† HIDEAWAY †







 カレンダーは2月に入ったものの春はまだ遠く、窓の外が白く覆われていた朝のこと。
 暖かく愛しいベッドと無理矢理引き離されたアレンは、恋しさに泣きながら身支度を整えるや、部屋を出された。
 「廊下・・・寒いいいいいい!!!!」
 棟内はともかく、別の棟へ行くには雪に覆われた回廊を通らなければならない。
 吹き寄せる冷たい海風に身を縮め、コートの襟をかき合わせて駆け足になったアレンの後を、白くため息をつきながらリンクが追いかけた。
 「・・・まったく、なんとかこの子供に聖職者らしい品位を持たせられないものですかね。
 任務先ではいつも猫を被っているのですから、ここでも被っていればさぞかし暖かいでしょうに」
 「うるさいなぁっ!
 どこででもイイコじゃいられませんよっ!」
 長い回廊を駆け抜けて食堂のある棟内に入ったアレンが、口うるさい監視役に舌を出す。
 「あぁもう、寒かった!!」
 一瞬で髪に積もった雪を振るい落とすと、コートの中からひょっこりとティムキャンピーが出てきた。
 雪に濡れて冷たいアレンの頭を避けて、パタパタと傍らを飛ぶゴーレムをアレンが睨む。
 「ずるいよ、ティム!
 自分だけあったかいとこに隠れてさ!」
 苦情にそっぽを向いて、ティムキャンピーはより暖かい場所へと食堂を目指した。
 「ちぇーっ!!」
 ティムキャンピーと競争するように駆け出したアレンが、そのままの勢いで食堂へ飛び込む。
 「ジェリーさぁん!!!!」
 「アランv
 おはよぉ、アレンちゃーんv
 今日はちょっとお寝坊さんだったかしらん?」
 愛しのママンににこやかに迎えられ、アレンの機嫌がたちまち良くなった。
 「だって、寒いんですもん・・・!」
 「いつまでもベッドから出てこないで、起こすのに一苦労ですよ!」
 甘え声を出すアレンの背後で、リンクが恨みがましい声をあげる。
 「背後霊のことは無視して、あったかい朝ごはんくださぁいv
 「取り殺してやりましょーか!!」
 「ホホホv 朝から元気ねぇんv
 さぁさ、二人とも!なに食べるぅ?」
 騒がしい二人を簡単にあしらったジェリーが、並べ立てられたメニューに取り掛かっている間、食堂内へ目を向けたアレンは、遠くのテーブルに最近良く見る組合せを見つけた。
 「ティモシー、また神田に絡んでるよ」
 指差すと、リンクもそちらを見遣って頷く。
 「彼も懲りない子供ですね。
 今日はまた、随分とたんこぶを作って・・・」
 呆れ顔のリンクはしかし、それが神田の仕業とは思わなかった。
 「クラウド元帥に特訓されたか、朝からセクハラしたか・・・どちらでしょうね」
 「どっちもじゃないかな」
 ティモシーがアレンより早く起きているということは、クラウドに叩き起こされたのだろうし、なんだかんだで手加減を知っている彼女は弟子にあんなたんこぶを作ったりしない。
 「あれだけボコボコにされてるってことは・・・きっと、またリナリーにセクハラしようとして、返り討ちに遭ったんですね」
 懲りないな、と呟いたアレンが酷く不機嫌そうで、リンクは意地悪く鼻を鳴らした。
 「君までたんこぶを作ってやろうなんて思っていませんよね?」
 「思ってるかもよ?」
 意地悪く舌を出したアレンは、早々と出来上がった大皿を持ってティモシー達のすぐ近くに腰を下ろす。
 「朝早くから、なに喚いてんの?」
 焼きたてのパンを頬張りながら、アレンが小さなこぶしを握るティモシーに尋ねると、彼は身体ごと振り返った。
 「アレンもお○ぱい大好きだろ?!」
 「・・・朝っぱらからなに言いやがるんですか、このエロガキは」
 大声で言ったティモシーに、アレンが乾いた声をあげる。
 と、ティモシーは椅子の上に立って、力強くこぶしを振り上げた。
 「大きさや形に好みはあっても、おっ○いが嫌いな男はいねぇ!!」
 「・・・革命を扇動するパリ市民のようですねぇ。
 見事なフランス語です」
 さすがのリンクが呆れ果てて、見当外れのことしか言えない。
 が、誉められたと勘違いしたティモシーは、小さな胸を精一杯張って、無視して食事を続ける神田を指差した。
 「どーだ、神田!!
 興味ない振りなんかしてねーで、素直になれよ、このムッツリ!!」
 その言葉が放たれた瞬間、場の空気が凍る。
 から竹割りにされた子供の死体を幻視した者も多い中、アレンだけは面白そうに神田の反応を見つめた。
 と、嫌味なほど淡々と食事を終えた神田が、静かに箸を揃えて置く。
 「ごちそうさま」
 「待てぃっ!!」
 完全に無視されたティモシーが、席を立とうとする神田を止めた。
 「なんか言えよ、このムッツリ!
 お○ぱいが嫌いなんて男の風上にも置けねーぞこのムッツリ!
 それともてめーはツルペタがいいのかこのロリコン!!!!」
 狼に向かって吠え立てる仔犬の暴挙を、皆がハラハラと見つめながらもとばっちりを恐れて止めに入ることができない。
 今、それが出来るのはアレンとリンクだけのはずだが、彼らは面白そうに、あるいは呆れ果てて、止める気もなさそうだった。
 どころか、
 「神田ってロリコンだったんですか?」
 火に油を注ごうとするアレンのからかい口調に、室温は一気に氷点下まで下がる。
 「だったら僕としては安心なんですけど・・・その割には君の周り、ナイスバディばっかですよねー」
 だから飽きちゃったのかと笑うアレンに、神田は鼻を鳴らした。
 「誰も嫌いだなんて言ってねぇだろ。
 ただ俺の場合は・・・」
 言いかけた神田へ、氷点下の室内もものとせず、突っ込んでくる者がいる。
 「ダーリーンv おっはよーvv
 椅子に座ったままの神田の顔が、豊満な胸に埋もれた。
 「・・・わざわざ捕りに行かなくても寄って来るだけだ」
 「エミリアアアアアアアアアアアア!!!!」
 目の前で起こった過激な朝の挨拶に、ティモシーが絶叫する。
 「なにしてんだ、てめぇ!!
 俺が触ったらボコるくせに、なんで神田には自分からなんだよ!」
 「イケメンだからに決まってんじゃない!」
 あっさりと言われて、ティモシーが白目を剥いた。
 そんな彼に、エミリアは冷たく鼻を鳴らす。
 「言っとくけどね、セクハラは行為じゃなくて、人に適用されんのよ。
 ダーリンはいいケド、アンタはダメ」
 更にぎゅうっと抱きしめられた神田が迷惑そうな顔をするが、ティモシーには羨ましいことこの上なかった。
 「もきー!!離れろテメェ!!」
 飛び掛ったものの、あっさりと振り払われて床に転がる。
 「おい、いい加減離れろよ」
 「いいじゃない、このくらいv
 迷惑そうな顔をしつつも神田が振り解こうとしないことをいいことに、エミリアがじゃれついた。
 おかげで怒り心頭のティモシーが、何度も飛び掛っては床に転がされて、猿回しの曲芸でも見ているかのようだ。
 やがて、床に転がったまま動かなくなったティモシーを見下ろして、リンクが肩をすくめた。
 「いつもながら、見事な切り返しですね、神田。
 子供に対しても容赦がない」
 目を回して転がったティモシーを摘み上げ、椅子にもたれさせながら言ってやると、彼は鼻を鳴らして立ち上がる。
 「あんっ!ダーリン、もう行っちゃうの?!」
 「用は済んだからな」
 エミリアを拒まなかったのもティモシーへの嫌がらせだと、言外に言う神田にアレンがわざとらしく拍手した。
 「さすが、嫌味や嫌がらせは神がかってますね」
 「テメェの腹黒さには及ばねぇよ、モヤシ」
 「ぬな――――っ!!!!」
 激昂して椅子を蹴ったアレンの襟首を掴み、リンクが肩をすくめる。
 「神田、挑発に乗りやすい子供をからかうのはやめてください」
 「からかってねぇよ、本気で言ってんだ」
 「余計悪い!!!!」
 地団太を踏んで喚くアレンに鼻を鳴らし、出て行く神田にエミリアが頬を膨らませた。
 「つれないんだから!」
 「なんであんなのがいいんですかっ?!」
 ぱんぱんに頬を膨らませたアレンに言われて、エミリアはさも当たり前のように胸を張る。
 「顔がいいから!」
 「女の人って!!」
 僕だって可愛いのに、と、ますます不機嫌になって、アレンはチキンに噛み付いた。
 「神田なんて、顔しか良くないじゃんっ!」
 「強くて男らしいわよ。
 それに、彼とすごく仲が悪いアレンだって認めるんでしょ、顔のよさは?」
 クスクスと笑われて、アレンは憮然と黙り込む。
 「ふふv
 あーんなイイ男独り占めにできたら、一生の自慢になるってもんよv
 今度のバレンタインには、ラブラブな写真いっぱい撮っておこーっと♪」
 将来孫に自慢するんだと、張り切る彼女にアレンが口を尖らせた。
 「無理ですよ。
 あの人そーゆーの嫌がって、すぐ逃げるもん」
 「そんなの、ティエドール元帥にアート・オブ・神田作ってもらって、あーんな写真やこーんな写真撮っちゃうわよ、って脅せば簡単よ♪」
 「どんな写真ですか!」
 奇しくも声を揃えたアレンとリンクにぺろりと舌を出して、エミリアは目を回したままのティモシーを抱き上げる。
 「子供の前で言えるわけないじゃなーい♪」
 「エ・・・エミリアさん、最強だ・・・・・・!」
 声を引き攣らせるアレンの隣で、リンクも無言で頷いた。
 あの神田の前で物怖じしないというだけでも凄いのに、その上彼を思い通りにしようとする辺りがもう、常人ではない。
 ティモシーを勉強部屋へ強制連行するエミリアの背中を尊敬の眼差しで見つめていると、急に彼女が振り返った。
 「そうだ、アレン!
 英国のバレンタインデーは、男女で贈り物しあうんでしょ?
 あいつ、今まで誰かに贈ったことあるのかな?!」
 「知りませんよ・・・。
 そう言うことは、リナリーに聞いた方がいいんじゃないですか?」
 幼馴染だし、と、忌々しげに言ったアレンにエミリアが大きく頷く。
 「そうね、とっととお仕事終わらせて、リナリーに聞いてみるわv
 じゃあ、と手を振るエミリアになんとなく手を振り返して、アレンは憮然と頬を膨らませた。


 食堂でいつも通りの朝の情景が展開されている頃、執務室で邪悪な笑みを浮かべるコムイに、リーバーが深々とため息をついた。
 「・・・どんだけ無駄なことに頭使ったら気がすむんだ、あんた」
 「この計画のどこが無駄だってーのさ!!」
 デスクに並べた黒いファイルをバンバンと叩いて、コムイが怪鳥のような笑声をあげる。
 「ボクの可愛いリナリーを守るために、この城から全危険人物を排除するんだよ!」
 そのために世界各地から情報を集めていたのだと、コムイは得意げに胸を張った。
 「元帥達には悪いけど、これもリナリーのため・・・!
 きっとわかってくれるよ!」
 「それ、バレたら間違いなく私刑ですからね」
 特にクラウド元帥に、と釘を刺された途端、コムイはおどおどと辺りを見回す。
 「リ・・・リーバー君、もちろん黙っててくれるよね?!
 キミも、ボクが殺されたら困るはずだ!」
 「この件が終わるまで真面目に働くっつーんなら、黙っててやってもいいっすよ」
 デスクに両手を突いた彼にじっとりと睨まれて、コムイは渋々頷いた。
 「・・・わかった、がんばる・・・よ・・・」
 「いつもかんばってくださいよ!」
 忌々しげに言って、リーバーはインカムを口元へ引き下ろす。
 「グループごとっすか?」
 「全員一度に来ちゃったらバレバレだよ!」
 すくみ上がる彼にまたため息をついて、リーバーは任務を与えるべく、エクソシスト達を呼び出した。


 「えぇ〜・・・任務ぅ〜・・・?
 こんな時にさぁ〜・・・?」
 リーバーから任務のファイルを受け取るや、ラビはがっかりと肩を落とした。
 「なぁなぁ、リーバーもわかるだろ、明日がどんな日かさぁー・・・!
 こんな大事な時に、世界の果てと果てに別れるなんて、どんな嫌がらせさ?!」
 しくしくと泣き出したラビに、リーバーが肩をすくめる。
 「果てと果てだなんて大げさだな!
 お前がモロッコでクラウド元帥はトルコだろ。
 そう言うことは、地球の裏側に行ってから言えよ」
 「そりゃお前は、同じ城の中だから平然としてもいられるだろうけどさ・・・」
 ブツブツとぼやきながら、ラビは隣でファイルをめくるアレンを見下ろしてため息をついた。
 「あのさ、ものは相談なんけどぉー・・・」
 上目遣いの『お願いv』に、リーバーはきっぱりと首を振る。
 「同行者はアレン!変更ナシ!」
 「ちぇーっ!!!!」
 ソファにダイブして足をばたつかせるラビを、アレンがムッと見下ろした。
 「なんですか!
 僕だって不満ですよ、こんな時にヘタレウサギと任務だなんて!」
 「ほほーぅ・・・?
 それはなんでだろぉー・・・?」
 執務デスクから湧き上がった怨念のこもった声に、アレンがびくりと震える。
 「コ・・・コムイさん、あの・・・・・・!」
 「まさかとは思うケド、ボクの可愛い妹に・・・!
 ボクの可愛い妹によからぬことを!
 何かよからぬことを企んでいたんじゃないだろぉねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?」
 メガネの奥で光る目に睨まれ、アレンは蛇に睨まれたカエルのようにすくみあがった。
 「めめめめめめ滅相もないですよホントですよ!!!!」
 必死に嘘をつくアレンをなおも追及しようとしたコムイに、リーバーがストップをかける。
 「室長、話が進みませんから」
 厳しく言ってリーバーは、一人掛けソファでゆったりと葉巻をくゆらすブックマンに屈みこんだ。
 「すみませんが、引率よろしくお願いします」
 「心得た」
 頷いた老人ににこりと笑ったリーバーが、笑みをリンクへも向ける。
 「監査官も」
 「・・・っ!」
 一瞬、意地悪く歪んだ笑みに気づいて、リンクは眉根を寄せた。
 「どうぞ気をつけて」
 白々しく言ったリーバーをきつく睨むと、彼はあからさまに嘲笑う。
 「帰る頃にはもう、バレンタインデーは過ぎていると思うが、がんばれば間に合わないこともないんじゃないか?」
 「おのれ猪口才な・・・!」
 悔しげに歯噛みするリンクの肩を、リーバーが馴れ馴れしく叩いた。
 「ま、せいぜいがんばれよv
 「言われるまでもありませんよっ!!!!」
 嫌味に吼え返して、リンクは素早く踵を返す。
 「行きますよ!!!!」
 「ハイハイ・・・」
 牧羊犬に追い立てられる羊のように、エクソシスト達は重い足取りで執務室を出て行った。


 次々に執務室に呼び出された『男性』エクソシスト達が、世界各地へ飛ばされてしまったのち。
 ティモシーを送り出したエミリアは、通りかかった科学班の前でリナリーを見つけ、声をかけた。
 「エクソシストは出払ったと思ったけど、リナリーは待機なの?」
 「うん。ミランダもだよ」
 だからコーヒーを運んでいる所だと、リナリーはワゴンを指す。
 「エミリアも飲んでく?」
 「遠慮するわ。
 この中、危なそうだし」
 時折、中から爆発音がする科学班のドアを見遣り、首を振るエミリアにリナリーがクスクスと笑い出す。
 「危ないのは修練場だって一緒なのに、あっちには平気で入ってくるじゃないか」
 「そりゃあ、あそこにはダーリンがいるからねv
 ウィンクすると、途端にリナリーの機嫌が悪くなった。
 「なんだよ、こっちは訓練してるのに、いちゃいちゃしちゃって!」
 「嫉妬しないのよ、妹ガv
 膨らんだ頬を両手で潰して、エミリアが笑い出す。
 「それよりちょうどよかったわ、聞きたいことがあったのv
 「にゃんだよ?」
 頬を潰されたリナリーが不満げな顔をすると、エミリアが詰め寄ってきた。
 「英国のバレンタインデーって、男女で贈り物しあうらしいけど、神田って今まで、誰かにプレゼントしたことあるの?」
 大真面目に問われて、リナリーが吹き出す。
 「あるわけないじゃないか、そんなの!
 神田はもらうばっかりだよ!」
 まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったと、大笑いするリナリーにエミリアはホッと吐息した。
 「よっし!
 じゃあ、あたしがその『初めて』になって見せるわ!」
 「ムリムリ!」
 こぶしを握るエミリアに、リナリーが笑って手を振る。
 「神田のことだもん、明日が何の日かってことも忘れてるよ!
 そう言うこと全然興味ないんだから!」
 きっと任務から帰っても来ないはずだと、また大笑いするリナリーをエミリアがムッと睨んだ。
 「・・・だったら任務にはリナリーが行けばよかったのに!」
 「悪かったねーだ!」
 舌を出すリナリーに鼻を鳴らし、エミリアは肩をすくめる。
 「ま、多少時期が過ぎたって気にしないことにするわ。
 要は生きて帰ってくればいいのよv
 軽やかに言いきったエミリアに、リナリーは呆れた。
 「・・・肝が据わってるなぁ」
 「それがイイ女ってモンじゃない?」
 イイ男をゲットするなら当然だと、笑う彼女にリナリーが黙り込む。
 「ふふv
 時間はあるし、ダーリンの喜びそうなものを考えることにするわv
 そしてプレゼントもゲット!と一人頷いて、エミリアは回廊の奥へと消えてしまった。


 「・・・って、ゆってたよ」
 呆れ顔のリナリーからコーヒーを受け取って、コムイは笑い出した。
 「実にエミリア君らしいじゃないか。
 彼女にはぜひがんばってもらって、神田君を篭絡して欲しいものだね!」
 「えー・・・・・・」
 不満の声をあげた妹に、コムイは眉根を寄せる。
 「イヤなのかい?」
 「もちろんだよ!」
 大きく頷いて兄の隣に座ったリナリーは、自分のマグカップを両手で包み込んだ。
 「班長はとっくにミランダに取られちゃったし、神田まで取られちゃったらもう、リナリーの兄さんはコムイ兄さんしかいないじゃないか!」
 「いいじゃない、元々ボクしか本当のお兄ちゃんじゃないんだから」
 ホッとして頭を撫でてやるが、リナリーは頬を膨らませて首を振る。
 「神田はずっとリナリーの『兄さん』で、女の人達に迫られたって無視してたのに!!
 なんでエミリアには強く出ないんだよ!!」
 「今まで、神田君に口で勝てるコなんていなかったもんねぇ」
 常勝不敗の暴言大王が初めて敗北を喫したのだから、強く出られなくてもしょうがないと言うコムイに、リナリーは憮然と口を尖らせた。
 「なんだよ・・・。
 リナリーだって、負けなかったのに・・・」
 「そうだっけ?」
 クスクスと笑って、コムイは拗ねる妹の肩を抱く。
 「ミランダと違って、エミリア君となら堂々と戦えるでしょ。
 せいぜい小姑になって、邪魔してあげればいいんじゃない?」
 「そ・・・それはそれで、リナリーの評価が下がりそうでやだなぁ・・・」
 一応『イイコ』で通ってるのだから、と呟いたリナリーに、黒く影が差した。
 「それはよろしいこと!
 では、イイコのリナリー・リー!
 お兄様のお仕事を邪魔していないで、今すぐ出ておいきなさい!」
 「うわっ!鬼姑!!」
 「誰が姑ですか誰が!!」
 鬼のように目を吊り上げたブリジット・フェイ補佐官が、野良猫でも追い払うように手を振る。
 「まったく!
 私が少し席を外しただけでもう部屋に入り込んで!
 室長も室長ですわ!
 なにを堂々とサボってらっしゃるの!!」
 「サ・・・サボってないよ・・・!休憩だよ・・・・・・!」
 「コーヒー持ってきただけだよ・・・!邪魔してないもん・・・!」
 「おだまり!!!!」
 反駁した途端、大声で怒鳴られた兄妹は、手を取り合って震えあがった。
 「休憩時間外に仕事の手を止めることを『サボる』と言うのですよ!
 わかったなら室長はお仕事の続行を!
 リナリー・リーは退室を!
 さぁ早く!!」
 パパパンッ!と手を叩かれて、兄妹は慌ててマグカップをワゴンに戻す。
 「リ・・・リナリー!後でね!」
 「う・・・うん・・・!」
 恐々とブリジットの顔色を窺いながら言った兄に頷き、リナリーはそそくさと執務室を出た。
 背後で乱暴にドアが閉められ、リナリーが驚いて飛び上がる。
 「・・・・・・っなんだよ、意地悪魔女!」
 ドアに向かって思いっきり舌を出したリナリーは、コーヒーの乗ったワゴンを押しながら科学班の中を移動した。
 「コーヒーいる人ー?」
 呼びかけると各所で手が挙がる。
 「じゃあ近くから・・・」
 と、リナリーはマグカップにコーヒーを注いでロブに渡した。
 「追い出されちゃったのか?」
 コーヒーを受け取りながら、苦笑した彼に憮然と頷く。
 「意地悪なんだよ!」
 「でも」
 デスクに置いていたキャンディーをお礼に差し出して、彼はにこりと笑った。
 「以前に比べて室長の仕事の効率が上がったから、休憩時間はちゃんと取れるようになっただろ?」
 その間はリナリーが一緒にいても、ブリジットは邪魔をしない。
 そう言われて、リナリーはキャンディーを口に放り入れた。
 「そうだけど・・・」
 「総合的に見れば、一緒にいられる時間が長くなったんだ。
 お礼を言いこそすれ、文句を言う筋合いはないと思うケドね」
 「そうだけど!」
 あからさまに邪険にされるのは腹が立つ!と、リナリーがキャンディーを噛み砕く。
 「それは彼女の仕事で役目だもの。
 許してやんなさいよ」
 それに・・・と、リナリーの頭を撫でてやりながらロブは、いたずらっぽく笑った。
 「今はペック班長もいないし?
 せっかく安心して過ごせるんだから、のんびりしていたらいい」
 「・・・そうだね」
 いつもしつこく絡んでくるペックが城にいないと聞いた途端、リナリーの機嫌がやや持ち直す。
 「もう帰って来なくていいんだけどな」
 「ほぼ壊滅した北米支部の立て直しに派遣されたんだから、しばらくは帰ってこないよ。
 ・・・室長に睨まれるようなことするから」
 クスクスと笑うロブに、リナリーが何度も頷いた。
 「ロブが兄さんに知らせてくれたおかげだよー・・・!
 もう、あの人の顔見る度に鳥肌立っちゃって、神田の背中に隠れてたんだから・・・!」
 なのに最大の盾は、エミリアに奪われそうになっている。
 「エミリアに神田を取られちゃったら、アレン君かラビを盾にしなきゃだから・・・こっちは報告しちゃダメだよ」
 「わかっているよ」
 にこやかに確約してくれた彼にホッとしたリナリーは、お代わりのコーヒーを注いでから給仕に戻った。
 「ハイ、班長」
 「ん」
 マグカップを受け取ったリーバーの機嫌が妙に良くて、リナリーは口を尖らせる。
 「監査官を追い出すために、アレン君にお仕事押し付けたんでしょ!」
 「押し付けたのは室長。
 俺は知らないよ」
 いけしゃあしゃあと言った彼の隣では、ミランダが熱心にファイルの整理をしていた。
 「ミランダはコーヒーいらないの?」
 「い・・・今、カップを持っちゃったら、絶対零すもの・・・!」
 ぶるぶると首を振ったミランダが、酷く怖いものであるかのようにワゴンから離れる。
 「零しちゃえばいいのに。
 今、すっごく機嫌がいいから、怒ったりしないよ班長は」
 ねぇ?と意地悪く笑うと、リーバーは笑って頷いた。
 「後片付けと掃除はリナリーが引き受けるそうだから、休憩していいぞ」
 「しないよ!」
 リーバーの意地悪な切り返しに舌を出して、リナリーがワゴンを押す。
 「キャッシュー!
 班長が意地悪だ!」
 「班長の本気はあんなもんじゃないよ」
 まだ本部に来て間もないながら、すっかり第1班に溶け込んだキャッシュが、受け取ったコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れながら笑った。
 「今日は班長の機嫌がいいし、室長も文句言わずに働くし、いい日だな・・・!」
 コーヒーもうまい、と、すっかり白くなった何かをキャッシュが満足そうに飲み干す。
 「残業も少なくて済みそうだし、久しぶりに女子会やる?」
 「やる!!」
 目を輝かせて、リナリーはキャッシュに抱きついた。
 「今、ストーカーが北米支部に行っちゃってるから、兄さんにくっついてなくても安心なんだv
 「あぁ・・・。
 兄さん達に甘えるのはデフォじゃなかったんだ・・・」
 ペックと同じ時期に赴任したため、リナリーを甘えん坊だと誤解していたキャッシュが気まずげに笑う。
 「・・・思いっきり濃いの淹れてやる」
 「ごめん。ごめんなさい」
 こめかみを引き攣らせたリナリーに、キャッシュは慌てて謝った。
 「謝るから、次からココアも持って来てよ」
 「・・・自分で用意してくださいv
 飲料スペースを指して、リナリーが苦笑する。
 「じゃあ後でねーv
 ミランダやエミリアにも言っておくよ!」
 早速ジェリーに夜食を頼んでおこうと、コーヒーを配り終えたリナリーは、嬉しげに食堂へ走って行った。


 その頃、南米支部でファインダー達と合流した神田は、訝しげに周りを見回した。
 「・・・なんでこんなに大所帯なんだ?」
 ティエドール元帥を始めとする部隊になぜか、サード・エクソシスト達が全員加わり、案内役だと言うファインダーの数も通常の10倍はある。
 「城でも落とすのか?」
 「師匠がいるんだ。
 普通の攻城戦なら、こんなにいらないだろう」
 なのになぜこんなに大人数なのかと、マリも眉根を寄せた。
 と、南米支部長が自ら寄って来て、彼らへ苦笑する。
 「この国の大自然をナメちゃダメだよ。
 ジャングルはとてつもなく広くて鬱蒼としているし、雨季が終わってもスコールはいつだって降るんだ。
 自然災害なんてほとんどない欧州から来た暢気な面々を安全に案内するにはこれでも少ないくらいさ」
 「それはお心遣いありがとう」
 ムッとした神田を押しのけて、ティエドールがにこやかに礼を言った。
 「ところで、イノセンスの仕業らしい奇怪はどんなものなのかな?」
 小首を傾げたティエドールに支部長以下、南米支部の面々が渋い顔をする。
 「住民にとっては迷惑極まりない・・・なんと、大瀑布の水が枯渇してしまったんですよ。
 乾季とは言え、水が枯渇するなんてありえない場所でだ。
 このままでは下流が干上がるのも時間の問題です。
 早急に片をつけるためにも、南米支部は総力を挙げると決定しました」
 「なるほど・・・河が干上がれば、ここも無事じゃ済まないってことか」
 「その通り」
 呟いた神田に大きく頷き、支部長はティエドールの手を強く握った。
 「要請通りティエドール元帥を派遣してくれるなんて、本部には本当に感謝しています!
 なにとぞ・・・!」
 「うん、任せておいて」
 支部長の熱意に気負いなく微笑んで、ティエドールが頷く。
 「では、早速探しに行こうか。
 その迷惑なイノセンスをね」
 踵を返したティエドールに続き、一行は枯れた瀑布を目指して出発した。


 「これから標高が高い場所へ行くので、気分が悪くなったらすぐに言ってくださいよ」
 年配のファインダーの言葉に頷いたティエドールが、背後を振り返った。
 「大丈夫かな?」
 気遣わしげに見つめられたテワクとキレドリは意外そうに目を見開き、無言で頷く。
 「そう。
 君達、小さい子のお世話は頼んだよ」
 「は・・・」
 無表情で頷いたマダラオの隣で、トクサがあからさまにムッとした。
 「ご心配いただかなくても、我々はそんなにか弱くありませんので。
 むしろ、元帥のお弟子方を案じられては」
 「アホか」
 一言で斬り捨てられ、トクサが目を吊り上げる。
 「どういう意味でしょう、神田?!」
 苛立たしげに問えば、彼は意地悪く鼻を鳴らした。
 「俺もマリも、お前らなんかよりずっと実戦経験が豊富だ。
 気遣われる筋合いなんぞねぇし、チャオジーはヘタレるようならその場に捨てていく」
 「そんなっ?!」
 悲鳴をあげたチャオジーを、神田は冷たく睨む。
 「そのために支部長はこれだけのファインダーを案内役につけたんだってことくれぇ、気づけよ。
 途中で倒れた奴を山から降ろすために、人数がいるんだろ」
 「普通の道じゃありませんからね」
 エクソシストの戦力は稀少だと、ファインダーは言外に神田の言葉を認めた。
 しょげてしまったチャオジーに、ティエドールが微笑む。
 「ここの敵はアクマじゃなく自然だからね、よっぽど手強いよ。
 でも・・・」
 と、ティエドールは鬱蒼と茂る葉を透かして、遠い空を見上げる。
 「この中の誰かがイノセンスを確保すればいい。
 それだけだよ」
 気負うなと、穏やかに言って歩を進める師の背中を、チャオジーは尊敬の眼差しで見つめた。
 そんな彼を見やって、神田は深々とため息をつく。
 ―――― いつもこうならいいんだがな。
 任務中は弟子を姓で呼び、戦闘でも頼りになる師は、素直に尊敬できる元帥だ。
 しかし、本部に戻るや子煩悩パパンに変わることが、神田には鬱陶しくてならない。
 その心情を察してか、苦笑したマリが神田の背中を押した。
 「行こう」
 「・・・あぁ」
 頷くや、後ろも見ずに歩き出した彼にまた苦笑し、マリはチャオジーを振り返る。
 「がんばれよ」
 「う・・・うすっ!」
 置いていかれるようなことにだけはなるまいと、チャオジーは気合をこめて頷いた。


 そして一方、地球の裏側では、牧羊犬に吠え立てられた羊達が、忌々しげに歩を進めていた。
 「なにをもたもたしているのですか!
 さっさと帰るのですから、ちゃきちゃき働きなさい!」
 もう何度目か、数えるのもアホらしいヒステリックな怒号に、ラビが口を尖らせる。
 「もーうっさいさ、わんこ!
 そんな吠え立てたって、目的地はこっから2日のとこなんさ!
 砂漠でミイラになりたくなかったら、ちったぁおとなしくするさね!」
 「いっそミイラになっちゃったら静かになりますよ」
 うんざりと言ったアレンを、リンクが物凄い目で睨んだ。
 「役に立たない子供は砂に埋めますよ!」
 冗談ではない口調に、アレンは首をすくめる。
 「さぁ!
 行ってしまえば帰りは一瞬です!急ぎなさい!!」
 更に言ったリンクを、ブックマンが訝しげに見上げた。
 「それは・・・アレンの方舟を使うと言うことか?
 無闇に開くことは中央庁が禁じているはず・・・」
 「非常事態ですから!!」
 きっぱりと言った彼に、アレンが唖然とする。
 「絶体絶命の危機に遭っても禁止したくせに・・・なにそれ!!!!」
 「お黙りなさい!
 既に長官の許可は得ています!
 なんとしてもマンマをあのホーキ頭から奪い返して、見返してやりますよ!!」
 「・・・・・・アホか」
 呆れ果てたラビは、奇しくも地球の裏側で神田が呟いた台詞を呟いた。
 そしてリンクも、元同僚と同じく目を吊り上げる。
 「あなただって嘆いていたではありませんか、Jr.!
 何か問題でも?!」
 「・・・ありません」
 それを言われては逆らえず、ラビはあからさまに目を逸らした。
 「ラビが帰っても、クラウド元帥はまだ戻ってないと思いますよ」
 「わかってっさ!」
 でも、と、ラビは夢想するように頬を染める。
 「戻って来た元帥をプレゼントと一緒にお迎えv ってーのもいんじゃね?
 きっと喜んでくれると思うんさv
 「・・・そっか、異国のお土産って嬉しいですよね」
 途端にアレンも目を輝かせ、はりきって歩を踏み出した。
 「がんばりましょ!
 さっさと帰って、コムイさんを出し抜くんです!」
 「その意気ですよ!」
 珍しく煽り立てるリンクが、満足げに頷く。
 「さぁ!ブックマンも!」
 「・・・私の引率は要ったのかの」
 若者達に早く早くと急きたてられて、老人は億劫そうに紫煙を吐いた。


 南米のジャングルの中、道なき道を進む案内役について、一行は無言のまま干上がった河の上流へ向かっていた。
 熱気のこもる中、汗一つかかない集団の中で一人、チャオジーだけが息をあげている。
 始めのうちはこの、無言の集団にプレッシャーを感じていたからだろうと思っていたが、息は歩を進めるごとに苦しくなっていった。
 「焦らずに、大きく呼吸して」
 様子に気づいたファインダーが声をかけた途端、先を行く神田が肩越しに睨んできて、チャオジーは慌てて深呼吸する。
 目的地に着く前に倒れでもしたら、その場で斬り殺されかねないと怯える彼の傍まで、マリが歩調を落としてくれた。
 「神田の事なんか気にせず落ち着け。
 高地に慣れていないのだから、息苦しくて当たり前だ」
 チャオジーの呼吸音を聞き取って宥めてくれたマリに、彼はほっと吐息する。
 「あ・・・ありがとうございます・・・」
 「いや。
 神田!余計なことを言うなよ!」
 嫌味が出そうになった口を封じられて、神田が舌打ちした。
 不機嫌になった彼を、トクサが嫌味ったらしく笑う。
 「さすが、実戦経験豊富な使徒様方は余裕ですねぇ」
 「初めてのジャングルに怯えきって声も出ねぇお前らから見れば、そう見えるだろうな」
 思わぬ切り返しに、トクサのこめかみが引き攣った。
 「私達がいつ、怯え・・・!」
 反駁は、目の前にかざされたマダラオの手に阻まれる。
 「騒ぐな。囲まれている」
 「おや、ようやく気づいた?」
 笑みを浮かべたティエドールが振り返り、マリへ頷いた。
 「・・・数は多いですが、レベルは1〜2です。
 師匠が出るまでもないかと」
 「あぁ、そう。
 私もできれば、森を破壊したくないからね。
 抜けるまでは君達でがんばんなさいよ」
 「はい」
 頷くや、イノセンスを発動させたマリと神田が森の中へ駆け込む。
 木立の陰に隠れていたアクマは、神田に次々と切り伏せられてその数を減らし、たまらず上空へ逃げようとしたものはマリの糸にかかって爆音を上げた。
 「ほら、君達も早く行かないと、嫌味言われちゃうよ?」
 のんびりとした口調でチャオジーとサード・エクソシスト達を追い立てたティエドールが、ファインダー達に先を急がせる。
 「イノセンスは私が回収することになるかなぁ」
 数に苦戦はしても問題はないだろうと、弟子達を信頼するティエドールはもう、振り返りもしなかった。
 ために、ジャングルに慣れたファインダーと体力に優れた元帥は、あっさりと森を踏破して上流に向かう。
 しかし、川岸から大河の光景を見た瞬間、さすがのティエドールも眉根を寄せた。
 「これは・・・報告になかったけど」
 ファインダー達を見遣れば、彼らも初めて見る光景だったのだろう、言葉もなく、ただ頷く。
 「・・・ってことは、二次被害ってやつかな?」
 広大な川床をアクマの躯が埋め尽くし、流れ来る水を堰き止めていた。
 「干上がったのはイノセンスのせいだって聞いたけど・・・」
 「えぇ、それは間違いないかと・・・。
 そもそも乾季とは言え、普段は大地を削るほどの水量がある河なのです。
 干上がっていなければ、この程度の数はとっくに流れさっているはず」
 「この程度・・・なんだ」
 ティエドールでさえ息を飲む凄惨な光景を、彼らは別の視点で見ていたらしい。
 「更に上流へ行くしかないようだが・・・行けるのかな?」
 「普通の人間なら止めますが、皆さんは構わないでしょう」
 と、なんでもないことのように言われたが、彼らが進む場所は今までの道が舗装道路だったかと勘違いするほどに険しかった。
 「アクマが・・・羨ましいよ・・・!宙を・・・飛べるのだもの・・・・・・!」
 密集する大樹の枝を猿のように渡りながらティエドールがぼやくと、ひょいひょいと先に行くファインダー達が苦笑する。
 「空なんか飛んだら・・・」
 言いかけた彼のすぐ横を墜落したアクマが過ぎ、河へ転がり落ちた躯は流されて堰の一部となった。
 「・・・鳥や虫の群れは、意外と凶暴なんです」
 「・・・・・・みたいだね」
 唖然として、ティエドールは空を見上げる。
 黒く日を遮る葉を透かし見れば、青く澄み渡った中にいくつもの黒い塊が浮かんでいた。
 目を凝らせばそれは、鳥や虫の大群にたかられて悶えるアクマの姿だ。
 生き物を一瞬で壊すアクマの血でさえも消化吸収できるのか、ジャングルの生き物たちは滅多にないご馳走にどんどん集まって来た。
 「怖い怖い」
 全く、アクマ以上の強敵だと、ティエドールはしたたかな自然に震え上がる。
 「弟子達は大丈夫かなぁ・・・」
 アクマには勝ってもジャングルの生き物には負けたかもしれないと、気遣わしげに背後を返り見たティエドールに、ファインダー達が『大丈夫』と請け負った。
 「ジャングルの生き物は用心深い。
 あんなに激しい殺気を放って動き回る人間には、不用意に近づきません。
 油断して暢気に漂っているあいつらは、格好の餌食ですけどね」
 笑って上空を指したファインダーに、ティエドールが苦笑する。
 「もう、暢気ではいられないようだ」
 レベル1でもある程度の知能はあるのだろう。
 とっくに逃げ去ったレベル2に続いて、次々に離脱するのが見えた。
 「これで合流できるかな」
 とは言いつつも後続を待つ気などさらさらなく、ティエドールは爆音も止んで静かになった森を案内についていく。
 「元帥、間もなく森を抜けますが・・・」
 言葉を続ける代わりに、彼は崖を指した。
 いや、崖と呼ぶには語弊があるか。
 そこは水が干上がったせいで水流に削られた地肌が見えるようになった川床だった。
 「この河は湾曲していますので、更に上流に行くには川沿いを行くよりここを渡った方が早いのです。
 しかし・・・」
 はるか遠くにある向こう岸とこちらを繋ぐのは、とても橋とは呼べない絡み合った蔓しかない。
 所々穴の開いたそれを渡るには、尋常でない勇気が必要だが、問題はそこではなかった。
 「この人数が渡るには・・・その上、後続が渡りきるには、強度が足りないかと」
 何人か渡った時点で落ちるに違いないと言うファインダーに、ティエドールはにこりと笑う。
 「そうか、そのために支部長は私を呼んだんだね」
 南米ならソカロの方が適任のはずなのにと、くすくすと笑う彼に、見透かされたファインダー達が気まずげに苦笑した。
 「・・・お願いできますか?」
 「いいとも」
 気軽に頷くや、ティエドールがイノセンスを取り出す。
 槌でノミを打ち付けると、見る間に白く大きな橋が崖に架かった。
 「強度も申し分ないよ。
 馬車だって通れるとも」
 ここまで馬車を持ち込む方が大変だけど、と、笑うティエドールにファインダー達が何度も礼を言う。
 「君達の・・・いや、ここに住む人達にもかな。
 役に立てて幸いだよ」
 慈悲深い元帥の善行に感謝する彼らの元へ、ようやく後続のエクソシスト達も追いついた。
 「ひ・・・酷い道でした・・・!」
 高地であることも重なり、すっかり息の上がったチャオジーが目を白黒させる。
 「な・・・」
 「情けないとか言ったら崖に放るぞ、神田」
 またもマリに機先を制されて、神田が憮然と黙り込んだ。
 いつも通りの弟子達に、ティエドールが笑い出す。
 「さぁ、みんな揃っているかな?
 上空のアクマ達は森の動物達が片付けてくれたから、進もうか」
 「は・・・?」
 どういうことだと、神田が訝しげに空を見上げた。
 「逃げたようだな・・・アクマの機械音が遠ざかっていく」
 「残念ですね。
 こちらが橋を行けば、上空のアクマをおびき寄せることができたでしょうに」
 滅す機会を失くしたと笑うトクサを、チャオジーが恨めしげに見遣る。
 「・・・なんなんすか、あいつら。
 さっきの戦闘でも、これ見よがしに・・・」
 「実力を示さねばいけない立場と言うことだ」
 チャオジーのぼやきに、マリが苦笑した。
 「彼らは私達と違って、イノセンスの適合者ではない。
 だからこそ、あらゆる戦場で役に立つということを見せ付けなければならないんだ。
 ・・・少なくとも、お前がひがむのは筋違いだな」
 さり気なく付け加えられた一言にチャオジーが俯き、神田が鼻を鳴らす。
 「うだうだ言ってる元気があんなら一人で歩け」
 甘えるなと言うよりは、サード・エクソシスト達に嘲笑される隙を与えるなと言いたげな彼にチャオジーは決然と頷いた。
 「俺・・・がんばります!」
 「へ?」
 突然の大声に驚いて、先を行くティエドールが振り向く。 
 「うん・・・まぁ、がんばるなとは言わないけど、無理しないようにね」
 運ぶのが手間だと呟いた師に全く頼りにされてないと気づいて、チャオジーはがっくりと肩を落とした。


 「うーん・・・さすが夕日の国。
 いい夕焼けさねー」
 砂漠に照り映える夕日を暢気に眺めるラビに、リンクの鋭い視線が刺さった。
 「景色を楽しんでなどいないで、さっさと進みなさい!!」
 そう言う彼はもう、随分と先に行っていて、歩みの遅い同行者達を苛立たしげに急かす。
 「そうは言われても僕、ラクダになんて初めて乗るんだもん・・・」
 一番遅れてついてくるアレンに、案内のファインダーが苦笑した。
 「そうですね、もっと楽にしてもらっていいんですけど・・・」
 手綱にしがみつき、落とされないように鞍の上で懸命にバランスを取る彼の姿は生まれたての子猫のようで、失笑を堪えるのがやっとだ。
 「あそこまで気楽にとは言いませんけど、もうちょっと力を抜いてください」
 と、ファインダーが指したブックマンは、鞍の上に胡坐をかいて、葉巻をくゆらしながら現地の新聞を読んでいた。
 「・・・酔わないの、あれ?」
 「三半規管が強いんでしょうなぁ」
 軽く笑声をあげて、アレンの隣にラクダをつけたファインダーが手綱を取る。
 「ウォーカー殿の迷子癖は有名ですから、ここからは私が綱を取ります。
 もう置いていかれそうですしね」
 「ぅえっ!!」
 震えながら顔をあげると、ラクダの首の先にすっかり小さくなったリンクとラビが見えた。
 「もうあんなに先に行っちゃったの?!」
 でもまだ側にブックマンがいたはず、と見遣れば、とっくに紫煙も消えている。
 「やだぁ!!置いてかないでええええ!!!!」
 こんな目印もない場所に置いてけぼりにされては、迷子どころの騒ぎではないと、アレンが泣き声をあげた。
 「私がいれば大丈夫ですから、落ち着いて。
 さぁ、急ぎますからしっかりつかまっていて」
 「はい・・・!!」
 任せろと請け負ったファインダーに頷いた途端、鞍から落ちかけたアレンがぷるぷると震える。
 その様にとうとう失笑したファインダーが、顔ごと目を逸らして手綱を引いた。
 「・・・っ夜も駆けろと、監査官の命令ですから。
 きっと予定より随分早く着きますよ」
 咳払いでごまかしながら言ったファインダーをアレンがじっとりと見つめる。
 「・・・明日できることを今日やるなってことわざ、知らないんですかね、あの人・・・・・・」
 「知らないんでしょうねぇ」
 もう笑いを止められず、ファインダーは頼りないエクソシストの手綱を引いて、夕日の砂漠を渡った。


 日が暮れて、野宿することになった一行は、ジャングルに詳しいファインダー達の指示に従ってテントを張った。
 神田までもが素直に指示に従っていることを意外に思いながら、チャオジーはやや離れた場所を見遣る。
 「・・・あの人達も、従うんすね」
 「こういう場所では、現地の人間に従わないと酷い目に遭うからね」
 思いがけず師に声をかけられて、チャオジーは気まずげに口をつぐんだ。
 そんな弟子に、ティエドールが笑いかける。
 「こういう時代だから、未開の地に冒険を求める輩は多いけど、代々その地に住む人々の忠告を無視して成功した例はほとんどないよ。
 神田はとても優秀なエクソシストで、彼の任務遂行力は教団でも随一だ。
 それは彼自身の戦闘力が優れているだけでなく、案内役のファインダーに従って、正確な情報を得ているからだね。
 おかげで彼の部隊に入ったファインダーの生存率は驚くほど高い。
 無愛想だから反発する者も多いけど・・・バレンタインデーにはたくさん花をもらっているよ」
 可愛い息子を自慢するように、嬉しげな師を見上げて、チャオジーはため息をつく・・・とてもじゃないが、自分は彼の自慢にはなれそうにない。
 と、ティエドールが彼の頭をくしゃくしゃと撫でながら微笑んだ。
 「がんばんなさいよ。
 キミはまだまだ、これからなんだから」
 「は・・・はい!」
 大きく頷いたチャオジーを遠くから見て、トクサが鼻を鳴らす。
 「やれやれ。
 暢気な人たちですよ」
 せいぜい嫌味ったらしく言ったものの、チャオジーには聞こえず、マリや神田からは無視されて、不満げに眉根を寄せた。
 「・・・いい加減にしないか」
 「・・・一人相撲は虚しいかと」
 マダラオとテワクの二人から冷めた声をかけられて、トクサがますます憮然とする。
 「大男のエクソシストには見透かされているのだ。
 突っかかったところで哀れまれるのが関の山だぞ」
 「それって却って悔しいな」
 ゴウシとキレドリまでもトクサの味方にはなり得ず、彼はただ肩をすくめた。
 「・・・わかりましたよ。
 ここで嫌味は控えましょう」
 なにを言っても効果がないようだしと、トクサは忌々しげにマリと神田を睨む。
 殺気に気づいたか、わずかに振り返った神田が舌を出した。
 「ムッカツク・・・!」
 「いい加減にしろと言っているだろう」
 理解したのではなかったのかと、ため息をつくマダラオにトクサが尖った目を向ける。
 「わかってはいますけど、ムカツクのは仕方ないんですっ!!」
 「気持ちはわかるけど・・・」
 「問題は起こさないでくださいまし」
 年下のキレドリとテワクからたしなめられて、トクサは渋々頷いた。


 「・・・本当に夜中駆けちゃった」
 唖然として白んでくる空を見上げたアレンが、ラクダの上で器用に眠るラビに蹴りを入れた。
 「なんで落ちないんだよ、もー!」
 「ちょ・・・ウォーカー殿!蹴っちゃだめですよ!
 落ちて怪我でもしたら、回収が面倒なんです!」
 慌てて止めに入ったファインダーに頬を膨らませて、アレンはなんとか乗れるようになったラクダの上で、猫のように伸びをする。
 「うう・・・!
 慣れないことやったせいで、もう身体が限界です・・・!
 目的地はまだですか?
 ちょっと休もうよぅ・・・」
 ぴぃぴぃと泣くアレンの声を聞いて、ようやくフードから出てきたティムキャンピーが眠たげに羽ばたいて扇いでやっていると、先に行くリンクが情けない同行者を睨みつけてきた。
 「もう間もなくのはずです!
 なんとしても本日中に任務を完遂して、陰謀を巡らせた輩の鼻をあかしてやるのですから、がんばりなさい!!」
 とは言いつつも、彼の顔にも疲労の色は濃い。
 「アレンよりもあちらについてやった方が良いのではないか?」
 リンクの大声に目を覚ましたブックマンが、あくびをしながらファインダーへ言うと、彼はアレンとリンクを見比べてブックマンに頷いた。
 「ウォーカー殿はもう、落ちる心配もなさそうですから、監査官についておきましょう」
 言うや軽やかに手綱を操って、リンクの傍に寄ったファインダーが休憩するように要請する。
 「さて、アレン。
 アクマはいそうなのかの?」
 ファインダーがリンクを説得する間、問うたブックマンにアレンは、ティムキャンピーの尾を持って扇ぎながら首を振った。
 「いいえ。
 今のところ、なんの気配もありませんよ」
 「そうか」
 頷いた彼の指が、細い鍼を摘む。
 「ならば、戦闘員が一人欠けても問題なかろうて」
 にんまりと笑ったブックマンが鍼を放ち、リンクのツボを深々と抉って鞍の上に昏倒させた。
 「監査官――――!!!!」
 驚いて絶叫したファインダーの声に、ラビもようやく目を覚ます。
 「・・・おあよ」
 「よくまぁ寝ていられますよね」
 普段は寝相が悪いくせに、なんで落ちないんだとアレンが呆れた。
 「優秀なおつむと記憶を維持するためにゃ、睡眠は欠かせんさー。
 お前、あんま寝ないと頭悪くなって背も伸びねーよ?」
 「うるさいなぁ!!好きで寝られなかったんじゃないよ!!」
 寝不足の苛立ちもあいまって、アレンがヒステリックな声をあげる。
 「眠たい!お腹空いた!!もぉ帰りたい!!
 ジェリーさぁぁぁぁんっ!!!!」
 ティムキャンピーを抱きしめて、じたじたと暴れるアレンにラビが苦笑した。
 「あーぁ、子供がぐずっちゃったさ。
 ほんじゃ、とりあえずメシにしよv
 腹が減っちゃあ戦はできんさねー」
 「うんっ!早くっ!!早くっ!!」
 離れた場所にいるファインダーに呼びかけると、彼は昏倒したリンクがラクダから落ちないように支えつつ戻ってくる。
 「今、お茶を入れますよ」
 日陰にリンクを寝かせて、朝食の仕度をしてくれるファインダーを待つ間、アレンもうとうとしだした。
 「おぉ。
 子供が眠気に負けてるさ。
 アレンのくせに、眠気が食欲に勝つなんてよっぽどさね」
 笑ったラビが、朝食ができるまでアレンをリンクの隣に転がす。
 「あんたも朝メシ終わったら、少し寝たらいいさね。
 一晩中、こんな騒がしいガキンチョの面倒見て、大変だったろ」
 寝ながらもラビの声が聞こえたのか、アレンが蹴って来た。
 はたき返されて、ぴすぴすと鼻を鳴らしながらも寝るアレンにファインダーが笑い出した。
 「では、お言葉に甘えて。
 目的地は間もなくですから、監査官のご要望通り、本日中には本部に帰ることができると・・・」
 「ふむ・・・つまり、昼間も移動できるほどに被害は深刻なのだな」
 話を遮ってきたブックマンに、彼は笑みを収めて頷く。
 「その一帯は現在、砂漠では考えられないほどに厚い雲に覆われていまして、太陽光など届きません。
 オアシスを作る程度ならありがたいのですが・・・元々水のない土地にああも大量の雨が降り続いては、流れを止める手立てもなく、村がいくつも沈みました。
 私も回収できないものかと近づきましたが・・・無理ですね。
 あの力を相殺できるものでもなければ」
 「それは案ずるな」
 きっぱりと言って、ブックマンはファインダーが差し出したミントティーのグラスを受け取った。
 「そのための我らだ」
 「はい・・・!」
 茶を飲むブックマンを頼もしげに見つめて、ファインダーが頷く。
 「どうか・・・よろしくお願いします・・・!」
 両手で強く手を握られたブックマンは、悠然と頷いた。


 水害に苦しむ砂漠の裏側で、旱害に悩むジャングルの一行は、ようやく原因と思われる上流へ到達した。
 森を抜けた途端、強烈な光と熱気を浴びて、ほぼ全員が目を覆う。
 「あぁ・・・これはこれは」
 ティエドールの暢気な声に、手をかざしつつわずかに目を開けた神田が、その光源へ眉根を寄せた。
 「師匠、これは・・・」
 「まるで、小さな太陽が地上に降りたかのようだねぇ」
 数百メートル先で輝くそれは、中心の姿も見えないほどの光を放ちながら、干上がった川床の上に浮かんでいる。
 あまりの光量を見つめていられず、目を逸らした先の地面は、下草が焼き払われたように黒く焦げ、干からびた木や枝がぶすぶすと煙をあげていた。
 おそらく、広大な河の水を干上がらせた上に、川岸の植物も焼き払ったのだろう。
 近づくだけで、丸焦げにされかねない熱だった。
 「適合者のいないイノセンスが、発動したまま止まらなくなったんだろうけど・・・」
 どうしたものかと、ティエドールが首を捻る。
 回収に成功したとしても、この強大な力を人間が武器化できるとは思えなかった。
 「師匠・・・」
 声をかけてきたマリに、ティエドールは振り返ってため息をつく。
 「ヘブラスカがいてくれたらなぁ・・・少なくとも、発動は止められただろうに」
 「めんどくせぇ・・・。
 俺が行きゃあいいんだろ」
 目を細めつつも、歩を踏み出した神田をサード・エクソシスト達が止めた。
 「イノセンスなら、封じる術を我らは持っている」
 そう言って呪符を取り出した彼らに、神田が目を鋭くする。
 「チッ・・・!
 鴉ヤロウが・・・!」
 忌々しげな舌打ちは聞こえなかった振りをして、サード・エクソシスト達が神田を押しのけた。
 「か・・・神田先輩・・・!」
 今にも斬り殺しそうな目をした彼を、チャオジーが慌てて止める。
 「・・・はっ!
 せいぜい役に立ってみろ」
 嫌味には無言で応え、サード・エクソシスト達は光へ向かって札を放った。
 ―――― が、
 「・・・燃え尽きちゃったかぁ」
 残念そうなティエドールの声に、普段感情を見せない彼らが悔しげに一礼する。
 「申し訳・・・」
 「ううん、そうじゃないかと思ったから」
 気さくに言って、ティエドールが進み出た。
 「うわぁまぶしー!
 マリ、ちょっとお手伝いしてよ」
 「は・・・?」
 目をきつくつむったまま、バタバタと手招きする師に応じて歩み寄ると、『目隠しして』と言われる。
 「はぁ・・・」
 「おぉv
 ようやく両手が空いたよーん♪」
 マリの大きな手に両目を塞がれて、ホッとしたティエドールがイノセンスを取り出した。
 「もー、目をつぶってるだけじゃ眩しくって、自分の手を打ちかねなかったからねー♪」
 しかし完全に光を封じられれば、ティエドールほどの彫刻家は手の感覚だけで正確にノミを振るえる。
 「いっくよー!」
 ノミに槌を叩きつける音が、ジャングルに響いた。
 途端、川床から白く巨大な両手が伸び、浮かぶイノセンスをしっかりと包み込む。
 「ど?
 もう眩しくない?」
 問うたティエドールに、皆が頷いた。
 「もう大丈夫です。
 一筋の光も漏れていませんし、熱も和らいで・・・?」
 不意に、ファインダーが言葉を切る。
 「どうしたの?」
 マリの手を引き下ろしたティエドールが弟子の顔を見上げると、訝しげに上流を見遣っていた彼が眉根を寄せた。
 「師匠・・・なんだか凄い水音が・・・っ!」
 言う間に、マリの聴力を頼るまでもなく轟音が響く。
 「あのー・・・もしかしてさー・・・・・・」
 のんびりと首を傾げた師に、神田が頷いた。
 「水が戻ってきたんだろ」
 「落ち着いてる場合っすか!!!!」
 元船員として、水の怖さをよく知るチャオジーが悲鳴をあげる。
 「早く高い所に逃げて!!
 とりあえずは木の上でもいいから早く!!」
 言うや、さかさかと木を登り出したチャオジーを、脅威の跳躍力で枝を踏みながら、神田が追い越した。
 「ファ・・ファインダー達は・・・!」
 見れば、機を見るに敏な彼らは、チャオジーの忠告を受けるまでもなく高い場所へと走っている。
 「・・・あれ?
 もしかして俺が最後?」
 「ぐずぐずするな!!」
 糸を絡めて、師の彫刻ごとイノセンスを引き上げたマリが、巨体に似合わぬ敏捷さでチャオジーを追い越して行った。
 「お・・・俺が最初に呼びかけたのに、みんな早っ!!!!」
 サード・エクソシストなど、鴉の名にふさわしく空にでも逃げたか、既に姿も見えない。
 「わーん!!!!
 置いてかないでくださいー!!!!」
 さかさかと木を登ってようやく師らと同じ高さに到達した途端、一気に流れ込んだ膨大な水量に地が削られた。
 「んぎゃあああああああああああああああ!!!!」
 チャオジーの絶叫に、高台へ逃げ延びたファインダー達が振り返ると、エクソシスト達が避難した木が根こそぎ濁流へ呑まれて行く。
 「稀少な戦力がー!!!!」
 「イノセンスごと持ってかれたー!!!!」
 正しいが聞き様によっては冷酷な絶叫をあげるファインダー達の目から、彼らの姿は一瞬にして消えた。
 「と・・・とにかく連絡!南米支部へ!」
 「はい!!」
 不死身のエクソシストのことだから、なんとか生きているかもしれないと、一縷の望みを繋ぐ。
 「ファインダーだけでなく、支部の団員総動員で捜索するぞ!!」
 「はい!!!!」
 頷くや、全員が下流へ向けて走り出した。


 一方、ジャングルの受難を知らない一行は、砂漠の中で豪雨に打たれ、頭から爪先までずぶ濡れになると言う、珍しい体験をしていた。
 「こりゃあ滅多にない経験さね。
 もうちょっと味わってたいけど・・・」
 言いかけたラビに、師がクシャミで抗議する。
 「あいあい。
 ジジィが風邪ひく前に雲を散らしますかね」
 砂の下の固い岩盤に押し返され、地上に溢れ出して大河となった雨に身をさらしながら、ラビが槌を発動する。
 「んー?
 アレン、たぶんあの辺だと思うから・・・ちゃんと準備しとけよ」
 最も雲の厚い場所を指したラビに頷き、アレンもクラウン・クラウンを発動した。
 「ティムが取ってくればいいのに、なんで僕が・・・」
 ファインダーが差す傘の中で状況を見守るだけのティムキャンピーに眉根を寄せたアレンは、通常に比べて低い位置にある雲を見上げる。
 「届くかなぁ・・・?」
 「届かんかった場合は、ティムを使えばいいさ!」
 さすがに雨が止めば出てくるだろうと暢気に言って、ラビは水面に槌を打ちつけた。
 「ひっさびさの〜!木判!!」
 天を打てば、厚い雲がたちまち散っていく。
 「んっとー・・・あ!」
 淡くけぶる空を見つめていたアレンが、歓声をあげて膝を曲げた。
 「ラビ!頭借りるっv
 「んぎゃっ!!!!」
 ラビの肩と頭を踏み台に、より高く飛んだアレンがクラウン・ベルトを伸ばし、天に浮かぶ白いキューブを絡めとる。
 「ゲットーv
 「俺の頭踏むなっ!!」
 喜ぶアレンの頭をはたいて、ラビは踏みつけられた頭をさすった。
 「んもー!
 双子と言いお前と言い・・・俺のおつむは貴重なんから、踏み台禁止さ!」
 「だって、ちょうどいい高さだったんだもん!」
 身長差を妬んでか、意地悪を言うアレンが頬を膨らませる。
 と、やや離れた所で状況を見守っていたリンクが歩み寄って、二人の腕を掴んだ。
 「任務は終わりました!
 さぁ!帰りますよ!!」
 「うん!」
 ずりずりと引きずられながら大きく頷いたアレンの隣で、ラビがリンクをつつく。
 「帰る前に、街に寄って土産もん仕入れようぜv
 アレン、なんにするか決めてるさ?」
 問われてアレンは、彼らを待つファインダーを見遣った。
 「僕、ミントティーグラスにしようと思ってます!すごくきれいだったし!」
 お茶もおいしかった、と言うアレンに彼は、嬉しげに笑う。
 「そっかー。
 じゃあ俺、民族衣装の刺繍が入ったチュニックにしようかなー。
 元帥の巨乳が強調される的なもんをv
 「・・・殴られますよ」
 呆れ声をあげて、リンクは水面に照り返す砂漠の陽光に目を細めた。
 「私は・・・この太陽の下で育った稀少な葡萄のワインでも・・・。
 マンマは喜んでくださるでしょうしv
 「私も喜ぶぞ」
 ここのワインはうまいからと、嬉しげに言ったブックマンは、冷たく見返される。
 「ご自身でどうぞ」
 「・・・冷たいの」
 わざとらしくくしゃみをして、ブックマンはいち早くラクダの背に乗った。


 「師・・・師匠おおおおおおおおおおおおおお!!!!
 無事っすかああああああああああああああああ!!!!」
 「むしろキミがね」
 濁流に流されながら絶叫するチャオジーに、ティエドールが涼しい声で言う。
 「一旦、堰でも作ろうか・・・あっ」
 ノミに槌を打ちつけたティエドールが、形成される端から濁流に破壊されて散らばる欠片に悲しげな声をあげた。
 「うーん・・・。
 やっぱり流されながらだと力が入らないか。
 この水流に負けちゃうねぇ」
 あくまでのんびりと言いながら、もう一度ノミを振るったティエドールが、水面に白く丈夫な船を浮かべる。
 「さ、とりあえずこれに避難しなさいよ、みんな!」
 呼びかけるや、崩れ落ちた岩石を蹴って水から脱出した神田が宙を舞い、正確に船の上に降り立った。
 「す・・・すげっ・・・!!」
 激しい水流すら利用した彼の体術に、状況も忘れて見入ったチャオジーの身体が、背後から支えられる。
 「チャオジー。投げるぞ」
 「へっ?
 ぼぇああああああああああああああああ?!」
 マリに抱えられたと思った瞬間、ボールのように放られて、チャオジーが奇妙な悲鳴をあげた。
 「うん、無事でよかった。
 さぁ、他の子達を引き上げてやんなさい」
 「ぅ・・・ぅあい・・・!」
 呆然とする間もあらばこそ、師に急かされたチャオジーがイノセンスを発動させる。
 怪力を得た彼は、まずは確保したイノセンスと共にマリを、そしてサード・エクソシスト達を次々に船に引き上げた。
 「ようやく役に立ったじゃねぇか」
 神田の言葉にほころびそうになった顔は、
 「誉めてねぇよ」
 と鋭く睨まれて、萎縮する。
 「最初から役に立て、素人が。
 これで全員か?」
 肩を落としたチャオジーを無視して船上を見渡せば、マダラオが大きく頷いた。
 「感謝する」
 「へっ?!
 あ・・・い・・・いえ・・・!」
 意外な人間から礼を言われて、慌てるチャオジーに神田が鼻を鳴らす。
 「それで師匠、この後は・・・」
 「しゃがめ、神田!!」
 マリの鋭い声に応じて伏せた彼の、一瞬前まで首があった場所を橋が通過した。
 「・・・師匠の橋か」
 「あぁー・・・!壊れちゃったねぇ・・・!」
船が通り過ぎた途端、後方から流れて来た岩石を叩きつけられて、架けたばかりの橋が崩れ去る。
 「もう湾曲した場所を通り過ぎたから、流れも緩むと思ったんだけど・・・」
 「元帥・・・この辺りまでは水自体の力だったのでしょうが、この先はおそらく・・・」
 眉根を寄せて船首を睨むマダラオに、ティエドールが肩をすくめた。
 「大瀑布へ一直線だねぇ」
 「ふえええええええええええええ?!」
 悲鳴をあげたチャオジーの見開いた目に、堰と化していたアクマの躯が流され、遥か下にある滝つぼへ向かって放り出される様が映る。
 「ねぇ君達、無事でいてね」
 「どうやってっすか!!!!」
 にこりと笑った師に絶叫して、チャオジーは目の前に迫った大瀑布に凍りついた。
 「下は水だしな」
 「乾季で水量も多くないし」
 「なんとかなるよv
 「いやああああああああああああああああ!!!!」
 肝の据わりすぎた兄弟子達と暢気な師の声を、掻き消さんばかりの悲鳴があがる。
 と、
 「礼だ」
 不意に背後から腰を抱えられ、涙目を向けると傍にマダラオの冷静な顔があった。
 「じっとしていろ」
 はるか高所から落ちた彼は目の前に迫った滝つぼをじっとみつめ、機を見極めて破壊の呪符を放つ。
 衝撃で一瞬浮き上がった身体が落下速度を緩め、深い水に受け止められた。
 「た・・・たすっ・・・たふっ・・・・・・!」
 助かった、の一言が言えず、ただへこへこと頭を下げて礼を言おうとするチャオジーに、マダラオが首を振る。
 「これで相殺だな」
 上空から降り注ぐ圧倒的な水量に流されながら、ちらりと笑った・・・ように見えたマダラオの顔が、瞬時に引き締まった。
 「元帥?!」
 「へっ?!師匠?!」
 驚いて流れる先を見遣ると、暢気な師が暢気に舌を出している。
 「ごっめーんv
 ちょっと・・・やりすぎちゃったv
 なにを、と聞く前に理解した。
 ティエドールの予想よりも浅かった水は、彼の破壊力にあっさりと川床を抉られて激しい渦を巻き起こし、マダラオ以外のサード・エクソシスト達を次々と川底へ飲み込んでいく。
 「生きて会おうね、みんな!」
 「あんたが言うな!!!!」
 さすがの神田が成すすべもなく、怒号と共に水に沈んだ。
 「マダラオさんっ・・・!」
 「生き延びなくては・・・困るんだが・・・」
 その口調が本当に困惑げで、打つ手などないことを感じ取ったチャオジーは、絶望と共に水に呑まれる。
 ―――― こんなとこでっ・・・!
 海に沈んだ仲間達のことを思いながら、チャオジーの意識も水の中へと沈んでいった。


 「いっぱいオマケしてくれましたねーv
 季節はずれのサンタクロースかと思うほどに、大きな袋を土産物でいっぱいにしたアレンが、ホクホクと笑う。
 その隣で、やはりワインの詰まった大箱を抱えたリンクが、重々しく頷いた。
 「あの洪水には皆さんお困りでしたからね。
 感謝していただけるのは、聖職者としてありがたいことです」
 しかつめらしい言い様に、嫌な予感を覚えて足を早めたアレンの予想通り、お説教が始まる。
 「ですから君も、皆さんの感謝に十分お応えできるように、常日頃から聖職者にふさわしい品位をですね・・・」
 「あーうるさい。ホントうるさい」
 方舟の白い街中をさかさかと歩きながら、アレンがぼやいた。
 「皆さんの前ではイイコだったでしょ!
 なのにいつまでもネチネチとさー・・・!」
 「ですから、いつもいい子でいなさいと言っているのですよ!!」
 きゃんきゃんと喚き合う二人の後について行きながら、ラビが苦笑する。
 「リンクー。
 やんちゃ盛りのティーンに品位を持てって、無茶な話さ。
 できるわけねーもん」
 「だよねー!」
 「余計なことは言わないでください、Jr.!」
 ヒステリックに怒鳴られたラビが、反抗的に舌を出した。
 「落ち着くのはジジィになってからでも遅くねーだろ。
 元気なうちは元気なのが一番だって、姐さんも言ってっし!」
 「そうだそうだー!
 ジェリーさんが正義だもんっ!!」
 大騒ぎする二人にこめかみを引き攣らせたリンクが怒号を浴びせようとした時、
 「ちょっと静かにしろ」
 ひらりと宙を舞ったブックマンの強烈な蹴りが連続して決まり、二人を地に沈める。
 「ブ・・・」
 「水音・・・か?」
 口に指を当ててリンクの声を封じたブックマンは、訝しげに眉根を寄せて振り返った。
 「水・・・?」
 通ってきたばかりの方向へリンクも耳を澄ますと、家々の連なった向こう側から確かに川の流れるような音がする。
 「こんな所に川がありましたか?」
 「いや、なかったはずだ・・・が・・・!」
 やや離れた曲がり角から飛沫が上がったと見た瞬間、圧倒的な質量の水が分かれて路地を埋め尽くした。
 「逃っ・・・!!!!」
 逃げろと言う前に、リンクはブックマンに沈められた二人ごと水流に呑まれる。
 「ががぼぼぼっ!!!!」
 目を回していたところを不意打ちされ、ラビとアレンが水中で泡を吹きつつくるくると回った。
 「っ!!
 なんですか、いきなり!!」
 辛うじて流れの上に顔を出したリンクが、間近にマダラオの無表情な顔を突きつけられて目を丸くする。
 「なんであなたがここに・・・ぅわっ!!!!」
 開け放たれたままの『扉』の枠に首を持っていかれそうになり、リンクが慌てて水中へ潜った。
 岩や木切れなど、ぶつかれば危険なものが大量に流れる中、再び水面に顔を出したリンクは、見覚えのある天井に舌打ちする。
 「本部に流れ込むなんて・・・!」
 教団本部の方舟の間に常駐していた科学者達が突然の濁流に驚き、悲鳴をあげて逃げ惑った。
 「皆さん!早く逃げて・・・!」
 声をかけるも間に合わず、濁流はドアをあっさりと打ち破り、団員達を飲み込みながら屋内を巡る。
 それは、科学班第1班や、室長の執務室も例外ではなかった。
 「なぁに?」
 外の騒ぎに驚いてドアに眼を向けたコムイは、丈夫な木の扉が軋みをあげて砕ける様に目を剥く。
 「敵襲?!」
 「いえ、元帥のミスです」
 妙に冷静な声と共に流れ込んできた濁流がコムイをも飲み込んだが、さすがの水量もここに来てようやく限界を迎えた。
 窓を割る程の勢いはなく、室内に渦巻きながらゆっくりと止まる。
 「んなっ・・・なに・・・なにがあったの・・・・・・!」
 説明を、と、床に這ったコムイは冷静な声と共に流れて来たマダラオを見上げた。
 「それが・・・」
 簡単に事情を説明した彼に何度も頷いたコムイは、ため息をついて立ち上がる。
 彼を飲み込んだ水は引くのも早く、既に彼の膝までしかなかった。
 「みんな・・・無事かな」
 まずはそれだと、水滴で見えにくいメガネを外したコムイは、大きな箱にしがみついたリンクの姿に唖然とする。
 「んなっ・・・んでここにいるの、リンク監査官!任務は?!」
 声を引き攣らせたコムイに、姿勢を正したリンクが不敵に笑った。
 「もちろん完遂致しましたとも、コムイ室長。
 その上で、ご報告申し上げましょう!」
 「な・・・なにを・・・?」
 禍々しい笑みを浮かべるリンクに嫌な予感を覚えて問うと、彼は愉快げな笑声をあげる。
 「室長とホーキ頭の目的が、2月14日に我々を城から遠ざけることならば、本日中に帰ってくることが何よりの復讐かと思いまして!」
 こちらも完遂だと、哄笑するリンクにコムイが悔しげに唇を噛んだ。
 「く・・・!さすがだよ、監査官・・・!」
 「報告書はのちほど、完っっっ璧なものを持ってまいりますので、よろしくご確認ください!」
 せいぜい嫌味ったらしく言ってやると、リンクは重たげに箱を持ち上げ、水を蹴立てて退室する。
 その背が見えなくなるや、
 「・・・・・・・・・ちぇーっ!!!!」
 絶叫して、コムイは足元の水を蹴り上げた。


 「凄い渦だねぇ」
 濁流が目の前に迫ったと見るや、屋根の上に避難したリナリーは地上の様子に唖然とした。
 「どっから流れて来たのよ、あんなに!」
 たまたまリナリーと一緒だったため、共に屋根の上に引き上げられたエミリアが怒りの声をあげるが、そんなことを言われてもリナリーにだってわかるわけがない。
 「もうすぐ館内放送が来るんじゃ・・・」
 と言いかけた時、リナリーの無線ゴーレムがポケットから飛び出して、暢気な声を届けた。
 『みんな、無事かなぁ?
 なんだか私のせいで大変なことになっちゃったねぇ・・・ゴメンネv
 「ティエドール元帥?!」
 聞き覚えのある声に、エミリアが目を吊り上げる。
 「元帥のせいってどういうこと?!ダーリンは無事なの?!」
 エミリアに詰め寄られた無線ゴーレムが、壊されては適わないと慌てて離れた。
 「ちょっと待ちなさいよ、アンタ!!」
 「エミリアー!
 暴れると落ちちゃうから、落ち着いてー!」
 エミリアの腰に抱きついたリナリーが必死に宥め、ゴーレムに話しかける。
 「ティエドール元帥、おかえりなさい!
 元帥のせいって、なにがあったんですか?!」
 なんとかエミリアを落ち着かせようと問えば、暢気な声が応えた。
 『それがねぇ・・・みんなで南米の滝つぼに落ちちゃったんだけど、あんまり高い所から落ちたんでね、着水の衝撃を和らげようと水面に衝撃を与えたら、勢い余って川床崩しちゃってー』
 よくあるよくあると、通常ではありえないことを言うティエドールに、エミリアが舌打ちする。
 落ち着け、ともう一度言って続きを促すと、回線の向こうでティエドールが『うーん』と唸る。
 『私はてっきり、河の下に洞窟でもあって、そこを流されてると思ってたのに、なぜか方舟の中に流れ込んじゃってねぇ。
 なんでだろうねぇ?
 あの場所に、『扉』があったのかなぁ?
 方舟の中に流れ込んでからは、ルートの妙なのか、たまたま開いていた『扉』の出口がここしかなかったのか、あの白い街の中をどんどん流されて来たんだよ』
 何気なく言われた途端、リナリーの口から魂が抜けるような音がした。
 「どうしたのよ!」
 「ん?!にゃ?!にゃにもにゃいよ?!」
 あからさまに怪しい態度で首を振るリナリーに眉根を寄せたものの、エミリアは追求を後にしてゴーレムに向かう。
 「それよりダーリン!
 ダーリンは生きてるの?!
 ダーリーン!!!!」
 『るっせぇ!!!!』
 騒がしい呼びかけに、神田の不機嫌な声が応えた。
 『ダーリンっつーなってんだろ!』
 「ダーリンvv
 歓声をあげて、エミリアが水に浸かった城内を見下ろす。
 「どこにいるの?!怪我は?!」
 『してねぇよ!
 師匠、俺とマリは無事で、イノセンスも確保してる。チャオジーはそっちいんのか?』
 呼びかけると、ティエドールが『否』と応えた。
 『あのコはサードのコといたはずなんだけど・・・無事かいー?』
 呼びかけると、チャオジーの弱々しい声が応える。
 『水の中でマダラオさんとははぐれちまいましたけど・・・俺は無事ですー・・・』
 『私も無事だ。
 今、室長に簡単な報告をしたところだ』
 マダラオの冷静な声も割って入って、チャオジーはホッとした。
 『えぇと・・・他の人達は・・・?』
 遠慮がちに問えば、全員から『無事』の返事が返る。
 『さっすが!
 私の弟子とサードは優秀だねぇ!
 信じていたよ、みんなv
 自身の巻き起こした被害をその一言で納めようとする元帥に、全員が程度の差こそあれ・・・殺意を覚えずにはいられなかった。


 「ひゅおぉぉぉぉ・・・」
 ずぶ濡れになった袋を抱きしめて水から上がったアレンは、無線から流れて来たティエドールの声を聞くや、リナリーと同じく魂の抜けたような音を吐き出した。
 「ラ・・・ラ・・・ラララッ・・・!」
 「・・・俺は聞かなかったさ。なにも聞かなかったさ。マジでマジで」
 引き攣った顔のアレンに服の裾を引かれたラビは、両手で耳を塞いで現実逃避する。
 が、見逃すはずのないアレンが乱暴に彼を揺さぶった。
 「こっ・・・この話、無線持ってる人は全員聞いたよ?!
 僕らが前に、勝手に方舟使ってアマゾン探検に行って、扉閉めて来なかったことがバレバレだよ!
 どうしよう!!」
 今は目の前の惨状に気を取られていても、世界中から優秀な頭脳が集まった教団本部だ。
 誰かが南米の滝付近と教団本部を結んだこと、そして、そんなことができるのはここでアレン一人だと言うことくらい、簡単に気づくに違いなかった。
 「お仕置き?!
 お仕置きされるの、僕?!」
 ぎゃあぎゃあと泣き喚くアレンに最早耳を塞いでいられず、ラビが顔をあげる。
 「そ・・・れは、うまく口裏を合わせれば大丈夫じゃねぇかな・・・!
 元々あそこに通じる扉は、ノアが開けてたもんだし・・・」
 それを科学班より先に発見し、報告もせずに私用していたことは・・・黙っておけばいいと、こぶしを握ったラビにアレンは大きく頷いた。
 しかし、
 「・・・ダメだよ!リンクにはとっくにバレてるもん!」
 リンクまでもが科学班に報告しなかったのは、それが彼の仕事ではなかったからで、今回はそうも行かないだろう。
 そう指摘すると、ラビは頭を抱えた。
 「と・・・とりあえず・・・・・・!」
 「とりあえず?!」
 期待を込めて見つめる先で、ラビはこぶしを振り上げる。
 「全力で知らんぷりっ!!」
 「それで行きましょう!!!!」
 だって自分達のせいじゃないし!と、二人は全力で責任放棄を決定した。


 「み・・・みなさん、無事ですか・・・?」
 その頃、水に呑まれたはずの科学班第1班では、ミランダの時計に守られた科学者達が、防御壁の中で水が引くのを待っていた。
 「・・・助かったよ、ミランダ!
 この書類が水に沈んだら、俺の3ヶ月の苦労が文字通り水の泡だった・・・!」
 水流よりも涙でインクを流しそうなジョニーに、キャッシュが苦笑する。
 「そう言うのも大事だけど、ここに置いてある薬品が流されなくって、ホント良かったよ。
 平気で劇薬とか置いてるからね」
 班の管理体制へ苦言を呈するキャッシュに、リーバーが重々しく頷いた。
 「今後は徹底する必要があるな。
 被害が執務室だけで、本当によかった」
 と、見遣った執務室からはずぶ濡れのコムイがよろよろと出てくる。
 「・・・え?!なに、キミタチ!!
 自分達だけ無事な所にいるなんて!!」
 ミランダの防御壁の中にいる部下達に詰め寄ると、彼らは中から笑って手を振った。
 「お疲れさんです、室長!
 俺ら、もうちょっとここから出られそうにないんで、後処理がんばってください」
 「ナニソレー!!!!
 なにそれ、リーバー君!!
 出てきて後処理やんなさいよ!!!!」
 コムイの絶叫に、しかし、リーバーはわざとらしく眉根を寄せて腕を組む。
 「そうしたいのは山々ですが、何しろさっき室長がこっそり置いていった劇薬とか、補佐官の目を盗んで隠していった劇薬とかが置いてありますので、万が一にも流れ出したら大変なことになります。
 それこそ、壊滅事件の再現になりかねませんから・・・」
 にやりと、リーバーが顎で隅を指した。
 「そこでしょげてる犬っころと、片付けがんばってください」
 「いぬ・・・」
 コムイが見遣った先では、水の中に座り込んだリンクが肩を落として防御壁にへばりついている。
 「・・・入れてもらえなかったんだね」
 きゅーん・・・と、哀れな声をあげたリンクに、コムイは深々とため息をついた。


 じゃぶじゃぶと水を蹴りながら歩を進めていたラビは、ブックマンからの通信を忌々しげに切った。
 「クッソジジィ!」
 吐き捨てたラビに、隣で会話を聞いていたアレンが笑い出す。
 「さすがじゃないですか、ブックマン!
 あの水音を聞いただけで危険を察知して、いち早く高所に逃げてたなんて」
 ティムキャンピーと一緒に方舟の中の、一軒家の屋根の上にいると言うブックマンにアレンは、素直に感心した。
 が、ラビは鼻の頭にしわを寄せて、アレンを小突く。
 「俺らが流されたんは、ジジィに沈められて逃げ損ねたからだし、ティムなんてお前見捨ててさっさと逃げてるよな?」
 「・・・・・・でしたねー」
 元凶と裏切り者を誉めてしまったと、アレンの笑みが凍りついた。
 「ところで、これからどうします?
 このまま報告とか行ってたら風邪ひくから・・・」
 「先に風呂行くか」
 今は報告を受けるどころじゃないだろうと、ラビは大騒ぎで水を掻き出している団員達を見回した。
 「お風呂、水没してないといいなぁ・・・」
 「あそこは坂の上だから大丈夫さね。
 宿舎も、床上浸水まではしてねーみてぇだからさ、着替え取りに行こうぜ」
 どうやら被害は方舟の間がある実験棟と、その中庭までで済んでいるらしい。
 「だったら食堂も無事ですね!
 よかったぁ・・・!」
 おいしいごはんを作ってくれる大好きなママンが無事だとわかって、アレンは胸を撫で下ろした。
 「じゃあ・・・あとはお土産ですね。
 僕は、方舟を知らない村の人達が『長い道のりを帰るのに大変だろうから』って厳重に梱包してくれたおかげで割れてないと思いますけど、ラビは・・・」
 「・・・ぐっしょりさ。
 クリーニングしてもらわにゃ」
 哀しげに荷物を抱きしめたラビに、アレンが苦笑する。
 「早く行きましょ!
 せっかくリンクが頑張ってくれたんだから、応えなきゃですよ!」
 「俺は相手が帰ってきてないんけどね・・・」
 ため息をつきつつもラビは、アレンと共に被服室経由で部屋に戻り、浴場でほっこりしてから食堂へ入った。
 「ジェリーさぁん!!
 ただいまー!!!!」
 ラビを押しのけて注文カウンターにしがみついたアレンが、大声をあげる。
 「アラッ!早かったのねぇん!
 4日は帰ってこないって言ってたのにん!」
 つまり4日も追い払うつもりだったのかと、ラビが乾いた笑声をあげた。
 「姐さん、俺らすげー大変だったから、うまいもん食わせてさー・・・」
 「クスクス!!
 結局向こうで食べ損ねちゃったから、クスクス食べたいです、クスクスvvvv
 「あぁら、なんだか笑ってるみたいねんv
 ぱたぱたとカウンターを叩くアレンの頭を撫でてやったジェリーに、ラビが笑い出す。
 「そいやさ、姐さん!
 アレンってば切羽詰った時、姐さんの名前呼んでたぜv
 「あらまっv そうなのん?!」
 ジェリーが嬉しげに歓声をあげた途端、
 「なにぃっ?!」
 と、食堂内で怒声があがった。
 「アレン君たら!!
 いつもジェリーばっかなんだから!!!!」
 一瞬で詰め寄って来たリナリーに驚いて、アレンがカウンターにへばりつく。
 「い・・・いつの間に・・・!」
 「帰って来たって聞いたから、ここで待ってたんだよ!
 なのになんだよ、こっちは見もしないで!!」
 「ご・・・ごめんなさい・・・!」
 物凄い剣幕に怯えたアレンが、びくびくと震えながら謝った。
 「・・・あ!でも、すぐに探そうと思ってたんですよ、リナリー!
 モロッコで素敵なお土産を見つけたんです!」
 「お・・・お土産・・・?」
 その言葉に頬を染めたリナリーは、気まずげに怒りを収める。
 「ちゃ・・・ちゃんと、覚えててくれたんだ・・・」
 伯爵との戦争で世界中を飛び回るエクソシスト達は、いつもなら土産など持って帰りはしなかった。
 が、今日は特別だと改めて言われて、リナリーは嬉しげに頷く。
 「お土産って?」
 「とってもきれいなんですよ!」
 リナリーの機嫌が直ったと見るや、アレンはカウンターの上に梱包を解いたミントティーグラスを並べた。
 片手に収まるほどのガラス器には色とりどりの彩色がしてあり、民族模様なのか金の曲線で飾られている。
 「か・・・可愛い・・・・・・!」
 ピンクやブルー、オレンジの彩色はどれも鮮やかで、部屋に置くだけでも可愛らしかった。
 「好きなのを選んでください!」
 アレンは自分のチョイスが間違ってなかったことが嬉しくて、真剣な目でグラスを見比べるリナリーににこにこと笑う。
 かなりの時間をかけて、
 「・・・これ」
 と選んだグラスは、ピンクの彩色に金で波模様が描いてあるものだった。
 「ピンクの波って、不思議だねぇ・・・」
 夕焼けみたいだ、と微笑むリナリーを微笑ましく見ていたラビが、首を振る。
 「それはきっと、夕日が映える砂漠さね。
 俺ら、そんな場所を通って目的地に行ってきたんから」
 「そっか・・・!」
 砂漠か、と笑みを深めて、リナリーはグラスを握り締めた。
 「ありがとう、アレン君!
 すごく嬉しいv
 「えへv
 喜んでくれたことが誇らしくて、アレンは嬉しげにジェリーを振り返る。
 「じゃあジェリーさんはこれで!」
 「んなっ?!」
 途端に目を吊り上げたリナリーには気づかず、アレンは紫の彩色がされたグラスを恭しく差し出した。
 「まぁv 紫もきれいねぇんv
 明るい紫のグラスは、ジェリーの手に優雅な色の影を落とす。
 「はい!
 ジェリーさんには紫が似合うと思って僕!」
 「・・・・・・ばぁか」
 ラビの呆れ声を聞く間もなく、アレンは背後から伸びたリナリーの腕に首を締め上げられた。
 「ふきー!!ふきー!!!!」
 「どうせママンが一番なんだよね、子豚ちゃんは!!」
 「アランv
 そんなの当然じゃないんv
 アンタだってそうでしょぉ?」
 そう言われては、違うとも言えずにリナリーはアレンを落とす寸前で解放する。
 「ひふー!ひふー!」
 「ホント馬鹿さね、お前は。
 リナ、俺も土産あるから、機嫌直すさね」
 「・・・ラビも?」
 意外そうな彼女に、ラビが頷いた。
 「たくさんおまけしてもらったんさv
 でも、さっきの洪水で濡れちまったから、今はクリーニングしてもらってる。
 乾くまでお預けな」
 「うん!楽しみにしてるよ!」
 アレンへの当てつけのように、リナリーは嬉しげな声をあげた。


 その頃、ティエドール部隊の面々は、師のやらかした不始末の責任を取らされて、濡れネズミのまま排水作業と片付けに追われていた。
 「この寒いのに・・・神田はともかく、他は風邪を引いてしまうんじゃないか?」
 気遣わしげに言ったマリを、清掃班はじめ団員達がきつく睨む。
 「非戦闘員の我々も濡れネズミで作業していますが、何か?!」
 「このサッムイ中、一般人の我々に片付けさせといて、あんたらは風呂であったまろうとでも?!」
 「動いてりゃきっと、身体もあったまるでしょうよ!」
 「それに師匠がやるっつってんですから、弟子のあんたらは黙って働け!!」
 「・・・・・・・・・すまない」
 次々にお叱りを受けて、マリの巨体が縮まった。
 「ホラホラ、マー君!
 みんなのためにもしっかりはたらこー!」
 本部に帰ってすっかり父親モードになったティエドールが、温厚な彼でも苛立つような暢気な声をあげる。
 更に、
 「ユー君ユー君!
 パパンと一緒に床掃除しよっ!
 パパンと競争だー!」
 水切りモップを持って廊下を駆け回る師に、神田はため息をついた。
 「なんで戻った途端にこうも・・・」
 頼りになる師が情けなくなってしまうのかと、うんざりする。
 と、
 「ダーリーンv
 唐突に声がして、清掃班の団員他、大勢を引き連れたエミリアが駆け寄って来た。
 「おかえり!
 無事でよかったわーv
 歓声をあげて飛びついた彼女に、神田は眉根を寄せる。
 「おい、汚れるぞ」
 濁流に流されて来た彼は、まだ身体中泥だらけだった。
 が、そんな彼にエミリアはクスクスと笑いながら髪についた葉を取ってやる。
 「お掃除用の、汚れてもいい服に着替えて来たんだから平気よ。
 それより・・・あぁ、いたいた!班長!」
 廊下の先で、同じく駆けつけてきた清掃班の班長をエミリアが呼び止めた。
 「言われた通り、別棟にいた人達集めてきたわ!」
 彼女が背後を指すと、彼は満足げに頷く。
 「助かったよ。
 被害に遭った棟は無線が切れてて・・・私がエクソシスト専用回線に入るわけにも行かないからね」
 エミリアも非戦闘員ではあるが、ティモシーの家庭教師と言うことで特別にエクソシスト専用回線に繋がる無線機を持たされていた。
 もちろん、頻繁に使うわけには行かないが、こういう非常時には役に立つ。
 「じゃあ、被害に遭った人達は着替えてきてもらいましょ。
 みんなー!
 後はあたし達がお手伝いするから、とりあえずお風呂行って、濡れた服着替えて!
 風邪引かないようにねー!」
 その声に、真っ先にマリがホッとした。
 「天使の声だな」
 「あらv
 お褒めにあずかって光栄だわv
 にこりと笑って、エミリアは神田の背を押す。
 「さ、いっといでv
 お掃除終わったら、いいものがあるからねv
 「いいもの・・・?」
 訝しげな顔をする神田に笑みを深め、エミリアは大きく頷いた。
 「きっと喜ぶわ!」
 自信満々に言う彼女に、神田は頷いてマリと共に棟を出る。
 「きっと・・・感激するようなことだぞ」
 小声で言うマリを見上げ、神田は肩越しに背後を見遣った。
 「あいつが企んでいることがか?」
 「あぁ、物凄い鼓動音だった。
 なんというか・・・期待に胸膨らませる時にはあぁいう音がするんだろうな」
 「・・・あいつの独りよがりじゃねぇのか?」
 あまり感動することのない自分が、感激するとはどうしても思えない。
 そう言うと、マリの方が楽しそうに神田の背を押した。
 「お前がどんな目に遭うのか・・・じゃない、どんなに感動するか知りたいからな。
 急いで片付けようじゃないか」
 「・・・楽しそうだな」
 妙に浮かれているように見える兄弟子を見上げると、彼は大きく頷く。
 「子供の成長を見守る親ってのは、こんな気持ちなのかもしれない」
 「・・・お前まで師匠みたいなこと言うな!!」
 「なになにー?!
 お風呂はパパンと一緒がいいってゆったー?」
 「言ってねぇ!!!!」
 ハイテンションな師に寄って来られて、神田は鬱陶しげに振り払った。
 「元凶は残って掃除してろよ!」
 「あ、それはパパン思いのチャオ君が引き受けてくれたから大丈夫だよんv
 さぁユー君!
 パパンと背中流しっこしようねーv
 「するかああああああああああああああああああああああ!!!!」
 ずりずりと引きずられる神田の絶叫に我に返ったマリが、慌てて止めに入る。
 「し・・・師匠、浴場を破壊されては皆が困りますから・・・!」
 「その時はまた私が作ってあげるよ!
 ユー君の像なんか飾っちゃおうか!」
 更に悪くなった状況に、抵抗はやめた神田が殺気に満ちた目でマリを睨んだ。
 「・・・諦めろ、神田。
 師匠はこういう人だ」
 「んもーぅ!
 パパンって呼んでってゆってるのにぃ、マー君はぁ!」
 不満げに口を尖らせた師の表情は見えなかったが、マリは深々とため息をつく。
 「こうなったら・・・!」
 「あっ!ユー君!!」
 ティエドールの手を振り払った神田は、癒し効果を犠牲にして素早く浴場を駆け抜け、着替えて現場に戻った。
 「・・・あら!早かったのねぇ!
 ちゃんとあったまったの?」
 「・・・そんな場合じゃなかった」
 荒く息をつく神田を不思議そうに見ながら、エミリアはひとつに束ねられた彼の濡れ髪に触れる。
 「寒くない?」
 「水も滴るいい男ってヤツだろ」
 他の者が言えばナルシストと揶揄されるに違いないことも、彼が言えば妙に納得させられた。
 「否定しないわ」
 「当然だ」
 大きく頷いたエミリアに傲慢に答え、受け取ったモップで水のなくなった床を拭き始める。
 「随分と早く水がはけたもんだな」
 「ここの清掃班、すごく手際がいいのよ」
 それに、この城が海に面した岸壁にあることも幸いした。
 「排水する場所には困らないのよね」
 「なるほどな」
 頷いて、神田も手を早める。
 「・・・お掃除とか、するんだ」
 意外なほど手際のいい神田に感心するエミリアもそれなりに作業を進め、普段は城中に散らばっている清掃班や手の空いた団員達が手伝ったこともあって、夜には原状回復にまで至った。
 「・・・科学班が無事だったのが何よりだったわねー」
 ミランダのおかげだと吐息したエミリアは、にこりと笑って神田を見上げる。
 「ね、今度はゆっくりお風呂に入ってお掃除の汚れと疲れを落としたら、食堂においでよ。
 いいもの用意してるからv
 「あぁ・・・俺が喜ぶとか何とか言ってたな」
 「きっと!喜ぶものよ!」
 自信満々に言われて頷いた神田は、今度こそ邪魔されずに疲れを癒してから食堂へ入った。
 と、
 「お疲れさーん!」
 声の方を見遣って、思わず眉根を寄せる。
 「・・・てめぇら、掃除もしねぇで暢気にメシ食ってたのかよ」
 手を振るラビへ殺気に満ちた視線を送れば、同じテーブルにいたアレンがムッと睨んで来た。
 「だって僕ら被害者だし?!」
 「方舟ン中で洪水に巻き込まれるなんて、思ってもなかったさ!」
 「私など、水が引くまで屋根から降りられんかったしな」
 ブックマンにまで反駁された神田は、それもそうかと口を噤む。
 「それよりも・・・」
 エミリアはどこかと視線を巡らせると、厨房の中から彼女が手を振っていた。
 「そこのきれいなお兄さんv
 あたしの料理食べてってぇんv
 はしゃいだ声をあげてウィンクするエミリアに、呆れ顔の神田が歩み寄る。
 「なにしてんだ、こんな所で」
 「お料理ーv
 得意なんだと、エミリアは自慢げに胸を張った。
 「きっとおいしいわv
 さぁ、まずは前菜を召し上がれv
 トレイに乗せて出された小鉢の中には、つゆに浸った蕎麦の実に山椒の葉が添えてある。
 「・・・・・・和食も作れるのか、お前」
 意外そうに言った神田の背を、厨房から出てきたエミリアが笑って押した。
 「習ったのv
 ジェリー姐さんから、あんたが初めてここでお蕎麦食べた時のコト聞いてさ、がんばって作ったのよv
 言いながら神田を席に就かせたエミリアが、わくわくと箸を取る様を見つめる。
 「どう?どう?」
 期待に満ちた目に居心地悪そうにしながらも、箸をつけた神田が目を見開いた。
 「うまい。
 ・・・あ、いや!普通だな!」
 思わず言ってしまった後の、あからさまな照れ隠しに、見透かしたエミリアがにんまりと笑う。
 「いつまでその強情がもつかしらねー?
 攻撃はデザートまで続くわよv
 高笑いして、一旦神田の傍を離れたエミリアが、湯気を上げる椀をトレイに載せて戻って来た。
 「天ぷら蕎麦v
 あんたの大好きな具よv
 戻ってくるまでのわずかな間で、小鉢が空になっていることに気を良くしたエミリアが、蕎麦の椀と天ぷらのざるを並べる。
 「さぁv
 熱いうちに召し上がれv
 言われる前に、既に箸をつけていた神田を、別のテーブルからラビが見つめていた。
 「いいなーユウー・・・!」
 「エミリアさん、僕の分はないんですか?」
 アレンが話しかけると、厨房に戻りかけていたエミリアが振り返り、笑顔で「ないわ!」と断言する。
 「ダーリンへのバレンタインプレゼントだものv
 当たり前でしょv
 がっかりしたアレンに手を振り、エミリアは次の膳を取りに行った。
 「はいv
 あんたは和食が好きなんでしょうけど、蕎麦料理は欧州にもあるの。
 意外と好きなものがあるかもよ?」
 パスタやガレットを並べられて、訝しげな彼にさぁさぁと勧める。
 「これも・・・か?」
 ソーセージにしか見えないものをフォークで刺した神田に、エミリアが大きく頷いた。
 「蕎麦が入ってんの。
 ウチじゃ普通には食べないけど、昨日女子会やってたら、ミランダが『蕎麦と言えば、ドイツじゃ挽き割りにした蕎麦をブルストに入れますよ』って教えてくれたから、姐さんに調理法を教わったのよ。
 ホント、ジェリーの料理に関する知識は神ね!」
 感心するエミリアに頷いた神田は、まじまじと見つめていたそれを口に入れる。
 自分の味覚をよく知るジェリーなら、下手な味付けはしないだろうと信用してのことだが、意外なうまさに無言で手を進め、エミリアに歓声を上げさせた。
 「よっし!
 これでまたリナリーを悔しがらせてやれるわ!」
 「・・・なんの勝負をしてんだ、お前ら」
 どうやら自分が賭けの材料になっているらしいとは察したものの、今の彼は妙に機嫌がよくて、その口調に棘はない。
 「んまっ・・・!
 ご覧になって、アレンさんっ?!
 あのユウちゃんが、すっごくご機嫌ですわよ!」
 「・・・あの人、意外に胃袋握られるタイプだったんですねぇ」
 呆れつつもアレンは、神田がジェリーには逆らわないことを思い出して忌々しげに舌打ちした。
 「・・・文句も言わずになんでも食べる僕の方が、きっと可愛いもん」
 「うんわー・・・!
 アレンさんったら嫉妬醜いさー」
 クスクスと笑うラビにムッとして、アレンはエミリアに構われている神田を見遣る。
 「・・・ねぇ、あれってコース料理だよね?
 デザートってなんなのかな?」
 黙々と手を進めている神田と、彼に次々と皿を運ぶエミリアを興味津々と見比べるアレンに、ラビは首を傾げた。
 「蕎麦・・・蕎麦饅頭とか?」
 「それってありきたり・・・」
 「デザートよーん♪」
 エミリアがワゴンで運んで来た物を、よくよく見ようとラビが腰を浮かせる。
 「え・・・?あれって・・・・・・」
 「いや・・・クレープをフランベかなんかするつもりでしょ?
 いくらなんでも・・・さぁ・・・・・・」
 さすがのアレンが、唖然と口を開けた。
 エミリアがテーブルに並べたものは・・・。
 「じゃじゃーん!
 デザートは、わんこそばー♪」
 「うっそぉ!!!!」
 椅子を蹴って声を揃えたラビとアレンに、エミリアがにんまりと笑って神田へ向き直った。
 「デザートは別腹でしょv
 さぁ!思う存分食べるがいいわ!」
 「あぁ・・・」
 「いいの?!」
 「いいんさ?!」
 もう突っ込まずにはいられない二人はしかし、マイペースな神田とエミリアに完全に無視され、気まずげに座り直す。
 「・・・・・・なんだか、蕎麦食べたくなっちゃった」
 「ねーさーん!追加注文お願いしますさー!」
 わんこそばを、と声を揃えた二人に、厨房からジェリーが笑って『OK』サインを出した。


 「・・・ごちそうさま」
 ようやく箸を置いた神田に、エミリアがニコニコと笑った。
 「喜んでくれて、作った甲斐があったわv
 嬉しいなどとは一言も言っていないが、態度を見ればそのくらいわかる。
 さすがの神田も観念して、傍らに立つエミリアを見上げた。
 「・・・で?
 何が『勝ち』の条件なんだ?」
 料理の礼に叶えてやる、と言った彼の髪から、エミリアが髪紐を引き抜く。
 「おい・・・」
 「これv
 玉の飾りがついた紅い組み紐に、エミリアは目を細めた。
 「すごくきれいな髪紐だなぁって、ずっと思ってたのv
 戦場で千切れちゃう前に、あたしにちょうだいv
 「・・・あぁ。他には?」
 「写真v
 一緒に写真撮りましょv
 こんなイイ男を篭絡したわよって、子々孫々まで自慢するのv
 「別にいいぜ。
 断ればどうせ、師匠にアート・オブを作らせるとか、脅すつもりだろうからな」
 流れ落ちた髪をうるさげに払いながら言った彼に、エミリアが嬉しげに笑う。
 「嬉しーvvv
 じゃあ写真のお礼には、あたしのシュシュをあげるわv
 ポニーテールを留めていたシュシュを取って、艶やかな髪を束ねてやった。
 「あははv 可愛いーv
 「・・・留まればなんでもいい」
 からかわれても怒りもしない神田に、わんこ蕎麦を貪り食いつつアレン達が眉根を寄せる。
 「・・・なんなの、あれ!
 機嫌よすぎて気持ち悪っ!!」
 「ユウちゃんがデレるなんて、初めて見たさ!
 蕎麦、偉大さね!!」
 「くだらん記録はせんでいい」
 食後の茶を飲みながら新聞を読んでいたブックマンが、ちらりとエミリアを見遣った。
 「・・・あの髪紐は私も狙っておったのに・・・怖ろしい小娘だの」
 「・・・ジジィ、また売るつもりだったんさね」
 ラビの呆れ声には鼻を鳴らし、新聞をめくる。
 「それより、そろそろ執務室も片付いた頃だろう。
 報告に行かねばな・・・」
 「あの部屋がそう簡単に片付くとは思えんけど・・・まぁいい加減、報告書かかねーとな。
 掃除終わった途端、リンクが『まだ書いてないんですかっ!』って、青筋立てて怒鳴り込んでくるさね」
 鮮やかな未来予測に慌てたアレンが、残りの蕎麦を掻き込んだ。
 「ごひほうはまっ!!」
 頬袋を一杯にして、もごもごと言ったアレンは、宿舎でラビ達と別れて部屋に入る。
 ―――― 途端、溢れ出てきた濃厚な花の香りに目を丸くした。
 見れば、ベッドの上には大きなバラの花束と積み上げられたお菓子の箱、プレゼントらしき小さな包みが置かれている。
 添えられたカードには『バーカ!(`廿´)』と書いてあって、思わず吹きだした。
 「リナリー・・・また勝手に入っちゃったんだ」
 鍵をかけていないからだとしても、年頃の女の子にしては気軽過ぎる。
 「またリンクに怒られなければいいけどね・・・ぎゃっ?!」
 包みを開けたアレンは、中から出てきた大きな目玉に驚き、放り投げた。
 「んなっ・・・なに、今の?!」
 ベッドの向こう側に落ちたものを、ティムキャンピーが咥えて戻ってくる。
 恐る恐る見ると、平べったい青いガラスの上に、白い目玉が描かれたペンダントだった。
 「あ・・・なんだ、マティか・・・・・・!」
 ギリシャなどでよく見る魔よけのアクセサリーだと気づいて、アレンはティムキャンピーが差し出すそれを受け取る。
 「割れちゃってないかな」
 よくよく見るが、特に傷は・・・ティムキャンピーの歯型もついていないようだった。
 「よかった・・・また怒らせちゃうところだったよ」
 ホッとして、アレンは青い目玉をまじまじと見つめる。
 「・・・そう言えばリナリー、こないだ任務でギリシャに行ってたんだっけ」
 その時に買ってきてくれたのかと、アレンは嬉しげに笑った。
 「僕と同じですね!」
 任務先でも考えててくれたんだと思うと更に嬉しくなって、アレンはいそいそとペンダントを首にかける。
 「これで・・・リンクとかコムイさんとか、身近な魔を祓えないもんかなぁ・・・」
 苦笑してお菓子の箱を開けると、中にはチョコレートやクッキー、キャンディーがこれでもかと詰まっていた。
 欲しがってパタパタと飛び回るティムキャンピーにも少し分けてやり、デスクの上に箱を置く。
 「えへ・・・報告書書き、がんばろっ!」
 リンクに小言なんか言わせるものかと、アレンは意気揚々とペンを取った。


 一方、アレンの部屋にプレゼントを置き去った犯人は、ようやくミランダの防御壁が解除された科学班に飛び込み、キャッシュに抱きついた。
 「エミリアが髪紐ゲットしちゃったよー!!!!」
 「へぇ・・・!
 さすがだな、エミリア!」
 有言実行だと感心するキャッシュに、リナリーの後から来たエミリアが得意げに笑う。
 「ミランダが教えてくれた蕎麦入りブルスト、評判よかったわよ!」
 「まぁ・・・!
 役に立ててよかったわv
 きゃあきゃあと手を取り合ってはしゃぐ二人を、リナリーがじっとりと睨んだ。
 「なんだよー・・・!
 リナリーなんて、お土産はジェリーとお揃いだし、神田は取られるしー・・・せっかくのバレンタインデーなのに、いいことなかったよ!」
 「まぁまぁ、ちゃんと帰ってきてくれて、プレゼントをもらえたんだからよかったじゃないか。
 エミリアのことは、これからもいびり倒せばいいしさv
 「負けないけどねv
 「ぬぅ・・・!」
 女子会仲間で楽しくおしゃべりするキャッシュに、早々と仕事に戻ったリーバーが『働け!』と怒鳴ってくる。
 「はいはいっ!
 じゃああたし、仕事に戻るから!
 ミランダ、お役目ご苦労様!」
 「えー・・・。
 もういいんですか、私・・・」
 がっかりと肩を落とす彼女に、キャッシュは丸い肩をすくめた。
 「もういいも何も・・・何時間もイノセンス発動してたんだよ?
 なのに倒れないなんて・・・丈夫だねぇ」
 「あら?まぁ・・・!」
 壁にかかった時計を見遣って、ミランダは目を丸くする。
 「攻撃を防いでいたわけじゃないからかしら・・・このくらいなら、無理しなくても大丈夫みたいです。
 それに、以前は何日も寝ずに発動したことだってあるんですから!」
 珍しく自信ありげにこぶしを握ったミランダが、にっこりと笑ったまま、意識を失って傾いだ。
 「ミ・・・!」
 「ミランダ!!」
 キャッシュだけでなく、リナリーやエミリアも慌てて手を伸ばす。
 ・・・が、それは横から素早くさらわれた。
 「病棟に運んでくるから、俺がいなくてもしっかり働けよ」
 ミランダを横抱きにしたリーバーに厳しく命じられ、キャッシュはコクコクと何度も頷く。
 「あっちも取られちゃったわねぇ・・・。
 リナリー、あんた、今ならあの人とも仲良くなれるんじゃない?」
 エミリアが笑って指した場所には、出遅れて泣き濡れるリンクがしょげ返っていた。
 「な・・・なれないよ!」
 思わずほだされそうになった気持ちを振り払うように、リナリーが首を振る。
 「もう!
 誰も味方してくれないから、兄さんのとこ行ってやる!」
 つんっとエミリアに背を向けて、執務室へ駆け込んだリナリーは次の瞬間、鬼の補佐官につまみ出されて泣き声をあげた。


 「・・・なんの声だ?」
 掃除用具を持って、科学班の前を通りかかったマダラオが部屋の中へ目を向けると、傍らのテワクも兄の陰から中を覗き込んだ。
 「・・・リナリー・リーがまた騒いでいるようです」
 「騒々しいですねぇ。
 あれで使徒様だと言うのだから、神は一体、なにを基準に・・・おっと。
 不敬な発言でした。失礼」
 「まぁ・・・選ばれる基準が信仰心でないことは確かだね」
 つんっとそっぽを向いたキレドリが、口を覆ったトクサに肩をすくめる。
 「ねぇ・・・早くこの馬鹿馬鹿しい道具を返してしまおうよ。
 なんで掃除なんか・・・」
 ブツブツと言いながら、キレドリが重たげに持ち直したバケツをゴウシが取り上げた。
 「こっちの方が軽いぞ」
 「うん・・・」
 濡れた雑巾が詰まっていたバケツより、モップの方がまだ軽いことには違いないが、身体が小さいからと言って甘やかされるのはどうかと思う。
 そう、生真面目に言った彼の頭を、マダラオが撫でてくれた。
 「別に、そんなことで『強さ』を競う必要はないだろう」
 今回の任務では、エクソシストに劣らない働きを見せ、あの濁流に呑まれても全員が無事に帰還したのだ。
 「長官への報告はこれからだが、少なくともご満足はいただけると思う」
 アレよりは、と、ため息混じりに呟いた彼の視線の先には、しょげ返っているリンクの姿があった。
 「・・・何をしてらっしゃるのかしら、リン兄様」
 「暢気ですねぇ・・・!」
 テワクの呆れ声とトクサの舌打ちに肩をすくめ、マダラオが歩を進める。
 「色々苦労があるのだろう、あいつもな・・・」
 進む道こそ分かれたものの、幼馴染の苦労を慮った彼の口元に、珍しい笑みが浮かんだ。


Fin.


 










2013年バレンタインSSですv
これはリクエストNo.56『任地で洪水に遭うティエ部隊+第三エクソシスト』を使わせてもらってますよ!
まさかこのリクがバレンタインSSになるとは思わなかったでしょうね、私も思いませんでした(笑)
洪水ってどこだ?って考えた時に、お正月番組で南米の滝をやってまして。
『南米の滝つぼ付近に『扉』がある話書いたなー』(braveryTU)と思い出して、書いて見ました。
水を干上がらせるイノセンスと雨をもたらすイノセンスは干珠満珠のイメージで。>潮じゃねぇ。












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