れ、壁面に現れた女は、長い髪をずるりと壁に引きずって、そのまま樹李のすぐ脇の石畳の上に座りこむ。
 しどけなく乱れた朽ち葉色の単(ひとえ)の裾を割って、膝を立てた女の、白い腿が艶めかしく覗き、カナタはぎょっとして目を逸らす。
 「・・・せっかくいい気持ちで寝てたってぇのに、どういう了見だい、小娘が」
 顔に垂れた髪を、面倒そうにかきあげながら、ぞんざいな口調で女は言った。
 「ここに、依坤様がおるんやろ?!」
 彼女の前に跪き、必死にすがる樹李に、女は紅い唇をゆがめて鼻を鳴らした。
 「アタシが知るかい、そんなこと」
 「教えてよ!!ここで、気配が途切れてしまったんや!!」
 常にない激しさで問い詰める樹李を、女は冷たく見下ろした。
 「知らないッてんだろ。大体、さっさと玉華泉に帰って、ぬくぬくと暮らしてるアンタに、今さら地精王は関係ないんじゃないのかい?」
 「・・・頼蘿ちゃん」
 大きな目を、哀しげに伏せる樹李を、女は冷たく突き放して立ち上がった。
 「ごらんよ、この髪を」
 ほっそりとした身体を覆い、石畳の上にまで流れる長い髪を指に絡め、女は秀麗な顔を歪めた。
 「こんな闇の中にずっといたせいで、すっかり白くなっちまって・・・!玉華泉の長が、アタシをこんなところに追いやったからさ!!蔦のババァめ!さっさとくたばりゃぁいいものを!!」
 憎悪をこめて、自身の髪を握り締める木精を、しかし、樹李は必死に力をこめて見上げた。
 「・・・それこそ、アタシには関係のないことやわ」
 「なんだって?!」
 激しく睨みつける視線を、必死に睨み返す。
 「そんな性根やから、アンタはいつまでもこんなところにおるんやろ!誰からも見られる事もなく、白うなっていくんやわ!!」
 「・・・もう一度言ってごらん!」
 激しい憎悪をこめた声に、樹李は怯みそうになる自身を、必死で叱咤する。
 「・・・今、地上がどうなってるか、しっとるのん?アンタの一族が、どんな目にあっとるか、しっとるの?!」
 いつも怯えたように、誰かの陰に隠れていた樹李の、思わぬ反撃に、女は思わず怯んだ。
 「髪が白くなったくらい、なんやの!アンタの一族もアタシの一族も、地上ではほとんど死んでしまったんやわ!!いつまでも甘えたこと言うてるんやない!!
 依坤様の居場所を言ぃ!!さもなければ、ここでアタシがアンタを枯らしてやる!!」
 激しく詰め寄る樹李に気圧され、冷たい壁に背を擦りつけた女は、呆然と小さな木精を見下ろした。
 「・・・アンタ、随分強くなったじゃないか」
 苦笑と共に洩れ出た、自身の言葉に、女ははじけるように笑い出した。
 「ここにいた時は、そりゃあ泣き虫だったアンタがねぇ!長になるってなぁ、こりゃあ、並大抵のことじゃなぃや」
 細い腰に手を当て、女は片手を緩やかに挙げた。その動きと共に、壁を覆っていた蔦が、するすると壁の向こう側へと消えていく。
 「だが、アタシぁホントに、依坤様の居場所なんか知らないんだよ。
 でも、アンタがここだって言い張るからにゃ、この辺に異界ができてんだろうね」
 ずるりと、女の長い髪が、生き物のように蠢いて壁を這い上がった。
 「がんばって探してみるんだね」
 髪に引きずられるようにして、壁の上にその身を持ち上げた女は、白い脚を艶めかしく揺らして笑った。
 「アタシはその間、邪魔が入らないよう、全ての入口を塞いでてやるよ」
 「頼蘿ちゃん・・・」
 礼を言おうとする樹李を、女は手をひらめかせて遮った。
 「礼なんざ言われる筋合いはないね。アタシぁ、李族の長様の命に従っただけなんだからさ」
 わざと突き放すように言い、
 「せいぜいがんばるんだよ、樹李様」
 皮肉げな笑みを残して、彼女は壁の向こうへと消えていった。
 が、彼女の姿が見えなくなった途端、樹李は力なく地面にへたりこんでしまった。
 『・・・樹李ちゃん?』
 「・・・・・・怖かった」
 呆然と呟く少女を、苦笑しつつ抱き起こしてやりながら、カナタは辺りに目を凝らした。
 『彼女は、この辺りに異界がで来てるんだろうって言ってたけど、何もみえないな・・・』
 風精王の時のように、相手が居場所を知らせてくれれば助かるのだが、と思いつつ、蔦の消えた壁をじっくりと見回す。
 が、そこには整然と並んだ冷たい石意外の、何物も見出せなかった。
 「カナタさん・・・」
 気配が感じられない以上、頼みの綱は彼一人なのだ。
 縋るような目で見上げてくる樹李に、苦笑を返した時、ふと、カナタの鼻腔に、今までとは違う匂いが漂ってきた。
 濡れた土の、しっとりとした匂いの中に、思わず咳き込みそうになる、乾いた砂埃の匂い・・・。
 カナタは眉根を寄せて、その異質な匂いを辿って行った。
 ゆっくりと、何かを探すように、慎重に歩を進めるカナタの邪魔をしないよう、樹李は息すら詰めてじっとしている。
 やがて、
 『樹李・・・』
 わずかな気配を逃さぬよう、声すら潜めて呼ぶカナタにそっと近づいて、樹李は真剣な顔で地面を見下ろすカナタを見た。
 『この辺りから、砂埃のような乾いた匂いがしないかい?』
 問われて、樹李は哀しげに首を振る。
 しかし、カナタは、樹李が発する、甘い香りにも消されることなく沸き上がってくる匂いに、確信をもって頷いた。
 『きっとここだよ。だけど・・・困ったな・・・』
 カナタは、困惑して眉を寄せた。
 彼も、そして多分樹李にも、火精王が風精王を解放したような力はない。
 『あのヤロウ、俺達だけで、どうやって助けてやれって言うんだ・・・』
 おそらく、唯一地精王を解放するだけの力を持っていたであろう風精王は、一人で公主を助けに行ってしまった。
 カナタが思案していると、おずおずと樹李が彼の袖を引く。
 「カナタさん、ここ、開ければええの?」
 『うん・・・。多分この下じゃないかとは思うんだけどね』
 どうすればいいのか、具体的な策が思い浮かばない、と正直に言うと、樹李はカナタが見下ろしていた場所に座りこみ、石畳の上をこつこつと叩いた。
 「李花の樹李です。中に入れてぇ」
 『・・・樹李ちゃん、なにやってんの?』
 可愛いけど、と、その仕草に思わず続けそうになったカナタは、彼女が叩いた石畳が繋ぎ目から裂け、その下の土が盛り上がってくる様を唖然として見つめた。
 『・・・なんで?』
 呆然と呟くカナタの目の前で、なおも土は盛り上がり、やがて中で蠢いていたものが姿を現す。
 『・・・うわっ』
 干からびた黒い手のような物が、いくつも地面から沸き上がり、土を盛り上げて、子供一人が通れるほどの穴を地面に穿つと、手招くように揺れ動いた。
 『・・・樹李ちゃん、これ・・・?』
 「ここにおるひとたちの根っこ」
 それだけ言うと、樹李は急かすように自分の影をぱたぱたと踏んだ。
 「はよう、入ってぇ!」
 慌ててカナタが樹李の影の中に入ると、樹李はためらいもなく穴の中へと飛び込んで行った。


 ゆらりと身を起こして、彼は闇の中に意識を凝らした。
 この地に住むもの以外には、鼻先すら見えぬはずの闇の中を、迷うことなく近づいて来るものがいる。
 「・・・花の香りだ」
 低く呟いて、彼は表情を消したまま立ち上がった。
 足元で、乾いた荊が折れる微かな音がする。だが、彼は頓着することなく歩を進めた。
 「・・・依坤を探しているのか?」
 気配の向かう先を探って、ふと、何かに思い至ったように彼は足を止めた。
 「花の香りだと・・・?」
 闇の住人ゆえか、色鮮やかな花よりも香りの強い花が好まれる地に、香気が漂うのは不自然ではない。
 だが、今、彼の居る場所と地の王を封じた場所とは、かなりの距離を隔てている。なのに、香りをここまで届ける事ができるのは・・・。
 彼の緋色の瞳が、剣呑な光を帯びた。
 「風が解き放たれたようだな」
 低く呟いて、彼は再び歩き出した。


 ふわりと樹李が舞い降りた場所は、まるでモスクの礼拝堂のように、高いドーム状の天井を持つ広間だった。
 樹李の影の中にいたカナタは、その場所に出た途端、足をとられて床に手をついた。
 『砂?』
 人間なら百人は軽く入るだろう広間の床に砂がうずたかく積まれ、今も細(ささめ)のように途切れることなく宙空からベージュ色の雨が降り注いでいる。その流れをたどって上げた視線の先に、あるものを見て、カナタは息を呑んだ。
 『・・・樹李』
 しかし、同じく顔を上げた樹李にはその姿が見えないのだろう、虚空から砂が降りしきる様を不思議そうに見ている。
 『・・・なんてことを』
 カナタは苦々しく呟いた。
 ―――― こんな事があっていいのか。
 今まで彼は、闇精王に対して、好悪の感情を持ってはいなかった。むしろカナタは、無幾の方にこそ、嫌悪したと言っていい。
 精霊たちに、どれほど闇精王の残酷さを訴えられても、カナタにとっては遠い世界の物語でしかなかったのだ。
 ―――― しかし。
 再び視線を上げて、カナタはその無残な姿を見つめた。
 広間の宙空から砂を降らせているのは、一人の子供。
 闇の中、細い銀の鎖が渡る中心に、蜘蛛の巣にかかった哀れな虫のように絡めとられ、力なく垂れた四肢からはとめどなく乾いた砂が流れ落ちる。
 厚く積もった砂に足をとられながら、カナタが傾斜のきつい砂山の頂に登ると、彼の胸の高さほどに吊られた少年は、大きな目をうつろに見開き、その眼窩からも涙のように砂をこぼし続けていた。
 カナタは少年を戒める鎖に手を掛け、何とかはずそうと試みた。しかし、華奢な細い鎖はワイヤーのように強靭で、カナタの非力をあざ笑うように微動だにしない。
 「カナタさん・・・依坤様、どうしたん・・・?」
 巧妙なパントマイムのように、見えない何かを掴み、引く動作をするカナタに樹李が不安げに尋ねた。
 『・・・俺はきっと、闇精王を許せない』
 怒りに声を震わせるカナタに、樹李が目を見開く。
 『こんな子供に・・・なんて酷い・・・』
 少年の身体は乾ききって、重力に引かれるままにその全身から砂をこぼし続ける。その上、彼の指先や耳は、古い土人形のように無残に欠けていた。
 その様な状態でも、少年が生きているとわかるのは、時折、彼が砂のこすれるような音をたてて咳き込むからだ。
 血を吐くように大量の砂を吐き、苦しげに喘ぐ様は、哀れなどという言葉で済ませる事など出来ない。
 「依坤様・・・!」
 胸の前で手を組み合わせ、姿の見えない主の、弱々しい気配に、樹李は瞳を潤ませた。
 「カナタさん・・・お願いやから依坤様を・・・」
 言いかけて、樹李ははっと身体を強張らせる。
 積もった砂に取られながらも、なんとかカナタの傍に寄るや、樹李はカナタが手を伸ばす辺りに両腕を広げて、かばうような格好をした。
 『樹李?』
 手を鎖にかけたまま、不思議そうに隣を見たカナタの目の前で、樹李の小さな身体が突かれたように前に傾いでいく。
 『樹李!』
 すかさず抱き起こしてやったカナタは、彼女の胸から剣の鋭い切っ先が覗いているのを見て驚愕した。
 主人を狙った剣を、身体で受け止めた樹李は、苦痛に閉じていた目を見開くと、視線に力をこめて背後を振り返った。
 「・・・酷いことをするやないの、玄冥太子」
 降り積もる砂の上に危なげなく立ち、闇の中に白く浮き上がる男は、その秀麗な顔に薄く笑みを浮かべた。
 『・・・あんたが』
 樹李を背後にかばいつつ、カナタは男の深い緋色の瞳をまっすぐに睨んだ。
 『あんたがこの子を、こんな酷い目に・・・!』
 だが、男はカナタの存在を軽く無視し、滑らかな足取りで彼らに近づくと、樹李の小さな背中から不気味に生える長剣の柄を取った。
 「さすがは玉華泉の大樹だな、樹李。突かれたくらいでは倒れぬか」
 滑らかな声に嘲弄を含んで、男は樹李の身体から軽々と重厚な剣を引き抜いた。
 「・・・っ!」
 抜きざまに、苦しげに吐息した樹李を見下ろして、男は・・・玄冥太子は笑みを深くした。
 「―――― 全く。おまえたち木精は、馬鹿馬鹿しいほど主人に忠実だな。他の精霊族にも、その一欠片でも御子に対する忠誠心があれば良いのだが」
 手の上で長剣の刃をもてあそんでいた太子は、不意に笑みを収めて、その剣をひらめかせた。
 『樹李!!』
 とっさに樹李を抱いて砂の上に伏せたカナタの上を、鋭い剣の切っ先が一瞬にして通り過ぎて行った。
 高い金属音を発して、銀の鎖がはじけ飛ぶ。直後、カナタ達の背後に鈍い音をさせて、少年が砂上に落ちた気配がした。
 「依坤様!!」
 樹李は悲鳴じみた声をあげて、カナタの腕の中からもがき出るや、力なく倒れ付す依坤の身体に覆い被さった。が、彼に触れた途端、その片腕が肩からもげ落ち、樹李は悲鳴をあげて依坤から手を離した。
 「依坤様・・・!!」
 震える手を口元に当て、樹李は再び太子を睨む。
 「ひどい・・・!なんてひどい!!依坤様がアナタに何をしたって言うんや!」
 涙混じりの声に、太子は剣を収めた手を顎に当てて、軽く首を傾げた。
 「何を?そうだな・・・私に逆ったと言うのは、お前にとって十分な理由ではないのか?」
 それ以外の何がある、と言わんばかりの傲慢な態度に、樹李の目がさらに鋭く尖った。
 「依坤様は冥府の太師やわ!それを、こんな酷いことして、いくら太子とは言え、許されることやない!」
 恐怖、いや、怒りゆえか、樹李は全身を震わせて、冥府の太子に声を張り上げる。
 しかし、太子にとっては小動物が鳴いているほどの興味もない。
 秀麗な顔に薄く笑みを刷くと、吐き気がするほど優しい声で、地に落ちた少年に話し掛けた。
 「かわいそうな依坤。私は、おまえが好きだったよ。私なんかに、あっさりと負けないお前がね」
 だが、獲物は追っているうちが愉しいのだ。
 手中に落ち、哀れに朽ちた獲物など、興味はない。
 「地の王は土にお環りになるそうだ。愛する一族に喰われるのなら、さぞかし本望であろう」
 太子の言葉に、瞠目して振り返った樹李は鋭い悲鳴をあげた。
 倒れた主の周りの砂が、ねっとりとした泥に変わり、助けを求めるようにその小さな身体にまとわりついていたのだ。
 「依坤様!!!」
 崩れやすい砂と化した主の体に触れることもできず、おろおろと手をさまよわせる樹李を、カナタはやや乱暴に押しのけた。
 『樹李、どくんだ!』
 カナタは着ていたシャツを脱ぎ、素早く周りの砂ごと少年を包んで、抱き上げた。
 Lサイズの布地にすっぽりと収まる、小さな身体を横抱きにして、カナタは改めて太子に向き直った。
 『・・・どうすればこの子を治してやれる?』
 感情を圧し殺したような低い声で尋ねるカナタを、太子は相手にしようともしない。
 魂魄ごときが自分に口を利いたことに、不快げに笑みを収めただけだった。
 「・・・カナタさん。今の依坤様を治せるんは、澪瑶公主か湟帝陛下だけなんよ・・・」
 震える唇をなんとか動かして、樹李が言う。
 『ほかに方法は?』
 太子から目を逸らさずに、カナタは傍らの樹李に問い掛けたが、その目の端で白い髪が横に揺れた。
 「水がないことには、絶対に無理やわ」
 少女の悔しげな声に、カナタは頭の中で無幾と別れた後の時間を計る。
 時計に頼りきりの生活に慣れすぎて、あまり時間感覚には自信がないのだが、それでも3〜40分は樹李と冥府の中を走り回ったはずだ。その後、頼蘿(ライラ)に会い、ここに至ってからも、それなりの時間を過ごしたはず。
 無幾の、戦略能力はともかく、交渉の腕前がどれほどのものだか知らないが、別れて約一時間の間に何らかの進展はあってしかるべきだ。・・・いや、進展していると信じるしかない。
 ――――のるかそるか。
 カナタは、彼の腕の中で崩れ行く少年に目を遣ると、視線に力をこめて太子を睨んだ。
 『―――― 澪瑶公主はこの冥府にいるんだったな』
 できるだけ冷静に・・・無幾の口調を思い浮かべながら、カナタは言葉を継いだ。
 『ならば大丈夫だ。すぐに公主が、この子を治してくれる』
 カナタが浮かべた笑みは、太子の目にさぞかし憎らしげに映った事だろう。彼が眉をひそめる様を見て、返ってカナタは落ち着きを取り戻した。
 「カナタさん・・・?」
 驚いて彼を見上げる樹李を目の端に映しながら、カナタは太子を、挑戦的な視線で見遣った。
 『風精王は今、惶帝陛下の御前だ。湟帝陛下直々のお言葉を持って、惶帝陛下に謁見を賜っているよ、太子』
 無言で無礼な視線を睨み返す太子に、カナタは更に言葉を継いだ。
 『もうすぐ公主は解放される。あなたが意地を張るまでもなくね』
 「それで?」
 砂の上にひざまずくカナタを傲慢に見くだして、太子は初めて彼に声を掛けた。
 「私の寛恕(かんじょ)をあてにして、依坤を澪瑶の元に連れて行くとでもいうのか?」
 小馬鹿にしたように鼻を鳴らす太子を、カナタは緩やかに首を振って否定した。
 『あなたの寛恕なんてあてにしてないさ。無幾は・・・風精王はきっと、あなたを許さない。あいつがどんな仕返しを考えてるか、俺には想像もできないけどね』
 信頼などできる相手ではないが、無幾が闇精王に対し、何らかの手を打ってくるのは確実だ。
 カナタは無幾を怒らせてしまった太子に、思わず同情とも嘲りともつかない笑みを浮かべた。
 「・・・無礼な」
 たかが魂魄に愚弄され、太子はまなじりを尖らせる。
 「不敗の将軍を封じたのは、この私だ!風精王ごときに遅れをとるものか!」
 言うや、太子は剣を抜き放ち、鋭い切っ先をカナタに突きつける。
 「依坤を地に下ろせ。こいつが地に環れば、地精の一族に新しい王が立つ。私に逆らわぬ、木偶(でく)の王がな!」
 『断る』
 きっぱりと言って、カナタは抱いている依坤の身体をかばうように、はすに構えた。
 『ところで太子。俺の住んでいた世界の神様ってのは、自分勝手でプライドが高いものだが、こちらではどうなんだ?』
 突然、脈絡のない問いを向けられて、太子は更にきつく眉を寄せた。
 『湟帝は公主を赦したって・・・解放するって言ってるらしいけどさ、それってつまり、あんたが望んでいたことだろう?』
 カナタの無礼な物言いに、太子の、剣を持つ手が震えた。
 「それがどうした!」
 怒りのままに声を荒げたものの、カナタは表面上、それをさらりとかわした。
 『俺の世界では、水の神様ってのは、凶暴で怒りっぽいって言うのが常識なんだが、この世界では穏やかな好々爺なのか?』
 ―――― 太子への私刑はならぬ。処罰は惶帝の裁量で・・・。
 カナタにはあの命が、水神たる湟帝の本心とは思えない。
 至高の存在が一度でも屈することがあれば、その威厳は失われてしまうのだ。
 「・・・何が言いたい?」
 冷たい白刃をカナタの首筋に沿わせて、太子がわずかに目を眇める。
 『・・・精霊たちが言っていた。他族を侵すのは、最大の禁忌だと。
 いかにあんたが御子とはいえ、神が自身を侮辱した者を赦すとは思えないね』
 相互不可侵なのはおそらく、三人の皇帝達にしても同じなのだろう。ゆえに無幾が、湟帝の意思を伝えるという形で惶帝に圧力をかけに行ったのだ。
 『あんたはもうすぐ、何らかの形で罰せられるんだ。いまさら・・・』
 「魂魄ごときが、無礼な口を利くものだ」
 カナタの言葉を遮って、太子はその口元に薄く笑みを浮かべた。
 「風精王の考えることくらい、見抜けぬ私ではない」
 しかしその笑みは、冷笑と言うより自嘲に近かった。
 「奴の侵入にもっと早く気づいていれば、こうして依坤にとどめを刺すこともなかったのだがな」
 『・・・だからっ!いまさらこの子を殺して、なんになるんだ!第一、あんたは闇精だろう?!この子を殺せるのか?!』
 言葉の通じないもどかしさに、いらいらと声を荒げるカナタから、太子は嘲(わら)って剣を引いた。
 「門前の化け物どもを見たのか?
 確かに、闇精は生きるものを殺すのは得手でない。ゆえに母は、私を産んで王に据えたのだ。あらゆるものを殺せる私をな」
 『・・・マジかよ』
 カナタは愕然と呟いた。
 闇精は封じることしかできないと言った、無幾の言葉を信じての舌鉾(ぜっぽう)だったと言うのに。
 身体がないと言うのに、、カナタはその全身から血の気が引き、脂汗がにじみ出る感触を得た。
 しかし、
 「残念だったな、もう少しだったのに・・・・・・」
 自嘲気味に呟いた太子の背後から、緩やかに空気が動いて足元の砂を巻き上げていく。
 「だが、代わりに澪瑶が戻れるのなら、傷み分けと言うところか」
 肩越しに、太子は砂の上を軽々と登ってくる男に笑みを向けた。
 『無幾!』
 闇の中ですら白く浮かび上がるその姿に、カナタは思わず歓声をあげた。
 「お前だったか、無幾。道理で、あっさりとこの宮城に入り込んだはずだ。母への用は済んだのか?」
 「惶帝陛下とお呼びするんだな、珠驪(シュリ)」
 地位でも身分でもなく、名を呼んだ無幾に、太子は無言で向き直った。
 「闇精王・玄冥太子の地位と身分を剥奪する。追って沙汰があるまで、蟄居を命ずる」
 惶帝の言葉をそのまま伝え、風の王は酷薄な笑みを浮かべた。
 「新しい闇精王は、一族思いの出来た人物だぞ」
 無幾の嘲弄を含んだ声に、太子・・・いや、珠驪は低く笑った。
 「さすがは無幾。汚いやり口はあいかわらずだな。先に英婁を落としたか」
 剣を鞘に収め、掌を目の前にかざす。
 青白く浮かんだそれは、指先からゆっくりと闇の中に沈もうとしていた。
 「蟄居・・・母が自ら私を封じると言うわけか」
 闇に溶けていく自身の身体を見つめつつ、珠驪は笑みを深くした。
 「だが、そう長いことでもあるまい」
 挑戦的に向けられた視線を、無幾は冷たくはじき返した。
 「英婁は良い王になるとは思わないか?―――― お前と違って」
 しかし、珠驪は鼻で笑って否定した。
 「お前達と違って、私の代わりはいない。母はそういつまでも、無能な王に耐えられまいよ」
 傲慢に言い放ち、珠驪は無幾の側をすり抜ける。
 「公主の元へ?」
 やや緊張した声音で問う無幾に、珠驪は肩越しに笑みを向けた。
 「野暮ではないか、風精王?」
 以前と同じ科白。
 いまいましげに眉を寄せる無幾に、低く笑声を残して、珠驪は闇の中へと消えて行った。


 「あの男相手に時間稼ぎか?地精王になんの義理もないお前が、良くやったものだ」
 闇精王が消えるのを無言で見送ってしまうと、無幾は大切そうに依坤を抱いたカナタを振り返った。
 「その様子では、お前に身体をやるだけの力は残ってないと思うがな」
 身体中から砂をこぼし続ける依坤に近寄るや、無情に言い放った彼に、カナタはやはり怒りを覚えずにはいられなかった。
 『こんなに小さな子が酷い目に遭ってるって言うのに、放っておける訳ないだろう!!』
 確かに、生き返らせてやろうと言われたから、ここまでついて来た。しかし、利益を得る事のみを目的に、少年を助けたのではない。性善説を支持するわけではないが、カナタがこの少年を助けたいと思った事に理屈はなかったのだ。
 それを・・・!
 『無幾の時は、情すらないのか?!女の風精王の時は、もっと・・・』
 「それがエアリーの役だからだ」
 カナタの怒声を遮って、無幾はあっさりと言った。
 「あの女は、他人の信頼を得、防御を固めるのが仕事だ。策略を用いて、敵を内部から破壊していく私とは根本的に違う。わかったら早く、私を公主の元へ連れて行け」
 『俺がそんな事できるかよ!』
 思わず反発したカナタを、無幾が青白い瞳で睨んだ。
 「誰がお前に言った?麗華、早く案内しろ。樹李はもういい」
 無幾の言葉に、樹李は唇を噛んで頷き、カナタの影から肩まで出した麗華は、困惑したように眉をひそめた。
 『ご案内はできると存じますが・・・』
 彼女は地位を剥奪されたとは言え、闇精王だった珠驪より冥府に落とされた身である。闇精に見つかれば、もう二度と玉華泉に戻れぬ深みまで落とされるだろう。
 それを思い、身体を震わせた麗華の腕を乱暴に取って、無幾は無理やり彼女をカナタの影から引きずり出した。
 「湟帝陛下の代理人たる風精王が、薔族の麗華を赦す。これで文句はないな?」
 早口に言うと、無幾は改めてカナタに向かった。
 「お前はどうする?
 エアリーは、公主をお救いするのにお前がいた方がいいと思ったようだが、公主は既に、湟帝陛下からお赦しをいただいている。
 お前がいて役に立つことがあるとは思えないがな」
 気に障る言いように、カナタは更にむっとしながらも、腕の中で苦しげに喘ぐ少年に目を遣った。
 『・・・一緒に行く。公主は、この子を治してやれるんだろう?』
 それに悔しいが、公主の元まで行かなくては、ここに来た意味がなくなる。
 さぞかし嘲弄されるだろうと思ったが、意外にも無幾は何も言わず、『行くぞ』と言っただけだった。
 「・・・カナタさん・・・気をつけて」
 砂上に座り込んだまま、樹李が微笑む。
 『・・・一人で大丈夫?』
 気遣わしげに言うカナタに、樹李は頷いてみせた。
 「・・・アタシはしばらくこの城市の中におるから。カナタさん達を、玉華泉まで戻してやらんとね。だから・・・」
 気遣わしげにカナタの腕の中の少年を見上げる樹李に、カナタも笑って見せる。
 『大丈夫。依坤様のことは、ちゃんと公主にお願いするよ』
 そう言ってやると、樹李はほっとしたように息をついた。
 「お願いします」
 砂上に額をつけんばかりに深々と頭を下げる樹李に、カナタは必ず、と約束した。
 「お前には耳がないのか?私が行くと言ったら早く来い」
 冷え冷えとした声で言われて、カナタはむっとしながらも無幾の後に従った。
 「樹李」
 カナタを後ろに従え、無幾が振り返りもせずに言う。
 「華南が負傷したぞ」
 背後で砂が崩れる気配がする。
 思わずカナタが振り返ると、樹李は真っ青な顔をして震えていた。
 「無幾様が・・・?」
 非難がこもらぬよう、懸命に感情を抑えた声に、無幾は足を緩めようともしない。
 麗華の腕を引いた無幾は、砂に足を取られることもなく、回廊まで砂があふれ出た外開きの扉を抜けた。
 樹李の姿に後ろ髪を引かれつつも、無幾に遅れぬよう、その後姿を追ったカナタは、しばしば砂に足を取られながらも、腕の中の少年の脆い身体を抱き崩さぬよう、細心の注意を払う。
 そうしてカナタが、なんとか回廊まで出ると、そこには麗華の蒼い姿があった。
 『カナタさん・・・大丈夫ですか?』
 気遣わしげに差し伸べてくる麗華の手を、少年を抱いているカナタは取る事が出来ない。
 『なんとか大丈夫。
 それにしても、この小さな身体から、よくこんなに砂が溢れたもんだね』
 はるか遠くまで砂で埋もれた回廊を見遣って、カナタは苦笑した。
 彼が今、くぐり出た扉も、高い天井を持つ宮殿にふさわしく、かなりの高さがあったのだが、その下三分の二ほどが砂で覆われていた。
 『だって依坤様は 地の王でいらっしゃるもの』
 笑みを返そうとした麗華の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
 『・・・早く 公主の元へ参りましょう』
 カナタの背後に回り、依坤に負担がかからぬように立ち上がるのを助けて、そのまま背を支えてやる。
 『ありがとう、麗華』
 言うと、麗華は顔を伏せたまま頷いた。
 砂の上に用心深く歩を進めて、ようやくモザイク模様の床に降り立つまで、彼らは実に長い距離を歩いた。
 『・・・やっと歩きやすくなったな。ここじゃ、身体がなくてもあんまり関係ないね』
 無幾に追いつくために、やや足を速めてカナタが言う。
 『けど、地獄の苦しみって言うからには、冥府でも痛覚はあるって事だろ?もしかしたら明日、筋肉痛になってるかも』
 取りとめもない事を言いつつ麗華を見ると、唇に微かな笑みを浮かべていた。
 『しかし、麗華に案内しろって言っておいて、どこに行ったんだ、風の王様は』
 『・・・先に艮琅宮(こんろうきゅう)へ行かれたのでしょう
 公主のおそばにいるはずの 華綾の気配をはっきりと感じると申しましたから』
 ささやくような声で答えた麗華は、今ごろあの広大な宮殿で起こっているであろう事を想像して身を震わせた。
 『麗華?』
 彼女の様子に気づいたカナタが声を掛けると、麗華はなんでもないと言うように軽く首を振る。
 『急ぎましょう』
 更に足を速めた麗華の後に、カナタは頷いて続いた。


 麗華に、『公主は未だ艮琅宮にいるはずだ』と聞いた無幾は、足の遅い者達を置き去りにして、件の宮殿に着いた。
 広大な宮殿は廃墟のごとく、門すら開けようのないほど荊で覆われている。
 無幾はふわりと門柱に飛び乗り、門を越えようとしたが、後から来る者達の事を思い出して軽く腕を振った。
 途端、鋭い風の刃が門から宮殿内に至るまでの道を塞いだ荊を切り裂いていく。
 しかし、荊はまるで生き物のように蠢き、斬られた場所から新たな蔓を伸ばして再び道を覆い、門を塞いだ。
 「華綾か・・・」
 公主の忠実な人形の事を思い出して、無幾は再び腕を振る。
 風の刃が微塵の容赦もなく荊を切り裂いて行く間に、無幾はいくつもの風を擦りあわせ、地上に放った。小さいが、激しい摩擦によって電荷を多量に含んだ風は、地を這う荊を一瞬にして焼き焦がし、無幾の前に宮内への道をあけた。
 「今のうちに焼き払っておくか」
 どうせ麗華が来るまでは、華綾の正確な居場所・・・こうして華綾が護る、澪瑶公主の居場所はわからないのだ。
 破壊するものが多ければ多いほど、彼の中の『嵐』は落ち着きを取り戻すだろう。
 我を失う可能性が高いため、実際に外に出すことは出来ないが、このくらいしておかねば後で取り返しのつかないことになるかもしれない。
 門扉を軽く蹴って内側に開いてやると、無幾は門柱から飛び降りた。
 「燃やすのは、荊だけにしておくんだぞ」
 誰かに言い聞かせるように呟くと、無幾は手中に生まれた風を放った。


カナタ達が艮琅宮と呼ばれる場所に着いた時、開かれた門の向こう側は、一面、黒く焼かれた荊で覆われていた。
 『・・・コマンドーでも来たのか?』
 カナタは、足の裏にはかなく砕ける荊の感触を得ながら、呆然と呟く。
 『麗華?』
 彼の隣で顔を覆う麗華を、カナタは気遣わしげに見た。
 『・・・なんということを』
 薔族の長である彼女の目の前で、荊は鋭い棘をだらりをしおらせ、青臭い煙を吐息のように立ち昇らせていた。
 『奴の仕業か』
 苦々しく呟いて、カナタは腕の中の少年を見た。
 彼はもはや、咳き込むことすらなく、死体のように微動だにしない。
 『お姫様は中なんだろう?急ごう』
 麗華は小さく頷き、歩を進めるたびに折れ砕ける荊の上を、苦行のように歩んだ。
 『麗華?』
 門内に入った途端に足の緩んだ麗華を、カナタがいぶかしげに振り返る。
 『・・・ああ。この荊、君の弟なんだよね』
 いかにも苦しげに歩を進める麗華の姿に、彼女の弟の事を思い出して、カナタは足下に踏みしめた荊から、そっと足をどけた。
 『俺の影の中に入れよ。出来るだけ、踏まないように歩くから』
 『・・・ありがとう』
 麗華は泣きそうな顔で言うと、カナタの影の中に沈んで行った。


 「・・・煩(うるさ)い」
 呟くや、無幾は離宮へ続く橋の欄干に腰をおろした。
 その足元に散らばるのは、切り裂かれた荊。
 離宮にあるすべての扉から、窓から溢れ、厚く生い茂った荊は、離宮へ続く橋を屋根ごと塞ぎ、滑らかな水上までを覆って、いかなるものの侵入も許そうとしない。
 ここに至るまでは、強引に押し通ってきた無幾も、さすがにここまで繁茂する荊が相手では力を使うだけ無駄である。
 さっさと諦めて、この頑迷な荊の姉が到着するのを待つことにした。
 腰帯にはさんでいた、象牙の長煙管を取り出すと、容の良い唇に当ててゆっくりと吸う。長く息を吐くと、水上にいるせいか、心が安らいで行く。
 元凶であった太子を封じ、邪魔な荊を思う存分切り裂いたため、彼の中で暴れていた嵐も、少しは鬱憤を晴らしたようだ。
 再び吸い込んだ煙を、吐息のように長く、ゆっくりと吐いて、彼は静かにまぶたを閉じた。


 それからしばらくして、無残に焼かれた荊の道を通ってきたカナタは、離宮へ続く橋の欄干で、こちらに背を向け、ゆったりと煙管をふかしている風精王を見つけた。
 『・・・また衣装が変わってる』
 カナタは思わず、呆れた声を出した。
 しかし、彼が呆れるのも無理はない。
 さっきまでの服も、貴族の青年が着るような、優雅なラインの衣装だったが、今はどこから見ても貴婦人が着る華やかなドレスだった。
 『・・・無幾!あんた一体、何のつもり・・・』
 ずかずかと側に寄り、苦情を言ってやろうとしたカナタは、座っているとはいえ、自分よりかなり背が高いはずである無幾の頭を見下ろして、首を傾げた。
 「誰が無幾ですって?」
 手の中で煙管を弄びながら、風精王が笑みを含んだ女の声で尋ねる。
 『・・・誰?』
 呆然と呟くカナタの前で、彼女は立ち上がり、白い薄絹の衣装に優雅に風をはらませて振り向いた。
 「あなたがカナタ殿ですね。わたくしは巽依(ソイ)。風精王の一人です」
 優雅に微笑んで、彼女はカナタの腕の中の依坤を見た。
 「無幾の言った通りですね。わたくしはこれ以上、近づかない方がよいでしょう」
 そう言うと彼女は再び背を向け、優雅な足取りで荊の生い茂る橋の上を2・3歩進んだ。
 『・・・どういうことだ?』
 「なにがです?」
 鋭い棘を持つ荊の壁の前で、肩越しにカナタを見遣って、巽依は問い返した。
 『近づかない方がいいって、なんで?』
 彼女の言った言葉をそのまま繰り返すと、巽依はふわりと振り返って微笑を浮かべた。
 「わたくしは風です。
 エアリーやシルフのように、激しい風ではありませんが、そよ風といっても、砂になってしまった地精を吹き飛ばしてしまうくらい、わけないのですよ」
 だからわたくしには近づかないように、と釘を刺す彼女に、カナタは不快げに眉を寄せた。
 『・・・無幾は、この子に平気で近づいてきた』
 この子の事なんか考えてないんだと、憮然と呟くカナタに、しかし、巽依はふわりと微笑んだ。
 「貴方は彼がお嫌いのようですね。
 たしかに、彼に好意を寄せる方はほとんどいらっしゃいませんが、風精王の名誉のために言わせていただいてよろしいかしら?」
 『・・・どうぞ』
 三人目にしてはじめて、カナタが見下ろした風精王である巽依は、穏やかだが反論を許さぬ口調でカナタを圧倒した。
 「ありがとう。
 ―――― わたくし達風精王の中で、無幾は凪にあたります。風と言っても動きはありませんから、今の地精王に近づいたとしても、地精王に被害は及びません。これがひとつ」
 しなやかな指をひとつ立てて、巽依は微笑んだ。
 「ふたつ。
 無幾は、目的のためには手段を選びません。樹李を使って北辰をおびき出し、華南の身体をのっとって坎瓔宮に行ったのは、密かに動かなければ太子に阻まれ、再び封印されるだけでなく、公主の御身を隠される危険がありました」
 樹李の香りを風に乗せて、太子の目を玄徳殿から逸らしたのはそのためだ、と言いながら巽依は三本目の指を立てた。
 「最後に。
 彼がこれを行ったのは、迅速に動き、被害を最小にしなければならなかったから。
 エアリーでは行動が遅すぎ、シルフでは被害が大きすぎる。そしてわたくしは、公主の乳母であって武人ではありません。
 無幾以外の人格では、ここに到着することも出来なかったのです。ご理解いただけましたか?」
 巽依の言葉に、カナタは無幾の一つ一つの行動を振り返った。
 彼は常に無駄な動きを嫌い、時間に追いたてられるようにこの冥府を駆けていた。
 「理詰めで動くのがあの人の役目です。わたくしが、情でしか動けないのと同じく。
 嫌わないでほしいとは申しませんが、誤解はして欲しくありません」
 きっぱりと言って微笑む女にカナタは、さすがは風精王と、息をつくしかなかった。
 「では、早くわたくしの公主に会いに参りましょう。
 麗華、この頑迷な薔薇を下がらせますから、華綾をお呼びなさい」
 王らしく命じる巽依に呼ばれ、カナタの影から再び現れた麗華は、硬い表情でうなずいた。
 そのまま荊の前に進み出た途端、荊が生き物のように麗華に襲い掛かってくる。
 『麗華!』
 叫んだカナタの目の前で、鋭い棘を持った荊は麗華の全身を貫いた。
 しかし、樹李がそうであったように、彼女の身体からも一滴の血すら流れず、目を尖らせて生い茂る荊を睨んだ。
 『殺せるものなら殺してみなさい』
 毅然として、麗華は荊に向かった。
 『あなたは公主をお助けしたくないの?』
 薔族の長らしく、命じる事に慣れた口調で言う。
 彼女のその言葉に、麗華の身体を貫いた荊は、戸惑うように蠢いた。
 『私はあなたに許されたいなんて思ってないわ  でも 公主をお助けしたいとは思っているの
 ここに風精王と地精王がいらっしゃるのがわかるでしょう?  公主をお助けできるのよ』
 しかし、彼女の説得を、拒むように荊は激しく動き、麗華の身体を無残に抉っていく。
 『やめろ!』
 叫ぶことしか出来ないカナタを無視して、荊は更に麗華に襲い掛かった。
 しかし、
 『公主を独り占めしたいのね?』
 麗華の冷ややかな声に、荊は動きを止めた。
 『ここにいれば 公主と共にいられる  そうでしょう?』
 華綾にとって、公主は命を与えてくれたかけがえのない王だ。麗華の影でしかなく、玉華泉では常に冷たい視線にさらされていた彼を、唯一、『愛している』と微笑みかけ、『私の華綾』と、名を呼んでくれた、かけがえのない・・・。
 ずるりと、麗華の身体から引き抜かれた荊は、迷うように揺らめくと、するすると橋の上を這って橋の半ば以上を覆う茂みの中に収まっていった。
 『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私は』
 不意に、男の声がしたかと思うと、茂みの前に、魂魄のように向こう側が透けてみえる青年が現れる。
 『私は公主の御身をお護りすると誓った。けして、公主のあのようなお姿を見る者がいないように』
 挑むようにこちらを睨んでくる青年の目前で、受けて立とうと睨み返す麗華を、巽依は軽く押しのけて微笑みを浮かべた。
 「貴方の誓いなど、どうでもよろしい。わたくしは、貴方が死力を尽くして阻もうと、公主を渺茫宮(びょうぼうきゅう)に連れて帰ります。
 華綾、わたくしの作る雷撃には、火精王ほどの力はありませんが、先に細切れにしてしまえば、貴方を燃やすくらいなんでもないのですよ?」
 しっとりとした声で、諭すように、巽依は華綾を見遣った。
 「でも公主がお目覚めになった時、お気に入りのお人形がお側にいなければ、泣いてしまわれるかもしれませんわ。
 貴方だってまた、口の利ける公主にお仕えしたいでしょう?焼き殺されたくなければ早く、この道をおあけなさい」
 穏やかな微笑を浮かべながら、言っている事は脅迫である。
 先ほど、『無幾とは違う』ような事を言っていたが、やっていることはほとんど同じだった。
 しかし、巽依の言葉には、かなりの効果があったらしく、呆れるカナタの目の前で、荊はするするとほどけて、彼らの前に道をあけた。
 『公主はこの奥に・・・』
 ぽつりと、低く囁くと、青年は陽炎のように揺らめいて消えた。
 「やはり、わたくしが出てきて正解でしたわ。無幾とシルフなら、問答無用で焼却でしたわね、彼は」
 殿方は短気ですからね、と穏やかに微笑みながら、巽依は橋を渡り、暗い離宮内に恐れる様子もなく入っていく。
 『ちょっ・・・巽依!』
 慌てて後を追ったカナタの目前で、いきなり巽依が振り返った。
 『あぶなっ・・・!』
 すかさず依坤の身体をかばったカナタの目の前で、巽依は彼をきつく見上げた。
 「わたくしの名を呼ぶなど、無礼ですよ!」
 『じゃぁ・・・なんて呼べばいいんだ?』
 驚いて問い返すカナタに、巽依は呆れたように目を見張り、『決まってるでしょう』と驕慢に言い放つ。
 「風精王とお呼びなさい。わたくしの名を呼んでよいのは、皇帝方と精霊王だけです!」
 『ご・・・ごめん』
 巽依の迫力に気圧されて、カナタは思わずあとずさる。
 「わたくしは他の風精王とは違うのですよ。助けて頂いたとはいえ、初対面で馴れ馴れしくされるのは不快です。そして、年上の女性には敬語を使うこと。わかりましたか?」
 静かなくせにひどく威圧感のある声で、淡々と言われるのは、金切り声でまくしたてられるよりも効果がある。
 『す・・・すみません』
 カナタが口篭もりつつ言うと、巽依は鷹揚にうなずいて見せた。
 「次からは、『申し訳有りませんでした、風精王』とおっしゃい」
 さすがは公主の乳母というだけあって、礼儀には特に厳しい。
 「返事がないようですね?」
 『え・・・あ、はい!』
 「承知致しました、風精王。でしょう?」
 『・・・承知致しました、風精王・・・』
 苦笑交じりに復唱すると、彼女はわずかに眉を上げたが、『まぁ、いいでしょう』と、再びカナタに背を向けた。
 「この世界には、七人も王がいますから、お呼びする時は必ず一族の名をつけること。よろしいですね?」
 『・・・承知致しました、風精王』
 ハイジもイライザも、ロッテンマーヤさんやヒギンズ博士に連れて行かれる時は、こんなに暗い気分になったんだろうか・・・。
 カナタは、市場に引かれていく牛のような気分で巽依の後に従った。


 ―――― ぼんやりと明るい場所で、蒼銀の髪と濃紺の瞳を持った小さな少女は、とめどなく涙をこぼし続けていた。
 誰にも知られないように、一所懸命に声を殺して、頬を伝う涙の粒を何度も何度も手で拭う。
 この世界に生まれてより、少女の周りは恐いものでいっぱいだった。
 胸に鉛を詰められたように、息をつく事すら出来ない。
 期待・恐怖・尊崇。
 少女を取り囲むもの達は、それらの感情が入り交じった顔に愛想笑いを浮かべて、遠巻きにしながら少女の一挙一動に神経を尖らせる。
 まるで、恐ろしい怪物がそこにいるかのように、『王』と呼んでその地位にふさわしい有り様を求める者達。彼らに都合のいい傀儡である事を望み、前王の残酷な血を引いていないか、湟帝の強大な力をどの程度受け継いでいるのか、遠くから値踏みしているのだ。
 ―――― 視線が、恐い。
 一人になった時は、その恐怖に耐えかねて泣かずにはいられなかった。
 ―――― 正しく、立派な王でなくては殺される。
 その言葉は、一時も少女の頭の中から離れる事はなかった。
 ―――― 強く、君臨できなければ殺される。
 怯える心を圧し殺して、自分より大きなもの達に命令し、驕慢に振る舞った。
 父は、少女が驕慢に振る舞えば振る舞うほど、満足げに誉めてくれたが、少女は得意げな微笑みの裏で、報復に怯える心を必死に抑えていたのだ。
 ―――― たすけて!
 悲鳴をこらえ、震える身体を細い腕で抱きしめる。
 誰も、この苦しみをわかってはくれない。
 湟帝の娘として、生まれながらに王の地位を得た、恵まれた精霊だとしか思っていないのだ。
 前王の命を奪って生まれた娘と、陰では言いながら・・・。
 そのような者達を、一族とはいえ、どうして信頼できるだろう?
 少女は、一族の中にあっても、父の宮内にあっても、常に他のものとは異なる存在だった。
 宮内には、彼女に優しい者もいたが、他族である上に天軍の将である風精王は、少女が王になった後には、会えぬ時の方が長かった。
 そんな耐え難い孤独の中、同じく『神子』として生まれた者を愛し、側にいたいと願った事が、どれほどの罪だというのだろう?
 何の屈託もなく、彼女を抱きしめてくれた腕とそのぬくもりは、『罪』の名の下、一瞬にして奪い去られた。
 ―――― 涙が、止まらない。
 肩で揃えた銀色の髪を、涙で頬に張り付かせて、少女は声を殺して泣いていた。
 ―――― 早く、側に来てください。あの時のように、泣いている私を抱き上げてください。


 暗い宮内は、その白壁の色のみがぼんやりと浮き上がり、視覚はほとんど役に立たない。滑らかな石の床の上には、足が凍りそうなほどの冷気が溜り、歩を進めるごとにそれが蹴立てられて、肺の中に冷たい空気を押し込める。
 『ずいぶんと暗い場所にいたって言うのに、全然目が慣れないな・・・』
 うんざりと呟いたカナタに、彼の前を歩いていた巽依が、笑みを含んでうなずいた。
 「珂瑛の闇は、世界で最も濃いのです。でもあなたは魂魄ですし、目がなくとも歩くのに不自由はないでしょう?」
 そう言われて初めて、カナタは今まで、闇には足を取られなかった事を思い出した。そして、なぜか精霊達の姿は、細部まではっきり見えた事に。
 「人間の魂魄さえ、内側から光を放つものですよ。精霊であるわたくし達が、闇の中で光らないと言うことがあるでしょうか?
 それに地上では、ただ外に出るだけで引き裂かれるような痛みを感じたでしょうけど、こちらではいかが?」
 言われてみれば、ただ残照を受けただけ、声をかけられただけだというのに、皮膚は焼かれるような痛みと熱を持ち、音は大きく膨張して響いた。
 しかし、美桃の結界の中にいた時と、二人から感謝のキスを受けた後は、こうして冷気を感じ、五感で周りの状況を掴んでいる。血の通った肉体を持っているのと、なんの変わりないままいられるのだ。
 そう言うと、巽依は背後に彼を従えたまま、軽くうなずいた。
 「肉体は、魂魄を保護する殻です。
 水に傷を浸けると酷く痛むように、肉体を失った魂魄は非常に敏感なのですよ。
 貴方も、側に木精達がいたから良かったものの、運悪く彼女たちにはぐれでもしたら、苦痛にのた打ち回りながら地上をさまよう事になったでしょうね。
 この世界の冥府には、地獄というものはありませんが、もしかしたらあのかわいそうな魂魄たちは、あれこそ地獄だと言うのかもしれませんわ」
 巽依は、その歩調と同じく、穏やかに話していたが、カナタにとっては、あのすさまじいまでの苦痛を体験した後だけに、心中は穏やかではなかった。
 「でも、もしそうなったとしても、あまり悲観する事はなくてよ。
 魂魄の守護者である闇精が、必ず見つけて、珂瑛に連れて来てくれます。
 もっとも、地上に執着を持つ者は、なかなか闇精にも従わな・・・」
 話の途中で、巽依の声が不意に途切れた。
 『風精王?』
 その上、突然立ち止まった彼女に、カナタが不審げに声をかけた。
 「なるほど。皆がわたくし達を探し出せなかったわけです。なんと巧妙な・・・」
 背後からは、その表情を伺えなかったが、その口調には、困惑と怒りが多分に含まれていた。
 『どうかしたんですか?』
 更に問うカナタに振り返った巽依は、困惑した様に眉を寄せ、かぶりを振った。
 「今までは、確かに気配を感じておりましたものを、ここに来て不意に途切れてしまったのです」
 『気配・・・』
 呟いて、カナタは冷え切っていた体が、体温を取り戻していくのに気づいた。
 『冷気が・・・消えている?』
 巽依がうなずく。
 「湟帝陛下の御気であらせられます。公主の御気配は完全に絶たれておりましたから、公主を封じられた陛下の御気を辿って参ったのですが、まさか、陛下の御気まで消されてしまうなんて・・・」
 信じがたい、と、巽依は再びかぶりを振った。
 「カナタ殿。貴方、何かお感じになりませんか?」
 『そう言われても・・・』
 カナタは風精王や地精王の姿が見えただけで、その場所まで連れていってくれたのは、木霊たちだった。
 『場所さえわかれば見えるかもしれないけど、気配を辿るのは難しんじゃないかな・・・あ、いや、難しいと思います』
 慌てて言い直すカナタに、巽依はわずかに笑みを浮かべてうなずいた。
 「困りましたね・・・」
 しかし、深く息をつく巽依に、麗華が申し出た。
 『風精王  私ならきっと見つけられますわ』
 「貴女が?」
 不思議そうに首を傾げる巽依に、麗華が言い募る。
 『公主のお側には 必ず華綾がいるはずです
 私と華綾は同じ花
 公主の御気配は辿れなくても 華綾ならばどこにいようと見つけられますわ』 
 自信ありげに言う麗華に、巽依も強くうなずいた。


 ―――― 怖い
 視線が、常に注がれている。
 ―――― そとは 怖い
 珠玉に、瑕があることは許されない。
 ―――― 私を見ないで
 完璧な、完璧な、完璧な王・・・。
 ―――― 私を語らないで
 御子よ、神子よ、神の血を受けた王よ。
 ―――― 怖い
 よもや、欠けたるところはあるまいよ。
 ―――― そとは 怖い


 扉が開いた。
 冥府に堕とされ、この地ですら物に触ることの出来ない麗華に代わり、扉を開けた巽依は、部屋の中から溢れ出た、びただしい冷気に、胸を詰まらせて立ち尽くした。
 「・・・なんてこと」
 しばしの沈黙の後、巽依はしなやかな指を唇にあて、動揺をそのまま口にした。
 「わたくしには全く見えません。貴方達はいかが?」
 巽依は、両開きの大きな扉を開け放ち、カナタ達に場所を譲る。
 彼女にあまり近づきすぎないよう、気を使いつつカナタが中を見ると、広大な部屋の中は、中心に光があるためか、わずかに明るい。
 だが、その微かな光さえ、十分に闇に慣れた目にはまぶしく感じられる。
 しばし、まぶた越しに光を受けた後、カナタは瞬きながら目を開いた。
 大きな広間には、床一面、しっとりと濡れた荊が繁茂し、その細い蔓には銀色の糸が絡んでいる。その銀の光を辿っていくと、部屋の中央、柔らかな光に護られて、その精霊は眠っていた。
 太子が封印されたことで、彼女の戒めは解けたのだろう。
 氷はもはや、彼女を封じることなく、代わりに棘を失くした柔らかな荊にくるまれて、穏やかに胸を上下させていた。
 『風精王、中央の光は見えますか?』
 カナタの問いに、巽依はわずかに頷いて目を凝らした。
 『あの中心に・・・荊にくるまれて、眠ってらっしゃいますよ』
 まるで眠り姫のように、彼女を慕う荊に護られ、銀の髪に良く似た柔らかな糸を身に絡めて眠っている。
 しかし、その寝顔は哀しげにひそめられ、涙の痕(あと)は隠すことも出来ずにこめかみを伝っていた。
 「・・・火精王は、わたくしの封印を解くために、とんでもないことをいたしましたわね」
 ぽつりと呟いた巽依に、カナタは苦笑しつつうなずいた。
 『まぁ、火精王もそれなりの報復をされてはいましたが』
 しかし、巽依は笑みも浮かべずに頷くと、軽く手をあげてカナタを部屋の外に出るよう、促した。
 「華綾!これからこの部屋、切り裂くわよ!道連れになりたくなかったら、早く出なさい!」
 『・・・は?』
 それまでの、ゆったりした話し方から突然、早く乱暴な口調に変わった彼女に驚いて、カナタは思わず扉の向こうの巽依を振り返った。
 しかし、そこに見たのは優美な女ではなく、同じ鮮やかな金髪でありながら、無幾のように背の高い、鎧姿の背中だった。
 『・・・エアリー・・・王?』
 呟いたが、カナタはその口調に戸惑わずにいられなかった。
 彼女と共にいたのはわずかな間だったが、彼女がこんな、女のような口調で話すのは聞いたことがない。
 呆然と立ちすくんでいると、風精王はその目の前でくるりと振り返った。
 「あんなブスと間違えないでよ!」
 『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ』
 カナタは絶句して立ちすくんだ。
 両腕を腰にあて、きらめく金髪を風に揺らめかせて立ちはだかる姿はとても美しく、ため息が出るほどだったが、しかし・・・それは・・・どう見ても・・・確かに美しいが・・・『男』だった・・・。
 「ったく!みんなしてアタシを閉じ込めて!!いいかげんアタマにキてんのよ!
 華綾!!早く出なさいって言ってんでしょ!マジ殺るわよ、アンタ!!」
 言うや、シルフは・・・はっきりシルフだと推測できる男は、床を覆う荊を掴み、一気に引き剥いだ。
 『ちょっ・・・そんな乱暴な・・・』
 言いかけたカナタを、彼はものすごい目で睨みつける。
 「やかましいっ!文句なら太子にお言い!」
 噂では散々聞いた風精王の四人目は、ヒステリー女そのままの剣幕で言い放つや、仕方なく姿を現した華綾の身体を部屋の外に放り出し、内側から乱暴に広間の扉を閉めた。


 ―――― 頬に風を感じて、意識が醒めて行く。
 眠っていたいのに・・・外に出たくないのに・・・。
 いつまでも眠っていたい・・・。
 夢の中では・・・誰も私を傷つけたりしないもの。
 誰も・・・私を見ないもの・・・。
 お願いだから起こさないで・・・。

 「公主・・・」

 いや・・・。
 そとは・・・怖い・・・。

 「公主・・・!」

 いやだ・・・。
 目を開けたくない・・・怖いものを・・・見たくない・・・。

 「公主・・・お目をお開けください・・・!」

 瞼越しに、赤く染まった光が、意識を覚醒させて行く・・・。
 どうして・・・そっとしておいてくれないの・・・。

 「澪瑶公主!」
 悲鳴じみた声で呼びながら、巽依が激しく揺さぶると、眠り姫はようやく固く閉じた瞼を薄く開けた。
 「公主!」
 感極まったように涙を溢れさせ、自分を抱きしめる巽依を、公主はいまだ覚めやらぬ目でぼんやりと見上げた。
 「公主!巽依でございます!お助けに参りましたよ!」
 常に凛としていた風精王は、まるで我が子を取り戻した母親のように取り乱し、公主を抱いたまま泣きつづけていた。
 「・・・どうしたの?」
 巽依の狂乱ぶりに、公主はぼんやりと呟いた。
 「氷の中から出られたのですよ、公主。湟帝陛下のお赦しが出たのです」
 「・・・氷?わたくしが、なぜ?」
 視線を移して、しっとりと濡れた自身の身体を見ながら、公主は不思議そうに問う。
 「貴女が闇精王と、湟帝陛下のご意向を無視して通じたからです」
 静かに、しかしきっぱりと真実を告げる巽依に、公主は目を見開いた。
 ぼんやりと自身を見つめていた瞳に覚醒の光がともり、それと同時に全身が小刻みに震え出した。
 「・・・わ・・・わたし・・・は・・・ど・・れくらい・・・眠って・・・いたの・・・?」
 怯え、縋るような目で周りを見渡す公主に巽依は、『正確にはわからないが』と前置きしてから、
 「平時で人が、4世代ほど代わる時間でございましょうか」
 と答える。
 約100年ほどの時を示されて、公主は息を飲んで巽依に縋った。
 「では・・・琅環(ろうかん)は・・・地上はどうなったのです?!」
 半狂乱で取りすがる公主に、巽依はカナタが抱く依坤の状態をそのまま教えた。
 「・・・地精王!」
 悲鳴混じりの声で叫ぶや、公主は顔を覆った。
 「・・・私はなんと言うことを・・・地精王・・・!」
 泣き伏す公主の肩を、巽依が優しくなだめる。
 「公主、貴女が戻れば、地精王もすぐにご回復なさいます。落ち着いて。わたくしと共に、渺茫宮へ帰りましょう?」
 言い聞かせるように、ゆっくりとした巽依の言葉に、しかし、公主は激しくかぶりを振った。
 「だめ!私は・・・渺茫宮に帰れば殺されてしまう!」
 「何を・・・馬鹿なことを。水精達が、貴女を殺めるなんてことがあるものですか」
 優しく抱き寄せようとする巽依の手を、しかし、公主は激しくはじいた。
 「嫌!彼らは私を殺すわ!今までだってずっと、一族でない私を、疎んじていたんですもの!王の地位を一族に取り戻すために、私は殺される!!」
 「・・・誰が・・・誰があなたにそんなことを言ったのです!?」
 半狂乱で抵抗する公主を、無理やり抱きすくめて、巽依は激しく問いただす。
 「死にたくない・・・!ただの水になるなんて嫌・・・!!お願い、殺さないで・・・!!」
 「公主!公主!!落ち着いてください!!」
 必死になだめる巽依の声も耳に届かないかのように、公主は激しく彼女の腕の中でもがいた。
 「公主、御子たる貴女を、誰が殺そうとするでしょう?!なぜ、御自分の一族を信頼できないのです?!」
 精霊にとって、一族とは自身の身体の一部。絶対に切り離せないものであると言うのに、この御子は、一族の誰一人として信頼できずにいる。
 「なぜ・・・彼らは貴女自身なのですよ・・・?」
 頬に涙が伝っていく。
 「わたくしが悪かったのですか・・・?他族の王でありながら、貴女を愛しく思うあまり、水精達から取り上げてしまった・・・」
 いつしか、抵抗をやめた公主の身体が、巽依の腕の中で震えている。
 「淘妃が・・・わたくしの大事な友が、命をかけて産んだ御子。畏れながら、わたくしは貴女を娘のように思っています。
 けれど、わたくしがお育てしたばかりに・・・貴女を独占したがったばかりに、貴女をこんなにも辛い目に遭わせてしまったのですね・・・」
 「違うわ、巽依。
 私は・・・いつも彼らに見張られていたの。王として、完璧に振舞わなければ、彼らは私を殺す。
 ずっと・・・ずっと・・・ずっと・・・・・・・・。
 生まれた時から・・・ずっと彼らは私を見ていた。
 王としてふさわしいか、御子として完璧か、彼らの尊敬に値する精霊か・・・。
 彼らにずっと見られて・・・陰で値踏みされて・・・。
 だから・・・巽依・・・。
 もう私、彼らから自由になっていいでしょう?
 ―――― 彼らを、消してしまっていいでしょう?」
 冷気がじわじわと沸き出てくる。
 彼女の激情と共に、室内の水という水は冷たく凍り、きらきらと光をはじいて、凍った空気が結晶を作って降り注ぐ。
 「公主・・・なんということを・・・」
 一族を消し去るなど、王にあるまじきこと!
 「なんということをおっしゃるのです・・・!そんな、おそろしい・・・!」
 「だって!他にどうすればいいの?!
 淘妃は強権な水精のほとんどを殺して逝ったけれど、まだ霧生(キリュウ)がいる・・・!彼が・・・王の座を奪うのよ・・・!」
 水精の中でも、未だ強力な力を持つ者の名を挙げて、公主は泣き崩れた。
 「霧生・・・」
 呟いて、巽依は彼の顔を思い浮かべるように、しばし瞑目した。
 淘妃に死の口実を与えなかった男とその側の水精だけは、公主が封じられていた間も、眠ることなく北海を我が物顔に支配していたに違いない。しかし、公主が渺茫宮に戻れば、彼らはそれまでのように勝手な振る舞いはできなくなる。王の権力は、一度手に入れたら手放すのは惜しいだろう。
 公主の不安も、あながち妄想とはいえないのだ。
 「・・・ならば先手を打てばいい」
 独り言のように呟いて、巽依は目を開いた。
 「確かに、このまま貴女が戻れば、きっと彼らは貴女の罪を問い、王の資格に言及するでしょう―――― だから、あなたの罪はなかったことにするのです」
 無幾と同じ笑みを浮かべて、反論しようとする公主を遮った巽依は、優しく彼女の髪をなでた。
 「いいですね、公主。貴女には何の罪もない。貴女は、わたくしや地精王と共に、『闇精王によって封じられた』のですから」
 「そんな!」
 反発する公主の口を封じ、巽依は誘惑する蛇のように、艶やかな笑みを浮かべた。
 「罪のない公主。かわいそうな貴女。
 理不尽にも封じられたわたくし達は、闇精王の罪を糾弾しましょう。せいぜい派手にね。
 そうすれば、彼らは表立って貴女を罪に問えませんよ。たとえ、本当のことを知っていたとしてもね。
 ―――― そう。罪のない貴女に代わって・・・理不尽に封じられていた貴女に代わって、北海を治めてくれていたのですから、その件では罪を問わぬように」
 瞠目する公主に、『その代わり』と、巽依は嘲った。
 「貴女に代わって世界に水を巡らせる事をせず、地精王をあのような目に遭わせた償いは、彼らに負わせるべきですわ。
 王に従わぬ者達を消して、その水で地精王を潤して差し上げましょう。
 そうすれば、貴女は地精王へ十分な償いをした王として、他族の信頼も勝ち得ますわよ」
 素敵でしょう?と、にっこりと笑う巽依を、公主は呆然と見上げた。
 「・・・そんなこと、誰が信じると言うの」
 太子と公主が、いわゆる『親密な』関係であった事は、二人が、御子たる自信と傲慢さゆえに、半ば挑戦的に周りに見せ付けていたせいもあって、多くの精霊が知っていることである。なのに、太子が公主を封じたなど、信じるはずがない。
 しかし、そう言う公主に、巽依は笑って首を振った。
 「公主、貴女、まだあの男を信じていらっしゃるのではないでしょうね?」
 耳元に、囁く。
 「わたくしは、貴女と湟帝陛下が交わされたお約束を存じておりますよ・・・」
 暖かい吐息と共に吹き込まれた毒に、公主は目を見開いた。
 「二人の心が離れた時―――― その時、解放してやろうと、陛下はおっしゃったのでしょう?」
 「私は今でもあの方を・・・!」
 酷い侮辱だと言わんばかりに声を荒げる公主を制して、巽依は再びその耳に毒を吹き込む。
 「無垢な貴女は、太子を裏切るなんて事はなさらないでしょうとも。わたくしは、よく存じておりますよ、貴女の一途さを―――― かわいそうな公主」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うそ」
 「巽依が、いえ、わたくしたちが、一度でも貴女に嘘を?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うそよ」
 「悲しゅうございます、公主・・・」
 かくりと、力を失って巽依の胸に倒れこんだ公主を、巽依は慈愛を込めて抱き寄せた。
 「愛していますよ・・・わたくしの公主」
 銀の髪に優しく口付けを落として、巽依は、珠玉を取り戻した喜びに、深く笑みを刻んだ。


 『・・・あれが・・・シルフ・・・?』
 閉ざされた扉の前で、呆然と尋ねるカナタに、麗華は硬い表情で頷いた。
 『・・・・・・・・・・・・・・・・噂以上』
 ありゃ出したがらないはずだと、心中深く頷きながらカナタは、風精王達のある言葉に思い至って顔を上げた。
 『嵐って・・・お姫様がやばいんじゃないのか?!』
 『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ』
 『遅ェよ!!』
 長い沈黙の後に、やっと思い至ったような華綾に、カナタは容赦なく突っ込んだ。
 『ドア開けるぞ!あいつ止めなきゃ・・・!』
 しかし、カナタは依坤を抱いているため、両手がふさがってしまっている。麗華はここでも物に触れることはできないと言うし。
 『華綾!』
 しかし、カナタはその、向こう側が透き通る姿を改めて見て、もっとも嫌な考えを口にした。
 『・・・まさか、あんたもこれには触れなかったりするか?』
 あっさりと頷かれて、カナタはがっくりと肩を落とした。
 『麗華はともかく、なんで五体満足なあんたが使えないんだよ!』
 苛立ちながら問い詰めるカナタに、しかし、華綾は、言葉が通じないかのように無反応だった。
 『無視すんなー!!!!』
 『何を言っても無駄よ』
 激昂するカナタに、麗華が冷ややかに言う。
 『この子は 公主をお慕いする以外の感情がないの
 それに 公主をお守りするために かなりの間 氷の側にいたんでしょう?
 人型を保てないほどに消耗してしまったのね』
 華綾の気配を辿って、この広間まで導いてきた時は、さすがに姉弟だけあって深い繋がりがあるものだと感心したものだが、今、麗華は華綾の側に近寄ろうともせず、まるで汚らわしいものでも見るように眉を開こうとしない。
 自業自得だとでも言いたげな、棘のある言葉に、しかし、華綾はやはり無反応だった。
 『ああもう・・・!どうなってんだ、中は!入りたくても、この子が吹き飛ばされるのはまずいしな・・・』
 カナタが扉の前でやきもきしていると、内側から彼らの気をひきつけるように、軽いノックの音がした。
 「カナタ殿。そこにいらっしゃいますね?」
 紛れもない、風精王・巽依の声だった。
 『そ・・・風精王!中は無事ですか?!』
 カナタの声は、かなり逼迫していたのだろう。巽依は安心させるように笑みを含んだ声で言った。
 「安心なさい。わたくし達が、公主を傷つけることなどありえません。
 それより、ここを開けて、中で渦巻いている激しい風を逃がしますから、貴方は壁際に避けてください」
 カナタはすぐさま扉の脇の壁に避けると、依坤をかばうように壁際に向かってから、巽依に扉を開けるよう声をかけた。
 すると、扉が開いた途端、ものすごい風が正面の廊下をまっすぐに吹き抜ける。
 『すげ・・・』
 風はすさまじい勢いで宮内の装飾品をなぎ払ったらしく、しばらくの間はあちこちから破壊音が響いてきた。
 「全く。だからあの子は出したくなかったのです。エアリーが眠ってさえいなければ、このようなことはなかったものを」
 呆れ果てたように吐息すると、巽依はにこりと笑ってカナタ達を広間の中に導き入れた。


 淡い光に、ほのかに照らされた部屋には、一人の精霊がひっそりと立っていた。
 「公主・・・・・・!」
 扉が開くや、真っ先に中に飛び込んで行った華綾が、常になく感極まった様子で、公主へと駆け寄り、その前に跪いた。
 「・・・華綾」
 公主がたおやかな手を差し伸べると、華綾は心得た様子でその手を取り、一輪の薔薇に―――― ガラス細工のように透明な薔薇に身を変え、その掌中に収まった。
 「貴方が―――― カナタ殿」
 その声――――。
 この世のものとは思えぬ透明感と、聞く者を夢の中に引き込まずにはおかない、完璧な音程。
 その歌で船を沈めたと言う、セイレーンの声とはこういうものか・・・。
 うっとりとその声の余韻に浸っていたカナタは、高貴な姫の、宝玉のような紺碧の瞳にじっと見つめられ、凍りついた。
 それはまさに、人間離れした美しさ。
 神の手によって完璧に創りあげられた、雪のように白い顔。蒼みを帯びた艶やかな銀の髪には、透明な『華綾』を挿し、雪の結晶のように白く繊細なレースで飾った、淡い蒼の衣装で華奢な肢体を包んでいる。
 とても、話に聞いていた気の強い姫君とは思えない、繊細な容貌。
 ―――― こんなに純粋で、美しい姫が、罪など犯すものか・・・。
 彼女の姿・・・その一挙一動から目を離すこともできず、カナタは一人、そう確信した。
 だが公主は、陶然と見蕩れるカナタから残酷に視線を外し、その腕の中で眠る依坤に目を留めた。
 「・・・地精王」
 衣擦れの音も清かに、公主がカナタに、いや、カナタが腕に抱く依坤に歩み寄るのを、カナタは硬直したまま迎えた。
 「地精王・・・なんというお姿に・・・」
 カナタは、依坤の上に屈み込み、涙ぐむ公主の顔を呆然と見下ろす。
 「カナタ殿」
 露を含んだ琅玉と目が合って、カナタの心拍数は一気に上昇した。
 身体がないと言うのに妙な話だが、冥府では、少々五感が鋭くなったというだけで、地上にいた時と全く同じ状態で魂魄が反応するのだ。
 「巽依より伺いました。貴方が風精王と地精王、それにわたくしを見つけてくださったのですね。心より感謝いたします」
 右手を胸に当て、左手を裳裾を絡めて、優雅に一礼する公主に、言葉もなく見蕩れていると、巽依が、軽く咳払いをした。
 『・・・あ・・・あの・・・えっと・・・・』
 言うべき言葉が見付からないまま、意味を成さない音を連発していると、さすがに脅して悪かったとでも思ったのか、巽依が、苦笑混じりに助けてくれた。
 「公主、カナタ殿は異界の方でございますから、ご挨拶に少々戸惑っておいでのようです。先に、地精王をお引き受け下さい」
 言われて、公主は小さくうなずき、カナタの手から依坤の身体を受け取った。
 「地精王・・・」
 床の上に跪き、そっと抱きしめると、公主は依坤の額に口づけた。
 「申し訳・・・ございません・・・」
 その耳元に、小さな声で囁き、公主は依坤の、乾いた砂を零す目に、もげた腕に、指を失った手に、次々と口づけを降らせた。
 「地精王・・・依坤様・・・」
 透明な声が、子守り歌のように滑らかに流れる。
 「―――― 闇は地に入り 地は水に親しむ・・・」
 眠る子供をあやすように、同じ節を何度も囁きかけながら口づけを降らせ続けた。
 いつしか、広間の壁にはしっとりと露が浮き、珠となって流れ、柔らかくなびいていた巽依の金髪も、重く濡れそぼって先から雫を滴らせている。
 「・・・地精王?」
 濡れた髪をかきあげながら、巽依は公主が抱く依坤の上に屈み込んだ。
 「もう、わたくしが近づいても大丈夫なようですね」
 ほっとしたように顔をほころばせて、巽依は気遣わしげに伺うカナタにうなずいて見せた。
 『よかった・・・』
 公主の手から、砂の感触の消えた依坤を受け取ったカナタは、樹李との約束を果たして、安堵の息をつく。
 「腕も指も、元の通りにお戻ししますわ。
 けれど、この方を完全に癒して差し上げられるのは、渺茫宮に戻ってからです―――― ここでは、水が足りませんから」
 なぜか陰の差した顔に深く笑みを刻んで、公主は囁くように微かな声で言った。
 「ではカナタ殿。次は貴方の番ですわ。わたくしに、助けていただいたお礼をさせてくださいませ。
 さぁ、どうぞ。望みをおっしゃって」
 優雅に立ち上がり、楚々と微笑む公主に、カナタの心拍数は限界まで上がった。
 『え・・・・・・っと・・・なんだっけ・・・』
 なんだっけじゃないだろう!と、自身に激しく突っ込む。
 「・・・魂魄の御身は・・・さっ・・・さぞかし・・・お辛うございましょうね・・・っ」
 巽依が、うつむいて肩を震わせつつ、助け舟を出してくれた。・・・・・・爆笑しているのがみえみえである。
 『はい・・・』
 太子が相手のときはあんなに怖いもの知らずだったくせに、どうして美人には弱いんだろう・・・と、自己嫌悪に陥ってしまう。
 『どうか、俺・・・いえ・・・えっと・・・わ・・私を、生き返らせてください。元の世界に帰りたいんです』
 カナタの願いに、鷹揚に頷こうとした公主の動きが、途中で止まった。
 いかに神の娘とは言え、無理があったか、と、できるだけ落胆を顔に出さぬよう、努力して顔を作るカナタの前で、公主は小鳥のように首を傾げて、困惑の目でカナタを見上げる。
 「貴方に身体を与える事は可能です。ですが、元の世界にお帰しする事はできません」
 『なぜ?!』
 理解を願うように見上げてきた公主の前に、カナタは思わず跪いた。
 「ご存知かと思いますが、わたくしはこの世界でなら、かなりの力を使えます。ですが、それは母皇陛下と三人の皇帝陛下によって使うことを許された力なのです。国ごとに王がいるように、他の世界には他の神がいらっしゃいますし、わたくしがその境を越えることは許されません。
 ―――― そう。貴方も、冥府の堀に蠢くもの達をご覧になったでしょう?もともと彼らはこの世界の境を侵した、異界の神々や精霊達なのです。
 わたくしがもし、貴方を元の世界に帰せたとしても、わたくしの力は全く無力になるか、過剰に発動してしまうか・・・調和する事はまずあり得ないでしょう」
 そう、淡々と語った公主は、ふと、珊瑚色の唇にしなやかな指を這わせて、カナタを見つめた。
 「・・・ひとつ、お伺いしたい。誰が貴方をここまで導きました?」
 ごまかすことは許さない、と、王の目が迫る。
 『冥府に落ちて・・・玉華泉に迷い込んだんです。ここへは、美桃と樹李、そして風精王が・・・』
 「わたくしを欺きますか?」
 ひた、と据わった琅玉は、カナタの目を捕らえて逃さない。蛇に睨まれた蛙のように、身動きも取れずにいると、
 『公主・・・私がお連れしました』
 床に落ちたカナタの影から、そっと現れた精霊を目にした途端、公主はたちまち表情を凍らせた。
 言葉を紡ごうと、口を半ば開けたまま、陸に上がった魚のように苦しげに喘ぎ、今にも気を失いそうなほどに蒼ざめて、身体を震わせている。
 それを激しい怒りゆえと解した麗華は、消え入るような思いで公主の前に跪き、深く首を垂れた。
 『公主・・・』
 麗華が、小さな声で呼んだ途端、公主はすさまじい悲鳴を上げて巽依に縋りついた。
 「だめ・・・!やっぱり私は殺されるんだわ!!あの子が喋ってしまう・・・!!
 彼らを殺したって、他の水精達が私の罪を知ってしまうもの・・・!
 たすけて巽依!!死にたくない・・・!!!」
 狂ったように泣き叫ぶ公主を固く抱きしめながら、巽依は跪く麗華を見遣った。
 公主の錯乱ぶりに呆然としていた麗華は、巽依が公主の背中に回した手をひらめかせるのを見た。
 いぶかしげに眉をひそめていると、微かな風がその頬を撫で、蒼い髪をわずかになびかせる。
 その途端、びくりと体を震わせた麗華に、ずっと公主の姿を目で追っていたカナタもふと彼女に視線を移した。
 『麗華?』
 深く首を垂れた彼女が小刻みに震えているのを見て、カナタはその側に跪く。
 『大丈夫か?』
 気遣わしげな声に、麗華は微かに頷いて、すっくと立ちあがった。
 『麗華・・・』
 まっすぐに公主の背を見つめた表情は硬く強張り、身体は未だに震えていたが、彼女は一つ、静かに息をつくと、ぎり、と刺すような視線を公主の背に向けた。
 『―――― 今にあなたの罪は すべての精霊の知るところとなるでしょう』
 麗華の無情な声に、公主は怯えた赤子のように声を詰まらせて悲鳴を止めた。
 『私は湟帝陛下の蒼薔  陛下の御意に沿うのが私の役目
 あなたの所業を公にし あなたに殺されようとしている水精達の命を救えば 私の薔族の長としての地位は 次の水精王が保証してくださるでしょう』
 蒼い瞳が冷たく煌いて、子供のように怯えた公主を捕らえる。
 『それに あなたさえ消えてしまえば 私は以前のように 天上・地上・地下のすべての花の中で最も美しいと言われた 『麗薔(リショウ)』の姿に戻れるのですわ』
 『リショウって・・・?』
 聞き慣れぬ名を呟くカナタは完全に無視された。
 「―――― 誰に向かって口を利いているのです?」
 巽依に必死に縋りついていた手を払うと、公主は瑯玉の瞳に強い光を浮かべ、麗華を正面から睨み返した。
 「木精ごときが、このわたくしに大した口を利くものだこと。それとも、惶帝陛下からは『麗薔』の、父上には『麗華』の名を頂いた事が、それほど花を増長させるものかしら?」
 言葉と共に、室内の空気も冰々と凍っていく。しかし、麗華は引くどころか、更に挑戦的に嘲ってみせた。
 『無礼?
 位を剥奪されるでしょうあなたに どうして遠慮しなければならないことがあるでしょうか?』
 その言葉に、公主は愕然と目を剥いたが、それは一瞬でしかなかった。
 「たとえ位階を剥奪されようと、このわたくしの身体に湟帝陛下の血が流れているのは間違いのない事実。木精ごときに侮辱されるいわれはない」
 声こそ静かで、聴くものを陶然とさせる美しい音程だったが、その深淵には冷たく激しい怒りが渦巻いている。
 「そうですとも、公主。貴女は紛れもなく、湟帝陛下の神子であらせられる。皇帝方以外の誰が、貴女を罰することができましょう?」
 巽依が、背後からそっと抱きしめてやると、公主は甘えるように背を預けた。
 「麗華。お前が麗薔の身体を取り戻すには、半身である華綾の身体を奪うしかないのでしょう?」
 いまや笑みすら浮かべて、公主は麗華を見遣った。
 「この子はあげないわ。私の、唯一信用のおける人形だもの」
 銀の髪に挿した薔薇に手を添えて、公主はあでやかに笑った。
 「木精王の座は諦めなさい、麗華。三皇帝と五人の精霊王が認めても、私が認めない。
 わたくしの―――― 澪瑶の名において、蒼い薔薇は天上・地上・地下に至るまで咲くことを禁じる。冥府からも出ておゆき、麗華」
 髪に挿した薔薇を、公主はゆったりとした仕草で麗華へ放った。
 薔薇は床に落ちる前にその荊を伸ばし、鋭い棘で麗華に襲い掛かる。が、麗華も予想はしていたのだろう。素早くカナタの影の中に隠れてしまった。
 「カナタ殿。お引渡しを」
 公主はにっこりと微笑んだ。拒否されるなど、微塵も疑っていない笑顔で。
 『・・・でも』
 カナタは口篭もった。
 ここは無礼討ちがまかり通る世界なのだと、頭ではわかっていたが、生憎、カナタは生まれた時から自由と平等が建前の世界で生きてきた。殺されるとわかっているのに、引き渡すことなどできない。
 助けを求めて巽依を見たが、彼女は公主の背後からじっと見つめ返すだけで、なんの助言もしてくれない。困惑の果てに再び公主に視線を移したときだった。
 ―――― 拒否なさい。
 ふっと、頬に風を感じたかと思うと、耳元で女の声が囁いた。
 思わず周りを見渡そうとしたカナタを、同じ声が制止する。
 ―――― わたくしです。貴方にだけ声が届くよう、風を送っているのですよ。
 ひらめくように一瞬、巽依は笑みを浮かべた。
 ―――― 公主は貴方に恩があります。それを盾に、麗華を救ってあげてください。後は、わたくしが責任を持ってとりなしましょう。
 巽依の声を聞きつつ、カナタはその『責任』という言葉にふと、引っ掛かりを覚えた。
 そして気づいたのだ。戦々恐々として公主の前に跪いていた麗華が、突然公主に逆らった訳が。
 ・・・・・・あんたの仕業か。
 穏やかなふりをして、実は無幾にそっくりな風の女王は、思わず睨んだカナタに、あでやかに微笑んでみせた。
 「カナタ殿?」
 黙りこんでしまったカナタに、公主が小首を傾げる。
 『―――― できません』
 悔しいが、ここは巽依の言う通りに動くしかない。
 『どうか公主、私の願いをお聞き届けください。麗華を、殺さないでいただきたい』
 頭の中で、必死に敬語を探しつつ言うと、公主はにこやかに首を横に振った。
 「わたくしが感謝を込めて、命を救って差し上げようと思うのは貴方一人です。麗華は関係ありません」
 『ですが・・・』
 更に言い募ろうとするカナタを、巽依が軽く手を上げて制した。
 「カナタ殿。公主のご意向は重んじるべきですよ」
 ―――― あんたが言えって言ったんだろうが!
 喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込む。
 「わたくしも、麗華は許すべきではないと思いますわ、公主。
 確かに、湟帝陛下より名を賜った者として、貴女に諫言することが麗華の役目でございましたが、貴女と太子のことを、湟帝陛下にお伝えしたのは愚かでしたわね」
 『そんな・・・!』
 助けてくれるのではなかったのかと、非難の目を向けたカナタに、巽依はそっと微笑んだ。
 「公主。カナタ殿は、貴女がカナタ殿に対して感謝してらっしゃるように、玉華泉まで導いてくれた麗華を見捨てるにしのびないと言うだけなのでしょう。カナタ殿は、お優しい方のようですからね」
 巽依が、公主の耳元に口を寄せて囁く様を、カナタはどこかで見た気がした。
 「麗華も永い間冥府を彷徨って・・・さぞかし辛かったことでしょう。
 幸運にも、カナタ殿と出会い、玉華泉に導いて、わたくし達を救うきっかけになってはくれましたが・・・わたくしは狭量なのでしょうね。慈悲をもって麗華の罪を減じるなど、とてもできませんわ。本当なら、恩を感じるべきなのでしょうけど・・・」
 ―――― それ、麗華を許さないなんて、狭量で恩知らずと言っているのと同じです・・・。
 呆れ返って絶句したカナタは、ふと思い出した。巽依に似ていると思ったもの―――― 後期試験の勉強中に『西洋思想』の教科書で見た、『聖書』の挿絵・・・。『イブを誘惑する蛇』だ・・・・・・。
 「わたくし達『風精王』は、意見の合わない者ばかりですから、たとえわたくしが許すと言っても、他の人格が許し難いと言うし・・・。全く、神ならぬ身は大変ですわ。苛烈にあたらねば他に侵される恐れがありますものね。公主と違って」
 にこにこと微笑む巽依を、公主も眉をひそめて見上げた。
 「光精王がご覧になればきっと、花ごとき捨て置けばよいと嘲うことでしょうが・・・」
 その名を聞いた途端、公主の目がきつく吊りあがった。
 「・・・光精王が・・・誰を嘲うですって?」
 自分を産んだ淘妃を嘲い、公主の水精王継承の式も、認めぬと言わんばかりに辞退したあの女・・・。
 「あの方は、なんであろうとご自分が一番でないと気の済まないお方ですもの。精霊王に上下はありませんが、玄冥太子と澪瑶公主・・・貴女達だけは特別。それが、光精王はお気に召さないのですわ。
 あの方のことですもの。貴女が侵したささいな間違いでも、まるで空を覆う雲のように大げさに語ることでしょうね」
 口さがない方ですからね、と、公主の鋭い視線を笑顔でかわす。
 しばしの沈黙の後、ふいっと視線をそらせると、公主は巽依の手を払い、『華綾』を拾ってカナタの横をすり抜けた。
 「・・・そのままついてらっしゃいな。今の暴言は、許してあげましょう」
 すれ違い様、そう囁いて、公主は先に部屋を出て行ってしまった。
 『・・・・・・風精王』
 「なんです?」
 公主が出て行ったのを確認して呼びかけると、巽依はにっこりと笑みを返してきた。
 『あれ、ほとんど詐欺ですよ』
 「人聞きの悪い。麗華を助けてあげたんですよ」
 笑みを含んで言い放つ。
 「わたくしは公主を、よく存じ上げております。ああでも言わなければ、決して麗華をお許しにならなかったでしょうね」
 『もとはあなたがけしかけたんでしょうがっ!』
 「あら。だって、あのままでは公主が壊れてしまっていたではありませんか。わたくしは、公主をお守りするためなら、誰が消えてもかまいませんよ」
 『―――― それは、あの時麗華が殺されていてもかまわなかったってことですか・・・?』
 怒りを含んだカナタの声に、巽依はくすくすと笑って応える。
 「助けてあげたと言う事実は、貴方にとって重要ではないのかしら?」
 『・・・あなたのように・・・いや、あなた達のように割り切って考えられないだけでしょうけどね』
 不満げな声に、巽依は更に笑った。
 「わたくし達だって、長所と共に短所も持っているのですよ。
 公主が生まれた時、淘妃が注げなかった愛情を代わって注いで差し上げようという思いから、わたくしの人格は生まれました。
 おかげで、無幾はより冷酷に、シルフは更に破壊的に、エアリーは救いがたいほど迷いが深くなりましたが、それでもわたくしの存在は必要だったのですよ。公主を守り、王としてふさわしくお育てすると同時に、『風精王』になつくよう誘惑するものとしてね」
 笑いながら、巽依は裳裾をひらめかせてカナタを部屋の外へ誘う。
 『・・・誘惑』
 「蛇は嫌いよ、わたくし」
 また、カナタの思ったことを見透かしたように笑って、巽依は公主に続いた。




〜 to be continued 〜


 










巽依(ソイ)は、『リュウ』と言う名前でした(爆)←「シュウ」と「リュウ」で韻を踏んでいた。
パ〜〜〜〜ソ〜〜〜〜〜〜〜〜〜(恨・Part2)
それはおいておいて。
今回、『精霊編』のメインテーマだった眠り姫(公主)と幸福な王子(依坤。最初はそうだったんだい;)が書けました(笑)
もともとこのお話のネタは高校の時、美術の授業で、友達と絵本を作ったのがきっかけだったんです。
その時は結局、「徒然草」の「ねこまた」を題材にしたのですが、他にも「かぐや姫」とか「眠り姫」とか、いろんな候補がありまして、「白雪姫って、ゾンビじゃん?(笑)」なんてことを言いつつ、御伽噺をパロっていたのでした(笑)
書いているうちに、段々記憶がよみがえっていってますよ(笑)
そして今回、本当は10までそのままつながっていたんですけど、あまりにも長すぎてこんなところで切ってしまいました(^^;)←A4サイズの用紙にぎっしり書いて40枚(TT)
紙がもったいない・・・(TT)












Euphurosyne