† Wind of Gold †






 ―――― 遠い昔、我らが主は、全ての人間の罪を負い、磔にされたと言う。
 そして今、私の両手には、主と同じ磔の痕が・・・・・・。
 人間である私には、全ての罪を負う事など、できはしない。
 だがせめて、この手に負う事のできる命は・・・・・・たとえ我が命を縮めても、負うべきものだろう。
 それが私の、務めであるならば・・・。


 ――――・・・風が、金色に輝く様を初めて見た。
 馬車に設えた、簡易ベッドに横たわるミランダが呟くと、彼女に付き添ったサポーターはにこりと笑い、『黄砂だ』と教えた。
 「砂漠の砂が、風に運ばれてやってくるのです」
 そう言って彼は、窓の外を金色に染める、風の来し方を指す。
 「西風に乗って、春頃には日本にまで届くそうですよ」
 日本――――・・・。
 その国の名に、ミランダは眉をひそめた。
 途端、サポーターは慌てて言い募る。
 「も・・・申し訳ありません、ロットー様!」
 おろおろとうろたえる彼に、ミランダは枕の上で首を振った・・・それだけの動作が、ひどく辛くて、どうしても緩慢になる。
 「気に・・・しないで・・・・・・」
 ようやく出た声はひどくかすれていて、まるで老婆のようだった。
 その声にサポーターは、却って気遣わしげな顔をする。
 「あ・・・あの、アジア支部に着くまで、眠られてはどうですか?
 このようなところで、落ち着けはしないでしょうけど・・・」
 彼の言う通り、舗装されていない道を行く馬車はひどく揺れて、安眠に適した場所ではなかった。
 が、ミランダは、彼の気遣いを嬉しく思い、長い間、眠りから遠ざかっていたまぶたを閉じた。
 とはいえ、砂利を噛む振動を、そのまま伝える車輪の上では、ヒュプノスも眠りの翼をかざしかねる。
 負傷した彼女のために設えられたベッドには、厚いマットが敷いてあったが、馬車自体が揺れているのではその効果も低い。
 長い道のりを眠りとは無縁に過して、ようやく到着した時には、心底ほっとした。
 「すぐ、ストレッチャーを持って来ますから、ちょっと待ってて下さいね!」
 そう言って、機敏なサポーターが馬車を出て行ってしまうと、一人残されたミランダは、しん、と静まり返った馬車の中で、ため息を零す。
 「どうして・・・私だけ・・・・・・」
 『方舟』に乗らず、地上に残った者のうち、ミランダだけが日本を離れるように命じられた。
 日本へ渡る船上からずっと、ほとんど眠らずにイノセンスを使い続けていた彼女の疲労が、限界を超えたと言うのがその理由だ。
 「おぬしだけではない。方舟の行方を確かめた後、私達も大陸に引き上げるだろう」
 そう言って、ブックマンはミランダを先に行かせた。
 彼も、深い傷を負っているのは同じなのに・・・。
 悔しさか、哀しさか、涙がミランダのこめかみを伝った。
 「どうか無事で・・・・・・」
 震える手で顔を覆い、嗚咽混じりの声で祈る。
 仲間達の無事を祈ることしかできない自分が情けなく、更に涙が溢れた。
 と、震える肩が、暖かい手に包まれる。
 ふと手をどけたミランダは、眼前に現れた顔に、目を見開いた。
 「なぜ・・・・・・」
 声を詰まらせた彼女を見下ろして、彼は微笑む。
 「室長命令で、サポートに来ました」
 願望が見せた幻かと思った彼に抱きあげられ、戸惑いつつもミランダはその胸に頬を寄せた。
 と、まごうことなき彼の匂いに、思わず安堵の吐息が漏れる。
 「リーバーさん・・・・・・っ!」
 「また・・・軽くなって・・・」
 彼に縋りついて、嗚咽を漏らすミランダに苦笑し、リーバーは馬車を降りた。
 「リーバー班長、ストレッチャー・・・」
 困惑げに声を掛けるアジア支部のサポーターを無視して、ミランダを横抱きにしたまま聖堂内を歩むリーバーに、団員達の視線が集まるが、彼は頓着せず、奥へと歩を進める。
 「・・・アレンが方舟に入った後、室長が、『ノアが日本にいるなら、みんな無事じゃすまないだろう』って言い出して。
 本当は自分が来たかったみたいなんすが、さすがにサポート派のトップが本部を離れるわけには行かないんで、代わりに俺が来たんです」
 懐かしい声に涙が止まらず、ミランダはただ、頷いた。
 「でもまさか、着いた早々、会えるとは思わなかった。
 あなたのことだ、自分の身体のことも考えず、無理したんでしょう?」
 「ごめんなさい・・・」
 かすれ声の答えに、リーバーは苦笑する。
 「怒っちゃいないですよ。
 ただ、少しは自分のことも考えてください」
 穏やかな口調で諭されたが、ミランダは、この言葉には頷かなかった。
 「ミランダさん?」
 問いかけると、彼女はふるりと首を振る。
 「私は・・・私の役目を果たします・・・・・・」
 途切れがちなかすれ声で、しかし、きっぱりと言い放つが、それが彼女の限界点だった。
 とうとう意識を手放し、がくりと首を落とす。
 「ミランダさん・・・!」
 リーバーは足を早め、アジア支部長の待つ医務室に駆け込んだ。
 「バク支部長!」
 その声に振り向いたバクは、ミランダを抱えたリーバーに目を丸くする。
 「・・・なにをやってるんだ、リーバー。ストレッチャーはなかったのか?」
 「え?!いや・・・その・・・・・・!」
 真っ赤になって言い訳を探すリーバーを、バクは訝しげに見た。
 「まぁいい。
 早くミランダ・ロットーを診察台に乗せろ。
 蝋花、フォー、彼女の着替えを頼む」
 リーバーが医務室のベッドにミランダを横たえると、待機していた蝋花とフォーが、ベッドの周りをカーテンで囲う。
 「お前ら、覗くんじゃねぇぞ!」
 「誰が覗くか」
 フォーの命令に冷たく応じると、バクは手にしていたファイルをリーバーに差し出した。
 「リーバー、君が本部から持ってきてくれたエクソシスト達のカルテだが・・・なにを赤くなってるんだ、お前は」
 「すっ・・・すみません・・・っ」
 バクとは逆に、フォーの言葉に激しく動揺していたリーバーは、差し出されたカルテに意識を集中する。
 「えっと・・・何か、変なトコがありましたか?」
 懸命に表情を引き締めて問えば、バクも真面目な顔で頷いた。
 「リナリーさんのカルテがない!」
 バクが憮然と言い放つや、リーバーはがっくりと肩を落とす。
 「・・・なんすか、リナリーは今、関係ないっしょ・・・・・・」
 「大アリだ、馬鹿もん!」
 リーバーの言葉に激しい抗議の声を上げ、バクはしかつめらしい顔をした。
 「間もなく、エクソシストが全員、ここに運ばれてくる可能性もあるのだ!
 なのにリナリーさんだけ放置しろと、お前はそう言うのか?!」
 もっともらしい台詞を吐く彼に、リーバーは深々と吐息する。
 「その時はなにを置いても室長が飛んでくるっつってましたよ」
 「アホかっ!
 今、英国にいる奴が、いくら急いだって間に合うわけがないだろうが!」
 だからカルテをよこせ、と、更に迫ってくるバクに、リーバーはまた、吐息した。
 「ご説ごもっともですが、カルテがないのは、リナリーだけじゃないんすけどね?」
 「え」
 顔を引きつらせたバクにカルテを押し返し、リーバーは目を眇める。
 「ルーマニアから合流した、クロウリーのカルテもないはずですが?」
 「あ」
 慌ててカルテの束を繰るバクを、リーバーは冷たく見下ろした。
 コムイが、やましい気持ちを持った男にリナリーのデータを渡したくない、と、泣き喚いてカルテを隠した気持ちが、少しわかった気がする。
 が、リーバーは、バクがリナリーにしか興味がないことも、よく知っていた。
 ミランダが彼の眼中にはないことに心から安堵して、リーバーはバクの手からミランダのカルテを抜き取る。
 「それより、話を進めましょうよ」
 淡々と言って、リーバーはミランダのカルテを繰った。
 「ミランダさんは装備型なんで、シンクロ率を超えない限りは、人体に影響はないはずなんですが・・・」
 その時、ベッドの周りを囲っていたカーテンが、乱暴に開く。
 「なぁ、西洋の服って、脱がせ方がわかんねェ。
 リーバー、お前やれよ」
 「できるかァァァァァ!!!!」
 あっけらかんとしたフォーの台詞に、リーバーは一瞬で真っ赤になった。
 と、フォーに続いて蝋花が出てくる。
 「冗談ですよぉ、班長v 終わりましたぁ」
 愛想よく言う蝋花に、リーバーはまだ赤味の引かない顔を向けた。
 「サ・・・サンキュ、蝋花」
 「いいえぇv
 にこにこと笑みを浮かべて、リーバーに歩み寄ると、蝋花はその手を取る。
 「私、ロットーさんのお世話、いっぱいいっぱいしますぅーv
 だ・か・らv
 リーバーの手をぎゅっと握って、蝋花はぶんぶんと振った。
 「本部科学班行きに、推薦してくださぁいvv
 「は・・・はぁ・・・?!」
 下心丸出しで、堂々と交換条件を述べた彼女に、リーバーは呆れる。
 ――――・・・こんな部下は持ちたくねぇなぁ・・・。
 リーバーが心中に呟くと、彼女の現上司は、忌々しげに眉をひそめた。
 「蝋花、そう言うことは相手が断れなくなる状況を作ってから言え!」
 未熟者が、と、舌打ちするバクに、リーバーは瞠目する。
 「そっちかよ!!」
 リーバーはやや乱暴に蝋花の手を振りほどくと、ミランダの眠るベッドへと歩み寄った。
 「あん・・・!」
 バクと同じで、ミランダ以外眼中にないリーバーを、蝋花は残念そうに見やったが、すぐに気を取り直して追いかける。
 ・・・彼女もまた、アレン以外の男性には興味のない少女だった。
 「・・・なんだこれ。
 似たもの同士が集まってんのか?」
 フォーが呆れ声をあげるが、マイペースな彼らには届かない。
 「教団の奴らって、みんなあんなんなのかねぇ・・・」
 教団の将来に不安を覚えつつ、フォーもまた、ベッドに歩み寄った。
 と、ミランダを囲んで、難しい顔を寄せ合っていた三人のうち、バクが顔を上げる。
 「リーバー、ウチは貴様ら程、エクソシストのデータを持ってはいないのだが・・・こんな状態は初めて見る。
 いくらイノセンスを使い続けたからと言って、ここまで酷いことになるものだろうか?
 彼女は何か、持病でも持っているのじゃないか?」
 バクの問いに、リーバーは首を振った。
 「入団時に精密検査をしましたが、それはありませんでした」
 「でもぉー、現代の医学でわかんない病気なんて、たくさんあるじゃないですかぁー。
 特に、婦人病系統なんて、全然調べてないんじゃないですかぁ?」
 「ふっ・・・婦人・・・・・・?!
 イヤ、待て、さすがにそれは・・・どうなんだ、リーバー?!」
 動揺のあまり、まともな答えも出ないバクが、リーバーに回答権を回すと、バク以上に動揺したリーバーは、声も出ずにただ、赤い首を振る。
 「・・・なにやってんだ、てめェら。いい年して」
 「ねー?大事ですよねぇ、婦人病?」
 不甲斐ない男二人の前で、フォーと蝋花は呆れ果てた風に肩をすくめた。
 「ロットーさんって、なんか病的に痩せてるじゃないですかぁ。
 私ぃ、彼女、フジュンなんじゃないかなぁって思うんですよぉー」
 「いや!それはないぞ!ミランダさんはすげぇ純情な人なんだ・・・っ!!」
 すかさず言い放ったリーバーに、蝋花は眉をひそめる。
 「ハァ?
 なに言ってるんですか、リーバー班長ぉ?
 今は性格じゃなくて、身体の話をしてるんでしょぉ?」
 随分と年下の少女に呆れ声で言われ、リーバーは益々紅くなった。
 「ス・・・スマン・・・・・・。
 フジュンっつーのは、つまり・・・?」
 「生理不順ですよぉ」
 途端、いい年した男二人は、真っ赤になって絶叫する。
 「蝋花!!
 きさま、女のクセに、せっ・・・せせせせっ・・・せっ・・・いりふじゅんとか言うな!!」
 バクの抗議に、蝋花は更に眉をひそめた。
 「女が言わないでどぉするんですかぁー。
 お医者さんならともかく、支部長や班長が、真面目な顔で生理の話するんですかぁ?」
 「ろ・・・蝋花、お前・・・・・・!!」
 とうとう耳を塞いでしまったリーバーには、しかし、輝くような笑みを向ける。
 「必要ですよねぇ、女の科学者v
 班長ぉーv 私を本部科学班に入れてくださぁいvv
 熱心なアプローチに、動揺のあまり頷きそうになったリーバーは、寸前で我に返った。
 「い・・・いや、今はそんなことを言ってる場合じゃねぇだろ!」
 まだ赤い顔でミランダを見下ろし、蝋花を視界から追い出す。
 「支部長、とりあえず今は、疲労回復を優先して、検査は後にしませんか」
 リーバーの提案に、バクはあからさまにほっとした様子で頷いた。
 「そっ・・・そうだな!
 蝋花、ロットーに鎮静剤を打っておけ」
 「はぁい」
 素直に指示に従った蝋花に安堵し、バクは踵を返す。
 「じゃあ、目が覚めるまで、ロットーはドクターに任せて、イノセンスだけ科学班に持って行こう。
 リーバー・・・」
 行くぞ、と、ドアを示したバクに、リーバーは遠慮がちな顔を向けた。
 「すみません、支部長・・・俺、ここにいていいっすか?」
 「はぁ?なにを言っとるのだ、きさま!
 ロットーの目が覚めるまで、なにもすることはないだろうが!」
 野暮だが、支部長としてはもっともな台詞を吐くバクの袖を、フォーが笑いながら引く。
 「バク、いいコト教えてやっから、ちょっと来いv
 蝋花も一緒に来いよ。鎮静剤は、リーバーに任せろ♪」
 「はいv
 じゃあ、リーバー班長ぉv ごゆっくりぃvv
 事情を察したらしい蝋花も、にんまりと笑って鎮静剤を渡し、フォーとバクに続いて出て行った。
 「・・・なにを言う気だ、アイツ・・・」
 フォーと蝋花の笑みを、かなりのところ不安に思いつつ、リーバーは手にした鎮静剤を、慣れた手つきで注射器に吸わせる。
 空気を抜くために、彼が注射器を爪で弾いた途端、ミランダが目を開けた。
 「・・・っびっくりした!
 どうしたんすか?」
 「今・・・・・・ガ・・・ラス・・・の・・・・・・」
 苦しげな声を訝しく思いながら、リーバーは手にした注射器をミランダの視界に入れる。
 「あぁ、注射器っすけど・・・」
 詰めていた息を、ほっと吐き出した彼女に、リーバーは注射器を置いて歩み寄った。
 「どうしました?」
 衰弱した彼女を、喋らせるべきではないとは思ったが、リーバーは、血の気が失せるほどに毛布を握りしめた、ミランダの手を取って問いかける。
 「何か、怖いことでも思い出しましたか?」
 震える手を握ってやると、怯えた目が、部屋中を彷徨った。
 「大丈夫。ここには俺しかいません」
 安心させるように低く話しかけると、ミランダの見開いた目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
 「ミランダさん・・・」
 ベッドの端に腰を下ろし、抱き起こすと、彼女はリーバーの胸に顔をうずめた。
 かすれた声をあげて泣く彼女の背を撫でてやると、感情の昂ぶりも徐々に治まっていく。
 やがて彼女は、リーバーの胸に顔をうずめたまま、ぽつぽつと、低い声で語り出した。
 「私のイノセンスから・・・誰かの時間が消える度・・・ガラスが砕けるような感触がするんです・・・・・・」
 途切れがちに、長い時間をかけてそう言うと、ミランダは切なく吐息する。
 「私が止めた時間は、まるで砂時計のよう・・・不透明なガラスに封じ込めて、外から見えなくしただけで・・・中では時を刻んでいる・・・・・・」
 それは、時間を操る彼女だけが、実感し得るものだ。
 「わ・・・私がイノセンスを止める度に・・・・・・命が・・・・・・消えてしまう・・・・・・!」
 うたかたのように儚く消えながら、砕け散った時間の欠片は、ミランダの胸を深く貫く・・・。
 彼の胸に縋って泣くミランダを、リーバーは切なく見下ろした。
 ―――― この細い手に、一体、いくつの命を乗せたのか・・・。
 どんなに豪胆な人間であれ、他人の命を背負うことは、とても辛いことだろう。
 まして彼女は、つい最近まで、この戦争となんの関わりもなく過していたのだ。
 繊細な彼女に、耐えられる重さではなかったはず・・・。
 戦争に怯え、自らの力に怯えて、激しく震えるミランダを、抱きしめることしかできない自身に、リーバーは歯噛みする思いだった。
 だが、彼は感情を押し殺し、ミランダの背を軽く叩く。
 「・・・今は、何も考えずに眠って下さい」
 穏やかな声に、しかし、ミランダは首を振った。
 「怖い・・・んです・・・・・・!
 わ・・・私が・・・気を失う度に、皆に傷が戻りました・・・・・・い・・・命が消えたことも・・・・・・!」
 長い戦いの間、誰よりも精神を蝕まれたミランダは、最早、目を閉じることにすら、恐怖を覚える。
 その姿に、リーバーの遠い記憶が蘇った。
 冷酷な科学者たちによって、眠りを奪われ、心を壊された子供達の姿が・・・。
 「ミランダさん・・・」
 肉付きの薄い頬を手でなぞり、泣き濡れた顔を上向かせて、蒼ざめた唇に唇を重ねた。
 「大丈夫。あいつらを、信じてやって下さい」
 「信じる・・・?」
 呆然と呟くミランダを抱き寄せ、頷く。
 「あなたは、あなたにできることを、精一杯果たした。
 なら後は、あいつら自身が戦って、生きて戻ってくることを信じてやるだけです」
 低く、穏やかな声音に反し、リーバーの胸に寄せた頬に伝わる振動は、平穏とは程遠かった。
 だがそれは、とても心地良く、ミランダは聞き入るように、そっと目を閉じる。
 「それは・・・あなたたちのことですか・・・?」
 戦場にいながら、戦闘には加われないミランダの立場は、サポーター派のそれに近い。
 いや、遠い異国で、エクソシスト達の生還を信じて待つことしかできない彼らの方がむしろ、苦しみは大きいのではないか・・・。
 そう問えば、リーバーはゆっくりと首を振った。
 「あなた達に比べれば、俺達は・・・気楽なもんです」
 リーバーはそう言うが、彼らもまた、戦争の恐怖と苦しみを味わっていながら、戦場に立たないという、それだけのことで、時には心無い非難にさらされている。
 「できることなら代わってやりたい、なんて言うのは、戦場を知らない者の驕りです」
 彼らの・・・いや、彼の苦悩に思い至ったミランダは、気遣わしげな目で彼を見上げた。
 「あなた達は、あなた達にできることを・・・いえ、あなた達にしかできないことを、精一杯やっているじゃありませんか・・・。
 誰にも、あなた達を非難することはできません。
 いえ、そんな事、私が許さない・・・!」
 常にない、激しい彼女の口調に、リーバーは苦笑して首を振る。
 「俺らの事はいい」
 「いいえ・・・いけません!
 私達が、どれだけあなた達に守られてきたか・・・・・・!」
 戦場に赴くエクソシストのため、彼らが寝食を削って働いていることは、誰もが知っているはずなのに、その成果が、正当に評価されているとは思えなかった。
 更に言い募ろうとした彼女の口を、リーバーは封じる。
 「だけどそれは、あなたも同じでしょう?」
 「え・・・」
 苦笑混じりの声に、ミランダは訝しげに眉を寄せた。
 「戦場では、辛い思いをしたんじゃないですか?」
 ミランダは、ビクリと肩を震わせる。
 震える両手を組み合わせ、きつく握りしめた。
 この両手に乗せられた命―――― それを喪う苦しみと同等、もしくはそれ以上に、戦闘に加われない自身の立場に、苦しまずにはいられなかった。
 「私・・・は・・・皆に・・・気遣われるばかり・・・で・・・・・・!」
 時には足手まといになっている気がして、何かせずにはいられなかったのだ。
 だがその結果が、今回の戦線離脱だった。
 「戦場にはまだ、皆が残っているんです・・・!
 なのに私だけ、こんな所で・・・・・・!!」
 血の気を失うほど、きつく握り合わせた手に、ぽろぽろと涙が落ちる。
 もっと力があったなら、救えたかもしれない仲間達が、今、どこで、どのようなことになっているのか・・・そう思うほどに、胸は締め付けられた。
 「私がもっと・・・強かったなら・・・!
 もっと、力があれば・・・・・・!」
 「そんなあなただから、適合したんじゃないですか?」
 リーバーは、ミランダの手に手を添えて、そっと囁きかける。
 「決して命を軽んじない。
 いつまでも自身の力に驕らない。
 そんなあなただからこそ、主は、この世で最も重く、危険なイノセンスを、与えたんじゃないですか・・・?」
 その言葉に、ミランダは驚いたように目を見開き、リーバーを見上げた。
 「時間を操るということは、主の御力に逆らうこと―――― だが主は、あなたにだけ、その力を使うことを許された」
 リーバーの手が、ミランダの手に残る傷痕を、そっと撫でる。
 「主と同じ傷を負った、あなただけに・・・」
 かたく握り合わされた手を解き、自身の手と絡ませて、リーバーは笑った。
 「もし強かったら、もっと力があったら、なんて、望めば際限がない。
 あなたは今、持てる力の全てを尽くして、自分のできることを精一杯果たした。
 だったら今は、あいつらを信じてやってください。
 レベルアップするにしても、まずはあなた自身が回復してからでしょう?」
 諄々と諭されて、ようやく頷いたミランダに、リーバーは微笑む。
 「眠れないなら、睡眠薬でも処方してもらいましょうか?」
 やや落ち着いたミランダをベッドに横たえ、腰を浮かすと、すかさず袖が掴まれた。
 「あ・・・あの・・・・・・」
 「はい?」
 「お・・・お薬は・・・いいですから・・・側にいてくれませんか・・・?」
 消え入りそうな声で囁くや、真っ赤になった顔を、枕にうずめてしまったミランダに微笑み、リーバーはベッド脇に引き寄せたた椅子に腰を下ろす。
 「いいですよ」
 袖に縋るミランダの手を取り、握ってやると、もう一方の手でゆっくりと頭を撫でた。
 「おやすみなさい」
 穏やかな声に、ミランダは目を閉じる。
 暖かな手に縋って、彼女はようやく、眠りを得る事ができた・・・。


 ―――― ミランダの短い眠りは、ぼそぼそと低く囁きあう声に覚まされた。
 「・・・・・・・・・」
 声の方へ、ぼんやりとした目を向けると、二人の男が気まずげにミランダを見下ろす。
 「・・・ホラ!支部長がうるさいから!」
 「誰のせいだ、誰の!
 きさまがぼけっと医務室にこもっとるから、わざわざ俺様が迎えに来てやったんだろうが!!」
 「あの・・・どうしたんですか・・・?」
 まだ低い声で、ぼそぼそと言い争う二人に、戸惑いがちに問うと、アジア支部長が忌々しげに舌打ちした。
 「このボケが、クソ忙しいのに君が起きるまでここにいるなどと言い張るのだ!
 起きてくれて良かった、ロットー!
 このバカ、連れて行くぞ!いいな?!」
 反論を許さない口調でまくし立てられ、ミランダは怯えた目で頷く。
 「よし!
 ホラ、早く来んか、リーバー!!きさま、役に立たんなら英国に強制送還するぞ!!」
 バクにずるずると引きずられ、医務室を出て行ったリーバーの背を、名残惜しそうに見送っていると、彼女の視界に突然、小柄な少女が現れた。
 「ロットーさぁんv お加減、いかがですかぁ?」
 驚いたものの、ミランダは明るい口調の問いに、微笑んで頷く。
 「平気・・・・・・」
 その一言が出るまでの、苦しげな様子に、少女は苦笑した。
 「無理しなくていいですよぉ。
 ロットーさんがちょっと回復したら、すぐ精密検査するそうですから、今のうちにゆっくり休んでくださいねぇ。
 あ、私、アジア支部の科学班見習いで、蝋花っていいますぅ。よろしくですv
 少女の懐こい口調に笑みを深め、ミランダは苦しげにあえぎつつも言葉を紡ぐ。
 「ミランダで・・・いい・・・・・・蝋花ちゃん・・・・・・」
 「えへv ありがとうございます、ミランダさんv
 嬉しげに笑って、蝋花は先程までリーバーが座っていた椅子に腰を下ろした。
 「私、一所懸命お世話しますから、何か欲しい物とかあったら、遠慮なく言ってくださいねぇv
 そう言いながら、毛布から出たままのミランダの手を取った蝋花は、ふと、首を傾げる。
 「あのぉ、ロット・・・じゃない、ミランダさん、リーバー班長にちゃんと、鎮静剤打ってもらいました?」
 ミランダが黙って首を振ると、蝋花は『やっぱり!』と、呆れ声をあげた。
 「どぉりで、すぐ起きちゃうはずですよぉ・・・班長ったら!」
 やや声を荒げた蝋花に、ミランダは慌てて首を振る。
 「そ・・・じゃな・・・いのっ・・・!わた・・・し・・・が・・・!」
 息を詰まらせながら、必死に声をあげようするミランダを、蝋花が驚いてなだめた。
 「わ・・・わかりましたから!落ち着いてください、ミランダさん!
 興奮するの、良くないですよ?!ね?!」
 ミランダ以上に慌てて、懸命に言い募る蝋花に、彼女は苦しげに吐息しながらも頷く。
 と、ミランダの頭上で蝋花が、ふわりと微笑んだ。
 「ミランダさん、班長のこと、好きなんですねぇv
 どこか嬉しげな声に、ミランダは頬を染めて、また、頷く。
 「さっきの様子じゃ班長も、ミランダさんのことが好きなんですねぇv
 いいなぁv ラブラブだなぁvv
 蝋花は足をぶらぶらと振りながらはしゃぐが、ミランダは真っ赤になった顔を枕にうずめたまま、無言だった。
 そんな彼女に顔を寄せ、蝋花はクスクスと笑声をあげる。
 「ミランダさんが敵じゃないってわかって、安心しましたぁv
 「え・・・?敵・・・?」
 意外な言葉にミランダが眉を寄せると、蝋花は瞳を輝かせて、ミランダに詰め寄った。
 「私、ウォーカーさんのことが好きなんですぅ〜vv
 直球で放たれた愛の告白に、唖然とするミランダの目の前で、蝋花は恥ずかしげに顔を覆う。
 「だから、ミランダさんとウォーカーさんが、ただの仲間だってわかって、嬉しかったんですぅv
 「そ・・・そう・・・・・・」
 ミランダは呟くと、困惑げな表情を枕にうずめて隠した。
 すると蝋花は、ミランダの顔を覗き込むように、ベッドに頭を乗せる。
 「それでぇ、私、ウォーカーさんと一緒にいられるよぉに、ぜひ!本部の科学班に行きたいんですぅ!!」
 無邪気に笑いかけられて、ミランダは一層困惑した。
 ―――― ど・・・どうしよう・・・・・・!
 ミランダは、アレンがリナリーを好きなことを知っているが、少女の夢と恋心を潰してしまえるほど、残忍な人間ではない。
 彼女が何も言えずにいると、蝋花はベッドから起き上がって、唐突に踵を返した。
 ミランダがほっとしたのも束の間、医療器具をトレイに乗せて戻ってきた彼女は、慣れた手つきで薬液を注射器に吸わせる。
 「そう言うわけで!
 私は一日も早く本部に行けるよう、認めてもらわなきゃいけないんです!」
 リズミカルに注射器を弾き、気泡を飛ばしてしまうと、蝋花はミランダの腕を取り上げた。
 「そのためにも私、ミランダさんが早く良くなるように、精一杯お世話させて頂きますね!」
 鎮静剤を打たれながら、ミランダは悩ましげに眉をひそめる。
 「あれ?痛かったですかぁ?」
 痛いのは、腕でなく頭だったが、ミランダは苦笑して頷いた。
 「ごめんなさいっ!
 え・・・えと・・・これから点滴しようと思ってたんですけどぉ・・・苦手だったら・・・・・・」
 勢いよく頭を下げて、不安げな目で見つめる蝋花に、ミランダは苦笑を深める。
 「だい・・・じょうぶ・・・・・・」
 そう言うと、蝋花はほっと吐息して、部屋の片隅から、点滴スタンドを引っ張ってきた。
 「さっき打った鎮静剤だけでも、少しは眠れると思うんですけどぉ・・・どぉします?
 眠れないようだったら、睡眠薬でも処方してもらいましょうか?」
 その申し出に、ミランダがしばらく考えてから頷くと、蝋花はにこりと笑って、軽やかに踵を返す。
 「じゃあ、薬房に行って来ますから、待ってて下さいね♪
 あ、眠いようだったら、寝ちゃってていいですからね?」
 明るい声に微笑んで、ミランダは医務室を出て行く蝋花を見送った。
 彼女の足音が遠のいていく音を聞きながら、ミランダはそっと、瞼を閉じる。
 ―――― 言った方が・・・いいのかしら・・・・・・。
 ここに、頼りになる料理長がいないことを残念に思いつつ、ミランダはため息をついた。
 ―――― 目が覚めたら・・・リーバーさんに聞いてみよう・・・・・・。
 鎮静剤が効いてきたのか、思考が緩慢になって行く。
 ―――― 目が・・・覚めたら・・・・・・。
 別れてしまった仲間たちと、再び会えることを切望しつつ、ミランダは深い眠りに落ちて行った。


 その頃、ミランダのイノセンスを検査していた科学班では、バクがリーバーに対して、絶え間ない説教を垂れていた。
 「・・・ったく、お前は仕事をほったらかしおって、コムイのサボり癖がうつったんじゃないのか?!」
 「すんません・・・」
 「ロットーが大事なエクソシストだと言うことは承知しているが、何もお前が看護する必要はないだろうが!」
 「はぁ・・・」
 激昂と消沈と、感情の赴きこそ違うものの、バクとリーバーの手は、イノセンスの上を滑らかに動き、不具合はないか、効率よく精査していく。
 「重要度の順番が違うとは言わん!
 だがな、医者でもないお前が付いていて、なにができると言うんだ!時間の無駄だろうが!」
 「反省してるっす・・・・・・」
 「―――― っつかきさま、俺様の話を聞いとらんだろう?!」
 「えー・・・聞いてるっすよ。
 支部長、音響検査、完了しました」
 リーバーが差し出した波形のデータを受け取って、バクは満足げに頷いた。
 「うむ、大きな傷はないな・・・・・・って、話をすり替えるな!」
 「あ、バレました?」
 「バレいでか!!」
 いけしゃあしゃあと笑うリーバーに、バクが掴みかかろうとした寸前、フォーが二人の間に入る。
 「お前ら、ガキみてぇなケンカしてねぇで、仕事しろよー」
 「仕事しとるだろうが!」
 苛立たしげな声と共に、バクはグラフ用紙をリーバーに押し付けた。
 「餅は餅屋だ。化学者は化学者にできることをやれ。
 ロットーは、医者と蝋花に任せておけばいい」
 「はい・・・」
 取り落とした用紙を拾おうと、屈んだリーバーの目の前で、フォーがにんまりと笑う。
 「よぉ、リーバー?
 今、エクソシストって、貴重なんだよなァ?」
 物であるかのような言いように、ややムッとしながらも、リーバーは頷いた。
 途端、フォーがけたたましい笑声をあげる。
 「お前、ロットーを結婚退職なんかさせんじゃねぇぞー?」
 「なっ?!」
 動揺し、手にした用紙を全てぶちまけてしまったリーバーから少し離れた場所で、バクもまた、手にしたファイルをぶちまけていた。
 「そ・・・そそそ・・・そうか・・・!結婚退職・・・・・・!!」
 床に向かってブツブツと呟くバクに、リーバーが不審の目を向ける。
 「俺様の・・・いやいや、みんなの幸せのためにも、そうだ、エクソシストの結婚退職が許される、平和な世界・・・!」
 ふふふ・・・と、不気味な笑声をあげ始めたバクを、リーバーは益々不審に見つめた。
 「よし!!世界平和のためだ、リーバー!
 エクソシストが戦わなくて済む、素晴らしい世界をつくろうな!!」
 「は・・・はぁ・・・・・・」
 拳を振るって力説するバクに、かける言葉も見つからず、リーバーはただ、ぎこちなく頷く。
 「ふはははははは!!がんばるぞ!!」
 一人、明るい未来に思いを馳せて高笑いするバクを、リーバーだけでなく、アジア支部の団員達も、気味悪げに見つめた。


 その後、ミランダが目を覚ましたのは、翌日も昼近くなってのこと。
 日の差し込まない地下では実感しにくかったが、その分、精確に時を刻む時計の針が12時を回っている様を見た時は、正直、昼だとは思わなかった。
 「薬のせいですよー」
 と、ずっと付いていてくれたらしい蝋花は言う。
 「あんまり起きないんで、薬の量を間違えたかと思ったんですけどぉ、疲れがたまってたんですねぇ。
 あ、お食事用意しますけど、食欲ありますかぁ?」
 しばらく考えて、ミランダが首を振ると、蝋花は微笑んだ。
 「わかりましたぁ。
 じゃあ、とりあえず栄養は、点滴で入れておきますね。
 でも、経口摂取・・・あ、いえ、食事した方が、身体には絶対いいんですよぉ。
 消化にいいもの持ってきてもらいますから、食べられそうだったら食べて下さいねv
 陽気におしゃべりしながら、かいがいしく世話をしてくれる蝋花に、ミランダは笑みを返す。
 ミランダの世話をするのは本部科学班に行くため、と言っていたが、決してそれだけではないと思わせる、行き届いた介護だった。
 「ありがとう・・・」
 かすれた声の礼に、蝋花は笑って首を振る。
 「いえいえ、これも本部に行くためですからv
 気にしないで静養して下さいv
 そんなことをわざわざ言う蝋花の思惑に、ようやく気づいて、ミランダはクスクスと笑声をあげた。
 彼女はミランダに気を使わせないために、交換条件にばかり言及していたのだ。
 しかし、アレンの件は本気だろうと思い至り、ミランダは深々と吐息する。
 ―――― 本部に来たら、辛い思いをするんじゃないかしら・・・。
 ジェリーは当然、リナリーの味方をするだろうし、ミランダにしても、今更リナリーの味方をやめるつもりはなかった。
 ―――― アレン君が、はっきり言えば済むんでしょうけど・・・。
 とはいえ、女性に優しいアレンが、蝋花を傷つけるようなことを言うわけがないと、わかってもいる。
 更に言えばミランダが、蝋花を悪い子ではないと知ってしまった以上、アレンに『はっきりしろ』と、詰め寄ることもためらわれた。
 また、深い吐息を漏らすと、蝋花が気遣わしげな顔をして寄ってくる。
 「まだ、具合悪そうですねぇ。
 飲み物だけでも、飲みませんか?
 お茶でもジュースでも、好きなものを言って下さい」
 「じゃあ・・・お茶を・・・・・・」
 「はい!
 ちょっと待ってて下さいねぇv
 機敏に踵を返して医務室を出て行った蝋花は、すぐにトレイを持って戻ってきた。
 「ミランダさん、退屈でしょうから、お茶の飲み比べでもしませんか?
 ウチの団員って、アジア人中心の多国籍なんで、色んなお茶文化があって・・・あ、もちろん、私のお勧めは中国茶なんですけど!
 茉莉花茶(ジャスミンティー)が一般的なんですが、外国の人は『香りがきつい』って言うんですよねー。
 おいしいんだけどなぁー」
 賑やかにおしゃべりしながら、蝋花は指で摘めるほどの小さな茶器に、様々な色の茶を注いで行く。
 「さぁ、どうぞ!
 お茶菓子も、好きなの食べて下さいねぇv
 食欲のないミランダでも、つい、つまみたくなるような、小さくて可愛いお菓子を並べ、蝋花はにこりと笑った。


 同じ頃、科学班でも、それぞれが気に入りの茶を淹れていた。
 「お。美味い」
 リーバーが呟くと、ティーポットを持ったウォンが、にこりと微笑む。
 「祁門(キーマン)茶でございます。
 普通の紅茶と違い、丹念な製法で作られたお茶でございますよ」
 「ったくお前は、茉莉花茶を臭いだのまずいだの言いおって、英国がこの地から、どれだけ茶葉を持っていったと思っとるのだ!」
 「だから俺、オーストラリア人だって、何度も言ってるじゃないすか。
 得意技は野生動物の調教っす」
 「はぁ・・・それはぜひ、ご教授願いたいものです」
 リーバーの言葉にウォンが思わず、感嘆の声をあげると、バクは更に激昂した。
 「きさまら、さり気に俺様を野生動物扱いしとらんかっ?!」
 「めめめめめ滅相もない!!」
 「んなことしてないっすよー」
 慌てふためくウォンに反し、のんびりと笑って茶をすすっていたリーバーが、アラームの音に腰を上げる。
 「検査結果、出たっすね」
 「きさまはまた話を逸らしおって!!」
 憤然として、バクも彼の後に続いた。
 リーバーを押しのけて、溢れ出た数値データと本部のデータを素早く照らし合わせたバクは、満足げに頷く。
 「うむ。
 製作当時のデータと比べても、ほとんど狂いはない。
 内面も、ほぼ無傷と断定していいだろう」
 「さすが支部長、暗算早いっすねー♪」
 リーバーが持ち上げると、バクは鼻高々と胸を反らした。
 「たまにはいいことを言うじゃないか!
 俺様だって、数学じゃお前に負けはせんのだっ!」
 散々軽くあしらわれた後の誉め言葉だけあって、バクが満足げに鼻を鳴らすと、リーバーはにこにこと彼に寄る。
 「そんじゃ支部長、ミランダさんのイノセンスに不具合はないってわかったことだし、そろそろ見舞いに行っていいっすかね?」
 言いながら、早速踵を返したリーバーを、バクは睨みつけた。
 「きさま、やたらと仕事が早いと思ったら、そんな思惑があってのことか?!」
 「思惑だなんてひどいっすよー。
 俺、リナリー達が帰って来ない限り、仕事がないんすもん」
 本部では、それそこ寝る間もない程忙しい彼だが、アジア支部では客扱いのため、彼に回される仕事は少ない。
 「なんかやる事があるなら、協力は惜しみませんよ、もちろん」
 普段が忙し過ぎるためか、時間を持て余した彼は、却っていらついているようにも見えた。
 そんなリーバーに、バクもいらつく。
 「そんなに帰って来て欲しければ、礼拝堂にでも籠もって祈ってろ!」
 「あぁ、それもいいっすね」
 得意技発揮中か、バクの怒声を柳に風と受け流す彼に、ウォンは感嘆の吐息を漏らした。
 途端、バクに物凄い目で睨まれ、彼は慌てて話題を変える。
 「ウェンハム殿は、有能な科学者でいらっしゃる割には、主を敬っておられるのですね!」
 ウォンの言葉に、リーバーははにかんだ笑みを浮かべた。
 「科学者らしくない、って、笑われるかもしれませんが、俺、意外と敬虔な人間なんですよ」
 と、バクがまだ、苛立ちの収まらない声音で口を挟む。
 「科学者が全員背信者なら、神学者でもあったニュートンの存在をどう証明するのだ。
 現在、彼が聖書研究者であった事実を意外に思う者はいても、偉大な科学者であることを疑う者はいないぞ?」
 「そういえば、彼でしたっけね、偉大なる神の言葉は、数学によって書かれている、って言ったの」
 「馬鹿者!それはガリレオの言葉だ!
 正しくは『自然の書物は数学の言語によって書かれている』だろうが。それでも数学者か!!」
 「さすが、博識っすね、支部長」
 再びリーバーが持ち上げると、バクは、同じ手は食わないとばかり、忌々しげに舌打ちした。
 「ふん!
 きさまにはわからんだろうな。生まれた時からこんな場所に閉じ込められていれば、他にやることもない」
 淡々と吐かれた台詞に、『お気の毒に』と返すこともできず、リーバーが言葉に詰まる。
 と、初めて彼をやりこめたバクは、にやりと口の端を曲げた。
 「言語学者でも、言葉に詰まる事があるのか」
 「ぅわ・・・ずりぃ・・・」
 苦笑するリーバーに、バクが愉快そうな笑声を上げる。
 その時、外部から連絡が入った。
 「了解。
 リーバー、仕事だぞ。ブックマンが・・・」
 バクが受話器を置いて振り返るが、そこには既に、リーバーの姿はない。
 「なっ?!
 あいつ、どこ行った?!」
 「通信が入った時点で、飛び出て行かれましたよ・・・」
 ウォンが、やや呆然とした声音で答えた頃にはもう、リーバーは長い回廊を駆け抜けて、出入り口に到着していた。
 「リーバー班長か・・・」
 やや驚いた顔のブックマンに、リーバーは微笑む。
 「ご苦労さんです、ブックマン。
 どうぞ、ストレッチャーに・・・」
 「良い。歩ける」
 愛想なく言い放つと、ブックマンは先に立って歩き出した。
 「待ってくださいよ!重傷なんでしょう?!」
 リーバーが慌てて後を追うが、ブックマンは振り返りもせずに後方に声を放つ。
 「心配なら、医者を呼ぶがいい。
 私は一刻も早く、本部と連絡を取って情報を照合したいのだ」
 足早に、支部長室への道を過たず踏む老人の背に吐息を漏らし、リーバーはインカムを使って医療スタッフに連絡を取った。
 「ブックマン、司令・・・じゃねぇ、支部長室合流でいいっすか?」
 「ああ」
 短い答えに頷き、リーバーは医療スタッフの手配を終える。
 「そんで、方舟はどうなりました?入った奴らは?!」
 情報の混乱を避けるためか、その問いには答えず、ブックマンは支部長室のドアを開けた。
 彼がここに来ることを予期して、既に待機していたバクは、ブックマンに本部と通信状態にある受話器を差し出す。
 「おぬしらは出て行け」
 受話器を受け取るや、厳しい声音で言うブックマンに、バクとリーバーは、揃って不満げな顔をした。
 「俺達も・・・」
 「ブックマンの情報を与える契約は、コムイ・リー室長としかしておらん!!」
 更に激しい口調で怒鳴られ、二人はビクリと首をすくめる。
 「早く出て行かんか!」
 再び命じられた二人は、抗う気力も失くして、慌てて部屋を出た。
 「こ・・・こっえぇぇぇぇ!!」
 「何様だ、あいつ!!ここは僕の部屋だぞ!!」
 怯えるリーバーとは逆に憤然とするバクを、リーバーは横目で見遣る。
 「そう思うんなら、そう言やいいじゃないっすか」
 途端、彫像のように硬直してしまったバクの肩を叩き、科学班へ戻るよう促した。


 「あら・・・どうしたのかしら・・・?」
 医務室のベッドに半身を起こして、蝋花が淹れてくれた甘いお茶を飲んでいたミランダは、医師やスタッフ達が、慌しく往来する様に首を傾げた。
 「ここじゃ、良くあることですよぉー。
 実験に失敗した科学班が部屋を爆破したとか、いまだに掘削工事している地下通路が崩落したとかで、いつも走りまわってますぅ」
 蝋花は別に、ブックマンの来訪を故意に隠したわけではない。
 単に、知りようのない立場にいただけだが、結果として、ミランダに余計な不安を与えずに済んだ。
 「本部じゃ、お医者さん達は暇なんですかぁ?」
 暢気な表情と陽気な声音で蝋花が問うと、ミランダはゆっくりと首を振る。
 「そうね・・・やっぱり、忙しいわね」
 いつも騒ぎを巻き起こす室長がいるから、と、ミランダが苦笑すると、蝋花は途端に目を輝かせた。
 「本部の科学班って、どんなとこですかぁ?!」
 「そ・・・そんなに本部の科学班に行きたいの・・・?」
 勢い込んで身を乗り出してきた蝋花に、ミランダが恐る恐る問うと、彼女は激しく頷く。
 「それって・・・アレン君と一緒にいたいから?」
 不安げな声で問えば、蝋花は明るい笑声をあげた。
 「そぉですねぇーv
 それもありますけどぉ、やっぱり支部の科学者にとって、本部科学班は憧れですよぉv
 あ、私はまだ見習いなんですけどね」
 照れ笑いをする蝋花に、本部科学班の実態を知るミランダは、眉根を寄せる。
 「憧れって・・・どうして?」
 「教団随一の頭脳が集まる、エリート集団ですもの!」
 拳を握って力説する蝋花に、ミランダは目をむいた。
 「エ・・・エリート集団?!科学班の皆さんが?!」
 失礼なことに、思わず絶叫したミランダを、蝋花が訝しげな顔で見つめる。
 「違うんですかぁ?」
 「えっ?!」
 純真な目で見つめられ、不安げな声で問われては、いくら鈍いミランダでも、自分の失言に気づかないわけがなかった。
 が、
 「あ・・・憧れの・・・エリート・・・・・・」
 その言葉は、彼女の知る『本部科学班』には、どうしてもそぐわない気がする。
 支部の科学者見習いの少女が、目を輝かせつつ『憧れ』というからには、そこは少なくとも、まともな上司と過酷ではない職場環境を備えているべきだ。
 ―――― もしかして・・・騙されてるの?
 コムイの性格をかんがみるに、それは十分起こり得ることであったし、他のメンバーも、自身らの負担を軽くするためなら、若く純粋な科学者達に対して、口をつぐむこともあるだろう。
 ―――― なんてこと・・・!
 その罠に気づいたミランダには、コムイと科学班の全員が、次なる獲物を待ち構える悪魔の群に見えた。
 「蝋花ちゃん・・・・・・」
 教団本部に所属する、数少ない女性として・・・いや、それ以前に人間として、若く純粋なこの少女を、悪魔達の餌食にするわけにはいかない。
 純粋な目をして首を傾げる少女を、ミランダは真剣な目で見つめた。
 「本部科学班が、どういう情報を流しているかは知らないけど、あなたみたいな女の子が憧れるには、あそこはあまりにも過酷なところよ」
 「過酷・・・?」
 大きな目に不安の色を浮かべた蝋花に、ミランダは深く頷く。
 「忙しさのあまり、それこそ寝食を削って働いて、1週間ずっと眠れない人なんてざらよ。
 リーバーさんなんか一時期、胃が固形物を受け付けなくなって、飲料と点滴と栄養剤で動いていたんですもの」
 「班長がですかぁっ?!」
 驚声をあげる蝋花に、ミランダはまた、深く頷いた。
 「だ・・・だって班長、すごくお仕事早いですよぉ?!
 先輩たちだって皆、全然追いつけなくって、若くてもさすがは本部の班長だって感心してたのに・・・」
 「私・・・任務がない時は、科学班のお手伝いをするのだけど、リーバーさんが特に手際がいいようには見えなかったわ」
 あのスピードが基準だと、言外に言われて、蝋花はしおしおとうな垂れる。
 中々あがらない白いうなじを、気の毒そうに見つめていたミランダは、はっと、目を見張った。
 ―――― もしかして、ここで諦めさせたら、アレン君の件も解決するんじゃないの・・・?!
 そのことにようやく思い至ったミランダは、鼓動を早めて蝋花を見つめる。
 「・・・・・・私じゃ・・・・・・全然修行が足りないんですねぇ・・・・・・・・・」
 うな垂れたまま、低く呟く様は、さすがに気の毒に思ったが、ミランダは黙って頷いた。
 「うぅっ・・・・・・ウォーカーさんとの新婚生活ぅー・・・・・・」
 蝋花の泣声にはがくりと肩を落として、ミランダは苦笑する。
 「蝋花ちゃん、夢を諦めるのはとても辛いことだと思うけど・・・本当の話なのよ?」
 ―――― 嘘はついてないわよ・・・?
 やや、やましい気分を味わいながら、ミランダは心中に呟いた。
 同性として、人間として、この純粋な少女を悪魔の巣に放り込みたくないと思ったのは事実だ。
 ・・・ただ、親切心の中に、少々の思惑が混じっていたことは否めない。
 ―――― ごめんなさいね・・・。
 ミランダは、うな垂れたままの蝋花の頭を、気遣わしげに撫でてやった。
 と、静かになった室内に反し、部屋の外から騒がしい声が聞こえる。
 それはやがて、医務室の前まで来て、そのドアを開けた。
 「ミランダさん、起きてますか?」
 「クソジジィが!
 どうせコムイから情報が回ってくるのだから、俺様が一緒に聞いて、なんの不都合があるというんだ?!」
 「色々契約内容があるんでしょうよ、って、何回言いましたか、俺?!
 いい加減愚痴るのやめて下さいよ!!」
 部屋の外から聞こえていた声は彼らだったかと納得するも、二人のヒステリックな怒声に、気の弱いミランダが怯える。
 が、騒々しい空気にも蝋花は、一言も発せずうな垂れたままだ。
 さすがに、いつもと違う雰囲気に気づいたか、バクが訝しげに首を傾げる。
 「どうした、蝋花。いつも生意気にしゃしゃり出てくるお前が、妙に静かだな」
 不思議そうに、というより、気味悪げな声で問うたバクを、しかし、蝋花は無視してリーバーに詰め寄った。
 「リーバー班長ぉ!
 本部科学班が過酷な労働条件の、鬼畜集団だって本当ですかぁぁぁぁっ?!」
 「そこまで言ってないし!!」
 すかさず突っ込んだミランダは、自身の失言に気づいてとっさに手で口を覆ったが、後の祭だ。
 バクとリーバーにじっとりと睨まれ、真っ赤になって身を縮めた。
 と、深々と吐息する音が聞こえる。
 赤らんだままの顔を上げると、リーバーが彼に掴みかかる蝋花を引き剥がしていた。
 「鬼畜は室長だけだ。
 あとの奴らは、俺も含め、哀れな奴隷だな」
 自嘲と言うにはあまりにも深刻な声音に、蝋花が呼吸も忘れてリーバーを見つめる。
 「誰にも言うなよ?
 せっかく、教団随一の頭脳集団だの、エリート科学班だの宣伝して、若く有望な科学者達を集めてんだから」
 「だっ・・・騙してるんですかぁっ?!」
 激しい非難に、しかし、リーバーは堂々と首を振った。
 「支部でも特に有能な奴を引き抜いてんのは事実だ」
 「やっぱり鬼畜じゃないですかぁっ!!」
 信じてたのにっと、顔を覆って泣き出した蝋花に、科学者二人は忌々しげに舌打ちし、揃ってミランダをねめつける。
 「余計なこと、言わんようにな」
 「・・・・・・・・・すみません」
 バクに叱られたミランダは、消え入るような儚い声で呟くと、うな垂れるようにこうべを垂れた。


 「そんじゃ、検査はじめるっすよー♪」
 ミランダが起き上がれるようになったと知るや、勝手に医療器具を漁りだしたリーバーを、バクが渋い顔で睨む。
 「待たんか、きさま!
 お前は科学者と言っても、医者ではないだろうが!」
 医療用トレイに乗せた器具一式を取り上げられ、リーバーも顔をしかめてバクを睨んだ。
 「ホントいちいちうるさいっすよね、支部長。
 そんなに医学免許が大事なら、今すぐにも取ってやりますけど?」
 「きさま、医学をナメてないか?麻酔ナシで外科手術してやろうか、ゴラ!」
 「あのぅ・・・・・」
 自分の頭上で怒鳴り合う二人に、ミランダが遠慮がちな声をかける。
 「私なら・・・なんでも構いませんから・・・・・・」
 そう言った途端、二人は黙り込んで、苦い顔を見合わせた。
 「・・・そう言うわけにも行かないっすよね」
 「当たり前だ!ようやくわかったか!」
 とうとう折れたリーバーに対し、バクは得意げに鼻を鳴らす。
 「・・・それにしても遅いな、医療スタッフ共。
 まだかかっとるのか」
 ぼやきつつ、バクは医務室にある内線電話の受話器を取った。
 「バクだ。
 そっちはまだ終わらんのか?」
 スタッフの誰かに宛てているらしい内線に向かって、バクがイライラと話しかける。
 と、思わしい答えが得られないのか、彼の口調が段々厳しくなっていった。
 「部屋に入れんとはどういうことだ!
 ・・・は?鍵?
 僕はそんなもの、掛けてはおらんぞ!」
 怒鳴りながら、バクは室内に視線を巡らし、部屋の隅にうずくまっている蝋花を睨みつける。
 「わかった、今、執務室の部屋の鍵を届けさせるから、ちょっと待ってろ!」
 受話器を置くと、バクは大股に蝋花へ歩み寄り、その腕を乱暴に引いた。
 「いつまで落ちこんどるのだ!とっとと仕事せんか!!」
 「バ・・・バクさん!!」
 乱暴な扱いに驚き、止めようとしたミランダの目の前で、蝋花がのろのろと立ち上がる。
 「うぇー・・・・・・」
 「泣くな、馬鹿者!」
 怒鳴りつけたバクは、まだしゃくりあげる蝋花の手に、ポケットから取り出した執務室の鍵を渡すと、その背を押した。
 「支部長室に、重傷のジジィが立てこもっとるのだ!急げ!!」
 「あぃー・・・」
 泣きながら、しかし、しっかりした足取りで走り出した蝋花を、ミランダは呆然と見送る。
 「・・・・・・本部でも、やっていけるんじゃないかしら」
 蝋花の根性に、思わず感嘆の声をあげたミランダを見下ろして、リーバーはゆっくりと首を振った。
 「直情系の部下はいりません」
 「まぁ・・・!」
 ミランダが、非難のこもった目で見上げると、彼は深々と吐息する。
 「室長のお守りだけでも死にそうなのに、あんな部下持ったら即死でしょーが」
 それに、と、すかさず言葉を次いで、リーバーはミランダの反駁を封じた。
 「あんな熱血系を部下に持って、制御できるのはバク支部長くらいのもんですよ。
 俺の手には余るっすね」
 さりげなく持ち上げられたバクは、聞いていない振りをしていたが、明らかに頬が緩んでいる。
 「ロットー!医療スタッフが戻ってきたら、すぐ精密検査するぞ♪」
 隠し様もなく弾んだ声にはミランダも気づいて、くすりと笑みを漏らした。
 「でも・・・それは、立てこもっているおじいさん次第なんでしょう?」
 ミランダが冗談めかして言うので、バクもつい、軽口が出る。
 「矍鑠(かくしゃく)たるかなこの翁、ってな。
 後漢の馬援(ばえん)じゃあるまいし・・・まさかブックマンも、『屍を馬の皮に包んで葬らるが本懐』なんぞと言わんだろうな?」
 途端、
 「・・・ブックマン?!」
 ミランダが悲鳴じみた声をあげ、リーバーも非難がましい目でバクを睨んだ。
 「じゅ・・・重傷のおじいさんって、ブックマンなんですか?!」
 しまった、と、口を覆うがもう遅い。
 「バクさん!!」
 縋るような目で見つめられ、バクは仕方なく口を開いた。
 「・・・そうだ。
 ブックマンは今、僕の部屋にいる。
 部屋の中で倒れているかも知れんが、僕達が見た時は一応、元気だった・・・ってコラ、ロットー!!」
 ベッドを下りようとするミランダを、バクとリーバーが慌てて止めた。
 「この体調で動く奴があるか!!じっとしてろ!!」
 「そうっすよ!医療チームがもう、保護してるはずっすから!
 ・・・・・・だぁら、オフレコにしろっつったのによ」
 ぼそりと付け加えられた一言に、バクが激昂する。
 「うっ・・・うるさい!!
 大体きさま、年下のクセになんでそんなに生意気なんだっ!!」
 「ミランダさん!ここで待ってりゃブックマンも来ますから!」
 「無視するなぁぁぁ!!」
 室内が騒然としていくに連れ、なぜか、部屋の外まで騒がしくなって行った。
 だが当然、騒いでいる当人達が気づくはずもない。
 ブックマンを運んで来た医療スタッフ達は、医務室のドアを開けた途端、凍りついたように身動きを止めた。
 「どうした?」
 突然止まったストレッチャーに座っていた老人は、身を乗り出して室内を覗き込む。
 「・・・なにをやっとるのだ、アホどもが」
 老人の呆れ声に、室内でもつれ合っていた男女は気まずげな視線を返してきた。
 ・・・いや、その表現には語弊があるか。
 身を乗り出すあまり、ベッドから落ちそうになったミランダを受け止め損ねたバクが、彼女の下敷きになって床に這い、落下を止めようとしたリーバーが、彼女の背後から腰を抱いていた。
 「は・・・早くどけェェ!!」
 重みにたまりかねたバクが悲鳴をあげて、ようやく凍りついた場が解凍される。
 「せ・・・精密検査、始めろ!」
 ミランダがどかされ、ようやく解放されたバクは、懸命に威儀を正して、しかつめらしく命じた。


 水中に泳ぐ魚のように、室内を機敏に行き来し、エクソシスト達の治療と検査に当たった医療スタッフ達は、しかし、少々苦労することになった。
 ミランダがベッドの上に膝をつき、身を乗り出して、ブックマンへ気遣わしげに声を掛けるため、彼女の検査ができないのだ。
 「ひどい怪我だったのに、起きていて大丈夫なんですか、ブックマン?!」
 悲鳴じみた声が耳に障って、ブックマンはうるさげに手を振った。
 「少々、静かにしてくれんか。さすがに疲れたわい」
 彼が憮然と言った途端、ミランダは顔を覆って泣き出す。
 「ごめんなさい!!
 私、皆さんを置いて、先に出国してしまって・・・!」
 「あ、いや・・・!それは私が指示したことであったし・・・!」
 室内の人間全てに睨まれて、ブックマンが慌てて言い募った。
 「そっ・・・それに、おぬしの体力はもう、限界を過ぎていた。
 出国させたのは、妥当な判断だった」
 そう言いながらブックマンは、満足げに頷くスタッフらに舌打ちする。
 ―――― なぜ私が、人の顔色を窺わなくてはいかんのだろう・・・・・・。
 が、ミランダが泣き止んでくれたことには、心底ほっとした。
 「それより、今は治療に専念する事だ。
 おぬしが居てくれんと、どうにも不利でならん」
 ブックマンがそつなく一言を付け加えると、ミランダの頬が紅潮する。
 「・・・・・・っはい!!」
 感極まった風に頷くや、感涙にまた、顔を覆った。
 と、『また泣かせた』と、幾人かからひんしゅくを買い、ブックマンは吐息して寝台に寝転がった。
 すかさず寄って来た医療スタッフを見上げて、空しく首を振る。
 「やれやれ・・・西洋の医者を真似て、切り刻んでくれるなよ」
 思わず沸いた失笑に、一人、リーバーが顔をしかめた。


 一方、ブックマンの占拠から解放された支部長室に戻ったバクは、コムイ経由でようやく、『クソジジィ』の情報を入手した。
 「・・・了承した。
 では、ブックマンとロットーは、回復次第、そちらに護送しよう」
 『うん、よろしくね、バクちゃん』
 海外から届く声はいつも通り、腹立たしいほどの平静さで、バクは思わず舌打ちする。
 「お前・・・大丈夫か?」
 『へ?』
 意外そうな返事に、バクはたちまち顔を真っ赤にして慌てた。
 「いっ?!いやっ!
 ぼぼぼ僕は別に、きさまの心配などしておらんぞ!
 たっ・・・ただっ・・・ただっ・・・・・・えー・・・・・・・・・っそう!!
 この大変な時に本部室長が倒れでもしたら、指揮系統が乱れるからな!」
 声をつまらせながらも、一息に言い終えたバクは、苦しげに息をつく。
 と、
 『・・・・・・謝謝(ありがとう)』
 鮮明とは言い難い音声であるにもかかわらず、明らかに笑みを含んだ声で言われ、バクは全身が燃えたかと思うほど紅くなった。
 「べっ別にっ・・・心配なんぞしとらんと、言っとるだろうがっ!!」
 必死に言い募ったが、彼の動揺は、すっかり声に表れてしまっている。
 遠い異国から届く嬉しげな笑声に、バクはとうとう言葉を失った。
 『うん、倒れたりしないから心配しないで。
 ・・・みんな、戦場で戦ってるのに、倒れてなんかいられないでしょ』
 冗談めかした口調の割りに、その声は低く沈んでいる。
 本音を見せようとしないコムイの態度にムッとして、バクも声を低めた。
 「本部科学班の過酷な職場環境は、リーバーから聞いたぞ。
 そこまで自身らを追い詰めるのは、戦場にいる者達への気兼ねか?
 だったら、馬鹿馬鹿しいことだ。
 身を削って仕事に没頭したところで、所詮僕らは、戦場で戦っている者達とは別の場所にいる。
 憔悴した自身らの姿を彼らに見せて、命賭けで戦っている彼らに誉めてでももらうつもりか?」
 バクの厳しい言葉に、回線の向こうから、返事はない。
 首に手を当て、赤みが引いた事を確認したバクは、忌々しげに舌打ちした。
 「やってられなくなったら、いつでも言え。僕が代わってやる」
 『あぁ、そうしてくれるかい?』
 嫌味のつもりが、明るい声で返されて、眉間のしわが深くなる。
 「この状況で、冗談でもそんなこと言うな!」
 『バクちゃんが言ったんじゃないかー!』
 「ちゃんって言うな!!」
 大人気ない喚声を交し合い、深刻になって行く会話を、二人して殊更に冗談めかした。
 『うん、でもホントに、ボクに何かあったら後を頼むね―――― リナリー以外』
 「コノヤロウ〜〜〜〜!!!!」
 けたたましいコムイの笑声を怒声でかき消し、バクは受話器を叩きつける。
 「絶対泣かす!!」
 それは、リナリーと本部室長の地位を、同時に手に入れることによって実現できることだ。
 希望に満ち溢れた未来を思い、コムイとよく似たけたたましい笑声をあげつつ、バクは踵を返す。
 「こんな戦争、とっとと終わらせてやるぞ!!」
 もしかしたら、教団一ポジティブかもしれないアジア支部長は、気炎を揚げて医務室へと戻って行った。


 医務室で、おとなしく手当てを受けていたブックマンは、バクが戻ってくると、重傷とは思えない身のこなしで半身を起こした。
 「随分と遅かったのう」
 「どっかのジジィが、俺様の部屋を占拠しとったおかげでな!」
 ブックマンの言葉に、バクは過剰なほど尖った声で応じる。
 「きさまがコムイとの通信に、俺様を同席させさえすれば、もっと早く済んだんだがなぁっ?!」
 のけ者にされたのがよほど悔しかったのか、いつも以上に沸点の低いバクが、部屋中に響く怒声を発した。
 と、
 「支部長、医務室で騒がんで下さい」
 彼とは対照的に、穏やかな声でリーバーが言う。
 「ウチのミランダさんは、繊細な人なんで」
 「はぁっ?!」
 何か言い返してやろうと向き直ったバクは、しかし、リーバーの傍らでミランダが、本当に怯えきっているのを見て口をつぐんだ。
 「全く、こらえ性のない御仁よの」
 「だから誰のせいだぁぁぁ!!」
 飄々と嘯いたブックマンに思わず怒鳴り返した途端、ミランダが悲鳴をあげ、リーバー始め医療スタッフ達から、非難の目を向けられる。
 「ちょっ・・・お前ら、酷くないか?!」
 抗議の声は、無情な冷酷さで拒否された。
 「それより支部長、話を進めてはどうだ?」
 「なんの?!」
 「室長と、今後の方策を相談してきたのではないのか」
 小ばかにしたような口調で言われ、バクは忌々しげに眉を吊り上げる。
 が、言い争っている場合ではないと判断したか、頬を引きつらせながらも、本部室長認可の決定事項を伝えた。
 「詳細は後で告げるが、至極簡単に言えば、ブックマンとロットーは回復次第、本部へ帰還。
 リーバーは方舟の行方が明らかになるまで、ここで待機。
 なお、状況判断は僕に一任。
 頃合を見て、護送の手配をする。以上!」
 宣告通り、簡潔に指示を述べたバクに、しかし、ブックマンが難色を示す。
 「回復など待ってはおれん。
 支部長、今すぐに、スペシャルズを用意して頂きたい」
 「ブックマン?!」
 複数の声で仮の名を呼ばれた老人は、怪我を思わせない動きで寝台を下り、しっかりした足取りで立った。
 「この小童共の手を煩わせるまでもない。治療くらい、自分でやるわい」
 小童と呼ばれたスタッフ達が憮然と眉をひそめる中、一人、リーバーが進み出る。
 「小童も一所懸命やってますんで、精密検査まではつきあって下さいよ」
 にこやかに言ったかと思えば、意外な腕力でブックマンを抱えあげ、元の寝台に下ろした。
 「その間に、支部長が移動の手配してくれるっしょ」
 「お・・・おい・・・!」
 重傷の患者に対し、こともなげに言うリーバーに、バクが慌てて思い止まらせようとする。
 が、リーバーは諦観のこもった笑みを浮かべると、深々と吐息した。
 「この世にブックマンを止められる人間なんていないんっすよ、支部長。
 なにを言ったって、いつの間にか消えちまうんですから、ここは逆らわずに協力した方が無難です」
 ここにいる者達の中では、ブックマンを最も良く知るリーバーの忠告に、バク始め、アジア支部の面々が、不承不承ながらも頷く。
 「よろしく頼むぞ、支部長」
 いけしゃあしゃあと、リーバーの尻馬に付くブックマンに、またもや忌々しげな舌打ちをして、バクは踵を返した。
 「クソジジィが、俺様をこき使いおって!」
 わざわざ聞こえるように、大声を上げつつ出口に向かうバクが、その手をドアノブに掛けた時、控え目な声が呼び止める。
 「なんだ?」
 顔をしかめたまま振り向けば、ミランダはびくりと、怯えたように目を逸らした。
 しばらく視線を巡らせてから、ようやくおどおどとした目をバクに戻し、震える唇を開く。
 「あ・・・あの・・・・・・わ・・・私も一緒に・・・・・・・・・」
 帰ります、と言った声は、あまりにもか細かったが、その言葉は室内にいた全員の動きを止めさせるに十分な威力を発した。
 「なに馬鹿なこと言ってんだぁぁぁっ!!!!」
 奇しくも異口同音にほとばしった声は、重厚なハーモニーとなってミランダを覆う。
 が、彼女は震えながらも頑として首を振った。
 「お・・・おねがいです・・・・・・!
 わ・・・私なんかが付いていったら、足手まといになることはわかってます・・・けど・・・・・・」
 潤んだ目で見上げられた幾人かが、怒気を同情に代える。
 その中で、怒気とも同情とも違う表情を浮かべていたリーバーが、ふるりと首を振った。
 「足手まといどころじゃない。今のあなたは、自力で歩くこともできないじゃないですか」
 ミランダに対し、常に優しかったリーバーが発する厳しい声音に、皆、意外そうな目を向ける。
 が、彼はそれらの視線を気にも止めず、言い募った。
 「ブックマンは、決して無茶を言っているわけじゃない。
 確かに重傷だが、自分で歩くこともできるし、自分で適切な治療を施すこともできます。
 だから俺は、彼が本部に帰ることを止めはしない。
 それに対して、あなたはどうなんですか?」
 「で・・・でも・・・・・・」
 理路整然としたリーバーの問いかけに、理論的な解答を言い出せず、ミランダはおどおどと視線を彷徨わせた。
 「イ・・・イノセンスが・・・あれば・・・・・・」
 「イノセンスの能力を・・・いや、あなたとのシンクロ率を過大視すべきじゃありませんよ。
 明らかに、過度の負担を受けたための、今の状態でしょうが」
 あっさりと論破されてしまい、哀しげにうつむくミランダを、皆が同情の目で見つめる。
 しかし、彼女の現在の状態を知るゆえに、誰もがリーバーの意見を支持した。
 「そう言うわけだ、ロットー。
 おとなしく・・・」
 「わ・・・私は、エクソシストなんです・・・っ!!」
 バクの言葉を阻んで、悲鳴じみた声が上がる。
 「ティ・・・ティエドール元帥からも・・・今の私達がやるべきことは、生き残ることだと・・・そう・・・言われました・・・・・・」
 見開いた目に涙が盛り上がり、いくつもの透明な筋が、彼女の蒼ざめた頬を撫でて行った。
 「でも・・・・・・・・・・・・」
 ぐい、と、両手の甲で涙を拭い、赤らんだ目でリーバーを見据える。
 「それは、次なる戦いに備えろと言う意味だわ」
 言うや、ミランダは柔らかいマットの上に乗せていた足を床に下ろし、必死に立ち上がった。
 「ミ・・・・・・!」
 「ロ・・・ロットー!無理をするな!」
 歩を踏み出そうとして、よろけたミランダに差し出された手は、しかし、やんわりと押し返される。
 「ありがとうございました、バクさん・・・ご親切にしていただいて」
 にこりと微笑まれ、バクは渋い顔をして頷いた。
 「蝋花ちゃんと、フォーさんにもよろしくお伝え下さい」
 「・・・っえぇ?!」
 着替えもせずに出て行こうとしたミランダを、さすがにナース達が止める。
 「・・・お前、意外と大胆な奴だな」
 バクの呆れ声に、ミランダは真っ赤になってうつむいた。
 途端、バクは吹きだし、ひとしきり笑うと、再び踵を返す。
 「すぐに、新しい団服を持って来させよう。
 スペシャルズの手配もあるから、終わるまでジジィと茶でも飲んでるんだな」
 すれ違い様、憮然と佇むリーバーの肩を叩き、医務室を出たバクは、まだ笑みの残る声でフォーを呼んだ。
 「ウォーカーといいロットーといい、エクソシストはおもしろい奴ばっかだな」
 バクと並んで歩きつつ、楽しげな声で言うフォーに、彼も頷く。
 「フォー、俺様は奴らを無事に本部へ帰すために、色々手配をせねばならんのだ。
 お前、ロットーに団服を持って行った後な・・・」
 「わーっかってるって!」
 バクを見上げてにんまりと笑い、フォーは足を早めた。
 「部屋を出てった振りして、奴らのことみてりゃいーんだろ?」
 ひひひ・・・と、意地の悪い笑声をあげるフォーに負けず劣らず、バクも性悪な笑みを浮かべる。
 「ジジィは、俺様がなにか理由をつけて部屋から出してやるから、お前、後で詳細を教えろよ」
 「へへ・・・了解♪」
 バクと拳をつき合わせると、フォーは軽やかな足取りで駆け去った。


 その後間もなく、ミランダの周りからはどんどん人が減っていき、とうとうブックマンまで呼び出されて、彼女はリーバーと二人、気まずい沈黙の中に取り残されてしまった。
 怒りのオーラを纏ったまま、背を向けて黙然と作業をするリーバーを、ミランダはベッドに腰を下ろしたまま、気まずげに見遣る。
 「あ・・・あの・・・・・・怒ってます・・・・・・?」
 おどおどと、だが、勇気を振り絞って細い声をあげた。
 が、ミランダの声が聞こえなかったのか、聞こえないふりをしているのか、彼は答えようとしない。
 「あの・・・・・・す・・・すみません・・・。
 心配して・・・くださったのに・・・・・・」
 リーバーの気遣いを無下にするつもりなど毛頭なかったが、結果としては、彼の説得を退けたことになった。
 「ごめんなさい・・・・・・」
 声を震わせ、うつむくことしかできない自分が情けなくて、膝の上に涙が零れる。
 泣き顔を見られたくなくて、薄い両手で顔を覆った。
 と、手の甲にそっと、暖かな手が触れる。
 「・・・・・・今にも倒れそうなくせに」
 憮然とした声に顔を上げると、声以上に憮然とした顔が、ミランダを見下ろしていた。
 「俺の手だって、振り解けないくせに」
 どこか拗ねたような口調で言うと、大きな手をミランダの手首に巻きつけ、握りしめる。
 「どうしても出て行きたかったら、この手を振り解いてみて下さい」
 子供のような言い様に、ミランダは思わず吹き出した。
 「いいですよ・・・」
 笑みを含んだ声でささやき、ミランダはリーバーに手を取られたまま、立ち上がる。
 「絶対に、放さないで下さいね」
 リーバーの胸に額をつけ、寄りかかると、頭上で大きなため息が漏れた。
 「ずりぃ・・・・・・」
 あっさりと彼女の手を解放した彼に、ミランダはクスクスと笑声をあげる。
 「連れて帰ってしまおうと思ったのに」
 「そうしたいのは山々っすけどね」
 苦笑混じりに言うと、リーバーはミランダを捕らえていた手で彼女を抱き寄せた。
 「・・・・・・また、戦場に行かせなきゃならないなんて・・・・・・」
 他人がいる前では、常に毅然としていた彼の、気弱げに震える声に、ミランダは笑みを深める。
 「あなたや・・・支部の皆さんが、あんまり優しくしてくれるから、私は危うく、戦場に戻れなくなるところでした」
 いたずらっぽい声で囁くと、ミランダは解放された手をリーバーの背に伸ばした。
 子供をあやすように、優しく撫でてやると、微かに震えていた身体も落ち着いてゆく。
 「私は臆病ですから・・・きっとまた、生きて帰ってきます。
 そうね・・・ちょっとくらい、無理することもありますけど、うっかり死なないように気をつけますから」
 冗談のつもりだったが、残念なことに笑いは取れなかった。
 見上げれば、リーバーの顔は却って深刻な表情をたたえていて・・・なにがまずかったのだろうと、考え込んでしまう。
 「・・・・・・同じ場所にいられれば、盾にだってなれるのに」
 真剣な呟きに、ミランダは目を見開いた。
 「そっ・・・そんな!いけません!
 そんなことになったら私、神に背いてでもあなたを生き返らせてしまいますもの!!」
 叫んだ途端、リーバーが肩を震わせて笑い出し、ミランダは不満げに頬を膨らませる。
 「・・・なんで笑うんですか」
 冗談には笑わなかったのに、と、不満を漏らすと、失礼なことに彼は、『冗談?』と、首を傾げた。
 「いえ、もう、結構です。
 どうせ私には、ユーモアセンスなんかありません」
 珍しく憮然とした口調で言う彼女に、また笑声が漏れる。
 「もう!」
 「す・・・みませっ・・・・・・!」
 謝りつつも、肩を震わせて笑う彼は、離れようともがくミランダを抱きしめたまま、放そうとしなかった。
 ミランダは抵抗を諦め、不満顔をリーバーの胸に押し付ける。
 中々収まらない笑いに、ミランダは憮然と黙り込んでいた・・・。


 そんな、対照的な表情をした二人を、ごく近くから見つめる目があった。
 ミランダは、彼女がつい先日までいた国に、『壁に耳あり障子に目あり』という言葉があることを知っていただろうか。
 たとえ、耳にする機会があったとしても、まさか、本当に壁の中に潜むことのできる存在が身近にいるなど、思いもよらないことだった。
 しかも、それができる唯一の知人であるフォーは、今、持てる能力を最大限無駄に使っている。
 『けっ!もっとおもしれぇかと思ったのに・・・!』
 ぐだぐだと話すばかりで、彼女が期待する山場も濡れ場もない展開に、あくびがでた。
 『ったく、なにがおかしいんだか・・・眠てぇやつらだぜ』
 ぼやきながら、ふさがりかけた瞼をこすっていたフォーは、次の瞬間、はっとして身を乗り出す。
 彼女の眼前でリーバーが、まだ憮然としたミランダの顎に手を掛け、上向かせたのだ。
 『をぉっ?!』
 目をきらめかせて見つめるその先で、ミランダがふいっと顔を背けてしまう。
 『ゴォラ、小娘ェェェ!!いいトコでよけんじゃねェよ!』
 外見は幼い少女でありながら、年輪のかかった言葉を放って、フォーは瞬きもせず二人を見つめた。
 と、彼女の期待に応えるように、リーバーがミランダの頬にキスする。
 「すみません」
 にこりと笑って、もう一度言った彼に、ミランダも思わず、笑みを漏らしてしまった。
 「ハイ、和解っすね♪」
 「え・・・えぇっっ?!」
 「ダメなんですか?」
 すかさず問われて、ミランダは困惑げに眉を寄せる。
 「もう・・・・・・」
 苦笑して、見上げたリーバーの顔が近づいた。
 『おぉーv
 キスシーンを至近距離で見ながら、決して声の届かない場所にいるフォーが、歓声と拍手を送る。
 『好(ハオ)!
 ちくしょう、バクにも見せてやりたかったぜー!
 アンコールだ、コノヤローv
 ご機嫌で、はしゃいだ声をあげていたフォーは、ふと、視線を二人から逸らした。
 「どしたんだ、慌てて?」
 回廊を、ドタドタと乱れた歩調で駆けてくる足音に耳を傾けていると、どうも、この部屋に向かっているようだ。
 「いいとこなのに、邪魔すんじゃねぇよ、野暮な奴が!」
 舌打ちして、回廊へと半身を乗り出したフォーは、すかさず手を伸ばして、目の前を過ぎていくおさげを掴んだ。
 「いったぁぁぁいっ!!」
 回廊中に響き渡る悲鳴をあげて急停止し、蝋花は自分の髪を掴んだフォーを、涙目で睨みつける。
 「なにするんですかぁっ!」
 大きな声で抗議すると、ぽかりと頭を叩かれた。
 「わぁぁぁんっ!!フォーさんがいぢめるよぉぉぉぉ!!」
 「うるせぇっ!!せっかくいいとこなんだから、静かにしやがれ!!」
 フォーが、蝋花の泣声すら圧する大音声で怒鳴りた途端、医務室のドアが内側から開く。
 「・・・なにしてんだ、お前ら?」
 訝しげな声で問うリーバーを下から睨みつけて、フォーは忌々しげに舌打ちした。
 「お前のせいだからなっ!」
 フォーがもう一発、ぽかりと殴ると、蝋花の泣声が大きくなる。
 「なにイジメてんだっ!」
 不意に、ぽかりと頭を叩かれて、フォーは瞠目した。
 「ウォーカーにだって殴られたことないのに!!」
 怒り・・・と言うよりは驚きと、なぜか、尊敬の目で見られて、リーバーが困惑する。
 「ア・・・アレン?
 そりゃあ、奴は女子供を殴ったりはせんだろうな。
 ・・・・・・・・・は?なに?俺、悪者?」
 ではなぜ、こんなにキラキラした目で見つめられているのだろうと悩みながら、リーバーは未だ涙が止まらない蝋花を見遣った。
 「で?なんか用か?」
 「あ・・・はい!
 リーバー班長じゃないんですけど!」
 言うや、蝋花はリーバーの傍らをすり抜けて、医務室に駆け込む。
 そして、ベッドに腰を下ろしたまま、外の騒ぎを気にかけていたミランダに飛びついた。
 「え?!ロ・・・蝋花ちゃん、なに?!」
 驚きのあまり、心停止しそうになりながら問うと、蝋花は涙に濡れた顔を上げる。
 「ミッ・・・・ミランダさん、ここから出て行っちゃうって・・・!!」
 蝋花の涙声に、ミランダは苦笑して頷いた。
 「お世話してくれて、ありがとう・・・ごめんなさいね、私・・・余計な事言っちゃって・・・・・・」
 ミランダの声が段々沈んで行くと、蝋花は慌てて首を振る。
 「そんなのいいんです!そうじゃなくて・・・・・・」
 蝋花の目に、みるみる涙が溢れた。
 「そんなにボロボロの身体で旅なんかしちゃ・・・死んじゃいますよぉう・・・・・・っ!」
 眼鏡を外して涙を拭うが、それは次から次に溢れて、全く止まろうとしない。
 ミランダは手を差し伸べ、しゃくりあげる蝋花を抱き寄せた。
 「ミランダさんっ?!」
 顔を真っ赤にして動揺する蝋花に微笑み、彼女の頭を撫でてやる。
 「大丈夫・・・私、意外と丈夫なのよ?
 あなたが親切に看病してくれたから、だいぶ良くなったの」
 そう言うと、蝋花は涙目でミランダを見上げた。
 「・・・・・・ウソだぁ・・・!まだ、こんなに顔色が悪いのにぃ・・・・・・!」
 「顔色が悪いのはいつものことよ!」
 「え?!そうなんですか?!」
 ぴしりと言われて、蝋花がリーバーを見遣る。
 「あぁ。
 誰かの付き添いで医務室に行ったら、ナースはまず、病人ほったらかしてミランダさんに問診すっからな」
 「んなっ?!誰が言ったんですか、それ?!」
 「ナースのマリア・アンナ」
 「んまぁ!帰ったらマリア・アンナさんに抗議しないと!」
 ミランダが声を高めた途端、蝋花が吹き出した。
 クスクスと軽やかな笑声をあげる彼女に、ミランダもつられて笑い出す。
 「ね?大丈夫だから」
 笑みを含んだ声で囁くと、蝋花はミランダに抱きついたまま頷いた。
 「ミランダさん、また来て下さいねぇv
 「えぇ、また会いましょうね」
 「はい!
 ね、ミランダさんv 中国語では、『さようなら』を『再見(また会いましょう)』って言うんですよv
 だから・・・あれ?どうしました?」
 驚いたように目を見開いたミランダに問うと、彼女は楽しげに笑う。
 「だって、驚いたわ。
 ドイツ語の『さようなら』も、『Auf Wiedersehen(またお会いしましょう)』なのよ?」
 「すっごい偶然〜〜〜〜!!!!」
 蝋花は歓声をあげて、ミランダの手を取った。
 「じゃあじゃあ、ミランダさんがここを出る時は、私、『Auf Wiedersehen』っていいますぅ〜!!」
 「それなら私は、『再見』ね」
 「はいっ!そうしましょぉ〜〜〜〜vv
 ミランダと繋いだ手をぶんぶんと振っていた蝋花は、また歓声をあげて、ミランダに抱きつく。
 「絶対!また会いましょうね!
 その時は私も、ミランダさんくらいおっきくなってるといいなぁ、胸!」
 「えぇ・・・・・・はぁっ?!」
 瞬間的に全身が赤らんだミランダを嬉しげに見上げ、蝋花はにっこりと笑った。
 「フォーさんと一緒にお着替えさせた時に見ましたけどぉ、身体は細いのに、胸はおっきいですよねぇ、ミランダさんv
 アコガレちゃうなぁv
 うっとりとした口調で、蝋花がミランダの胸に頬をすり寄せると、彼女はそのままの姿勢で凍りつく。
 「今度はゆっくり遊びに来て下さいねぇv
 その時は絶対!このプロポーションの秘訣を教えてもらいますぅ〜vv
 冗談などではないその声を聞きながら、リーバーもまた、硬直した。
 その様子を、フォーがおもしろそうに見上げる。
 「おぅーい、リーバー?頭から湯気出てんぞー?」
 意地の悪い笑声をあげる彼女を睨みつけることもできず、リーバーはその場に、彫像のように立ち尽くした。
 二人が解凍されたのは、その後かなりの時間が経ち、ブックマンが出発を報せに来てからのことである。


 駅へ向かう馬車の用意ができたのは、それからまた、しばらく経ってのことだった。
 「ミランダ、おぬし、自分ではまだ、満足に歩けんのだろう?
 車椅子でも借りて来よう」
 ブックマンが言うと、蝋花が軽やかに踵を返す。
 「じゃあ私、取ってきますから、待っててくださぁいv
 早速医務室を駆け出ようとした蝋花を、ミランダは慌てて止めた。
 「い・・・いえ!いいのよ、蝋花ちゃん!
 ブックマンも、そんなに気を使って頂かなくても大丈夫ですから!
 聖堂の外に出るくらい、一人でも大丈夫です」
 ミランダは気丈に言うが、アジア支部内の長い回廊を渡るのに、苦労するだろう事は目に見えている。
 「これより帰還するというのに、無理をする必要などない」
 「そぉですよぉ・・・。
 ミランダさん、昨日は自分で立つこともできなかったじゃないですかぁ。
 あれだけの重傷、そう簡単に回復しませんよぉ?」
 ブックマンと蝋花の言葉に、ミランダの傍らに立っていたリーバーも頷いた。
 「じゃあ、ブックマンは蝋花と一緒に、先行ってて下さい。
 ミランダさんは、俺が連れて行きますんで」
 と、ブックマンはやや不審げな目でリーバーを見たが、頷いて、踵を返す。
 「では、馬車で待っておる」
 「はい」
 ミランダが答えて、ブックマンを見送ったが、蝋花はまだ、気遣わしげに残っていた。
 「ねぇ、ホントに大丈夫ですかぁ?
 ここから英国まで、かなり遠いですよぉ?
 ねぇ、帰るのやめませんかぁ?」
 仔猫のようにねぇねぇと鳴いて、まとわりつく蝋花に、ミランダは苦笑する。
 「大丈夫ですってば。
 それより蝋花ちゃん、ブックマンに付いてあげてくれないかしら?
 彼、本当は私より重傷なの・・・」
 ミランダが、気遣わしげに部屋の外を窺いながら言うと、蝋花は慌てて踵を返した。
 「はいっ!すぐ追いかけます!
 リーバー班長、ミランダさんをお願いしますね!」
 「おう」
 リーバーが片手をあげると、蝋花は微笑んで駆け去る。
 ミランダは、微笑んで蝋花を見送ると、代わりに歩み寄ってきたリーバーを見上げた。
 「いい子ですね」
 にこりと笑うと、リーバーは苦笑を返す。
 「悪い子じゃないのは知ってますよ」
 「でも、部下にする気はないんですね?」
 クスクスと笑声をあげて、ミランダは頷いた。
 「実は・・・ほんのちょっと、安心しました」
 「なにがです?」
 リーバー以外の誰にも聞こえないよう、ミランダが声を潜めると、彼は首を傾げる。
 「だって・・・彼女、アレン君のことが好きだって言うんですもの・・・。
 本部に来たら、やりにくいのじゃないかしら・・・・・・」
 他の者が言えば、意地悪く聞こえたかもしれないが、ミランダが言うと、心底気遣う心情が見えた。
 蝋花が本部に来た場合を想像して、リーバーは苦笑する。
 「まぁ・・・料理長はその点、大人っすからね。
 リナリーに味方するあまり、新人をいじめるような事は絶対ありませんけど・・・」
 ジェリーが中立を保ったとしても、リナリーはああいう性格だけに、多くの団員に好かれていた。
 「現職のほとんどは、リナリーに味方するだろうなァ・・・・・・」
 そしてその筆頭であるコムイが、どんな暴挙に出るか・・・・・・想像を、脳が拒否する。
 「あら・・・コムイさんは、蝋花ちゃんとアレン君をくっつけたがるんじゃありません?
 リナリーちゃんから、引き離すためにも・・・」
 ミランダの問いに、リーバーはうな垂れるように頷いた。
 「・・・だから、怖いんじゃありませんか・・・・・・。
 団員の大半がリナリーの味方になるなら、ヤツは数的劣勢を跳ね除けるために、どんな手段を講じるか・・・・・・」
 「そ・・・それは怖いですね・・・・・・」
 ぶるりと震えたミランダに苦笑を向け、リーバーは彼女の傍らに屈みこむ。
 「そろそろ・・・行きますか」
 「え?・・・はい」
 名残惜しげな表情を浮かべ、ミランダはベッドから腰を浮かせた。
 途端、ふわりと抱き上げられ、目を見開く。
 「え?!あのっ・・・私、歩きますけど・・・!」
 リーバーが車椅子を用意しなかったため、自力で歩くものだと思っていた。
 が、リーバーはいたずらっぽい笑みを浮かべた顔を前に向け、ミランダを抱き上げたまま医務室を出る。
 「リーバーさん・・・!」
 回廊を行き交う団員達に好奇の目で見られ、ミランダが困惑げな顔をするが、彼はお構いなしに回廊を歩んだ。
 「いいじゃないですか、昨日もやってんですから」
 「きっ・・・昨日も?!」
 真っ赤になって身を縮めるミランダに、リーバーは訝しげな顔をする。
 「覚えてませんか?
 昨日はこの廊下を逆に・・・」
 「い・・・いえ!
 そっちじゃなくて・・・あ・・・あの・・・・・・」
 消え入るような声で、リーバーの耳に『こんなに人がいましたか?』と問うと、彼はあっさりと頷いた。
 「なんてこと・・・!」
 どうりで、蝋花がはしゃいでいたはずだ。
 ミランダは恥ずかしさのあまり、気が遠くなる思いだった。
 「あれ?ミランダさん?」
 ミランダが、口も利けないほどショックを受けているとはつゆ知らず、リーバーは不思議そうな声を掛ける。
 ・・・彼とは一度、民族間のギャップについて、じっくりと話し合う必要があるようだった。


 リーバーに抱き上げられたまま回廊を抜けると、新鮮な風が頬に触れた。
 今まで、風のない場所にいたのだと思い知らされ、ミランダは目を細めて空を見上げる。
 夕暮れの空に浮かぶ雲は、眩しいはずはなかったが、ずっと人工の明かりの中にいた彼女の目はしばらく、それを直視することが出来なかった。
 「・・・金色だわ」
 黄砂の舞う風景はぼんやりと霞み、夕日を反射して、空気全体が金色に染まっている。
 その中にいては、黒い馬車も、黒い服の人間も、影のように淡く滲んでいた。
 まるで、薄明かりの中で消えてしまった影が、実体と入れ替わったかのようだ。
 と、金色にぼやけた影のひとつが、すぃ、と、近づいてきた。
 「・・・リーバー、お前は車椅子とか、ストレッチャーの存在を知らんのか?」
 吐息混じりの呆れ声は、アジア支部長のものだ。
 「ロットーが困っているじゃないか」
 「あれ?そうなんすか、ミランダさん?」
 意外そうに問われて、ミランダは困惑げな視線を巡らせる。
 「野山で野獣と戯れる、どっかの国の人間と違って、ドイツ人はシャイなのだ。
 こんな衆人環視の中で、そんな格好に耐えられるわけがないだろう。早く馬車に入れてやれ」
 ブツブツと説教を垂れるバクに、リーバーは肩をすくめたが、ミランダはほっとして、感謝の視線を送った。
 聖堂内と違い、この風景の中では、好奇の視線すらも和らいでいたが、やはり、このような姿を人目にさらしたくはない。
 馬車に乗り、ほとんどの視線から逃れられた時には、胸の奥から吐息した。
 「あららー。
 ミランダさん、相当困ってたみたいですよぉ、班長ぉ〜」
 蝋花がからかうように言うと、リーバーは気まずげに頭をかく。
 「あー・・・すみません・・・」
 謝ると、ミランダは苦笑して首を振った。
 「私こそ・・・ごめんなさい。
 こういうことって、慣れてなくて・・・」
 でも、と、ミランダはリーバーに囁く。
 「嬉しかったですよ・・・」
 そう言うと、リーバーは笑みほころんだ。
 「じゃあ今度は、本部で!」
 「だっ!!ダメです!!
 恥ずかしくって、死んでしまいます!!」
 リーバーの冗談に、ミランダが大真面目で叫ぶと、笑声が沸く。
 「仲良しさんですねぇ」
 蝋花の言葉に、また、笑声が沸いた。


 ミランダに続いてブックマンが乗り込み、二人の世話をするためのサポーター達も乗り込んだ。
 「ミランダさん、ブックマンも、気をつけて帰ってくださいねぇ!」
 馬車の窓枠に手を掛け、背伸びした蝋花が明るい声で言う。
 「はい、ありがとうございました・・・」
 すぐ傍らに顔がある蝋花と、彼女の背後にいる人々に向けて、ミランダは一礼した。
 ミランダの隣に座るブックマンも、深々とこうべを垂れる。
 「協力、感謝する」
 「どうだかな」
 馬車のステップに足を掛けたバクが、ブックマンの言葉にすかさず不平を鳴らした。
 「なんにせよ、無事で帰還してくれ。
 道中の事は、こちらで間違いなく手配したが、何か不都合があればすぐにサポートする。
 遠慮なく連絡するように」
 エクソシストだけでなく、護衛のサポーター達にも言って、確認する。
 「じゃあな、二人とも♪また来いよ!」
 バクの傍らで、ひらひらと袖を振るフォーに、ミランダは手を振り返した。
 「じゃあ・・・皆、道中無事で」
 ミランダの傍らにいたリーバーが、馬車の中を窮屈そうに移動して、今までバクがいた場所に立つ。
 「はい・・・」
 泣きそうになるのを必死に堪えて、ミランダは微笑んだ。
 「Auf Wiedersehen(またお会いしましょう)」
 母国語で囁くと、リーバーは微笑んで頷く。
 「Auf Wiedersehen♪」
 窓の外からも、明るい声がかけられて、ミランダは嬉しそうに微笑んだ。
 「再見」
 窓から身を乗り出し、必死に背伸びする蝋花の額にキスをする。
 「また、会いましょうね」
 一瞬、ぼうっとしていた少女は、輝くような笑顔を浮かべて、大きく頷いた。
 「お元気で!」
 最後にそう言うと、蝋花は名残惜しそうに馬車を離れた。
 リーバーも、ステップを降りて馬車の扉を閉める。
 そのまま数歩移動して、リーバーは、先程蝋花が取り付いていた窓から顔を覗かせた。
 「次は本部で」
 にこりと笑う彼に、ミランダは声もなく頷く・・・・・・口を開けば、嗚咽が漏れそうだった。
 ミランダは窓に寄りかかり、両手を差し伸べると、彼の両頬にキスする。
 「・・・シャイなんじゃなかったんすか?」
 その言葉には、声をあげずに笑い、手を振った。
 それを合図にするかのように、馬車は動き出し、アジア支部を離れていく。
 人の目から隠された聖堂は、間もなく視界から消え去ったが、ミランダは窓外に広がる、金色に煙った風景を、ずっと眺めていた・・・・・・。


 ―――― 遠い昔、我らが主は、全ての人間の罪を負い、磔にされたと言う。
 そして今、私の両手には、主と同じ磔の痕が・・・・・・。
 時をあやつり、この手に命を負う事が、主の定めし務めであるならば・・・せめて、我が手に触れる限りの命は負おう。
 生きて『明日』を刻むために。



Fin.

 










リクエスト16番、『(戦場に)行く時と、帰ってきた時の、それぞれの気持ち(リバミラ)』でした。
題名は、最早言うまでもなくラルクの曲名ですが、
『時計を早めたい 貴方に会えるまで 大地よまわれ少しでも早く』
という歌詞に、『絶対このリクエストに使おう』と思っていた曲でした(笑)>お前、どんだけ長い間考えてたんだ;
ところで、原作を読んでらっしゃる方は、もちろんわかった上で読んで下さると思ってますが、念のために言います。
これは捏造話です。(きっぱり)
ミランダさんのイノセンス(時間)の解釈も、私の独断ですので、後に詳しい設定が出てきても、惑わされないようにお願いします(笑)
さて、このリクエストをいただいた時は、『出発の話は既に書いたので(Lilith)、到着の場面だけで』とお答えしたのですが、後に原作の展開も変わり、このようなお話として創作しました。
実際、ミランダさんが日本を離れる事態になったら、方舟にいる連中は大変困ることになるのでしょうが;
いや、むしろ、こうならないことを祈りますよ(^▽^;)
そして、書き終わった後になって、
『せっかくミランダさん来たんだから、うれしそーにドイツ語で話しかけるバクちゃんも書けば良かった!』
と思いました;:
失敗失敗。












ShortStorys